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ヒンデミット 歌劇「画家マティス」 クーべリック指揮バイエルン放送so.

ツイッターとか見てると米倉斉加年(よねくらまさかね)を「さかとし」と間違ってた人が意外に多くてちょっと安心。




ヒンデミットのオペラを少しずつ聴いてきましたが、今回の「画家マチス」は文字通り彼の代表作といってよいのでしょう。その割には(同じ題名のオーケストラ曲はともかく)あまり聴かれてなさそうですが、大変な傑作です。
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   ヒンデミット 歌劇「画家マティス」

   アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク: ジェームズ・キング
   マティス: ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ
   ローレンツ・フォン・ポンマースフェルデン: ゲルト・フェルトホフ
   ヴォルフガング・カピト: マンフレート・シュミット
   リーディンガー: ペーター・メーフェン
   ハンス・シュヴァルプ: ウィリアム・コックラン
   ヴァルトブルク伯: アレグザンダー・マルタ
   ジルヴェスター・フォン・シャウムベルク: ドナルド・グローブ
   ウルズラ: ローゼ・ヴァーゲマン
   レギーナ: ウルズラ・コシュト
   ヘルフェンシュタイン伯爵夫人: トゥルデリーゼ・シュミット
   伯爵の笛吹き: カール・クライレ
   バイエルン放送合唱団(合唱指揮:ハインツ・メンデ)
   ラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団
   1977年6月&12月録音
   CD:EMI50999 6 40740 2 3
 
 

このCDにはCD-ROMでドイツ語リブレットと英・仏の対訳が添付されていますが、時代背景が判らないと英語の対訳を読んだだけでは物語の理解はかなり難しいと思います。7幕からなる物語は1524年から1525年のドイツ農民戦争を背景にした一大ページェント、大河ドラマ風悲劇ともいうべきスケールの大きなもので様々な人物が現れますが、主人公としては次の5人とみてよいでしょう。

画家マティス・・・マインツの大司教に仕える教会画家であったが、戦乱の世で絵を描き続けることに疑問を持ち筆を折る。しかし農奴の悲惨な暮らしに同情しながらも貴族にリンチを加える彼らには反発を憶える。様々な艱難の後、聖アントニウスの誘惑を自らの幻覚として体験し、再び絵筆を執ることになる。イーゼンハイム祭壇画で知られるマティアス・グリューネヴァルトがモデル。

マインツ大司教アルブレヒト・・・ローマカトリックの司祭でありながら、経済的な逼迫からプロテスタントの裕福な商人リーディンガーの支援を受けている。司祭の妻帯を奨めるルター派に倣ってリーディンガーの娘ウルズラを娶ろうとするが、彼女の敬虔な心にふれて一切の財産を捨て、清貧の暮らしをすることになる。お抱え画家のマティスに対しては常に擁護者としてふるまう。史実の上では贖宥状(免罪符)の発行でカトリックの堕落の象徴とされる。ちなみにリーディンガーは史実ではフッガー家の商人ということになるだろう。

シュヴァルプ・・・農民戦争のリーダー。戦禍の中で絵を書くマティスを嘲笑い、後の物語のきっかけを作る。娘レギーナをマティスに託して戦死する。

ウルズラ・・・リーディンガーの娘。アルブレヒトと結婚することになり、慕っていたマティスのもとに奔ろうとするが、絵筆を捨てて戦乱の中に飛び込んでいこうとする彼に拒絶される。カトリックとプロテスタントの融和のための自己犠牲としてアルブレヒトと対峙し、彼の清貧への覚醒を呼び起こす。

レギーナ・・・戦禍の中シュヴァルプにつき従っていたが、マティスのもとで束の間の安らぎを得る。孤児となって身体を毀し、最後はウルズラとマティスに看取られて息を引き取る。

この5人に、ルター派とカトリックそれぞれの側の人々や、ドイツ諸侯の同盟軍の司令官らが絡む。しかしながら、物語の全体を見渡すと、数多くの登場人物を結びつける要となるのは、実はオペラには登場しないがあのマルティン・ルターではないか、という気がします。従って、このオペラを深く理解するにはルターと1517年に始まる宗教改革に関する最低限の知識が必要だと思われます。歌詞だけを追っていたのでは、特に聖職者の結婚に関するルター派とローマカトリックの対立がテーマとなっている第3幕など、いったい何が歌われているのか全く理解できないと思います。これに関しては、『ドイツ宗教改革』(R.W.スクリブナー、C.スコット・ディクスン/森田安一訳、岩波書店)という本にかなり詳しく書かれていて、オペラの理解に非常に役立ちましたが、元々神学のテキストとして書かれたものなのでやや専門的なのと翻訳が生硬で読みにくいのが難点。より一般向けの著書として『世界史リブレット27 宗教改革とその時代』(小泉徹、山川出版社)がページ数も少なく安価な割に内容が充実しているので、是非とも一読の上リブレットを読まれることをお勧めします。

ところでこの作品のリブレットはヒンデミット自身の作のようですが、彼はこの物語に何を託そうとしたのだろうか。以前、ヒンデミットのオペラ「カルディヤック」について「芸術家とその作品との関係性の一つの在り方について書かれた作品」と書きました。

http://nekolisten.exblog.jp/17351525/

ならばこの「画家マティス」が取り上げているのは、「芸術家とその生に対する態度」ということになるかも知れません。
画家であるマティスは、「行動の人」シュヴァルプに触発されて絵筆を捨て、戦いの世界に飛び込んでいきますが、思索と創造の世界に生きてきた彼は結局のところ「実世界」には馴染まない。特に農民たちが元の領主であるヘルフェンシュタイン伯爵をリンチに掛けて殺害し、その夫人を凌辱しようとするのを見て完全にこちらの世界から離反してしまいます。さりとて同盟軍の立場に与することも出来ず、結局は戦争の傍観者としての立場から脱却できない。その後、マティスは夢の中で聖アントニウスに変身し、数々のサタンの誘惑に打ち勝ったのち、アルブレヒト扮する聖パオロから再び生きる目的を与えられて画家として再生します。
シュヴァルプは恐らく人生というものを挟んで、芸術家マティスと対極的な位置にいます。彼は正義の実現のために単純だがまばゆいばかりに光り輝く行動の世界で生き、あっというまに死んでしまいます。マティスは彼の生き方に憧れ、その死を悼み、愛娘のレギーナを引き取ります。
大司教アルブレヒトの描かれ方は皮肉に満ちています。ルター派とローマカトリックそれぞれの取巻きに囲まれ、ルターの著書の焚書については優柔不断な態度をとり、司祭の結婚に関しても同様に周囲の工作にひたすら流されていきます。最後は美化されて清貧の道を選びますが、それも見ようによってはウルズラの訴えに流されたという見方もできます。史実の上での彼の姿と相俟って、曖昧な人物像しか結びません。しかし、かれこそはこの物語の狂言回しであって、鏡のように登場人物の主張を映し出す存在とも言えます。

この大河小説のような壮大な物語を読み解くには、政治・宗教・芸術さまざまな切り口があると思いますが、私は例えばトーマス・マンの作品のような、芸術家が人生の苦難を経て成長していく物語、マティスを主人公とした教養小説Bildungsromanという捉え方をしました(それにヒンデミットほどのインテリならトーマス・マンを間違いなく読んでいるだろうと思います)。おそらく1910年代の終わりから1920年代の半ばにかけて、表現主義の旗手として、性や宗教のタブーに挑むようなオペラや、極端に無調的で先鋭的な音楽を書いてきたヒンデミットは、なんらかの葛藤、精神的な危機を経て「画家マティス」に聞く晴朗な新古典主義の音楽家に姿を変えたと思われますが、その過程における「治癒と再生」こそ、このオペラの真の主題であるという気がします。

ところで、ちょっと脱線しますが、芸術家の治癒と再生というなら、トーマス・マンよりもっと現代に近い作品があります。もちろんヒンデミットは知る由もないことですが、いずれも画家が主人公というところが面白いと思います。それに結局マティスは何故絵筆を一旦折り、どうして再び筆を取ったのかという謎は意外に深くて、これら他の分野の作品がその理解に資することもあるだろうと思います。
まず一つ目、三島由紀夫の『鏡子の家』。主人公の一人、画家の夏雄は世界の崩壊の幻想に囚われて突然絵が描けなくなるが、やがて世界と和解して再び絵筆を取ることになる。夏雄とは対照的に、ボクサーの峻吉はプロデビュー後すぐにチンピラと喧嘩して拳を潰され右翼団体に入るが、夏雄は終始峻吉には寛容で親しみを感じている。その他、売れない役者で最後自死する収、優秀な商社マンだがニヒリストの清一郎が登場する。この4人の男が集うサロンの女主人鏡子は、まさに鏡のように4人の姿を映し出して狂言回しの役割に徹する。読んでおられない方からはきっと「いくらなんでもヒンデミットと三島との比較は無理だろう」と嗤われそうですが、画家マティスを画家夏雄に、シュヴァルプを峻吉に、アルブレヒトを鏡子になぞらえることで、少なくとも私にはオペラの読解のための有力な補助線となりました。
もう一つは、ソ連の映画監督であるアンドレイ・タルコフスキーの1967年の映画「アンドレイ・ルブリョフ」。タルコフスキーはそこそこビッグネームであるし、日本にもファンが多いと思いますが、私は「アンドレイ・ルブリョフ」とその次の「惑星ソラリス」(1972)の2作が最高傑作だろうと思っています(1975年以降の「鏡」「ストーカー」「ノスタルジア」「サクリファイス」は私には難解に過ぎるような気がする)。なんと「アンドレイ・ルブリョフ」も画家が主人公。15世紀初頭のイコン画家ルブリョフは宗教の退廃やタタール人との戦争の中、自分自身も兵士を殺したことをきっかけに絵筆を折る。それ以来ルブリョフは沈黙の行を貫くが、ある日鋳物屋の少年が苦労の末に教会の鐘の鋳造に成功するのを見て感動し、少年を祝福して再び絵筆をとるという物語。お話の外形はこちらのほうがより「画家マティス」に近い感じがしますが、ソヴィエトで活動していたタルコフスキーがヒンデミットを知っていたかどうかはまったく判りません。もっとも、反体制的というより、あまりにも中世ロシア史を暗く描いている廉でソ連でしばらく発禁扱いとなっていた「アンドレイ・ルブリョフ」に対し、「画家マティス」のほうは、少なくともドイツ国内に向けた政治的なメッセージは私にはあまり感じられませんでした。それよりもドイツ農民戦争を一種の人民革命と見做す見解もある中での、暴力的な農民の描き方には驚くべきものがあり、1930年代のドイツでどのように受け止められたかはよく分りませんが、もしスターリン時代のソヴィエトで上演されていたなら(実際にはヒンデミットに関するあらゆる情報が遮断されていたのかも知れませんが)パステルナークどころじゃない衝撃だったに違いありません。そういった意味で、ナチスがヒンデミットを目の敵にして、「画家マティス」をどんな音楽なのかもわからずに「退廃音楽」として弾圧したのは、ある意味見当違いも甚だしいことではなかったかと思います。そこにあるのはむしろ反体制的な人民革命の萌芽を思わせる農民戦争への嫌悪であり、最初農民に同情的な立場をとっていたのに後に彼らを見はなすルターその人の態度へのインテリらしい解釈であり、皮肉な言い方をすれば体制の内側で芸術家としての悩みに耽る作曲家の姿である。まったくナチスはこのような無害な音楽は放っておけばよかったのに違いない。
まぁ、私の個人的なこじつけの是非はさておき、少なくとも政治的なものではなくて、芸術家の生Das Lebenに対する態度そのものがこのオペラの主題であると見做すことで、「画家マティス」は「カルディヤック」の続編ともいうべき位置を占めるように思われます。そしてそのことはこのオペラの歴史的な価値を些かも貶めることにはならないと考えます。


音楽に対する考察が後回しになってしまいましたが、本当に素晴らしい音楽でした。
初期の表現主義的な作品を除くと、ヒンデミットの音楽には「新古典主義」というレッテルが張られて、特に両大戦間の代表的な作品例として「画家マティス」がストラヴィンスキーの「プルチネッラ」と並び称される、というのが教科書的な書き方になるのでしょう。だいたい「新古典主義」という言葉も曖昧ですが、敢えて言えば表現主義と無調様式へのアンチテーゼという風にまとめることが出来そうです。
このオペラに関して言えば、物語は大変悲惨なものだが、音楽はどこまでも晴朗で格調が高い。第4幕の伯爵の私刑の場面や第6幕の聖アントニウスの誘惑の場面など、もっとおどろどろしく表現主義的、無調的な音楽を書くことも出来たはずですが、実際にヒンデミットが書いたのは非常に抑制が効いた音楽であり、それでいて少しも退屈にならず、聴くうちに静かな感動に襲われます。これこそが新古典主義と呼ばれる真の所以でしょう。オペラ全体に亘って明瞭な調性が支配していますが、そのシステムは伝統的なそれとは少しばかり異なっています。通常なら倚音として扱われる音がここではもう少し上位の扱いを受けていて、耳が慣れるに従って非常に美しく旋法的に聞こえます。その調性のシステムはヴォーカルスコアが手元にあればきれいに分析・整理できそうな気もするが今はもちろんそこまでは出来ません。このおそらく非常に意図的に、知的に組み立てられた調性システムは、後期ロマン派のデュオニュオス的な爛熟に代わるアポロン的な知的構造物の構成原理そのものであろうと思います。そこから、「新古典主義」に対して「アポロン的な世界の20世紀における復権」という意味合いを附加することも可能でしょう。

結局私はこういった知的な音楽というものが心底大好きなのだろうと思います。このブログで多分一番多く取り上げたのはストラヴィンスキーだと思いますが、今後ヒンデミットはそれに次ぐポジションを私の嗜好の中で占めるに違いありません。
ストラヴィンスキーとの一番の違いは、その手堅いかっちりとした書法。ストラヴィンスキーのほうは良くも悪くももっと風通しのよい音楽で、あまり形式というものに対する偏愛は感じられません。ところがヒンデミットの場合、以前取り上げた「聖女スザンナ」や「ヌシュ=ヌシ」でも作品の相当長い部分で変奏曲形式が使われていたり、対位法的な書法が顕著であった訳ですが、「マティス」でも第2幕の後半が変奏曲形式で書かれていたり、また対位法的な書法も多い。いかにもドイツの作曲家という感じ。反面、オペラの題材から致し方ないとは思いますがユーモアの要素はほぼ皆無。また、これは今のところ若干印象論的な言い方になりますが、伝統的な調性の体系からの逸脱という点については、ヒンデミットのほうがやや理論的(後の「ルードゥス・トナリス」を見れば明らかでしょう)なのに対して、ストラヴィンスキーのほうはもっと直観的・感覚的な感じがします。もちろんどっちが上とかいう問題ではありません。

クーベリックの指揮、フィッシャー=ディースカウらの歌手、比較の対象を知りませんがいずれも文句なしの名演だと思います。特にフィッシャー=ディースカウの知的な歌の表情は、行動の世界に憧れながらついに傍観者でしかありなかったインテリの悲しみまでも感じさせて秀逸。ジェームス・キングが大司教というのは最初のうち違和感がありましたが、この優柔不断で流されやすい、しかし人は決して悪くない司教には実はぴったりな歌唱だと思うようになりました。シュヴァルプを歌うウィリアム・コックランと、敵対する連合軍の士官ジルヴェスターを歌うドナルド・グローブ、立場は違えども共に行動の人ということでなんとなく似ているのも配役の妙という感じがします。女声の三人、いずれも有名どころではありませんが真摯な歌いぶりで好感を持ちました。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-09-07 01:10 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ドビュッシー 前奏曲集Ⅰ&Ⅱ 大井浩明

HMVのつもりでHIVってこれまで絶対3回くらいは言ってると思う。




東京に行ってたせいでちょっと気が抜けてしまいましたが、京都のカフェ・モンタージュで大井浩明のドビュッシーを聴いてきたので一応備忘を書いておきます。

  2014年8月27日@カフェ・モンタージュ
  ドビュッシー
   前奏曲集第1巻全曲
   (休憩)
   前奏曲集第2巻全曲
   (アンコール)
   牧神の午後への前奏曲(レナード・ボーウィック編)


最初に断わっておくと、今回のリサイタル、私は感心しませんでした。一言で言えばドビュッシーの世界の表現にはあまりにも準備不足。2曲目の「帆」の長三度の下降がそもそも弾けてない、から始まって、技巧の粗が目立ち過ぎ。ぺダリングは不用意に切れたり濁ったり。極端なフォルテは音が割れて耳が痛い。音が少ない曲、たとえば「雪の上の足跡」なんかは音楽としての持続がなく、すかすかの譜面が露呈する。誤解のないように申し添えると、私が思う良いドビュッシーの演奏というのは、別に雰囲気満点にぼんやりとペダルを踏みまくる演奏でもないし、たっぷりとルバートをかけた「亜麻色の髪の乙女」が聴きたいわけでもない。あくまでも明晰な演奏を期待していたのだし、その結果「雪の上の足跡」だの「霧」だのといった作品のテクスチュアの薄さが仮借なく露わになっても構わないと思います。しかし、そのような演奏であっても音楽としての最低限の詩情が残るのがドビュッシーの音楽であるはずであり、それがないのであれば単に雑な演奏だろうと思ったわけです。
大井氏のケージやシュトックハウゼンの演奏、あるいはティンパニ・レーベルから出ているクセナキスの「エリフソン」や「シナファイ」のCD録音は本当に素晴らしいと思いますが、4年ほど前に渋谷の公園通りクラシックスで聴いたシェーンベルク・ベルク・ウェーベルンの時も甚だ感心しない演奏だったのを思い出しました。これは、シュトックハウゼンやクセナキスに対するシンパシーの深さに対して、新ウィーン楽派やドビュッシーへのシンパシーの欠如の所為なのだろうか。あるいは、ある一人の作曲家の大規模な個展といった趣で、長大な時間をかけて膨大なレパートリーを弾き、一曲一曲は多少荒っぽくはあってもその作曲家の全貌を俯瞰するといったスタイルが得意な反面、個別の作品を磨き上げる(暗譜も含め)というのが不得手なのかも知れません。そもそも彼の場合、その作品が好きだから、あるいは傑作だからレパートリーに入れるだけでなく、好きでもなければ傑作だとも思っていないが、同時代や後世への影響を示すという「教育的プログラム」の一環としてのプログラムビルディングも多いように思います。その意味では、彼自身がツイッターで書いているように、後のメシアン・ブーレーズ・武満・リゲティ・フェルドマンらの音楽の「ネタ帳」としての面白さを示すことがこのリサイタルの最大の目的であって、それ以上の愛情をドビュッシーには注いでいなかったのかも知れません。それはそれで致し方のないこととして非難するには当たらないと思いますが、せめてもう少し技巧的な穴をしっかり埋めてからリサイタルに掛けてほしかったと思いました。
ちなみにアンコールの「牧神の午後」はとてもよく出来た編曲で、IMSLPで楽譜のダウンロードが可能です。こちらは大井氏の演奏も本編よりよほどノリがよく良い演奏だったように思います。これまた、4年前の新ウィーン楽派のリサイタルで、オリジナルのピアノ作品よりも川島素晴が編曲した「モーゼとアロン」のなかの「黄金の仔牛の踊り」のほうがなんぼかマシだったことを思い出しました。こうした「ゲテモノ」は本当にお好きそうだし得意なのでしょうね(褒め言葉)。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-09-02 22:38 | 演奏会レビュー | Comments(0)

シュトックハウゼン 「歴年」(雅楽版・洋楽版) Der JAHRESLAUF

常田富士男(ときたふじお)って、ついさっきまで「つねたふじお」だと思ってた。





シュトックハウゼンの「歴年」(雅楽版、洋楽版)を観てきました。実に面白い舞台で、東京まで出かけて行った甲斐がありました。

8月28日@サントリーホール

シュトックハウゼン 《リヒト》から 歴年(1977)【雅楽版】

  音楽監督:木戸敏郎
  共同演出:木戸敏郎・佐藤信
  笙:宮田まゆみ、石川高、東野珠美
  龍笛:芝祐靖、笹本武志、岩亀裕子
  篳篥:中村仁美、八百谷啓、田淵勝彦
  鉦鼓:神田佳子/ 鞨鼓:山口恭範/ 太鼓:菅原淳
  楽筝:福永千恵子
  琵琶:佐藤紀雄

  奉行:西村高夫
  舞人:松井北斗、笹井聖秀、山田文彦、小原完基
  助演:宮崎恵治、光田圭亮、實光崇浩、黒田真史
  子役:柄沢怜奈
  時計:今村俊博、佐々木汐理、佐藤駿、須崎愛理

一柳慧 時の佇い 雅楽のための(2014)

  笙・竽:宮田まゆみ、石川高、東野珠美、三浦礼美、中村華子、村岡健一郎
  龍笛:笹本武志、岩亀裕子
  篳篥:中村仁美、八百谷啓、田淵勝彦
  大篳篥:溝入由美子
  箜篌:佐々木冬彦
  軋筝・十七絃筝:福永千恵子、多井智紀、中澤沙央里
  打物:神田佳子、山口恭範、菅原淳

8月30日@サントリーホール

シュトックハウゼン オペラ《リヒト》から〈火曜日〉第一幕 歴年(1979)【洋楽版】

  音楽監督:カティンカ・パスフェーア
  演出:佐藤信
  ミヒャエル:鈴木准
  ルツィファー:松平敬
  シンセサイザー:鈴木隆太、高橋ドレミ、島崎佐智代
  ピッコロフルート:井原和子、斎藤和志、齋藤光晴
  ソプラノサクソフォーン:大石将紀、江川良子、冨岡祐子
  アンヴィル:岩見玲奈/ ボンゴ:村井勲/ バスドラム:山本貢太
  電子ハープシコード:白石准
  ギター:山田岳

  レフェリー:高橋淳
  舞人:清水寛二、武内靖彦、竹屋啓子、松島誠
  助演:宮崎恵治、光田圭亮、實光崇浩、黒田真史
  子役:柄沢怜奈
  時計:今村俊博、佐々木汐理、佐藤駿、須崎愛理

三輪眞弘 59049年カウンター(2014)~2人の詠人、10人の桁人と音具を奏でる傍観者達のための

  LSTチーム:松平敬、横浜都市文化ラボ桁人チーム
  MSTチーム:高橋淳、横浜都市文化ラボ桁人チーム
  フルート:斎藤和志、齋藤光晴
  サクソフォーン:大石将紀、江川良子、冨岡祐子
  ヴィオラ:飯野和英
  チェロ:宇田川元子
  シンセサイザー:鈴木隆太、白石准、高橋ドレミ
  パーカッション:岩見玲奈、村井勲、山本貢太


今回の公演についてのネット上の反応は概ね上々。この業界でプロとして飯を食っているような評論家やライターの方々、私はよく存じ上げませんが随分多くの方が本公演に集結されていたようだ。1977年の東京初演は多くの業界人の酷評に晒されたのみならず、それが原因でそれ以降のシュトックハウゼンの舞台作品の公演そのものが僅かな例外はあれど実質的にこの国で禁じられてしまった訳だが、37年の後にこうして極めて上質なパフォーマンスによってその封印が解かれたことは実に慶賀の至り。今後長く語り継がれるに違いない。当時の、そして今回の公演のプロデュースをされた木戸敏郎氏の感慨は如何ばかりかと思い、こちらまでちょっと胸が熱くなる思いだ。
1977年の初演後の、ほとんどスキャンダルと言ってもよさそうな経緯については、今回のサントリー芸術財団サマーフェスティバル2014のHPや会場で無料配布されていたパンフレットに詳しいが、当時の酷評が具体的に如何なるものであったかは下記URLを参照されたい。

http://www001.upp.so-net.ne.jp/kst-info/Texts/Premiere1977.html

さらに、音楽業界以外の、より生々しい記述は下記のURLで読むことが出来る。「世間の良識とはこんなものである。」という木戸氏の血を吐くような記述は是非とも読んでいただきたいと思う。2014年の我々が後出しじゃんけんのようにこれらの評を書いた音楽家たちを責める訳にはもちろんいかない。しかし、とにもかくにも自分の耳で聴いて評を書いた彼らはまだ誠実であって、ここに登場する朝日新聞の何某のように、自分で舞台を観ることもなく否定的な言説を垂れ流した連中がいたこと、しかもそれが日本の良識なるものを代表していたことは忘れてはならないと思う。

http://ooipiano.exblog.jp/17327697/

音楽そのものについて殆ど予備知識の無い状態で、一気にその全容を知ることになった「歴年」について、体系的に多くを語る力は筆者にはないが、思いついたことを3点ほど備忘替わりに記しておこう。

①今回、時間をおかずにオリジナルの雅楽版と、そのトランスクリプションである洋楽版の両方を聴いたのは非常に貴重な経験であった。単に書かれた順番に拠る訳ではなく、雅楽版が唯一無二のオリジナリティ(この楽器のこの音でなければならぬ、と感じさせる力)を持っているように感じられるのに対し、洋楽版がどこまでいっても雅楽のトランスクリプションでしかないと感じられるのが実に興味深いと思う。別の見方をすれば、雅楽のために書かれた作品を洋楽器のためにトランスクリプトすることは可能であっても、洋楽器のために書かれた作品を雅楽で演奏しようという発想はおそらく有り得なかっただろう。この不可逆性は、雅楽の音響の特殊性によると言ってよいのだろうか。
木戸氏の回想によれば、まずシュトックハウゼンから各楽器の演奏可能な音域について問合せがあり、最初、雅楽で通常使われる音だけを楽譜やテープで回答したという。ところが後日来日のおり、実際の雅楽の奏者たちが演奏に先立って各自音合わせをする様子を聴いて、シュトックハウゼンが「以前の回答にない音があるではないか」と文句をいい、それから雅楽で普段使わない音も含めて作曲を続けたとのこと。このことは、本来の雅楽の響きと、それを逸脱(木戸氏の言い方を借りるなら脱構築)した響きの両方を結果的に音楽にもたらすことになったに違いない。その結果、ここには雅楽本来の響きと、逸脱が絶妙なバランスで存在しており、少なくとも我々日本人からすれば意外なほど「とっつきやすい」音楽になったことは確かだ。
雅楽版のオリジナリティの強烈さ故か、翌々日に洋楽版を聴くと、洋楽版が美しいけれども何か足りないように思われる。その足らないものが何かを考察するならば、雅楽版で「伝統と破壊(革新あるいは脱構築といってもいい)」と感じられるものが、洋楽版では「通俗と前衛」というレベルに成り下がっているような感じを受ける。シュトックハウゼンの通俗性については、このブログで以前大井浩明が弾いた「クラヴィア曲XVⅢ《水曜日のフォルメル》」や「自然の持続時間」の評でもすこし言及したところだが、良くも悪くもこの作曲家を理解する上でのキーファクターだろう。いずれにしても洋楽版により顕著な通俗性のようなものを認めつつ、単にネガティブな評価をするのではなく、後の「リヒト」や「クラング」の理解にどう繋げていくかが重要だろうと思う。

②曲の途中で4回現れる寸劇、まるで学芸会レベルの安直さが1977年当時の激烈な拒否反応の一因であることは間違いないと思うが、いまここでこの寸劇に対してある種の解釈行為を通じて正当化、あるいはリノベーションをするつもりはない(登場するライオンから聖アントニウスの誘惑を連想し、ドイツの正統なインテリの思考の跡を辿るのも一興だが)。それより面白かったのは、雅楽版の寸劇が下らないと思いつつも思わず笑ってしまう(私だけでなく会場の多くの観客が失笑を禁じえないといった風であった)のに対して、洋楽版の寸劇は(内容はほぼ同じであるにもかかわらず)まったく笑いを誘わなかったという事実である。これは単に2回目だからという訳ではなさそうだ。ひとつは雅楽版で、ついつい誘惑に負けてしまう舞人の恰好がキョンシーみたいでユーモラスなのに対して、洋楽版の舞人がやや芸術的(「ゲイジツ的」と表記したほうが良いかも)に過ぎて、哄笑とそぐわないということ。それともうすこし根源的な理由として、少なくとも日本人が雅楽というものから連想するものと笑いというのは、天鈿女命このかた案外と相性が良いというのは穿ちすぎだろうか。しかし、当たり前のように笑いを許容する雅楽にくらべ、どことなく「教養」の残り香のする洋楽版に笑いが似つかわしくないのも事実だろう。

③音楽そのものに対する感想ではないが、演奏にさきだって木戸氏のプレトークがあり、大変興味深いものであった。曰く、1977年、音楽界からあれほどの酷評がでたにも関わらず、いわゆる構造主義と呼ばれる陣営、それは思想家批評家だけでなく建築家だとかいろんな業界の人たちであったが、そういった人たちからの受けは非常に良かったという。そこで木戸氏は、赤という色はそれだけであれば色としての情報しかもたないが、黄・緑と並べることで「とまれ」という意味が発生する、という記号論のイロハをもちだしながら、歴年のなかのクラスターは例えばスーラのような点描派の画家がやったことを音でやっているわけで、そこから逆に「音から光へ」の照応が生まれる、といった内容の話をされていた。この説の後段の当否は私にはわからないが、前段に関して言えば、そういえば60年代の前衛の季節を潜り抜けてきた世代の音楽家の多くは、実存主義的左翼ともいうべき人たちであって、当時台頭してきた構造主義的な思考にはなじまなかったのだろうと思った。これはシュトックハウゼンの音楽が構造主義的か否かとは関係がないかもしれないが、以前からこのブログで何度か「シニフィアンの連鎖としての音楽」について書いてきた筆者としては看過できない言説であり、今後時間をかけてシュトックハウゼンの音楽(特に「リヒト」)と向かい合っていくうえでの補助線の一つになるだろうとの思いを得た。


各々の公演の後半はこの公演のために書かれた委嘱作。一柳慧の「時の佇い」は、雅楽の楽器に、箜篌・軋筝など古代の復元楽器を加えたアンサンブルのための作品。これが70年代以降、雅楽や和楽器のために掃いて捨てるほど書かれた諸作に伍して歴史に残るか否かは判らないけれど、耳で聴いて面白く、シアターピースというほどではないにせよ視覚的な楽しみもあって大変結構。それにしても、雅楽の可能性というのはまだまだ汲みつくされていないのかもしれない、と聞きながらふと思った次第。遅ればせながら現代雅楽なるものをこれからもうすこし聴いてみたいと思った。

三輪眞弘のほうは、「歴年」の洋楽楽器と2014と記された舞台装置を用いて、「歴年」とはまったくことなる種類の音楽を聞かせる。舞台の上に二人の歌手と10人の「桁人」、10人の楽器奏者とノートパソコンを操作する一人の「悪魔」。舞台のスクリーンには悪魔の操作によっていろんな西暦の年号(これまでの年号以外にも45123年とかさまざまな)、それと10個の矢印や円弧が映し出され、その記号のいくつかは点滅している。10人の桁人はなんらかの規則によって舞台の数字の上を歩き回り、10人の奏者は楽譜ではなく(多分)桁人の位置やスピードを見て早いパルスや遅いパルスを奏し、あるいは沈黙する。じっと見ていればその規則性・法則が判るかと思ったが、残念ながらそれには至らず。一種のシアターピースであるが、いわゆる不確定性が採用されているのかどうかも不明。しかしそのデジタルなパルスによる音楽はまるでスティーヴ・ライヒのミニマル音楽みたいでとても聴き易い。しかも、「歴年」に聞くある種の俗っぽさとはまた違う種類の音楽で、シュトックハウゼンの音楽の不可知論的非デジタル性とでもいったものが結果的に炙り出されたように思う。

雅楽・洋楽ともに、演奏者と舞人のパフォーマンスは素晴らしものであった。どのように記譜されているのかは判らないが、4群の異なるテンポで進められる音楽が、指揮者がいるわけでもないのに縦に合うべきところでビシッと合うというのは、この演奏の精密さ故のことだろう。シュトックハウゼンの音楽というのはとても不思議だと思うのだが、その演奏に携わる人に一種の秘教的な信仰心や自己犠牲の精神を植え付け、膨大な練習とリハーサルの時間を掛けて基本的に暗譜で演奏するというスタイルを(少なくともある一時期)取らせていたようだ。このような演奏スタイルは雅楽(に限らず邦楽一般)の人たちにはさほど違和感がないのかもしれないし、洋楽版の人達にも一種の憧憬を感じさせたかも知れない(実際にそこまでのめり込めばパフォーマーとしての身の破滅かも知れないが)。ミヒャエルとルツィファーを歌った歌手について現時点で巧拙を云々するつもりはない。将来いつの日か、リヒト全曲公演でルツィファーやミヒャエルを歌うのを聴いてみたいと夢想している。

今回の記念碑的な公演は37年前の不幸な出来事にけりをつけるという意味合いが強いとしても、本当は東京での「リヒト」全曲公演への先駆けという位置づけがあってしかるべきだろう。全部で7夜、延べ29時間という公演、東京ならもしかしたら、という気もする。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-09-02 01:20 | 演奏会レビュー | Comments(0)