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ミヨー 「哀れな水夫」 パリ・オペラ座ソリスト・アンサンブル

youtubeでバロック・オペラをあれこれ観ていて、あれ井上順が・・・と思ったらアンドレアス・ショルだった。




ダリウス・ミヨーの珍しいオペラを聴いています。

 哀れな水夫 Le Pauvre Matelot Op.92
   水夫:クリスティアン・パピ(T)
   その妻:カテリーヌ・デュボスク(Sp)
   その義父:ジャック・ボナ(Bs)
   その友達:ジャン=フランソワ・ガルデイユ(Br)
   ジョナサン・ダーリントン指揮パリ・オペラ座ソリスト・アンサンブル

 弦楽三重奏曲 Op.274
   アルベール・ルーセル・トリオ

   1987年録音
   CD:ARION ARN63659

以前このブログでストラヴィンスキーの「エディプス王」を取り上げた際、こんなことを書きました。
「ストラヴィンスキーの頭の中にある、本来の音(理想像)が見事に現実のものとなっていると思うのですが、その理想像とは1920年代のパリで、コクトーやクローデル達と、いわゆる6人組の連中のコラボが目指していた新しい芸術、すなわちサティの「ソクラテス」や「パラード」の世界から出発し、オネゲルの「アンティゴーヌ」やミヨーの「クリストフ・コロンブ」といった舞台作品に結実した芸術的潮流と関連があると見るべきでしょう。」(2012.6.26.投稿)
あるいは「ペルセフォーヌ」について書いた下記の一文。
「(略)少なくとも1926~27年の「エディプス王」から1933~34年の「ペルセフォーヌ」の間に書かれた諸作品(ミューズを率いるアポロ、詩篇交響曲、ヴァイオリン協奏曲etc)については、6人組の影響という視点から聴き直してみる必要を感じています。」(2012.7.28.投稿)
それにしても1920年代のミヨーとストラヴィンスキーの関係は、1850年代のリストとワーグナーの関係にも似ていて、どちらがどちらにより大きな影響を与えたのか判然としない程、互いに多大な影響を与えあっていたに違いありません。こうした訳で、いつかミヨーの作品を集中的に聴いてみたいと考えていました。
ミヨーという作曲家は、ある種モーツァルト的というか、身体の奥底から自然に溢れ出る音楽をひたすら長い生涯に亘って書き留めた作曲家というイメージがあります。Wikipediaによれば作品番号附き作品はなんと443。いくら長生きしたとは云え、かなりの多作家です。そのうち、私が聴いたのはいくらもないけれど(駄作もたくさん書いてるという話だけど)、どれを聴いても基本的に楽天的で、良くも悪くも金太郎飴のようにミヨー以外の何物でもない。しかし間違いなく云えることは、彼は天性の音楽家だったということに尽きると思います。そういった意味では、モーツァルトに喩えるよりも、手に触れるものすべてが黄金になったミダス王にも似て、書くもの書くもの、すべてが真正な音楽になってしまった(故に良くも悪くもあまり苦労して音楽を書く必要がなかった)と云えるのではないでしょうか。彫心鏤骨とか苦心惨澹とかいった言葉ほどミヨーの音楽に無縁なものはありませんが、あまり立て続けに聴くと少し飽きてしまうところも無きにしも非ず。それでも私は彼の音楽を愛して已みません。
その中でも大小とりまぜて15曲ほどあるオペラを聴いてみたいと思っていましたが、これがなかなか入手困難なものが多い。ようやく1927年に初演された、3幕通しても30分ほどのショートオペラ「哀れな水夫」を聴くことが出来ました。添付のリーフレットには対訳がありませんが、この手のマイナーレーベルでは、フランス語のリブレットが載っているだけでも良心的。しかも有難いことには、このコクトーのリブレットの翻訳は文庫本になっていて簡単に手に入りました(ジャン・コクトー『大胯びらき』澁澤龍彦訳、河出文庫所収)。
登場人物わずか4人。
水夫の妻が切り盛りする酒場で、妻と水夫の友人が話している。水夫は船旅の途中で行方不明になり15年ほど経つが、妻は夫の死が信じられない。友人はなにかと妻に言い寄り、妻の父も友人との再婚を望んでいるが、妻の貞淑は堅い。舞台が空になると、水夫が現われる。やっとのことで流れ着いた南の国を逃れ、帰還した水夫は、まっすぐ妻のもとには帰らず、友人宅を訪れる。長年の苦労と、現地の土人に彫られた刺青の所為で、友人はにわかに水夫だとは判らない。ふと悪戯心もあって、水夫は妻に正体を隠したまま、水夫の知人の振りをして一夜の宿を借りることに・・・
あっと驚く結末はここには書かないことにしますが、機知に富むコクトーの台詞はさぞかし1920年代のパリの芸術家たちの創造意欲を刺激したことは想像に難くありません。
ミヨーの音楽は、第1幕はジンタ風のワルツで始まります。どこか下卑た響きと洗練の極致とが融合した、こういった洒落た音楽はフランス人にしか書けないものでしょう。正体を隠した水夫と妻との会話からなる第2幕は、物憂げなサンバ・カンソンのリズムで、ミヨーのブラジル体験が活かされています。第3幕の陰鬱な音楽も素晴らしいが、ことさら悲劇的なものは注意深く避けれられていて、実にあっけなく、さりげなく終わるのも素敵です。
演奏は有名どころは一人もいませんが、どの歌手もフランス語が美しく、何度も繰り返し聴くに値します。特に友人役ジャン=フランソワ・ガルデイユは優れた歌唱だと思いますが、その甘いバリトンを聴いていると、コクトーのエロティックなドローイングに出てくる、鯔背で巨大な男根を持つ水夫のイメージは、このオペラでは水夫よりもこの友人役により近い感じがします。
併録の1947年に書かれた弦楽三重奏曲は5楽章からなる17分ほどの小品。これがまた、どこがどうというほどのものではないが実に洒落た作品。若い頃に多調様式やブラジルの音楽のイディオムを取り入れた後は、前衛的な時代の潮流とは一線を画していたミヨーらしく平易で風通しのよい音楽です。そのとりとめのない転調は、晩年のフォーレを愛する人にも受け入れやすいものではないか、と思いました。
演奏しているアルベール・ルーセル・トリオはお世辞にも上手いとは云いかねる演奏ながら、そのノンシャランな雰囲気はよく伝えています。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2013-04-28 23:11 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

新国立劇場公演 モーツァルト 「魔笛」

(前々回の続き)泣けた本、他にもあった。吉田修一の『悪人』(汗)。でもこれ、連載時の束芋の挿絵も載ってたらいいのにね。





新国立劇場で「魔笛」を観てきました。

   2013年4月21日
   ザラストロ: 松位浩
   タミーノ: 望月哲也
   弁者: 大沼徹
   僧侶: 大野光彦
   夜の女王: 安井陽子
   パミーナ: 砂川涼子
   パパゲーナ: 鵜木絵里
   パパゲーノ: 萩原潤
   モノスタトス: 加茂下稔
   侍女: 安藤赴美子・加納悦子・渡辺敦子
   童子: 前川依子・直野容子・松浦麗
   兵士: 羽山晃生・長谷川顯
   指揮: ラルフ・ヴァイケルト
   演出: ミヒャエル・ハンペ
   合唱: 新国立劇場合唱団(合唱指揮:冨平恭平)
   管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

モーツァルトのオペラでは何が一番好きですか?私は断然「ドン・ジョヴァンニ」派だけれど、「フィガロの結婚」や「コジ・ファン・トゥッテ」を抑えて「魔笛」を一番に推す方も多いことでしょう。「魔笛」に限らず、モーツァルトの死の直前の作品には、ちょっと神憑ったような特別な雰囲気がありますね。それがフリーメーソンの所為かどうか私には判りません。昔LPの時代に、イシュトヴァン・ケルテスの指揮だったと思いますがモーツァルトがフリーメーソンの為に書いた音楽ばかりを集めたものを聴いて、いずれも大変すぐれた作品ながらも何となく居心地が悪いというか、よく判らない思いをしたことがありました。同様に「魔笛」も、この世のものとは思えないほどの素晴らしい音楽だとは思うけれど、「お墓にまで持っていきたいか?」と訊かれたらちょっと違うと言わざるを得ない。もう少し私自身が歳をとったらどう思うだろうか。
脱線するが、リリアーナ・カヴァーニが監督した「愛の嵐」という映画が私、大好きで、何度も映画館で観ましたが、ユダヤ人収容所で倒錯的な爛れた関係を持っていたユダヤ人少女(シャーロット・ランプリング)とナチスのSS(ダーク・ボガード)が、戦後、かたや高名な指揮者の美しい夫人、かたやホテルのポーターとして再会し、悲劇が始まるというものでした。この二人が劇場でお互い相手のことを意識しながら表面的には何食わぬ顔で観ているのが「魔笛」の、タミーノの笛に合せてライオンなどの動物(の着ぐるみ)が舞台で踊る場面。この場面の刷り込み効果は絶大なもので、モーツァルトには何の関係もないが、「魔笛」というとこの背徳的な悲劇を思いだしてしまう。もうひとつ、それと前後して初めて「魔笛」の全曲盤LP(ショルティの指揮したものだった)を買って聴いたとき、一番強烈な印象を受けたのが終盤の兵士の二重唱。なんて暗い音楽。弦の対位法に乗せてテノールとバスがユニゾンで歌うという趣向も、なんとも異常なものに思えたものですが、今でもモーツァルトの作品のなかで最も病的なものだというふうに思います。
そんなこんなで、どうも私には「魔笛」が楽しくて子供も大人も楽しめるメルヘン・オペラである、というふうには思えないのです。今回の公演にも、親御さんに連れられて小学生くらいのお嬢さんが聴いてらしたりしてましたが、ちょっと訊いてみたいな。「楽しいか?え、ほんとに楽しい?」(笑)。いや、ほんとに私、このオペラよく判らんのですよ。お話も荒唐無稽だし、実は夜の女王はマリア・テレジアでザラストロはヨーゼフ2世だの聞かされてもそれでお話が明確になるわけでもない。おまけにあちこちで女性蔑視も甚だしい台詞が頻出し、ムーア人のモノスタトスは黒くて悪い人、という扱いで現代人の感覚からすると実に困る。ちなみに今回の字幕は、そのあたりの「困った」台詞を改竄することなく、ありのままに訳していたのが良いと思います。お嬢さんを連れていた親御さんも、差別意識垂れ流しのシカネーダーの台本にはさぞかし困ったことでしょう(笑)。でも、「魔笛」ってこういうお話なんだから仕方ないよね。

まぁ、雑談はこれぐらいにして、今回の日本人キャストによる公演、びっくりするようなことは何も起こらないが、これといった穴もない、オペラハウスの日常公演としては十分なレベルだと思います。ただ、望月哲也のタミーノは歌い方もドイツ語も違和感がありました。この歌手もあちこちで聴いたなぁと、当ブログを検索したら「サロメ」のナラボート、「オランダ人」の舵手などで褒めてました。でも今回のタミーノは妙なところでヘルデンっぽくなってモーツァルトの様式にそぐわない。ドイツ語の子音がべちゃべちゃと響くのもいただけない。パミーナの砂川涼子は芯があってリリコよりスピントが勝った声質ですが、なかなか良かったと思います。安井陽子の夜の女王は素晴らしい歌唱でした。これだけの難曲ですからもちろん完璧とは云いませんが、舞台でこれだけ歌えたら大したもんだと思います。パパゲーノの萩原潤ですが、ちょっとキャラに合ってませんでしたね。前にもどっかに書いたと思うが、昔この人が「マタイ受難曲」のピラトを歌うのを聴いて、上手いとかどうとか言う前に、本当に真面目に渾身の力を込めて歌う姿にちょっと感動したことがありました。その印象が強くて、パパゲーノだからと、舞台の上でひょうきんな仕草をする度に、この人にはちょっと無理かも、と思いました(私だけの感覚かも知れませんが、観てるほうが痛い)。でも声は良かったですよ。それこそパパゲーノのキャラに全然あっていないパミーナとの高貴な二重唱は素晴らしいものでした。モノスタトスの加茂下稔、下品になる一歩手前でのデフォルメに知性を感じました。今回の登場人物の中でモノスタトスが一番頭がよさそうに思ったほど。ザラストロの松位浩、3人の侍女、その他の役回りの歌手も特に不満はありません。
東フィルの演奏も、良くも悪くも日常モード、平常運転という感じがしました。指揮者のラルフ・ヴァイケルトは以前「サロメ」を聴いてちょっと淡白すぎやしないか、と不満を書いた指揮者だが、今回はモーツァルトということで、大きな不満はありません。でも、今回の公演の趣旨から言えば、別に海外から指揮者を招聘しなくとも、日本の若手の指揮者に振らせるとか、他にやり様があったようにも思います。演出や美術然り。もともとシカネーダの台本には「日本の狩の衣裳で」などと書かれているのだから、純国産の舞台でも面白いと思うのだが。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2013-04-22 00:46 | 演奏会レビュー | Comments(0)

シュパーリンガー 「エクステンション」(ピアノとヴァイオリンのための)

卯月妙子の「人間仮免中」読了。誤解や非難を恐れずにいえば、これは21世紀に書かれた『ヨブ記』だと思った。




ここしばらくワーグナーばかり聴いてきて、解毒剤という訳でもないのだが・・・
極北系の音楽、なんて言葉があるかどうか知らないが、もうこのさき一歩でも向う側に足を踏み出せば、そこは如何なる音楽も存在しない無である、という意味とすればこのシュパーリンガーの「エクステンション」などその最たるものでしょう。

   マティアス・シュパーリンガーMathias Spahlinger(1944)
   「エクステンション」Extension(1979/80)
   Hildegard Kleeb(Pf)
   Dimitris Polisoidis(vn)
   1992年7月13~15日録音
   CD:hat ART CD6131

作曲者シュパーリンガーにしても、この作品「エクステンション」のことにしても、一般によく知られているとはとても言えないのですが、大井浩明氏のブログを辿っていくと意外なほど多くの日本語での情報が得られます(私もそれを読んで興味を持ち、このCDを買った訳ですが)。
 http://ooipiano.exblog.jp/897571
 http://ooipiano.exblog.jp/1544656
 http://ooipiano.exblog.jp/1547227
 http://ooipiano.exblog.jp/1547252

これらの詳細なレポートに私が附け加える事柄は殆ど無いけれど、このポツポツと現われ消えて行く音たち(その殆どが特殊奏法によるもので、音で聴くだけでは一体どうやって弾いているのか、というかそもそも何をしているのか想像も付かない、雑音とも騒音とも言いかねる奇妙な音響である)、それと果てしも無く続く沈黙に耳を澄ましていると、あのケージやフェルドマンでさえ、饒舌に過ぎると思われる程だ。しかし、作曲家の資質によるものでしょうが、印象としては極めて知的な音楽に聞こえます。静謐な空間に極薄のガラス片で出来たモビールがごく僅かの空気の揺れによってそよいでいるかのような、あまり今まで体験したことのない音楽。しかし聴き進む内に、不思議な平穏さが身体を満たしていき、聴き終わって深く息をすると何かこう、満ち足りた感じがするのだ。中でも奇妙な味わいが感じられるのは、作品中に数回、ごく断片的に他の作曲家の作品が引用されているところ。私がそれと判ったのはショパンの第3ソナタの終楽章とリストの「死の舞踏」、それにメシアンぐらい。ロマンティックなヴァイオリン曲の引用と見えるのはどうもイミテーションのようです。私は元来、音楽を聴いて視覚的な情景が脳裏に浮かぶほうではないのだが、このロマンティックな引用を聴いて、不思議なことにスタンリー・キューブリックの映画「2001年宇宙の旅」の終盤に突如現われる、冷たい光に溢れたロココ風の静謐な寝室の場面が頭をよぎりました。あれは宇宙空間に実在したのか、それとも主人公の幻覚なのか、映画は何一つ説明しませんが、観客が感じるのは恐らく恐怖ではなくて、死の直前に現われるであろう一瞬の平安(というより思考停止状態)だったと思います。この「エクステンション」に現われる一瞬のロマンティックな断片もまさに、死に満ちた空間にふと浮かぶ遠い記憶のようなものに感じられます。ただ、誤解のないように言っておくと、この作品はいわゆるアンビエント系の音楽とかとは完全に隔絶したものであり、前衛的な作風に抵抗のある人や、ヴァイオリンの「ギーッ」といった騒音や、駒のところをコリコリと引っ掻くようなノイズ、あるいはプリペアされたピアノの微分音に耐えられない方には決してお薦めはしません。
奏者についても何一つ情報を持ち合わせない上に、スコア無しでその演奏の良し悪しを云々することは出来ませんが、ピアノの内部奏法によるかそけき響きや、奏者の身体的音響(息を吸ったり吐いたり、あるいは楽器や服をなでる、といった類の微かな音、それらはどうも克明に記譜されているようだ)まで捉えた生々しい録音によって、ほぼこの作品の概要を掴むには充分過ぎるものであると感じました。いま日本でこの作品を演奏するとしたら、ヴァイオリンはともかくピアノは大井浩明氏しかいないと思われます。是非とも再演をお願いしたいところです。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2013-04-16 21:06 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

東京・春・音楽祭 ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

今までで一番泣けた本っていやぁ、やっぱり荒木経惟の『チロ愛死』かな(汗)。





「東京・春・音楽祭」の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(演奏会形式)に行って参りました。

  2012年4月7日
  楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
  ハンス・ザックス: アラン・ヘルド
  ポーグナー: ギュンター・グロイスベック
  べックメッサー: アドリアン・エレート
  コートナー: 甲斐栄次郎
  ヴァルター: クラウス・フロリアン・フォークト
  ダーヴィット: ヨルグ・シュナイダー
  エーヴァ: アンナ・ガブラー
  マグダレーネ: ステラ・グリゴリアン
  指揮: セバスティアン・ヴァイグレ
  管弦楽: NHK交響楽団
  合唱: 東京オペラシンガーズ
  合唱指揮: トーマス・ラング、宮松重紀
  於東京文化会館

これだけの長大な作品を演奏会形式でやるのって、どうなんだろうと、チケット買う時に少し迷ったものですが、歌手が粒ぞろいでしたので、大変感動しました。良かったところは枚挙にいとまがありませんが、中でも第3幕、ヴァルターの夢解きの歌、続くザックスの靴屋の歌からエーヴァの感謝の歌のところなど、そして第2場の、民衆がザックスを讃えて歌う場面等々、恥ずかしながらすっかり涙腺が壊れてしまいました。
今回何より興味があったのは、あのクラウス・フロリアン・フォークトがヴァルターをどう歌うか、ということ。昨年の「ローエングリン」の時、彼の声について私はどうにも好きになれず、「この声がヘルデン・テノール?ちょっと待てよ、と言いたくなる」と書きました(2012年6月14日投稿)。しかし今回のヴァルターに関しては、本当に素晴らしい声だと思いました。実のところ、昨年の「ローエングリン」の時よりも、心なしか声が太くなったようにも思う。それがフォークトの年齢の所為なのか、それとも演奏会形式で舞台よりも声が生々しく聞こえる所為なのか、はたまた得体の知れぬ聖杯の騎士と、同じ騎士でも喜劇に登場する生身の人間たる役柄の違いをフォークトなりに歌い分けた結果なのか、私には判りかねるのだが、たとえ「ローエングリン」の時の、あのビロードのようなピアニッシモが今回聴けなかったとは云え、他に類を見ない美しい声であるのは確かだ。もっとも、彼のヴァルターが完璧無比であった訳ではなくて、「夢解きの歌」などさらさらと流れ過ぎて、もう少したっぷりと歌ってほしいと思わなくもない。思うに、フォークトの声というのは、あまりにも低音から高音まで、どこをとっても輝かしく、ある意味むらが無さ過ぎる結果、ことさらメリハリのない表現に聞こえてしまうのかも知れない。このことは、今後彼の声が更に太くなって行った時、大きな問題となりうる所だろうが、今日のところは瑕というレベルではない。他にも小さな事故がニ、三あったけれど、それらをあげつらうつもりは毛頭ありません。それにしても彼の声を「ヘルデン」と呼ぶのはどうしても納得が行きません。今のところ、舞台では賢明にもリリックな役柄を中心に歌っているようだが、このままもう少し声が太くなればいずれジークムントなども歌うようになると思います。その時まで「ヘルデン」という称号はお預けにしたほうが良いと思うのだが・・・。
フォークトもさることながら、べックメッサーを歌ったアドリアン・エレートには本当に驚かされました。一昨年の新国立劇場の「コジ・ファン・トゥッテ」のグリエルモ、同じく「こうもり」でアイゼンシュタインを歌っていた人ですが、聴く度によくなっているように思います。この滑稽な役回りがこれほど音楽的に歌われることも珍しかろうと思うが、ワーグナー自身はべックメッサーをオペラ・ブッファのように歌うことに強く反対していたというから、これは本当に役柄の本質に迫る素晴らしい歌唱と言ってよいと思います。
ザックスを歌ったアラン・ヘルドは、声もちょっと強面の見た目も役柄に良く合っていますが、音程がややぶれたり、オーケストラと縦の線が合わなかったり、と事故が多かったように思います。もっとも、全体の出来からすれば小さな瑕にしか過ぎないと思います。
エーヴァを歌ったアンナ・ガブラーも一昨年の「こうもり」でロザリンデを歌っていましたが、その時は今一つという感想でした。ですが今回はとても良かったと思います。もっとも、エーヴァ役はどうしても出番が少なくて割を食った感じがします。
ポーグナーと夜警の二役を歌ったギュンター・グロイスベックは素晴らしい美声のバス。プロフォンドでしかも色気のある声。夜警の歌の2回目はどういう訳か精彩を欠いていましたが。
その他脇役ながら、おっちょこちょいの徒弟ダーヴィット役のヨルグ・シュナイダー、パン屋の親方コートナーを歌った甲斐栄次郎も、役柄に寄り添った素晴らしい歌唱。マグダレーネのステラ・グリゴリアンや、その他大勢のマイスター達も過不足なし。
合唱の東京オペラシンガーズについても賛辞を贈りたい。今回の公演、本当にソロ、アンサンブル、合唱といずれも穴がなく、まさに声の饗宴という風に私は聴きました。
指揮のセバスティアン・ヴァイグレについては、そつがないと言うか、あまり特筆すべきところは無かったように思います。N響については、最初の二幕はどうも弱音になると精密だけれど音が痩せてしまうのが難点。第2幕の「ニワトコのモノローグ」の序奏、花の香りが夜のしじまにむせかえるような、密度の濃い弱音を期待していたのだが、弦のトレモロがなんだかきたない音で興醒め。しかし第3幕に至ってようやく完全燃焼といった感じがしました。なんせ長丁場ですから、これは意識的に前半は抑えていたということでしょうか。終わりよければ全てよし、で全体としては大いに満足した訳ですが。
字幕で気になったのは、「ニワトコのモノローグ」で「リラの香り」と訳していたこと。ここでいうニワトコはセイヨウニワトコのことであって、日本のニワトコは似て非なる、というかあまり匂いがよろしくない、ということで敢えて「リラ」と訳したのか?と思って調べてみると、こんな記事が・・・1928年オーストリアで流行った「白いニワトコの花がふたたび咲く頃」という歌が、パリでは「白いリラの花の咲く頃」と歌詞を置き換えて流行し、それが1930年に日本にもたらされてあの宝塚の「スミレの花咲く頃」になったそうな。翻訳はそのあたりの事情も踏まえて訳しているということでしょうか。
演奏会形式ということで、舞台で観るより物足りないかなと思っておりましたが、歌手達が歌いながらちょっとした所作をする、それは目配せ一つ、という場合もあるのだが、それだけで十分にお話の面白さが伝わりました。意外なほど見やすく、退屈する暇もない優れた演奏会であったと思います。以上、興奮醒めやらぬままに備忘を書き記した次第。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2013-04-08 01:14 | 演奏会レビュー | Comments(6)

ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 カラヤン指揮(その4)

ことしのエイプリル・フール企画ではマンツーマン英会話レアジョブの「ペット向け英語習得レッスン提供開始」
というのが面白かった。

 『対象
  犬 猫 
   ※年齢、犬猫種は問いません
  (中略)
  概要
   講師はフィリピン大学で生物学を専攻している学生および卒業生です。
   また、レッスンは現在、初級コースのみのご提供となり、
   簡単な英単語「one」(ワン)「near」(ニャー) などを学習していただきます。』

個人的には「フィリピン大学」云々と、画像のヘッドフォンの付け方が雑なところに妙な脱力感を覚えるww。
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今日は「東京・春・音楽祭」の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の第1日目だが、私は7日の公演を聞く予定。その前に、先日3回に亘ってザックスの「迷いのモノローグ」と「ニワトコのモノローグ」を題材にしてちょっと詳細な分析を試み、それで予習記事は終わりにしようと思っていたのだが、更にどうしてもこれだけは書いておきたい、と思うことがあり、今回の4回目となった次第。
第3幕、ザックスがヴァルターにマイスターの歌の様々な規則を教える場面、ヴァルターが歌う「夢解きの歌」は変則的なバール形式(A-A'-B)に則っているが、そのBの部分(譜例20)。歌詞で言うと、Sei euch vertraut, welch hehres Wunder mir geschehn以下、「愛の動機」の変形によるこの部分は何度聴いても素晴らしいのだが、ここで問題にしたいのは、同じ歌が少し後の場面、一旦部屋に戻ったヴァルターが今度はエーヴァの前に現われ、「夢解きの歌」第3節を歌う、同じBの部分(譜例21)。歌詞はHuldreichstes Bild, dem ich zu nahen mich erkühnt!以下。
(譜例20)
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(譜例21)
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ここ(譜例21の7小節目)にbの音(シのフラット)が書かれているだけで音楽の色合いが随分かわる。このbの音を聴くと私は胸が締め付けられるような気持ちになる。たった一つの音の有る無しでこんなに音楽の聞こえ方が、否、音楽の意味が異なってくるのだ。例えて言えば、譜例20のほうは、まさにドイツ・ロマン派の音楽。シューベルトやウェーバー、シューマンを経て此処に至る初々しいロマンの香りが凝縮された音楽だが、譜例21のほうは、「後期ロマン派」と呼ぶにふさわしい陰りのある、官能をくすぐる音楽。それはワーグナーの後、マーラーを経てシェーンベルクに真っすぐに続いていく流れであり、その源流は恐らくフランツ・リスト(の1850年代以降の音楽)にあるのだろうというのが私の見立てだが、それはともかく、それぐらいこの「夢解きの歌」の第1・2節と第3節との間には大きな差異があるのだ。
ドラマの進展という意味で、「夢解きの歌」第1節、第2節のロマンティックな音楽と第3節で現われるbの音がどういう意味を持つのか。ザックスの導くままに「夢解きの歌」を歌う第1節、第2節のヴァルターは、まだ自身の中にある芸術の萌芽を完全には開花させていない。第2幕の大混乱を経て、少しは思慮深くなったかも知れないが、基本的には血気にはやる若者のままだ。しかし、ヴァルターが一旦退場し、ザックスとべックメッサーのやりとり、次いでザックスとエーヴァのやり取りが続く間に、明らかにヴァルターは成長している。何かと言えばすぐに剣に手を掛け、駆落ちしてでもエーヴァをものにしようとしていた若者ヴァルターは、わずかの間に、ザックスに敬意を払い、正々堂々と歌合戦に勝ってエーヴァを妻に迎えようとする、真の愛を知る男になった感じが、このbの一音に込められている。一方のエーヴァがザックスに導かれるかたちで、ただの金持ちの我儘娘から愛を知る大人の女へと変貌することは、このシリーズその2の回で譜例10の引用とそれに続く記述で触れた。本当にワーグナーの音楽が素晴らしいと思うのは、テクストだけでなく音楽そのものでこういった心の軌跡(心の成長と言ってもいいが、これはまさにビルドゥングスロマンの本質である)を描くことが出来たからだと思う。ヴァルターの「夢解きの歌」第3節のbを、ワーグナーがそれと意識して書いたかどうかは誰にも判らない。だが、意識的であれ無意識的であれ、その一音の意味するところは注意深い聴き手に間違いなく伝わるはずだ。
それにしても、こんな枝葉の、瑣末なこと、たった一つの音符にこだわって長大なオペラを聴く、ということが果たして「正しい」アプローチなのか、自分でも若干疑問なしとしないところだが、多少の自負を込めて言えば、これが猫またぎ流の聴き方なのだ。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2013-04-04 23:54 | CD・DVD試聴記 | Comments(2)