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【聴き比べ】 ブラームス マゲローネのロマンスOp.33

嗚呼、このツイッターは読まなけりゃよかった(涙)。
笹崎譲‏@udupho8月5日
この旋律を聴いて、相撲の行司さんを連想したらRT 
http://www.youtube.com/watch?v=wUiU-BhiSgY#t=1m27s
(Brahms 「永遠の愛について」op.43-1)




ちょっと新しい趣向に挑戦、題して「名曲聴き比べシリーズ」。
・・・いやそんな大したもんじゃありません。だいたい、私はコレクタータイプのマニアではないので、基本的に同一曲で何種類も音源を持つということがない(もしあれば気に入った方を残して中古屋に売ってしまうだろう)。数万枚のコレクションを誇るマニアが、何十枚と聴き比べて至高の一枚を選ぶようなものは土台無理です。そういうのではなくて、偶々手元にある素晴らしいディスクを、出来れば他の録音と比べて言葉を尽くしながら、その美点を分析して紹介してみたいと思っただけの話です。

という訳で、30代前半の若き日のブラームスの傑作「マゲローネのロマンス」Op.33。語り附きの15曲からなる連作歌曲集。このブログを始めた頃からずっと、いつか取り上げてみたいと思ってました。ピアノ・ソナタ第3番Op.5、4つのバラードOp.10、弦楽六重奏曲第1番Op.18などと並んで、ブラームスの若書きならではの抒情が素晴らしい。あまり知られていませんが、初期ブラームスの記念碑的集大成、個人的にはブラームスのベスト3に入れたいほどの作品です。ルートヴィヒ・ティークによるテキストについては私がとやかく言うより専門の方のご紹介がありましたのでそちらをご覧ください。
http://www.ne.jp/asahi/bariton/eishi-kawamura/03_04lec/3magelone.html
http://www.ne.jp/asahi/bariton/eishi-kawamura/03_04lec/4magelone2.html

今回取り上げるディスクはフィッシャー=ディースカウ(以下FD)の20代の録音2種と油の乗り切った頃のリヒテルとの共演盤、それに現代の俊英トレーケルの4種類を聴きます。

  ①マゲローネのロマンスOp.33*
    Nachtwandler Op.86-3**
    Von ewiger Liebe Op.43-1**
    Waldeseinamkeit Op.85-6**

   Br:D.フィッシャー=ディースカウ
   Pf:ヘルマン・ロイターHermann Reutter*
     ギュンター・ヴァイセンボルンGünther Weissenborn**
   1952年11月23日録音*
   1954年6月15日録音**
   CD:audite95.581


  ②同(併録曲なし)
   Br:D.フィッシャー=ディースカウ
   Pf:ヘルタ・クルストHertha Klust
   語り手:ウルズラ・ハウシュテートUrsula Haustädt
   1953年録音
   CD:ARCHIPEL ARPCD0296

  ③同
   Br:D.フィッシャー=ディースカウ
   Pf:スヴャトスラフ・リヒテル
   CD:BRILLIANT CLASSICS92891
   ・6枚組でブラームスの低音用歌曲がほぼ全部聴けるのはお得だが録音データ無く不便。
    EMIのライセンス云々とあるから原盤は恐らく1970年7月24-25日録音のものだろう。

  ④同
   Br:ローマン・トレーケル
   Pf:オリヴァー・ポール
   語り手:ブルーノ・ガンツ
   2003年5月9-10日&9月12-14日録音
   CD:OEHMS CLASSICS OC331

それにしても、下記ブログ(こういうのをマニアというんですよ)によるとFDによる録音は少なくとも8種類あることになる訳だが、
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/170369/150976/59241652
最初にネタばらしをしておくと、今回の投稿の主目的は1953年録音のあまり知られていない音源の紹介にあるのだから、私としてはデームスやムーアと組んだ録音に興味を惹かれながらも、これだけあれば十分かな、と。

まず一番古い1952年録音の①から。ナレーションはカット。全15曲の内、第13曲がカットされていますが、これはFDのこだわりがあるのでしょう。この傑作を広く世に知らしめたいというFDの使命感にも似た愛が伝わってきますが、やや力み過ぎなところも。録音時27歳のFDは策を弄することなく素直に歌っていますが、特にテンポの速い曲でピアニストの余裕がなくなるにつれて、FDもコントロールを失いがち。伴奏は自らもリート作曲家であったヘルマン・ロイターが弾いていますが、ここぞという聴かせどころでそっけなく聞こえる。ロイターについては詳しく知りませんが、職業ピアニストでない限界か、それともノイエ・ザッハリヒカイトの世代ゆえのそっけなさなのか?特にブラームスのリートの場合、ピアニストの力量は演奏の成果にかかわる大きなファクターであると痛感します。
ついでながら余白に収録された3つの歌曲は秀逸。特にOp.43-1の「永遠の愛について」は後年のサヴァリッシュとの録音よりも遥かに優れていると思います。まちがっても中間部で行司さんの「ひが~しぃ~」を思い出してはいけない。

翌1953年にベルリンで録音された②はオリジナル通り女声による語りが入っていますが、第11曲と第13曲がカットされています。CDには解説が一切添付されていないので、共演者のプロフィールも判りませんが、素晴らしい伴奏。FDも①の若々しさはそのままに、声をうまくコントロールする術を掴んだようで本当に素晴らしい歌唱です。いや、FDのアプローチは①とそんなに変わっていないとも言えるが、伴奏が素晴らしいので多少の粗もむしろ歯噛みする馬の勇み立つような真実の表現として聞えてしまう、というのが正しい。ただでさえ知名度の低い作品であるのに、なまじっかリヒテル盤があるばっかりにこの②のCDに陽が当たる機会は極めて少ないだろうと思います。そのことがもう残念でなりません。ヘルタ・クルストという伴奏者はFD、というより物語の主役ペーターと共に胸を張り、天を仰ぎ、愛を語る。リートにおいて、ピアノが歌に寄り添うとはどういうことなのか、これほど雄弁にそれを教えてくれる録音はそんなに無いのではないかと思います。はっきり云って、録音状態は前年の①よりも悪いですが、たぐい稀な名盤として全てのブラームスを愛する人にお薦めしたいと思う。

いよいよリヒテルとの③だが、残念ながら名歌手と名ピアニストとの組合せは必ずしも成功するとは限らないというセオリー通りの出来栄えという気がします(ちなみに語りはカットされているが、以前は省略されていた第11曲と第13曲を含む全15曲が歌われている)。全体を通すと意外なほど安全運転。本来であれば、己に欠けているものを相手の内に認め、お互い触発されていくべきところ、ここではお互いの沸点の差のようなものがあからさまになっただけ、というか、もしかしたら自分が発火点と思ったところが相手は沸点にも達していなかった、という事態が起こっているように思います。その責任の大半はやはりリヒテルにあって、並みの伴奏ピアニストなら技巧的に難儀する第10曲のようなところを、実につまらなさそうに余裕のテクニックで弾いてしまう。まったく二コリともせずに「もっと速く弾くこともできますが、さて、どうしますかな」とでもいいたげだ。実はリヒテルが本気で燃えているのは第12曲(譜例1、IMSLPから落としたペータースの低音用譜)。

(譜例1)
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その1曲前、第11曲でも、重い足取りが晩年のインテルメッツォを思わせるような弾き方で、ようやくリヒテルが本領発揮かと思わせたが、第12曲における、このおそるべき沈潜、ブラームスの深淵を抉りだす伴奏はやはり素晴らしく、彼がとんでもない天才ピアニストであることを如実に示しています。この一曲を聴くためだけでも身銭をきってこのディスクを買う値打ちがある。FD自体は正に円熟期を迎えていたはずだが、若き日の②を聴いてしまったらどうしたって若づくりの作為を感じてしまう。敢えて軽めの声で歌っているのも加齢を感じさせる。知る人ぞ知る名盤中の名盤だが、私にはどうもコアなリヒテル・ファンのための一枚、という感じがします。

最後にポストFD時代のバリトンはかくあるべし、とでもいいたげな④トレーケル盤について一言。このディスク、カットなしの全15曲に語りもすべて入っているのでCD2枚組になっています。あらゆる意味で現代のスタンダードと言えるのでしょう。伴奏ともども、深く楽譜を読み込んだ跡の伺える演奏。トレーケルの声は若さもあり、甘いところは蕩けるように甘くもあるのだが、どこかミクロン単位のトレランスで仕上げ加工された工業製品を思わせるところがあります。ごくわずかに音程を外すところですら、膨大なアーカイヴを参照して、たとえばFDはここで僅かに音程を外しているから効果として許容できるだろう、などとあれこれ議論していそうだ(実際にどうかは知らないが)。伴奏ピアニストにしても然り。たとえば譜例2(第8曲冒頭)の箇所、他のいずれのピアニストもなんとなくスラーとして弾くが、彼は第2小節の左手はスラーでなくタイとしている。

(譜例2)
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厳密なテキストクリティークを踏まえればそうなのだろう。しかし、音楽としてはスラーでいいじゃないか、という気がする。若い時の私であればこの演奏はおそらく大いに気に入ったと思う。しかし、私自身歳をとり、多少は他者に対して寛容にもなり、マゲローネのような作品には多少の粗はあっても②のような若さに優るものはないのだ、と思うようになると、この演奏には少しよそよそしいものを感じる。現代においてはまっとうなレーベルから商品として出すにはこのレベルの磨きあげが必要なのだろうが、ヒストリカルな録音と対比すると少々寂しいような気分を味わいます。
ちなみに本ディスクで語りを担当しているブルーノ・ガンツだが、映画『ヒトラー~最後の十二日間~』のヒトラー役といえばご存じの方も多いと思います。私にはドイツ語の語りについてあれこれ述べる力はありませんが・・・。

今回の結論は断然②のディスク。馬は若いほどよく走る、ただし良き伯楽を得た時には。当たり前の結論に至りました。それにしても辛い結果ではあるなぁ。つまりどんな偉大な芸術家であっても、若い時にやっておかねばならないことがある。時期を逃すと、老いてからどんなに頑張ってもどうしようもないことがある、という結論なのですから。これはブラームスの芸術も同じ。いかに壮年期のシンフォニーや晩年のインテルメッツォが偉大であっても、この若書きの一小節にも及ばないような何物かが、確かにここにはある。中年にはきつい話だ(笑)。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2013-08-26 21:20 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956(その11)

下肢の故障で手術した同僚が久々に出社。松葉杖でヒョコタンヒョコタン歩いているのを見ていると、後ろからそーっと近づいて膝カックンしたくなる。もう衝動を抑えるのに必死。




ナットのシリーズ、どんどんいきますよ。今回はベートーヴェン4曲。

   CD4
   ピアノ・ソナタ第12番変イ長調Op.26 [1955.9.20.以前の録音]
   ピアノ・ソナタ第13番変ホ長調Op.27-1 [1955.9.20以前の録音]
   ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調Op.27-2「月光」 [1955.6.24.録音]
   ピアノ・ソナタ第15番ニ長調Op.28「田園」 [1955.9.20.以前の録音]


ベートーヴェンのいわゆる中期と呼ばれる時期を何時からと見るかはいろんな説があると思いますが、12番ソナタを聴いていると明らかにそれまでのソナタ群とは作風が変化していることに気付きます。次のOp.27の2曲と併せて、初期から中期への橋渡し的な存在と見るのが妥当だろうと思います。このソナタの最大の特色は変奏曲→スケルツォ→葬送行進曲→無窮動風ロンド、というようにソナタ形式に拠る楽章がないことですが、そのこと自体はモーツァルトの有名なトルコ行進曲附きのソナタもそうでしたから、ベートーヴェンの発案という訳には行きません。しかし、各々の楽章のコントラストの強さや、全編に漲る自由闊達さにはモーツァルトやハイドンのような先人達の作品とは全く異なる音楽を感じます。この作風の変化の内実を具体的に、クレメンティのような同時代人との相互影響の分析を踏まえて研究してみたいという誘惑に駆られます(クレメンティのソナタは100曲ほどあるようなので真面目にやろうとすると大変ですが)。
ところで第3楽章の葬送行進曲は変イ短調という大変珍しい調性で書かれていますが、ベートーヴェン以前にこの調性で作品を書いた人はいるのだろうか?有名なところではアルベニスの「イベリア」の第1曲「エボカシオン」とか、リストの「ラ・カンパネラ」の初稿(S140の方。現行の改定版は嬰ト短調)が思いつくところですがいずれもベートーヴェン以降の作品。ご存じの方がおられましたらご教示ください。
ナットの演奏は大変優れていますが、第3楽章の行進曲の再現部をffで開始しているのは疑問(ラフマニノフ盤のショパンの葬送行進曲じゃあるまいし)。同じ楽章の中間部も叩き過ぎて音が汚く割れているのが、ナットらしいとも言えるけれど評価は分かれるでしょう。

第13番ソナタは、次の第14番と共に「幻想曲風ソナタ」と題されています。「幻想曲」の定義にも拠りますが、ロマン派的な「幻想曲」をイメージすると第14番にこそ相応しい表題となりますが、「ソナタ形式に拠らない自由な形式による作品」と捉えると先の12番と同じく、このソナタ形式楽章を持たない13番の方がより表題に合致した曲、と言えます。地味な作品ながら、第2楽章Allegro molto e vivaceはそれまでの古典的なスケルツォと一線を画す近代的感覚に満ちた音楽となっており、ベートーヴェン自身の初期から中期への橋渡しと同時に、古典派からロマン派への移行をも示しているように思われます。
ナットは最初の3つの楽章は優れていますが、技巧的にやや難度の高い終楽章は粗さが目立ちます。それでもこの時代のピアニストにしては様式感が非常に的確なところが素晴らしいと思いました。ただこの録音、attaccaの指示があるにも関わらず、第2楽章と第3楽章の間で背後のヒスノイズも含めて完全に音が途切れてしまいます。4つの楽章が全てattaccaで連続して奏されることが作曲者の新機軸なはずですからこれはいただけません。原盤のLPがどうなっているのか判りませんが、この録音の編集者は楽譜も読めないのか、とちょっと文句を言いたくなります。

第14番、言わずと知れた月光。「熱情」や「悲愴」については若干食傷気味と書いた私ですが、14番については何度聴いても良い曲だと思います。まぁこういうのを名曲と称するのでしょう。先の13番と並んで「幻想曲風ソナタ」と題されていますが、緩徐楽章で始まるのはベートーヴェンの発明ではないし、終楽章は堂々たるソナタ形式。これに敢えて幻想曲風と名づけたのはやはり第1楽章のロマンティックな楽想に起因するのでしょうから、まさにロマン派の源流を見る思いがします。
ナットの演奏は平凡と言えば平凡、終楽章のテクニックの粗さも最初は耳に障りますが、聴きこむほどに骨格のはっきりした良い演奏だということに気付きます。早めの第1楽章の右手に旋律が出てくるときのちょっとしたルバートも知的で良い。彼のシューマンに対して「構築的」という表現をしましたが、それがどこから来るものなのかも何となく理解できます。

第15番ソナタの通称「田園」は後世の人の附けたものですが、私はあまり使いたいとは思いません。ソナタ形式のアレグロ→三部形式のアンダンテ→スケルツォ→ロンドという構成は先立つ3つのソナタと比べると自由さという点で一歩後退しているかに見えますが、なんといっても目を惹くのは近代的メランコリーの感じられるアンダンテ。何を以てロマン派の嚆矢とするかは諸説あるでしょうが、私には先の「幻想曲風ソナタ」と並んでこのアンダンテこそそれではないかと密かに思っています。通称通りどこか緩い感じのするソナタですが、この楽章のおかげで意外と重要な作品になり得ていると思います。
ナットは持ち前の剛直さはやや抑えていますが、基本的にいつもながらのスタイル。この緩いソナタには実に好ましい効果をもたらしています。技巧的にはやや平易といったところですので粗も目立たず、良い演奏だと思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2013-08-12 00:00 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956(その10)

これはピアノ弾きには痛い指摘(笑)。
  クラオタの毒舌な妹bot‏@claotas_bot8月5日
  お兄ちゃん。そんなにクラシック好きなのにどうしてハ音記号も読めないの?





シリーズ10回目。シューベルト、ショパン、ブラームス、ナットのレパートリーとしては周辺的であったであろう作品を集めた一枚。

  CD9
  シューベルト
    楽興の時 D.780 [1952.5.6以前の録音]
  ショパン
    ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調Op.35「葬送」 [19533.6.録音]
    幻想曲ヘ短調Op.49 [1953.3.6.録音]
    舟歌嬰へ長調Op.60 [1953.3.6.録音]
    ワルツ第14番ホ短調(遺作) [1930年録音]
  ブラームス
    2つのラプソディOp.79 [1956年録音]

シューベルトのピアノ・ソナタのような大曲はごく僅かしか彼の生前に出版されなかったと言いますが、「楽興の時」D.780は1823年とその翌年に第3曲と第6曲がそれぞれザウアー&ライデスドルフから出版された『音楽アルバム』に掲載され、1828年の彼の死の直前に6曲まとめて作品94として出版されました。第3曲が突出して有名ですが、シューベルトは一体誰を対象に、あるいはどのような機会を想定してこれらの作品を書いたのかが気になるところ。技巧的には平易な作品なので、おそらくプロがサロンのリサイタルで弾くためではなく、アマチュアが家庭で演奏することを想定しているのでしょう。子供の頃に即興曲集と一緒にレッスンで学んだ方も多いはず。それだけにプロが弾いて人に耳を傾けさせるのは意外に難しいという気がします。また、現代の我々が聴くと、そこに単なるハウスムジークの愉楽にとどまらないある種の瞑さや晦渋さのようなものが感じられ、ベートーヴェンのバガテル集と並んでブラームス晩年の小品集Op.116~119の先駆としての性格も認められます。
ナットの慈しむような演奏はこういった作品の性格にとてもよく合っている感じがします。終曲の無垢なる深遠さに静かに焔が宿るさまはハウスムジークの領域を遥かに飛び越えています。ひとつ気になったのは第2曲が調律の所為でところどころ耳触りな音が鳴ること。単に調律が拙いのか、それとも昔のフランスではこういう調律法もあって、変イ長調の属和音だと濁るのか。お詳しいかたの御教示をお待ちしております。

ショパンはいずれも超が附く位の有名曲ですので、作品そのものについて私があれこれ蘊蓄めいた事を記す必要はないでしょう。
ナットの演奏だが、2番ソナタは技巧が追い付かずに破綻しているところが多く、ピアニストのお仕事として弾かざるを得なかったにしても少々痛々しい感じがします。しかしその瑕に耳が慣れてくると、剛毅な表現がそれなりに味わい深く、彼が表現したかったことが見えてきて瑕が気にならなくなるのが不思議。特に最初の二つの楽章はミスタッチをものともせず、あるべきフレージングに徹して弾いているのが感じられ、思わず居住まいを正してしまう程。第3楽章の葬送行進曲はラフマニノフ盤に倣い、前半はpからffへ、後半はffからppへ、という外連味たっぷりの演奏だがナットのアプローチには合わない。それより何より、この改変はラフマニノフだから許されることであって少々頂けない。
「幻想曲」も惜しむらくは細部の磨きあげと響きの純度が不足しているものの、骨格は素晴らしいプロポーションで私は大いに気に入りました。技巧面で彼に数倍優る演奏家が、細部の精巧さに淫して崩れそうな演奏をするケースと比べれば遥かに好ましく思います。
「舟歌」は、私にとって「幻想ポロネーズ」と並んで大好きな作品ですが、「幻想曲」と同様のアプローチで謹聴に値する演奏でした。もちろんホロヴィッツのような不健康さというか、病的な陰りはナットには望むべくもないが、嬰ヘ短調poco più mossoからの中間部はショパンの深淵に迫るものを感じました。
遺作のホ短調ワルツはおまけみたいなものだが、SP時代のナットは颯爽としたテンポとテクニックでそれなりに聴かせます。

ブラームスの「2つのラプソディ」。少し前のアマチュアコンクールの定番曲というイメージがあるが、最近は流行らないのか、あまり聴かない気がします。少し手の大きな人であればアマチュアでもそれなりに勢いで弾けてしまうのだが、実はプロにしてもなかなか良い演奏は難しい(弾いている本人だけはけっこうカタルシスを感じているのが困ったものww)。ブラームスにしては作品そのものの出来も今一つという気がして、いずれにしても難物でしょう。
ナットの演奏も悪くはないのですが、作品の評価を塗り替えるほどのものは感じられませんでした。以前取り上げたヘンデル・ヴァリエーションやOp.117が素晴らしい演奏だったので、どうせなら晩年のその他の作品、例えばOp.119あたりを録音しておいてくれたら良かったのに、とまぁこれは無い物ねだり。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2013-08-08 02:07 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956(その9)

ある日のyoutubeサーフィン。まず、あるツイッターで知ったモングンオール・オンダールのホーメイを聴いたら、投稿者が巻上公一なのを知ってヒカシューのあれこれを聴き、思えば70年代の終りから80年代の初め頃ってヘンな時代だよなぁと戸川純をひとしきり、ついでにゲルニカの動力の姫。ヒカシューといえば、ということでクラフトワークの動画を探したら一杯ある。ひさびさにロボットとか聴いてスゲー!私の中高生の頃って凄いのね。



イーヴ・ナットのシリーズ、今回はベートーヴェン。

  CD3
  ベートーヴェン
    ピアノ・ソナタ第8番ハ短調Op.13「悲愴」 [1951年録音]
    ピアノ・ソナタ第9番ホ長調Op.14-1 [1953年6月録音]
    ピアノ・ソナタ第10番ト長調Op.14-2 [1953年6月録音]
    ピアノ・ソナタ第11番変ロ長調Op.22 [1955.9.20以前の録音]

まずは「悲愴」から。
一昔前は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタといえば「悲愴」「月光」「熱情」のセットがその代名詞のように言われていたものです(いや、現代でもそうなのでしょう)。「ワルトシュタイン」「テンペスト」「告別」のセットを挙げる人もいるかも知れないが、世間一般における知名度ではまず比較にならないだろう。ただ、20世紀の終りの頃には既に一夜のリサイタルをこれら表題附きのソナタで埋めるようなピアニストは流行遅れと見做されるようになり、多少とも音楽を判っているつもりの人なら、ベートーヴェンの真価はこれらのソナタではなく、28番から32番のいわゆる後期ソナタにこそ存していることを疑わないという事態が出来しました。1970年代半ばにポリーニが、初期や中期ではなくいきなり後期ソナタの録音を世に問うたのは、その時代の変化の象徴的な出来事であったと思います。爾来、腕自慢のピアニスト達は、リサイタルで弾くなら後期あるいはそれに作風の近い26番や27番であり、それ以外のソナタを避けるか、あるいはプログラムの最初のほうに、小手調べのように初期や中期の表題のない比較的目立たない作品を置くか、といった風に変化してきたように思われます。もはや現代において、悲愴や月光を殊更リサイタルで弾くのは相当の勇気が要ることは間違いないところでしょう。
私はこういった潮流の変化について、例えば「悲愴」「月光」「熱情」の組合せがレコード会社の販売戦略(ちょうどLP1枚に収まって都合がよい云々)として無理やり3大名曲としてでっちあげられたものであって、作品自体の価値の多寡とは何の関係もないといったシニカルな見方に与するつもりはないが、それでも、そのおかげでこの3曲に対してかなり食傷気味になったのは事実。正直なところ、そんじょそこらのピアニストがこれらの作品をプログラムに組んでいたらそれだけで聴く意欲が幾分失せるだろうし、あるいはもし知り合いが「ベートーヴェンだったら悲愴が一番好き」などと言おうものなら、(馬鹿にするつもりはないにしても)勘弁してくれ、と思うだろう。こういった告白はある種の人達の反感を買うのは判っているが、私のこのソナタに対するスタンスというものを明らかにしておくのは無意味ではないと思います。
実際のところ、この作品の意義については、直前のOp10のソナタでハイドンの世界から完全に自立した世界を確立したのに続いて、はやくもロマン派と見紛うばかりの表出力が得られたと言う側面と、ムツィオ・クレメンティの顕著な影響という両方を冷静に分析する必要があるだろう。その仕事は私の手には余るけれど、要するに私は手放しで傑作というつもりもなければ、所詮は初期ソナタの一つと切り捨てるつもりもない、ということ。
もうひとつ、極私的な話をしておくと、私は中学一年生の時、いわゆるピアノのお稽古の発表会でこのソナタの第1楽章を弾いたのだが、それからしばらくしてピアノに対する熱が少しばかり醒めてしまい、レッスンも止めてしまった。というか、その頃の無邪気な私は、プロとして食っていけるようなピアニストは、12歳かそこらの歳にはすでにショパンのエチュードに取り組んでいるものだということを知ってある種の衝撃を受け、明けても暮れてもベートーヴェンのソナタを弾かされていた自分に嫌気がさしたのだろう。少なくともその頃レッスンでやった初期から中期に掛けてのソナタに感じるなにがしかのアンビヴァレントな感覚は、この体験抜きには私には説明がつかない。今、こうして50歳を超えてようやく、単なる音楽愛好家としていろいろと音楽を聴いたり、それについて考えたりするバックボーンとして、この頃のベートーヴェン体験がどれほど自分の血や骨となって役だっているかをひしひしと感じ、当時就いていた先生に対しても感謝の念を感じているのだが、ベートーヴェンにまつわるこの苦いような甘いような記憶は、多分死ぬまで私につきまとうのでしょう。
肝心のナットの演奏だが、そんな背景のある作品故どうしても粗が目立ち、可もなく不可もない演奏として聞えてしまいます。これはナットが悪いのではなくて、私の受け止め方の問題。多分誰が弾いても満足することはないでしょう。それでも第2楽章の主題の控えめな歌わせ方には好ましいものを感じるし、第1楽章の奇を衒わない序奏にしても悪くはない。第3楽章のコーダあたりの強弱の付け方はやや作為的、音像が揺れたりわざとらしく奥に引っ込んだりするEMIの悪名高い録音(エンジニアの癖というか)もその印象に一役買っていそうだ。

9番ソナタは、再びハイドン的な世界に戻って、いささか饒舌な音楽が書き連ねられている印象があります。そこにはソナチネ的平明さがあって、技巧的にも比較的平易な部類だと思います。
ナットの演奏はけだし名演である。どこといって突出したものはないが自発性溢れる音楽に身を任せられる感じがします。

10番は、優美な1楽章、古典的な変奏曲にスケルツォと題された終楽章(実質的にはロンド)が続く構成のソナタ。9番と同じくソナチネ風、技巧的には9番より少し難しいがそれでも平易な部類でしょう。やはりハイドン的な機知に溢れていて、第1楽章にはハイドンの好んだ疑似再現部が展開部の中に現われる。
ナットの演奏は最初の二つの楽章はとても良いが、スケルツォの駆け上がる音形が些かテンポが前のめり過ぎて、ヘミオラの特徴のあるリズムが活かせていないのが残念。

11番は7番以来の堂々たる4楽章ソナタ。典型的なcon brioの第1楽章に、内実のしっかり詰った長い第2楽章、第3楽章はスケルツォではなくメヌエットが置かれているが、トリオは疾風怒濤のト短調、フィナーレはこれも実にベートーヴェンらしいグラツィオーゾなロンド。しかもこのロンドの短調のクープレは対位法を駆使した展開部となっています。この11番は地味な存在ながら初期ソナタの完成形といえます。ナットの演奏は各々の楽章の特徴をよくとらえた優れた演奏だと思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2013-08-01 20:16 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)