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新国立劇場公演 香月修 「夜叉ヶ池」

外国語使い過ぎで精神的苦痛、71歳老人NHK提訴って・・・。裁判所もアレだな、「ちょ・・・おま・・・さすがにそれイミフだわ」とかなんとか言って蹴ったら面白かったのに。




新国立劇場で委嘱新作のお披露目公演に行って参りました。

   2013年6月26日
   白雪: 腰越 満美
   百合: 砂川 涼子
   晃: 西村 悟
   学円: 宮本 益光
   鉱蔵: 妻屋 秀和
   鯉七: 羽山晃生
   弥太兵衛/蟹五郎: 大久保 光哉
   鯰入: 志村 文彦
   万年姥: 森山 京子
   与十/初男: 加茂下 稔
   合唱: 新国立劇場合唱団
   合唱指揮: 三澤 洋史
   児童合唱: 世田谷ジュニア合唱団
   指揮: 十束 尚宏
   演出; 岩田 達宗
   管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

新国立からの帰り、電車の中でエアウィーヴ社の広告(マットレスの会社ですね)を見かけましたが、そこには浅田真央と坂東玉三郎のお二人の写真が・・・。そういえば玉三郎はその昔、映画「夜叉ヶ池」で百合と白雪姫の二役を演じていたなぁと思い出しました。これも何かの因縁ですかね?
それは兎も角、今回のオペラ版夜叉ヶ池、大変面白うございました。平日の夜の公演ですが、中劇場の一階はほぼ満席だったのではないでしょうか。例によって客層はオジ・オバ~後期高齢者が9割といったところだが、偶々私の隣に座ったお嬢さんは、第2幕の鯉・蟹・鯰の三重唱でくすくす笑って、幕が下りるとお友達と「おもしろ~い」とお話になっておられました。こちらまで嬉しくなります。昨年の「沈黙」もそうですが、邦人の現代モノとなると、我々聴衆も何となく作曲者やスタッフたちを微力ながら支援しているみたいな気がして、あんまり麗しくも無いパトロン気取りなのかも知れませんが、まぁ悪い気は致しません。

作曲者の香月修氏についてはほぼ全く予備知識なしで聴きましたが、水がテーマだからという訳でもないでしょうが全体にラヴェル風の抒情的な音楽でした。ただ、聴き終えて思ったのは、第1幕がドラマとしても音楽としても少し弱いと感じられること。逆に第2幕はドラマとしても良く出来ているし、音楽的にも非常に聴きごたえがあります。この前後のアンバランスの理由について少し考えてみたい。
まず泉鏡花の原作ですが、構成としては、①百合、晃、学円の対話→②水底の物の怪たちの滑稽な場→③同じく水底の主である白雪姫と眷属らの場→④雨乞いの犠牲を迫る村人と百合達の対決→⑤カタストロフ、という順で物語が展開します。①の部分は原作では全体のほぼ半分を占め、科白主体の対話劇だが、オペラの素材としてはやや平板に過ぎるというもの。対して②~⑤の部分は見た目にも面白く、物語も一気に動き出す感があります。まずは一夜の興行に相応しくほぼ同じ長さのニ幕もの、という構想が先にあったのでしょうが、そうなるとドラマトゥルギーとして②~⑤を前後に分けるというのはあり得ないだろうから、必然的に①の素材を第1幕に宛がうことになります。ところがこの①はオペラ向きの素材とは言い難い。必定、①の科白を大幅に削り、③あるいは④の要素を第1幕にも散りばめ、更には原作にない子役達の場を創造したという訳なのでしょう。しかしそれでも第1幕は些か長過ぎると思われ、しかも①以外の要素がどれもこれも水増ししたようにしか思えない結果となっていました。先に原作を読んでしまっているからそう感じるのかも知れませんが、鏡花の原作の構成はシンプルながらよく出来ていて、下手に弄れば弄るほど冗漫になってしまうように思います。作曲者としては一音符たりとも削れないところでしょうが、もし第1幕がもう少し短ければ、あるいは長めの一幕仕立てであったなら、はたまた前半が対話劇としての面白さを追求するような音楽的スタイルであったなら、もっと引きしまった音楽になったような気がします。不遜な物言いを許してもらえるならば、この作品は改訂版を作るだけの値打はあると思います。
次に、物語を離れて音楽的な要素についてですが、作曲者に拠れば、新国立劇場の尾高監督から「口ずさめるような親しみ易い歌のあるオペラを創りたい」と言われて本作を書いたとのこと。確かに第1幕の音楽は良くも悪くも平易で親しみ易いものでした。そのこと自体は少しも悪いこととは思いませんが、第2幕で最も感動を誘う場面、すなわち百合の自害の場であるとか、白雪の狂乱の場など、どう考えても「口ずさめるような」音楽でもなければ「親しみ易い」音楽でもない。このあたりが現代におけるオペラの在り方の難しさなのでしょう。要は第1幕に比べて、後半第2幕の方が親しみ易い音楽とそうでない音楽のバランスが良かった、ということなのでしょう。ちなみに百合の自害の場は、原作ではごく短い科白しか与えられていないので、かなりの補筆があったようだが、概ね流れを壊さない優れた台詞だったように思います。音楽としても大変良いものでした。また、白雪の科白の中でも最も美しいところ、(白雪)「思いせまって、つい忘れた。・・・・私がこの村を沈めたら、美しい人の生命もあるまい。鐘を撞けば仇だけれども、この家の二人は、嫉ましいが、羨しい。姥、おとなしゅうして、あやかろうな。」(姥)(はらはらと落涙して)「お嬉しゅう存じまする。」の部分の音楽は胸に迫るものでした。

新作初演につき、個々の歌手の巧拙を論っても仕方がないという気もしますが、それにしても砂川涼子の百合は素晴らしかったと思います。前半の楚々とした歌い方もさることながら、自害を前にして、結った髪をほどいて「もう沢山でございます」と歌い始める場面の凄まじいばかりの強さに圧倒されました。ついこの間、魔笛のパミーナを聴いたばかりですが、今回の百合は本当に聴けてよかったと思いました。また、その他の歌手、管弦楽、いずれも不満のない出来栄えであったように思います。
演出については、回り舞台で晃と百合の住む茅屋の辺り、白雪が御座す夜叉ヶ池の水底、村人の集まる人里の石段、最後に鐘楼の沈む淵を次々と見せて秀逸でした。魚や物の怪など白雪の眷族の踊りは、ちょっと野暮ったい感じがするのと、その所作が少し煩いようにも思いましたが、概ね音楽を邪魔するほどではありませんでした。
歌詞が聴き取り易く書かれているとはいえ、基本は大正初期の言葉、歌詞が字幕で流れるのは結構なことです。これがなければ完全に歌詞を聴きとることは困難でしょう。

さて、2012~2013年のシーズンも本作で終了。10月のリゴレットまでしばらくオペラもお預けです。今シーズン最も感銘を受けた公演はなにか。私には何と言っても「ピーター・グライムズ」でした。次いで「ナブッコ」。歌手とオーケストラと演出の全てに満足出来たものといえば以上の2作が他を圧倒していました。来シーズンを楽しみに、しばらくCDなどで未知の作品を聴いたりなど充電します。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2013-06-28 00:03 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ヴェルディ 「シチリア島の夕べの祈り」 ムーティ/レナータ・スコット他(その2)

このパリ管の副コンマス(パリ在住)の方のツイッターわろたわ~。
千々岩英一‏@EiichiChijiiwa
国営放送のニュースで世界遺産登録の富士山(モン・フュジ)が。「日本人は敬称を付けて富士さんと呼びます。」初めて聞いたわ。




前回の続きです。

【第3幕】
第9曲:前奏曲とシェーナ Preludio e Scena
モンフォルテの独白によって、彼とアッリーゴが離れ離れになった経緯が語られる。
短い前奏と簡潔なシェーナ。
第10曲:レチタティーヴォとアリア Recitativo ed Aria
ベテューヌ卿からアッリーゴを拉致してきたとの報告を受けたモンフォルテは、彼の心が開かれ、親子として打ち融け合うことを夢想する。
明確なカバレッタを持たないアリア。剛直なだけでなく味わい深い旋律(特に嬰へ長調に転調してからの部分)など、この時期のヴェルディらしさが良く出ています。
第11曲:レチタティーヴォと二重唱 Recitativo e Duetto
捉えられたアッリーゴはモンフォルテから母の遺した手紙を見せられ、ついに親子であることを知る。しかし様々な想いによってアッリーゴはモンフォルテを父と呼ぶことが出来ず逃げるように部屋を出て行く。
またしても父と息子の二重唱。ここでもステロタイプな伴奏から脱却しようとする意気込みが顕著です。朗々とアリアを歌いあげる父に対してパルランドで動揺を顕わにするアッリーゴの対比。二重唱の後半は白熱のカバレッタ。前段でパルランドでうたっていたアッリーゴは後半に至って主旋律を歌い、亡母への思いのたけを歌います。
第12曲:バレエ「四季」 Le Quattro Stagioni BalloⅠ~Ⅳ
モンフォルテの邸宅で舞踏会が開かれ、フランスとシチリアの紳士淑女の前でバレエが上演される。
第13曲:第3幕のフィナーレ Finale Terzo
華やかな仮面舞踏会に紛れて、仮面を着けたプローチダとエレーナ公女が忍び込み、モンフォルテの命を狙っている。アッリーゴはモンフォルテにその場を立ち去るよう頼むがモンフォルテは相手にしない。モンフォルテを見つけたエレーナは匕首(あいくち)を手に襲いかかるが、アッリーゴが自ら盾となってモンフォルテを庇う。プローチダ、エレーナ、シチリア人達は捕らえられアッリーゴを裏切者と非難する。
設定は「仮面舞踏会」そのものだが音楽はどこか「椿姫」の娼館での宴の場を思わせる。ヴェルディお手の物の華やかな音楽に合わせて緊迫した状況が歌われます。後半はエレーナ、アッリーゴ、ダニエーリ、モンフォルテ、プローチダ、ベテューヌの六重唱と合唱による壮大なコンチェルタートですが、後の立体的なアンサンブルの域には達していません。もっと後のヴェルディならシチリア人とフランス人、そのどちらにも与しえないアッリーゴに各々別の旋律を歌わせ、それが対位法的に絡み合い、重なりながら壮大な合唱になっていくべき箇所。だが、過渡期的とはいえ実に感動的な音楽。

【第4幕】
第14曲:前奏曲、レチタティーヴォとアリア Preludio, Recitativo ed Aria
エレーナ達が繋がれた牢獄。アッリーゴは弁明のためにそこを訪れ、エレーナの許しを得たいと独白する。
ここでもステロタイプなアリアから脱却しようという意思が顕著。シェーナの充実にくらべ、カヴァティーナはやや常套的、しかし続くシェーナは本来のカバレッタと溶融してしまってます。
第15曲:大二重唱 Gran Duetto
エレーナ公女が登場、最初アッリーゴを忌々しく思うが、モンフォルテが彼の父と聞いて心が動く。もはや家名も財産も捨て、エレーナとともに死ぬことを望むアッリーゴを彼女は許し、愛の二重唱を歌う。
幾分因習的な二重唱と見せかけておいて、型どおりのカヴァティーナの後に長大なエレーナのロマンツァが埋め込まれています。この部分はドニゼッティやベッリーニのベルカント様式を忠実に守っており、ヴェルディはわざわざ2種類のカデンツァを書いています。このあと、型通りのカバレッタの二重唱が続きます。
第16曲:シェーナと第4幕のフィナーレ Scena e Finale Quarto
そこに現われたプローチダはアッリーゴを許そうとしない。モンフォルテがベテューヌ卿やフランス人士官達と共に現われ、罪人を死刑に処すよう命令するが、アッリーゴがエレーナ達と死を共にするつもりでいるのを見ると、自分を父と呼ぶなら恩赦を与えようと持ち掛ける。苦悩の末にアッリーゴが「父上・・・」と呼びかけると、モンフォルテは刑の執行を止めさせ、エレーナとアッリーゴの結婚と、シチリア人とフランス人の和解を命ずる。
拡大されたシェーナで息詰まるドラマが展開されます。カヴァティーナに相当するプローチダ、モンフォルテ、アッリーゴ、エレーナによる素晴らしい四重唱。ここではプッチーニばりの「字余り」の5/4拍子が2回でてくる。音楽の推進力を信じて、こういう記譜をやってのけるところが天才の天才たる所以。続いて、舞台裏で聖歌「深き淵より」を歌う合唱にのせて、プローチダ、モンフォルテ、アッリーゴ、エレーナが歌う自由なシェーナ。カバレッタに相当する後半は四重唱に合唱も加わって壮大なフィナーレとなるが、音楽的にはやや因習的。かりそめの歓びが爆発する中でのエレーナとアッリーゴの複雑な心境、プローチダの暗い情念を盛り付ける器をヴェルディはまだ見出していないようです。

【第5幕】
第17曲:合唱 Coro
二人の祝宴を祝う人々の合唱。
第18曲:シチリアーナ Siciliana
婚礼の衣裳をまとったエレーナがシチリアーナのリズムで歓びを歌う。
このナンバーは、重苦しい作品の中での聴衆へのサービスのようなものだろう。
第19曲:シェーナとメロディア Scena e Melodia
アッリーゴが現われ、やさしくエレーナに語りかけるが、すぐに数人の紳士が彼を探しているのに気付き、モンフォルテのところに行くと言って立ち去る。
ト書きにはアッリーゴは物思いに沈んでいるとされているが、音楽はいたってのんきなもの。おわりにハイCの上のDまで上がるとんでもないカデンツァが書かれていてテノール殺しと言われているらしい(このCDのルケッティはファルセットで歌って派手に音程を外してますw)。これは音楽的にもあまり良い趣味とは思えない。
第20曲:グラン・シェーナと三重唱によるフィナーレ Gran Scena e Terzetto Finale
プローチダがエレーナに近付き、反乱軍がすぐ近くまで来ていること、婚礼の鐘を合図にフランス兵を殺戮することになろうと告げる。エレーナは戻ってきたアッリーゴに結婚は出来ないと告げるが、モンフォルテは二人の手を無理に重ね合わせて夫婦の宣言をする。すかさずプローチダが祝福の鐘を鳴らすよう合図をする。鐘と同時にシチリアの暴徒達が手に手に武器を持って現われ、復讐を叫ぶところで断ち切るように唐突に幕(それにしても、この作品を引っ提げてパリで初演するとはヴェルディもいい度胸です)。
プローチダ、エレーナ、アッリーゴの三重唱を中心とするフィナーレ。プローチダの陰謀を知るエレーナと知らないアッリーゴ。カヴァティーナに該当する部分、ロ短調で始まる三重唱がアッリーゴの歌うところでロ長調になるのが印象的。カバレッタはヘ短調のアレグロで緊迫した状況が語られる。白熱の音楽ですが、初期のそれとは明らかに異なる陰影のある音楽だと思います。最後は婚礼の鐘を合図に蜂起した群衆の禍々しい合唱が起こり、たたみかけるように終わってしまいます。

演奏について少しだけ触れておきます。
エレーナ公女を歌うレナータ・スコットですが、1978年の録音時は44歳、微妙な年齢ですがこのディスクで聴く限り明らかに盛りを過ぎている感じがします。しかしそれでも立派な歌唱。第1幕第2曲のアジリタもビシッと決まっていて素晴らしい。第4幕、アッリーゴとの二重唱に埋め込まれたロマンツァは本当に優れた歌唱で、聴衆の感に堪えないといったブラーヴァの叫びも熱狂的。スコットへの聴衆の愛、温かさを感じます。もちろん5幕のシチリアーナも文句なしに素晴らしい。
アッリーゴを歌うヴェリアーノ・ルケッティとモンフォルテのレナート・ブルゾンは傑出しています。第1幕フィナーレの父と息子の二重唱も良いが、ブルゾンの第3幕冒頭のアリアは聴衆のブラヴォーの叫びと拍手が1分以上鳴りやまないほど。続くルケッティとの二重唱の後、すさまじいブラヴィの叫びが起こり、拍手が1分40秒も続く。だが第4幕冒頭のアッリーゴのアリアは、ルケッティの最後のh(ハイCの一音下)の音が上がりきらず、聴衆もちょっと冷たいあしらいをしている。このディスク、ライヴ故聴衆の反応がよく判ってとても面白い。
プローチダを歌うルッジェーロ・ライモンディは恐らく好き嫌いの分かれる歌い方。軽めで知性の勝った歌い方はロッシーニなどに意外なほどの適性を示すことがあるが、ヴェルディ歌手としては僅かに違和感がある、というのが私にとって正直なところ。このオペラのプローチダという役柄自体、どこか得体の知れないものだが、ライモンディが歌うと尚更老獪に聞こえて、「本当にこういう役なのか?」と不思議に思ってしまいます。
脇役達はまぁこんなもの、という感じですが、どちらかと言えばフランス側が充実していてシチリア側がやや貧相。第1幕のニネッタやダニエーリを含む四重唱は音程が悪くて何を歌っているのか判らない(笑)。
合唱は荒削りの魅力はあるけれど、はっきり言ってかなり下手。第2幕フィナーレのタランテッラの後のシチリア人の合唱など、もごもごと音程も悪くて、やはり「何を歌っているのか判らない」(笑)。スカラ座は別格として、イタリアの地方都市のオペラの合唱のレベルってこんなものなんだろうか?日本の新国立劇場の合唱を聴きなれている身には信じがたいくらい下手です。

ムーティの指揮は素晴らしい。音楽祭のための寄せ集めらしいオーケストラは正直あまり上手くはないのに、輝かしさに溢れています。こういう録音を聴くと、本当に日本のオケは精密さという点では優秀だがイタリアオペラに不可欠な輝かしさという点で(多少の例外はあっても)まだまだ学ぶべきところが多いと思います。
ムーティの凄いところは、ステロタイプな伴奏、ズンチャッチャ・・・みたいな伴奏から真実に満ちた音楽を引き出すこと。これこそがムーティのベルカントものから比較的初期のヴェルディの演奏をかけがえのないものにしている理由でしょう。例えば一例として、第1幕フィナーレのプレスティッシモのカバレッタ。大胆なソステヌートやアラルガンドを駆使して聴衆の鼻面を引きまわすような音楽を奏でています。これはアバドのヴェルディでは絶対に期待できないムーティの強みでしょう。ちなみに、アバドも優れたヴェルディ指揮者だと思いますが、その嗜好はムーティとは随分違います。アバドが好んで演奏していたヴェルディといえば何と言っても「シモン・ボッカネグラ」、それに「マクベス」「ドン・カルロス」「仮面舞踏会」・・・まさに苦渋に満ちた中期作品ばかりではありますが、「シチリア島」はアバドには少々初期のカラーが強すぎたのでしょうか。アバドは若い頃はベルカントものも振っていたようですが名を上げてからはあまり振っていないようですね。対するにムーティのヴェルディで真っ先に思い浮かべるのは白熱の初期作「エルナーニ」に「ナブッコ」。そしてこの「シチリア島」ということになるのでしょうか。アバドとは対照的に、ムーティはベルカントものも大好き。日本でやったベルリーニの「カプレーティとモンテッキ」は神技的な名演でしたし、CDで聴いた「清教徒」も素晴らしかった。確かスポンティーニやケルビーニなども好評だったはず。そういえばアバドはヴェリズモものは一切やらないのに対して、ムーティはあまりこだわりがない。ムーティのほうがより雑食性かつ肉食系ですね。私はどっちも好きだけど。
こんなこと書いていると今秋のスカラ座公演行きたくなりますね。私はあまりにも高価なチケットにびびって、早々に諦めました・・・。あとは新国立の「リゴレット」に期待。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2013-06-25 19:36 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ヴェルディ 「シチリア島の夕べの祈り」 ムーティ/レナータ・スコット他(その1)

村上春樹読んでるヤツをオシャンティーってのも判るけど、僕らが若い頃も「片手に浅田彰、片手にテニスラケット」なんて輩がいたから昔も今も変わらんなー。





ヴェルディ生誕200年にちなんで、私もいろいろと書いてみたいとは思うものの、今更「オテロ」や「ファルスタッフ」の素晴らしさについて述べたところでどうにもなるまい、と思う。どうせなら、あまり知名度のない作品ということで、「椿姫」の次に書かれながら、どういう訳か序曲と「シチリアーナ」以外は非常に演奏される機会の少ない「シチリア島の夕べの祈り」を取り上げてみたいと思います。そもそもこのタイトルにしても、「シチリアの晩鐘」だったり「シチリアの晩禱」だったり、いずれにしてもポピュラーでないだけに訳語もばらばら。私が若い頃はレヴァイン盤くらいしかなかったんじゃないかな。ムーティは後のスカラ座盤もあるが、今手元にあるフィレンツェ盤を紹介しましょう。


  エレーナ: レナータ・スコット(Sp)
  アッリーゴ: ヴェリアーノ・ルケッティ(T)
  モンフォルテ: レナート・ブルゾン(Br)
  ジョヴァンニ・ダ・プローチダ: ルッジェーロ・ライモンディ(Bs)
  ニネッタ: ネッラ・ヴェッリ(A)
  ダニエーリ: ジャンパオロ・コッラーディ(T)
  ベテューヌ卿: グラツィアーノ・ポリドーリ(Bs)
  ヴォードモン伯爵: カルロ・デル・ボスコ(Bs)
  テバルド: ジャンフランコ・マンガノッティ(T)
  ロベルト: ジョルジョ・ジョルジェッティ(Bs)
  マンフレード: カルロ・ノヴェッリ(T)
  リッカルド・ムーティ指揮フィレンツェ五月音楽祭合唱団、管弦楽団
  1978年5月13日ライヴ録音
  CD:Gala GL100.611

ヴェルディのオペラを便宜的に初期・中期・後期と分けるにあたって、一般的には「スティッフェリオ」までを初期、「リゴレット」から「ドン・カルロス」を中期、「アイーダ」以降の3作を後期と分けるのが一般的なのでしょう。しかし、私は前にもどこかで書いたと思うが、「リゴレット」「イル・トロヴァトーレ」「椿姫」は初期のスタイルの完成形であり、「シチリア島」から「ドン・カルロス」の苦渋に満ちた足取りこそが中期と呼ぶに相応しいように思います。それは、何とかして初期のステロタイプな音楽から脱却したいというヴェルディの模索と試行錯誤であり、具体的にはカヴァティーナ・カバレッタ形式を軸とする番号附きオペラという枠組みの放棄、オーケストレーションの著しい深化、リブレットの錯綜とシェーナ(レチタティーヴォ)の長大化といった側面で語ることができます。その歩みはベートーヴェンの後期より少し手前の作品群のようでもあり、シェークスピアの「ヘンリー四世」の後に書かれた一群の苦い味わいの「問題劇」のようでもあるが、その「模索と試行錯誤」の時代の第一歩というべき「シチリア島の夕べの祈り」こそ、猫またぎなリスナーが取り上げるに相応しいのではないか、と思った次第。

ちなみに、ヴェルディのオペラの数は最近は26作と数えるのが一般的なようです。以前は「イェルサレム」と「アロルド」を夫々の改定前の呼称「第一次十字軍のロンバルディア人」や「スティッフェリオ」と別にカウントして28作と言っていたような気がします。それはともかく、最近の数え方ではこの「シチリア島」は第19作ということになるのだろう。このオペラが不当にも(と言いたくなるほど)演奏の機会が少ない理由はなんだろうか。
まずは物語が実にくだらないこと。父と息子の愛憎というテーマがなんとも嘘臭く、つい数時間前まで憎しみの対象でしかなかった父を庇うために愛する女性エレーナとシチリアの人々を裏切る息子アッリーゴに対して、「バカじゃないの?」としか思えません。基本的に、いくらお話としてはどうしようもなく荒唐無稽でくだらなく思われようと、それをなんとか分析してその根底にあるものを抉りだしたい、と思わずにはいられない私であるが、この「シチリア島」についてはお手上げです。というか、あれこれほじくり返しても自らの父性嫌悪を見るだけなので興味が持てない、というのが正直なところでしょうか。まあ人はどう思うか知らないが、いずれにしてもこのオペラが人気がない理由の一つではあるだろう。
それと関連するが、登場人物は決して多くはないのに物語が錯綜した印象を与えるということ。これはスクリーブの台本の拙さによるところが大きいと思われますが、音楽の側から言えば、この台本の冗長さは結果としてシェーナの長大化と充実をもたらした部分もあって、必ずしもこの作品の弱点とばかりは言えません。しかし、それまでの簡潔なシェーナとアリアを基本としていた初期作と比べると、興行的には間違いなくマイナス要素ではあります。
それからなんといっても第3幕のバレエが長くて退屈。ざっと30分くらい掛りますが、これはパリでの初演を目指していたヴェルディの迎合としか思えません。かといって、これをカットしてしまうと、全5幕の構成がバランス悪くなるのも事実。つまり、序曲を除くと第1幕と第2幕でほぼ1時間、第3幕がバレエ込みで同じく1時間強、第4幕と第5幕で1時間強と、2回の長い幕間を入れるのに丁度良い長さになっていて、バレエ抜きの第3幕はその内容の重さから前後にくっつける訳にもいかず中途半端というわけです。
欠点ばかり書いたけれど、音楽的には初期から中期への産みの苦しみが随所に見られ、それが独特の魅力となっています。繰り返しになるが、なんといってもそのシェーナ(レチタティーヴォ)の多様さと充実がそれまでの作品とは一線を画しています。シチリア人とフランス兵の対立を音楽であらわそうと多様な試みがなされていますが、「仮面舞踏会」や「ドン・カルロス」で完成され、「アイーダ」で頂点に至る壮大で立体的な合唱のスタイルはまだ確立されていません。どちらかといえば因習的なカヴァティーナ・カバレッタ形式の楽曲も多いが、それからの脱却の試みは随所にみられ、(物語の進行上仕方ないとはいえ)男声の二重唱によるフィナーレや、二重唱に埋め込まれたベルカント様式のロマンツァなど新しい試みに満ちています。ヴェルディ自身はパリの聴衆の好みに合わせて不本意ながら書いた部分もあろうし、拙い台本に苦労して書いた部分もあるのでしょうが、結果としてはそれまでにない音楽を生みだすことになったようです。まさに、瑕も多いが天才的な音楽、という猫またぎなリスナーがもっとも愛するタイプの音楽。

お話がくだらない、とは云え、なかなか上演の機会のないオペラですので、すこし幕を追って物語とその音楽的な特色について詳細を書いてみたいと思います。
【前奏曲】
これは有名なので私があれこれ書く必要もないでしょう。一般に「序曲」と呼ばれるがスコアにはPreludio(前奏曲)と記されています。流麗な旋律とシンフォニックな構えの大きさが同居する素晴らしい音楽。

【第1幕】
第1曲:導入と合唱 Introduzione-Coro
シチリア人の群衆とフランス兵達で賑わうパレルモの広場。1282年、シチリアはフランス軍の占領下にあった。独立を目指すシチリア人達の不穏な動きを知らず、フランス兵達がシチリア女に好色な視線を送りながら楽しげに歌う。
対立するフランス兵とシチリア人の合唱だが、こういった対立を壮大な合唱の中で対位法を用いて立体的に表現するのはもう少し後、「仮面舞踏会」のあたりからであり、ここでは未だ因習的な合唱に留まっているという他ありません。
第2曲:シェーナと合唱附きカヴァティーナ Scena e Cavatina con Cori
エレーナ公女登場。フランス軍の総督モンフォルテに兄を殺された彼女は虐げられたシチリア人たちの統一のシンボル、心の拠り所となっている。フランス兵達にからかわれ、歌をうたうよう強要された彼女は抗う侍女をたしなめて歌う。しかし、シチリア人の反乱を誘うようなその歌に、その場は一触即発の不穏な空気に満ちて行く。
この壮大なシェーナと合唱附きカヴァティーナは中期特有の油ののりきった仕事という気がします。カバレッタの至難なアジリタは初期の流れをくむもの。
第3曲:シェーナと四重唱 Scena e Quartetto
そこに総督モンフォルテが登場、その尊大な威圧感を前に、シチリアの人々は圧倒される。
エレーナ公女、侍女ニネッタ、シチリアの若者ダニエーリ、モンフォルテの四重唱だが、物語としては無くもがな、アカペラで始まる四重唱は、ヴェルディにしては意余って力足りずというところ。
第4曲:シェーナと二重唱、第1幕のフィナーレ Scena e Duetto-Finale Primo
謀反の咎で獄に繋がれていたシチリアの若者アッリーゴが登場し、エレーナとの再会を喜ぶ。実はアッリーゴはモンフォルテがかつてシチリア女に産ませた実の息子であり、それゆえ刑を免れたのだがアッリーゴはその事実をまだ知らない。モンフォルテはフランス軍に降るようアッリーゴを説得するも、彼はモンフォルテへの憎しみもあらわに肯んじない。モンフォルテは血気に逸るアッリーゴを愛情に満ちた父のまなざしで見守る。
新機軸が一杯。第1幕フィナーレがテノールとバリトンの二重唱というのも大変面白いが、そのカヴァティーナにおいて、旋律が伴奏にでて歌はずっとパルランドで歌う。この種のレチタティーヴォ様式の完成は「シモン・ボッカネグラ」改訂版以降に持ち越されるにしても、そのアイデアはここに出つくしているように思います。旋律を歌わないカヴァティーナはもしかすると父であることを隠して心にもない威嚇を息子に与えるモンフォルテの立場を表すものか。台本が整理されていなくてレチタティーヴォがやたら長いのを逆手にとって、ヴェルディは次第にレチタティーヴォの真の威力というものに開眼していったのだろうと思います。後半のカバレッタではステロタイプではあるが白熱した音楽が興奮をもたらします。「シモン」や「マクベス」の改訂版でも初期稿を敢えて残すことで同じような効果が如何なく発揮されていたのを思い出します。

【第2幕】
第5曲:前奏曲、アリアと合唱 Preludio,Aria e Coro
シチリア人達の精神的指導者ともいうべきプローチダが亡命先からシチリアに戻り、祖国への愛を歌う。ついで仲間にアッリーゴを探しに行かせ、シチリア人の蜂起を呼び掛けるカバレッタを歌う。
中期のヴェルディらしい深みのあるカヴァティーナ。オーケストレーションの深化が素晴らしい。カバレッタは合唱附き、半音階的な音形と初期の面影を残す紋切り型の伴奏が交替します。
第6曲:シェーナと二重唱 Scena e Duetto
アッリーゴとエレーナ公女が登場、アッリーゴはプローチダの蜂起の呼びかけに応じる。エレーナはアッリーゴに兄の仇を討ってくれたなら貴方のものになりましょうと歌う。エレーナとアッリーゴの二重唱。
シェーナが充実の書法。レチタティーヴォとアリオーゾの融合したスタイルです。アレグロ・アジタートに転じて、エレーナとアッリーゴとの迫力ある二重唱に流れ込むが、長くは続かず、流麗な初期のスタイル(アレグロ・ジュスト)となる。二重唱後半は溜息のモチーフによるラメント、終盤のレチタティーヴォ風の二重唱はすでに「シモン・ボッカネグラ」の世界を先取りしてします。大義と恋に引き裂かれる二人、これは内容的に愛の二重唱とは言いかねるところもあるが、これこそが中期のヴェルディの描く愛なのだろう。
第7曲:レチタティーヴォ Recitativo
フィナーレへのブリッジとなる短いレチタティーヴォ。アッリーゴはフランス兵に強引に連れ去られる。動揺するエレーナにプローチダは反乱の準備が整いつつあることを囁く。
第8曲:第2幕のフィナーレ Finale Secondo
シチリアの若者達の結婚の宴、激しいタランテッラのリズム。現われたフランス兵達はシチリアの女達を凌辱し連れ去る。遠くから聞こえるフランス兵達の楽しい水上の宴の音楽にのせて、エレーナ、プローチダ、シチリア人たちは復讐を誓う。
強引な場面展開がますますお話のダメさを強調するかのようですが、それはともかく音楽は「仮面舞踏会」風のところもあって聴きごたえがあります。陰謀を企むシチリア人の合唱に続いてフランス人が楽しげに歌う舟歌、やがてそれらが重なり合う展開は、後の立体的な合唱にあと一歩というところながら、未だ確固たるスタイルを見いだせずにいる感じがします。この「過渡期感」がなんとも魅力的ではあります。
第3幕以降は次回に。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2013-06-23 14:04 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

新国立劇場公演 モーツァルト 「コジ・ファン・トゥッテ」

視力検査キット(ランドルト環視力表付き)、amazonで940円。こういう絶対要らないものって、なんか欲しくなるよね。で、カスタマーレビューが笑える。いわく、
「値段の割には付属品もしっかりしててお勧めです!
ただ視力表が1枚だけだと、頻繁に検査をすると覚えてしまうので
少し割高でも同じ製品の3枚セット¥ 1,440- の方をお勧めします。」
憶えるほど検査すな。





新国立劇場で「コジ・ファン・トゥッテ」を観てきました。ミキエレットの、現代のキャンプ場に舞台を移した演出で観るのは一昨年に続いて二回目です。前回に比べて目が慣れているせいか、あまり舞台に煩わされずにモーツァルトの音楽を聴きましたが、やはりこの演出、私にはしっくりこない。いろいろ考えさせてくれるという点では貴重ではあるのだが・・・。

  2013年6月15日
  フィオルディリージ: ミア・パーション
  ドラベッラ: ジェニファー・ホロウェイ
  デスピーナ: 天羽明惠
  フェルランド: パオロ・ファナーレ
  グリエルモ: ドミニク・ケーニンガー
  ドン・アルフォンソ: マウリツィオ・ムラーロ
  指揮: イヴ・アベル 
  演出: ダミアーノ・ミキエレット
  合唱: 新国立劇場合唱団(冨平恭平指揮)
  管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

「コジ」でいつも問題になること、しばしば観る者、聴く者が躓く原因となるもの、このオペラを好きになるか嫌いになるか、必ずや人に踏絵を踏ませるもの、それはこの物語の荒唐無稽さ、あるいは不道徳性、人によってはそのあからさまな女性蔑視だろうか。だが、19世紀のワーグナーじゃあるまいし、現代人がこのお話について不道徳を云々するのはあまりにもナイーヴに過ぎると言わざるを得ない。その一方で、ダ・ポンテがこの台本を書いた1789年、もちろんそれはフランス革命の年、アンシャン・レジームの崩壊の年であるのだが、だからといってこのお話を政治的に読み解く、というのも無理があるように思われます。では我々はこの物語をどう受け止めればよいのか。
コジには6人の男女が登場します。二組の恋人達と、彼らを教え導く立場の哲学者、そして小間使い。男女3人づつ、幾何学的にソロから二重唱、三重唱、四重唱、五重唱、六重唱が散りばめられており、あるいは愛しあい、あるいは憎しみ合うテキストが周到に組み立てられている。試しに全31曲の歌い手を整理してみよう。
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多種多様なアンサンブルの連続する二つのフィナーレを一曲と数えるとやや雑駁になってしまうのだが、そこは目をつぶって、この対称と非対称の交錯する表を見ていると、いくつも興味深い事柄が判ります。もっとも面白いのは、偽の恋人達の二重唱(第23曲、第29曲)はあっても、本来の恋人達、つまりフェルランドとドラベッラ、グリエルモとフィオルディリージの二重唱がないこと。フィナーレの中においても、本来の恋人達は決して二重唱を歌わず、専ら男同士の二重唱と姉妹の二重唱が交替するのみ。また、男同士の三重唱はあっても、女の三重唱はない、つまり小間使いは決して姉妹達と一緒に歌わない、ということ(アンシャン・レジームの崩壊と関連付けるのが無理というのがこのことからも判ります)。フェルランドとグリエルモの二重唱(第7曲、第21曲)、姉妹の二重唱(第4曲、第20曲)は仲良く2曲ずつあるのに、ドン・アルフォンソとデスピーナの二重唱はない、というのも同様。ではデスピーナは疎外された存在かと言えばそうではなく、ドン・アルフォンソと共に恋人達を翻弄する立場にいる。
ダ・ポンテの台本を荒唐無稽と見る見方は、登場人物の感情が僅かな時間でマイナス(無関心あるいは憎しみ)からプラス(愛)へと振れるところが人間の感情としてあり得ないという点にあるが、これを馬鹿馬鹿しいと考えるのではなく、ある種の思考ゲームのために敢えて人間性を捨象したと考えたらどうなるだろうか。本来の恋人達の二重唱がないことが、これは通常の物語とは違うのだと表明してはいないだろうか。

この物語の構造を改めて考察すると、悪意ある権力者と淫蕩な小間使いに翻弄される犠牲者達という図式化が出来るのだが、これと奇妙な一致を見せる物語がある。ダ・ポンテがこの台本を書いた1789年に少し先だつ1785年、バスチーユの牢獄でマルキ・ド・サドが書いた『ソドム百二十日、あるいは淫蕩の学校』(ちなみにコジの正式名称は「女はみんなこうしたもの、あるいは恋人達の学校」)。4人の絶大な権力を持つ悪徳の権化のような男達、淫蕩極まりない4人の語り女と4人の召使女に8人の馬蔵、そして彼らのありとあらゆる想像の実践のための犠牲となる4人の貞淑な妻達、8人の少女と8人の少年が繰り広げる地獄絵図は、まさに人間性を捨象した思考ゲームであり、未完に終わったものの、もし完成していたならば権力者と召使と犠牲者の幾何学的組合せによる、ありとあらゆる性倒錯のリストが出来上がったはずだ。ここでは善意や美徳を極端なまでに排斥し、責め苛む者と手伝う者と犠牲者の男女さまざまな組合せそのものが興味の対象となっています。
コジの物語は私にはサドの簡略な、縮小版のように感じられるのだが、もちろんダ・ポンテがサドを知っていたというつもりはありません。そうではなくて、ミシェル・フーコーが『言葉と物』の中で分析していたように、同じエピステーメー(その時代の思考の枠組み)の中で同時代的、同時多発的に同じ構造をもつ精神的所産が生まれる、ということ。その意味で、ダ・ポンテの台本とサドの著作に奇妙な類似点があっても不思議でも何でもない。ダ・ポンテとモーツァルトは、そういった意味で実は革新的なオペラを書いていたと言えるのではないか。恋人達の二重唱のない恋愛劇。美徳の欠片もない権力者と小間使いの協働、犠牲者達の人間的感情の捨象。
私にとって今回の公演の演出が駄目だと思うのは、現代のキャンプ場という舞台の情報力の多さが抽象的な思考ゲームという物語の本質にそぐわないことが一つ。その点、オリジナルのロココ風の庭園のほうがよほど適しているだろう(アラン・レネの映画「去年マリエンバードで」みたいな舞台だったら尚良し)。それと、人間的感情を敢えて捨象しているのだとすれば、ドン・アルフォンソ以外の全員が怒り(人間的感情)を露わにして幕が閉じるのは容認できないことになります。モーツァルトの音楽が本来「許し」の音楽だからと言って、この演出(許しのない、殺伐とした終わり方)を非難する向きもあろうかと思うが、私はもうすこしひねくれているので、ここはオリジナルどおり、人間的感情としてありえない和解(結果として「許し」になるのだが)がやはり正しい結論だと思う。さらに、小間使いまで憤然とその場を立ち去るというのは、このオペラにおける彼女の役割と根本的に相容れないと思います。いずれにしろ、若者がすこしふしだらになるからキャンプ場、というのも、とても幼稚な読み換えに思われます。また、良くできたセットではあるが、どうも私には視覚的な美しさもあまり感じられませんでした(同じような設定の変更でありながら先日の「ナブッコ」の演出が私の気に入ったのは、つまるところ人工美の極致のようなセットの美しさの所為もあったのでしょう)。

演出についてはこれぐらいにして、音楽そのものについて。全体に一昨年の出演者たちよりも音楽的な満足度は高かったように思います。
歌手についてだが、まず感心したのがデスピーナの天羽明惠。最初、ミニスカ眼鏡っ娘(萌)みたいな格好で出てきて、これは人によってはキュンキュンしちゃうだろう(笑)。いや、そんなことはどうでもいいが、歌がとても上手い。私は以前「アラベラ」のフィアカミッリ役で彼女を聴いたことがあるが、その時よりもハマり役だと思いました。ちょっと小悪魔してました。
男声3人も一昨年より良い。特にフェルランドのパオロ・ファナーレの真面目さとグリエルモのドミニク・ケーニンガーの不真面目さのバランスがとても良いと思います。マウリツィオ・ムラーロ(ドン・アルフォンソ)のエロ親父みたいな歌い方はモーツァルト的ではないかもしれないが私はとても気に入りました。
フィオルディリージのミア・パーションは冒頭に「体調不良の申し出があったが出演します」云々という、意味不明なアナウンスがあって心配したが、不安気は感じられませんでした。第2幕の至難なロンドも素晴らしかった。ただ、テクニックはしっかりしているがやや精彩に欠けるように思われた点、やはり体調万全ではなかったのだろうか。ドラベッラのジェニファー・ホロウェイも悪くは無いが、姉妹の声がとてもよく似ていて、あまりキャラが立っていなかったことがちょっと困ったと思いました。アンサンブルが多いだけに、お堅いお姉さんと、色んな意味で色んなところがユルい妹が声だけでそれと判らないとどちらが歌ってるのか判りにくく、面白さも半減していまう。
イヴ・アベル指揮の東京フィルはとても良かったと思うが、先日のナブッコのような演奏を聴いてしまうと、生気にみちてはいるが、どこか安全運転のきらいがなくもないと思いました。もっと上を狙えるオーケストラのはずです。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2013-06-16 18:56 | 演奏会レビュー | Comments(2)