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コルンゴルト 「死の都」 ヴァイグレ指揮フランクフルト歌劇場o.(その2)

「ポン・デ・ライオンは昼は寡黙でおとなしいが、夜になると「ポン!」「ポポポン!」「ポポポポ~ン!」などと絶叫する。特に繁殖期は一晩中ずっと絶叫している」(アンサイクロペディアより)。
知らんかったわ。




「死の都」予習の続きです。
もう少し詳細を見ていく前にこのオペラが初演された1920年頃の音楽状況をざっと見ておくと、この頃の独墺音楽の親玉みたいなR.シュトラウスは1916年「ナクソスのアリアドネ」改訂版、1917年に「影のない女」を初演、この二つのオペラが「死の都」にも色濃く影響を与えているのは一目瞭然。シュトラウスより少し弟格のツェムリンスキーはこの頃、「フィレンツェの悲劇」(1915-16)「こびと」(1919-20)「抒情交響曲」(1922)を作曲、同じくシュレーカーは「烙印を押された人々」(1918)「宝探し」(1920)と創作の絶頂期。このいわばR.シュトラウス・ファミリーのような人々はいずれも充実した時代だったようです。そのシュトラウス・ファミリーと近いところにいた新ウィーン楽派はどうか。シュトラウスより10歳ほど年少のシェーンベルクはこの頃、無調から十二音技法への過渡期で苦しんでいたころ。1921年から翌年にかけて「ピアノ組曲Op25」が書かれていますが全般的に作品も少ない時期にあたります。弟子のウェーベルンも作品14あるいは15の歌曲集で師匠の模索をなぞっています。もう一人の弟子ベルクはちょうど「ヴォツェック」を書いている頃で、こちらは実際には創作の絶頂期なのだが傍目には雌伏の時であったのでしょう。もう少し軟派な音楽では、カールマンがこの頃ウィーンで大当たりをとっています(「チャルダーシュの女王」(1915)「伯爵令嬢マリツァ」(1924))。レハールも「パガニーニ」(1925)などをウィーンで発表。こうしてみると1920年の前後というのは後期ロマン派の絶頂期であるとともに現代に続く音楽の胎動期という時代であったことが判ります。
こうして同時代の音楽をざっと見渡してみると、「死の都」にはR.シュトラウスの露骨な影響はあっても、新ウィーン楽派の影響は殆ど見られないこと、そして「影のない女」風の生地にオペレッタ風の甘く、人の心を蕩けさせる音楽が器用に継ぎはぎされていることの必然性のようなものが何となく理解できます。それにしても、以前にツェムリンスキーの「フィレンツェの悲劇」について書いた時にも触れましたが、R.シュトラウスの「影のない女」の同時代人への影響というのは絶大であり、一見したところより無調的な「エレクトラ」なんかは系統樹でいうなら途中で途切れた枝であって、現代まで細く長く影響を伝えているのは「影のない女」のほうなのだろうという思いに駆られます。新ウィーン楽派との関係については、「死の都」を聴く限りさほど影響が見えません。全音音階や増三度の積み重ねによって調性がぼかされているところが随所に出てくるものの、実際のところは無調とは何の関係もないとみたほうが正しいと思います。一方オペレッタの影響は、有名な「マリエッタの歌」と「ピエロの歌」に顕著。「マリエッタの歌」(譜例1)を耳で聞いているとその蕩けるような甘さに陶然としてしまいますが、スコアを見るとけっこうはげしく拍子が変わっていて驚きます。プッチーニばりのテヌートやフェルマータをデフォルメしつつ律儀に楽譜にした結果のようにも見えますが、どう書けば観客聴衆が泣くかを熟知しているような、この一種の職人技=劇場的センスというのは素晴らしいと思います。
(譜例1)
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もうひとつの「ピエロの歌」(譜例2)のほうは伝統的な3拍子で書かれていて、これも「ばらの騎士」のオックス男爵のワルツと同じくオペレッタへのオマージュだと思います。こういった音楽はいずれも今現在から振り返ってみると、滅びつつある古き良き文化への惜別の歌と聞こえ、ここ数年の驚くべきリバイバルの一つの理由となっているに違いありません。
(譜例2)
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こういった部分部分、過去への郷愁を誘う甘い音楽については、これがオペレッタであったならば若書きにも関わらず完璧なプロの仕事であるという評価になるだろうと思います。しかし、オペラとして全体を聴いた印象は、極めて精緻に書かれたR.シュトラウス風継ぎはぎによるミニチュア、一種の聴覚ジオラマといった様相を呈しています。お気に入りのおもちゃを並べて見せられているという感じ。マイアベーアの「悪魔のロベール」の引用(リストが引用した旋律ではなくて死んだ破戒尼僧達の招魂の場というのもスノッブな感じ)もそのおもちゃの一つなのでしょう。前回の投稿で私は自己愛の垂れ流しという表現でこの音楽を批判的に書いたけれども、他者の圧倒的な影響からの脱却は、より大きな世界との関わりのなかで自己愛を克服し、社会的な自己を確立していくという過程なしにはありえないのだろう。こんな記述で前回うまく言語化できなかった自己愛というものを記述できたとは到底思いませんが、私が考えていたことを漠然とでもお伝えできればと思います。
たぶん私のコルンゴルト評というのは不当に辛すぎるのでしょう。もし必要があって私がチャイコフスキー評を書けば同様に辛口になるかも知れません。まぁ彼らの音楽がお好きな方は読み飛ばしていただくのがよろしいかと存じます。

取り上げた音源の感想ですが、パウル役のフォークトはミスキャストなんじゃないだろうか。パウルは原作でもオペラでも年齢不詳だが、妻の死後、住み慣れた町をすててブルージュに移り住み、男やもめが長くなった、どこかやさぐれた感じのする中年といった役どころ。これをフォークトが歌うと、なんだか子供がぶかぶかの背広を着てチョビ髭を張り付けたみたいで、失笑しないまでも落ち着かないこと甚だしい。それに、ここでのフォークトは声質はともかく、その表現がのっぺりしていて極めて皮相的なものに感じられます。高い声のテノールとして貴重な歌手だが、得意な役柄というのは非常に狭い歌手かもしれません。
マリエッタ役のパヴロフスカヤはすぐれたドラマティック・ソプラノだと思いますが、ところどころ吼えるようなところがあって少し耳につきます。「マリエッタの歌」を蕩けるような甘さで歌ったと思えば、蓮っ葉な表現も必要、なにより演劇的な表現力の必要な難しい役だとおもいますが、もう少し若さがあれば良かったのに、と思いました。
この録音で最も存在感のあるのは友人フランクとピエロのフリッツの二役を歌うミヒャエル・ナジ。美声のバリトンで、この役にはぴったり。家政婦ブリギッタやバレエの踊り子などその他大勢も不満なし。ヴァイグレの指揮、フランクフルトのオケについても手堅くそつなく、という以上のものではないかも知れませんが、曲を知るという意味では全く問題ないと思います。
蛇足ながら、OEHMSレーベルの常で、立派なブックレットが添付されているのにリブレットはドイツ語のみという不親切さ。新国立劇場に申し込むと送料込僅か700円ほどで対訳を送ってくれたので助かりました。
by nekomatalistener | 2014-02-26 23:11 | CD・DVD試聴記 | Comments(2)

ヴェルディ 「ドン・カルロ」 二期会公演

アンサイクロペディアで「ポン・デ・ライオン」引いたらこんなん載っとった。
「淡路島 ポン・デ・ライオンなく声に 幾夜ねざめぬ 須磨の関守」
(ってか何でそんな単語を検索したのか、という声)




二期会の「ドン・カルロ」を観てきました。


   2014年2月23日 東京文化会館大ホール
   フィリッポ2世: ジョン・ハオ
   ドン・カルロ: 山本耕平
   ロドリーゴ: 上江隼人
   大審問官: 加藤宏隆
   エリザベッタ: 横山恵子
   エボリ公女: 清水華澄
   テバルド: 青木エマ
   修道士: 倉元晋児
   レルマ伯爵: 木下紀章
   天よりの声: 全詠玉

   指揮: ガブリエーレ・フェッロ
   演出: デイヴィッド・マクヴィカー
   合唱: 二期会合唱団
   管弦楽: 東京都交響楽団


今回の感想を手短に言えば、「歌手すごい、指揮とオケ残念」というところか。私は、とにかく清水華澄のエボリ公女を聴きたくて今回の公演を聴いたようなものなので、その点はとても満足。しかし、総合的にみて色々と問題のある公演だったと思います。
総じて歌手の出来については出色の舞台であったと思います。清水華澄についてはこれまでも何度か取り上げてきましたが、一番最初に聞いたドヴォルザーク「ルサルカ」の第三の森の精は端役なので別とすると、オテロのエミーリア、カヴァレリア・ルスティカーナのサントゥッツァ、メデアのゴラ、どの歌唱を思い出してもその役柄に全身全霊で没入していくタイプの歌手と思われ、しかもその「入り込み方」が凄まじいと思います。それらと比べても今回のエボリ公女、その気性の激しさ、一人の女としての可愛らしさから怖さ、惨めさすべて凝縮したような役柄はまさに彼女にうってつけのものだろうと思います。聞いた話によればそもそもエボリ公女を歌いたくてプロの歌手になった由、その意味でも今回の公演は彼女自身にとっても我々聴衆にとっても忘れ難いものになったと思います。それにしても、エボリ公女というのは数あるヴェルディのメゾソプラノの役の中でも特に難しい役ではないだろうか。彼女の思い入れの深さと、ずば抜けた歌唱力を以てしても完璧とは言えなかったように思います。その原因の大半はもちろん端正ではあるが燃えないフェッロの指揮にあるのだが、彼女自身の問題としても僅かに制御しきれていないような部分があったように思います。例えば第3幕のエボリ、カルロ、ロドリーゴによる三重唱「震えるがいい、偽りの息子」、冒頭のエボリのソロは聴いていて鳥肌のたつ思いだが、後半3人がユニゾンで同じ旋律を歌うところで思いがけなく声が埋もれてしまう。燃え上がる情念と、バランスを考えながら歌唱を制御していく知性の両立、本来矛盾するその双方を両立させる困難、両者のわずかな空隙を垣間見たような感じだろうか。指揮も含めて思いのほか良かったのは第2幕、カルロの手紙を読むエリザベッタのパルランドの裏で、パリの社交界への憧れをロドリーゴ相手に歌う場面。エレガンスの極みというべき場面であろうと思います。ここは本当に素晴らしかった。最初の聞かせどころ「ヴェールの歌」と最大の見せ場である第4幕「おお忌まわしい贈り物」、これも指揮とオケがもうすこし良ければ、と思うが、それを差し引いてももっと上を狙えるはず、という思いを禁じ得ませんでした。今回の歌手陣ではずば抜けていただけに満足しきれない部分もあるが、何年後かにもう一度エボリを歌ってほしいと切望しています。
ドン・カルロを歌った山本耕平も賞賛に値すると思います。輝かしく華のある声で声量もあり、しかも役柄に必要なロバストな声質の持ち主。あまり感情移入できる役柄ではないが、大いに楽しませてくれました。
フィリッポ2世役のジョン・ハオも優れています。よく響く声で王の威厳と孤独を表現し得ていたと思います。
ロドリーゴ役の上江隼人は声量こそ上記の歌手たちに一歩及ばずながら、ノーブルな歌い方が素晴らしい。その知的な歌い振りによって、ソロだけでなくアンサンブルにおけるバランスが適確であったと思います。
エリザベッタの横山恵子は、本来歌うはずであった安藤赴美子が急きょインフルエンザでダウンしたとのことで前日に続いての連荘。テクニックも声量も安定したドラマティコだが、この役にはもう少しリリコとしての側面がほしいと無い物ねだりかもしれませんが思ってしまいました。
可憐な青木エマのテバルト等、脇役も充実していましたが、加藤宏隆の大審問官は本来主役級のバスが歌うべき役柄だと思うのでやや軽かったのではと思います。CDで聴いたニコライ・ギャウロフなんかと比べるのが間違っているとは思うけれど、王と大審問官のバス同志の対決というのは、400年のオペラ史の中でも特異な音楽であり、しかもヴェルディの書いた音楽の中でも最も優れたページの一つだと思うので、どうしても無い物ねだりしたくなります。
合唱は人数の割にはぱっとしません。第3幕のスペクタクルな場面などもうすこしマッシブであってほしいところ。これも新国立の合唱団と比べてしまうと少し物足りなく思います。

さて、先ほどもすこし触れた指揮のガブリエーレ・フェッロだが、悠揚迫らざる、とか端正な、とかポジティブに評価する向きも多かろうと思いますが、私にはなんとも隔靴掻痒で燃えない音楽。心なしか歌手も歌いにくそうに思われる瞬間がいくつもありました。個々の歌手について上に記した小さな不満なども、指揮が良ければ本来は気にならない類のものです。すくなくともドン・カルロやエボリ公女の音楽はもっと直情的にやったほうが良いと思いますが、先程もすこし触れたとおり、王妃の庭園の場などある種のギャラントな音楽はものすごく魅力的。オーケストラ(都響)は、東フィルとかと比べるとどうしても響きが薄くて響かない。個々のプレーヤーの技量は優れていると思われるだけにこれまた残念。東京文化会館は本来もっと響く箱のはずなのだがやけにデッドに聞こえました。
演出だが、鬼才デイヴィッド・マクヴィカーということで期待していましたが、いつぞやの新国立でのトリスタン同様ちょっと不発だったようです。DVDで観た「サロメ」や「リゴレット」など、少々露悪的ながらも美しく説得力のある舞台を創造する人だが、随所にでてくるコンチェルタートでドラマが停止してしまうところ、登場人物が突っ立ったままになってしまうのはマクヴィカーにしてコレか、と不満が残ります。様式的な美しさを狙ったのかも知れませんが、群衆の動かし方についてはもっと巧い人のはずです。おそらく時代物より世話物に向いた人なのだと思います。美術(ロバート・ジョーンズ)はわずかな変化で全場面を押し通す経済的なつくりですがそれなりに美しく見栄えがします。特筆すべきは衣装(ブリギッテ・ライフェンシュトゥール)の美しさだろうか。豪奢で洗練されていて素晴らしいと思いました。
 
どうでもいいことですが、第1幕から第3幕休憩なしで通すというのはかなりしんどいですね。本来なら1・2幕で休憩、3幕と4幕の合間でもう一度休憩というのが望ましいのでしょうが、第3幕のエボリ公女とエリザベッタの二重唱と王妃のバレエをカットすると3幕が中途半端な長さになってしまい、こういった幕間にせざるを得ないということでしょう。オーソドックスなグランド・オペラとして書かれながら、改訂に次ぐ改訂で、いわば決定稿のないオペラになってしまったがゆえの困難だと思います。どの稿にしても未完成感が残る出来の悪いオペラですが、その出来の悪さ自体が中期のヴェルディならではの魅力であると思います。完成度の高い名作よりも、不出来ではあるが天才の迸るような作品を何より好んだアバドがこだわったオペラというのも大いにうなづけます。日本ではおそらく今回の5幕イタリア語版による上演が定番となっていくのだと思いますが、本来のグランドオペラの体裁による、王妃のバレエを含む5幕フランス語版を見てみたいものだと思いました。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-02-25 23:16 | 演奏会レビュー | Comments(0)

コルンゴルト 「死の都」 ヴァイグレ指揮フランクフルト歌劇場o.(その1)

ゆとり世代
ジョン・ケージ作曲 「だいたい4分半」





来月に迫ったコルンゴルトのオペラ「死の都」公演に向けて予習中。まずは例によって音源の紹介から。

   コルンゴルト作曲 「死の都」
   パウル: クラウス・フロリアン・フォークト
   マリエッタ&マリーの亡霊: タチアナ・パヴロフスカヤ
   フランク: ミヒャエル・ナジ
   ブリギッタ: ヘドヴィク・ファスベンダー
   ユリエッテ: アンナ・ライベルク
   リュシエンヌ: ジェニー・カールステット
   ガストン: アラン・バーンズ
   ヴィクトリン: ジュリアン・プレガルディアン
   フリッツ: ミヒャエル・ナジ
   アルベール伯爵: ハンス=ユルゲン・ラザール
   セバスティアン・ヴァイグレ指揮フランクフルト歌劇場管弦楽団
   フランクフルト歌劇場合唱団(マティアス・ケーラー指揮)
   フランクフルト歌劇場少年合唱団(マイケル・クラーク指揮)
   2009年11月18,19,22日録音
   CD:OEHMS CLASSICS OC948


今年は「死の都」の当たり年で、新国立劇場とびわ湖ホールの公演が競合しています。特に新国立劇場の意気込みはものすごく、昨年の9月から10回に亘って中村伸子氏のコルンゴルトに関するエッセイをHPに連載しています。まったくこんなことされるとネタが無くなってしまって困ったもんです(笑)。

この前、BSをぼんやり観ていたら、ある紀行番組でベルギーの古都ブルージュを取り上げていました。内容としては田中美里という女優さんが屋台やレストランでワッフルやらムール貝のワイン蒸やら牛肉のビール煮込みやら鰻の香草煮を食って食って食いまくる(笑)というもので、それはそれで面白かったのですが、その分、中世の面影を色濃く残す街並みや、街中に張り巡らされた運河といった風景の紹介はちょっと食い足りない思いをしました(地上波の騒々しい旅番組よりは余程マシですが)。それにしても意外だったのは、青空の下の通りの賑わいや、船に乗って運河クルーズに嬌声をあげる観光客の映像が、G.ローデンバックの小説「死都ブリュージュ」(窪田般彌訳・岩波文庫)から受けるイメージとは程遠いものであることでした。
私はブルージュは行ったことがありませんが、かれこれ17年ほど前の寒い時期に仕事で行ったブリュッセルは、雲が低く垂れこめた季節のせいか、街中がうらぶれた感じで、どの建物も車の排気ガスで煤けたような色をしていました。小説「死都ブリュージュ」の真の主役は街そのものという感じがしますが、陰鬱でいかにも世紀末的なこの小説に出てくる街の描写は、BSで観たブルージュではなく私の記憶にあるブリュッセルの街並みこそが相応しく思われます。
それにしても、小説「死都ブリュージュ」と私の個人的なブリュッセルの記憶が照応するように、BSで観た明るく絵葉書みたいなブルージュの街並みとコルンゴルトのオペラの、マニエリスティックでどこか劇伴めいた音楽が不思議な照応を示すのが面白いと思いました。あるいはこうも言えます。小説「死都ブリュージュ」とオペラ「死の都」の指し示す世界は似て非なるものである、と。

最近随分人気の出てきたコルンゴルトですが、私はあまり今まで真面目に聞いたことがなくて、今回の予習で初めてじっくり聴き込みました。この二十歳そこそこの若書きのオペラでコルンゴルトという人を評価するのもなんですが、代表作と見做されているようなので敢えて大雑把な感想を述べると、大変な秀才だとは思うがR.シュトラウスと比べて、あるいはツェムリンスキーと比べてさえ、より精巧なんだが小ぶりな、まるでジオラマを見ているみたいな感じがつきまといます。少し言い過ぎかもしれませんが、一種の二流感は如何ともし難いと思います。こういった言い方はコルンゴルトが大好きという好事家諸氏の反感を買うだろうと思いますが、あまりにも露骨すぎるR.シュトラウスの影響(特に「影のない女」)とか、びっしりと書き込まれたスコアと、きらきらしたオーケストレーションのもたらすプチ・ゴージャス感あるいは箱庭的聴覚像については冷静に評価すべきだと思います。もっとも私の言う二流感というのは必ずしも作品の価値を否定する言葉ではなくて、しばしば一流に成り切れないものに対する私の已みがたい偏愛を含めた言葉だと理解していただければ有難いと思います。あるいは一流二流という見方でなく本流と支流という見方をするなら、1920年前後の独墺圏にあってR.シュトラウスやシェーンベルクといった(今現在から過去を振り返ってみて)間違いなく本流の人たちに対して、レハールやカールマン、あるいは映画の伴奏からキャバレーソングまで膨大な支流の存在があり、個々の作品はその全体の中に位置付けて把握し、理解すべきものだと思います。その中では、中間的存在であるツェムリンスキーがどちらかといえば本流に近く、コルンゴルトが支流に近いと評したとしても、私としては全くネガティブな評価という気はしません。

・・・とひとまず言い訳した上で、どうしてもその音楽から感じ取れる自己愛の強さみたいなものについて触れざるを得ません。うまく言語化しきれないのですが、自己愛を持たない作曲家などいない、ということではなくて、垂れ流される強烈な自己愛が論理に昇華していかないきらいがあると思われること。例えば私はメトネルを聴くといつもそういう思いをするのですが、このコルンゴルトの音楽にも似たにおいを感じます。それが私にとってアンビヴァレンツの源泉になっていると同時に、ある種の同じく自己愛の強い人達をファナティックな愛好家にさせる原動力(あるいは毒)となっていると思われます。じっさい、コルンゴルトに関するネット上の言説を漁っていて最も気になるというか、気色が悪いのはそのファナティックな人たちの存在。コルンゴルトその人には何の関係もないけれども、近年の目覚ましいリバイバルは彼ら抜きにはあり得ない。そのことが私を警戒させます。
コルンゴルトその人には何の関係もない話はやめておきましょう。ここで私が用いた「自己愛」という言葉を定義するのはとても難しいし、具体的に音楽のどこがどう自己愛の垂れ流しなのかを特定することも不可能です。そういうにおいがする、としか言えません。多少手掛かりになることと言えば、原作からオペラへの物語の改変の内容だろうか。原作からの改変の結果については、それが偽名による台本作家にしてコルンゴルトの実父の作であるということ、また原作とオペラはあくまでも別物ということをさておいても、マリエッタに対してパウルが都合のよい理屈を振り回したあげくに彼女を絞殺し、しかも目覚めたら夢でしたというのは、あまりにも酷いという気がします。いや、私はオペラの物語がどんなに不道徳でも構わないけれど、その音楽に感じられる自己愛とこの退行的(若い方ならさしずめ厨ニ病をこじらせた、とでも言うのだろう)な改変がリンクしているように思われてなりません。驚異的なソルフェージュ能力を持つ作曲家がR.シュトラウスをなぞりながらオペラを書くことはそれほど困難なことではなかったのかも知れませんが、幼くして神童としてデビューし、社会的ディシプリンを経ていない作曲者にとって、原作の持つ世紀末的憂鬱や男女の物狂おしさを描くことは意外に難しかったのかも知れません。そういったものを描くのに、社会化されない自己愛の他によりどころにするものがなかったからこそ、全編をR.シュトラウス風の音楽でべったりと塗りつぶしてしまったのではないか。音楽はとても美しいけれど、そこに必要不可欠なエロティシズムの力がどうしても不足しているように思えます(若書きだから、という訳ではないだろう)。
蛇足ながら、作曲者に原作へのシンパシーがまったく無かったとは言えないと思いますが、まるで「影のない女」みたいな音楽を書きたいから亡霊の場をむりやり挿入し、「ナクソスのアリアドネ」のコンメディア・デラルテ風の音楽を書きたいからバレエの一座とパトロンの伯爵の乱痴気騒ぎの場をでっちあげた(台本作家兼ステージパパである父との共犯によって)ように思えてきます。
こんなことを書くと、それこそお前は音楽ではなくて背後にある物語を聴いているのか、と非難されるかも知れません。ならば「その通り」と開き直るしかありません。現実にはすべての物語を排除して音楽の本質だけを聴くというのは不可能、乙武氏の表現を借りれば人はコンテクスト抜きでコンテンツを聴くことはできないのかも知れません。
少し先を急ぎすぎたようです。この自己愛というテーマは私の中で未だ言語化できていませんね。それでも片言でもいいからそのことに触れなければ、このマイナーブログで取り上げる意味がない。ひとまず稿を改めて、もう少し音楽そのものに沿って感じたこと、それとこのCDの演奏そのものについて次回書いてみたいと思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2014-02-22 20:00 | CD・DVD試聴記 | Comments(2)

日記みたいなもの~その7

ネットで見たんだがこれホント?
「宝くじを買いに行く途中で死ぬ確率は、宝くじが当たる確率よりも高い。」
宝くじ買うやつの気が知れんので全然問題ないけど。




ブラームス「51の練習曲」、今回はNo.1aとbまとめてご紹介。
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私が自分の練習に用いている楽譜は全音楽譜出版社のもので、ところどころ指使いが記されていますが、譜例にあげたBreitkopf&Härtel社のものには一切ありません。指使いを厳密に守ることもこの練習曲のポイントだと思っておりましたのでこれはちょっと意外。IMSLPで調べてみると、初版であるJimrock社の1893年版にも指使いは無し。Isidor Phillip校訂の1928年出版のDurand&Cie社版には指使いが書かれていて全音版はこれを底本にしていることが判りました(ちなみにDurand版は曲順も異なっていて、No12のa・bとなっています)。
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この癖のある指使いがどこまでブラームス自身の考え方を反映しているのかIMSLPで得られるデータだけでは調べようもないが、黒鍵で始まる音階を親指で始めることで手の甲のポジションが鍵盤に対して奥の方に位置することとなり、黒鍵と黒鍵の間を縫うように他の指が弾いていくことになります。他の鍵に指をひっかけずに正確に弾けるようになるまで練習すれば、おのずと自在な指の捌き方というものが得られるように思います。また、No.1bのほうは前段の右手と後段の左手に小指を一切使わせないことで、これまた他のエチュードでは決して得られない指さばきを習得することが出来ます。校訂者であるイシドール・フィリップはwikipediaによれば1863年にブダペストに生まれ、1958年パリで没したピアニストとのこと。この人の名前は憶えておこう。
by nekomatalistener | 2014-02-15 19:40 | その他 | Comments(0)

『バベットの晩餐会』」のこと

太宰のメロスは実は歩いていた、という中学生の自由研究論文「メロスの全力を検証」が話題になってるが、この結びの一言が秀逸すぎる。
”「走れメロス」というタイトルは、「走れよメロス」のほうが合っているなと思いました。”
http://www.rimse.or.jp/project/research/winner.html




もう何年前になるだろうか、むかし「バベットの晩餐会」という映画を観て、随分感動したことがありました。一言でいうと「心あたたまる映画」。それからしばらくして原作が文庫本で出ていたことも知ってましたが、正直なところ、「ちょっといい話」みたいなものだろうと思い、実際に手にすることはありませんでした。まぁ良くてオー・ヘンリーの「賢者の贈り物」みたいな感じだろう、と侮るような気持ちもありました。
それがつい最近、ちょっと思うところあって原作を読んだのですよ(イサク・ディーネセン、桝田啓介訳『バベットの晩餐会』 ちくま文庫)。驚きました。こんなお話だったのか、と。いや、粗筋そのものは映画と大差ありません。しかしバベットの最後の台詞がちょっと驚くものでした(映画のほうも、もしかしたらもう少し「毒」のある内容だったのかも知れませんが、少なくとも私には原作ほどの毒は感じられませんでした)。

ここで大急ぎでお話をおさらいしてみます(前段の、姉妹が若い頃の淡い恋の物語については割愛)。舞台はノルウェーの小さな町ベアレヴォー。教区牧師亡き後、二人のオールドミスの姉妹が教会を守っている。信者の村人達は年老いて不寛容になり、互いにいがみ合っている。かつて姉妹のもとに1871年のパリ・コミューン弾圧を逃れてバベットという女が助けを求めてたどり着き、そのまま家政婦として14年間姉妹とともに質素な暮らしをしている。ある日、バベットがひそかに知人を介して買い続けていた富籤が当たり、1万フランを手にする。姉妹の亡父の生誕祭を控え、バベットは賞金で村人に本物のフランス料理を振る舞いたいと申し出る。姉妹は当惑しながらもバベットの言うとおりにさせるが、それから巨大な海亀を始めとする見たこともないような食材が遥々パリから運ばれるにつれて、それまで質素と倹約を旨として暮らしてきた姉妹は激しく後悔し、ついには村人達と、当日の晩餐を食しても決してそのことを話題にするまい、と申し合わせをする。いよいよ当日、たまたま故郷ノルウェーに戻っていたレーヴェンイェルム将軍を含む12名の客人(将軍以外はいずれも村の老人)が集まり、晩餐会が始まる。将軍は王妃の侍女を妻とし、パリやロシアの社交界にも出入りをして最高の贅沢を経験していたが、最初に小さなグラスで供された飲み物に大して期待もせず口をつけて驚く。「不思議だ。アモンティラードではないか。それもこれまで味わったこともない極上のものだ」。それから海亀のスープやブリニのデミドフ風、うずらの石棺風パイ詰めの素晴らしさに驚愕し、その料理がまぎれもなくかつてのパリの名店の女料理人のものであることに気付く。一方他の客人たちは申し合わせ通り料理については一言も発しないが、やがて奇跡のように陰鬱な部屋は光に溢れ、皆の心がほぐれて普段無口な人々だというのに楽しげな会話に花が咲く・・・

と、ここまでは映画の通り。実にいいお話です。しかし問題は晩餐会が終わってからのバベットと姉妹の対話。

姉妹はバベットに感謝しながらも、富籤で大金を得たバベットはパリに帰るに違いないと寂しく思っていた。しかしバベットは、あの1万フランは全部使ってしまったと言って姉妹を驚かせる。バベットは、もうパリにはかつての自分の客であった貴族や上流階級の人達は誰もいないのだから帰るつもりはないというが、姉妹はバベットがパリ・コミューンで夫と息子をその他ならぬ貴族達に殺され、命からがら逃げてきたことを知っていたので不審に思う。しかしバベットはこう言い放つ「あのかたがたはわたしの、そう、わたしのものだったのです。あのかたがたは、おふたりにはまるで理解することも信じることもできないほどの費用をかけて、育てられ躾けられていたのです。わたしがどれほどすぐれた芸術家であるかを知るために。わたしはあのかたがたを幸せにすることができました。わたしが最高の料理を出したとき、あのかたがたをこの上なく幸せにすることができたのです」。

・・・おもえばバベットが村人にフランス料理を振る舞いたいと考えたのは、芸術家としての已むに已まれぬ衝動からなのであって、彼女が客人の中で唯一そのグラスを常に満たすよう給仕の少年に注意していたのはレーヴェンイェルム将軍だけであったのです。かつてバベットの作り出す芸術を正しく享受し得たのはパリで最高の教育を施された貴族や上流階級の人達であり、彼らが滅びた後はかろうじて当時の社交界を知る将軍だけが正しく彼女の芸術を理解したわけだ。では他の村人は?そう、彼らも彼女の芸術をおそらくは正しく受け止めていた。ただし、それを言葉にする(評価する)ことはできず、バベット自身も決して彼らへの献身、貧しき者達への善意から事を思い立った訳ではなかった。

これは芸術とその享受のあり方についてのおそるべき寓話なのではないでしょうか。芸術とは多分とても残酷なものであって、万人が等しく同等の深さで享受することなど望んでいない。そして享受する側は、芸術の真価を知るために金と時間を掛け、しかるべき鍛錬の時期を経た少数の者と、単に感覚的なよろこびを味わうその他大勢に分かれる、ということでしょう。これを、鼻もちならないと考える向きもあろうかと思います。この短い小説にはもともと様々な二項対立の要素、例えばカトリシズムとプロテスタンティズムとかがさりげなく埋め込まれていて、芸術についても、バベットの言うような芸術がすべてではないことは明らかです。しかしいかに鼻もちならないにせよ、バベットの造る料理のように、それについて語ろうとすると語り手の芸術に対する種々の経験知とか素養といったものが問われるタイプの芸術が存在するのは事実だろうと思います。
登場人物の中ではレーヴェンイェルム将軍の造形が実に面白い。小説の中の位置付けとしてはディレッタントを代表する人物なのでしょうが、その描かれ方はスノビスムとすれすれでありながら、まぎれもない芸術への畏敬というものをきちんと押さえていて秀逸でした。
by nekomatalistener | 2014-02-12 00:55 | その他 | Comments(2)

日記みたいなもの~その6

メシアンの「カンテヨージャーヤー」の冒頭のリズム、頭の中で「あんたもゆうたって~」と大阪のおばはんのように呟くと巧く弾ける。





ブラームスの練習曲、同一番号でaとbがあれば、大体はaが小手調べで、それを少し捻って難しくしたのがb、という感じなんだが、No.33bに関してはaとは比較にならない過酷さ、というかほぼ別物。特に折り返しを過ぎてからの左手は物凄くきつい。
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私の手の大きさは日本人としては小さい方ではないと思うけれど、これを自然な手の甲のポジションを維持してレガートで弾くのはほぼ不可能。しかし手の大きさに頼らずに指の捌き方ひとつで、出来るだけ不要な力をいれずに弾く方策はあるようです。オクターブを弾く時と、2と4の指で5度を弾く時、手の甲の向きが逆転するが、この手の甲のポジションの切り替えが瞬時に出来るようになれば、完全なレガートとはいかなくとも耳で聞いてほぼ音と音の隙間のない実質上のレガートが得られるように思います。ただしアマチュアでこの練習曲を快速で弾くのは諦めた方がよさそうだ。ここではあまり無理せず、もう少し先に進んでから戻ったほうが良いと思います。
by nekomatalistener | 2014-02-08 23:50 | その他 | Comments(0)

少しだけ佐村河内騒動のことを

2chの書き込みだけど秀逸。
 ”バイオハザードだと思ったらモラルハザードだったでござるの巻”
あと、これもワロタ。みんなセンス良すぎ(笑)。
 ”交響曲第2番 SOCHI”



いや~2月5日未明より祭り状態。この状況で佐村河内評を述べるのは後出しじゃんけんみたいだし、何よりゲスな感じで気が引けるのだが、以前はあれでしょ、下手にネガティブなこと書くと信者みたいなのがワラワラ出てきて炎上とかしそうだったし・・・。まぁ今後この人の名前は急速に忘れられていくでしょうから、今のうちにネタ供養みたいなつもりで思うところを書いておきましょう。

で、私の佐村河内観を一言でいうと音楽界のクリスチャン・ラッセンみたい、というもの。そんなモンありがたがる方が悪い。
私はラッセンはファインアートと言うよりは限りなくイラストレーションに近いだろうって思うが、ラッセンを(アートとして)好きな人を、そのことだけでとやかく言うつもりはない(自分でものを考えない、世評に流されやすい人だろうとは思うけれど)。ただ、ラッセンを擁護せんがためにモンドリアンやジャスパー・ジョーンズを否定するような人がもしいたとしたら(あんまりいねーかw)、そんな輩とは絶対に価値観が合わないだろうと思う。佐村河内の問題がとても後味が悪いと思うのは、一つは典型的な障碍者ビジネスという構図が心底嫌だなと思うのと、佐村河内を持ち上げる連中の少なからぬ部分は、現代音楽は無価値であるという前提があって、しかるに佐村河内はこうである、と持ち上げるその構図の無知と傲岸さに由来していると思う。自分が理解できないものに対する畏敬の念の欠如、私が理解できないのは作品が悪いと思い込む不遜と厚顔。
蛇足ながらもう少し付け加えておくと、今回の事件の背後にあるものは、ある対象を享受するのに何でもいいから「物語」を必要とする人々の存在があると思う。STAP細胞のニュースに「30歳リケ女」とか「泣いた」とか「ムーミン」みたいなノイズでしかない情報を求めてやまない階層の人々ですね。「障碍」も「被災地の少女」とやらも一緒のこと。マスコミも酷いと思うが、ニーズがあるから彼らはこういった情報を躍起になって流すわけだ。彼らをターゲットに商売する限りこんな事件は何度でも起こる。浜の真砂は尽きるともってやつです。それだけは間違いないと思います。

と、ここまで書いてネット記事を見ると、この事件を「一杯のかけそば」騒動になぞらえているものがあって、これが一番本質を衝いているような気がしました。なるほど。
by nekomatalistener | 2014-02-05 22:32 | その他 | Comments(0)

日記みたいなもの~その5

「史上最高のコラボといえば?」
「ヘドバとダビデとキャロライン洋子!」
「・・・それ名前のインパクトだけやから。それに若い子だれも知らんから。」




ブラームスの51の練習曲から。お次はNo.33a。
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この練習曲、ゆっくり弾くのならかなり容易な部類だと思うが、左右対称なんだか非対称なんだかよく分らない音形を、ある程度のスピードで弾くのは意外に難しいものです。最初の内このようにアクセントを附けると弾きやすくなりましたが、最終的にアクセントなしでなめらかに弾くのはけっこう骨が折れました。
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この曲の微妙な難しさというのは、ちょっと気を抜いて機械的に弾くと何が何だか訳が分からなくなる瞬間がある、というもの。こういう音形は、脳が信号化するのも両腕がそれを運動に変換するのも苦手なパターンという他ない。何度か繰り返し弾くと、脳が軽くオーバーヒートする感じ。ボケ防止にもなりそう(笑)。
by nekomatalistener | 2014-02-03 23:48 | その他 | Comments(0)