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【ネタバレ注意】新国立劇場公演 ヴェルディ 「ナブッコ」

拾いネタですが・・・
Q:ネロとパトラッシュを迎えに来た天使たちがもめています。その原因を教えてくだされ。
A:パトラッシュがめっちゃ臭い。





ヴェルディ・イヤーに相応しく今シーズン二つ目のヴェルディ作品。結果はとても面白く興奮する舞台でした。

  2013年5月25日
  ナブッコ: ルチオ・ガッロ
  アビガイッレ: マリアンネ・コルネッティ
  ザッカーリア: コンスタンティン・ゴルニー
  イズマエーレ: 樋口達哉
  フェネーナ: 谷口睦美
  アンナ : 安藤赴美子
  アブダッロ: 内山信吾
  ベルの祭司長: 妻屋秀和
  指揮: パオロ・カリニャーニ
  演出: グラハム・ヴィック
  合唱: 新国立劇場合唱団
  合唱指揮: 三澤洋史
  管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

今日は公演3日目だが、すでにブログ等で演出に関して賛否両論、基本的に演出については保守的な私であるから、今回の現代風読み換えについては拒否反応が出るのでは、と懸念していたが、実際に目にしたのは極めて美しく刺激的な舞台でした。
開演30分前に劇場の扉が開くと、舞台はエホバの神殿ならぬショッピングセンターの、高級ブティックやカフェの並ぶ一際オシャレな一角。ブランド品を身につけた男女、あるいは携帯を耳にしている待ち合わせと思しきスーツの男性、沢山の人々が一階とニ階を行ったり来たりしている。ちょっと残念なのは、舞台右手のエスカレーターが動いてなくて、(あー予算がないのね)と思わせてしまうところ。普通に階段で良かったのに。一階左手のiPadなどをディスプレーしているショップは齧られたアップルならぬヒョウタン洋梨のロゴが輝いていて御愛敬。序曲が始まると、それまで普通に話したり歩いたりしていた彼らが、ブランドの小物やバッグなどを床において、それを拝んだり手にして身悶えしたり。これを物欲にまみれた現代社会への批判云々と絵解きしてしまうと身も蓋もないのだが、直前までの日常の光景との落差というか、強烈な異化効果に唖然としてしまう。
ユダヤ教祭司のザッカーリアは薄汚れたよれよれのシャツとジーンズのラフな格好で、LA FINE È VICINA(世界の終末は近い)と書かれたプラカードを背負って群衆を扇動する。そこに登場するアビガイッレとバビロニア兵達はテロリスト集団のいでたち。テロリスト達は豚や犬の仮面を付け、思い思いのラフな格好をしている。バビロニアの王ナブッコは彼らテロ集団のリーダーという訳だが、ナブッコが命じるとテロリスト達がブティックを滅茶苦茶に破壊し、壁やガラスに赤いスプレーを吹き付ける・・・と、まぁ終始こんな感じで芝居が進む。
今回何より私が気に入ったのは、破壊された後の舞台も、凄愴たる美しさを保っていて、美術スタッフ達の緻密な計算が偲ばれるところ。興味のある方は新国立劇場のHPに舞台写真がアップされているので是非ご覧頂きたい。
正直なところ、私はこの演出のあれこれの意味というか、何を象徴しているのか云々といったことには興味がない。むしろ「深読み」をしないで、ただただ眼前に繰り広げられる、今まで見たこともない光景を目を見開いて見ているだけでよいのではないかと思います。反対に、これは何、あれは何と絵解きしてしまうと少し鼻白む思いをするのではないか。従って、演出家があれこれと言葉で講釈を垂れて、それをチラシにして劇場のホワイエに置いてあるのは如何なものか、という気がしました。余計なことを言わずに、ひたすら視覚の悦びに身を任せていればよいのに、と思います。

演出について長々と書きましたが、歌手とオーケストラの充実ぶりは新国立劇場のこれまでの演目の中でもずば抜けたものの一つではなかったかと思います。まずアビガイッレを歌ったマリアンネ・コルネッティ。ついこの間「アイーダ」で素晴らしいアムネリスを聴かせてくれたばかりだが、今回も凄まじいものでした。私は1988年のスカラ座来日公演の時の「ナブッコ」で、ゲーナ・ディミトローヴァの大迫力のアビガイッレを聴いているのだが、その時に勝るとも劣らない出来だったように思います。しかもコルネッティは、ただ声量に任せて吼えまくるのではなく、初期ヴェルディ作品の様式をしっかり押さえた、極めて音楽的な歌唱でした。第2部のカバレッタで少し息があがったようでしたが些細な瑕でしょう。至難なアジリタをものともしないドラマティコ、というヴェルディの苛酷な要求に見事に応える様子は、まるでクランクだらけの狭い道をダンプカーでぶっ飛ばすくらい歌手にとっては困難、聴き手にとっては快感です。
ナブッコ役のルチオ・ガッロも素晴らしい。いつの間にか当代最高のヴェルディ・バリトンとして、かつてのピエロ・カプッチッリばりの地位を築いていたわけですね。尤も、ナブッコはシモン・ボッカネグラやイヤーゴ、マクベスなどと比べると、やや奥行きや陰影に乏しい役柄という感じもして、これだけで歌手の力量を云々するのは気が引けるのだが、それにしてもこれだけの立派なナブッコを聴かせてもらえば大満足。
ザッカーリア役のコンスタンティン・ゴルニーも、先の二人に比べると少し見劣りするがこれはこれで立派なもの。意外に出番の多い役ですが安心して聴けました。
今回特筆すべきは日本勢の脇役が非常に充実していて、主役に引けを取らなかったこと。イズマエーレの樋口達哉は、出だしから火を吐くような熱い歌で、これぞヴェルディと快哉を送りたいと思いました。出番が少なくて歌手には実に気の毒な役だが、音楽的には大変重要な役どころで、シノーポリの録音では確かドミンゴに歌わせていて、なんともったいない、と思ったことがあります。フェネーナの谷口睦美も健闘。フェネーナは第4部フィナーレに短いが魅力的な聴かせどころがあり、歌手にとってもやりがいのある役だろう。私のお気に入りの妻屋秀和はバビロニア側の祭司長役で、ほんの少ししか出番がない。この人、凄い歌手なのにルックスで損しているのかなと(失礼)思ってましたが、今回はドレッドヘヤーにズタボロのジーンズ、B系っぽいブルゾンで若づくりしてみたら意外と(重ねて失礼)イケてました(笑)。これなら思い切ってザッカーリア役を歌わせてあげても良かったのに、と思いました。
このオペラの真の主役というべき合唱については今回も文句の附けようがありません。第3部の「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」では盛大な拍手が起こりましたが、私は第4部のナブッコの「シェーナとアリア」のカバレッタの合唱が好き。この白熱のストレッタを聴くと体温が2℃くらい上昇する感じ。もう新国立劇場合唱団は世界でも最高峰の合唱団ではないかな。
最後に管弦楽について。初期ヴェルディの魅力はなんといってもその直線的な、怒りも悲しみもストレートにぶつかって来る力強い旋律、骨太のカヴァティーナと血沸き肉躍るストレッタなのだが、パオロ・カリニャーニの指揮は、このヴェルディの魅力をこの上なく引き出していたと思います。東京フィルハーモニー交響楽団も、恐らく指揮者に乗せられて、お行儀の良さなどかなぐり捨てた素晴らしい演奏でした。この時期のヴェルディのスコアは微温的な演奏では悲しくなるほど薄っぺらいスカスカの音がするものだが(それは多分にヴェルディのオーケストレーションが中期以降の作品に比べて稚拙であるということなのだろうが)、本当に良い演奏というのはこの稚拙ささえまばゆいばかりの輝きに変えてしまうものです。それこそ先に述べた1988年のナブッコを指揮したムーティがそうであったし、録音で聴いた「エルナーニ」もそうでしたが、これほどの演奏というのはとても稀なものだと思います。今日のカリニャーニと東フィルはそれらの名演に迫る、いや、歌手と合唱のレベルを総合的に考えればそれを凌ぐほどの出来栄えだったように思います。
日本のオーケストラは、この「スカスカのスコアを輝かしく演奏する」というのが極めて苦手であると感じてきましたが、実は指揮者次第で「やれば出来る子」だったのですね。ただ、これだけの演奏を成し遂げてしまえば、後々イタリアもののハードルがものすごく上がってしまって大変でしょうね。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2013-05-25 22:35 | 演奏会レビュー | Comments(9)

ブリテン 「ビリー・バッド」についての追記

ビリーが発作を起こす場面、不謹慎だがザ・ぼんちのおさむ師匠(のモノマネをするプラスマイナス岩橋)を連想。
(参考動画)
http://www.youtube.com/watch?v=Ggmx7SLeFv0





前回の投稿で、「ビリー・バッド」の音楽について「やりきれないほど救いのない音楽」と書いたが、その事があれからずっと心に引っ掛かっていて、結局毎晩のように繰り返して聴くはめになってしまいました。
音楽を何度も聴き、もう一度リブレットをよく読んでみると、やはりヴィアは最後にビリーによって許され、救われたのだと思うようになりました。素直に台詞通り受け取ればいいのか、と。そんな虫の良い話ある訳がない、とも言える。しかし、これはメルヴィルとフォースターとブリテンの共作による男達のお伽話なのかも知れません。ならば大甘なエンディングでもいいじゃないか、と思う。いや、案外これがブリテンの本音だろう。
ビリーにとって艦長ヴィアは最初から最後まで敬愛の的であったが、ヴィアにとってのビリーは、自ら死を与えたにもかかわらず、いつしかキリストにも似た理想像となっていったように思われます。そして、ビリーの処刑前のモノローグも、幕切れのヴィアのモノローグも、決して暗いだけの音楽にはなっていないところが何とも味わい深いと思います。
リブレットを少し詳しく見てみよう。まずはビリーのモノローグの後半から。

And farewell to ye, old "Right's o'Man"!
Never your joys no more.
Farewell to this grand rough world!
Never more shipmates, no more sea,
no looking down from the heights to the depths!
But I've sighted a sail in the storm,
the far-shining sail that's not fate, and I'm contented.
I've seen where she's bound for.
She has a land of her own where she'll anchor for ever.
Oh, I'm contented. Don't matter now being hanged,
or being forgotten and caught in the weeds.
Don't matter now.
I'm strong, and I know it,
and I'll stay strong,
and that's all, and that's enough.

さようなら、老いぼれた『人権号』よ。
お前が俺に悦びをもたらすことはもう無いのだ。
この大いなる辛い世の中ともお別れだ。
もう仲間たちや海を見ることも無いのだ。
マストの天辺から海を見下ろすこともない。
だが、俺は嵐の中の帆船をこの目で見た。
遠くに輝く船、あれは運命なんかじゃない。
俺は満足した。
あの船が行きつくところを見たのだ。
そこには永遠に錨を降ろして安らう港があった。
ああ、俺は満足だ。吊るされたって、
忘れられて海の藻屑となったって構うもんか。
もうどうでもいい。
俺は強い。俺には判ってる。
そしてこれからも強いままだ。
それだけだ。もうそれだけで十分だ。

下手な訳で申し訳ありません。”That's not fate.”(あれは運命なんかじゃない)という一文はこれだけ読むと非常に意味が通りにくいけれども、その少し前に

But I had to strike down at Jemmy Legs - It's fate.
And Captain Vere has had to strike me down - Fate.

だが俺はジェミー・レッグ(クラッガートの渾名)を殺さねばならなかった。こいつは運命だ。
そしてヴィア艦長は俺を殺さねばならなかった。これも運命だ。

と語っていたのを受けた台詞と解釈すべきだろう。すなわち、ビリーにとっては、

現実=他者から与えられたもの=運命
幻想=自ら造り出したもの=運命とちがう何物か

ということなのだろうと思います。これはとてもペシミスティックな世界観というべきもので、ビリーの言葉というよりはブリテン(そして恐らくフォースター)の真情が吐露されたものだと受け止めたい。
このモノローグ後半の音楽はとても生き生きとしていて、まるでビリーは喜んで死に赴いていくような錯覚さえ覚えます。それでいて最後の”and that's enough.”の悲痛さはただならぬものがあります。
次にヴィアのモノローグ。

We committed his body to the deep.
The sea-fowl enshadowed him with their wings,
their harsh cries were his requiem. But the ship
passed on under light air towards the rose of dawn,
and soon it was full day in its clearness and strength.
... For I could have saved him. He knew it, even his
shipmates knew it, though earthly laws silenced them.
Oh what have I done?
But he has saved me, and blessed me,
and the love that passes understanding has come to me.
I was lost on the infinite sea,
but I've sighted a sail in the storm,
the far-shining sail, and I'm content.
I've seen where she's bound for.
There's a land where she'll anchor for ever.
I am an old man now,
and my mind can go back in peace to that far-away
summer of seventeen hundred and ninety-seven,
long ago now, years ago, centuries ago, when I,
Edward Fairfax Vere, commanded the "Indomitable"...

我々は彼の遺体を海へ放り込んだ。
海鳥が翼で彼の亡骸を蔽い隠し、
そのやかましい啼き声はまるでその死を悼むかのようだった。
だが船が薔薇色の夜明けの方へ軽やかに進んでいくと、
たちまち晴れた、強い日差しの真昼となった。
私は彼を救うことが出来たのだ。奴はそのことを知っていた。
いや、仲間たちも知っていて、ただ軍規のせいで黙っていただけだ。
ああ、私はなんということをしでかしたのか。
だが彼は私を救い、祝福さえしてくれたのだ。
そして理解を超えた愛が私のところにやって来た。
果てしも無い海を彷徨いながら、
だが、私は嵐の中に帆船を見た。
遠くに輝く船、
私は満足している。
あの船が行きつくところを見たのだ。
そこには永遠に錨を降ろして安らう港があった。
私はすっかり年老いたが、
私の心はあの1797年の遥かなる夏に
安らかに戻ることができる。
ずっと前に、何年も、何百年も前に、
この私、エドワード・フェアファックス・ヴィアが『不屈号』の艦長だった頃に。

嵐の中の光り輝く帆船のイメージ。もちろんヴィアは処刑前のビリーのモノローグについては何も知りません。しかし不思議な共感によって二人は同じ幻覚を見ます。これが救済でなくて何だろう。前にも書いた通り、ヴィアの歌う旋律は少し神経質で、ブリテンが自身へのアンビヴァレンツを投影していることは明らかだが、それでもこの幻視のところだけは非常に穏やかな音楽が附けられています。
昨年「ピーター・グライムズ」を見て、打ちのめされるほど感動したのですが、それから6年ほど後に書かれた「ピリー・バッド」はより多面的な思考を誘う内容となっています。前者が共同体への憎悪、父性への嫌悪と歪んだ性愛の物語だとすれば、後者には共同体(船員達)への愛と、父性(ヴィア)への全幅の信頼、歪んだ愛と並んでまっすぐな愛が描かれ、メルヴィルが刻みつけた善と悪への考察と重なり合って聴く者に深い感動を与えます。
それにしてもこの作品を舞台で観る日がいつか来るだろうか。なんとか私が生きている内にチャンスがあればいいが、なかなか難しいだろうなぁ。1951年初演の割には前衛的な語法は皆無、かといって全面的に調性が支配しているわけでもない。ブリテンはアルバン・ベルクの下で作曲を学びたいと望んでいたようだが、確かに「ヴォツェック」の間奏曲のような曖昧な調性感が支配的。まぁ万人向けの音楽とは言い難い。しかも男声のみのオペラとなると、いかに東京といえども、そうそう上演の機会があるとは思えません。定年後にヨーロッパで観るか(笑)。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2013-05-23 00:58 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ブリテン 「ビリー・バッド」 ケント・ナガノ指揮ハレ管弦楽団

ハンドルネーム「ドリー」さんの村上春樹新作amazonレビューが面白過ぎると話題に。こういう文才のある毒舌家が書いた佐村河内守評を読んでみたいなぁ。




ブリテンの1951年に初演されたオペラ「ビリー・バッド」を聴いています。

  ブリテン「ビリー・バッド」Op.50(1951年オリジナル版)
  ビリー・バッド: トーマス・ハンプソン(Br)
  エドワード・フェアファックス・ヴィア: アンソニー・ロルフ・ジョンソン(T)
  ジョン・クラッガート: エリック・ハーフヴァーソン(Bs)
  レッドバーン: ラッセル・スミズ(Br)
  フリント: ギドン・ザックス(Br)
  ラトクリフ: サイモン・ワイルディング(Br)
  赤髭: マーティン・ヒル(T)
  ドナルド: クリストファー・マルトマン(Br)
  ダンスカー: リヒャルト・ヴァン・アラン(Bs)
  新米: アンドリュー・バーデン(T)
  新米の友人: ウィリアム・デイズリー(Br)
  スクウィーク(チュウチュウ): クリストファー・ジレット(T)
  マンチェスター少年合唱団
  ハレ合唱団・ノーザン・ヴォイシズ(キース・オーレル指揮)
  ケント・ナガノ指揮ハレ管弦楽団
  1997年5月25~31日録音
  CD:WARNER CLASSICS2564 67266-0

昨年、新国立劇場で「ピーター・グライムズ」を観て以来、ブリテンの音楽がとても気になっています。思いあまって"BENJAMIN BRITTEN THE COLLECTOR'S EDITION"というEMIから出ているCD37枚組を買い、今年の初めから聴きはじめて今ようやく10枚ほど聴いたところ。管弦楽曲をあれこれ聴きましたがいずれもピンときません。物凄く良い部分もあるのだが、全体として聴くと私にはとても遠く、よくわからない音楽。なんとなく想像していた通りなのですが、やはりテキストのある音楽のほうが(私にとっては)より魅力的な作曲家、ということだろうか。
それとは別に、「ピーター・グライムズ」以外のオペラも聴きたいと思って買ったこのCD、これは本当に素晴らしい作品でした。Wikipediaでも出てこないオペラ故、すこしだけ粗筋を紹介しておきましょう。

英仏戦争最中の1797年、すなわちイギリス海軍兵による「スピットヘッドとノアの反乱」の起こった年のこと。日本人にはよく判らない背景だが、トラファルガーの海戦の8年前と言えばなんとなくわかるだろうか。イギリスの軍艦「不屈号”Indomitable”」は船乗りの不足を解消すべく、近くを航行していた商船「人権号”Rights-o’-Man”」から数名を強制徴用する。その中の一人、ビリー・バッドは性格も見た目もよく、すぐに皆に好かれるが、緊張したり逆上すると激しい吃りの発作を起こすことがあった。兵曹長クラッガートはそんなビリーに眼をつけ、憎しみを募らせる。ついに彼は艦長ヴィアに、ビリーが反乱を企てていると讒言する。ヴィアはビリーをキャビンに呼び、クラッガートも同席する中、直接ことの真偽を尋ねる。ビリーは発作を起こし、腕を振り上げたところ傍にいたクラッガートの眉間に命中、図らずも彼を撲殺してしまう。目の前で起こった殺人について、ビリーの人となりをよく知るヴィアは苦悩しながらも、軍紀を保つため、ビリーを絞首刑とする・・・

ハーマン・メルヴィルの原作と筋立てはほぼ一緒(『ビリー・バッド』岩波文庫、坂下昇訳)。物語としては短編向きのものだが、原作は長編といってもよい長さがある。生前、小説家としては全く認められなかったメルヴィルが、発表のあてもなく、死の直前まで思索を刻みつけるかのように書かれた原作は時として晦渋を極める筆致となる。

ところで、原作とオペラはほぼ同じお話ながら、ビリーの人物造形に看過できない変更が見られます。原作のビリーはこんな風に描かれている。
「彼は若かった。それに、体軀でこそ、いっぱしの大人に発育してはいたけれども、見栄えでは年齢よりもずっと若やいで見えた。それというのも、まだ残る、つぶらな顔は、思春期の面影がほのかにただようているせいで、自然のままの色艶の清らかさは女性的としかいいようがなかった。」
あるいはこんな描写。
「とりわけ、人目を惹いたのは、豊かに動く表情にも、ふとした身ごなしにも、運動のはしはしにも、なにかのはずみで現われるなにものかだった。そして、このなにものかこそ、彼の母なる女性が、愛と恵みの手によって、
ひときわ優れた恩寵を授けられて、この世に生を享けてきた人間なのではなかったかを窺わせるのだった。」
ビリーが童貞ではないことは、次の箇所から知られます。
「しかし、船乗りが『酒と女と唄』の宿の常連だというのなら、それでは、船乗りに悪徳はなかったか?もちろん、そうではない。だが、陸人種の悪徳が―とまあいわせてもらうならば―心情のネジケをおびているのに対して、船乗りの心には、それほどの度合いはなかったし、それすらも、淫欲に根差すというよりは、長いあいだの抑制ののちの、生命力の奔騰であるかに見えた。つまりは自然の法則に従った、素直な流露だったのだ。」
この「美少年」といってもよいビリーの造形に対し、ブリテンはバリトンの役を与えている。
以前「ピーター・グライムズ」について書いた際にも、最初に聴いたとき、ピーターがテノール役であることに違和感を覚え、ジョージ・クラブの原作を読んで、なぜピーター役がテノールで書かれねばならなかったのかについて考察しました。その時はバルストロード=去勢する父=バス、ピーター=怒れる息子=テノール、という構図が見て取れた訳ですが、「ビリー・バッド」において、原作の美少年がバリトンで書かれていることにはもちろん理由があるはずだ。
まず一つ目の仮説は、このオペラの主役はテノール役のヴィアその人であり、その半面ビリーは脇役としてバリトンとなったというもの。テノールは主人公の記号であるとするなら、ブリテンの盟友であり、生活上のパートナーでもあったテノール歌手のピアーズに主役を歌わせたいと作曲者が思うのも当然。ならばヴィアこそこの劇の主人公だという考えは成り立ちそうだが、もう少し別の観点から考えてみよう。
二つ目の仮説は、ビリーはキリストのメタファーであるというもの。原作は至るところに聖書の引用が散りばめられており、容易にビリーがキリストのメタファーであることが判る(絞首刑の判決を受けて、二つのカノン砲の間に縛り付けられたビリーは、まさに二人の囚人の間で磔刑となったイエスそのものだ)。ならば、クラッガートはキリストを裏切ったユダでもあろう。古今の受難曲を思い浮かべれば判るとおり、ヨーロッパの音楽的な伝統は、キリストをバス、もしくはバリトンが歌うというものであり、ならばこそビリーをバリトンとしたという訳。それならテノールのヴィアは福音書を歌うエヴァンゲリストとしての役割か。
しかし、もっともありうべき仮説は、ビリーの性的魅力を表現するため、バリトンの役をあてがったというものだろう。私としては一つ目の仮説も二つ目の仮説も在り得るとしたうえで、真実は性的に成熟した男の表象としてバリトンを採用したのではないかと思っています。ブリテンは原作のビリーのイメージを曲げてまで、彼をバリトンに歌わせたかったのだろうと思います。

ビリーはある種の男達の欲望をそそるのだが、中でもクラッガートという男の場合、その欲望はサディスティックな欲望と表裏一体であり、端的にビリーを殺したいという欲望に駆られている。しかし、男としてのビリーの美しさ、魅力をもっとも正しく理解しているのもクラッガートである。彼は原作でこのように書かれている。
「おそらくこの船上で、ビリー・バッドの内なるところに具現されていた道徳的特異現象を最も知的に理解する力があったのは、この武器係り兵曹長ただひとりだったのではあるまいか?」
あるいはもっと端的な、あからさまな描写。
「ビリーが黄昏の折半直の余暇のおり、上部砲列甲板をぶらつきながら、人ごみに混じった若い散歩者の誰かれに向かって、冗談の一斉射撃を換わしながら進んでいるときなぞ、クラッガートの人目をはばかる流眄(ながしめ)が、きりっと結んだ彼の腰帯あたりにピタリと停まると、この天性の陽気を輝かしている『日輪の子』をつけてゆくうちに、次第に物思いに沈んだ、憂鬱そうな表情に居直ってゆくことがある。」(この箇所は訳注においても「エロスの表白」と書かれている)
このクラッガートという男の人物造型はオペラのリブレットでも実に精緻に描かれているが、それもそのはず、台詞はE.M.フォースターとエリック・クロズィアの共同制作。フォースターといえば「眺めのいい部屋」や「モーリス」であまりにも有名な作家ですが、余談ながらコクトー、オーデン、フォースターといった大作家たちが競ってオペラのリブレットに手を染めたのが20世紀のオペラの特色といも言えるのではないでしょうか。
第2幕、ビリーを殺そうと決意する長いモノローグでクラッガートは次のように歌います。
O beauty, o handsomeness, goodness!
Would that I never encountered you!
(おお、美しく、男らしく、善良なビリー、
お前に出会わなければよかった)
クラッガートの性的対象としてのビリーにはやはりバリトンが相応しいという訳だ。

ではヴィアはどうだろうか。船乗り皆の敬愛の的。軍艦の艦長ともなれば父も同然、しかしオペラでは甲高い
テノールの役となっています。ヴィアは原作ではビリーの処刑後ほどなくして、敵艦の攻撃により落命するが、オペラでは生きながらえて老人としての姿を晒す。ヴィアはビリーを救うことが出来なかった。これが一生彼の負い目となるが、最後のエピローグではビリーによって許され、救われたと感じている。1797年という特異な年、ヴィアならずともビリーを救うことは難しかったろうとは思うが、ヴィアは本当に許されたのだろうか。作曲者のヴィアの造形は実に複雑。船乗りとしては知的である彼は、平穏な航海の折はプルタークなどを読んでいる。オペラのリブレットではヴィアがクラッガートを評してギリシャ神話のアルゴスみたいだというと、他の士官たちが「は?」と訊き返すところがある。これだけで船乗りにあるまじきインテリ、という人物が立ち現われる。原作でも、ヴィアはこのように描かれている。
「同じ階級にも、彼ほどの造詣はなく、まじめさにも劣る士官たちもいて、彼も仕事の必要上つき合っていたものだが、こうした人間のあいだでは、ヴィアという男は愉快な仲間になるための特性を欠いた、無味乾燥で、本臭い紳士だというのが評判だった。」
どうもブリテンの筆致はこのヴィアという男に対しては一筋縄ではいかない。
神経質な旋律を歌うハイテノールの人物は、どうみてもブリテンのシンパシーが注がれているとは思えない。
クラッガートの造形は原作もオペラも大差はないが、彼の造形が確かなので、この物語のテーマが男の嫉妬であること、また男の嫉妬の背後には紛うかたなき同性愛の存在が見られること、一目瞭然である。オペラの中でのクラッガートの扱いは大変おおきくて、「オテロ」のヤーゴのクレドにも匹敵する大アリアが与えられている。
ビリーとヴィアとクラッガート。ブリテンが本当に主人公としたかったのはこの3人のうち誰だろう。原作とは異なって、成熟した雄の性的魅力を無邪気に、無防備に振りまくバリトンのビリー。神経質なインテリで、最後までビリーによる許しを希うヴィア。ビリーを誰よりも愛し、それゆえ罠にはめて殺そうと目論むクラッガート。ブリテンというゲイの作曲家がクラッガードに素晴らしい悪のモノローグを書かざるを得なかったその心境を思うと、なんというか暗澹たる気分になってしまいます。

ブリテンの音楽は本当に優れたものですが、とくに第3幕の最後、死刑判決のあと、ビリーが拘禁されている小部屋にヴィアが入って行った後の音楽が天才的。このあと、ヴィアとビリーの間で如何なる会話が交わされたのか、オペラは何も伝えないが、音楽が雄弁に二人の心情を語ります。突き刺すような金管の咆哮に背筋も凍る思いがします。そして、ビリーの絞首ののち、船乗りたちの言葉にならない憤懣の合唱が、士官たちの合唱(”Down all hands!”やめろ、お前ら!)によって次第に力をなくしていく場面も素晴らしい。ブリテンという人は本当に合唱の扱いが巧いと思います。
それにしてもなんという救いのない音楽。最後のエピローグはヴィアに救いがもたらされたと考える向きもあろうかと思うが、先程も書いたとおり、どうも単純な救済の音楽をブリテンが書いたとは思えない。そうなると、「ピーター・グライムズ」同様、やりきれないほど救いのない音楽ということになる。

演奏に関して一言。ケント・ナガノの指揮が素晴らしい。歌手達もそれぞれ所を得た歌いぶりです。とくに主役級の3人の歌唱は素晴らしく、おおらかなビリー、神経質なヴィア、そして輝ける悪役のクラッガート、それぞれに相応しい歌唱です。
CDにはリブレットは添付されていませんが、ネットで入手することができました。ただ、この英語のリブレットはなかなか読解が難しい。難しい理由はいろいろありますが、まず海軍用語。例えば航海士が水兵を怒鳴りつけるこんな台詞。
Here is the spot, men! Look at the main deck!
Stains on the deck of seventy-four.
Get' em off, you idle brutes!
この”seventy-four”というのが”a type of two-decked sailing ship of the line nominally carrying 74 guns. ”という事がわからないと意味が通じない。
それに、pressとかimpressがいずれも「強制的に徴用する」という意味で使われているのも馴染みが薄い。さらには俗語、とくに罵倒語の類が頻出するが、これも辞書を引いても載ってなくて閉口。
それと、軍艦の中は艦長を頂点とするヒエラルキーが支配しているのだが、登場人物の上下関係がとても判りにくい。中尉と航海長とはどっちが上か、とか。おまけにmidshipmanという幹部候補生みたいなのが出てくるが、こいつが黄色い声のガキのくせにえらく威張っている。で、航海士らがこいつらにいやらしいおべっかを使う。そんなわけで、相当辞書をひかないと理解できませんが、こうして時間をかけてリブレットを読み込むのは作品の理解にとっては非常に良い側面もあって、なかなか得難い経験ではあります。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2013-05-13 00:46 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)