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イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956(その15)

犬 の オ メ ェ レ ス ン





長々と書いてきたイーヴ・ナットの連載も今回が最後。ベートーヴェンの後期ソナタ4曲を聴きます。

  CD8
  ベートーヴェン
  ピアノ・ソナタ第28番イ長調Op.101 [1954.6.14.録音]
  ピアノ・ソナタ第30番ホ長調Op.109 [1954.2.17.録音]
  ピアノ・ソナタ第31番変イ長調Op.110 [1954.2.17.録音]
  ピアノ・ソナタ第32番ハ短調Op.111 [1954.2.17.録音]

ベートーヴェンの32のピアノソナタといえば『音楽の新約聖書』とまで呼ばれる重要な作品群であることは言を俟たない訳ですが、もし28番以降の作品が無かったとしたら、そこまでの値打ちがあっただろうか、と思います。それほどまでに、いわゆる後期ソナタというのは以前の作品と隔絶した唯一無二のものだろうと思います。
そんなソナタに対して、一体何を書いたらよいのか、このところずっと思い悩んできました(別に悩む必要もないのだけれど)。素人のお遊びブログですが、これでも一応、何かしら自分自身のオリジナルな見解を書きたいと思い、wikipediaに載っていることは書くまい、単なる印象批評みたいな文章も極力書くまい、という姿勢でこれまでやってきました。しかし、これら後期の作品群に対しては、恐らくこれまで夥しい論評、分析、賛辞が書かれてきたはずであり、今更何を書く必要があろうかと思います。
そうはいっても何か書かずにいられないのは業みたいなものでして、既に言い尽くされていることは百も承知で少しだけ、気になっていることを書き留めておきたい。
このシリーズの初回にOp.106の「ハンマークラヴィア・ソナタ」を取り上げた際に、いわゆる「後期様式」の特色を「①フーガの活用②装飾音としての機能を著しく逸脱した長大なトリル③ソナタ形式の再現部等における単純な繰り返しの回避④緩徐楽章における果てしない沈滞⑤形式上の、あるいは規模的な肥大」であると書きました。このCDに収められた4曲は⑤の規模的肥大は当てはまりませんが、その他の4点についてはあまり異論はなかろうと思います。しかし、②の「装飾音としての機能を著しく逸脱した長大なトリル」については若干の補足が必要かもしれません。
ベートーヴェンの後期ソナタや、同じく後期の「11のバガテルOp.119」、「ディアベリ変奏曲Op.120」に出てくる特徴あるトリルについて、トリルがこれほど重要な役割をするのはスクリャービンの後期ソナタとブーレーズの第2ソナタくらいなものだと書かれていたのは諸井誠だったか(記憶が定かではありませんが)、確かに晩年のベートーヴェンのピアノ曲に現れるトリルは一種独特なものがあります。だが、単に長大なトリルというのであれば、初期の第3番(譜例1)や中期の第21番(譜例2)にも出てきます。

(譜例1)
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(譜例2)
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そもそもトリルとはなにか。当たり前のようだが、一つは修飾の為。もう一つは現代のピアノに比べて音の減耗が激しい古い鍵盤楽器で、ある音を持続保持させる為。バロックから古典にかけてのトリルの用法はほぼこのいずれかと言ってよいと思います。たとえば上の譜例で挙げた用法は装飾的な意味合いもあるけれども、専ら音の持続保持の役割が大きいような気がします。
しかし、例えばOp109に現れる長大なトリル(譜例3)やOp111の三重トリル(譜例4)はそのいずれとも意味合いが異なるような気がします。

(譜例3)
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(譜例4)
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それは敢えて言えば天上の音楽としての表現、あらゆるものを浄化し、昇華させる魔法の言語としての機能を担っているのだろうと思います。これらを聴くときの、あの意識が遠のいていくような感覚は、確かにスクリャービンの用法に近いものかも知れません。
「ハンマークラヴィア」のフーガに頻出するトリルはまた少し意味合いが異なっており、一見バロック音楽の装飾的用法に近くも見えますが、こちらは弾き手に対して技術的な負荷を要求し、それを克服する者にのみ近づくことを許すようなもの、眠れるブリュンヒルデを守る炎のようなものの性格を担っています。例えば次のような箇所。
(譜例5)
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現代のピアノの書法としては難技巧というほどのものではありませんが、初演当時の聴衆はさぞ驚いたことだと思います。これはただでさえ峻嶮な峰々のあちこちに散在するクレヴァスや切り立った崖のようなもので、これを乗り越えて初めて遥かな高みに至るといったものなのでしょう。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタの特色で、あまり語られないような気がするのがヴィルトゥオジテの追求ということ。そのヴィルトゥオジテというのはロマン派のそれとは随分異なるけれど、ベートーヴェンの場合、ピアノという楽器そのものの改良に併せて、新しい楽器のアクションの追求がそのまま新しいピアノ技法の開発に繋がっていったということなのでしょう。ここに挙げたトリルの用法も、そういったレベルでのヴィルトゥオジテの一種と見ることが出来るような気がします。そして、後期ソナタが通常の意味で「難曲揃い」であることの理由もそんなところにあるのでしょう。

ナットの演奏に関して、これまでの私の記述を読んだ人は「テクニックに相当の難があるようだが、難曲で知られる後期ソナタをちゃんと弾けているのだろうか」と危惧の念を持たれるかも知れませんが心配ご無用。このCDのセットの中でも最も技術的な破綻がないものだと思います。いや、それどころか数あるベートーヴェンのソナタの演奏の中でも最も優れたものの一つだと思います。私はけっして多くの録音を聴いてきたわけではありませんが、少なくとも後期ソナタに関してはソロモンとポリーニに匹敵するものだろうと思います。ポリーニの後期ソナタの録音は今もって不朽の名盤であると信じて疑いませんが、彼はある時期ナットの演奏を勉強したに違いありません(根拠はないですが)。それぞれ個性的な演奏家をゲルマン系とかラテン系などと大雑把に分けるつもりはありませんが、ナットの演奏というのはバックハウスやケンプなどとは全く異なる性格のもので、ポリーニやソロモンと並べるとやはり明らかに非ゲルマン系と呼びたくなるような共通するものが見つかります。それは明晰さであったり構築性といった言葉で表されるものですが、逆にゲルマン系(そんなカテゴリーが実在するとして)のピアニストに共通するものは(恐らく世評とは反対に)ファンタジーとか、それと裏腹の曖昧さのようなものかも知れません。どちらが上とか下という話ではありませんが、少なくとも私にはこのナットのベートーヴェン演奏は思いもかけないほどの大きな収穫であったことは確かです。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2013-11-24 16:55 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

法貴彩子ピアノ・リサイタル

♪ ロッテコアラのパンチ ♪




友人に勧められて法貴彩子(ほうき・さやこ)のリサイタルを聴きにいきました。


  2013年11月14日 於兵庫県立芸術文化センター(神戸女学院小ホール)
  チェスター・ビスカルディ: 欲望への挑発(1984)
  ネッド・ローレム: トッカータ(1948)
  ロジャー・セッションズ: ピアノソナタ第1番(1930)
  エリオット・カーター: ピアノについての二つの考察より「カテネール」(2006)
  ローウェル・リーバーマン: ガーゴイルOp.29(1989)
   (休憩)
  マルティン・マタロン: 時間の二つのフォルム(2000)
  ジャン・アラン: 3つのエチュード(1929-1930)
   Ⅰ.響きのエチュード
   Ⅱ.重音のエチュード
   Ⅲ.4つの音のテーマによるエチュード
  ジャック・カステレード: セロニアス・モンクを讃えて(1983)
   Ⅰ.肖像画
   Ⅱ.黙示的ロック
  
  
感想を一言でいうなら「すげーっ」(笑)。ありあまるテクニックと知的なアプローチで、ちょっと和製ユジャ・ワンの趣も。黒のノースリーブのブラウスに黒のパンツルック、終始にこりともせず勝気そうな中にちょっと不安げな表情が・・・素敵ですww。
プロフィールを見ると02年に京都市立音楽高校(現京都市立京都堀川高校)卒、同年9月パリ国立高等音楽院入学、11年までフランス在住だったとのこと。これまでの演奏歴にはラヴェル、ラフマニノフ、メシアン、バルトーク等々、近現代の難曲がずらりと並んでいます。
それにしても今回のプログラム、今現在の彼女のお気に入りばかり並べたのだろうか。ここまでワガママ通せるというのも凄いな。私はそんなにピアノヲタクではないので、「ガーゴイル」しか聴いたことがなかったのですが、いずれの作品もピアノ弾きには堪らないだろう。正直なところ、どうせならもっとハードコアな現代モノに惹かれる私としては、どれもこれも現代風の衣装をまとったサロン音楽もしくはアンコール・ピース集に聞こえてしまうのですが、それでも古典派やロマン派には目もくれず、おそらく今の彼女の年齢でしか弾けない作品だけを選び、不相応な「内面」だの「精神性」なんかも横に置いといて、ひたすら超絶技巧を知的に制御し切ることだけに特化した今回のリサイタルには、ある種すがすがしいものを感じました。
個々の楽曲について詳細を語る資格は私にはありませんが、こういったプログラムの中だと、やはりエリオット・カーターの才能が際立つように思います。近現代の作曲家のなかではそこそこのビッグネームだと思いますが、それなりの理由があってのことだと感じました。ピエール=ローラン・エマールの為に書かれただけあって、かなり激烈な作風ですが、ベースは気の利いたアンコール・ピースでしょう。ロジャー・セッションズはストラヴィンスキー自作自演の「結婚」のピアノパートを弾いていたので、ピアノの腕が立つことは判っていましたが、このソナタも相当の難曲だろうと思います。ただ、なかなかかっこいい曲だとは思いながらも、繰り返し何度も聴きたいか、と問われたらかなりビミョ~。リーバーマンの「ガーゴイル」はユジャ・ワンが取り上げたためか、ただ今プチブレイク中の作品だと思います。確かにテクニックのある人が弾くと思わず笑ってしまうくらい効果満点の作品。今回の演奏も私、笑ってしまいました。
プログラム最後のカステレード「セロニアス・モンクを讃えて」は実に面白い作品。それまで暗譜で弾いてきたのですが、これだけは楽譜を置き、譜めくりを従えての演奏でした。特に二曲目「黙示的ロック」は猛烈な超絶技巧という感じ。それがどれくらい猛烈かというと、リゲティのエチュード第2巻の終曲「無限柱」よりは少しマシなくらい、といえばお判り頂けるでしょうか。何となく曲想もリゲティに似ています。これを目の前で弾かれたら、もう口をポカンと空けて呆然とするしかない。アンコールは無し。そりゃもう当然でしょう。
さて、このピアニスト、今後どのように進化していくのだろうか。これから充実の30代、私の願望を交えた想像ですが、リゲティのエチュードとメシアンの「鳥のカタログ」あたりはいずれ全曲に取り組まれるのでしょう。シャリーノなんかも向いてそう。ただ、その先ブーレーズやクセナキスを取り上げる可能性は低いでしょうね。大井浩明とのデュオをされたりしているので可能性ゼロではありませんが。近代モノではラヴェルよりドビュッシーが向いているかも知れません。特に「12のエチュード」は彼女の知的なアプローチでいつか聴いてみたいものです。自身の成長に沿ってロマン派のレパートリーも増えていくのでしょうが、むしろ聴いてみたいのはハイドンなどの古典派。勝手な事を言ってますが(笑)、本当に楽しみなピアニストが現れたものです。紹介してくれた友人に感謝。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2013-11-15 12:59 | 演奏会レビュー | Comments(2)

ライマン 「リア王」 二期会公演

ガングリオンって擬態語?(なんかぐりぐりしてるし)





アリベルト・ライマンの「リア王」、その舞台を観て圧倒的な感銘を受けました。昨年の同じくライマンの「メデア」公演について、「これから先、オペラを観てこれほどまでに感動することが幾度あろうか」と絶賛したのですが、今回の公演もその時に勝るとも劣らないものでした。

   2013年11月10日 日生劇場
    リア王: 小森輝彦
    ゴネリル: 小山由美
    リーガン: 腰越満美
    コーディリア: 臼木あい
    フランス王: 小田川哲也
    オールバニ公: 宮本益光
    コーンウォル公: 高橋淳
    ケント伯: 大間知 覚
    グロスター伯: 峰茂樹
    エドマンド: 小原啓楼
    エドガー: 藤木大地
    道化: 三枝宏次
    合唱: 二期会合唱団
    管弦楽: 読売日本交響楽団
    指揮: 下野竜也
    演出: 栗山民也

タイトルロールの小森輝彦が圧倒的。私は事前にフィッシャー=ディースカウを聴いたりしたせいもあって、その呪縛に捕らわれて楽しめないのでは、という心配があったのだが、結果は想像をはるかに超えるものでした。第1幕の嵐の場の、王としての矜持と威厳に満ちた歌唱もさることながら、第2幕の狂気の場、人間としての弱さ、情けなさが痛切な痛みを伴って歌われるのが圧巻。頭には王冠の代わりに野辺の草花を飾り、チックの発作で首を不自然に曲げて脈絡のないうわごとを歌う場面はちょっと怖いぐらいでした。コーディリアの遺体をひきずって歌う幕切れ、この芝居の最大の悲劇は、リアが最後の最後に正気に戻ってしまうことだと言うが、正にその悲劇を実感させる歌唱であり演技であったと思います。
エドマンドの小原啓楼は以前「沈黙」のロドリゴ役を聴いて感心した歌手だが、今回も渾身の力を込めた素晴らしい歌でした。オペラに限りませんが、悪役が輝いてこその舞台というものがあるものです。シェイクスピアでいえば、たとえばリチャード三世とか「オセロ」のイアーゴがそうだが、小原のエドマンドは正に舞台上で悪の喜びと不安に輝いていました。
エドガーを歌った藤木大地も素晴らしい。グロスターとの断崖の場は、オペラ全体の中でも特に優れたページだと思いますが、実際の舞台に接すると体が震えるほどの感動を覚えます。グロスター役の峰茂樹も優れています。ケント伯の大間知覚は、聴き手を熱くさせる歌唱。その他オールバニ公爵の宮本益光、コーンウォル公爵の高橋淳等、脇役に至るまで全く隙のない布陣。ほんの少ししか出てこない脇役だが、第1幕序盤のフランス王の小田川哲也を聴いただけで、もうこれは大変な舞台になるぞと思いました。
女声陣ではリーガン役の腰越満美が頭一つ抜けている感じがしましたが、ゴネリルの小山由美も大したものです。コーディリアの臼木あいもリリックな役柄に沿った過不足のない歌だとは思いますが、ないものねだりを承知で言うと、もっと上を狙えるような気がしました。ほんの少し、コロラトゥーラが空回りして歌と役柄との間に隙間があるように思われます。あと、忘れてならないのが語り役の道化。今回はダンサーの三枝宏次が好演していました。
下野竜也指揮の読売日本交響楽団についても文句のつけようがありません。舞台前に弦楽器と二台のハープ、舞台の両袖に膨大な管と打楽器。耳を聾せんばかりの咆哮から楽団員の息遣いがきこえそうな静寂まで、まったく息もつかせぬ名演ではなかったでしょうか。下野の指揮はいつもの通り、なにも変わったことはせず、小手先に走る要素は皆無だが、音楽が大きくうねって聴衆に襲い掛かり、また包み込む。前回の投稿で1978年録音のバイエルン盤と2008年フランクフルト盤のレポートを書いたが、どちらかといえばバイエルン盤のように前衛的なテクスチュアを強調しながらも、響きの美しさをないがしろにしない今回の演奏を聴いていると、時間の経過が音楽としての円熟をもたらしたかのように聞こえます。これも以前書いたことだが、松村禎三の「沈黙」において、初演まもなく録音された若杉弘指揮のCDに聴く昂揚感と、下野竜也が指揮した2012年新国立劇場公演の、いかにもエスタブリッシュメントといった感のある実演との差異と同様のものが感じられました。
栗山民也の演出は、オーケストラに半ば埋め尽くされた制約の多い舞台を逆手にとって、シンプルで力強く、観るものの想像力を激しく刺激するものでした。大道具といえば不安定に傾いだ角形の舞台と、天井から舞台に向かって鉛筆のように先端が突き刺さった細い柱のみ。登場人物は舞台の周囲から、あるいは時に後方の壁が開いたところから現れる。小道具の類も最小限に抑えられているが、 まったく不足感はありません。照明の効果も的確で、二つの場面が同時進行するところも判りやすく描かれています。
それにしてもこのような優れた舞台を観ると、現代音楽だから、という理由で食わず嫌いな人が数多くいるのだろうということがとても残念に思われます。このライマンという作曲家、人口に膾炙しているとはとてもじゃないが言えない。だが、昨年の「メデア」も含めて、本当に人間の声に対する全幅の信頼を感じさせる点、稀有な作曲家だと思います。

まだまだ書ききれません。以下は蛇足みたいなものだが・・・。
私がシェイクスピアの全戯曲37編を小田島雄志訳で読んだのは結婚前の20台後半のころでしたが、実はその時、「リア王」に関しては全くピンときませんでした。リア王にしてもグロスター伯にしても、なんと愚かな、と思っただけで、それ以上の感想はそのころには持ちえなかったのでした。今回の公演を機に久しぶりに「リア王」を読み返したのですが、その間に私も長いサラリーマン生活を送ってきて、面従腹背やら阿諛追従やらを目にし、ケント伯じゃないが上に直言したことが怒りを買ったり、僻み嫉みの類で身に覚えのない誹謗を受けたりしてきました。自分を正当化するつもりはありません。自分を曲げてまで人に阿るような芸当こそ不得手な人間ですが、自分自身気づかぬうちに、いや、それとなく気づいていながら人を貶め傷つけてきたことも多分山のようにあるはず。親子の問題だってそうだ。恥を晒すようだが、実母が若くで死んだ後、父との関係がぎくしゃくして、今では絶縁に近いまま今日に至ります。そうして馬齢を重ねて「リア王」を読むというのは実に辛い体験でした。幸い、未だ嵐の夜に寝床もなくさまようことはせずに暮らしてはいますが、リアとグロスターの悲劇というのは荒唐無稽なお話とか、愚かで特殊な人間のお話でもなんでもなく、実に身につまされるものであったのだと実感しています。そして原作のリアの台詞、

  人間、生まれてくるとき泣くのはな、この
  阿呆どもの舞台に引き出されたのが悲しいからだ。(小田島雄志訳)

この台詞がようやくこの年になって実感を伴うものになったのだと、少なからず驚きに似た感慨を持ちました。それにしても、シェイクスピアの原作は最後にエドガー、ケント伯とオールバニ公の短い対話が置かれていて、悲劇的結末の中にも一抹の希望が見えるのだが、オペラのほうはリアの嘆きのあと、弦のフラジョレットによる静かな後奏が続いて一かけらの救いもなく幕が降ります。この違いは非常に大きく、重苦しい塊を飲み込んだまま劇場を後にするはめになってしまいます。
ライマンのリア王が、一つの作品として非常に優れていると思うことの一つは、シェイクスピアの原作をオペラという制約ゆえに相当切り詰めてはいるけれども、この重層的なストーリーに基づくダイナミズムを些かも失うことなく見事に二時間半ほどにまとめあげた点だろうと思います。リブレットだけ読むと若干原作とくらべて舌足らずなところがないとは言えませんが、そういった箇所では音楽が雄弁にことばを補い、ことなる場面が舞台で同時進行したり、オペラならではの重唱という手段を取ったりしながら、芝居とはまた違った充実した時間を作り上げています。しかも単に限られた時間内で物語が効率的に進むというだけではなくて、エドマンドの独白や、エドガーとグロスターの断崖の場、リアとコーディリアの再会など、ここぞというところでオーケストラが濃密な書法はそのままに息を潜めるようにたっぷりと時間を取って演奏し、歌手たちが言葉は少なくてもじっくりと心の内を歌い上げる、そのオペラ作品としての完成度の高さが凄いのだと思います。ヴェルディに限らず、19世紀のオペラ作家達が「リア王」のオペラ化を断念してきたのは、プリマドンナが3人必要、という興行上の難点もさることながら、リアと娘たち、グロスターと息子たちという2つのドラマがねじれ、からみあいながら進むのを、オペラ向きに簡略化するのがいかにも困難であったというのが最大の理由であったと想像できますが、クラウス・ヘンネベルクのリブレットはその点を見事にクリアしていると思います。
またライマンの音楽的書法そのものだが、昨年の「メデア」でも感じたことだが、オペラにおけるリアリズムとはなにか、という問題意識が非常に明確であるように思います。たとえば憎しみとか悲しみを表現するのに、時として生々しい叫びや語りを使うことはあっても、基本はコロラトゥーラといっても良いような技巧的な歌唱を用いています。ヘンデルのバロックオペラやロッシーニの古典派セリアの全てとは言わないが、その極度に装飾的・技巧的なアリアが時として聴くものの肺腑をえぐるような瞬間がありますが、ライマンの狙っているものは(どんなにうわべが前衛的に見えても)それほど遠いものではないように思います。喩えが適切かどうか判りませんが、歌舞伎や人形浄瑠璃のような日本の古典芸能でも、およそリアリズムと対極的な様式的な表現でありながら、人間の真実としか言いようのない何ものかを現前させる瞬間がありますよね。ライマンのオペラというのは、そんな連想をとめどなく呼び寄せるような魅力があるのだと思います。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2013-11-14 00:13 | 演奏会レビュー | Comments(2)

二期会公演に先立ってライマンの「リア王」を予習中

ハロウィンの日の●神電車、仮装したDQNがいっぱい。もういや~。





11月10日の二期会公演@日生劇場、ライマンの「リア王」観劇に向けて予習中です。無理やり出張も作って準備万端(笑)。音源は2種類。

 アリベルト・ライマン「リア王」全曲

  ①リア王: ヴォルフガング・コッホ(Br)
   フランス王: マグヌス・バルトヴィンソン(Bs-Br)
   オールバニ公爵: ディートリッヒ・フォッレ(Br)
   コーンウォル公爵: マイケル・マッカウン(T)
   ケント伯爵: ハンス=ユルゲン・ラザール(T)
   グロスター伯爵: ヨハネス・マルティン・クレンツレ(Bs-Br)
   エドガー: マルティン・ヴェルフェル(C-T)
   エドマンド: フランク・ファン・アーケン(T)
   ゴネリル: ジャンヌ=ミシェル・シャルボネ(Sp)
   リーガン: キャロライン・ウィスナント(Sp)
   コーディリア: ブリッタ・シュタルマイスター(Sp)
   道化: グレアム・クラーク(語り)
   侍者: チャッド・グレアム(T)
   騎士: ニコライ・クラワ(語り)
   セバスティアン・ヴァイグレ指揮フランクフルト歌劇場管弦楽団
   フランクフルト歌劇場合唱団(合唱指揮:マティアス・ケーラー)
   2008年9月28日・10月2,12,25日ライブ録音
   CD:OEHMS OC921

  ②リア王: ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ(Br)
   フランス王: カール・ヘルム(Bs-Br)
   オールバニ公爵: ハンス・ヴィルブリンク(Br)
   コーンウォル公爵: ゲオルク・パスクーダ(T)
   ケント伯爵: リヒャルト・ホルム(T)
   グロスター伯爵: ハンス・ギュンター・ネッカー(Bs-Br)
   エドガー: デイヴィッド・クナトスン(C-T)
   エドマンド: ヴェルナー・ゲッツ(T)
   ゴネリル: ヘルガ・デルネシュ(Sp)
   リーガン: コレット・ローランド(Sp)
   コーディリア: ユリア・ヴァラディ(Sp)
   道化: ロルフ・ボイゼン(語り)
   侍者: マルクス・ゴリツキ(T)
   騎士: ゲルハルト・アウアー(語り)
   ゲルト・アルブレヒト指揮バイエルン国立管弦楽団
   バイエルン国立歌劇場合唱団(合唱指揮:ヨーゼフ・バイシャー)
   1978年10月バイエルン国立歌劇場でのライブ録音
   CD:DG UCCG3013/4

①は昨年11月の投稿で取り上げたライマン「メデア」全曲盤と同じくOEHMSレーベル。「メデア」のCD同様、カラー写真入りのきれいなリーフレットが添付されているが、リブレットはドイツ語のみってのが残念。②は渡辺護氏による歌詞対訳とライマン自身による詳細な作曲経緯が添付されているが現在は廃盤で、amazonではかなりの高値がついているようです(私は大阪府立中央図書館で借りました)。
今回はこの二つの音源の聴き比べという訳ですが、まず②のほうからいくと、いかにも今さっき生まれたばかりの生々しい現代音楽という感じがします(実際に初演と同時進行で録音されたのですから当然といや当然)。スコアを調べたわけではないので、あくまで印象批評の域を出ませんが、四分音やクラスターの音響効果が先鋭極まりない。これは相当現代モノを聴きなれた人にとっても手ごわいハードコアな前衛音楽というふうに聞こえます。歌手は豪華な顔ぶれですが、歌唱というよりも語りの要素の強いフィッシャー=ディースカウについては好き嫌いのレベルはともかく、正当な評価というのはちょっと難しそうだ。もちろん作曲者はFDのためにこのオペラを書いたのだから、この歌唱がどこまでスコアに忠実なのかといった問いは意味を為さない訳だが、王の威厳よりも人間としての弱さや醜さを前面にだしたFDの朗唱はある意味凄まじい。長女ゴネリルに蔑ろにされたリアが、次女リーガンに泣きつく場面など、実際の人間の老いというものが如何に惨めで醜いものか思い知らされるほど。第2幕で、完全に狂気に陥ったリアが譫言を話す場面はFDの独擅場でしょう。二人の姉娘役のヘルガ・デルネシュとコレット・ローランドの激しいコロラトゥーラ風の技巧的な歌唱も寒気がするほどだが、コーディリアを歌うユリア・ヴァラディがいつになく抒情的な歌い方で、女声三人の性格が明確。個々の歌手について書き出すときりがないが、グロスターとエドガーの断崖の場は感動的。シェークスピアが「リア王」において「神無き世界」を描こうとしたのか否かは私には分らないが、ここでのエドガーはまるで神性を帯びているように思われます。ライマンがこの役をカウンターテナーの為に書いた理由もそこにあるのでしょう。グロスター役のハンス・ギュンター・ネッカーとエドガー役のデイヴィッド・クナトソンは素晴らしい歌唱だと思います。
これを聴いて①を聴き比べると、同じスコアとは思えないほど響きが美しく音楽的に聞こえます。音楽的に、というのは誤解を招く表現かも知れませんが、要は新ウィーン楽派の延長線上にある音楽、という風に聞こえるということ。特に印象深いのは道化が語る場面が弦楽四重奏できわめて室内楽的な書法で書かれ、前後の大オーケストラの咆哮や金管打楽器群の炸裂と明確な対比がなされていることに改めて気づかされるところでしょう(道化だけが終始狂気から免れているということか)。ただ、①と②のどちらが正しい音楽のありようなのかは私には判断がつきません。どちらがよりスコアに忠実か(どのみちこれほど複雑で前衛的な書法で書かれている以上、オーケストラや生身の歌手による完璧な再現というのは困難だろう)というレベルではなく、どちらが作曲者自身が考えていた音響に近いか、というのは興味深い問題だと思います。①のほとんど官能的なまでのオーケストラの美しさ、道化の場の、ウェーベルンの「弦楽四重奏のためのバガテル」を思わせるような透明なテクスチュアは素晴らしいと思うけれど、1978年に生まれたこのオペラの、非常に大切な本質の幾分かは失われているのではないか、という疑念を感じざるを得ません。といって、この①の録音が角の取れた、中庸の音楽かといえば決してそうではなく、第2幕グロスターが両目を抉られる場の戦慄すべき表現、第1幕で狂人のふりをして辛くも逃げおおせたエドガーの長い独白とその前の間奏曲の、夜明け近く白々とあたりが闇に慣れた目に映りだす景色のような荒廃の美の表現など、これはこれで端倪すべからざる演奏だと思いました。指揮をしているセバスティアン・ヴァイグレについては、今年4月の東京・春・音楽祭のマイスタージンガーを振っていた人、という他には私はあまり知識がありません。以前この人がリセウ歌劇場で「ヴォツェック」を振ったDVDがあって、東日本大震災の直後に東京で「ばらの騎士」のオックス男爵を歌ったフランツ・ハヴラタがタイトルロールを歌っているというので思わず買ったのだが、エログロの極致のようなエグイ演出にげんなりしてほとんど観ていないのです(一昔前なら間違いなくボカシがはいるようなシロモノ)。リア王を聴いて、改めてこの指揮者をすこし注視していきたいと思った次第。歌手はいずれもこの「音楽的な表現」というコンセプトに沿った歌唱というところで、歌うべきところは朗々と歌い、シュプレッヒシュティンメで書かれたところはここぞとばかり演劇的な表現をしているという感じを受けます。個々の歌手で突出した人は良くも悪くも見当たらないが、リーガンを歌っているキャロライン・ウィスナントは歌も素晴らしいけれどヒステリックな嗤いの表現が実に演劇的で面白いものでした。
この①と②の表現の違いについてですが、これは単に指揮者の解釈の違いというより、この二つの録音の間に経過した30年という時間そのものという気がします。オーケストラの各メンバーや個々の歌手の技巧、前衛的なスコアに対する慣れといったものはこの期間に格段の進歩を遂げたのは間違いありません。しかしその反面、なんというか、この業界全体が反前衛的な、一種の懐古趣味のようなものに覆われつつあるのではないかという気もします。作曲者ライマン自身にしても、この二つの録音に現役の作曲者がなんらかの形でコミットしているのでしょうから、それはライマン自身の心境の変化とも関係しているような気がします。個々のプレーヤーの前衛的書法に対するおどろくべき順応と、それをとりまくある種の退嬰的な潮流。この一見相反する事象がこの先10年後、20年後どうなっていくのか、作品そのものの評価とは別に気になるところだ。
シェークスピアの「リア王」そのものについても書きたいことはあるが、これは10日の公演を聴いてからにしようと思います。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2013-11-07 22:18 | CD・DVD試聴記 | Comments(2)