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ハンス・ヴェルナー・ヘンツェを聴く

拾いネタから・・・
エンペンメンとジェメェジスン©ヤナセテケシ(合掌)





関西転勤後初の東京出張。ってか、この演奏会のために無理やり出張作ったようなもんなんだけど(笑)。だって一夜のコンサートでオールヘンツェプロなんて一生のうちにそうはないでしょう。もっとも関西も捨てたもんでもなくて、私が初めてリゲティの「アヴァンチュール&ヌーヴェル・アヴァンチュール」を生で聴いたのも、べリオの「シンフォニア」を聴いたのも大阪でしたが・・・。

   2013年10月10日 於東京オペラシティコンサートホール
   ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ
     ピアノ協奏曲第1番(1950)*
     交響曲第9番(1995~97)**
   指揮: 沼尻竜典
   ピアノ: 小菅優*
   合唱: 東京混声合唱団**
   管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

ところでヘンツェという人、私はNHK-FMや独WERGOのLP・CDで随分前から聴き齧ってはいるけれど、一昔前は多作家のわりに容易に入手できる音源が少なかったもので、なんとなく全体像がいまだに見えていない感じがします。最も強烈な印象が残っているのは「エル・シマロン(逃亡奴隷)」という語り手とフルート・ギター・パーカッションのための作品。美しいかと問われたら思わずNoと言ってしまいそうなくらい、何だかよく分らんのだが粘っこくまとわりつくような情念の感じられる作品。テキストの内容とツトム・ヤマシタのパーカッションの凄まじい演奏のせいもあるが、汗や小便の臭いまでしてきそうな音響(というより音場といったほうがいいのかも)。これを聴いたきっかけは(手元になくてうろ覚えだが)柴田南雄氏の著書で紹介されていたからだったと思います。割と最近CDで復活した「ナターシャ・ウンゲホイエルの家への険しい道のり」なんてのもあった。電子音響の炸裂するいかにもゲンダイオンガクなのだが、これもえらくどろどろした情念のようなものが感じられました。ただ私は60年代の前衛の季節を通り過ぎた芸術家にありがちな左翼的スタンスが基本的に受付けがたいところがあって、これらの作品が無条件に好きという訳ではない。逆にテキストをもたない作品は良くも悪くもシェーンベルクの後継者としての使命感のようなものがあるのか、随分とアカデミックなところがあって、正直なところあまり面白くない印象があります。アルディッティSQの弦楽四重奏曲集なんかはかなり聴き込んだはずだが殆ど記憶に残ってません。スコアを見ながら聴けば印象も変わるのだろうが、そこまでして聴きたいと思えないのが辛いところ。「王宮の冬の音楽」なんかは沈んだ抒情性があって、比較的好んで聴いていた時期がありますが、今やそれも限りなく忘却の彼方となってしまいました。

今回の「ピアノ協奏曲第1番」と「交響曲第9番」。予めCDを買って予習するはずが、転勤引越しで落ち着かない日々で開封しないまま当日を迎えました。そんな訳でごく幼稚な感想しか書けませんが自分自身の備忘として少しだけ書き留めておきたい。
ピアノ協奏曲第1番は先ほど述べたアカデミック路線の作品。全編十二音技法に則って書かれているのに、最初の二つの楽章の終りがこれみよがしの伝統的三和音で終わるのもヘンツェらしいというべきか。ピアノパートはそれなりに技巧的ですが、どこか野暮ったく一回聴いただけではさほど面白いとも自分で弾いてみたいとも思えません。もっとも、シェーンベルクの十二音技法に転じてからのピアノを含む器楽作品が、最初の取っつきにくさとは裏腹にスコアを読み、自分でさらってみると俄然面白く感じられるのと同様のことがないとも限らないから、作品自体の評価は留保せざるを得ないと考えています。小菅優の独奏は大変優れたものだと思います。決して小さいとは言えない規模のオーケストラに負けないプレゼンスがありましたが、作品自体のせいでオケとピアノの丁々発止とはならないところがヘンツェの(テキストを持たない器楽の)ある意味泥臭く、ある意味アカデミックに聞こえる所以。スコアを見てないので何とも言えないのだが、リズムが比較的縦にきれいに割り切れるというのか、ストラヴィンスキーが開拓したようなリズムの饗宴とは程遠い印象がそのようなイメージを生むのかも知れません。
休憩を挿んで後半の交響曲第9番。打楽器だけでも10人がかりの大オーケストラ(といっても規模としては3管編成くらいか)、オルガンと合唱附きの7楽章からなる大曲を前に、やはり予習しておけばよかったと反省しきり。全楽章で合唱の出番があるが、テキストのある音楽ではアカデミズムをかなぐり捨てて情念に満ちた音楽を書くというヘンツェへの私の先入観は若干肩すかしを食う。これはヘンツェの加齢のせいなのか、クラシック音楽界全般の保守化傾向なのか、あるいは単に私の思い込みが間違っていただけなのか、もちろん一度聴いただけでは判断がつきません。だがすくなくともかつての前衛の時代ならば決してこういった作品は書かなかっただろうと思います。もともとヘンツェという人がトータル・セリエリズムと一線を画した、保守的な側面を持っているというのとは少し次元の違う話です。基本的に調性がある訳ではなく、ネオロマンティシズムというのとも違うが、ある種の退嬰感は否めないという印象を持ちました。かつての「エル・シマロン」同様、抑圧された人間の逃亡(こちらはナチスの収容所からの逃亡)をテーマとしているのだが、両者の間に横たわる四半世紀の時の経過を感じざるを得ません。
作品自体の評価は以上のとおり、分かったふうなことは言えませんが、作曲者の死去から一年経たずしてこれだけの規模の演奏会を高いクオリティで実現した沼尻竜典と東フィル、そして東京混声合唱団には惜しみない拍手を送りたいと思いました。平日の公演ということでさすがにオペラシティホールの埋まり具合は6割もいっていないと思いますが、聴衆の反応は概ね暖かいものであったように思います。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2013-10-17 00:16 | 演奏会レビュー | Comments(0)

新国立劇場公演 ヴェルディ 「リゴレット」

ホラー映画を途中まで観て、舞台となった森で如何なる惨劇が起こったのか、カンニング竹山といっしょに調べに行く夢を見た(けっこう怖かったです)。




のっけから私事で恐縮ですが、この10月1日付けで関西に転勤となりました。仕事のことはともかく、これからオペラを観る機会が激減すると思うとちょっとブルーな気分です。そんなわけで赴任前の送別会もそこそこに新国立劇場の新シーズンの幕開けを飾る「リゴレット」の初日に行って参りました。

   2013年10月3日
   リゴレット: マルコ・ヴラトーニャ
   ジルダ: エレナ・ゴルシュノヴァ
   マントヴァ公: ウーキュン・キム
   スパラフチーレ: 妻屋秀和
   マッダレーナ: 山下牧子
   モンテローネ伯爵: 谷友博
   ジョヴァンナ: 与田朝子
   指揮: ピエトロ・リッツォ
   演出: アンドレアス・クリーゲンブルク
   合唱指揮: 三澤洋史
   合唱: 新国立劇場合唱団
   管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

最近予算縮減の所為なのかどうか、若干プログラムが保守化しているような気がしないでもない新国立劇場ですが、このリゴレットは新制作とのこと。だが、なんというか、前半は人を酔わせない舞台。第1幕と第2幕はホテルだと言うんだが、予備知識なく観てるとなんだかよく判らない。グラサンを掛けた怪しげな男たちと、コールガールのようなこれまた怪しげな女たちが登場し、私は最初、娼館かなにかが舞台なのか、と思いました。ジルダは回り舞台の客室から出てくるので、これは自分が純真無垢な少女だと思い込んでいる頭のおかしい娼婦の幻覚なのか、とも思いましたがそういう訳ではなさそう。第2幕では下着姿の女たちが亡霊のように彷徨い、男たちはそのなかの何人かを弄ぶ。スパラフチーレは通りすがりの客としてバーのカウンターに腰掛け、リゴレットに語りかける。いや、確かに登場人物のどれをとっても酷い連中なのだが、この舞台を観てそういった連中同士の関係性のようなものがいくらかでも明確になったか、といえばノーと言わざるを得ない。第3幕はそのホテルの屋上で、ホームレスのような人々がたむろする殺伐とした光景。これも本来の河畔というイメージが邪魔をして、最初の内ホテルの屋上とは気が付きませんでした。もっとも、トラディショナルな演出でもここは殺風景な場面ですので、これはこれで前半よりは違和感がない。すぐそばに地獄が口をあけて待っているような場所(まさにアンリ・バルビュスの『地獄』そのもの)で、世にも美しい四重唱が歌われるというのもヴェルディ自身が想定していたところでしょう。それにしても、第1幕と第2幕が全く同じセットというからには、享楽の館が一瞬にして悲劇の舞台となる、その移ろいが感じられて然るべきところ、「え、ずっとこのままなの?」という戸惑いしか感じられませんでした。私はいわゆる「読み替え」は、決して好きではないけれども頭から否定はしないつもりですが、これは「読み替え」になっていないのでは、単に時代をいじっただけじゃないか、という思いが最後まで消えませんでした。ちなみに以前、同じ演出家による「ヴォツェック」の舞台を観たことがあるが、こちらはいかにも表現主義的な陰惨極まりないもので、好きにはなれないけれどもそれなりに筋の通ったものでした。それと比較しても、今回のリゴレットは些か読み替えとしては安直な部類かも知れません。
せっかくの新制作の舞台なのにあまり楽しめなかったのですが、歌手はその演出の不満をぶっとばすくらい素晴らしい出来でした。マントヴァ公のウーキュン・キム、どこまでもよく伸びる声、なめらかすぎてプラスチックのようなつるつるした感触がこの役には不思議とよく合っていると思いました。その輝かしさは、最初これはイタリア・オペラの輝かしさとはどこか異質なのでは、とも思いましたが、次第にそんなことはどうでもいいと思わせるような優れた歌唱であったと思います。ただこの歌手、マントヴァ公以外でどんな役が向いているかといわれると、ちょっと考えてしまいます。ヴェルディに限ってもなかなか思い浮かびません。案外、ベルクの「ルル」のアルヴァ役なんてどうでしょうかね?父の愛人で母を殺したルルに跪いて熱烈なアリオーゾを歌うという、ありえない役柄ですが、この人が歌ったらとても合うような気がしました。
ジルダのエレナ・ゴルシュノヴァも素晴らしい歌唱。最初のリゴレットとの二重唱は、いわゆる「お人形さん」タイプかなと思いましたが、これは計算の上なのでしょう。続くマントヴァ公との二重唱では、うってかわって切れば血の出るような歌を歌い、幕を追うごとに聴き手の心に迫ってくるようでした。終盤の瀕死のアリアは、もう不憫で不憫で、あたしゃもう涙でボロボロでした。タイトルロールのマルコ・ヴラトーニャは、この二人と比べると少し弱いと感じましたが、細やかな表情がそれなりに聴かせるので大きな不満はありません。ただ、第3幕の四重唱はちょっと埋もれすぎていたように思います。スパラフチーレの妻屋秀和はさすが。マッダレーナの山下牧子は、蓮っ葉な女の可愛さに溢れていて秀逸。
実は演出にケチをつけながらも、第2幕のリゴレットの「ララ、ララ・・・」あたりから私は恥ずかしながらほとんどハンカチを手放せないほど感動していました。ろくでもない人間ばかり登場するオペラで、これほどまでに人の心を揺り動かすとは、とヴェルディの天才ぶりに改めて感じ入った次第。たとえば第1幕、ジルダとマントヴァ公の二重唱。前半のカヴァティーナで愛を語り、続くカバレッタで抑えきれないほどに逸る心を歌う。音楽の形式と内容がこれほどまでに一体となっているとは、と衝撃すら感じました。第3幕の名高い四重唱も然り。ヴェルディが如何に天才であっても、こうしたアンサンブルで物語が停止してしまう瞬間はあるのだが(例えば「オテロ」のコンチェルタートなど)、この人間心理と一体となった四重唱については間然するところがありません。ヴェルディの傑作といえば、ついつい「オテロ」や「ファルスタッフ」を挙げて、この「リゴレット」なんかは後回しにしてしまいがちなのですが、やはり舞台を観るととんでもない傑作だと思い直しました。
新国立劇場合唱団の素晴らしさはいつも通り。ただ、このオペラの(ろくでもない連中の)合唱は感情移入が一切できない分、記憶にはとどまりにくい感じ。イタリアもののオーケストラには大体厳しめの評が多い私ですが、今回は歌手が優れていたのでそれを邪魔しなければそれでもう十分といった感じがしました。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2013-10-16 01:15 | 演奏会レビュー | Comments(4)