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新国立劇場公演 ロッシーニ「セビリアの理髪師」

ぴんからトリオの宮史郎さん死去。これは絶対言ってはいけないことかも知れないが、遺影を見てA.B.ミケランジェリを思い出さざるを得ない。




ご存じ「セビリアの理髪師」を観てきました。

  2012年11月28日
    アルマヴィーヴァ伯爵: ルシアノ・ボテリョ
    ロジーナ: ロクサーナ・コンスタンティネスク
    バルトロ: ブルーノ・プラティコ
    フィガロ: ダリボール・イェニス
    ドン・バジリオ: 妻屋秀和
    ベルタ: 与田朝子
    フィオレッロ: 枡貴志
    隊長: 木幡雅志
    指揮: カルロ・モンタナーロ
    演出: ヨーゼフ・E・ケップリンガー
    合唱指揮: 冨平恭平
    合唱: 新国立劇場合唱団
    管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

歌手もまずまず、オーケストラのレベルも高い、だけどどうしようもなく心弾まない演奏。どこがどう、と言うほど悪い訳でもないのに、演奏と演出それぞれ少しずつ物足りないところが結果として大きな欠落感に繋がっているように思います。もやもやした思いを抱きながら、つくづくロッシーニは難しいと思った次第。もしかしたらその十全な演奏はモーツァルトのオペラよりも難しいのかも知れません。料理にたとえるなら、「刺身五種盛り」みたいなところがあって、とにかく素材の鮮度と包丁さばきが全て、見た目や味付けなど一切の誤魔化しが効かないといった感じです。

私は若い頃ロッシーニが大好きな時期があって、まずテレサ・ベルガンサと組んだアバドの「セビリア」や「チェネレントラ」の魅力に嵌り、次いでフランシスコ・アライサやルチア・ヴァレンティーニ=テラーニといった一時代を画したロッシーニ歌い達のブッファに夢中になり、やがて「マホメットニ世」(ジューン・アンダーソンがヒロインを歌ったフィリップス盤が素晴らしい)とか「湖上の美人」(ポリーニが指揮したCDは珍品という以上に歌手達がすごい)、「ボルゴーニャのアデライーデ」(録音は悪いがカラスが歌ったものがあった)、そして何よりも「セミラーミデ」という大傑作(古典的なオペラ・セリアの頂点)を聴くに至ってロッシーニという人がどれほどイタリアオペラの歴史にとって重要な人物かを痛感したのでした。かたやブッファの方はといえば、やがてフランス風のオペラコミックの影響を受けながら「ランスへの旅」という超弩級の傑作が生まれます。この14人の主役級の歌手達のための贅沢極まりないオペラを「レコ芸」で高崎保男が「音の満漢全席」と呼んだのを私もよく覚えているが、私は以前、ゲルギエフ率いるマリインスキー劇場の来日公演でこの「ランスへの旅」の舞台を観て、圧倒的な感銘を受けました。ここ数年、CDでロッシーニを改めて聴くことも殆ど無くなっていたのですが、それでも私のロッシーニへの偏愛は些かも損なわれた訳ではなく、その分、舞台での公演に対するハードルがどうしても高くなってしまうのでしょう。

もう少し一つ一つの要素について見て行こう。歌手の中ではフィガロ役のダリボール・イェニスが素晴らしいと思いました。歌が上手いだけでなく声に色気があり、颯爽とした立ち姿もいかにもスペインの伊達男といった感じ。当代随一のフィガロと前評判も上々だったようだが然もありなんと思う。アルマヴィーヴァ伯爵のルシアノ・ボテリョは最初はちょっと精彩を欠く歌いぶりでしたが第1幕の後半くらいからどんどん良くなっていった感じがします。アジリタを粒立ちよく歌う技巧は大したものですが、人の心を蕩かすような魅力には今一歩及ばず。ロジーナのロクサーナ・コンスタンティネスクは舞台栄えするチャーミングな歌手ですが、アジリタは粗いしヴァリアンテもあまり品が良くない。バルトロのブルーノ・プラティコは本日の公演の一番人気でした。でっぷり太ったオジサンの愉快なパフォーマンスはこれこそブッファの醍醐味。ドン・バジリオの妻屋秀和はいつもながらの優れた歌唱だが、この役柄だと若干牛刀を以って鶏を割く感あり。それはともかく随分お痩せになったような気がしましたが・・・・?ベルタのシャーベット・アリアで与田朝子が大きな拍手を得ていましたが、私にはちょっと?でした。以上、平均点でいうならまずまずの歌手陣といえるのでしょうが、その程度では満足できないのがロッシーニの難しさ。それにしても、アンサンブルがことごとく心弾まないのは指揮者の所為にせざるを得ないのでしょう。基本は早めのテンポながら時として歌手の生理に配慮してぐっとテンポを落とすのは、ある種の常套手段であって、別に難癖をつける部分ではないのだが、カルロ・モンタナーロの指揮はところどころ音楽が弛緩するところがある。そうなるとこの音楽は随分と詰まらなく聞こえてしまうのですね。東フィルも悪くはないと思うのだが、薄くて乾いた音色と輝かしさが両立してこそのロッシーニだと思うが前者はあっても後者が並び立たない。歌と指揮とオケ、決して致命的に悪いところはないのだが惜しい結果、というところか。
今回の公演でちょっとこりゃ困ったなぁ、と思ったのは演出。バルトロ邸の外部と内部を回り舞台で見せる趣向は良いと思います。セビリャ風というよりはカリブ海のどこかの島のような場末のコロニアル風建築とキッチュな色合いはなんとも違和感が・・・。だがそれもまぁ目くじら立てるところではない。建物内部は2階建て左右に分かれており、左がロジーナの寝室、右がバルトロの部屋だが、それぞれが螺旋階段で下の居間だか使用人部屋だかと繋がっていて絶えず誰かが昇ったり降りたり、ちょこまかと動き回っては小芝居をしているのが次第に目障りになる。お話がお話だし、演出であれこれ駄目出しするのも野暮なのは承知の上だが、どうみても音楽との相乗効果というよりは単に邪魔をしている感じがします。特に第1幕フィナーレ、兵隊さんたちが乱暴狼藉を働くのは見た目にも煩く絵面も汚くて感心しません。キッチュでもポップでも結構かとは思いますが頼むから音楽の邪魔だけはしないで、と思います。この演出、というか筆者には余計と思われる小芝居のおかげでオペラの印象まで散漫になってしまったようです。

まぁ色々と文句はつけたが、それでもロッシーニのブッファは面白いものです。でも、ロッシーニの真価はブッファよりセリアの方にあるような気がしていて、いつの日か新国立ぐらいきっちりコストを掛けられるところが「セミラーミデ」のような作品を取り上げてほしいというのが私の願いです。
by nekomatalistener | 2012-11-29 23:46 | 演奏会レビュー | Comments(0)

大井浩明 Portraits of Composers ジョン・ケージ生誕100周年

パソコンの不調でメーカー・プロバイダー・ソフト会社と次々電話していて思いだした。「アンサイクロぺディア」で「たらいまわし」を引くと「タライ回しをご覧ください」とあって、クリックすると「もしかして『盥回し』?」、更にクリックすると「たらい回しを参照」と出る。これ、秀逸だなぁ。





「ジョン・ケージ生誕100周年」と銘打ったリサイタルを聴きに行きました。今回は数日間ネットが起動しなくなったお陰で少し気が抜けてしまいましたが頑張って備忘を書いておこう。

  2012年11月15日 代々木上原けやきホール
    ジョン・ケージ
    《一人のピアニストのための34分46.776秒》(1954)
    《易の音楽》(1951)

ついこの間、6月16日に大井浩明の演奏でケージの「プリぺアド・ピアノのためのソナタとインターリュード」と「易の音楽」を聴き、このブログにも感想をアップしましたが、半年も経たぬ間に再び「易の音楽」が聴けるとは望外の喜びでした。なんだかんだ言っても、これはケージの代表作であるだけでなく、戦後前衛音楽の金字塔の一つであり、かつ聴いて面白いことこの上ない音楽であると思います。音楽のコンセプトについては以前にも書きましたし、大井氏のブログに野々村禎彦氏の論文が掲載されているのでそちらを参照していただくとして、前回芦屋の小さいサロンで聴いたのと比較すると、ほんの少し得られる感興が薄いような気がしました。もちろん、今回平日の仕事帰りというこちらのコンディションの所為なのは判っていますが、サロンで聴くのと、小規模ながらそこそこ立派なホールで聴く、という違いは無視できないと思います。やはりこの作品は、微かに響く倍音にまで耳を澄ませるような行為の中から、その途方もない内実が浮かび上がってくるといった作品なのだろう。演奏は前回同様、作曲者の指定した43分という演奏時間の目安を大幅に逸脱して70分弱掛っていたと思いますが、それでも前回と比べると音が完全に減衰するのを待たずに先に先に、といった演奏だったように思う。断わっておくとケージのスコアは楽譜の2.5㎝が四分音符1個に割りつけられ、1分あたりの四分音符数は厳格に指定されているから、本来であれば演奏時間の大幅な伸張はあり得ないはずだが、芦屋での大井氏の演奏は敢えて音の減衰の美学とでもいったものにこだわり、無秩序に現われる長い休止(それもまたサイコロ投げの結果による偶然の産物)は気が遠くなるほど「何も起こらない時間」が持続するのでした。今回、演奏時間がさほど変わらないのに、妙にサクサクと進んでいく印象を持ったことをどう説明すればいいのか。今回の演奏は内部奏法によるフィンガーミュートが決まらずに通常の響きで音が鳴ってしまう箇所が数ヶ所あったが、前回のときより大井氏の集中力も若干欠けていたのだろうか。これは弾き手も聴き手も生身の人間である以上、仕方のないことなのか。あるいは弾き手と聴き手の生理的なコンディションによって異なる結果が得られることもケージが織り込み済みの事象なのか(笑)。このあたり、上手く言語化出来ないのがもどかしい。もっとも、ちょっと気乗りしない状況でも弾けるような生易しい曲ではないし、聴く側だって70分身じろぎもせず聴くだけでも相当の体力が要る作品であることは間違いない。私にとっては前回ほどの感銘は無かったとは云え、真剣勝負の70分(そういった御大層な聴き方が正しいかどうかは別問題)。やはりケージの音楽は面白い。

ちょっと脱線。大井氏のツイッターから引用(の引用)。
《鈴木大拙は風呂敷に包んだ本を持って教室に入ってきて、 ゆっくりと静かに話した。講義が始まっても10分くらい何も言わないこともあったが、その沈黙で学生たちが苛立つことはなかった。ケージはそのかわりに 「クエイカー教徒の集会でも経験できないような美しい静けさ」を体験したという。》
・・・「美しい静けさ」か。
「易の音楽」に現われる長い長い沈黙はかくあるべし、という感じがしますね。

順序は逆になりますが、前半の「34分46.776秒」、同工で楽器や時間数が異なる幾つかの作品があるようですが、しっちゃかめっちゃか珍無類、これぞケージといった趣。ピアノはボルトやらゴムやら(大井氏のツイッターによるとアルミの洗濯バサミまで)様々な異物を弦にねじ込まれ、演奏の途中でそれらを抜いたり入れたり、といった操作が加えられます。しかもピアノを弾きながらクラクション(いわゆるパフパフホーン)や笑い袋、クラッカーを鳴らしたり、左横に置かれた電気増幅したトイ・ピアノを弾いたり、弦を引っ掻いたりピアノを叩いたり、唸ったり吼えたり、と八面六臂の活躍をしなければならない。1948年のブーレーズの「第2ソナタ」を「ピアニストが燕尾服で演奏できる最後のピアノソナタ」と呼んだのは柴田南雄だったと思うが、確かにその6年後に書かれたこの作品は最早通常のピアノ・リサイタルには本質的に馴染まないものだろうと思う。だがこれも音楽。前列で聴いていた男の子3人組が休憩後に消えたのも悲しくもおかしいが、前衛の季節も遠くなりにけりと思う昨今、彼らはこれをどう聴いたのか訊いてみたい気もする。私?わくわくして聴いてました。結局のところ、それはその時代における「自由」の追求であり、楽譜や演奏会といった制度や規律との闘いであったと思うから。そして残されたこれらの作品の起爆力は今でも威力を失っていないと思います。
来年1月、大井氏は今度はケージの大曲「南のエチュード」を全曲弾くらしい。この南天の星々をそのまま楽譜に音符の「点」として書き記した(ある種の楽音への変換の操作はあるにせよ)ある意味難曲をどう弾くのか、こちらも(怖いものみたさ半分で)聴いてみたい。

蛇足その1
ピアノはホール備え付けのものではなく、前回シュトックハウゼンを聴いたタカギクラヴィア松濤サロンのスタインウェイでした。日本のホールではやはり「内部奏法禁止」「プレパレ―ション禁止」のところが多いようです。
蛇足その2
演奏後ぐったりしている大井さんを楽屋に訪ね、あつかましくも「易の音楽」のペータース版の楽譜にサインしてもらいました(実はミーハーな私、とってもうれしい)。
by nekomatalistener | 2012-11-19 22:00 | 演奏会レビュー | Comments(0)

新国立劇場公演 プッチーニ 「トスカ」

パワハラはヤだけどネコハラだったらされてみたい(仕事中なのにキーボードの上に座られる、とか)。





「ライマン」のメデアを観てから家に戻って、興奮冷めやらぬままに感想をブログに書いたら、もう右脳も左脳も完全燃焼してさすがにぐったり。翌日の「トスカ」のチケットを取っていたことを少し後悔してました。仕事のことを考えるとこの日しかなかったのですが、一瞬行くの止めようか、と思ったほど。でも行ってよかった。とても良い舞台でした(でも今日の投稿はちょっと短め)。

  2012年11月11日

  プッチーニ 「トスカ」
   トスカ: ノルマ・ファンティーニ
   カヴァラドッシ: サイモン・オニール
   スカルピア: センヒョン・コー
   アンジェロッティ: 谷友博
   スポレッタ: 松浦健
   堂守: 志村文彦
   指揮:沼尻竜典
   演出: アントネッロ・マダウ=ディアツ
   管弦楽; 東京フィルハーモニー交響楽団

「トスカ」という作品、改めて傑作であると思いました。普段そんなにしょっちゅう聴きたいと思わない曲で、以前にも先輩の方に「プッチーニは何が好き?」と聞かれて散々迷った末に「ジャンニ・スキッキかトゥーランドット」と答えたことがありましたが、まぁ「トスカ」という回答は思い浮かびませんでした。しかし、こうして舞台で観ると実に完成度の高い作品です。各幕に極めつきのアリアがそれぞれ配され、そのいずれも見事な泣かせっぷり。いいじゃないですか、たまにはプッチーニで泣くのも(笑)。
主役3人のうち、本日のMVPはカヴァラドッシを歌ったサイモン・オニール。文字通りスピントな声で、音域が上がれば上がるほど輝かしさを増していく強靭な声。しかも脳天気なテノールではなくて知性を感じさせる歌い方です。低音域にやや精彩を欠くか、とも思いましたが瑕というほどのことでもない。何となく世界的にテノール不作の印象があったが、まだまだ素晴らしい歌手は沢山いるのですね。
トスカのノルマ・ファンティーニもなかなか良い歌手です。音域の高い強音になると若干音程が怪しくなるところがありますが、基本的には透明感のある美しい声。第2幕の「歌に生き恋に生き」には思う存分泣かせて頂きました。このプッチーニの泣かせるメチエ(またか、と言われそうですが)、今は書く気力がないですが、近いうちにもう一度、以前「外套」のジョルジェッタとルイージの二重唱で試みたような分析をしてみたいと思っています。トスカの3つの有名なアリアは、それぞれ物語の進展に応じて実に面白い構造を秘めているとだけ申し上げておきましょう。
スカルピアのセンヒョン・コーも悪くはないですが、なんというか、もっと突き抜けた悪の輝かしさみたいなものが欲しいと思いました。同じ悪役でも「オテロ」のイヤーゴのような陰影はそもそも持ち合わせていないストレートな悪役ですから、そのぶん声そのものの威力が要求され、ある意味イヤーゴよりも歌手にとっては難しい役かもしれない、と聴きながら思いました。手が届きそうで届かないようなもどかしさを感じます。
脇役は、アンジェロッティの谷友博は可もなく不可もなし。堂守の志村文彦とスポレッタの松浦健は大健闘。とくに後者は卑屈で小ずるい小心者、という役どころを見事に歌い演じていたと思います。
指揮は何といって変わったことはしていないのが大変結構(3階だか4階だかの席から派手なブーイングが出たのにはびっくりしましたが)。もう一歩踏み込んでタメを作って、なおかつ臭くならない、というのが理想的なのでしょうが・・・。オーケストラも、あとほんの少し音圧のようなものがあれば、と、これは私のないものねだり。
2000年の製作の舞台の再演ですが、正攻法でそれなりに金の掛った装置なのでしょう。新国立劇場の奥行きを活かしてそこそこの豪華さもあり安心感はあるが、思わずため息が出る、というほどではない。まぁこのお値段でゼッフィレッリの舞台みたいなゴージャスなものを望むのは間違っている、というのは十分判っております。
by nekomatalistener | 2012-11-11 23:44 | 演奏会レビュー | Comments(5)

ライマン 「メデア」 二期会創立60周年記念公演

ツイッターやらないのでリツイート代わりに引用。
「糖類の上‏@tinouye
テレビ向け発言だろうが、三枝氏がいうように20世紀の音楽はつまらないものばかりで、21世紀の音楽が作られるべきだのメロディーの復活だのいうなら、それ以前に振り返るべきメロディー豊かな20世紀の日本の曲が山ほどあるのを演奏せず見捨てる罪はどうなるんや。20世紀音楽をバカにすな!」
・・・・いや、まぁ文化人気どりで馬鹿な発言する輩はどこにでもいるから、そのこと自体は構わない。だが仮にも国営放送ともあろうものがそんな言説を垂れ流し、それを何百万という大衆が鵜呑みにする。そこにこの国の文化的状況の苛酷さが集約されていると思う。





二期会によるアリベルト・ライマンのオペラ「メデア」公演。これから先、オペラを観てこれほどまでに感動することが幾度あろうか、と思いました。

  2012年11月10日 於日生劇場
    アリベルト・ライマン 「メデア」
    メデア: 大隅智佳子
    ゴラ: 清水華澄
    イアソン: 与那城敬
    クレオン: 大野徹也
    クレウサ: 山下牧子
    伝令: 彌勒忠史
    指揮: 下野竜也
    管弦楽: 読売日本交響楽団
    演出: 飯塚励生

正直なところ、CDで予習していたとはいうものの、実際の舞台に掛けられた時に、こんな凄まじいものになろうとは想像もしていませんでした。前回の投稿で、ライマンの音楽について「人間の声の表出力に対する全幅の信頼といったものを感じさせ」ると書きましたが、この直感は実に正しいものであったと思います。今日私が観て聴いたものは本当に根源的な人間の悲劇というものだろう。ライマンがエウリピデスのギリシャ悲劇ではなく、敢えてグリルパルツァーの翻案をテキストに用いたのは、コロスによる状況説明を省いた上で、クレオンの娘クレウサの人物像を膨らませ、メデアが我が子にまで背かれた挙句それをイアソンのみならずクレウサにまで嘲笑されるという場面を一つの山場にしようとしたのではないか、と思われます。その結果、メデアが我が子を殺すという結末が多少なりとも心理的に正当なものとして、現代に生きる我々にも納得しやすいものになったのは事実だが、その一方でライマンはグリルパルツァーの戯曲をかなり刈り込み、物語がより直截なものとなるよう取り計らったようにも思えます。いわば、ヨーロッパ古典演劇を迂路としながら、結果としてはソポクレスやエウリピデスの悲劇の世界に立ち還ったようにも思われます。私のいう根源的な悲劇とは、それこそ20世紀の初頭にフロイトが無意識の底から見つけ出したような、人を人たらしめる様々な欲望と現実との衝突、そのようなものと言ってもよいかも知れません。その表現のためには近代的な心理劇や現代のリアリズム演劇の手法ではなく、まさにギリシャ悲劇の読み換えが必要だったのだと思いますが、これは音楽にも言えることであって、ライマンの音楽的イディオムがこれほどの威力を発揮した理由もそこにあるのだろう。私はこのライマンの音楽を、掛け値なしの「現代音楽」と見做します。「現代音楽」というタームには、使う人によって幾分揶揄や皮肉が込められたりするが、この「メデア」のような舞台を観れば、なぜ作曲家が大衆的な人気やビジネスとしての成功を顧みることなくこういった語法で書かねばならなかったか、いやという程に判ります。これも前回の投稿で、ライマンの音楽をベルクの「ルル」と比較して「官能的でない」と言った風に書きましたが、それもそのはず、ベルクが題材としたヴェデキントの演劇はリアリズム演劇の対蹠としての表現主義的な演劇であって、そのどちらも詰まる所20世紀という時代と無縁ではなかったのだと思います。それと比べるとライマンの取り上げた悲劇はより時代を超越しており、音楽の技法というレベルでベルクを参照したことがあったにせよ、その表現主義と表裏一体の官能性については排除したのだろうと納得しました。一つだけ具体的な例で言えば、「メデア」の伝令の歌の後半に出てくるバスフルートのフラッターツンゲの箇所、この肉感的な楽器を用いながら官能を一切くすぐらない厳しい音楽と、「ルル」に出てくるサキソフォーンのエロティックな音楽との目の眩む落差に、80年の時間が経過したことを実感せざるを得ません。現代、というより、同時代の音楽を聴く面白さの一端はこういうところにあるのだと思います。

6人の歌手については文句のつけようがありません。いずれも鬼気迫る歌唱であり、長く語り継がれるべきパフォーマンスでした。「名演」といった言葉ではとてもじゃないが追いつかない。超弩級の凄演とでも言っておこう。中でもメデアを歌った大隅智佳子の歌唱は凄まじいの一言でした。ゴラの清水華澄は以前から大ファンでこのブログでも取り上げてきた歌手(「オテロ」のエミーリア、「カヴァレリア・ルスティカーナ」のサントゥッツァ)だが、やはり素晴らしい。イアソンの与那城敬も以前新国立の「沈黙」でフェレイラ役を歌ったときにこのブログで絶賛したのですが、その時を更に上回る歌唱でした。他の3人も、よくもまぁここまで、と唖然としました。そのとてつもない努力と才能に惜しみない拍手を送りたいと思う。
ちなみに伝令役の彌勒忠史を除く5人は3日間の公演のダブルキャストで今日一日だけの出番。一期一会とは言うけれど、おそらくこの数ヶ月、明けても暮れてもこの至難な諸役の為に全てを捧げてきたに違いないというのに、たった一日だけとは。その儚さ、報われなさにこちらまで涙が出そうになるが、彼らが歌い演じた今日の公演を終世忘れないだろうと思う。備忘以上のものではないが、こうしてブログに記録を残せて良かったと思って自分の慰めとしよう。
下野竜也指揮の読売日本交響楽団のメンバーにとっても記念碑的な公演となるだろうと思います。見事な演奏でした。日生劇場は多分私は初めてだと思うのですが、PAを使ってるんでしょうか。私は2階席で聴いていたのだが歌手もオーケストラも異様によく聞えます。断わっておくと私はPAが怪しからんとは必ずしも思わない。特に今回のような巨大なオーケストラ(弦はおそらく14型、管や打楽器はピットに入りきらず舞台の両脇に所狭しと乗っている)の精緻極まりない再現の為にはやむを得ないどころか寧ろ必要な措置かもしれないと思います。いずれにしても錯綜する大音響から夜のしじまのような密やかな響きまで、ちょっと例を見ない出来だったような気がします。
演出については簡素な舞台で、これも音楽同様、時代を超越したギリシャ悲劇に相応しいものだったと思います。最小限の大道具に、小道具と言えばメデアが金羊毛皮や魔術の秘薬を収めた小箱くらいなもの。メデアの内心を表すと思しい6人の仮面のダンサーはなくもがなかも知れませんが邪魔という訳ではない。衣裳の他は特に古代ギリシャを思わせるものは何もないのだが、物語と音楽を邪魔しない適度な抽象化が好ましい舞台でした。言葉と音楽と舞台の全てが、人類の根源的悲劇の表現の為に近代から古代ギリシャ世界に向かっての「読み換え」を施されていた、と言えるかも知れません。
カーテンコールは盛大な拍手で、来日していたライマンも舞台に招きあげられて盛んな拍手を浴びていました。以前何度か観た二期会公演に比べると今回は若い聴衆も多くて、ロビーで彼らが「なんか凄かったね」と口々に話しているのを聴きながら、こうした現代の作品が今後とも数多く演奏され続けることを祈らずにはいられませんでした。

以下は蛇足。
開演の1時間くらい前に劇場につくと、予約制のプレトークに若干空席があるのでどうぞ、と係の方に招かれてライマン自身がメデアについて語る場に(途中からではありましたが)参加することが出来ました。ライマン曰く、リブレットはグリルパルツァーの「金羊毛皮」第3部の「メデア」から大半を借りたが、一部原作で言葉足らずのところがあるので、第1部「賓客」と第2部「アルゴーの船びと」から台詞を借用したとのこと。実は予習の際、グリルパルツァーの原文とリブレットの突き合わせ作業は余りにも面倒で途中で止めてしまったので気がつきませんでした。役柄と声種については、イアソンをバリトンのために書いたのは日和見で権力のためならメデアを棄ててしまう男の心変わりに相応しいから、また王クレオンのテノールは、単純で直線的な王の思考に相応しいから、と言った話があり、ただ王クレオンと雖もギリシャ世界を統合する隣保同盟(アンピクティオニア)だけは権力の及ぶ所ではない、よってその同盟の使者たる伝令をテノールのさらに1オクターブ上のカウンターテナーの為に書いたという話にはなるほどと思いました。ヘンデルオペラのパロディという訳ではなかった訳です。またメデアについては、コロラトゥーラ・ドラマティコがあらゆる人間の感情を描くに相応しいとも。イアソンは自分の過去を自分の出世のために捨てようとして失敗しますが、メデアもまた過去を捨ててギリシャ世界に同化しようとする。だが彼女も結局それに失敗してギリシャから見れば蛮族でしかなかったコルキスの人間に戻ろうとする。登場人物の中で実はクレウサだけが自己を変革していく、すなわち王女として無邪気に我儘に育てられた娘がメデアと触れあい、様々な複雑な人間の感情を経験していく(その結果彼女もまたメデアに滅ぼされるのだが)云々。思い出すままに書きとめているのだが他にも随分興味深い話をされていました。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2012-11-11 00:04 | 演奏会レビュー | Comments(4)

ライマン 「メデア」 エリック・ニールセン指揮フランクフルト歌劇場公演ライブ

先日紹介した六地蔵駅の駅員「ニ度寝」の記事のURLを友人にメールする。「汝らの中でニ度寝の誘惑を知らぬ者のみこの駅員に石を投げよ(ヨハネ福音書8:7)」と書いて送ったらこんな返信が・・・。
「傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲、二度寝。あ、八つの大罪になっちゃった。」座布団一枚あげて。




次の週末の二期会公演、アリベルト・ライマンの「メデア」の予習をしています。音源は次の通り。

  アリベルト・ライマン 「メデア」
   メデア: Claudia Barainsky(Sp)
   ゴラ: Tanja Ariane Baumgartner(Ms)
   イアソン: Michael Nagy(Br)
   クレオン: Michael Baba(T)
   クレウサ: Paula Murrihy(Ms)
   伝令: Tim Severloh(C-T)
   Erik Nielsen指揮Frankfurter Opern-und Museumsorchester
   2010年9-10月録音
   CD:OEHMS CLASSICS OC955

2010年2月28日に初演されたばかりの、いわゆる「現代音楽」的なイディオムで書かれたオペラであるにもかかわらず、このような素晴らしい音源が入手できるということはどれだけ感謝しても足りないほどです。しかし、このCDに添付されているブックレットには、ドイツ語のリブレットは載っているものの、英語の対訳が附いていません。なかなか充実した解説や、美しいカラーの舞台写真数葉まで載っているというのに残念としか言いようがない。少なくとも一般的な日本人リスナーとしては、英語の対訳がなければお手上げです。とりあえずはシノプシスだけを頼りに、とにかく公演まで耳を慣らしておこう、という程度で、とてもじゃないが物語の詳細や、歌詞と音楽がどのように結び付けられているか、といったあれこれは全て諦めざるを得ないと思っていましたが、ついこの間、例の「プロジェクト・グーテンベルク」で、グリルパルツァーの原作「金羊毛皮Das Goldene Vliess」のドイツ語原文と、その英訳が入手可能であること、しかもオペラのリブレットはグリルパルツァーの原文を大幅にカットしたり台詞の順序を入れ替えたりしているものの、引用されている台詞はほぼ原作に忠実であることが判りました。
原文 http://www.gutenberg.org/cache/epub/7945/pg7945.html
英訳 http://www.gutenberg.org/cache/epub/12473/pg12473.html
例えて言えば、R.シュトラウスの「サロメ」や、ツェムリンスキーの「フィレンツェの悲劇」がワイルドの原作をほぼ忠実にそのままリブレットとしたのに近いケースです。もっとも、例に挙げた2作が、原作の膨大な台詞を敢えて削ったりすることなく、その饒舌さをそのまま音楽的にも活かしきったのとは異なり、「メデア」の場合、基本的に物語の大意が伝われば良し、といった感じで、脇役の奴隷や農夫との対話がばっさりカットされたり、主役達の対話も相当刈り込まれているのが特徴。エウリピデスの原典を下敷きに、グリルパルツァーが何を附け加え、何を削ったのか、更には、グリルパルツァーの戯曲から作曲者がどの台詞を残し、どれほどのものを犠牲としたのか、大変興味深い問題ですが、私の拙い英語力では公演日までに大意を掴むのが精いっぱい。不本意ながら今回はそのあたりの探究は諦めて、ごく表面的に、音楽を聴いた感想のみ簡単に備忘として記しておきたい。
それにしても、先日「ピーター・グライムズ」について書いた時に、ジョージ・クラブの原作の邦訳が無いと言うことに対しても思ったことだが、これほど翻訳書が溢れかえっているこの国で、グリルパルツァーのような、有名とは言えないまでも重要な作家の作品の邦訳が入手困難(正確にいえば昭和5年に邦訳が出て以来絶版になったまま)というのはある意味驚くべきことかも知れません。日本語版プロジェクト・グーテンベルクの設立が急務ではないかと思う次第。また、少なくともオペラの普及ということについて言えば、著作権の問題を措いても、リブレット(とその英訳、できれば邦訳)がもう少し容易に入手できればよいのに、と思います。

さきほど「現代音楽」的イディオムと書きましたが、少なくとも調性のある音楽語法には完全に背を向けている点に関して一切の妥協がない。決して耳で聴く分には聴き易いとは言い難いが、どこかそのイディオムには新ウィーン楽派風の伝統が見え隠れし、耳が慣れてくると寧ろ若干の古臭ささえ感じます。時折激しく打ち鳴らされる銅板Bronzeplattenやゴング、タムタムといった多彩な打楽器の使用は紛れもなく現代に書かれたオペラと言えるけれども、(比較するのもどうかとは思うが)クセナキスの「オレステイア」やリゲティの「グラン・マカブル」のノイジーな前衛音楽と比べると実にクラシカルで、なんともドイツ的な趣。これまた多彩な管楽器は、特に低音木管楽器群の扱い方が独特。コールアングレやバス・フルート、コントラバスファゴットやヘッケルフォンなどの響きが不穏で禍々しい雰囲気を醸し出します。弦楽器は時に楔を打ち込むようなコルレーニョや軋むようなハーモニックスが出てくるが、総体的には無調であることを除けば極めて伝統的なカンティレーナが続く。
歌手については、メデアの歌はほとんど全曲に亘って激烈なコロラトゥーラで書かれており、歌手が喉を壊さないか心配になるほど。無調のオペラで主人公がコロラトゥーラを歌うと言えば、いやでも「ルル」を想起せざるを得ない。冒頭のメデアの登場に続いて乳母のゴラが歌い出すと、こちらはさしずめ「ルル」に登場するゲシュヴィッツ伯爵令嬢か、というところ。但し、「ルル」のような音楽そのものの官能性といったものはライマンの音楽にはあまり感じられません。コリントス王クレオンの娘クレウサも同じくコロラトゥーラのメゾソプラノのために書かれており、第2部冒頭、クレウサとメデアの、竪琴を巡る二重唱は、どこかバロック期のナポリ派のオペラやカンタータを彷彿とさせます。しかもこのクレウサの歌う部分は、まるでライトモチーフのように、フルートやチェレスタの煌めくフィギュールが歌を取り巻いており、そのきらきらした響きはほとんど「薔薇の騎士」の銀の薔薇献呈の場みたいだ。男声のイアソンやクレオンの歌も技巧的なパッセージが頻出し、あまつさえ伝令役はカウンターテナーが歌うという、まさにヘンデルのバロックオペラのパロディ。そう、これは現代的なイディオムによって書かれたバロック・オペラであり、メデアやクレウサの歌は「ルル」よりも(如何に見かけが隔たっていようと)はるかにヘンデルに近く、乳母のゴラはもしかしたらグルックの古雅な表現を念頭において書かれたのでは、という気がしました。
このライマンという人、もとはといえばF=ディースカウらの伴奏ピアニストとしてキャリアをスタートした人だそうだが、人間の声の表出力に対する全幅の信頼といったものを感じさせます。しかもその音楽の枠組みはロマン派あるいは近現代的な語法というよりはあきらかにバロック風であり、そのデコラティヴな歌唱からアルカイックで根源的な人間の悲しみが伝わってくるような気がします。だからこそ、子供を引き渡すよう嘆願するメデアの叫びや、彼女に向けられたイアソンやクレウサの嘲笑が胸を抉ります。このあたりは(時間があれば)エウリピデスの直截的な悲劇に近代的な心理劇の手法を持ち込んだグリルパルツァーの功罪について是非とも分析してみたいところ。こういう作品こそ、舞台で観ないことにはその全体像を掴めないと思います。来る二期会公演に期待が高まります。
このCDの演奏について巧拙を云々する力は私には無いけれど、異様に密度の高い音響に乗せて各の歌手が激烈かつ至難な歌唱を繰り広げる様は壮観です。特にタイトルロールのクラウディア・バラインスキーの歌は凄まじい表現。ほぼ2時間に及ぶ息苦しいまでの音楽に翻弄され、聴き終えてしばし呆然とならざるを得ない。万人受けする音楽ではないが、現代音楽に興味のある方の一聴をお勧めしたい。
by nekomatalistener | 2012-11-07 23:15 | CD・DVD試聴記 | Comments(2)

大井浩明 シュトックハウゼン歿後5周年リサイタル

10月29日のJR西日本のプレスリリースより。
「奈良線 六地蔵駅の社員が起床遅延したことにより営業開始が遅れる事象が発生しました。ご利用のお客様には大変ご迷惑おかけしましたことをお詫び申し上げます。」とあって、笑っちゃうのがその原因。
「六地蔵駅の社員が起床後に二度寝したためです。」
ニ度寝って・・・正直過ぎて「ああ、もうそれは仕方ないよね」って思ってしまう。



秋晴れの週末の昼下がり、大井浩明の弾くシュトックハウゼンを聴きに出かけてまいりました。

  11月3日 於タカギクラヴィア松濤サロン
  シュトックハウゼン ピアノ独奏のための《自然の持続時間》Natürliche Dauern(2005/06全24曲)
  (連作『音~一日の24時間』より「第3時間目」)

以前大井氏のリサイタルでシュトックハウゼンのピアノ曲Ⅰ~Ⅺを聴いた時に、アンコールとしてこの「自然の持続時間」の終曲を聴きました(アンコールといっても15分以上あった訳だが)。その時は随分とりとめのない作品だなぁ、といった程度の感想しか持ち得なかったのですが、今回全24曲を聴いてとても面白いと思いました。
私はシュトックハウゼンという人について、特段詳しい訳でもなければ大好きという訳でもありません。何枚か持っているCD(「ルフラン」とか「ツィクルス」とか)はいずれも1960年代までの所謂「初期作」で、2007年まで生きた作曲家の後半生に書かれた巨大な二つの作品、「光」と「音」についてはいくつかの抜粋を聴いたことがあるのみ(最近は有名な「ヘリコプター四重奏曲」も「ヒュムネン」もyoutubeで全曲聴けたりするので便利な世の中ではあるが・・・)。それにしても、「光」が全曲通すと28時間、「音」については11時間云々と聞くと、ほとんど誇大妄想狂かとびびってしまうのは事実だけれど、今回はとにかく余計なことは考えずに音に身を任せることにしました。
プログラムに記された作曲者による演奏時間の目安によると、前半12曲で70分ほど、後半12曲で60分といったところですが、大井氏の演奏は前半で1時間40分ほど掛ってました。特に最初の4曲、ぽつぽつと弾かれる音が減衰して完全に聞こえなくなるまで耳を澄ましていると、際限なく演奏時間が伸びて行き、この部分だけで1時間くらい掛っていたのではないか。休憩の後の大井氏のトークによると、シュトックハウゼン自身はけっこう現実的なところがあって、「音が完全に減衰するといっても、演奏者には聞えていても聴衆には聞こえないこともあるのだから、早めに切り上げてどんどん先に進むこと」と楽譜にも書かれている、とのことだそうだ。しかし、この日の会場は50人も入れば満席になる小さなサロン。良く手入れされているスタインウェイは果てしなく余韻が響き続けるので、ある意味苦行にも似た様相を呈していました。後半はさすがに少し早目に切り上げる演奏で、きっかり1時間ほどで終わりました。ちなみにwikipediaにはこの作品の表題について『自然な演奏時間』としたほうが的確であるように書かれている。まぁその通りかも知れないが、このタイトルの醸しだす多層的な意味合いはこの訳語では消えてしまいます。
それはともかくふと思ったのだが、シュトックハウゼン自身の「演奏時間の目安」が随分短めなのは、シュトックハウゼンをもってしても、音が減衰していくのをこれほどの時間を掛けて聴き入るというのに実は耐え得なかったのではないか、ということ。以前大井氏がケージの「易の音楽」を弾いた時に、ケージ指定の時間より随分間伸びしていたのも同様だろう。私自身、子供の頃、仏壇の輪を鳴らして完全に消えるまでじっと耳を澄ませていた記憶があるが、こういう減衰の美学のようなものは日本人独特のもので西洋には本来なかったものではないか、と。これは何の根拠もない思いつきの域をでないものだが、あながち間違いでもなかろうと思っています。
もちろんこういった作品を聴いていて多少の退屈さを感じないという訳ではない。これを、モートン・フェルドマンの例えば「ピアノ」とか「マリの宮殿」といった作品と比較すると、シュトックハウゼンのほうの一曲一曲よりもフェルドマンの作品のほうが遥かに演奏時間としては長いが、フェルドマンのほうがより短く感じます。どちらも耳で聴くとポツポツとしか音が鳴らないが、フェルドマンのほうは実はそのリズムは厳密に記譜されていて、そういったことが聴く側の感じ方に影響しているのだろうか。
シュトックハウゼンの話に戻すと、音の選び方としてはセリエールな手法も使われているようだが、むしろより自由な、時として若干の通俗性すら感じられる手法。広義の調性を感じさせるような作品では、リゲティのエチュードのような響きも聞こえる(「無限柱」とか「開放弦」のような)。しかもリゲティのような精緻さはあまりなくて、ぱっと聴いた感じは随分テキトーに書いてるなぁ、というもの。そうかと思えば例の「ピアノ曲Ⅹ」でお馴染みの手袋(プロテクター)をはめて弾くものがあったり(Ⅹに比べるとかなり穏健だが)、神事で使うような鈴や仏具の輪を鳴らしながら弾くものがあったり。あるいはピアニストが言葉を発したり、クラスターも内部奏法も要は何でもあり。こう書くとシュトックハウゼンのピアノ曲の集大成みたいに思われるかもしれませんが、そんなことはなくて繰り返しになるけれどものすごくテキトーっぽい音楽がたらたら続く(これは貶しているのではなく、そのユルさが凄く面白い)。初期のピアノ曲のような精密極まりない書法と比べると、なんと遠い地点にまで来たものか、と思いますがそれはそれでとても面白いものでした。これを機会にちょっとシュトックハウゼンを集中的に聴いてみたいと考えています。今ならユーロ安でStockhausen-Verlagの馬鹿高いCDも買い頃かも知れません。
演奏に関して一言。大井氏の演奏、さすがだと思います。息を呑むような最弱音から強烈な強音まで、そのデュナーミクの幅の広さとか、鼻にかかったようなウナ・コルダの響きをはじめとする音色のパレットの多彩さとか、本当に感心しました。この人の演奏について、ともすればその曲目の激烈さばかりが言及されがちだが、指の回りだけでない真のテクニックについてもっと喧伝されるべきだろうと思います。
若い子から年配の方まで幅白い年齢層の聴衆でした。年配といっても、この人達が若かりし頃は正に前衛の時代だったのかもなぁ。休憩のあと何ぼか減るかなぁと思っていたらほとんど誰一人帰った方はいらっしゃらなかった模様。さすが東京です。
by nekomatalistener | 2012-11-04 20:47 | 演奏会レビュー | Comments(0)