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ヒンデミット 「カルディヤック」 カイルベルト指揮D.フィッシャー=ディースカウ他

いつもの散髪屋で、充電式のバリカンで襟足から後頭部にかけて刈り込んでるときに、いきなり「ジャッ!」と音がして髪の毛大量に噛み込んだままバリカンが止まってしまった。おもわず「イデデデ・・・」と叫んだのが私も散髪屋の兄ちゃんもツボにはまってしまい、しばらく双方笑いがとまらず悶絶(涙)。





新国立劇場のオペラ研修所公演が今年もまた3月に行なわれます。昨年はツェムリンスキーの「フィレンツェの悲劇」とラヴェルの「スペインの時」の二本立てでしたが、今年はヒンデミットの「カルディヤック」。演目が渋すぎます。今まで食わず嫌いで、ベレゾフスキーの弾いた「ルードゥス・トナリス」と「1922年」の組合せのCD以外ほとんどまともに聴いてこなかったヒンデミットですが、まずはCDで予習と相成った次第。


  カルディヤック: ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ
  その娘: レオノーレ・キルシュタイン
  士官: ドナルド・グローブ
  金商人: カール・クリスティアン・コーン
  騎士: エーベルハルト・カッツ
  貴婦人: エリーザベト・ゼーデルシュトレーム
  憲兵隊長: ヴィリ・ネット
  ヨーゼフ・カイルベルト指揮ケルン放送交響楽団・合唱団
  1968年ラジオ放送録音
  CD:ALLEGRO OPD-1427


このCD、シノプシスは附いてますが対訳なし。ドイツ語のリブレットはネットで入手しましたが英訳は見つからず(なぜかイタリア語とスペイン語の対訳は見つかりました)。珍しいオペラだが、それにしても手掛かりが少なくて閉口します。
まずは原作を読んでみました。E.T.A.ホフマンの『スキュデリ嬢』(吉田六郎訳、岩波文庫)、これがめっぽう面白い。ゴシックホラー風でもあり、推理小説風でもある。一説には推理小説はポーの1841年の小説『モルグ街の殺人』に始まると言いますが、1819年に発表されたこちらの小説も十分にミステリとしての面白さを備えています。謎を解決するのは73歳になる老嬢スキュデリで、17世紀のパリに実在した人物。ルイ14世の知遇を得て大活躍をしますが、もう一人の主人公と言ってよいのが金細工職人のカルディヤック(邦訳ではカルディラックと表記されています)。スキュデリを主人公と見るか、カルディヤックを主人公と見るかで作品観も大きく変わってくる訳だが、後者の見方については訳者のあとがきでヴァルター・ハーリヒのホフマン論を引用して「カルディラックは生まれながら「生(ダス・レーベン)」即ち人の世、と相容れぬ悖徳の芸術家魂を賦与された名匠である。芸術家魂とは、市民の掟では律し切れぬ悪魔的な執心である。芸術家とは、心理的には、人間の皮をかぶった兇悪な犯罪人である。」と書かれている通りだろう。
ネタばれを承知で少し詳しく書くと、カルディヤックは精巧を極めた金細工でパリ中の貴族たちを夢中にさせていたが、自らの作品に惚れ込むあまり、カルディヤックから金細工を買った人々を次々に殺し、細工を密かに取り戻しては秘密の小部屋に蒐集していたというのがここで扱われている犯罪の中身である。これすなわち、芸術家とその作品との関係性の一つの在り方について書かれた作品という訳だが、オペラのリブレットは大胆にも原作からスキュデリや重要な役回りの火刑裁判所長官、弁護士等々の人物をそっくり取り除き、推理小説ないし犯罪小説としての要素を削ぎ落としてこの芸術の本質というものに特化しているように見えます。リブレットではカルディヤック以外の登場人物がいずれも名前を持たないこともその現われでしょう。そして、ヒンデミットがオペラの題材としてこれをえらび、カルディヤックと名づけた理由もそこにある。

この本質、芸術家とその作品との関係性について、これを読み解くキーワードは肛門性格に由来する蒐集癖と強迫性人格障害ということになろうか。カルディヤックの蒐集癖の対象が金細工というのは象徴的である。ここでは糞便から金銭、そして黄金へといった象徴交換のメカニズムが見て取れます。
「実際、太古的な考え方が支配的であったところ、あるいは残っているところではどこでも、古代文化においても、神話、童話、迷信においても、無意識的な思考においても、夢においても、また神経症においても、金銭は糞便ともっとも深い関係をもたされている。悪魔がその情婦に贈る黄金が、彼の立ち去ったのちには、糞に変わってしまうという話はよく知られているが、この悪魔はしかし、抑圧された無意識の本能生活が擬人化されたものにほかならないのである。」(フロイト『性格と肛門愛』人文書院フロイト著作集5)
少なくともここに現れる金細工はフェティシズムの対象(それはフロイトによれば男根期に由来するものと考えられる)とは異なるものということになる。そして、殺人にまで至る「物」への執着は肛門サディズム体制に因るものということになるだろう。
これはこのオペラの物語のことだけを論じているのではありません。ヒンデミットの音楽自体にみられる顕著な強迫的性格、かならずしも大規模な編成ではないにせよ、スコアにびっしりと書かれていると思しい息苦しいまでの過剰な音の洪水、せっつかれるような、まえのめりに息つく暇も与えないリズムと、極度に無調的で激烈な作風、そのすべてがオペラの題材(あるいはヒンデミットその人)の肛門性格を物語っていると思います。肛門性格と強迫神経症との強い関連についてはフロイトの「鼠男の症例」を読んだ方にはほとんど自明のことでしょうが、いま私の手元にありませんのでかわりに次の一節を参考までに引用しておきましょう。
「私がさしあたり強迫型というなじみのない名前をあたえた第二の類型は高度の緊張のもとに自我から分離してゆく、超自我の優勢ということで際立っている。この類型は愛の喪失に対する不安のかわりに良心の不安によって支配され、外への依存性のかわりにいわば内への依存性をしめしており、高度の独立性を展開して、社会的には、文化のどちらかといえば保守的な真の担い手となるのである。(中略)最後に、ナルシシズム的強迫型は、外的な自律性と良心の要請への顧慮にさらに強力な活動への能力を付加し、こうして自我を超自我に対して強化することによって、文化的にもっとも価値の高い変種を生みだす。」(フロイト『リビドー的類型について』同前)
先にも書いたとおり、私の貧弱なヒンデミット体験ではその音楽の全体像は判りません。だが、このオペラが書かれた1926年といえば、リヒャルト・シュトラウスは「エジプトのヘレナ」第一稿を書いていた頃、ベルクは「叙情組曲」、シェーンベルクもいつぞやこのブログでも取り上げたOp.29の「組曲」で十二音技法の確立に向けて苦心していたころ。そう考えるとヒンデミットの先進性というものに驚かざるを得ません。しかしその一方で、同時代の作曲家達から当然与えられる様々な影響というものも感じられ、例えばシュトラウスの「影のない女」といった作品、あるいは「カルディヤック」よりもう少し後に書かれたベルクの「ルル」の、あの幕間に映画を上映しながら演奏される間奏曲などを連想させる部分があったり・・・。「カルディヤック」の音楽的特性について、さきほど再三にわたり「強迫的」という言葉を使いましたが、いくつか抒情的な箇所もあって、たとえば第一幕の貴婦人のLiedと題された第5曲 "Die Zeit vergeht"や第二幕カルディヤックのArioso "Mag Mondlicht leuchten!"(第13曲)など、ひんやりとした抒情性に溢れています(ちなみに全三幕の音楽は全部で18曲のナンバーから成るものの、基本的には切れ目なくぶっ通しで演奏されます)。もっとも官能性はあまりなくて、いわば「砂糖抜きのリヒャルト・シュトラウス」といった感じ。いずれにしてもものすごく知的で刺激的な音楽でした。下手すりゃ一生聴くことが無かったかも、と思うと、やはり食わず嫌いはよろしくないなぁと思った次第です。

演奏については、カイルベルトの指揮にとてつもない燃焼度を感じるけれど、録音が悪くてやや聞きづらい。歌手はとびきりの名手を揃えているが、対訳がなく、こまかいニュアンスが判らないので論評しかねるところがある。フィッシャー=ディースカウなどきっと素晴らしい歌唱なんでしょうが・・・。このCD、商品としては若干問題はあるものの、もちろん舞台に接する前の予習としては十分すぎるほど素晴らしい演奏だと言ってよいと思います。
by nekomatalistener | 2013-02-21 21:04 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

新国立劇場公演 ドニゼッティ「愛の妙薬」

友達とシュラスコ食いに行ったのだが、最初に鶏とかソーセージとか原価安そうなもので腹いっぱいになってしまい、ピカーニャという牛の一番美味いところがちょびっとしか食えなかった。悔しい。





新国立劇場の「愛の妙薬」公演に行って参りました。

   2013年2月3日
   アディーナ: ニコル・キャベル
   ネモリーノ: アントニーノ・シラグーザ
   ベルコーレ: 成田博之
   ドゥルカマーラ: レナート・ジローラミ
   ジャンネッタ: 九嶋香奈枝
   指揮: ジュリアン・サレムクール
   演出: チェーザレ・リエヴィ
   合唱: 新国立劇場合唱団(三澤洋史指揮)
   管弦楽: 東京交響楽団

今回公演の一番の目玉はシラグーザがネモリーノを歌うこと。私はこのシラグーザという歌手について何の予備知識もなく初めて聴いたのですが、なんだろうね、このヤンキーの兄ちゃんが歌ってるみたいな感じは?いや、今回の公演に限っていえばネモリーノという役柄に合わないことも無い。適度にバカっぽくて適度に脳天気。見た目も(かわいい+かっこいい+バカっぽい)÷3ってな感じで、ちょっとインテリのアディーナがころっと参るのも判らなくもない。でもちょっと騒ぎすぎというか、ベルカントテノールの救世主みたいに持ち上げるのはどうかと思います。恐らくロッシーニなどを聴いてみないと真価が判らない歌手なのかも知れませんが、ネモリーノだけ聴いて絶賛する気分にはなりませんでした。
アディーナを歌ったニコル・キャベルについては、以前「ドン・ジョヴァンニ」のドンナ・エルヴィーラを聴いたときにこんな感想を記しています。「 ドンナ・エルヴィーラのニコル・キャベルもなかなかの出来ではありましたが、先程の4人と比べると少し精彩を欠く感じ。この人も発声に少し無理があるのか、あまり声が伸びない感じがします。でも第8曲のアリアの最後のアジリタはびしっと決まっていました。第2幕の方のアリアは少し苦しい、が、この至難なアリアを楽そうに歌う歌手を私は未だ知らない。」 (2012.4.30.投稿)
今回彼女のアディーナを聴いた感想もほぼ似たような感じです。声がちょっと拡散してしまう性質なんでしょうか、客席に声が届く前に散るような、ちょっともどかしい感じがするのに加え、前半は音程も甘くアジリタも今ひとつでした。しかし、終わり近くになってあの「受け取ってPrendi」の大アリアになってようやく調子が出てきたのか、これは素晴らしい歌唱でした。聴衆の反応はネモリーノの「人知れぬ涙」には熱狂するくせに、こちらのアリアに対しては冷淡。ま、でも、そんなもんでしょう。
ドゥルカマーラのレナート・ジローラミはベテランの味わいがあってたいへん結構。ベルコーレの成田博之はちょっと荒っぽくて興ざめでした。もう少し、精密さと奔放さが両立するような歌い手っていないですかね。

演出は派手な原色使いのキッチュかつポップ路線。といっても読み替えと言えるほどの逸脱は無し。他愛もないコメディーに対して野暮なことを言うつもりはないが、こういったおふざけでない田舎風恋愛劇仕立てを観てみたい気もします。アディーナがぼくを愛してくれるなら、神様、ぼくは死んでもかまいません、と歌うネモリーノの心情は、演出によってはもっと感動的なものになるでしょうから。
ジュリアン・サレムクールの指揮は推進力はあるものの、カバレッタの繰り返しはほとんどカットされ、各ナンバーのコーダはことごとく短縮されています。私は素直に、もっと聴きたいのにもう終わりかよ、と思ってとても残念。音楽的にも変な段差が出来てしまうところもあって、単に冗長だからカットした、では済まないところがあります。カットなしで多少尺が延びても大したことはなかろうに。
東京交響楽団は、最初の前奏曲の薄っぺらい音を聴いて、ああやっぱり、と思いました。ベルカント・オペラに対する適性だか理解だかに、どうも致命的な問題があるのではと思う。プルト増やしても駄目でしょうね。音の大きさの問題ではないから。でも出だしこそがっかりしたものの、あとは音が薄いながらもそれなりに心弾む音楽でした。輝かしいとまでは言いませんが。日本の聴衆は、ワーグナーだとやれ音が薄いの小さいの、ぐだぐだと文句垂れるくせに、イタリアもの(ヴェルディとプッチーニは別として)だとあまり文句言わないのね。やはりベルカントものを舐めてるのか。

せっかく楽しいオペラで、文句ばっかりいうのは我ながら自己嫌悪気味なのですが、私自身の備忘のために敢えて書かざるをえませんでした。繰り返しになるが、ベルカント・オペラって本当に難しいと思います。登場人物がすくなくてオーケストラも小規模、なんとなくコスパも悪い感じです。でも、私は幸か不幸か、以前ミラノ・スカラ座の引越し公演で、ムーティが指揮してバルツァが歌ったベッリーニの「カプレーティとモンテッキ」の舞台を観て、身震いするほど感動したことがある。ベルカント・オペラの真髄というものを、一応は身体で理解しているつもりだ。今回のごくごく日常的なレパートリー公演に対して多くを求めすぎてはいけないと思うが、新国立劇場のその他(つまりベルカントもの以外)の公演のレベルの高さから言って、もう少し何とかならんものか、と思いました。
by nekomatalistener | 2013-02-05 20:44 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ドニゼッティ 「愛の妙薬」 シモーネ指揮トリノ放送交響楽団

会社で嫌いなヤツがいて、そいつがプラスチックのことを「プラッチック」って言うのが癇に障る(関西のおばちゃんとかがプラッチック言う分にはちっとも気にならんのに)。




今月の新国立劇場「愛の妙薬」公演に先立って、随分久しぶりにこのオペラを聴いています。本当に文句なしに楽しく、しかも「これぞイタリアの歌」と言いたくなるような美しい旋律に満ち溢れた作品です。お話は他愛も無いものですが、女たらしの軍曹や詐欺師まがいの薬売りも含めて、本当の悪人が一人も登場せず、誰も傷つかずにハッピーエンドを迎えるこんなオペラもたまには良いものです。今聴いている音源は次の通り。

  アディーナ: カティア・リッチャレッリ
  ネモリーノ: ホセ・カレラス
  ベルコーレ: レオ・ヌッチ
  ドゥルカマーラ: ドメニコ・トリマルキ
  ジャンネッタ: スザンナ・リガッチ
  クラウディオ・シモーネ指揮トリノ放送交響楽団・合唱団
  1984年7月録音
  CD:DECCA480 4790

私がレコードで初めてドニゼッティを聴いたのはもう三十数年前、高校の頃に名盤の誉れ高いカラスとディ・ステファノの「ルチア」に接したのが初めてでした。最後の「狂乱の場」のみならず、第1幕のルチアのカバレッタ”Quando rapito in estasi”の天空を駆け昇り、駆け降りるようなカラスの歌に魅せられたのは言うまでもありませんが、その時私が魅了されていたのはあくまでもカラスの歌であって、ドニゼッティの音楽そのものであったかどうかは疑わしいと言わざるを得ません。カラスの演奏に限らず、その頃手に入るドニゼッティのオペラの録音といえば、プリマドンナの魅力を引き出すのが最大かつ唯一の目的であって、そのためには大幅なトラディショナル・カットや、オリジナルの旋律の原型をとどめないほどのヴァリアンテの附加や移調が当たり前、ドニゼッティの音楽というのは歌手の芸を盛り付ける器以上でも以下でもない扱いを受けていた、という事実に気がついたのはもう少し後、社会人になった昭和の終りごろ、珍しいオペラの輸入版CDが容易に入手できるようになってから、たまたま買った「ヴェルジィのジェンマ」を聴いた時でした。それは私にとっては小さな衝撃とも言うべきもので、そこで改めてドニゼッティの音楽そのものの力強さというものを発見し、それから「ポリウート」「ロベルト・デヴェリュー」「マリア・ストゥアルダ」といったセリアの数々を聴き、ようやくドニゼッティという巨人の全体像がほんの少し判ったような気になったものです。日本の音楽愛好家の中では、どうも軽量級の作曲家と捉えられている向きも多いようだが(そこにはかの吉田秀和氏の偏見に満ちた言説の悪しき影響もあるのだろう)、私はヴェルディ・プッチーニ・ロッシーニ・ベッリーニと並んで、イタリア・オペラを代表する5人の天才の一人であると思っております。

話を表題の録音に戻しましょう。このCD、数ある「妙薬」の中では決して目立つものではないと思いますが、音楽にこびりついた様々な手垢を洗い落とすという意味ではとても意義のある録音だと思います。シモーネの指揮は、ことさら策を弄さず、ドニゼッティの書いた音符をありのままに音にしたという感じが大変好ましい。但し、リコルディ社のヴォーカル・スコアを見ながら聴いていると、第1幕は繰り返しも全て行なっておりほぼカットなしなのに対して、第2幕になると幾つかカバレッタのコーダがほんの少しカットされていたり、「人知れぬ涙」に続くレチタティーヴォ・セッコの一部がカットされている。やや冗長なのは判るが、聴衆が退屈しないように配慮する必要のあるライブと異なって、資料としての意味を持つCD録音でこのようなカットが必要とは思えませんが、モーツァルトのオペラ録音ですらトラディショナル・カットが当然のように行われていることに比べれば、この程度のカットで済んでいることは喜ぶべきことかも知れません。また、歌い手の恣意的なヴァリアンテもほとんど行なっておらず、あくまでもオーセンティックな演奏を狙ったことが明白です。正確に言えば、ネモリーノが兵役志願する場面後半のカバレッタ、”Qua la mano, giovinotto”のコーダでカレラスが原譜にはないお約束のハイCを歌っているのと、「人知れぬ涙」のカデンツァにほんの少し控えめな加音をしているくらいなものだと思います。ベルカント・オペラで歌手にヴァリアンテを許さない、といえばムーティを思い出す訳だが、ムーティがその分指揮者としての個性を強烈に発揮するのに対してシモーネのほうは良くも悪くも中庸を得た指揮。ただし、この「妙薬」の音楽には、それはそれで相応しいといった感じがします。ほんの少し出てくるレチタティーヴォ・セッコの伴奏には古雅な音色のフォルテピアノが使われており、これもたいへん結構。それはさておき、こうして現れた「妙薬」を聴くと、改めてドニゼッティの音楽が如何に優れたものか、よく判ります。

このオーセンティックなアプローチは、歌手の選定にも現れていて、カレラスのネモリーノを聴いていると、そんなに頭が悪くなさそうな、ごく普通の青年に聞こえるのが面白い。ネモリーノといえば第2幕のロマンツァ「人知れぬ涙」”Una furtiva lacrima”が有名だが、本当にこれはイタリアオペラ屈指の名旋律でしょうね。こういった旋律を一つの様式美にまで高めたドニゼッティとベッリーニの影に、どれほどの名も無い作曲家たちがいたか知りませんが、この様式は20世紀のニーノ・ロータやエンニオ・モリコーネの映画音楽にまでまっすぐ続いているのでしょう。カレラスのあざとさの無い端正な歌い方はとても好ましいと思いますが、むしろ彼には第1幕冒頭の雲ひとつ無い青空のようにのびやかな”Quanto è bella, quanto è cara!”のほうがより適しているようにも思います。
リッチャレッリのアディーナは多少好き嫌いが分かれるところかも知れません。私がリッチャレッリの声をどんなに愛しているかは、以前コリン・デイヴィス指揮の「ラ・ボエーム」を取り上げた際に書いたことがありますが、その少し憂いを帯びたほの暗い声質がアディーナに合っているかは確かに微妙なところではあります。が、アディーナは農村の村娘たちとは一線を画した存在であり、ろくに字も読めない登場人物のなかにあって、「トリスターノとイゾッタ(トリスタンとイゾルデ)の物語」を皆に読んで聞かせるという、ある意味周りから浮いたお嬢様の役柄。コケットよりアンニュイを感じさせる違和感は認めつつ、これはこれで「あり」だと思う。リッチャレッリの声質を未だにリリコ・スピントだと言う人たちがいるのは私には不思議で、彼女こそ真正リリコというべきだと思います。その分、ベルカント・オペラに必要なアジリタは苦手そう。ロッシーニなどを聴くとたとえ録音であっても、いつもちゃんと歌えるかハラハラしてしまうのですが、アディーナもご多聞にもれず、けっこう至難なフィオリトゥーラを歌わなければならない。たとえば第1幕の”Della crudele Isotta”のコーダ(譜例)。
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「あばたもえくぼ」か、と言われるのを承知で言えば、リッチャレッリのいかにも頼りなさそうな、音程もわずかに揺れるこの箇所は、実はとても素敵な聴きどころの一つ。わずかにネジがゆるんだようなところのあるアディーナという役柄には、あまり完璧なコロラトゥーラ歌手は却って合わないかも、と思ってしまうのはリッチャレッリの贔屓の引き倒しでしょう。しかし、アディーナの最後のアリア”Prendi; per me sei libero”はこの役の最大の聴かせどころなのに、ここ一番というところで音があがりきらずとても残念(譜例の高いC)。
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花の命は短くてとは云うものの、もうこの録音の頃はかなり衰えが出てきているのだろうか。その後のコーダのフィオリトゥーラは意外とよく歌えているので本当に残念。
ヌッチのベルコーレ、一昔前のロッシーニやベルカントもののバリトン役を一手に引き受けていた感のあるヌッチですが、今ならこういった役柄はより精密に歌われるべきものでしょう。次のような箇所を誤魔化して歌っているのがどうしても私には許しがたいものに思えます(譜例)。
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ドゥルカマーロのトリマルキは歌手陣の中ではもっともトラディショナルなブッファの歌い方。さすがにシモーネも彼には楽譜通り歌え、とは言わなかった模様(笑)。たしかにこの歌を楽譜通りうたっても面白くもなんとも無いと思います。

話は戻りますが、「妙薬」におけるドニゼッティの音楽の魅力の本質とはなんだろうか。まず一つ目は、もちろん流麗極まりない旋律の魅力。まぁ確かにどのひとふしを取っても、安直といえば安直、脳天気な旋律とステロタイプな伴奏、こまかい工夫はいろいろあれど、基本的には因習そのものの形式。劇場の都合でわずか2週間でこのオペラを作曲したという逸話も、さもありなんと思う。だが、この悲しみも喜びも南欧の日差しのようにくっきりとして、抜けるような青空を思わせる歌の魅力をどう言葉にしたらよいのか。
二つ目は、意外に言及されないことだと思うが、ドニゼッティの音楽というのは単に流麗であるだけでなく、アリアの後半で時にヴェルディを先取りしているかのような白熱のカバレッタが現われること。それは特にセリアで顕著なのだが、この喜劇においても、例えば第1幕ベルコーレ登場のアリアの後半、”Più tempo, oh Dio, non perdere: ”はアディーナやネモリーノ、合唱も入って白熱のカバレッタとなる。この血沸き肉躍るカバレッタがあってこそ、と思います。他にも、悦びが湧きたつネモリーノとドゥルカマーラの二重唱”Obbligato, ah! sì, obbligato! ”、酔っぱらったネモリーノとアディーナの二重唱の後半、”Esulti pur la barbara ”、第2幕アディーナとドゥルカマーラの二重唱の後半”Una tenera occhiatina”も燃えるようなカバレッタ。
三つめの要素は、壮大なコンチェルタート様式によるアンサンブルの素晴らしさ。この種の作品ではルチアの六重唱が何と言っても有名だが、この「妙薬」にも素晴らしいアンサンブルが出てくる。この作品で一番の聴きどころは実はこの第1幕終盤のアンサンブル。登場人物たちの四重唱がヘ短調、Larghettoになってから”Adina, credimi, te ne scongiuro”の部分、独立して歌える体裁を取っていないのであまり注目されないが本当に天才が溢れていると思う。ひとしきりカルテットが歌われた後、合唱も入って壮大なコンチェルタートとなる。粗製乱造、などという先入観を捨てて虚心坦懐に聴いてみてほしい。
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以上、ドニゼッティの音楽の魅力の源泉を分析してみましたが、それを更に圧縮して言うならば「享楽」と言えるような気がします。すべての音楽ではないにせよ、ある種の音楽の本質と隣り合わせの「享楽」が、これほどシンプルな形をとって現れていることに、大げさでなく感動を覚えます。そして、ある種の音楽愛好家がドニゼッティを蔑ろにしがちであることの理由もそのあたりにあることは容易に想像がつきますが、逆に私には享楽と無縁な音楽というものが想像もつかない。新国立劇場の公演が楽しみですが、享楽といえるほどの愉楽に満ちた世界というものは(昨年の「セビリア」公演でも感じたことだが)生半可なレベルの演奏からは決して得られないものであるので、ちょっと不安も感じるところだ。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2013-02-03 00:56 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)