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サティ 「家具の音楽」 コンスタン指揮アルス・ノヴァ合奏団

あんまりうまいのでツイッターより引用。全部クセナキスね。

渡辺愛‏@acousmat·8月6日
付き合ってミッカ? #現代音楽用語で口説いて振られる
石塚潤一‏@jishizuka
そんな口説き文句じゃ激オコです。
鈴木治行‏@sharuy·8月7日
むしろクセナキス駄洒落ハッシュタグを作るべきジャロン。





今回はエリック・サティを取り上げます。これまでのラインナップからすると意外な選曲に見えるかも知れません(?)。
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  ①バレエ《本日休演》の幕間映画のための音楽(ルネ・クレール監督のフィルム)
  ②(いつも片眼をあけて眠る見事に肥った)猿の王様を目覚めさせるためのファンファーレ
    ~2本のトランペットのための
  家具の音楽
    ③県知事の私室の壁紙
    ④錬鉄の綴れ織り(招待客の到着の際に、大きなレセプションの場合は、玄関ロビーで演奏される)
    ⑤音のタイル張り舗道(昼食のときに演奏する)
  ⑥ヴェクサシオン(神秘的なページより抜粋)~ピアノ・ソロのための

  アルス・ノヴァ合奏団①、③~⑤
  指揮: マリウス・コンスタン①、③~⑤
  ピエール・ティボー、ベルナール・ジャヌト(tr)②
  ミシェル・ダルベルト(pf)⑥
  1980年2月録音
  CD:ERATO WPCS-22107

私自身は、正直なところ、そんなにサティに入れあげている訳でもなく、嫌いじゃないけど大好きというほどでもない、といったところです。しかし、サティといえば「ジムノペディ」か「グノシエンヌ」、せいぜい奇妙なタイトルの一連のピアノ作品をちょこっと聴いて「サティはああだこうだ」というのは、間違っているとは言わないけれど、どうにも納得がいきません。いや、私は他人がサティのことを好きでも嫌いでも一向に構わないけれども、サティについて一言でも語るのならせめて「パラード」と「家具の音楽」を聴いてからにしたらどうか、とは思います。歌曲も「ジュ・トゥ・ヴー」以外にも面白いものが沢山ありますし、知らないで済ますのはもったいないと思いますが、後世への影響とかいった意味では「パラード」と「家具の音楽」に勝るものはないでしょう。
本当は、権威主義的なものの考え方の対極にあるサティの音楽について、「後世への影響」などと大仰に書くことは見当違いも甚だしいに違いありません。しかし、1917年に初演された「パラード」こそはフランス6人組&パリ時代のストラヴィンスキーに多大かつ決定的な影響を与えた作品であり、1910年代のさまざまな芸術的潮流、例えばダダイズム、未来派、ロシア・アヴァンギャルドなどの結節点にしてそれらの最良の物の集大成でもある、といえば褒め過ぎでしょうか。一方でタイプライターやサイレンなど騒音を取り入れた実際の音楽の響きは、今書いたようなご大層な賞賛とは裏腹に腰を抜かすぐらいチープだったりする。しかもこの場合の「チープ」というのは逆説的ですが完全に褒め言葉でもあって、もしかしたらさきほど列挙したこの時代の数々の芸術的潮流に通底するものは「サティのパラードみたいなチープさ」と要約できそうだなどと密かに考えています。それはとりもなおさず、19世紀風ロマン主義、ワグネリズムの対極にあるものです。実に20世紀前半の音楽というのは、マーラーやシェーンベルクを代表とする後期ロマン派から十二音技法の確立に至る大きな流れと、ドビュシーから1954年以前のストラヴィンスキーに至る別の大きな流れの拮抗であったわけで、サティの存在というのは後者の中でも特異な位置を占めていると思われます。

「パラード」の話を枕に「家具の音楽」について書こうとして、ついつい枕が長くなりました。なんだかんだ言いながら音源の種類もそこそこある「パラード」に比べると、「家具の音楽」は一層マイナーな感じがします。家具や壁紙のように、特段注意されることもなくそこにある音楽、というコンセプト、あるコンサートの休憩時間に「意識して聴かれることのないように」演奏したにも関わらず、聴衆が聴き入ってしまったためにサティががっかりした、というエピソードはよく知られているのかも知れません。こちらについては、ミニマリズムやアンビエント音楽の源流であるという見方がなされることがあるようですが、アンビエントとの関連は私自身が例えばブライアン・イーノとかあまり知らないのでよく分りません。ミニマリズムの遠い始祖であるという見方は、フィリップ・グラスなんかを想像すると確かにそうかな、と思いますが、それよりもっと音楽的な発想が似ていて間違いなく遠い縁戚関係にあると思われるのはマイケル・ナイマンの音楽、例えばピーター・グリーナウェイの10作を超える映画の為に書いた一連の音楽だと思います。
「家具の音楽」の特色はなんといっても短い旋律の断片の執拗な繰り返しであって、工業製品としての壁紙や包装紙などのパタナイズされた絵柄が発想の源になっているのは明らか。しかも長調と短調の不思議な混淆、かすかに教会旋法風の香りのする旋律パターンは独特の魅力があって、1920年当時の聴衆ならずとも思わず真剣に耳を傾けてしまいます。古雅ともチープとも取れる音の薄さにセンスの良さが感じられますが、あと一歩のところで洗練の極みとまではいかないのも、残暑厳しい夏の夜に思考停止気味で聞くにはぴったり。またもや逆説的な物言いになるけれども、これはサティの代表作であり傑作といっても良いのではないか。

併録の「本日休演」の幕間音楽も、18分を超える大曲ながらひたすら短いユニットの繰り返し。こちらは「パレード」や元ネタのバレエ「本日休演」のチープさが支配的。長い割には楽しく退屈せずに聞けます。
「ファンファーレ」も楽しい。真面目と不真面目、洗練と低俗の絶妙なバランスは実に軽妙洒脱。
「ヴェクサシオン」は一枚の楽譜に書かれた旋律を840回繰り返せという指定の異常さばかりが取り上げられがちですが、このCDの中に置くと、パタナイズと繰り返しという文脈の中で収まる所に収まる感じがします。もちろん本CDでは10分ほどの間、数回繰り返して終わりですが。

演奏について。およそ近代的ヴィルトゥオジテとは無縁の音楽ですが、こういった演目こそ聴かせるのは難しいに違いありません。コンスタン指揮アルス・ノヴァの演奏は実に見事だが、アンサンブルは決して精妙でも完璧でもなく、それがいかにもベル・エポックらしい近しさ、懐かしさを誘う。その一種の緩さ、「ええかげんな」ところがこの音楽にはぴったりだと思います。緩いのに退屈させない。この微妙な匙加減についてはもう少し言葉を尽くしてみたいような気がしながらも、サティの音楽にそのような分析は場違いで気恥ずかしいことのような気がするので今日はこれまで。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2014-08-25 23:47 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ヒンデミット 「ヌシュ=ヌシ」 アルブレヒト指揮ベルリン放送so.

全シリーズみてみたい関西ローカルCMベスト3。
 1.モリ工業のステンレスポール
 2.ケンミンの焼ビーフン
 3.関西電気保安協会
  




ヒンデミットの珍しい舞台作品を紹介します。
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  ヌシュ=ヌシ Op.20 (1920)
  (一幕のビルマの人形劇、フランツ・ブライの台詞による)

   ムン・タ・ビャ(ビルマの皇帝)・乞食・伝令1・詩人2: ハラルト・シュタム(Bs)
   ラクヴェン(王子): マルテン・シューマッハー(語り)
   キセ・ヴァイン将軍・儀典長: ヴィクトル・フォン・ハーレム(Bs)
   刑吏: ヨーゼフ・ベッカー(Bs)
   スズリュ(宦官): デイヴィッド・クナットソン(Tファルセット)
   トゥム・トゥム(ツァトヴァイの家来): ヴィルフリート・ガームリッヒ(T)
   カマデヴァ・詩人1: ペーター・マウス(T)
   伝令2: アレハンドロ・ラミレス(T)
   バンザ(皇帝の第1の妻)・娘1: ヴェレーナ・シュヴァイツァー(Sp)
   オザザ(皇帝の第2の妻): セリーナ・リンズレー(コロラトゥーラSp)
   トヴァイゼ(皇帝の第3の妻)・娘2: ガブリエーレ・シュレッケンバッハ(A)
   ラタサタ(皇帝の第4の妻)・娘3: グドルン・ジーバー(Sp)
   踊り子1: ジョルジーヌ・レーシック(Sp)
   踊り子2: ギゼラ・ポール(A)
   猿1: ヴェルナー・マルシャル(T)
   猿2: マンフレッド・クレバー(T)
   指揮: ゲルト・アルブレヒト
   管弦楽: ベルリン放送交響楽団
   1987年3月23-25日録音
   CD:WERGO WER60146-50


私の通っていた高校は、まぁ昔の事とて学習指導要領なんぞ屁とも思わぬ変わり者の教師が何人かいて、今も懐かしく思い出すのはそういった先生たち。例えば世界史の先生は一年間掛かって古代ギリシャが終わらないといった調子ですが、中でも漢文の先生は教科書なんぞ全く使わず、史記列傳の抜粋なんかで今思えば大変貴重な講義をされていました。特に司馬遷が武帝の怒りをかって宮刑に処せられ、その失意から立ち上がって史記52万字余を完成させた経緯を熱く語ってくださったことは今も鮮明に覚えています。

「ヌシュ=ヌシ」を聴きながらふと昔のことを思い出しましたが、こちらは司馬遷のうけた屈辱とは大違いのおふざけぶり。もっとも、このオペラのシノプシスは、少なくとも英語で読めるネット上の情報はどれもこれも中途半端で、たくさんの人物が登場するこのオペラ(というかビルマの人形劇)の物語についてはさっぱり要領を得ませんでした。CDはドイツ語のリブレットが附いているだけマシですが、せめて英語の対訳があれば、と思います。いくつかの情報をつなぎあわせるとこんなお話かと・・・。

貴族ツァトヴァイの家来トゥム・トゥムは皇帝ムン・タ・ビャの後宮からつぎつぎと主のために女をかどわかしていた。ある日、欲望の神カマデヴァが、巨大なねずみと鰐の合体したような妖怪ヌシュ=ヌシに跨ってトゥム・トゥムに吉報を告げる。飲んだくれの老将軍キセ・ヴァインがヌシュ=ヌシに躓いて押しつぶしてしまう。将軍はそのときヌシュ=ヌシに金玉を食いちぎられてしまうが、トゥム・トゥムのおかげで命拾いをしたので彼に褒美をつかわし家来にする。ツァトヴァイの悪事が露見し、皇帝の召喚をうけたトゥム・トゥムはすべては主人の指図の所為だと言い張るが、そのおかげで新しい主人の将軍キセ・ヴァインが宮刑に処せられることになる。いざ玉切り役人が将軍の金玉を切ろうとするが、それはどこにもなかったとさ。

別の情報ではヌシュ=ヌシは緑色のinflatable pool toy(プールで使う鰐などの形のビニールのおもちゃ)みたいだと書かれていました。また、nuschとはnutsすなわちtesticlesのことだとも。いずれにしても、どの解説も申し合わせたようにこの台詞がobsceneであると書かれています。
そんなわけで台詞の詳細は判らずじまいですが、音楽は実に面白い。冒頭のひょうきんなトゥム・トゥムのテーマはどことなくプッチーニ風で、「ジャンニ・スキッキ」からインスパイアされたであろう作曲経緯を忍ばせます(ヒンデミットとプッチーニを繋ぐ存在としてフェルッチョ・ブゾーニを忘れてはいけないのかも知れませんが、それはまた別の機会に)。これに続いて無調すれすれの舞曲や、ペンタトニックによる猥雑な踊り、二人の踊り子と二匹の猿が歌う濃密な夜の気配ただよう怪しくも美しい音楽、宦官がうたうファルセットの歌や、皇帝の歌うワーグナーのパロディ等々、実に多彩。あるいは皇帝の4人の妻たちが次々と歌うところは、「アリアと変奏」と題されていて、こんなところもいかにもヒンデミットらしいと思いました。1920年という時点でのオリエンタリズム&モダニズム音楽の集大成といった趣もあって、バルトークのパントマイム「中国の不思議な役人」やストラヴィンスキーの歌劇「うぐいすの歌」と並べると20世紀音楽史上の一大奇観をなすように思えます。以前とりあげた「聖女スザンナ」同様、ヒンデミット自身が後に封印してしまったこともあって、これら初期作品の評価はまだまだこれから、というのが実情かも知れません。
こんなマイナー・オペラでもIMSLPでヴォーカルスコアがDL出来るのがちょっと驚きでした。せっかくですので、皇帝の歌のところ、すこし譜例を挙げておきます。
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後宮の女たちを次々に寝取られた嘆きの歌のようですが、ここはワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」第2幕のマルケ王の歌"Mir dies?Dies, Tristan, mir?"のパロディになっています。歌詞もTristanをKyce Waingに換えた他はほぼ一緒。多彩な打楽器を含むオーケストラを用いているのに、ここだけやけに貧粗なオーケストレーションというのもワーグナー(というよりもワグネリアン達)に対する悪意のなせるわざでしょうか。

演奏について巧拙を云々するのは、こういった珍しい演目の場合あまり意味があるとは思えませんが、アルブレヒトの指揮、多くの歌手ともども大変すぐれた演奏だと思います。トゥム・トゥムと二人の踊り子が幾分歌う場面が多い他は、つぎつぎと現れては消えていく役柄が多いのですが、どの歌手も所を得たものです。アルブレヒトはこういったドイツ・モダニズムの音楽のエキスパートと言ってよいと思いますが、私が初期ヒンデミットの特色と考えている強迫的な音楽をドライブする力や、第2場の官能的な夜の音楽など素晴らしいと思いました。

余談だが、この「ヌシュ=ヌシ」の全曲盤CD、日本のamazonだと中古品で8,197円、新品だと12,395円という高値がついています。私はamazonUKで買いましたが、そちらだと送料込で2,973円、正味10日ほどで手元に届きました。中古屋さんの商売の邪魔する気はないですが、いくら激レア・アイテムでもこれはちょっと酷いんじゃないかと思った次第。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-08-13 15:50 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

シェーンベルク 歌劇「今日から明日へ」 ストローブ=ユイレ

テレビは土建屋よしゆきさん死去のニュースのあと、「不適切な発言」をお詫びしなくていいのだろうか。





このブログでDVDを紹介するのは初めて。今回はシェーンベルクのめったに上演されないオペラを、ストローブ=ユイレが映像化したもの。
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  シェーンベルク 「今日から明日へ」 Von heute auf morgen

    夫: リチャード・ソルター
    妻: クリスティーン・ウィトルジー
    子供: アナベル・ハーン
    女友達: クラウディア・バラインスキー
    歌手: リシャード・カルチコフスキ

    監督: ダニエル・ユイレ&ジャン=マリー・ストローブ
    指揮: ミヒャエル・ギーレン
    演奏: フランクフルト放送交響楽団
    ドイツ=フランス/1996年

  (併録)
  アーノルト・シェーンベルクの《映画の一場面のための伴奏音楽》入門
    監督・出演: ジャン=マリー・ストローブ
    出演: ギュンター・ペーター・シュトラシェク
       ダニエル・ユイレ
       ペーター・ネストラー
    指揮: エルネスト・ブール
    演奏: バーデン・バーデン南西ドイツ放送交響楽団
    ドイツ/1972年
    DVD: 紀伊國屋書店KKDS-227

ストローブ=ユイレ(ジャン=マリー・ストローブJean-Marie Straubとダニエル・ユイレDanièle Huilletの合作)による映像作品を初めて観ました。孤高の映像作家という評価、コアなファンの存在(叱られるかも知れないが「カルト」という言葉を思い起こさせる)、ゴダールやブレッソンとの対比、前衛的あるいは難解という世評、どれをとっても素人があれこれ論評めいた言説を述べるのを躊躇わせるには十分すぎるほどでしょう。だがこの「映画」と呼べるかどうかも微妙な、しかし映像における「作家」の存在を強烈に照射する二つの作品に触れて、何かを書かずにはいられない。たとえそれが幼稚な感想文レベルのものであっても。

このDVDを購入したきっかけは、amazonを散策していて珍しいオペラを見つけた、という理由以上のものはありません。どちらかと言えば私は初めて聴くオペラ、たとえばオペラの公演の予習をするといった場合、DVDではなくCDで聴きたいと思うタイプであって、実際の舞台に接する前に映像での刷り込みを避けたい、音楽だけを無心に聴きたいと思ってきました。にもかかわらずこのDVDを購入したのは単にCDがほとんど見当たらないからやむを得ず、といったところでした。実際、オペラのDVDといえば、単に舞台公演を録画したものか、あるいは例えばゼッフィレッリによる「オテロ」や「椿姫」のようなオペラを題材にした「映画」のいずれかということになるのでしょう。前者であれば、あくまでも主役は歌手であり、指揮者であって、クレジットロールに記された監督名やテクニカルスタッフの名前など大半の人は気にもしないでしょうし、後者の場合であればゼッフィレッリという監督名が前面に出てくることから判る通り、映画としての(あるいは映画的な意味での)「リアリティ」の追及が何より重視されていて、歌手はいわゆる口パク、極端な場合吹き替え(実際の歌手より美男美女が起用される等)も辞せず、ということになる。いずれにしても音楽を聴く、という立場からすればあまり食指が動かない、というのが正直なところです。
だが、この「今日から明日へ」では、カメラは人払いした放送局のスタジオでオーケストラがチューニングをしている光景から始まり、舞台の上の室内のセットを映し出す。オペラが始まると実際の歌手が歌いだし、計算され尽くしたアングルでカメラが彼らの表情を克明に追う。リアルというのでもない、演劇的というのとも違う、もちろんテレビや通常の映画とは全く異なる特異な演出。それに、冒頭の一編の詩のような映像、美しいモノクロの画面。先に挙げた二つのタイプの「オペラDVD」とは全く異なる種類の映像がそこにはありました。「映画」とは何か、という根源的な問いを投げかける、ストローブ=ユイレという映像作家の存在感の巨大さに圧倒される思いですが、私はこの特異としか言いようのない映像美に完全に魅せられたのでした。シェーンベルクの音楽も異形といえば異形ですが、ここでは音楽が主張するよりは映像にひれ伏しているようにも感じられます。ストローブ=ユイレは他にもシェーンベルクの「モーゼとアロン」を映像化しているそうだが、彼らの映像の強靭な美しさに堪えうる音楽が偶々シェーンベルクだったということだろうか。

私はさきほど「魅せられた」と書きましたが、どこにどう魅せられたかを言葉にするのは非常に難しく感じます。その困難さが、世評に聞くストローブ=ユイレの難解さに通じるのだろうか。映画に限らず、ある作品が難解と感じられるのは、そのテーマが形而上学的であるか、もしくは過度に詩的であるかのいずれかに思いますが、前者については他の作品を観ていないので何とも言いようがない。「映画とはなにか」という問題意識の峻烈さはありありと感じ取れるが、この映画に何らかの答えを見出すだけの理解力は私にはない。そもそも芸術における形而上学的主題を理解し、咀嚼する能力がどうも私には備わっていないようです。一方、詩的という側面についていえば、この映画の冒頭、「お前たちの微笑みはどこに葬られたのか?」という言葉とダビデの星のマークが落書きされた戸外の漆喰を塗った壁を延々と2分間もただひたすら見せるところがある。あかるい日差し、風にそよぐ樹々の葉、遠くに聞こえる街の物音。これはなんだろうか。メッセージなのか詩なのか。もしかしたら1968年の革命の季節から現代のパレスチナ問題にまで広がるコノテーションを読み取るべきなのかも知れませんが、私はただひたすら思考停止して画面を観ている。だがこの2分という時間の長さが大切なのだということだけは痛切さを伴って判るような気がする。

「特異な演出」と書いたけれども、もう少し具体的に記しておきましょう。まず登場人物の視線。基本的に子役を入れて5人の登場人物は視線を交わさない。いくら夫婦喧嘩のお話だといっても、客席のほうに向かって夫と妻が完全に横並びで対話するという不自然さ。この、オペラではしばしば見かけるスタイルが改めて不自然と感じられる事自体、凡百のオペラ映像とは次元を異にしている。たまに夫婦の視線が絡み合うこともあるが、粘りつく視線を剥がすようにまた離れてしまいます。オペラの終盤、女友達と歌手の男が登場してからはさらにこの不自然さが強調され、4人ともまったく視線を交わさない。しかも同じ室内での出来事なのに、夫婦と友人二人は決して同じ画面に登場しない。更には、妻が歌っているときに黙っている夫だけを写し、夫が歌うときには妻だけが写っている、あるいは二人が歌っているのに画面にはブラインドの掛かった窓と椅子だけが延々と写っている等々。そのくせ、夫婦の表情は、怒り、憎しみ、失望、懐疑、満足、放心、実にうるさいぐらい変化し、それをカメラがアップで克明に追うのも異常さを感じさせます。その一方で居間の調度品や衣装など、ごくありきたりの20世紀前半の中産階級の設えであって、何ら常軌を逸したものはない。本物の歌手がぶっつけ本番で録画と録音を同時にやっているので当然というか、ちょっと書くのを憚られるが誰一人美男美女がいない。よくて十人並み。映像自体はとんでもなく美しいにも関わらず、どう贔屓目に見ても、この特異なオペラを広く世の中に紹介したいといった善意を感じることが出来ない。繰り返すが、これはなんだろうか。さしあたってのありきたりな結論は、もっとストローブ=ユイレの映像作品を観てみたい、ということ。

シェーンベルクのオペラ自体は難解でもなんでもなくて、物語はむしろコメディと言ってもよいくらいの夫婦喧嘩と仲直りのお話(ちなみに台本はシェーンベルクの奥さんのゲルトルートが1929年にマックス・ブロンダというペンネームで書いたもの)。いや、もしかしたらもう少し含むところがあるのかも知れませんが今は深入りしません。またシェーンベルクの音楽そのものも、十二音技法云々に怖気づく人もいるかもしれませんが、その根底にムジツィーレンとしての愉楽が横たわっていることは以前このブログでOp.29の組曲を紹介した際にも書いた通りであると思います。特に終盤の見事な四重唱、歌手と女友達のパートはカノンで書かれていて、対位法の大家たるシェーンベルクの面目躍如といったところ。ですが、この映像を最初観て感じる「突き放されたような」「取りつく島の無い」感じにも関わることだが、シェーンベルクが「十二音技法でもコメディが書ける」と本当に思っていたのなら、すくなくともこの作品に限っては目論見は失敗していると言わざるを得ません。十二音技法が悪い訳では多分ないでしょう。あまりユーモアとかコメディと結び付けられることはないかも知れませんが、「ルル」の中で学生やロドリーゴの乱痴気騒ぎを書いたベルクなら、もっとそれらしい音楽を書いたに違いありません。だがここにはそのかわりに、シェーンベルクが想定していたかどうかは別として、本来共存することがありえない二つのもの(十二音技法とコメディ)を無理やり結びつけたことによる異化効果、それによってもたらされる聴き手の不安感や落ち着かなさが感じられて、おそらくシェーンベルクは難解であるという世評の原因にもなっているのだと思います。また、この時期のシェーンベルクの音楽には、知的かつフィジカルなムジツィーレンの面白さはあってもエロスに通ずる要素は乏しいような気がします。これが人によっては無味乾燥といった印象に繋がるのかも知れません。
演奏そのものについては大変レベルが高いもので、4人の歌手、ミヒャエル・ギーレンの指揮ともども完全に手の内に入った演奏を聞かせてくれます。精緻かつ自在。純粋に音楽を聴くという意味でも価値のあるものだと思います。

併録のショートフィルム「アーノルト・シェーンベルクの《映画の一場面のための伴奏音楽》入門」についてはもう少しストローブ=ユイレ体験を積むまで詳細なコメントは差し控えたいと思います。ほとんど動きの無い画面は「反・映画」と呼びたくなるほど。終盤、パリ・コミューンの犠牲者の遺体映像を見せられても正直なんのことやら途方に暮れてしまいます。シェーンベルクが架空の映画のために書いたこの音楽については、学生の頃にブーレーズのLPで聴いて以来で大変懐かしい思いをしましたが、この映画においてはあくまで映像が主であって、音楽を聴くという目的にはそぐわないと言わざるを得ません。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-08-07 00:24 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ヒンデミット 「聖女スザンナ」他 (その3)

「エバラ出血熱」でググったら7,890件もあった。残念。





前回、演奏評を書きもらしてしまいました。このような珍しい演目なので比較の対象を知らないのですが、主役級の二人、スーザン・ブロック、デッラ・ジョーンズとも素晴らしい出来栄えであると思います。息の詰まるような濃密な表現、大オーケストラに拮抗できるだけのワーグナーばりのフォルテ、ともに歌いきっていると思います。ただ、時にスザンナよりもクレメンツィアのほうが年若に聞こえることがあって、どっちが歌っているのか判らなくなる時がしばしばありました。もちろんこれは欠点というほどのことではありません。トルトゥリエ指揮のBBCフィルも素晴らしいと思います。こぢんまりとした音像の録音はもう少やり様があったかも。

「ヌシュ=ヌシの踊り」は三部作の中の「ヌシュ=ヌシ」からコンサート用に抜粋したもの。台本は表現主義の作家フランツ・ブライがビルマの人形劇の為にかいた笑劇に基いているとのこと。元のオペラがとても面白そうなのでただいまamazonUKで注文中です。Nusch-Nuschiとはスラングでキンタマのことだとか。リーフレットの解説は簡潔すぎてよく判りませんがいったいどんなお話なんでしょう。
このCDに収められた9分ほどの作品、猛烈に面白い。初期ヒンデミットの特色といってよいと思いますが、びっしりと書き込まれた音の分厚さと前へ前へせっつかれるような強迫感はここでも顕著です。無調風の急進的な音楽とビルマ風(というか東アジア風)のペンタトニックな音楽が交替していきます。物語の題材にしても音楽にしても、バルトークのバレエ「中国の不思議な役人」を思い出さないわけにはいきませんが、バルトークのほうは1918年には作曲に着手しているものの初演は1926年ですから、ヒンデミットはこの傑作バレエをまったく知らずに「ヌシュ=ヌシ」を書いたことになります。ヒンデミットの先進性はもっと喧伝されてよいのではないかと思います。バルトークのほうは少なくとも組曲版は演奏の機会もそこそこあり、音源の種類も豊富ですが、ヒンデミットの人気がないのはとても残念に思います。

次の「トゥッティフェントヒェン」組曲はこれまでの2作品とは打って変わって子供向けの素直な音楽。これも舞台作品からの演奏会用組曲。元の舞台作品は1922年に演奏されていますがそれっきりになったようで作品番号がありません。組曲版も結局作曲者の死後に発見されるまで演奏の機会がなかったようです。
トゥッティフェントヒェンとはある彫刻家が木彫りでつくった人形、それがいろいろ悪戯するという話のようです。まぁドイツ版ピノキオといったところでしょうか。音楽はいたって伝統的なものですが、ところどころモダニズムの片鱗が感じられるのが面白い。中でも7曲目はケーキウォークのリズムで書かれたジャズ風音楽。その他はドイツ民謡や宗教歌が元ネタになっているようだ。4曲目に使われている民謡は日本では「山の音楽家」(あたしゃ音楽家、山の子リス、じょうずにバイオリンひいてみましょう、きゅきゅきゅっきゅっきゅっ・・・)で私の年代なら誰でも知っている童謡。また終曲は「神の御子は今宵しも」の邦題で知られる讃美歌111番が引用されていて親しみ深い。
このように声楽入り舞台作品と演奏会用組曲、古典的・伝統的な音楽からの引用とモダニズムの衝突、といえばあのストラヴィンスキーの「プルチネッラ」を思い出す訳だが、プルチネッラの初演は1920年。ヒンデミットは当然この同時代の音楽を知っていたと思うが、どちらかといえばモダニズムの発露よりは教育的志向の方を強く感じる。

1917年の「3つの歌Op.9」、リーフレットによれば表現主義の詩人達との出会いによってそれまで優秀な学生にすぎなかったヒンデミットは時代をリードする音楽家になったのだといいます。ただ今の耳でこの作品を聴くと、表現主義的というよりは濃密な後期ロマン派の残滓のほうを強く感じます、とくに第3曲、途中から曲がマーチになるところ、マーラーの「子供の角笛」かなにかを聴いているような気がする。いずれにしてもヒンデミットの音楽的原点を知るという意味で貴重な録音であると思います。

「ヌシュ=ヌシの踊り」以下の演奏も「聖女スザンナ」と同じく非常に精緻ではあるけれども(おそらくは録音のせいもあって)音像がすこし小さくこぢんまりとまとまり過ぎという気がするが、珍しいレパートリーを知るという意味においては何ら不足はありません。ヒンデミットに興味のある方には強くお薦めしておきます。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-08-03 00:05 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ヒンデミット 「聖女スザンナ」他 (その2)

いふまいとおもへどけふのあつさかな
昔の人は上手いこと言うなぁと思うが、これよりもっと昔々、和泉式部にこんなんあった。
よのなかは春と秋とになりはてゝ夏と冬とのなからましかば
日本人って夏と冬が来るたび、少なくとも千年以上おんなじこと言ってる。





「聖女スザンナ」の続きです。
前回、このわずか25分足らずのオペラの構造を下記のように見立てました。

  前奏曲(変奏曲主題の提示) 1~44小節(44小節)
  レチタティーヴォ 45~105小節(61小節)
  変奏曲
   主題の再提示 106~157小節(52小節)
   第1変奏 158~210小節(53小節)
   第2変奏 211~272小節(62小節)
   第3変奏 273~322小節(50小節)
   第4変奏 323~384小節(62小節)
   第5変奏 385~445小節(61小節)
   第6変奏 446~494小節(49小節)
   カデンツァと変奏曲の結尾 495~521小節(27小節)
  コーダ(尼僧の合唱) 522~603小節(83小節)

これをもう少し詳細に見ていきます。
前奏曲(譜例1)は、第1~22小節と第23~44小節の二節に分かれています。ゆっくりと和声がうつろう弦に乗せてフルートがゆるやかな息の長い旋律を歌い、第2節はほとんど繰り返しにも見えるが音高・旋律・リズムすべて微妙に異なる。つまり22小節ずつA-A'という構造になっており、以下の変奏も概ねこの構造を踏まえています。樹々の花の匂い、夜啼き鶯の声、ゆらめく蠟燭の炎、ト書きに書かれている全てがこのひそやかな前奏に描きつくされています。
(譜例1)
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幕が開くとすぐにスザンナとクレメンツィアの対話が始まります。このレチタティーヴォの開始は管弦楽がほとんど沈黙し、オルガンの高いGisの音だけが耳鳴りのように小さく延々と続きます。CDの解説にはwolf toneと書かれています。一種の倍音ですね。夜のしじまの表現として卓抜な着想だと思います。後半は3本のフルートのクロマティックな上昇とチェレスタのフィギュールがまるで官能の疼きが足元から這い上がってくるような感覚を呼び覚まします(譜例2)
(譜例2)
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スザンナのAve Mariaからいよいよ変奏曲がはじまります。主題の再提示と変奏の各々最後になにかしら叫びや大きな感情の爆発が置かれ、A-A’-Bの繰り返しで全体が構成されていますが、後半は主題の変形と解体、Bの部分の拡大が進むため、各変奏の境界は次第に曖昧になっていきます。よって先の見立ての第5変奏以降あたりからは試案と別の切り分け方があるかも知れません。主題再提示の後のBは作男の登場とスザンナの「悪魔!」の叫びで、極端に不協和な管弦楽の咆哮が現れます(譜例3)。
(譜例3)
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第1変奏(譜例4)では主題は概ね提示部通り始まりますが、後半オーケストラがより色彩的に展開されBになだれ込んでいきます。Bの部分はクレメンツィアの叫び。
(譜例4)
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第2変奏はそれまで三連譜をモチーフにしていた主題に附点付きのリズムが現れます(譜例5)。音楽も大きく動きはじめ、Bの部分ではクレメンツィアの「ベアータ!」という叫びが置かれています。
(譜例5)
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第3変奏(譜例6)は激情が一旦収まるがすぐに音楽が切迫の度合いを増していきます。昔の恐ろしい話が語られ、Bの部分で再度「ベアータ!」の叫びが現れます。
(譜例6)
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第4変奏(譜例7)から主題は大きく解体され、三連符のモチーフだけが執拗に繰り返されます。Bはクレメンツィアの語りからクラリネットのカデンツァ風パッセージ。
(譜例7)
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第5変奏(譜例8)は弦のアクロバティックなパッセージに続いて附点付きの主題。音楽はいよいよ無調の度合いを強めていきます。Bは突然衣服を脱ぎ捨てたスザンナの「わたしは美しい!」の叫びと管弦楽の雄叫び。
(譜例8)
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息つく暇もなく怒濤の第6変奏(譜例9)。主題はばらばらに分解され、Bの部分はハ長調のフォルティシシモ。全曲の頂点に最遠隔調のハ長調をもってくるのはバルトークの「青髭公の城」(1918年)と同様のアイデア。ヒンデミットはこれを聴く機会があったのだろうか?
(譜例9)
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真夜中を告げる鐘の響きとクラリネットのカデンツァ(譜例10)を変奏曲の結尾、陰鬱な尼僧たちの行進(譜例11)からをコーダと見ました。この後、主題とスザンナの拒否、尼僧たちの「悪魔!」の叫び。叩きつけるような変ホ短調の強奏のうちに幕が降ります。
(譜例10)
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(譜例11)
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このような分析でこの音楽の面白さが伝えられるとは思いませんが、祈りと叫びの両極の間を振れる物語に応答して音楽も静寂と狂騒の両極を行きつ戻りつします。オーケストラが爆発するところでは「カルディアック」でも見られた過剰な音の洪水、強迫的性格が見られますが、A-A’-Bの基本形を繰り返すことで自ずと節度ある暴発という趣を見せ、全体としては神秘的抒情的宗教劇の枠組みにかろうじて収まっていると思われます。後に、よりドライで知的な作風にシフトしたヒンデミットはこれら若書きの表現主義的な作品群を封印してしまったらしく、いまだ知名度もなく音源も少ないようですが、ストレートに聴いて面白いのはむしろこの初期の作品群のような気がします。
次回は「ヌシュ=ヌシ」他の併録作品を簡単にコメントする予定です。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2014-08-02 00:15 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ヒンデミット 「聖女スザンナ」他 (その1)

(承前)CMといやあれは昭和の終わり頃だったか、バブル時代の資生堂インウイ「セルジュ・ルタンス」のCMで山口小夜子をモデルに、マーラーの第10番のアダージョが流れていたものがあったが、あれは凄かった。映像も選曲も。あの頃はTVCMが確かに時代の最先端を行っていたと思う。





久々のCD鑑賞記はヒンデミットのレアものの取り合わせ。このブログでは以前彼のオペラ「カルディヤック」を取り上げたことがあるが、今回はさらに珍しい作品ばかりです。

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  歌劇「聖女スザンナ」Op.21
     スザンナ: スーザン・ブロック(Sp)
     クレメンツィア: デッラ・ジョーンズ(Ms)
     老尼僧: アメラル・ガンソン(Ms)
     若い女: マリア・トリーダウェイ(語り)
     作男: マーク・ローリンソン(語り)
  ヌシュ=ヌシの踊り
  トゥッティフェントヒェン組曲
  3つの歌Op.9
     スーザン・ブロック(Sp)

     リーズ・フェスティヴァル合唱団
     ヤン・パスカル・トルトゥリエ指揮BBCフィルハーモニック
     1997年5月7~9日録音
     CD:CHANDOS Chan9620


まずは「聖女スザンナ」から。1919年から21年に掛けて書かれた、いずれも性をテーマとする一幕物のオペラ三部作(「殺人者、女の望み」「ヌシュ=ヌシ」とこの「聖女スザンナ」)については、個人のブログで取り上げたものがいくつか見つかりましたが、基本的に日本語の文献が極めて少ない。「聖女スザンナ」のリブレットはCDのリーフレットによれば、1915年に若くして戦死したアウグスト・シュトラムの戯曲によるものらしいが、この人の戯曲はその表現主義的な作風によってSchreidramen(絶叫演劇?)と呼ばれていたとか。英語の対訳を読むと、イングマール・ベルイマンの陰鬱な映画の脚本を読んでいるような気にさせられます。ココシュカの台本による血なまぐさい「殺人者、女の望み」、かなりお下劣な笑劇「ヌシュ=ヌシ」と抒情的宗教劇の趣をもつ「聖女スザンナ」の取り合わせは、当然のことながら1918年のプッチーニの三部作「外套」「聖女アンジェリカ」「ジャンニ・スキッキ」に触発されたものと思いますが、ヒンデミットのほうは(「殺人者・・・」は聴いたことがありませんが)いずれも性をテーマとするかなり激烈な作風で、作曲者が最も表現主義的であったころの作品。ちなみに1928年クルシェネクも一幕物オペラの三部作「独裁者」「秘密の王国」「ヘビー級、または国家の栄光」を書いているが、こちらは激レア・アイテムにつき私は聴いたことがありません。
さきほど、プッチーニの「聖女アンジェリカ」との対比で抒情的宗教劇と書きましたが、実際には随分とエロティックな物語で、初演の際には教会サイドからの妨害があったとのこと。また時代は少し下るが、のちにヒンデミットがナチスから「退廃芸術」の烙印を押される遠因の一つであったかも知れません。
英語版のwikipediaにもシノプシスが載ってませんので物語を簡単に紹介しておきます。
* * * * *
とある修道院。ニワトコ(注1)の花の匂いがむせかえるような初夏の夜、若い修道女スザンナが祈っていると古参の修道女クレメンツィアがやってくる。その時、窓の外から快楽に喘ぐ若い女の声がする。礼拝堂に入ってきた若い女にスザンナは興味を持つが、すぐに相手の逞しい作男がやってきて女を連れ戻そうとする。スザンナは発作的に彼らに向かって「悪魔!」と叫ぶ。クレメンツィアは30年以上も前のおぞましい出来事を思い出し、スザンナに告げる。それは、今日と同じような夏の夜、ベアータという若い女が突然キリスト像の前で裸になって像に抱きつくという事件が起こり、この瀆神の罪を犯したベアータを尼僧ら皆で生きながらにして礼拝堂の壁に塗り込めたというものであった。それ以来半裸のキリスト像の腰は布で覆われていたのだが、この告白を聞くうちにスザンナも同じ欲望に取り憑かれ、全裸になってキリストの腰布をはぎ取る。突然十字架の上からスザンナの髪に巨大な蜘蛛が落ちてきて、彼女は髪を掻き毟りながら身もだえする。そこに尼僧たちがやってきて、スザンナに懺悔を迫るが、彼女はこれを拒否。一同が「悪魔!」(Satana!)と叫ぶ中、幕が降りる。
* * * * *
いやはやなんとも。さすがフロイトとヒステリーの時代だと思うばかりですが、音楽のほうもかなり無調的。但しシェーンベルクの無調作品、たとえば「期待」(1909年)などと比べると、「無調的」ではあるものの主音の存在によってよく聴くと拡大された調性作品であるということに気付きます。実際、オペラの前奏は嬰ヘ長調の三和音から始まり、終盤のクライマックスは最も遠隔調のハ長調、最後の尼僧の合唱は変ホ短調の三和音の上に展開されていることなど。全体にひそやかな薄い響きで描かれた部分が多いものの、中盤からの変奏曲形式で描かれた部分になると、登場人物の感情の起伏に合わせて時に大オーケストラの激烈な咆哮が現れます。この変奏曲はものすごく緻密に書かれていて、非常に優れた音楽だと思いました。ちなみにオペラにおける変奏曲形式といえば、誰しもベルクの「ヴォツェック」の第1幕第4場の医師と大尉の会話(パッサカリア)、あるいは第3幕第1場のマリーの懺悔(一つの主題によるインヴェンション)を思い出すでしょうが、ヴォツェックの初演は1925年ですから、もしかしたらベルクがこのヒンデミットのオペラから影響を受けた可能性はあると思います。
ところで、ネットを漁っていて見つけた下記の論文にこんな記述がありました。

http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/5740/1/kenkyu0220400890.pdf#search='%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88+%E3%83%8C%E3%82%B7%E3%83%A5%EF%BC%9D%E3%83%8C%E3%82%B7+pdf'

「特に「聖女スザンナ」は、音楽はテキストに導かれるままに流れているように見えて、実は長大な変奏形式をとっており、しかもそれは小節数上、厳密なシンメトリー構造を示しているのであって、決してその場の思いつきや情景描写だけで書かれているわけではない。」
(江藤光紀著『引き裂かれたポートレート : オペラ「画家マチス」のはらむもの』
一橋研究, 22(4): 89-114)
この著作の中では、具体的にどのような小節数上のシンメトリーなのかが記されておらず、「へぇ」と思いながらIMSLPでダウンロードしたヴォーカルスコアを眺めているとどうも納得がいきません。最初の長大なレチタティーヴォは変奏曲の一部とは思えませんし、コーダの小節数を数えてもシンメトリーを成しているようにも思えません。少なくとも「小節数上、厳密なシンメトリー」という言葉は、ベルクの「ルル」の間奏曲や「抒情組曲」の第3楽章のような回文形式にこそ相応しいはず。どうも著者の思い込みで筆が滑ったように感じられるのですが如何でしょうか。
ちなみに少し素人分析をしてみると、こんな構造ではないかと思います。

  前奏曲(変奏曲主題の提示) 1~44小節(44小節)
  レチタティーヴォ 45~105小節(61小節)
  変奏曲
   主題の再提示 106~157小節(52小節)
   第1変奏 158~210小節(53小節)
   第2変奏 211~272小節(62小節)
   第3変奏 273~322小節(50小節)
   第4変奏 323~384小節(62小節)
   第5変奏 385~445小節(61小節)
   第6変奏 446~494小節(49小節)
   カデンツァと変奏曲の結尾 495~521小節(27小節)
  コーダ(尼僧の合唱) 522~603小節(83小節)

ちょっと長くなりそうなので一旦切ります。

(注1)ドイツ語のリブレットにはFlieder、英語対訳にはlilacと書かれている。これをニワトコと訳した理由は以前「ニュルンベルクのマイスタージンガー」について書いた折に言及しているので参照されたし。
http://nekolisten.exblog.jp/17584540/
(この項続く)
by nekomatalistener | 2014-08-01 00:24 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)