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田村響ピアノリサイタルを聴く

大学のサークルの同窓会でのこと。数年前に流れていた「パイプユニッシュ」という排水管の詰まり洗浄剤のテレビCMで、髪の毛やら水垢のつまった汚らしいイメージ映像にラヴェルの「蛾」を被せていたことが許せんかったという話をしたら、二回りも歳の違う後輩君が激しく同意してくれた。そりゃそうでしょ、今思い出しても腹立つ。





田村響のリサイタルを聴きに、高田のほうまで行ってきました。近鉄の大和高田駅からだと徒歩10分ほど。良いホールで良い演奏なのに、大阪からあまりアクセスが良くないのでお客が少ないのが残念。

  2014年7月19日@大和高田さざんかホール・小ホール
  モーツァルト
    ピアノ・ソナタ第10番ハ長調K.330
    ピアノ・ソナタ第11番イ長調K.331
  (休憩)
  ショパン
    ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調《葬送》Op.35
    スケルツォ第2番変ロ短調Op.31
  (アンコール)
  メンデルスゾーン 無言歌集より「甘い思い出」Op.19-1
  ショパン 子犬のワルツOp.64-1
  ショパン 華麗なる大円舞曲Op.18

実は彼のリサイタルを聴こうと思ったのは理由があって、2ヶ月ほど前にある演奏会の打ち上げで知りあいになった方、今はもうリタイアされていますが以前某芸大で楽器を教えていらした方から是非機会があれば聴くように、と言われていたから。その方いわく、昔PTNAのコンクールで、まだ小学生の田村響の演奏を聴いて感銘を受けた、何年生だったのか、体が小さくてペダルに足が届かず、補助ペダルを置いて弾いていた頃だが、「この子は自分の出す音を全部聴いとる!」と心底驚いた、それ以来彼の演奏を注視している、とのことでした。少しでも自分で楽器を触ったことのある人なら誰も知る通り、自分の音を「聴く」というのは本当に難しい。これは単に演奏中に客観的に自分の音を聴くということだけでなく、例えば録音して後で聴いたとしても、自分の音の粗というものが正しく認識できるとは限らないと思います。実際、プロと称していても、自分の音がまったく聴けていない人がいるのも事実。見方をかえると、プロアマ問わず自分で弾きながら自分の音を正しく聴ければ、もうその曲が手の内に入ったも同然、そうでないなら多分その曲は自分のレベルに合っていない、ということだろうと思います。
まぁ、そんな話を聞いてたまたま近くであったリサイタルを聴いた、という訳ですが、確かに音がものすごくきれい。プログラム前半のモーツァルトはピアニッシモからメゾピアノにかけてのグラデーションが実に豊かで音色も多彩。たまに出てくるフォルテは、打鍵の瞬間に余計な力がすっと抜けているので決して荒々しい音にならない。その脱力法は少し変わっていて、例えば連打音やスタッカートの下降音形などでは、右手の肘をやや外側に張って、一音ごとに前腕全体を小刻みに上下させる。また、まるでグランドピアノのダブルアクションのように上肢全体から肩にかけての筋肉が打鍵の瞬間にカクンと僅かに動いて、力を逃がしているようにも見える。その結果、素晴らしく粒のそろった連打やスケール、一切の濁りや力みのない和音が得られるわけだが、一音一音のコントロールとしては有益だとしてもロマン派から近現代のヴィルトゥオジテを扱うのに合理的かどうかはよく判らない。少なくとも今の時点で言えることは、今回のプログラムでも判る通り、自分の美点を活かせる曲を周到に選んでいて、爆演系のピアニストがよく組むようなプログラミングにはおよそ興味がなさそうなことだろうか(過去リストやラフマニノフも弾いているとはいえ)。ペダルについてはダンパーペダル、ソフトペダルとも多用。ダンパーはかなり神経質に細かく踏み替え、また踏み込みの深さも様々。深く短く、また浅く長く、更にはソフトペダルを軽く、あるいは深く踏んで多彩な音色を作っている。これは現代の演奏家たるものピリオド奏法を無視すべきでない、という方や、モーツァルトといえばギーゼキングといったノイエ・ザッハリヒカイト志向のオールドファンには正直受けは悪いだろう。まぁ良くも悪くもピアニストによるピアニストの為の音楽、という感じがするものの、私は大層気に入りました。
誤解のないように附け加えておくと、そのフレージングは自然で持って回ったところがなく、しかも何気ない左手から副旋律がこれみよがしでなく、すっと現われて消えて行く等、よく考えられた演奏であり、美音に淫するあまりフォームが崩れたような演奏ではまったくない。ちょっとした左手の崩し方も節度がある。これは彼がウィーンで学んだこと、それとこれらのソナタは恐らく子供の頃からかれこれ20年も弾いてきたに違いなく、隅々まで完全に自分のものになっていることが大きいと思う。とはいえ、K.331の第2楽章トリオで、左手の低音の進行のちょっとした綻びから連鎖的にコントロールが乱れたことなど、やはり音のコントロールと音楽のコントロールというのは微妙に違うのだろうと思わなくもないが、これは小さな瑕というべきだろう。
後半のショパンも基本的にはモーツァルトとなんら変わる所のない音作り。違うのはショパンのほうが当然のことながらダイナミックレンジが広く、ペダルもより深く踏みこんでいることぐらいなもの。どんなにフォルテ、フォルティッシモの強打でも決して音が割れないのには本当に感心しました。ぺダリングについては、意外に濁る箇所もあるのだが、よく聴いていると、これは左手が激しく動くなかで低音のオルゲルプンクトを延ばすために敢えて響きを切らないのだろうと想い到りました。こういうところでソステヌートペダルを使わないのは音を痩せさせないためなのでしょう。このショパンを聴く限りロマン派に必要なヴォルトゥオジテも十分、ソナタの第1および第2楽章は上記のとおり、彼の特色のよく出ている演奏でしたが、ピアニッシモにこだわるあまり少し音が抜けるのが耳についたのは残念。基本的には穏健な曲作りの為、この2番ソナタに何かデモーニッシュなものを求める向きにはやや物足りないと思われるかも知れません。第3楽章の中間部は小さい瑕はあったが彼のピアニッシモを存分に味わえる好演、フィナーレは敢えて細かい音の動きを出さずに音を溶け合わせるぺダリング、その中から予期せぬ音の連なりが断片のように聞こえてくる非常に個性的な演奏。このフィナーレはもう一度聴いてみたいと思わせます。スケルツォはオーソドックスな解釈でまことに結構。
アンコールのメンデルスゾーン、数ある無言歌のなかでも名曲だと思います。まるでシューマンのようなロマンティックな和声進行。もっと弾かれ、聴かれてもよい作品だと思いますが、これをアンコールに持ってくること自体、自分の音に最も相応しいものはなにかを真剣に考えている証左でしょう。続いて弾かれた二つのワルツ同様、おそらく小学生のころからずっと弾き続けてきたレパートリーだと思います。そういったプログラム・ビルディングは彼の誠実さを示して余りあるものの、新たなレパートリーの開拓という点でどうしても消極的に見えることもあるだろうと思います。今秋の大阪交響楽団の定期ではショスタコーヴィチの2番コンチェルトを弾くそうですから、もしかしたら今回見えなかった新たな側面が見えるのかも知れません。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-07-20 13:08 | 演奏会レビュー | Comments(0)

フォーレのピアノ五重奏曲を聴く

「良識派」の方々からはろくでもないと思われがちな2ちゃんねらーだが、例の号泣県議をたった一言、「47歳児」と言い表す言語感覚ってのは凄いと思う。





久しぶりのブログ更新。京都のカフェ・モンタージュでフォーレの室内楽を聴いてきました。

  2014年7月15日@カフェ・モンタージュ
  フォーレ
    ピアノ五重奏曲第1番ニ短調Op.89
    ピアノ五重奏曲第2番ハ短調Op.115
  (アンコール)
  ショーソン
    ピアノ、ヴァイオリンと弦楽四重奏のためのコンセールより第2楽章(ピアノ五重奏版)

  vn:長原幸太、佐久間聡一
  va:中島悦子
  vc:上森祥平
  pf:大井浩明

大井浩明についてはこのブログでも度々取り上げてきましたが、弦の各奏者はいずれも在阪オケの首席奏者を務めている(もしくは務めていた)方々ということで、私は疎い分野だけれど関西のオーケストラを足繁く聴いてきた人には馴染みの面々なのでしょう。
弦楽四重奏団、もしくはピアノ入りユニットとして長く演奏してきた訳ではないでしょうから、当然のことながらそこには練れた表現というよりは一回性というものを強く感じさせる演奏、ややもすれば茫漠となりがちなフォーレの楽曲を力と若さと技巧でねじ伏せたといった感じがしましたが、概ねそれは成功していたと思います。
私は実のところ、フォーレのピアノ五重奏曲については第2番が圧倒的に傑作であって、第1番のほうはどうも捉えどころがないような気がしていたのですが、今回の張りつめた、やや線のきつい演奏を聴いて、はじめて第1番の素晴らしさを認識し、完全に腹に入ったような気がしました。
今回の第1番を聴きながらもっとも印象深かったことは、各楽章のここぞというところで現れる弦のユニゾン。弱い熾火かと思われた炎がゆっくり静かに白熱していくその頂点で突如ユニゾンになるのは、この1番に限らずフォーレの室内楽のあれこれに共通する特質なのでしょうが、この作品におけるユニゾンほど意義深いものはないのではないか。各奏者の音程の確かさ、その前後の身振りの大きさによって、この特質が強く浮き彫りにされていたように思います。大井浩明のピアノは、第1楽章こそ若干控え目でしたが、つぎのアダージョの、滴るような美音の点綴される中に所々思わぬほどきつい表現の混じるのが不思議とうるさく感じられないのも良かったと思います。また、フィナーレの冒頭の鼻濁音のような音色はまさにフォーレ好みのメゾピアノ。以前、この人がシュトックハウゼンの「自然の持続時間」を弾いた時にも、指回りだけでない音色に関するパレットの多さについて言及しましたが、今回の演奏も大変優れたものであったと思います。

短い休憩を挿んで第2番。この曲の冒頭の、破局めいた何か見えざるものがひたひたと押し迫るようないわく言い難い雰囲気、しかとは判らないがただならぬ気配のようなもの(それに近いものを敢えて他に探せば、ヤナーチェクの「1.X.1905」くらいしか思い浮かばない)、それはやはり弦楽四重奏団として長く演奏してきた人たちの表現に勝るものはないというべきか、今回の演奏では意外にもさらさらと耳を通り過ぎて行ったような感じがします。だが、後半に現れる弦のユニゾンはやはり素晴らしく、胸に迫るものがありました。第2楽章の猛烈なテンポも圧巻ですが、第3楽章の冒頭のヴィオラの旋律に他の弦が濃密にまとわりつくところ、これはフォーレが時間をかけて咀嚼し、完全に自家薬籠中のものとしたトリスタン和音の変形なのだと思わせられました。フィナーレの解放感、作品が良いのか、演奏が良いのか、もはや判別できないほどなのは、やはり良い演奏だったのでしょう。しかしながら、この第2番のフィナーレは単なる精神的な解放感だけでなく、とてつもなく瞑く晦渋なものを秘めているように思われます。その晦渋さは後の弦楽四重奏曲Op.121で頂点に達するものと思いますが、私はいまだにこれらの音楽がよく判っていないと言わざるを得ません。

アンコールはショーソンのコンセールを大井さん曰く「むりやりこの編成にした(笑)」ものだとか。フォーレの大曲のあとにアンコールは無くもがなという気もしましたが、この大して霊感に満ちているようにも思えないのに、不思議と熱量が高く途中から急激に発熱するような小品がなかなかしっくり来たのは事実。いろいろ考えた末の選曲なのでしょう。

最後に少し脱線。先日来、『ピアニストが語る!現代の世界的ピアニストたちとの対話』(焦元溥著、森岡葉訳、アルファベータ刊)という本を読んでいるのだが、この中で少し引っかかっていることばがあります。ドミトリー・バシキーロフというグルジャ生まれのピアニストがインタビューの中でフォーレについて語っていることば、
「・・・でも、私はフォーレを弾きません。私に言わせると、フォーレは二流の作曲家だからです。彼の作品には欠陥が多く、ドビュッシーやラヴェルとは比べものになりません。」・・・どうでしょうね。確かに、残された作品のすべてがあまりにも完璧で、そこに人間的な成長とか円熟といったものが容易には読みとれないラヴェルや、ラヴェルと比べると若干作品の完成度にムラがあるものの、「12のエチュード」や「遊戯」のような天才的な作品が突然変異的に時折現れるドビュッシーと比べると、フォーレの場合実に人間的というか、前期よりは中期、中期よりは後期と成長の跡が良くも悪くもはっきりと判る作風ではあるでしょう。しかし、少なくとも私には後期の(第9番以降の)「夜想曲」とか件の五重奏第2番、あるいはピアノ三重奏曲Op.120といった作品はどう考えても「二流」とは思えません。バシキーロフのいう「欠陥」が何を指しているのか、あるいはフォーレの作風にロシアとその周辺の人には理解しがたい何かがあるのか、とても気になっています。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-07-16 23:20 | 演奏会レビュー | Comments(0)