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日記みたいなもの~その8

「秀吉の毛利攻め」というのがやっぱり「毛剃攻め」に空目してしまう。





ブラームス「51の練習曲」シリーズ、前回No.1a&1bを取り上げてから随分日が経ちました。次のNo.1cと1d(Durand版ではNo.12c/d)、これが難しいのなんのって。
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原典には指使いが書かれてませんので全音版の底本と思われる1928年Durand&Cie社版のほうを掲げておきますが、各小節の最初の4音、左右とも5-4-3-2の指(No.1dのほうは1-2-3-4)でアルペジオを弾くところが非常に困難。日本人の手の大きさでここをレガートで弾くのはまず不可能。最初はゆっくりスタッカートで、慣れてきたらすこしテンポを上げてノン・スタッカートで弾いてみます。なかなかテンポを上げることが出来ませんが、かと言ってあんまりゆっくりだと2拍目3拍目の左右のリズムが異なるスケールがばらばらになって、これまた演奏至難。
なんとなくNo.1cであれば後半よりも前半、No.1dなら逆に前半より後半のようが若干弾き易いように思われるのは、左手の5連符の有無によるものでしょう。左手5連符を右手4連符に合わせるというのは人間の生理にどこか反するのかも知れません。これ、逆の人がいたら面白いですね。右脳/左脳とか男脳/女脳みたいな違いで個人差があるように思います。
No.1a&1b同様、左右の親指で黒鍵を弾くことで、黒鍵の間を指が縫うように打鍵していく独特の指捌きが必要になってきます。これをじっくりと練習すればおのずと指の独立性と自在性を習得できる(はず)。
by nekomatalistener | 2014-03-29 22:50 | その他 | Comments(0)

コルンゴルト 「死の都」 びわ湖ホール公演

【やっぱこっち~】
①コロプラ社のスマホゲーム「軍勢RPG蒼の三国志」のTVCMで、気まぐれ軍師たんが呟き兵士たちが復唱して叫ぶことば。
②ゴーチ&ガッキーネタに飽きてきたマスコミが最近雲行きのおかしい小●方さんのほうを見て叫ぶことば。参照→祭り。炎上。





びわ湖ホールでオペラ鑑賞。アクセスは悪いが、劇場内のラウンジから望む冬枯れの湖畔の景色はなかなか素晴らしくて、関西の文化的地盤沈下ぶりを嘆いていたのが少し癒された思いがします。

   2014年3月9日びわ湖ホール
   パウル:  山本康寛
   マリー/マリエッタ: 飯田みち代
   フランク: 黒田 博
   ブリギッタ: 池田香織
   ユリエッテ: 中嶋康子
   ルシエンヌ: 小林久美子
   ガストン: 羽山晃生
   フリッツ: 晴 雅彦
   ヴィクトリン: 二塚直紀
   アルベルト伯爵: 与儀 巧
   指揮: 沼尻竜典
   演出: 栗山昌良
   管弦楽: 京都市交響楽団
   合唱: びわ湖ホール声楽アンサンブル
   児童合唱: 大津児童合唱団


今回の公演、いろいろと残念な点は多々あれど、これだけ充実した舞台がたった2日の公演でおしまいとは、なんとも勿体無い話。しかし、日曜のマチネでもかなりの空席が目立つのではそもそも興業として成り立たないのだろう。過去のびわ湖ホールがプロデュースしてきたオペラのラインナップを眺めていると、本当によく頑張っていると思う(だって、東京ですらツェムリンスキーやベルクのオペラをそうそう観ることはできません)けれども、なんといっても関東に比べて集客力がないのは如何ともしがたい。今後このレベルの公演がいつまで続くのか、若干暗澹たる気分にならざるを得ないですが、頑張ってほしいものです。
充実した舞台、と書きましたが、内容を個々に見ていくと問題も多く、結果として満足というにはかなり物足らない舞台ではありました。マリエッタ&マリーの亡霊を歌った飯田みち代は肌理の細かい美声で、劇的であるよりは抒情的、グラマラスであるよりは知性の勝った歌い方。そのおかげで第1幕は理想的なマリエッタかと思いましたが、第2幕以降になると、その表現の知性と上品さが災いするのか、どうにも物足らなくなります。以前からこの歌手をよくご存じの方に聴くと、数年前の「ルル」のタイトルロールは素晴らしかったそうですが、同じファムファタール系の役柄でもルルとは違い、マリエッタ自体にはあまり奥行がなく、単に素性の悪い女という感じがします(その点、ルルはたとえ素性が悪くとも、娼婦に身をやつしても、最後まで天使みたいなところのある役柄)。このマリエッタを皮相的にならずに歌うには一定の下品さがほしいところ。同じ歌手がマリエッタの下品さとマリーの亡霊の品格のある悲しみの両方を歌わなければならないところがこの役の難しいところだと思いますが、飯田の歌唱はマリーと、まだ猫を被っている第1幕のマリエッタには相応しくとも、本性をあらわにしたマリエッタには不向きと言わざるを得ません。このあたり、彼女のパレットの狭さなのか、たまたま今回の役と少し合わなかったせいなのか、私は初めて聴いたのでなんとも判りかねますが、私の周りには彼女のファンがけっこういますので今後に期待してフォローしてみたいと思います。
パウルを歌った山本康寛についても、これだけの難役をよく歌い切ったと思う反面、あまりにも余裕がなくて聴いていてちょっと辛いと思いました。フォルテで音程が上がる癖も、ここぞというところでたまになら効果的でもあるのでしょうが、のべつ幕なしでは却って平板に聞こえてしまいます。神経質なビブラートはビジュアルも含めた全体の役作りに合わなくもありませんが、コルンゴルトの甘い音楽にはわずかにそぐわなさを感じるのも事実。このテノール殺しみたいな難役に果敢に取り組んだ歌手に対してこんなことはあまり書きたくはないのですが、自分自身の備忘のために感じたことを正直に書いた次第。
脇役では侍女ブリギッタを歌った池田香織が情感に溢れていて非常に優れていたと思います。この人は以前、カヴァレリア・ルスティカーナのルチアを歌っているのを聴いたことがあります。その時はあまり印象になかったのですが今回のブリギッタは素晴らしい歌唱。前から私が目をつけている清水華澄もそうだが、メゾで才能のある歌手というのは派手に人目を惹かないだけに追っかけ甲斐がありますね。フランク役の黒田博も声量があり、役に必要な暖かさもあって大変結構。フリッツ役の晴雅彦はちょっと私には合わない。ピエロの歌は全編の中でも聴きどころの一つなのでもっと甘く、人を誑し込むように歌えないものか。
その他、バレエの一座のアンサンブルと合唱は十分な水準を保っていて文句なし。
沼尻の指揮は、第1幕の「マリエッタの歌」やパウルの幕切れの歌で意外にサクサク進んでいくので何か物足りない。もっと情緒纏綿というか、蜜がゆっくり滴り落ちるような演奏で聴きたいと思いました。その点、以前この人の指揮で「トスカ」を聴いたとき感じた不満を今回も感じました。その他の部分は精密さもあり、マッスとしての音圧も十分あって大変なクオリティだと思いますが、第2幕4場と第3幕2場の、パウルとマリエッタの対決でやや冗漫さを感じさせたのがちょっと不思議。何が足りないのかうまく言葉にできませんが、指揮者の所為というよりは歌手やオケの団員も含めた皆の、様式への距離感のようなものとしか言いようがありません。余談だが、第2幕のマイアベーア「悪魔のロベール」の引用がなぜかカット。その他はほぼカットなし(だと思う。私の聴いていたヴァイグレ指揮のCDでカットされていた部分がほとんどすべて再現されていた)なのになぜここだけカット?何か理由があるんだろうがそれを知る手立てはあるのだろうか?
栗山昌良の演出の狙いとするところについては正直なところ私にはよく判りませんでした。何と言って読み替えの要素はないものの、わずかな例外を除いて歌手が正面を向いて直立して歌う。演出家の御歳から想像するに、60年代のヌーヴェルヴァーグの映画のような、例えばミケランジェロ・アントニオーニの描く「愛の不毛」とかいったもの、あるいはアラン・ロブ=グリエとアラン・レネの「去年マリエンバードで」のようなコミュニケーションの不在を連想しましたがどうでしょうか。ただ、申し訳ないが私は愛の不毛でもなんでもいいが、このオペラでそういったものを描くのってどうなのだろうと違和感を持ちます。それは単に、このオペラが舞台形式では日本初演、大半の聴衆にとって馴染の薄い作品、ということではなくて、ありていにいえばそんな凝った読み解きが必要なご大層なオペラじゃないと思うから。以前も書いたとおり、ローデンバックの原作の上辺だけを骨格に作曲者のパパが書いたくだらない夢落ちの物語に、23歳の息子が器用にR.シュトラウスの「影のない女」とカールマン風オペレッタをつなぎ合わせた基本甘ったるい音楽ですよ。聴衆としては第1幕の「マリエッタの歌」と最後のパウルのモノローグで泣かせてくれたらそれで十分だと思う。それ以上の深読みは要らないんだがなぁ。ただ、この演出、舞台のそこここからよく考えられ、練り上げられたものだけがもつ重みが伝わるので、決して思い付きのレベルではないのだと思います。軽々に否定的な物言いを憚られることは書き添えておきたいと思います。
私自身のこの作品に対するアンビヴァレントな見方のせいもあって、あれこれ批判的なことを書きましたが、関西でこれだけの舞台を観ることができるのはありがたく素晴らしいことです。実際、パウルが歌い終わってからの後奏の素晴らしさには胸を締め付けられる思いがしました。わずか11小節の間にパウルが後ろ髪を引かれる思いで舞台を去り、侍女ブリギッタが舞台に置かれていた燭台を手に取ってしずしずと退く演出も秀逸。もうこの場面を観て聴いただけで十分ではないか、とも思います。今シーズン、新国立劇場もこのオペラを取り上げているが、このあと日本でこのオペラを聴く機会はそうそうあるまい。次に聴くときにはもっと演奏者がこの音楽の様式を知悉し、こなれた演出で上演されることだろう、その時を楽しみに待ちたいと思います。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-03-10 22:22 | 演奏会レビュー | Comments(4)

コルンゴルトの映画音楽を聴く

タケノコのアクの元はホモゲンチジン酸(ほもげんちじんさん)。





アメリカへ亡命した映画音楽家としてのKorngoldをコルンゴルトとするか、コーンゴールドとするか難しいところです。ウェブ検索で訪問されるクラシック音楽好きの方の便宜を図るなら断然コルンゴルトで表記すべきでしょうが、映画音楽家としての情報をウェブで探すにはコーンゴールドで検索したほうが多くの情報が引っかかるような気がします。ちなみに今回取り上げるCDの指揮者も、慣習にならってチャールズ・ゲルハルトと表記しましたが、本来ならガーハートとでもすべきでしょう。
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  THE SEA HAWK
  「シーホーク」より 「メイン・タイトル」「再会」「フィナーレ」
  「人間の絆」より 「ノラのテーマ」
  「ロビンフッドの冒険」より 「愉快な男達の行進」「戦闘」
  「革命児フアレス」より 「愛のテーマ」
  「嵐の青春」より 「メイン・タイトル」
  「永遠の処女」より 「明日に」
  「海賊ブラッド」より 「序曲」
  「風雲児アドヴァース」より 「父母もなく、名もなく」
  「霧の中の戦慄」より 「メイン・タイトル」「母と息子」
  「愛憎の曲」より 「メイン・タイトル」
  「まごころ」より 「エミリー・ブロンテの死」
  「嘆きのプレリュード」より 「メイン・タイトル」「ヴェニス」「マーチ」「愛の場面」「フィナーレ」

  チャールズ・ゲルハルト指揮ナショナル・フィルハーモニック管弦楽団
  録音年不詳、原盤は1972年リリース
  CD:RCA88697 77932 2
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  ELIZABETH AND ESSEX
  「女王エリザベス」より 「序曲」
  「放浪の王子」より 「メイン・タイトル」「男達は遊びに行く」「エピローグ」
  「風雲児アドヴァース」より 「森のなかで」
  「海の狼」より 「メイン・タイトル」「霧を逃れて」「愛の場面」「フィナーレ」
  「愛憎の曲」より 「チェロ協奏曲ハ長調Op.37」
  「砂漠の朝」より 「夜の情景」
  「人間の絆」より 「メイン・テーマ」「クリスマス」「小旅行」「子守唄」「フィナーレ」

  チャールズ・ゲルハルト指揮ナショナル・フィルハーモニック管弦楽団
  1972年2月1-3日録音
  CD:RCA88697 81266 2


先日、コルンゴルトの「死の都」についてあれこれと思うところを書きました。私としては悪口を書いたつもりはまったくありませんが、コルンゴルトが好きでたまらない人の反感は間違いなく買うことになるでしょう。しかしながら自分の中の「死の都」という音楽に対するアンビヴァレンツについて実直に記そうとすると、あのように書かざるを得ないのでした。
それにしても23歳の時のオペラでコルンゴルトという人を「こんな人」と決めつけるのも乱暴な話。壮年期のあれこれを聴きたいと思っておりました。Wikipediaに「(1970年代)二男のジョージ・コーンゴールドがプロデュースした、チャールズ・ゲルハルト指揮、ナショナル・フィルハーモニック管弦楽団演奏による映画音楽集のレコードが爆発的な売れ行きを示した頃から、コルンゴルトの音楽の再評価が始まる。」と書かれていて興味を惹かれ、これらのCDを聴きました。実に素晴らしい。ここにはおそらくコルンゴルトという人の最良の資質が顕れているのではないかと思います。そして、この中のいくつかの旋律が、後の「ヴァイオリン協奏曲」に取り込まれていることは周知のとおりです。
ちなみにこれらのディスク、RCAの”The Classic Film Scores”というシリーズのものですが、各々の映画の為に書かれたナンバーからさわりの部分を収録したもの。当然本来の音楽はそれ以外にもたくさんのスコアが書かれたに違いありません。その一部は全曲盤もあるようだが(たとえば「ロビンフッドの冒険」とか)、コルンゴルトの映画音楽の業績をざっと見渡すには今回のCDで十分すぎるくらいでしょう。
あれこれネット情報を漁っていると、どうもコルンゴルト自身は、映画の仕事は食っていくためのものであり、不本意ながら書いていたように書かれています。いつかはオペラやシンフォニーの世界に戻りたいと思いながら、戦後オーストリアに一旦戻ったものの楽壇から黙殺され、失意のうちにアメリカで没したとあります(例えば次のブログ)
http://www1.tcat.ne.jp/eden/FC/Korngold.htm
それはその通りかもしれません。しかし、たとえ食うための仕事であっても最高のクオリティで仕上げられたプロフェッショナルの仕事を、私は正当に評価したいと思います。そもそもプロの音楽家ならば、意に染まない仕事であっても最高のものを作るのは当たり前、というのが本来の姿でしょうね(ハイドンだってモーツァルトだってそうだ)。ただ、コルンゴルトの場合、無調的なイディオムにはどうやら全く関心がなかったことから、ハリウッド映画の音楽というのは(本人がどう言おうと)実は本人の資質にもっとも適合しており、内心では嬉々として作曲に取り組んでいたのではないか、という気がします。それと、前回私がコルンゴルトについて書いた「自己愛」の問題だが、この確固たるプロの仕事にはその自己愛の臭いというものが微塵も感じられないところが非常に興味深いと思います。推測ですが、自発的に内側から溢れ出るものを作品化するよりも、お仕事として(それも芸術というよりは大衆の為のエンタテインメントとして)フォーマットをあてがわれたが故に、却って「大人の」音楽を書けたのでは、という気がしました。

ひとつひとつの作品についてのコメントは止めておきますが、本当なら一曲一曲舌なめずりしながら聴きどころをお伝えしたいぐらいです。いや、やはり一曲だけコメントしておきます。「嵐の青春」”Kings Row"のメイン・タイトルですが、初めて聞いたとき、あっ、と思いました。あの「スター・ウォーズ」のテーマにそっくりです。もちろんパクリではなくてオマージュ。ジョン・ウィリアムズという稀代の映画音楽家がいかにコルンゴルトから多くを学び、コルンゴルトを尊敬していたか、聴いた瞬間に理解できました。
ゲルハルト(ガーハート)指揮のナショナル・フィルの演奏も素晴らしい。こういうエンタテインメントで決して手を抜かない職人としての心意気すら感じます。往年のハリウッドというのはこういった職人たちに支えられていた訳ですが、映画音楽という面では、この大戦前後に一気に完成の域に達せられたという風に思われます。

おまけで映画の原題と邦題を並べておきます(ALLCINEMAというデータベースで「コーンゴールド」で検索すると簡単に各々の映画のキャスト・スタッフ情報が引っ張り出せてとても便利)。

http://www.allcinema.net/prog/show_p.php?num_p=446&ct=

The Sea Hawk 「シーホーク」 マイケル・カーティス監督(1940)

Of Human Bondage 「人間の絆」 エドマンド・グールディング監督(1946)

The Adventures of Robin Hood 「ロビンフッドの冒険」 マイケル・カーティス&ウィリアム・キーリー監督(1938)

Juarez 「革命児フアレス」 ウィリアム・ディターレ監督(1939)

Kings Row 「嵐の青春」 サム・ウッド監督(1942)

The Constant Nymph 「永遠の処女」 エドマンド・グールディング監督(1943)

Captain Blood 「海賊ブラッド」 マイケル・カーティス監督(1935)

Anthony Adverse 「風雲児アドヴァース」 マーヴィン・ルロイ監督(1936)

Between Two Worlds 「霧の中の戦慄」 エドワード・A・ブラット監督(1944)

Deception 「愛憎の曲」 アーヴィング・ラパー監督(1946)

Devotion 「まごころ」 カーティス・バーンハート監督(1946)

Escape Me Never 「嘆きのプレリュード」 ピーター・ゴッドフリー監督(1947)

The Private Lives of Elizabeth and Essex 「女王エリザベス」 マイケル・カーティス監督(1939)

The Prince and the Pauper 「放浪の王子」 ウィリアム・キーリー監督(1937)

The Sea Wolf 「海の狼」 マイケル・カーティス監督(1941)

Another Dawn 「砂漠の朝」 ウィリアム・ディターレ監督(1937)

(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-03-07 19:15 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ピアノによるマーラー交響曲集を聴く

2chまとめサイトで、「今週のコナンで毛利のおっちゃんがヤバイ」というのを「毛剃のおっちゃん」と空目。そりゃたしかにヤバイ。





日曜の昼下がり、法貴彩子と大井浩明のジョイント・リサイタルに行ってきました。法貴さんについては昨年の11月にも本ブログで取り上げましたが、何ともあっぱれな雑食ぶり。いや、肉食と言ったほうがいいか、あるいはゲテモノ食いなのか(いずれも褒め言葉)。


   2014年3月2日 芦屋山村サロン
   マーラー 交響曲第4番ト長調
    (ヨゼフ・フェナンティウス・フォン・ヴェス(1863-1943)によるピアノ連弾版)
     *
   (休憩)
     *
   マーラー 交響曲第6番イ短調《悲劇的》
    (アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー(1871-1942)によるピアノ連弾版)
     *
   (アンコール)
   ショスタコーヴィチ 交響曲第5番からフィナーレ(L.アトフミアン編曲)
   大野雄二 ルパン三世のテーマ’79(神内敏之編曲)


通常のリサイタルで、このようなオーケストラ曲のピアノ・リダクションが演奏されることは極めて珍しいことだろうと思います。日本語にするとarrangementもtranscriptionもreductionも、みんな「編曲」になってしまいますが、今回のプログラムはまぎれもなくreductionに該当します。その原義は、(オーケストラ曲をピアノ・ソロあるいは4手連弾で弾けるように)音を間引いて少なくする、ということですから、そこにはどうしても「学習用」「間に合わせ」「代用品」といったマイナスイメージが付きまといます。実際、このリサイタルを聴きに来た人は余程の物好きだとは思うけれど、耳にしたのは極めて刺激的な面白い音楽でした。
気づいたことはたくさんありますが、まずマーラーの交響曲から、その大規模なオーケストラによる迫力とか、精緻なオーケストレーションによる華麗な音色といった魅力を捨て去ってもなお音楽として魅力あるものであった、という発見が何より大きいと思います。マーラーが第4交響曲で描こうとしたモーツァルト的世界、あるいは第6番におけるユーゲントシュティルの追及といった要素は、オーケストラで聴くよりリダクションのほうが寧ろ鮮明に聞こえるくらい。特に第6番の第1楽章の展開部で、原曲ではカウベルがごろんごろん鳴るところとか、フィナーレのハンマーの一撃に至る展開とかが如何に天才的かつ異常な音楽かということがありありと判りました。
4番と6番の聴き比べということに関しては、一聴した限りでは断然6番のほうが面白いと思いました。ただ、それが編曲者の違いによるものか、原作自体に起因するものか、あるいは演奏者の問題なのかは俄かに判断がつきません。編曲者の力量については、作曲もしていたとはいうものの一介の楽譜編集者であるヴェスと、作曲家としてそれなりの人であるツェムリンスキーでは格差は歴然としていそうだが、耳で聴いた感じとしてはそれほど明確な差があるとも思えません。4番のほうが演奏者二人の手が頻繁にぶつかって弾きにくそうな感じはしましたが、一般的な意味で言えば6番の方が技巧的には難しいだろう。結局は演奏者二人が、6番のほうがノリが良かった、ということだろうか。
会場で配られたチラシには、こういったリダクションの存在意義について、録音メディアが無かった初演当時、鑑賞用・普及用・学究用として使われた云々と書かれていますが、それってどうだろうか。連弾とはいえ、その演奏の難しさはハウスムジークの域を遥かに超えていると思われるので、これはあくまでもプロあるいはプロを目指す作曲家や指揮者のためのものだという気がします。ピアノ・リダクションにおけるハウスムジークからプロの為の研究ツールへの変遷について、詳細に歴史を紐解けば実に面白いテーマになりそうだが、それはともかく、このマーラーのリダクションに用いられているピアノ技巧というものが、従来の19世紀ロマン派的なそれとはかなり相貌を異にしていて、それがそのままマックス・レーガーの複雑極まりないピアノ書法に通じているように思われました。実際、レーガーのあの書法というのは、19世紀末から20世紀初頭に出版された、一連の複雑なピアノ・リダクションの学習と切り離せないのではないか。あるいはR.シュトラウス、シェーンベルク、ベルク、ツェムリンスキー等々、20世紀前半を飾るオーケストラの大家達の作風、書法すべて、このマーラーの交響曲のリダクションとその学習の成果といっても過言ではないのではないか、というのが今回得た仮説。そして、それを遡れば、19世紀後半に出版されたタウジッヒのような大ピアニストによるワーグナーのボーカルスコアが、それまでの「オペラ練習用のピアノ伴奏」とはレベルの違うものとして書かれていることに思い至りますし、その起源というのはおそらくリストによるベートーヴェンやベルリオーズの交響曲のリダクションに違いなかろう、と思います。オペラの裏方におけるコレペティトゥールの専門職化なんかとも関係がありそうな事象ですね。
ちょっと脱線しますが、ピアノ技巧というものが、ピアノそれ自体の制約の中でリストが開拓したものを超えて発展していく可能性は低かったのではないかと思います。基本的にピアノで物を考えるのではなく、直接オーケストラのスコアに音楽を書きつけることの出来た人の作品をreduceすることで、ピアノという楽器は既存の技巧になかったイディオムを発見し、さらに発展してきたのではないか。それはたとえばリストがベートーヴェンやベルリオーズのリダクションから得た書法であり、このマーラーのリダクションを通じてレーガーに至るイディオムもそのような一つであったように思います。
もう一つ脱線。ネットで拾ったコメントに、これらのリダクションとシェーンベルクらのいわゆる「私的演奏協会」との関わりについて示唆するものがありました。確かに新ウィーン楽派の人たちが自分たちの実質的な師であったマーラーの音楽を連弾で弾いて学ぶという機会は多かったに違いありませんが、私的演奏協会の旗揚げが1918年、ヴェス版の出版年は判りませんでしたが、ツェムリンスキー版の出版は1906年。直接的関連を云々するのは少し無理がありそうです。
脱線が尽きませんが(笑)、マーラーの演奏については大井氏がプリモで法貴氏がセコンド。ペダルは大井氏担当、ということで明らかに彼の意向が表にでた演奏。4番ではアンサンブルにいくぶん危なっかしいところもあり、この交響曲独特のカンティレーナの表現という点でも若干問題はありましたが、後半の6番は文句なしの凄演。80分に及ぶ演奏が全く弛緩することなく、あっという間に終わったという印象。フィナーレの大ハンマーを振り下ろす個所は是非とも大井君の足ドン!が見たかったなぁ・・・。
アンコールがあるというだけでも驚きだが、一曲目はショスタコーヴィチの5番のフィナーレ。大井氏はショスタコ嫌いだと思ってましたので、これはリダクション版でマーラーの劣化コピーぶりを満天下に晒そうという悪意の籠った所業だろうかと思いきや、意外に4手連弾の身もふたもない響きが曲想に合っていて、まるで元から連弾用に書かれていたみたいに聞こえる。ちなみにアンコールは法貴氏がプリモに回り、彼女の意志の強さみたいなものがビシビシと伝わってくるのも痛快。会場でお会いしたショスタコーヴィチ・フリークのK氏にだれの編曲か訊きましたが、どうもショスタコ本人の作ではない、ということ以外その時点では判りませんでした。つい先程、大井氏ご本人のツイッターに編曲者の名前が出てましたから上記で間違いないと思います。
そして最後に大井氏の「70年代の現代曲をやります」との前口上があって始まったのが超絶技巧版ルパン三世のテーマ。これ実際に聴かなければ想像もつかないでしょうが、腰抜かしそうな名編曲の名演でした。もうやんややんやの大拍手。法貴さんもノリノリ。いや~楽しかったです。
by nekomatalistener | 2014-03-03 23:01 | 演奏会レビュー | Comments(3)