<   2014年 01月 ( 6 )   > この月の画像一覧

日記みたいなもの~その4

ファミマのフォアグラ弁当「残酷」と販売中止。一瞬、冷たくなったフォアグラのカケラを貧乏人に食わせるのが残酷なのか、と思ったでござる。




さてブラームス51の練習曲のシリーズ、今回はNo.32b。前回の投稿で、あまりの困難さに絶望しそうになる、と書きましたが、地道に毎日弾いていると少しずつ指が開いてくるのか、次第にそれらしく形になってきます。
a0240098_064150.png

それにしても、よくまぁこんなに弾きにくい音形を選び出すものです。最初の内、調性によっては指がまったく届かないところがあったり、左手の3と4の指が干渉して巧く弾けない個所があったり。あと1cm、いや5mmでいいから指が長ければ良かったのに、と思っていましたが、指の長さよりはむしろ指の捌き方のほうが大切なことが判ってきました。始めはちょっときついですが、例えば2,3だけでなく全ての指を押さえたまま保持してゆっくり弾く、といった練習も役に立つように思います。この弾き方で通せるようになれば、楽譜通り2と3だけ保持する弾き方が随分楽に思えてきます。No.32aのようには早くも滑らかにも弾けないのはアマチュアの悲しさですが、もし若い頃からこの練習曲で訓練していたなら、あの「パガニーニ変奏曲」の左手6度の恐るべき変奏も何とかなっていたかも、という気がしてきます。あの第1巻の第2変奏は、とてつもなく巨大な左手でなければ弾けないと思っていましたが、実は指の捌き方(うまく表現できないのだが・・・)次第でやりようがある、という気にさせてくれるのも、この練習曲の凄いところ。まぁ実際には手遅れでしょうが(笑)。
by nekomatalistener | 2014-01-28 00:44 | その他 | Comments(0)

マイアベーア 「悪魔のロベール」を聴く (その4)

取引先の社長から聞いた話。報告書の日本語がむちゃくちゃな部下を指導しようと、社長自ら「こういう風に書け」というつもりで書類を書いて渡したら、そいつが「いや~こうしたほうが・・・」と添削して返してきたそうな。ある意味うらやましいくらい大物。



【第4幕】
第16曲:前奏と女声合唱、レチタティーヴォ
イザベル姫の寝室。侍女や小間使いの合唱。イザベルがアリースを気遣うと、アリースはロベールに母の手紙を渡すことが私の義務だと話す。
第4幕は全体にドニゼッティ風のベルカント様式で書かれています。まずは定型的な優美な合唱。

第17曲:合唱
騎士達の合唱がイザベルとグラナダ公の結婚を讃えて歌っている。糸杉の小枝を手にしたロベールが現れると、舞台の全員が凍りついて動かなくなる。
第2幕に現れていたベルトランの勝利のモチーフによる合唱。

第18曲:フィナーレ
 A.レチタティーヴォとカヴァティーヌ
 B.二重唱
 C.カヴァティーヌ
 D.合唱
ロベールはイザベルだけを目覚めさせ、連れ去ろうとするが、ロベールの行いがよこしまで名誉に背くものだと思ったイザベルはロベールを退ける。自暴自棄となったロベールが糸杉の小枝を折ると騎士達が目覚め、ロベールを捕えてしまう。
このフィナーレは非常に緊密な構成で書かれていて、長大な全曲の中の白眉であると思います。ドラマティックなレチタティーヴォと二重唱は三連符が特徴的なモチーフで書かれ、間にロベールとイザベルそれぞれのとびきり美しいカヴァティーヌを挟んで合唱による白熱のストレッタで終わります。このA~Dの構成を書き換えるとこんな感じの二重構造になっていることが判ります。

 A.シェーナ
       エピソードⅠ(ロベール)
   シェーナ
 B.ロンド(ロベールとイザベル)
 C.     エピソードⅡ(イザベル)
   シェーナ
 D.ストレッタ(合唱)

この二重構造はシェーナとロンドに共通の三連符素材(譜例15)によってもたらされています。ロンドの第2クープレはロッシーニ風ですがこのオペラの中でも最も血沸き肉躍る素晴らしいもの(譜例16)。イザベルのカヴァティーヌ(エピソードⅡ)もベッリーニやドニゼッティのアリアを思わせる傑作(譜例17)。私達は何となくロッシーニの世界からベッリーニやドニゼッティが突然現れたように思ってしまいますが、マイアベーアというのは正にこの両者を繋ぐミッシング・リンクであった訳です(どちらが他方に影響を与えたのかはよく判りませんが)。しかもこのフィナーレを聴くとそれ以上に、オリジナリティも十分あり、思いのほか力強い音楽を聴くことができます。マイアベーアをことさら天才扱いするつもりはありませんが、いくらなんでも埋もれ過ぎだろうと思います。
(譜例15)
a0240098_18545940.png

(譜例16)
a0240098_1856986.png

(譜例17)
a0240098_18553799.png


【第5幕】
第19曲:前奏と修道士の合唱
パレルモの教会に暗く響き渡る修道士の合唱。
めずらしいバスのみの斉唱。

第20曲:祈り
司祭と修道士、信徒達が悪の罠から救い給えと歌う。
本CDではこのナンバーはカットされ、終曲の途中に移されています。こういう異稿があるのかどうかは判りませんでしたが、オリジナルの終曲が少し弱いような気がしますので、まずは妥当な改編かと思います。

第21曲:情景と合唱附き二重唱
ロベールはベルトランに救われたものの、グラナダ公と剣を交わして敗れ、教会に逃げてくる。ベルトランは、イザベルを取り戻したいのなら仲間になる誓約をせよと悪魔の契約をほのめかす。教会の讃美歌を耳にしてロベールが怯むと、ベルトランはそれならば行って敵の結婚を寿ぐがいいと言い放つ。怒ったロベールに、ベルトランは自分がロベールの本当の父親であることを明かす。
オルガンのソロと信徒らの宗教的な合唱を含むナンバー。バスとテノールのreligiosoな二重唱といえばついヴェルディの「シモン・ボッカネグラ」のガブリエーレとフィエスコのそれを連想してしまいますが、残念ながらこちらの二重唱は少し音楽として(見せ場の割には)弱いと思います。

第22曲:アリアとレチタティーヴォ
ベルトランはロベールに向かって父としての情愛を語り、言葉巧みに真夜中までに契約に署名せよと迫る。そこにアリースが飛び込んできて、イザベルがグラナダ公との婚約を解消し、ロベールを待っていると伝える。
短いがなかなか素晴らしいベルトランのアリア。思えばこの時代に、これほどバスが活躍するオペラも珍しいのではなかろうか。

第23曲:三重唱
尚も迷っているロベールにアリースは彼の母から託された手紙を渡す。そこには「誘惑者の言葉に耳を傾けてはならぬ」と書かれていた。やがて真夜中の鐘が鳴り、地面が割れるとベルトランが飲み込まれてしまう。ロベールはアリースの足元に気を失って倒れる。
物語も大詰め、ついに後のヴェルディを予感させるような素晴らしい三重唱が現れます。最初ロ短調のロベールとアリースの二重唱に始まり、ロ長調の美しい旋律(譜例18)が現れて大きく盛り上がります。次いでAllegro con spiritoの経過を挟んで、これも素晴らしいAndante cantabile(譜例19)。この部分はショパンの「鬼のロベールによる協奏的大二重奏」の後半に取り上げられています。2本のトランペットが奏でる旋律は、どこかニーノ・ロータやエンニオ・モリコーネを思わせます。この骨太の三重唱を聴いていると、マイアベーアという人は、ドニゼッティとヴェルディを繋ぐミッシング・リンクでもあったのだと思わざるを得ません。贔屓の引き倒しにならぬよう付け加えておくと、残念ながらベルトランの地獄落ちの場は、「ドン・ジョヴァンニ」や「ファウストの劫罰」といった超一流の音楽と比べるとかなり聴き劣りがします。
(譜例18)
a0240098_122759.png

(譜例19)
a0240098_114577.png


第24曲:フィナーレ
背後のカーテンが上がるとそこはパレルモの礼拝堂。跪いているイザベルの姿が見える。神を讃え、ロベールは救われたと合唱が歌う。
この長大なオペラは簡潔な合唱で終わります。このあたりの間合いというのは劇場で育った職人ならではのものだろうか。

ようやく序曲と全24のナンバーの簡単な分析が終わりました。何度も繰り返し聴いている内に、飽きるどころか意外なほど豊穣な世界を発見したような気がします。19世紀にあれほどもてはやされたのに、20世紀に入ったあたりからすっかり、その名前以外は忘れられたマイアベーア。そこにはユダヤ系であったが故の排除があったのかも知れません。また日本では、独墺至上主義のような悪しき風潮によってことさら二流扱いされたということもあるでしょう。確かに、様式の統一感に乏しいところや、ここぞというところで音楽が腰砕けになる弱さも見られますが、驚くほどよく書けているナンバーもあり、普通に考えたらこれだけの聴きどころがあれば十分傑作扱いしても良いのかな、と思った次第です。20世紀の後半にロッシーニのオペラセリアが復活し、あるいはベルリオーズの「トロイアの人々」が蘇演されて、それらの真価が驚きとともに明らかになったように、いずれマイアベーアのグランドオペラは再評価されることになると思います。

このシリーズの最初に紹介した音源は、いずれの歌手も(欲を言えばきりがないけれど)優れた技巧の持ち主で、作品の概要を知るには充分過ぎるくらいの出来栄え。ロベール役のブライアン・ヒメルはハイCやハイDも決まっていてお見事。イザベル役のパトリツィア・チョーフィのアジリタも上手い。しかし何と言ってもベルトラン役のアラステア・マイルズと、アリース役のカルメン・ジャンナッタージョの二人の歌手の、声そのものの美しさと表現の確かさが頭一つ抜けた素晴らしさでした。ダニエル・オーレンの指揮は、まぁこんなもんかな、とも思うけれど、やりようによってはもっと凄い音楽づくりが可能だったような気がします。ロッシーニにおけるアルベルト・ゼッダ、あるいはベルリオーズにおけるコリン・デイヴィスのような優れた才能と献身的な情熱を持った指揮者がとりあげないものか、と夢想します。何より残念なのは、全曲にわたってカットが非常に多いこと。もしノーカットで演奏すれば時間は恐らく2割か3割増しになって冗長感があるのだろうが、グランド・オペラを本当に正しく理解しようと思えばその冗長さも含めて体感しないことには話にならんだろうと思います。やはり将来のマイアベーア・ルネサンスを待たなければ仕方がないのかも知れません。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-01-26 16:35 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

大阪交響楽団 第182回定期演奏会 シェーンベルク&スッペ

”ドモホルンリンクル”でGoogle検索  781,000件
”ホモホルンリンクル”でGoogle検索    2,000件
”イモホルンリンクル”でGoogle検索   1,200件
あほなこと考えてるやつ多過ぎ(←人の事言えない)。





久しぶりに行った大阪交響楽団の定期。今回は「捻ったウィーンプログラム」ということで、確かに曲目の面白さに惹かれて行くことにしたのでした。


  シェーンベルク ヴァイオリン協奏曲Op.36
   (アンコール)
  パガニーニ カンタービレ
   (休憩)
  スッペ
   序曲「ウィーンの朝・昼・晩」
   喜歌劇「快盗団」序曲
   喜歌劇「美しいガラテア」序曲
   喜歌劇「スペードの女王」序曲
   (アンコール)
  スッペ 喜歌劇「軽騎兵」序曲

  指揮:下野竜也
  ヴァイオリン:川久保賜紀
  管弦楽:大阪交響楽団


ま、「ウィーン」というのなら、シェーンベルクがアメリカ亡命後に書いた本作品よりもっと相応しいものがあるのではないか、とか、シェーンベルクに合わせるのならスッペよりカールマンじゃないのか、とかいった声もあるかも知れませんが、実際のところはヴァイオリン協奏曲をやろう、という企画がまずあって、それの付け合わせをちょっと捻ってみたというのが実情かなと思います。それにしても、料理に喩えるなら、前菜もスープもなしにいきなり熟成したジビエをクラシックなソースで頂くメインが出され、その後にデザートが5皿続くといった趣、しかもデザートはいずれも甘さ控えめで見た目も地味な焼き菓子なんだがカロリーは恐ろしく高め、みたいな、実にユニークかつ楽しいものでした。私は今回の「ちょっと捻ったウィーンプログラム」というタイトルに偽りなし、と思いました。

シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲、ヒラリー・ハーンの最近の録音は評判が良いみたいですが私は未聴。私はアモワイヤルがソロを弾いてブーレーズがLSOを振った録音を聴いてきましたが、シェーンベルクの諸作の中でも辛口の部類。これを聴いてウィーンに思いを馳せるというのは難しかろうと思っていましたが、驚くことに今回の演奏、なるほどこれならウィーンというシェーンベルクの「根っこ」の部分が感じ取れる、と思いました。特に第2楽章、スコアは2/4拍子で書かれていますが実質は紛う方なきレントラーということが実によく判りました。これは偏に下野竜也の指揮の威力でしょう。この指揮者、過去の私のブログでは松村禎三の「沈黙」、ライマンの「メデア」「リア王」の三回にわたって触れてきましたが、シェーンベルクの複雑なスコアを精密に音にしていく技には本当に感服しました。それと、先程のレントラーもそうですが、アーティキュレーションとそれを団員に伝えるテクニックが非常に適確。おそらく物凄く判りやすい指揮なのだと思う。シンプルでもったいぶったところがない。よくピアニストに関して、豊かで恰幅がよく神経質なところのない演奏をグランドマナーと表現することがありますが、下野の指揮についても似たような感じを受けます。それが細密画みたいに精緻なスコアから音楽の本質を掴みだすのでしょう。そしてシェーンベルクの場合、その「本質」というのはとりもなおさずウィーンの音楽に特徴的な「伝統」ということになるのだと思います。
川久保賜紀のソロも素敵でした。ヴァイオリンの技巧については素人ながら、どんなに困難な技巧が使われているかは想像に難くありませんが、見た目には易々と弾いているように思われます。すさまじい重音の連続のカデンツァも、幾分リズムをくずしてラプソディックな表現を取り入れて自由に弾いています。その分、何か本質的なところで失われたものがあるかも知れませんが、今回のプログラムの中に置かれたシェーンベルクの表現としては言う事がないと思います。
アンコールのパガニーニは技巧よりもカンティレーナの美しさに徹した作品。彼女がなぜこれを取り上げたのか判らないけれど、そこここに現れる甘いポルタメントがウィーン風と言えなくもないのがお洒落だと思いました。

後半のスッペはさっき甘さ控えめな焼き菓子に喩えた通り、質実剛健な音楽。楽しいだけでなく、ずっしりとした手ごたえのある音楽でした。下野の指揮も外連味はないものの、至る所で上手さに唸りそうになります。スッペで長々書くというのも野暮なのでこれぐらいにしておきますが、こうしてまとめて聴くと思いのほか良い音楽です。
アンコールは「軽騎兵」はまぁお約束ですね。時間的にややコンパクトなプログラムだったので他に「こうもり」序曲くらいやってくれないかな、と思ってましたがさすがにそれは無し。でもちょっと物足らないくらいがちょうど良いのかも。満ち足りた気持ちで家路につきました。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-01-25 17:19 | 演奏会レビュー | Comments(0)

マイアベーア 「悪魔のロベール」を聴く (その3)

「ゼロ・グラヴィティ」、いい映画だけどジョージ・クルーニー殆ど宇宙服のヘルメット被ってて顔見えてんの全編足しても20秒くらいか。ギャラ高いだろうにもったいない・・・などとつい余計なこと考えてしまう。




「悪魔のロベール」初演の1831年といえば、ショパン、シューマン、リスト、ワーグナーといったロマン派の代表選手たちはいずれも20歳前後。ウェーバーやロッシーニと同じく、古典からロマン派への過渡期の音楽と言ってよいと思います。音楽そのものよりはむしろオペラの怪奇小説・ゴシックホラー的なプロット自体がいかにもロマン主義という感じがします。バロック、古典派、ロマン派、いずれも音楽より文学がやや時代的に先行して現れる訳ですが、ロマン派あるいはロマン主義の文学における典型的な現れ方はゴシックホラーに見られるのではないか、と思います。もっとも私は文学的素養に疎いので具体例といってもメアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」(1818年)とかE.T.A.ホフマンの「砂男」(1817年)くらいしか思い浮かびません。むしろ音楽とゴシックホラーの結び付きとしては、シューベルトの短い生涯にアーチを描くように現れる怪奇趣味、「魔王」D.328(1815年)、「こびと」D.771(1822年)、「ドッペルゲンガー」D.957-13(1828年)が思い起こされます。それはともかく、「悪魔のロベール」が19世紀ヨーロッパで爆発的ともいえる人気を誇った理由の一つが、第3幕の死霊のバレエであったことは間違いないでしょう。今でいうならさしずめゾンビか何かのホラー映画のノリ、人によっては下品と見做す向きもあろうかと思うけれど、やがてドガが絵画のモチーフにしたり、コルンゴルトがオペラで引用したり、はたまた「オペラ座の怪人」の競売の場面にその小道具が出てきたりする内に、こんなことも教養の網目に組み入れられていく訳だ。そのアーカイヴの厚みもまたこういう世界を探索する楽しみの一つだと思います。

【第3幕】
いよいよこのオペラの最大の見せ場、地獄のワルツや死霊のバレエの出てくる第3幕。単にスペクタクルで大衆受けするというだけでなく、音楽的にも先立つ2幕に比べてマイアベーアのオリジナリティが感じられます。それはつまりロマン派らしい音楽がここにきて聴かれるようになるということ。時代の大きな変わり目に書かれたということがよく判ります。

第9曲:前奏、レチタティーヴォとブッフォデュエット
アリースと結婚するためにサンティレーネにやってきたランボーをベルトランが待ち受けている。ベルトランはランボーに金貨の詰った財布を投げ与え、金さえあれば女などよりどりみどりと誘惑する。ランボーは有頂天になって去っていく。ベルトランは洞窟の中に現れた地獄の者たちに呼びかける。
Buffoduettoとあるとおり、ロッシーニ風、部分的にはモーツァルト風でさえある二重唱。ロンド風にテンポや曲調が目まぐるしく変化する面白いテノールとバスの二重唱。

第10曲:地獄のワルツ
洞窟の中に地獄の悪魔達が現れる。ベルトランは悪魔の王に忠誠を誓う。
リストのトランスクリプションで有名な場面。まずは悪魔達の合唱(譜例10)。
(譜例10)
a0240098_14552222.png

次いでベルトランのワルツ(譜例11)。リストが技巧の限りを尽くして編曲したのも頷ける素晴らしい旋律。
(譜例11)
a0240098_1451298.png

ワルツの終りの壮麗さは、後のベルリオーズの「ファウストの劫罰」などに多大な影響を与えたであろうと思います。ワルツが終わると美しいアンダンティーノが現れ、アリースのレチタティーヴォに続きます。

第11曲:ロマンスと情景
アリースがランボーの不在を嘆き、彼の無事を神に祈る。洞窟から先程の悪魔の合唱がロベールの名を呼ぶのが聞こえてくる。アリースは洞窟を覗き込み、恐怖のあまり傍にあった十字架にしがみつき気を失う。洞窟からベルトランが現われアリースを見つける。彼は今日の真夜中までにロベールの魂を悪魔に引き渡さなければ自らも破滅するのである。
アリースのロマンスそのものよりも、悪魔達の合唱を挟んで劇的に拡大されたレチタティーヴォ(情景)に興味を惹かれます。それはロッシーニら先行者の影響よりもむしろ、続くベルリオーズらに与えた影響を感じさせる音楽。

第12曲:二重唱と情景
気がついたアリースに、ベルトランは洞窟で見たことを問い質す。アリースは何も見ていないと答えるが、ベルトランはもし口外すればアリースだけでなくランボーや彼女の父親も死ぬだろうと脅す。
長期間にわたって音楽を書いていると、途中で様式ががらっと変わってしまうことがあります。よく知られた例で言うとシェーンベルクの「グレの歌」(後期ロマン派から無調の一歩手前まで)。あるいはストラヴィンスキーの「うぐいすの歌」(ドビュッシー風の音楽から春の祭典の世界へ)。「悪魔のロベール」の場合、この第12曲で真にロマンティックな音楽に至ったように思われます(譜例12)。おそらくそれはベルリオーズだけでなく、グノーやトマ、サン=サーンスに流れていく源流なのでしょう。
(譜例12)
a0240098_16163612.png


第13曲:第13曲:三重唱とレチタティーヴォ
イザベルを失って悲しみに暮れるロベール登場。その悲しみに附け入ろうとするベルトランと、何も言えないアリースとの三重唱。アリースが走り去ると、ベルトランはグラナダ公が魔術を使ったのだからロベールも同じ手を使えと唆す。それは、今は廃墟となった修道院に行って、聖ロザリエの墓の、石造が手にしている糸杉の小枝を持ち帰れ、というものだった。
終止無伴奏の三重唱。こういうナンバーもグランド・オペラのお約束の一つだろうか。最後に三人のカデンツァが置かれていて、ロベールのパートは三点ハが2回、三点変ニが1回現れます。次の第14曲に先立つベルトランとロベールのレチタティーヴォには第2幕のベルトランの勝利の歌が現れます。

第14曲:二重唱
ベルトランが言うには、その聖ロザリエの小枝はあらゆる事を可能にする力があるという。ロベールが躊躇うと、ベルトランは勇気ある騎士ならできるはずと彼を焚きつけ、ロベールは修道院に出かけていく。
意気揚々とした明るいナンバー。ロベールのパートはなんと三点ニまで上り詰めます(譜例13)。
(譜例13)
a0240098_2332242.png


第15曲:フィナーレ
  A.情景と死霊の召喚、尼僧達の行進
  B.バッカナール
  C.レチタティーヴォ
  D.バレエ 酒の誘惑
  E.バレエ 賭けごとの誘惑
  F.バレエ 愛の誘惑
  G.合唱と踊り
月に照らされた夜の廃院。そこには姦淫の罪を犯した尼僧達の墓がある。ベルトランが呼びかけると尼僧達が墓から甦る。ベルトランは間もなく現れる騎士を誘惑するよう死霊達に命令する。修道院長エレーナの亡霊が表れ、死霊達は過去の快楽を思い出しながら狂おしく踊り始める。ロベールが現れて冒瀆の恐怖に戦くが、エレーナの誘惑に負けて聖ロザリエの小枝を盗みだす。悪魔の勝利の合唱。
このオペラを有名にした場面ですが、よく聴いてみると単に派手なスペクタクルというのではなくて、やはり後のベルリオーズにまっすぐ通じていくものを感じます。例えば尼僧の行進など(譜例14)がそう。バッカナールにおけるオーケストラの妙技にも目覚ましいものがあります。かと思えば、「愛の誘惑」など、はやくもロマンティック・バレエが完成の域に近づきつつあったことが判ります。またそれと比べることで、ワーグナーの「タンホイザー」のバレエが如何に異常な音楽であったかも逆によく理解できます。
(譜例14)
a0240098_07714.png

第4幕と第5幕は次回まとめて。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2014-01-22 00:03 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

マイアベーア 「悪魔のロベール」を聴く (その2)

タモちゃんの「これでは国民が馬鹿になります」ツイートに賛成ww




それにしても、マイアベーアを聴いてつくづく感じることは、先行者としてのロッシーニがどれほど偉大な作曲家であったかということ。ロッシーニが1829年の「ウィリアム・テル」を最後にオペラの筆を折ったせいか、「悪魔のロベール」第2幕のイザベルのアリアなど、ロッシーニの正統な後継者たらんとして書いたことが歴然としていますが、そこは天才ならぬ身の悲しさとでも言うべきだろうか、聞けば聞くほどロッシーニの才能が際立ち、本家のロッシーニのオペラを聴きたくなってしまいます。一方、第4幕のイザベルのカヴァティーヌはいかにもベルカント風の切なくも美しい旋律。初演の1831年といえば、ベッリーニが「夢遊病の女」と「ノルマ」を続けて発表した年、ドニゼッティも1830年「アンナ・ボレーナ」を皮切りにぞくぞくと新作を発表しだした頃。この取り込みの速さと手際の良さというのもいかにもマイアベーア、なのだろう。
それでは以下、前回の続きを・・・。

【第2幕】
第4曲:序曲、レチタティーヴォとアリア
シチリアのイザベル姫は、王宮で独りロベールを想い嘆いている。そこに侍女達と共にアリースがやってきて、ロベールの書いた手紙をイザベルに手渡す。イザベルは心動かされ、ロベールの力になりたいと思う。
この第2幕全体が、イザベルという第1幕には登場しない人物のために書かれていると言っても過言ではありません。もう一人のヒロイン、アリースがリリコ、もしくはリリコ・スピントのための役柄なら、こちらはレッジェーロのための役柄。という訳で、イザベルのアリアにはロッシーニの影響が強く見られますが、ロマン派の終焉と共にこのオペラの上演頻度が激減したのは、このイザベル役を歌える歌手が(ロッシーニのセリア同様)いなくなった、あるいはこのロッシーニ風のフィオリトゥーラを歌う技術が途絶えたから、という理由もあるだろうと思います。そういう意味では、20世紀の後半にロッシーニの埋もれていた多くの作品が優れた歌手の力によって復活し、それが一通り終わった今現在こそ、マイアベーアの真価を計るべき時のような気がします。
第4曲は概ねカヴァティーナ=カバレッタ形式で書かれていて、セリア風で装飾の多いAndantino(譜例5)がカヴァティーナ、シチリアーナ風のAllegretto molto moderato(譜例6)がカバレッタに相当します。とくにシチリアーナの後半は胸がすくようなコロラトゥーラが頻出します。マイアベーアのコロラトゥーラといえば「ディノーラ」の「影の歌」が有名ですが、こちらは1859年の作ということもあってすっかりロマン派の音楽になっています。こういったオペラ・コミークの方のマイアベーアもいずれきちんと聴いておきたいものです。
(譜例5)
a0240098_0261311.png

(譜例6)
a0240098_029974.png


第5曲:レチタティーヴォと二重唱
アリースの導きでロベールが現れ、イザベルにこれまでの非礼を詫びる。イザベルは無一文のロベールに新しい一揃いの武具を与え、父王の催す馬上試合の勝者がイザベルを妻とすること、父王は密かにグラナダ公を勝たせたがっていることを知らせる。イザベルが立ち去るとベルトランに操られた伝令が現れ、グラナダ公が退屈な馬上試合ではなく真剣勝負で決闘したがっているとロベールに伝える。ロベールは望むところとばかりに指定された森に出かけていく。その様子を見てベルトランはほくそ笑む。
このロベールとイザベルの二重唱も概ねカヴァティーナ=カバレッタの定型を踏まえています。しかし同時代のドニゼッティと比べると白熱のカバレッタとまではいかないところが少々物足りません。それでもロベールのパートは最後は三点嬰ハまで上り詰め、聴き手を興奮させてくれます(譜例7)。
(譜例7)
a0240098_0483414.png


第6曲:踊りと合唱
ロベールを除く全ての登場人物、多くの貴顕や騎士達が舞台に現れ、華やかに馬上試合が始まる。人々はイザベルの徳と美しさを讃えて歌う。
合唱は華麗だけれど少々ステロタイプ。

第7曲:パ・ド・サンク
華やかなバレエ。
私はこういったバレエ曲になると、どうしても前後の部分に比べて密度が低いというか、空虚さを感じてしまいます。しかし音楽そのものは手練の作という感じがします。当時のパリにおけるバレエの受容の実態についても面白い話がたくさんありますが割愛。尚、前回紹介したCDではバレエの中の変ホ長調のMaestosoの部分を第8曲のレチタティーヴォの序奏として用いていて、これは改作としては成功していると思います。

第8曲:レチタティーヴォとフィナーレ
グラナダ公が試合に進み出るが、ロベールの姿はない。イザベルやアリースの悲しみをよそに、試合はグラナダ公の不戦勝となる。ベルトランは勝利の歌を歌う。
冒頭のベルトランの勝利の歌の部分(譜例8)は、リストの「鬼のロベールによる回想」の後半にちらっと出てきます。
(譜例8)
a0240098_18684.png

それに続く部分は実質的にはイザベルの華麗なロンド・フィナーレ。特に(譜例9)のところ、ほとんどロッシーニそのものといった書法。ただ、ロッシーニであればセリアとしての枠組みを壊すことなく、もっと技巧的な旋律を書いたに違いないと思います。
(譜例9)
a0240098_1144798.png


次の第3幕でいよいよベルトランが悪魔としての正体を表しますが、続きはまた次回に。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2014-01-17 23:22 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

マイアベーア 「悪魔のロベール」を聴く (その1)

ヤクルトサイズのドクターペッパーなら飲んでみてもいいと思う。




さて、久しぶりのCD視聴記。今回はマイアベーアの「悪魔のロベール」を取り上げます。まずは音源の紹介から。

  マイアベーア 「悪魔のロベール」
  ロベール: ブライアン・ヒメル(T)
  ランボー: マルシャル・ドフォンテーヌ(T)
  アリース: カルメン・ジャンナッタージョ(Sp)
  イザベル: パトリツィア・チョーフィ(Sp)
  ベルトラン: アラステア・マイルズ(Bs)
  ダニエル・オーレン指揮サレルニターナ・”ジュゼッペ・ヴェルディ”フィルハーモニー管弦楽団
  サレルノ歌劇場合唱団(合唱指揮:ルイジ・ペトロッツィエッロ)
  2012年3月23日コンサート形式による公演の録音
  CD:BRILLIANT CLASSICS94604  

どうでもいいことかも知れませんが、昔は「鬼のロベール」と呼んでいたような気がします。というか、このオペラの旋律を借りてショパンやリストが書いた作品は今でも「鬼のロベールによる協奏的大二重奏曲」(ショパン)とか「鬼のロベールによる回想」(リスト)と呼びならわされてますね。オペラのほうは何時の間にか「悪魔の~」と変わったらしいのだが。
それはともかく、このオペラを取り上げようと思った直接のきっかけは、今年3月にびわ湖ホールで予定されているコルンゴルトのオペラ「死の都」の素材となっているから。つまり予習の一環という訳。しかし本当の理由は、マイアベーアのこのオペラは19世紀のさまざまな天才達の作品の源流というべきものであり、一度はきちんと聴いておきたいと思っていたから、というもの。ここでマイアベーアの代名詞ともいうべき「グランド・オペラ」について少しwikipediaを参照しながら整理すると、典型的なグランド・オペラは5幕仕立てで第2幕あるいは第3幕にバレエを含み、壮大な規模とスペクタクルな舞台を特色とするもの。マイアベーアがこのグランド・オペラの様式に則って書いた第一作目が1831年初演のこの「悪魔のロベール」。以降、「ユグノー教徒」(1836年)、「預言者」(1849年)、「アフリカの女」(1865年)と続いていきます。マイアベーアに先立つ存在としてはケルビーニやスポンティーニ、そして何よりもロッシーニの「ウィリアム・テル」(1829年)とオベールの「ポルティチの啞娘」(1828年)が規模の大きさからグランド・オペラと呼ばれるに相応しいもの。いずれもパリで成功し、以降のオペラを志す音楽家は好むと好まざるとにかかわらず、このグランド・オペラとの対決を強いられたということになるのでしょう。早い話、マイアベーアなかりせば、ワーグナーの「リエンツィ」から「タンホイザー」に掛けての諸作や、ヴェルディの「シチリア島の夕べの祈り」から「ドン・カルロス」に至る諸作、ベルリオーズの大傑作「トロイアの人々」や更にはムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」も「ホヴァンシチナ」も生まれなかったとさえ言えると思います。マイアベーアを聴く楽しみは、これら傑作の森を滔々と流れる大河の源流を探して遡ることの楽しさであるわけですが、それはまぁ大方の予想通り、少々しょぼかったり誰かの亜流っぽかったり、私はひねくれた性格なのでそういう作品の弱さも含めて舌なめずりして味わった次第です。
本作は5幕から成り、序曲とそれに続く24のナンバーから出来ています。各ナンバーは概ね切れ目なく連続しており、レチタティーヴォはセッコではなくアコンパニャートで書かれています。アリアや合唱は、カヴァティーナ=カバレッタ形式のような様式感はあまり感じられず、次から次に親しみやすい旋律が出てくる、といった緩さが支配的。各ナンバーのそこかしこにロッシーニ風、あるいはモーツァルトやウェーバーのようなドイツ風、あるいはベルカント風のロマンツァが散りばめられており、マイアベーア自身の独自性よりは当時のヨーロッパの音楽の見取り図のような、よく言えばコスモポリタン風、悪く言えばいかにも誰かの亜流といった音楽が続きます。

以下、例によって各ナンバーごとに物語と音楽について書いていきます。
【序曲】
オペラはロベールが御供のベルトランや騎士達とパレルモの居酒屋で飲んでいる場面で始まりますが、オペラには13世紀頃の作者不詳の物語を下敷きにした前史があります。とある頃、ノルマンディ公には子が無く、公妃は悪魔に祈りを捧げて息子ロベールを得たが、長じるに連れ暴虐の限りを尽くし、遂には教会から破門され故国を追い出されて諸国を放浪しているというのが物語の背景。
序曲は4分に満たない簡潔なもの(譜例1)。その素材は第3幕のベルトランの歌うévocationから採られています。このévocationという言葉、招魂、死者の魂を呼び覚ますという意味だそうですが、あのアルベニスの大曲「イベリア」の第1曲もEvocaciónでしたね。まぁこちらは「記憶を呼び覚ます」くらいの意味なのでしょうが。それはともかく、これから始まる大オペラに相応しく、かっちりと書かれた音楽。こういう音楽を聴くと、マイアベーアという人の本質が、イタリアで学んだドイツ人、ウェーバーの同時代人、ということがよく判ります。ちなみにコルンゴルトのオペラ「死の都」の第2幕第3場で一瞬だけ引用されているのもこの序曲。
(譜例1)
a0240098_15283531.png

【第1幕】
第1曲:A.導入と合唱、B.バラード、C.導入部の終り、D.レチタティーヴォ
ロベール達のもとにノルマンディからランボーとその一行がやってくる。騎士たちの求めに応え、ランボーはロベールを悪魔の子だと揶揄するバラードを歌う(譜例2)。怒ったロベールは彼を殺そうとするが、ランボーの許嫁のアリースが命乞いをする。実はアリースはロベールと乳兄妹であり、ロベールの母の手紙を預かってきたのだと言う。
長大な第1曲、聴きどころはランボーの歌うバラードとアリース登場のすぐ後の合唱。ランボーのバラードの序奏はホルンの合奏によるもので、ウェーバーの「魔弾の射手」をいやでも思い出させます。
(譜例2)
a0240098_164275.png

アリースの登場に続く合唱(譜例3)は、ショパンが「鬼のロベールによる協奏的大二重奏曲」の後半で引用しているもの。ショパンのこの作品で使われてる主な旋律は、第2曲のアリースのロマンスと第5幕終盤に出てくる第23曲「三重唱」の中のAndante cantabile、そしてこの騎士たちの合唱ですが、同じオペラによるトランスクリプションでも、リストの「鬼のロベールによる回想」が第3幕の地獄のワルツと第2幕でロベールを罠に陥れたベルトランの勝利の行進曲をモチーフにしているのと好対照(抒情的なショパンとド派手なリスト)。
(譜例3)
a0240098_1626651.png

第2曲:ロマンスとレチタティーヴォ
アリースはロベールに母が死んだこと、そのいまわの際に、ロベールが一廉の男になっていたら渡すようにと手紙を預かっていることを話すが、ロベールは今はまだその時ではないと受け取らない。ロベールがシチリアの王女イザベルを愛していて、彼女を拐かそうとして父王の不興を買った事を知ったアリースは、ロベールに嘆願書を書かせ、イザベルに渡そうと決意する。しかしアリースはそこにやって来たベルトランの姿を見るや「悪魔」と呟いて立ち去ってしまう。
ショパンの協奏的大二重奏の前半で引用されているのがこのアリースのロマンス(譜例4)。ここにマイアベーアのドイツ的なるものとイタリア的なるものの幸福な結合が認められます。おそらく初演当時から人気ナンバーだったに違いありません。とても抒情的なロマンスですが、最後に即興的なカデンツァが置かれていて、初演当時絶頂期を迎えつつあったベッリーニやドニゼッティの影響が感じられます。
(譜例4)
a0240098_164344.png

第3曲:フィナーレ
ベルトランはロベールと騎士達をさいころ博打に誘う。ベルトランのたくらみによってロベールは無一文となってしまう。
フィナーレは「シチリア舞曲と賭け遊びの音楽」と名付けられていて、当時のヨーロッパにおけるシチリア人気が偲ばれます。ロベールのパートは3点ハ(いわゆるハイC)まで上がり、最後に白熱のストレッタが置かれていて、これが当時パリで最ももてはやされた享楽の音楽のスタイルなのでしょう。
ちょっと長くなりそうなので続きは次回に。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2014-01-13 01:20 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)