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イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956(その7)

ブルセラ症ってちゃんとした獣医学用語らしいんだけど、どうしてもあっち関係の病気かと思うよね。





シリーズ7回目はベートーヴェンの初期ソナタ4曲を聴きます。

 CD2
 ベートーヴェン
  ピアノ・ソナタ第4番変ホ長調Op.7 [1955.9.20.以前の録音]
  ピアノ・ソナタ第5番ハ短調Op.10-1 [1955.2.9.録音]
  ピアノ・ソナタ第6番へ長調Op.10-2 [1955.2.9.録音]
  ピアノ・ソナタ第7番ニ長調Op.10-3 [1955.2.23.録音]

4番ソナタについて、私はこれまでベートーヴェンのGrazioso路線の代表作と思っていました。それはもちろん間違っていたとは言いませんが、改めて楽譜を良く見ると第1楽章はMolto allegro e con brioと書かれていて、これを殊更「優美に」弾くのはベートーヴェンが想定していた演奏とは少し違うかも知れない、と思いました。この思い込みには2つ原因があって、一つ目は音楽そのものから導かれる印象。この第1楽章は6/8拍子でしかも流れるようなフレーズに富んでいることや、メヌエットとスケルツォの中間的な様式の流麗な第3楽章、そしてGraziosoそのもののフィナーレから受ける全体的な印象が作品そのもののイメージを強固に規定してしまいます。それと、ごく一部の人間だけかも知れませんが、ミケランジェリがドイツ・グラモフォンに録音した数少ない正規盤の印象が強烈すぎるというのが二つ目。ミケランジェリはかつては私にとって神にも等しいピアニストでしたが、この4番ソナタの録音に関してはコード・ガーベンがその著書の中で、ケンプの演奏と比べて散々ミケランジェリの解釈の恣意性をあげつらった末に、ヨアヒム・カイザーが1971年のレコード評で「細かな美しい部分で、音楽は奇妙に甘ったるく、なんの身振りもなく、展開していく緊張感に欠ける」云々とこきおろしていたと記している(『ミケランジェリ ある天才との綱渡り』コード・ガーベン著・蔵原順子訳、アルファベータ社)。そこまでぼろくそに言わなくとも、と思うが、彼のお陰で必要以上にGraziosoなイメージが刷り込まれてしまったのは事実だろう(それは軽やかさとか流麗さとは違って、意外なほど垢抜けない重さを伴っているのだが)。
いずれにせよ、これまで聴いてきたナットの剛毅な演奏、アタックのきつい演奏によって、この4番ソナタの新たなイメージが生れるかと思っていたらさにあらず、案外と柔らかく流麗な演奏です。これはやはり、音楽そのものの要求に素直に従えばこういった演奏になる、ということでしょうか。Molto allegro云々というのとは少し違うと言わざるを得ない。大体、この頃のベートーヴェンのcon brioは中期のそれとは少しニュアンスが違うのかもしれない。
それにしても、先に書かれたOp.2の3つのソナタに見られた緊密な展開部は、この4番ソナタの第1楽章の展開部では技法上の後退といってもよいくらい、主題を短調に置き換えるだけの極めてシンプルな手法で書かれているのが印象的。これは提示部と再現部が意外に多彩な素材で出来ているため、敢えて展開部をシンプルにしたというのが正解なのでしょうが、音楽がおおらかに、何と言って策を弄することなく構えの大きな音楽に聞こえるという効果をもたらしています。何一つ技巧的なフレーズのない第2楽章も素晴らしい。少しピアノが弾ける人ならまず間違いなく初見で弾けてしまうはずだが、これを音楽的に弾くのは大変だと思う。ここ数年、PTNAとかアマコンといった、アマチュアのピアノ演奏を聴く機会が多少あるのだが、古典やロマン派を弾くコンテスタントの中には耳を蔽いたくなるほど音楽としての感興が感じられない人達がいます。彼らに最も必要な修練は、こういった緩徐楽章を丁寧に弾いて、どうすれば音楽として間が持つようになるのか考えながら弾き続けることかも知れないなぁ、と思う。ベートーヴェンの初期作品の緩徐楽章を聴きながらそんなことを考えていると、大久保賢氏のブログでちょっと関連することを書いておられました(ピアノのレッスンにおける緩徐楽章軽視について)。そちらも併せてどうぞ。
http://blogs.yahoo.co.jp/katzeblanca/23810598.html

初期ソナタを番号順にずっと聴いていくと、このOp.10におけるベートーヴェンの音楽の長足の進歩に驚きます。詳細な分析を行う力は私にはありませんが、ハイドンやクレメンティの影響から出発したベートーヴェンがついに自己の音楽的スタイルを確立したかに見えます。
5番ソナタはそのハ短調という調性と厳しく力強い曲想によって、後の8番ソナタや交響曲第5番をいやでも連想させます。シンプルな3楽章構成、緊密な動機労作的書法によって一分の隙もない音楽が展開されています。第3楽章の展開部の終わりは交響曲第5番にそっくりなところが出てきますが、偶然の一致で済ますことはできないと思います。
6番も3楽章構成。上機嫌なベートーヴェン。プレストのフィナーレは天才的な筆致だと思います。ハイドンから学んだものと、バッハのインヴェンション風の対位法が素晴らしい手際で結びつけられている。
7番に至ってベートーヴェンのスタイルが完全に確立されたと見てよいでしょう。ここには独特の強さと熱気、それと若干の強引さがあって紛うかたなきベートーヴェンらしさを感じます。二短調の第2楽章はその深刻さ故に、はるか後の29番ソナタの嬰ヘ短調のアダージョを思い起こさせる。第3楽章の晴朗なメヌエットも素晴らしいが、フィナーレのロンドに頻出する問いかけの動機も実にベートーヴェンらしい。
Op.10の3曲、ナットの演奏は大変優れていて、これら初期ソナタとの相性のよさを感じます。もちろんベートーヴェンの音楽の大きさというものは、ある一つの演奏スタイルしか受け付けないといったものではありませんが、それでもナットの剛毅な演奏は音楽との一体性を強く感じさせます。しかし少なくとも日本では、バックハウスやケンプ、もしかしたらグルダほどにもベートーヴェン演奏の規範としては認知されておらず、どこまで行っても一部の好事家のための録音と思われていないだろうか。これまでにも書いてきた通り、確かに中期の有名曲には些か雑な演奏があったり、指回りに若干難があったりするのは事実だが、それはドイツの巨匠達だって同様(いや、メカニックという意味ではもっと酷いかもしれない)。そこにはかつての日本人独特の「本場主義」「独墺至上主義」の悪しき影響があるのは事実として、ではナットと独墺系ピアニストの演奏上の差異はどのようなものか、いずれケンプやバックハウスも含めていろんな演奏を聴いて考えてみたいと思っています。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-10-24 21:17 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

新国立劇場公演 ブリテン「ピーター・グライムズ」

そんなに若くもない子に「あの人のやり方は権柄尽くやからね」と言ってみたが案の定通じない。やっぱり死語でした。




新国立劇場がまたしても、とてつもなく素晴らしい舞台を見せてくれました。人間の疎外というテーマを扱って、恐らくベルクの「ヴォツェック」、ショスタコーヴィチの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」と並んで、最も20世紀的なオペラだろうと思います。この僅か3年ほどの間にこれらの3つのオペラを高品質な舞台で観ることができたのは何と言う幸運だろうか、と思います。実は私が観た14日の公演は最終日。これが最終日ではなくて、まだ残りの公演の残席があればもう一度観ただろうと思う。それが出来なかったことが悔しく思われる程、今回の舞台に関しては音楽・演出とも言うことがない。


  2012年10月14日
    ピーター・グライムズ:スチュアート・スケルトン
    エレン・オーフォード:スーザン・グリットン
    バルストロード:ジョナサン・サマーズ
    アーンティ:キャサリン・ウィン=ロジャース
    姪1:鵜木絵里
    姪2:平井香織
    ボブ・ボウルズ:糸賀修平
    スワロー:久保和範
    セドリー夫人:加納悦子
    ホレース・アダムス:望月哲也
    ネッド・キーン:吉川健一
    ホブソン:大澤建
    指揮:リチャード・アームストロング
    演出:ウィリー・デッカー
    合唱指揮:三澤洋史
    合唱:新国立劇場合唱団
    管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

歌手の中ではタイトル・ロールを歌ったスチュアート・スケルトンがずば抜けていました。野卑な顔立ちに羆のような巨漢、まるでこの役を演じるために生れてきたみたいだ。この声は些か荒削りで、正直なところ最終日ということもあってか、ちょっと疲れが感じられたが、通常ならば瑕と感じられる声の乱れさえ役柄によく合っている。まるで粗い麻布の手触りのよう。ウィリー・デッカーの演出は第2幕第2場、ピーターが少年を虐待する場で、最初は恐怖に逃げ回っていた少年が次第にピーターに懐き、しまいには彼にまつわりつくという設定で、ピーターの異常な性格を和らげ、物語を罪なき者が共同体から疎外される悲劇へと単純化している。以前の投稿(2012.9.23.)でも書いた通り、このオペラからペデラスティの要素を取り除くのは、あまりに物語を皮相的に見過ぎることになりかねないと思うが、スケルトンの歌を聴いていると案外これでいいのかも、と思います。単純で粗野な人間がふとした偶然から、徹底的に人々から排斥されるようになる恐ろしさ、そこに照準を合わせるために敢えてピーターの性格の異常さを抑えたということなら、この演出の狙いは十分成功していたというべきだと思う。もしピーター役がもう少し神経質で性格的な側面を強調するタイプの歌手であれば、ここまでの歌手と演出の一体感というのは感じられなかったかもしれない。また、物語の単純化に物足りない思いをしたかもしれない。そういう意味で、今回の公演を成功に導いたのは一にも二にもスケルトンの声とその体躯から滲み出る人柄、ということになるだろう。
ピーター役が凄過ぎて他の歌手は少し割を食った感じですが、エレンを歌ったスーザン・グリットンはなかなか素晴らしい歌手だと思いました。落ち着きがあって暖かい声に、ふと往年の名花ヘザー・ハーパーを思いだしたほど。刺繍の歌に思わず涙がこぼれそうになりました。
バルストロードを歌うジョナサン・サマーズは悪くはないが声量が少し物足りない。これも前の投稿に書いたとおり、このバルストロードという役はジョージ・クラブの原詩の父親が投影されているのだから、やりようによってはピーターを抑圧するもの、ピーターにとって「去勢する父」となりうる役柄ですが、この歌手では(良くも悪くも)そこまでの連想は湧かない。あと脇役の中ではネッドやボブ、スワロー、ホブソンら男性陣は可も無く不可も無く、対するにアーンティ、ミセス・セドリー、2人の姪はいずれも優れた出来で、第2幕第1場の女ばかりの四重唱は素晴らしかった。この2人の姪はCDで音だけ聴いていると、どういう役柄なのかイメージが湧かなくて困るのだが、今回の演出のような蓮っ葉で、下層階級故村人からバカにされる役というのはああなるほど、と目を開かれる思いがします。
今回の公演が成功したもう一つの要因は合唱の素晴らしさ。この合唱団が凄いのはいつものことだが、今回ほどその威力を見せつけたこともないのではないか。第3幕第1場終わりの凄まじい合唱、ピーターを追い詰め、エレンを絶望の淵に追いやる村人の悪意には本当に身の毛がよだつ思いがします。合唱の動かし方はやや整然としすぎている感じもして好き嫌いが分かれるところだと思う。私はもうすこし無秩序感があったほうが良いと思ったが、今回の演出の眼目は先程も書いたとおり、ピーターを徹底的に疎外し、苛め抜く群衆という構図に重きを置いていて、エレンやバルストロードですら一歩間違えばこの群衆の敵意の的になってしまうところが何とも恐ろしいと思わせる。そういう意味では、この非人間的ともいえる群衆の動かし方はそれなりに筋が通っていると言えます。
舞台の装置は斜めに傾いだ舞台に、教会やパブを表す二枚の巨大な壁、それに必要最小限の机や椅子といった小道具。高度に抽象化されているが、よそよそしさはなく、悲劇が心に沁み入る邪魔立てをしない。素晴らしい舞台だと思います。舞台も衣裳も黒を基調にしているが、第3幕第1場のダンスパーティーの場面のみ、娼婦らと思しき女達が真っ赤なドレスを着て猥雑さを振りまく。思うにピーターの粗暴さと異常な性癖は、この演出ではピーターをとりまく群衆のいかがわしさに転換されているようだ。本当のところは、ピーターの悲しみの背後にはブリテンその人の性的マイノリティ故の悲しみが横たわっていて、その両者を繋ぐものとしてピーターのペデラスティ(それは決して単純な同情に値するものではなくて、むしろ忌まわしく目を背けるべきものとして描かれる)があったはずだが、今回の演出は良くも悪くもその忌まわしさはピーターから群衆のほうにシフトされていて、偶々人々の敵意の対象となったピーターとエレンの悲劇に収斂され、単純化されている。しかし繰り返しになるが、それが物足りなさにつながるのではなく、スケルトンという稀有な歌手の存在によって、本当に心を揺さぶられる悲劇に昇華していたように思う。おそらくこのオペラに馴染みのない聴衆からすれば、まるで昨今のイジメ問題にも低通するような今回の演出は初めて接するには良かったのだと思う。しかし、もしピーターが劇中で徹底的に少年を虐めぬいたとしたら?第2幕第1場で(ト書きに忠実に)もしピーターがエレンを平手打ちにしていたとしたら?観客の印象はかなり変わったはずだ。今回のピーターの悲しみに私自身も深く同情し、感動したけれど、それだけがこのオペラの十全な姿ではないことを知っているのと知らないのとでは大違いだろう。だからこそ、そんなにしょっちゅう取り上げられる演目ではないが、何時の日か、異なった演出でもう一度見てみたいと強く思わずにはいられない。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2012-10-17 00:22 | 演奏会レビュー | Comments(0)

イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956(その6)

以前いた職場で、若い子数人連れて京都のすっぽんの老舗「大市」に行った時のこと。若い男子がすっぽんのえんぺら(甲羅のまわりの黒いとこ)食いながら「美味いっすねーこれ。ナスですか?」とのたまった。ニ度と連れてくるか(怒)と思いました。




久しぶりに19世紀の音楽を聴く(笑)。CD10枚目、ブラームスとシューマンの傑作を収めたものを聴いていきます。

 
 CD10
 ブラームス
   ヘンデルの主題による変奏曲とフーガOp.24 [1955年10月あるいは11月録音]
   3つの間奏曲Op.117 [1955.12.5.録音]
 シューマン
   クライスレリアーナOp.16 [1951年11月以前の録音]
   3つのロマンスOp.28 [1952年12月録音]

順不同で「クライスレリアーナ」から。私も含めて、シューマンの最高傑作は「クレイスレリアーナ」であると信じて疑わない人は大勢おられると思います。およそ19世紀に書かれたピアノ曲で、これほど「ロマン派」と呼ぶに相応しい作品もないのではないでしょうか。言葉にしてしまうと皮相的になってしまうが、ここには「苦悩」とか「憧憬」とか、それより何より個人的な恋愛に纏わる感情の全てが音になって盛り込まれている。しかしシューマンが凡百の同時代のマイナーな作曲家達と違ったのは、その極私的世界を突き詰めた果てに、物凄い回り道をして普遍的なるものにまで至った点だろうと思います。では前者と後者を隔てるものは何か、と問われれば、これは大変難しい問題だと言えます。これは例えば「自己愛の強い人間」と「自己信頼性の高い人間」の違いは何か、という問いにも似て、両者とも基本的に自己に向かうエロスの力を拠り所にしていながらその現われ方が微妙に異なる。そこに働いている力の一つは論理というものだろうと思います。つまりシューマンの音楽は、極私的でありながらも極めて論理的である、と言うには更に数百語数千語を費やさねばならないのだが、それはまぁ追々書く機会もあるでしょう。
ところで以前シューマンの「ノヴェレッテン」について書きましたが、「クラスレリアーナ」と並べてみるとまさに同じもののポジとネガのように見えてくることに気が附きました。同じ8曲構成で、前者は前にも書いたとおりへ長調-二長調-二長調-二長調-二長調-イ長調-ホ長調-嬰ヘ短調という(第1曲を除いて)基本的にシャープ系の調性配列、その音楽の特質は全能感と殆ど狂騒と見紛うばかりの多幸感でした。それに対して「クレイスレリアーナ」はニ短調-変ロ長調-ト短調-変ロ長調-ト短調-変ロ長調-ハ短調-二短調、という徹底的にフラット系の配列。そこにあるのは激情と憂鬱の交替。この出来の悪いポジ(ノヴェレッテン)と出来の良いネガ(クライスレリアーナ)を重ね合わせるとシューマンの本質がより明確になると思います。また両者ともファンタジーの飛翔を形式の頸木で押さえつけようとする傾向が強いのですが、前者が(特に第8曲において)目を覆いたくなるほどの破綻を来しているのに対し、後者はより単純な構造を採っているという対比も面白い(但し第7曲目のコーダだけは異質で、それがシューマンらしいとも言える)。
さてこの「クライスレリアーナ」の演奏ということになると、これはもうホロヴィッツの名演を超えるものは無いのではないかと思います。それは上手いとか下手といったレベルを遥かに超えて、シューマンの狂気にまで肉薄する演奏となると、これ以上のものは想像もつかないといったレベルでの話。それと比べると、ナットの演奏は悪くは無いのだが何とも物足りない。ナットのシューマン演奏について今迄「剛直」とか「構築的」といった言葉を使ってきて、今回のクライスレリアーナにしても微温的なものが微塵もないのはとても好ましいのだが、いつにもまして小さな瑕が目について耳が素直に入っていかない。いや、瑕というのもどうかと思うが、例えば第8曲中間部、ナットは恐らくパデレフスキー版の明らかに誤りと思われる箇所をそのままGで弾いている(譜例1の3小節目左手の低音)。
(譜例1)
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ここは当然譜例2のようにBでなければならない箇所だが、弾いていて気にならないのだろうか?
(譜例2 ブライトコップ・ウント・ヘルテル社のクララ・シューマン校訂版)
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あるいは第2曲のインテルメッツォⅡの後の箇所、譜例3の1小節目の右手のAに附けられたナチュラル。ここは初版もナチュラルになっていて多少の議論があるかも知れませんが、おそらく草稿のフラットの読み間違いで、ブライトコップの最近の版はもちろんフラット(As)になっています。ここをナットはAsではなくAで弾いていてちょっと耳に引っ掛かります(最近のブライトコップ版はなぜかコピーガードされていたので譜例は載せられませんでした)。
(譜例3 パデレフスキー版)
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もうひとつ。第8曲目の譜例4の2小節目と3小節目をまたいで左手のGに附けられているタイをなぜかナットは無視して3小節目のGを叩きなおしているが実にオマヌケ。前後の脈絡から言ってもありえない箇所だが、大げさに言えばこういった些細なことで奏者の論理性を疑ってしまうのです。
(譜例4 パデレフスキー版)
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しつこいようだがもう一か所。第1曲目中間部、譜例5の2段目1小節目の左手Asと3段目1小節目の左手Gesにアクセントが附いていて、これは実に意義深いアクセントなのだがナットは全く無視。薄いテクスチュアから対位旋律が浮かび上がってくる素晴らしい仕掛けなのに、この無頓着ぶりをどう考えたらいいのか。
(譜例5 ブライトコップ版)
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繰り返しの有無についてはやや恣意的。それはいいとしても第7曲のフガート前半の繰り返しをしないのはちょっと困る。やはりこのあたりも重箱の隅をつつくつもりはないが論理性の欠如のようなものを感じてしかたがない。それに、これはナットの所為ではないが、マスターテープの保存が悪かったようで所々聞き苦しいところがある。第2曲や第6曲の終わりがブチッと切れるのはもう許し難い。
まぁこんな類のことは可愛い子の鼻毛みたいなもんで、気にしなければいいのに、という声もあろうかと思うが、鼻毛を見ても可愛いと思えるか、見た瞬間に百年の恋も醒めるか、の違いは大きい(笑)。なぜナットの鼻毛は許せないのか、ま、そこまで分析して書くつもりはないけど・・・。

あとは簡単に。ブラームスの「ヘンデル・ヴァリエーション」、ブラームス作品の中でも傑作だと思います。「パガニーニ・ヴァリエーション」ほどの難技巧ではないにしても、恐るべき難所が至る所にあって、しかもその克服は並大抵でないのにそれが(良い演奏であればあるほど)聴き手には難所と映らなくて、努力が報われないこと甚だしい。そこがまたピアノ弾きには燃える(萌える)ところなんだが。
ナットの演奏は実に立派で、聴いていて熱い感動を禁じえない。ブラームスとの相性の良さはあまり世間で喧伝されていないのではなかろうか。出来ることならピアノ協奏曲なんかも録音しておいてほしかったものです。

「間奏曲」はブラームス晩年の傑作。私、先日とうとう50の大台に乗ってしまったのだが、こういう作品を聴いていると歳をとるのも悪くないと思います。若い時には味わえない良さというものが確かにある。第3曲目は昔は私、良く分からなかった曲なのですが、最初から最後までアウフタクト附き5小節でワン・フレーズという書法が、まさに後悔の多い人生を振り返ってうじうじと思い悩む初老の男に相応しいではないか。まどろむような中間部までこの5小節構造が支配していて、これがブラームスの構築力、論理の力なのだと思う。
ナットの演奏は言うことなし。秋の夜長の愛惜措くあたわざる名演だと思う。

「3つのロマンス」は、シューマンの初期作品の中では目立たないし傑作だとも思わないけれど、なかなか捨てがたい魅力があるのも確か。「クライスレリアーナ」や「フモレスケ」のような作品を目指しながらも最終的にそこまでファンタジーが膨らまず、さりとて捨てるには惜しい、といった断片がこのような曲集になったのだろうか。特に第3曲は「ノヴェレッテン」との共通点が多く、おそらく平行して書かれながら選に漏れた断片だろうと思います。
ナットは剛直なばかりでなくて、こういった小品をいつくしむように弾いているのが実に好ましいと思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-10-13 23:32 | CD・DVD試聴記 | Comments(3)

ストラヴィンスキー自作自演集WORKS OF STRAVINSKY(おまけ)

前回紹介したバーミアンで4,800円食ったその子ですが、その後結婚して奥様の協力もあって涙ぐましいダイエットをしているものの、なかなか痩せないと、お菓子バリバリ食いながら報告してくれました。





さて、この自作自演集、断るまでも無いがストラヴィンスキーの作品全集という訳ではない。ここには夥しい数の自作や他の作曲家の作品の編曲(その大部分は恐らく生活の為に必要な仕事だったのだろう)は殆ど入っていませんし、ピアノ曲や初期の歌曲などの多くは割愛されています。重要な作品はほぼ網羅されていますが、中には選に漏れて残念な作品もいくつかあります。
例えば1919年に作曲された「クラリネットのための3つの小品」は、アルバン・ベルクのそれと並んで、この楽器の為の重要なレパートリーだと思います。また、1944年にプロ・アルテSQの創設者アルフォンス・オンヌーの死を悼んで作曲された独奏ヴィオラのための「エレジー」も入れてほしかったものの一つ。この2作品についてはブーレーズのCDが入手可能です。あるいは1964年の十二音技法による「新しい劇場の為のファンファーレ」。この2本のトランペットの為のファンファーレは素晴らしい作品だが、聴く機会が極めて少ない。昔ブーレーズのLPで聴いていたが、CDにはどうも復刻されていないようです。
歌曲の素晴らしさについてはCD15枚目の紹介の通りですが、ピアノ伴奏歌曲は殆ど収録されていないのが残念。
編曲作品のいくつかは金儲けの為の仕事ではなく、本当にオリジナルの作品に対するオマージュとして書かれています。フーゴー・ヴォルフやジェズアルドについては以前取り上げたが、作品リストには1969年の作としてバッハの平均律クラヴィア曲集のいくつかの小オーケストラへの編曲が挙がっています。私も聴いた事がありませんがとても興味をそそられます。

最後にちょっと子供っぽいお遊びをしてみたい。「お墓にまで持っていきたいストラヴィンスキー・ベスト10」を選ぼうというもの。でもこれが10作に絞りきれなくてとても難しい。気の向くままに選んでいくと晩年の作品だけで枠いっぱいになってしまうので、初期作品(だいたい1917年まで)から2曲、中期(1918~1952年)から4曲、後期(1953年以降)で4曲ということにしてみました。結果は次の通り。

1.シェイクスピアの3つの歌曲(1953/1954初演)
2.バレエ「アゴン」(1953~57/1957初演)
3.歌劇「レイクス・プログレス」(1948~51/1951.9.11初演)
4.「兵士の物語」(語られ、演じられ、踊られる物語)(1918/1918初演)
5.レクィエム・カンティクルス(1965~66/1966初演)
6.管楽器のためのサンフォニー(1920/1921初演/1947改訂)
7.オペラ=オラトリオ「エディプス王」(1926~27/1927.5.30演奏会形式初演/1948改訂)
8.宗教的バラード「アブラハムとイサク」(1962~63/1964初演)
9.バレエ「結婚」(1914~17/1919改訂/1923改訂/1923初演)
10.ブルレスク「きつね」(1915~17/1922.5.18初演)

おそらく数年後に同じ事をやったらすっかり曲目も順番も変わるような気もしますが、今現在、自分に正直に選んでいったらこんな結果でした。
ブログの効用といいますか、この一年、ストラヴィンスキーについて書き続けてきて、とても面白かったし、いろいろとスコアや文献を調べて少しは知見も増やせたような気がします。やはり人様に読んでいただくには、あまりイイカゲンなことは書けませんからね。また数年経ったら第二ラウンドしてみるのも面白いかも。そのころにはベスト10も変わっているのでしょう。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2012-10-09 22:13 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ストラヴィンスキー自作自演集WORKS OF STRAVINSKY(その22)

職場で一番のデブの男の子、独身の頃はバーミアンで4,800円分食ったらしい(飲み物除く)。




一年近くを費やしてしまったこのシリーズ、ついに最終回。なんだか終わっちゃうのが惜しいくらい(笑)。自分がどれほどストラヴィンスキーの音楽に惚れ込んでいるか、改めて思い知りました。

CD22
  ①交響詩「夜うぐいすの歌」(1917/1919初演) [1967.1.23.録音]
  ②ダンス・コンチェルタント(1941~42/1942初演) [1967.1.20.録音]
  ③フュルステンベルク公マックス・エゴンの墓碑銘(1959/1959初演) [1964.12.14.録音]
  ④ラウール・デュフィ追悼の二重カノン(1959/1960初演) [1961.1.25.録音]
  ⑤宗教的バラード「アブラハムとイサク」(1962~63/1964初演) [1967.1.24.&1969.7.11.録音]
  ⑥管弦楽のための変奏曲(オルダス・ハクスリー追悼)(1963~64/1965初演) [1966.10.11.録音]
  ⑦レクィエム・カンティクルス(1965~66/1966初演) [1966.10.11.録音]
 

  ロバート・クラフト指揮
  ①⑤⑥⑦コロンビア交響楽団 ②コロンビア室内管弦楽団
  ③アーサー・グレッグホーン(fl)、カールマン・ブロッホ(cl)、ドロシー・レムゼン(hp)
  ④イズラエル・ベイカー(vn)、オーティス・アイグルマン(vn)、サンフォード・ショーンバック(va)、
    ジョージ・ナイクルーグ(vc)
  ⑤リチャード・フリッシュ(Br)
  ⑦リンダ・アンダーソン(Sp)、エレーヌ・ボナッツィ(A)、チャールズ・ブレスラー(T)、ドナルド・グラム(Bs)
    イサカ大学コンサート合唱団(グレッグ・スミス指揮)

さてCD22枚目はRobert Craft conducts under the supervision of Igor Stravinskyというタイトルが附いています。内容は初期と中期の落穂拾いの2曲と晩年の十二音技法による作品から5曲、中でも「アブラハムとイサク」「変奏曲」「レクイエム・カンティクルス」の3曲はストラヴィンスキーが最後に辿り着いた孤高の境地といってよいと思います。本来ならばこれらの作品も作曲者自身が振る予定だったのでしょうが、おそらくは体力の衰えに勝つことが出来なかったのでしょう。しかし、作曲者が公私に亘って心を許し、自作の演奏に関して全幅の信頼を置いていたロバート・クラフトという人物がいたおかげで、なんとかこのアルバムを完成することが出来た、という訳。

交響詩「夜うぐいすの歌」は1914年に初演されたオペラ「夜うぐいす」の第2幕・第3幕を素材としたもの。元ネタのオペラについてはこのシリーズの「その14」で書いた通りで特に附け加えることはありません。交響詩のほうはドビュッシー風あるいはリムスキー=コルサコフ風の第1幕の素材を除外したことでオペラよりも遥かに統一感があります。クラフトの演奏は早いテンポで颯爽としているが、めくるめく多彩なリズムや音色についてはやや生硬。いま私の手元にはブーレーズ/クリーヴランド管弦楽団と、マゼール/ベルリン放送交響楽団の2種類のCDがあるが、そのどちらもおそるべき手腕で各々の美意識を極限まで追求し表現した名盤。こんな録音と比較したら気の毒かもしれません。それにしてもストラヴィンスキー自身の演奏を残して欲しかったものだ。晩年のセリエルな作品を除けば、高弟クラフトと雖も師匠に適うわけはなかろうと思わざるを得ない。

ロサンゼルスに手兵の楽団を持っていた指揮者ワーナー・ジャンセンの委嘱による「ダンス・コンチェルタント」は、42年に管弦楽曲として初演された後、44年にはジョージ・バランシンのコレオグラフィによってバレエ化もされています。まさに手練れの作、こういった作品はお手の物だったのでしょう。例によって手癖で書き進めたようなところもあるが、全体としては清新さと躍動感に溢れた楽しいディヴェルティメントです。クラフトの指揮もなかなか良い。この乾いた抒情の表現はさぞ御大を喜ばせたことだろうと思う。

フルート、クラリネット、ハープの為の「墓碑銘」はドナウエッシンゲン音楽祭のスポンサーであったフュルステンベルク公マックス・エゴンが1959年に亡くなったのを追悼して書いた作品。たった7小節、時間にして1分ほどの短さの中でハープ、フルート、クラリネットがポツポツと音を鳴らすだけ。前回とりあげた「イントロイトゥス(T.S.エリオット追悼)」と同じく、聴く者の安直なアプローチを拒絶する厳しい音楽。それにしてもこの録音、各楽器がオンに録られているせいもあるが、生の素材がむき出しに置かれているといった趣。ブーレーズがアンサンブル・アンテルコンタンポランのメンバーで入れた録音は、これと比べると3つの楽器が絶妙に溶け合って、繊細かつ大変美しい録音だが、ではどちらがストラヴィンスキーの頭の中で鳴っていたであろう姿に近いかと問われれば何とも微妙。クラフトの演奏ははっきり言って美しいといった評は下せないのだが、案外ストラヴィンスキーは満足していたのではないか。

「二重カノン」は1953年に亡くなったフランスの画家ラウール・デュフィの追悼の音楽だが、この画家と作曲者は会ったことがなかったらしい。しかもその死から6年も経ってから追悼作品を書いたというのも謎です。それはともかく、先の「墓碑銘」と同じく、わずか1分余りの短い音楽の中に、ほとんどむき出しといってもいいくらい生の素材(=音列)が放り出されている感じがする。音色という点でも、弦楽四重奏によるモノクロームな効果を狙っていると思われ、デュフィのあの、南仏風の明るい作品を偲ぶというには如何なものか、と思います。これは追悼といいながら、実は作曲者自身の心象の表白であったとしかいいようがない。このシリーズで何度も言及した通り、それは晩年の作曲者のミザントロープです。

バリトンと小オーケストラの為の「アブラハムとイサク」のスコアの扉には「イスラエルの人々に捧げる」と書かれています。1964年8月23日、ロバート・クラフト指揮イスラエル祝祭管弦楽団によってエルサレムで初演されています。テキストは創世記22:1-19のヘブライ語訳。この、アブラハムが神の命令によって一人息子を生贄に捧げようとする話はよく知られていると思うが、無信仰者から見ればヨブ記と並んでこれほど不条理な話もあるまい。気まぐれで疑い深く、ここまでして人を試さずにはその信仰心さえ信じられない神とはいったい何なのか。それはともかく、これは大変な力作、素晴らしい音楽で、1964年から1966年、いよいよ創作の最終期を迎えるストラヴィンスキーの遺言とも言えるもの。小編成のオーケストラは例によってトゥッティで奏される部分は殆どなく、まるで室内楽のように扱われているが、一つの音列が複数の楽器によって次々と受け渡されていくのが印象的。また、5連符や7連符を多用した複雑なリズムも特徴的だが、ブーレーズの「マルトー・サン・メートル」に出てくる複雑さ(拍子記号が繁分数で書かれていたりする)などと比べれば穏健な部類だろう。だからといって演奏の至難さが減る訳ではないが・・・。バリトンの歌いだしのところは、譜例のように神経質な前打音が沢山附いているが、これはヘブライの歌の「こぶし」のようなものの模倣だろうか。
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このようなメリスマティックな部分と、シラビックな部分が交替しながら進んでいく。全体に殊更対位法が強調されるところは少ないが、それでも次のような厳格なカノンが時折現われて強く耳を打ちます(譜例は197小節目から。上からバリトン、ホルン、チューバ)。
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音楽に快楽とか慰撫だけを求める人からすればこれほど縁遠い音楽もないでしょうが、知的な理解とエモーショナルな体験を共に追い求めたいという人には強くお勧めしたいと思う。クラフトの指揮はアタックやアーティキュレーションがスコアに忠実で、その精密さは録音年代を考えれば驚異的なほど。ストラヴィンスキーの音楽は指揮者が下手にいじらずとも、スコアに忠実に演奏すれば最大の効果が得られるという好例でしょう。薄いテキスチュアなのに音が貧しくならないのが素晴らしい。

「変奏曲」も傑作。1963年11月22日、J.F.ケネディが暗殺されたその日、ストラヴィンスキーと親交の深かった作家オルダス・ハクスリーが亡くなっています。ストラヴィンスキーは前者の追悼に「JFKのためのエレジー」を書き、後者の為に作曲の途中にあったこの「変奏曲」を捧げたという次第。1965年4月17日、ロバート・クラフト指揮シカゴ交響楽団によって初演されています。「変奏曲」とはいうものの、どこまでが主題でどこから変奏なのか、判然としませんが、3つの極めて独創的、天才的な部分をサンドウィッチ状に挿む7部構成と見ることもできそうです。その3つの部分の一番目は23小節目から33小節目、12人のヴァイオリン奏者が12声のソリスティックなパートを弾く部分。各奏者はスル・ポンティチェロで複雑なリズムのパート(しばしば小節線を跨ぐ連符が現われる)を弾く。そのテクスチュアは音楽を聴きながらスコアを目で追うことすら不可能なほど錯綜しているが、耳で聴くとまるで薄いガラスの破片がきらきらと天から落ちてくるかのように美しい。二つ目は47小節目から57小節、今度は10挺のヴィオラと2台のコントラバスが、先程と同様、スル・ポンティチェロで錯綜した音楽を奏でる。3つ目は118小節目から128小節目、2本のフルートと1本のアルト・フルート、2本のオーボエと1本のイングリッシュホルン、2本のクラリネットと1本のバスクラリネット、ホルンに2本のファゴット、計12本の管楽器によって同様の音楽が繰り広げられる。それらを挿む4つの部分は非常にエネルギッシュな音楽であり、十二音技法を採用してからこの変奏曲までの諸作に特徴的な室内楽的手法はやや遠ざけられ、オーケストラのマッシヴな響きを活かす書き方がなされている。作曲者が80歳を超えて、最後の最後にめらめらと烈しい創作の炎を燃え上がらせたかのようだ。クラフトの鋭利な演奏も素晴らしい。

1965年から66年にかけて書かれた「レクイエム・カンティクルス」はストラヴィンスキー最後の傑作といってよいと思います。1966年10月8日、ロバート・クラフトの指揮によりプリンストン大学で初演されています。この後書かれたものとしては、ピアノと歌のための「ふくろうと猫」にフーゴー・ヴォルフとバッハの編曲くらいなもの。作品はヘレン・ブキャナン・シーガーの追悼のために書かれています。この人のことは良く分かりませんが、プリンストン大学のHPの中のヘレニズム研究という頁にその名が出てきます。作曲者自身はこの作品を「ポケット・レクイエム」と呼んでいたそうだが、レクイエムとはいうものの、入祭唱(Requiem aeternam)の前半がなく、キリエもサンクトゥスも無い等、テキストは短く切り詰められています。オーケストラ、合唱とも先程の「変奏曲」に見られたような極端な複雑さは排除されており、ある種の平明感、透明感がもたらされています。全体は9つの部分に分かれていますが、第1曲プレリュード、第5曲インターリュード、第9曲ポストリュードで二つの合唱曲とひとつのソロ曲のセットをシンメトリカルに挿む構造。
1.プレリュード
弦5部。弦の同音反復の刻みと、ソロの弦楽器が不安な歌を歌う部分が、各々非対照に拡大しながら交替する。
2.EXAUDI
フルート群とハープ、弦を中心とするオーケストラは極めて簡潔な書法。合唱も簡素で大変美しい。
3.DIES IRAE
弦・ピアノ・ティンパニの烈しい導入に続いて、金管群と合唱。このセットが何度か繰り返された後、フルート群、木琴とピアノ、2トロンボーンに合わせて合唱がパルランドで語る。最後に冒頭のセットが現われる。
4.TUBA MIRUM
2トランペットとトロンボーンとバスのソロ。終わりに2ファゴット。これも簡潔な楽章。
5.インターリュード
アルト・フルートを含む4本のフルートと4本のホルン、ティンパニの美しい和音の繰り返しが、「管楽器のためのサンフォニー」を思い起こさせる。4本のフルートによる四重奏の中間部を経て再び和音のテーマ。
6.REX TREMENDAE
簡素な四部合唱。対位法的な書法と同音反復的な要素との対比。
7.LACRIMOSA
動的・メリスマティックなアルト・ソロと、簡素でスタティックなオーケストラとの対比。
8.LIBERA ME
これは衝撃的な音楽だ。4人のソリストと、パルランドで語る合唱、そして4本のホルン。この不穏な響きはそれまでの音楽に無かったもの。同音反復を主とするシンプルな音楽だが、その伝統に対する破壊力は凄まじい。
9.ポストリュード
最後は天上の音楽。ホルンのオルゲルプンクトの上に、楔をうちこむような4フルート、ピアノ、ハープの和音。それにつづくチェレスタ・鐘・ヴィブラフォンによる天上的な音楽。このセットが3たび繰り返され、最後は楔が3度打ちこまれて終わる。
上記のとおり、音楽のテクスチュアのみならず、形式的にも簡素なものを志向しているのは明らかですが、しかしそこから得られる感動は並々ならぬものがあります。演奏も素晴らしい。クラフトの指揮、グレッグ・スミスの指導による合唱団のレベルの高さには舌を巻く思いがする。


さて、全部で22枚を聴き終えて、もう少しだけ書きたい事があるが稿を改めて次回に回したい。
by nekomatalistener | 2012-10-07 19:40 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)