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ブリテン 「ピーター・グライムズ」 作曲者指揮コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団(その2)

もう今の若い子、ヘルタースケルターときいてビートルズを真っ先に思い浮かべるってなこともないのだろう。でもビートルズのヘルタースケルター、今聴いても衝撃的なくらいかっこいい。





ブリテンの音楽そっちのけで、もう少し脱線めいた話を・・・。「ピーター・グライムズ」のリブレットを読んでいて、今一つ実態の判らない言葉が頻出します。一つはapprentice、もうひとつはworkhouseという言葉。前者は「徒弟」、後者は辞書を引くと「貧民用の収容作業施設」と書いてあるが、リブレットを見る限りいわゆる孤児院のようなものか、と思われます。ピーターはこのworkhouseからapprenticeを買ってきて、自分の仕事を手伝わせているという訳です。ピーターの身を案じる心優しい寡婦エレンは、自ら新しい徒弟をピーターの為に調達しますが、村人の反応はこれから重労働に就く少年への同情ではなく、エレンが嫌われ者のピーターに過度の同情を寄せるあまり自らの評判を落とすことに対する懸念と思われます。大勢いる脇役で、ボブ・ボールズという男だけが、
Is this a Christian country?
Are pauper children so enslaved
That their bodies go for cash?
と、この人身売買めいた行いを非難しますが、ボールズ自身は”Methody wastre”(メソジストの屑)と呼ばれており、決して人々の共感を得ていません。
ご存じの方も多いと思いますが、18世紀の終わりから19世紀の初め、まさにピーター・グライムズの時代にイギリスで起こった産業革命において顕著なことは「児童労働」の存在でしょう。19世紀初頭の熟練成人労働者の平均賃金は20~25シリングであったのに対して、紡績工場の糸つなぎ工や清掃工に携わる児童労働者のそれは平均3シリングであり、これが工場労働者の実に4割を占めていたといいます。しかも彼らの相当部分は工場の正規雇用ではなくて、職工の私的な雇用、まさに徒弟として劣悪な労働条件に甘んじており、その職種は工場だけでなく炭坑作業にまで及んでいたそうです。彼らの労働実態は悲惨極まるものだったようですが、ある意味増大する貧困層の子女を社会の経済サイクルに取り込む上で、当時としては必要不可欠なものだったのでしょう。
この産業革命に遡ること一世紀、あの「ガリヴァー旅行記」のジョナサン・スウィフトが1729年に著した著作に『貧家の子女がその両親並びに祖国にとっての重荷となることを防止し、且社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案』(邦訳岩波文庫『奴婢訓』所収、深町弘三訳)というのがあり、スウィフトはその中で当時アイルランドで深刻な社会問題となっていた貧民児童の出生数を毎年12万人と試算し、その内2万は繁殖用に残しておいて、残り10万を食用として富裕層に提供するという提案を行なっている(皮肉なのか大真面目なのか判らないが)。食用としては満1歳頃が最も美味であるとして、それまでに母親が要する養育費に始まり、その調理法まで微に入り細に入り書き連ねています。1世紀後のイギリスの貧民問題は、産業革命のせいでアイルランドの比ではなかったと思いますが、児童労働はこのスウィフトの提案を多少なりとも人道的に緩和した上で、この問題を解決しようとしたものだとも言えそうです。オペラの舞台となる地方都市オールドバラで、この貧民問題がどれほど苛烈なものだったのかは判りませんでしたが、このオペラを聴いて感じる一種の違和感、少年に対する人々のシンパシーの薄さについて少し考えてみたという次第。

さていよいよブリテンの「ピーター・グライムズ」の音楽語法について感じたことを記しておこう。因みにこれまでブリテンを真剣に聴いた記憶はあまりありません。テレビで観た「戦争レクイエム」(随分前にF=ディースカウとユリア・ヴァラディが出演していたもの)と、あとは中学だか高校だかで聞かされた「青少年のための管弦楽入門」、知人のアマチュア・オケの演奏会で聴いた「シンプル・シンフォニー」くらいなものです。そのどれもが既に忘却の彼方に消えています。とてもじゃないが、ブリテンの音楽語法云々と大上段に構えて御託を並べる資格はないことをお断りしておきます。

①節約された、または禁欲的な管弦楽法
歌手が歌うところはとにかくオーケストラが薄く書かれているようだ。これは一つは英語が客席にきちんと届くように、という配慮でしょう。イタリアやドイツの、大音響をバックに太ったプリマドンナが吼えまくるタイプの音楽とは全く異なった世界という感じがしますが、それだけではない。通常ならばここぞとばかりにオーケストラを鳴らし、観客の感動を煽るべきところで、オケが完全に沈黙してしまう。例えばプロローグ後半、ピーターとエレンの二重唱。あるいは第3幕第2場、ピーターのモノローグからバルストロードによる自殺の勧告に至る長い場面。特に後者の最後、
Balstrode (goes up to Peter and speaks)
Come on, I’ll help you with the boat.
Ellen
No!
Balstrode (speaking)
Sail out till you lose sight of land, then sink the boat.
D’you hear? Sink her.
Goodbye Peter.
の部分は歌うことすら止めて話すだけ。芝居のクライマックスなのに。こんなオペラ、ちょっと他に思いつきません。これは作曲者の含羞と野心の綯い交ぜになった心理だろうか。よりによってこんなところでお涙頂戴の音楽を書きたくないという気持ちと、それでいて観客を最大限に感動させようという野心。ともかく後者は大成功していて、CDで聴いていても恐ろしさに身も凍り、緊張が極限にまで高まった後に、おずおずとオーケストラが海辺の夜明の音楽を鳴らし出すと深い感動に襲われます。天才的、と言っていいのかどうか判りませんが、とにかくえらいものを聴いてしまった、と率直に思います。

②雄弁極まりない間奏曲
ブリテンのオーケストラ書法の確かさは6曲ある間奏曲で遺憾なく発揮されます。そのいずれも極めて優れた音楽ですが、そこに濃厚に漂う海の気配が本当に素晴らしいと思います。特段描写的という訳でもないのに、潮騒や風の音、光の濃淡まで感じさせる。オーケストラによる海の気配の表現というと、いつも私はヴェルディの「シモン・ボッカネグラ」第1幕のアメーリアのアリア、あるいはベルリオーズの「トロイの人々」のディドーとエネアスの二重唱を思い出すのですが、この間奏曲は二人の天才の作品の系列に附け加えてもいいと思います。

③ピーターとエレンの歌の抒情性
オペラは基本的にアリアやレチタティーヴォといった区分なく進行し、このオペラがベルクの「ヴォツェック」に深くインスパイアされたという事情を物語っています(その意味で、ショスタコーヴィチの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」とも近い位置に立っています)。しかし、主役の二人については、まるでプッチーニのオペラのように、独立させて歌える体裁をとった歌が随所に散りばめられています。それはいずれも抒情性の勝ったもので、アリアというよりはSongと呼ぶに相応しいものです。例えば第1幕第1場のエレンの歌うLet her among you without fault(あなた方の中で罪のない者だけが)や、第2場でピーターの歌うNow the great Bear and Pleiades(おおぐま座とプレアデスが)、第2幕第1場のエレンのGlitter of waves(波のきらめきは)、同第2場のピーターのIn dreams I’ve built myself some kindlier home(夢のなかで俺は家を建てた)、第3幕エレンEmbroidery in childhood was(子供のころ刺繍は)等々、メロディーメーカーとしての類まれな才能を示して余りあるものがあります。別にブリテンがイギリス人だから、というのでなく、(歌詞が英語だからというのはあるが)、アンドリュー・ロイド・ウェッバーに真っすぐ通じているような、そういった才能を感じます。

ここでちょっと脱線。エレンの歌の、
Let her among you without fault
Cast the first stone
という台詞はもちろんヨハネの福音書第8章の引用で、自分をキリストになぞらえている訳ですが、彼女がいかに心のきれいな女性であろうとも、ピーターを男として愛するのではなく、キリスト教徒としての憐れみから愛そうとしたことが最初の大きな躓きであったように思います。皮肉にもピーターは、バルストロードから金や財産など無くてもエレンはお前を受け入れるだろう、と言われて、逆に「憐れみからじゃ嫌だ」と叫びます。
Balstrode
Man – go and ask her
Without your booty.
She’ll have you now.
Peter
No – not for pity!...
このリブレット、私は文字通り猫またぎの名に恥じないくらいには読みこんだつもりですが、本当に良く出来た文学的価値の高いものだと思います。

④俗物たちの俗っぽい音楽と群衆の威圧感
バルストロードを除いて大勢の脇役は多かれ少なかれ、専ら好奇心からピーターを疑い、追い詰める俗物たち。彼らの歌に附けられた音楽は概ね諧謔的であったり通俗的であったりする。例えば冒頭の判事スワローのスケルツォ風の審問の場や、第3幕冒頭、スワローと二人の姪のフォックストロットなど。これが図らずも全体的な観点からは音楽が深刻になり過ぎるのを防ぎ、ピーターとエレンの悲劇を浮き立たせているとも言えます。
それとは別に名前も与えられていない村人、群衆の合唱がオペラでは極めて重要な役割をしています。その集団の性格は一言で言うなら付和雷同。彼らは無邪気にピーターを追い詰め、結果的に徒弟の事故死を招く結果となりますが、そのマッシヴな合唱の威圧感は凄まじく、特に第3幕第1場終盤の合唱はそれまでのジャズ風のフォックストロットと不気味な半音階進行が合わさって圧倒的威力を発揮し、聴いていて鳥肌が立つほど。その劇場的効果は目覚ましく、舞台を観たらどう思うのか、とても楽しみ。

またまた脱線ながら、登場人物の中に「二人の姪」というのが出てきて、セドリー夫人と並んで俗物代表とでもいうべき歌を二重唱で歌う。双子なのかどうかも判らない二人ですが、いつも寄り添って二人で歌う姿はどう見ても双子。双子といえばギリシャ・ローマの昔から神話には夥しい双子が登場して、神秘や超自然的世界を体現するのだが、こちらの双子は完全に神秘性が剥奪されている。にもかかわらず、なぜかこの二人が出てくるとざわざわと妙に落ち着かない。何と言えばいいか、イメージとしてはあのダイアン・アーバスの代表作の双子の姉妹の写真、というより、それを引用したキューブリックの映画「シャイニング」の双子の映像をいやでも思い出します。この姪たちの位置づけというのは正直よく判らないのですが、一抹の禍々しさを醸し出しているのは確か。

通俗的、と言うことに関してもう一点。第2幕第1場、ピーターが自分を責めるエレンに激昂し、平手打ちを喰らわせて歌う、So be it! – And God have mercy upon me!に附けられた音楽、これが続く村人たちの合唱、ピーターとエレンの痴話喧嘩かと喜びはしゃぎまくる下衆な群衆の歌の旋律にモディファイされますが、同じ旋律がその後の間奏曲Ⅳ「パッサカリア」の沈鬱な音楽となり、さらに第2幕の幕切れ、少年が事故死した後の張りつめた音楽の終結部となります。このあたりのブリテンの手腕は並々ならぬものがあって、本当に感服します。汲めども尽きぬ、とはこのこと。

以上、脱線だらけでさぞ読み難かったと思いますが、4つの切り口で「ピーター・グライムズ」の音楽を分析してみました。初演の1945年という時代を考えると、語法としては些か保守的に過ぎる感じもしますが、かといって判りやすい、とか、親しみやすい、という印象はそれ程ありません。むしろ、今回の駄文を書くにあたっては結構な回数繰り返して聴いて、ようやくここまでイメージを固めたようなところがあります。おそらく歴史に残る傑作というのは、そんなに容易く手の内に入るようなものではないと、改めて音楽の難しさと、それを乗り越えて核心に近附いていく楽しさを同時に味わいました。これから暫らく初台での公演の日まで、この音楽から遠ざかって何かが熟成するのを待とうと思います。

演奏について少しだけ。比較の対象も知らないのにこんなことを言ってはいけないが、本当にこれは唯一無二の演奏ではないでしょうか。歌手も脇役の一人一人に至るまで真実に満ち溢れた歌唱。本当はこんな陰惨なオペラ、あまり繰り返して聴きたくもないのだが、聴き始めるともう止めることができません。参りました。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2012-09-25 23:12 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ブリテン 「ピーター・グライムズ」 作曲者指揮コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団(その1)

”猛反発枕”でyahoo検索したら32,200件もあってがっかり。



10月から始まる新国立劇場新シーズン、トップを飾る「ピーター・グライムズ」の予習をしています。まずは音源の紹介から。

  ベンジャミン・ブリテン「ピーター・グライムズ」全曲
  ピーター・グライムズ:ピーター・ピアーズ
  エレン・オーフォード:クレア・ワトソン
  バルストロード:ジェームズ・ピーズ
  ホブソン:デイヴィッド・ケリー
  スワロー:オーウェン・ブラニガン
  セドリー夫人:ローリス・エルムス
  アーンティ:ジーン・ワトソン
  姪1:マリオン・スタッドホルム
  姪2:イリス・ケルズ
  ボブ・ボールズ:レイモンド・二ルソン
  牧師:ジョン・ラニガン
  ネッド・キーン:ジェラント・エヴァンス
  ジョン:マーカス・ノーマン
  ベンジャミン・ブリテン指揮コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団・合唱団
  1958年12月録音
  CD:DECCA4757713

この1945年に初演されたオペラが、ジョージ・クラブGeorge Crabbe(1754-1832)のバラッド(物語詩、譚詩)「町」”The Borough”(1810年出版)の中の”Peter Grimes”を題材としていること、モンタギュー・スレイターの台本から少年愛的な描写を作曲者がカットしたことはwikipediaを見れば判ることですが、クラブの原作は日本では殆ど知られていないどころか、私の知る限り翻訳すらなされていないようです。作曲者が19世紀初頭に書かれた原作のどこに霊感を得たのか確認することは決して無駄なことではないと思います。幸いなことにこの原作はProject Gutenbergというサイトで容易に検索することが出来ました。
http://www.gutenberg.org/dirs/etext04/gcrf10h.htm
オペラのリブレットも全く一かけらの救いもない物語ですが、オペラに登場するピーター・グライムズが単なる粗暴な漁師ではなくて、人間的な感情を持ち、観客の感動をもたらす人間であるのに対し、原作のピーターは父に反抗してひたすら悪の道に染まり、最期は父の亡霊に苛まれて死ぬという設定。400行近い長詩は読むのにかなり骨が折れましたが、ざっとこんな内容。

ピーターの父は貧しい漁師だったが、敬虔でもの静かな老人であった。一人息子のピーターは父に烈しく反抗し、手を上げることすらあったが、父が死ぬと自分の行いを恥じて烈しく泣いた。ピーターは貧しく、漁だけでは暮らしていけないので次第に盗みを憶えた。悪行が募るに従い彼はますます人嫌いになっていった。ある日ピーターは孤児院から少年を買って徒弟にし、衝動のままに彼を折檻した。少年はろくに食事も与えられず、必要に迫られて嘘をつき盗みをしたが3年後に死んだ。町の人々はピーターを疑ったけれど彼が少年を殺したという証拠はなかった。ピーターは再び徒弟の少年を買ったが彼は船のマストから墜ちて死んだ。この時も人々は疑ったがどうすることもできなかった。以前にも増して良心を失ったピーターは3人目の少年を徒弟としたが、烈しい仕事とピーターの折檻によって少年の足は不自由になった。ある日、ロンドンに魚を売りに行った帰りの船が嵐に遭い、少年が死んだ。ついにピーターは法廷に召喚されたが最後までしらを切りとおした。判事はピーターに少年を雇うことを禁じた。それ以降嫌われ者のピーターは一人で漁をすることになり、孤独のなかであらゆるものを呪い、毒づくようになった。病を得たピーターは教会附きの病院に連れてこられた。人々はピーターへの疑いは晴らしていなかったが彼の運命には同情していた。司祭が呼ばれ、ピーターの懺悔が始まった。ピーターは漁の最中に海で父と少年たちの亡霊を見た。彼らは来る日も来る日もピーターを苛み、船から海に飛び込むよう唆すのだった。死の床で人々に囲まれ、ピーターは「奴らが来た」と叫んで死んだ・・・・・

文学的素養に乏しい私が言うのもなんだが、私にはあまり出来のよいバラッドには思えなかったのですが、ブリテンがこの物語の何処に惹かれたのか、ポイントは父との確執(というか、父性に対する嫌悪)と少年への折檻の嗜虐的な描写の2点ではないでしょうか。ブリテン自身がこのバラッドを読んで衝撃を受けたにも関らず、オペラでは父親に関する描写が一切出てきません。その代りに退役した船長であるバルストロードという人物がピーターを諌め、最後は彼に自殺を促します。私はオペラを聴きながら、最初の内どうして作曲家はピーター・グライムズをテノールの役としたのか、イメージが合わず不思議な感じがしていましたが、原作を読み、バルストロードに投影された父性への嫌悪を重ね合わせることで、これは「罰を下す父=バリトン」と「怒れる息子=テノール」という構図に則っているのだということが判りました。バルストロードを単に厳しくも慈愛に満ちた老人と捉えるだけではなく、ピーターのアンビヴァレンツの対象、フロイト流にいえば「去勢する父」と捉える見方もできるわけです。
少年に対する虐待については、もちろん原詩ではあからさまにそれが性的欲望と結びついたものだとは書かれていませんが、読めば当然過ぎるほどそうだと判るように書かれています。Wikipediaにあるスレイターの初稿の「少年愛的な描写」がどのようなものか判りませんが、ブリテンの「検閲」は自らの同性愛的性向の隠蔽というよりは、この物語を舞台にかける為に必要欠くべからざる措置であったというべきでしょう。戦後、少なくとも舞台の上では様々なタブーが許されるようになったとは言え、少年に性的暴行を加えて死に至らしめるというのではさすがに具合が悪いでしょうから。もっともリブレットを注意深く読むと、「検閲」を免れた箇所が幾つか見つかります。プロローグの法廷の場面、判事のスワローの台詞、
There's something here perhaps in your favour. I’ m told you rescued the boy from drowning
in the March storms.
スワローは単にピーターが少年を虐待しているのではなく、そこに歪んではいるが紛うかたない愛があるのを(恐らく無意識の内に)感じています。だからこそ、スワローはピーターに次のような審判を下します。
Peter Grimes, I here advise you – do not get another boy apprentice. Get a fisherman to
help you – big enough to stand up for himself.
この審判はピーターが有罪になるのを期待していた村人をがっかりさせますが、少年ではなく大人の徒弟を雇え、というスワローの審判は実に的確であったというべきでしょう。実際、ピーターの無実を信じるエレンが別の少年を連れてきたことから悲劇が始まったのですから。このオペラを観る者はきっとピーターの不運に同情し、彼を取り巻く不条理に怒り、最後は深い感動を得られるはずですが、私はたとえへそ曲がりと言われようと、このオペラの根底に隠されている、ある忌まわしいもの、不気味なものから目を逸らせてはならないと思います。このオペラに込められたブリテンのヒューマニズムは本物だとしても、それだけを見ていたのでは、あまりにも皮相的な理解と言わざるを得ないと思います。

ブリテンの音楽そのものについては次回に。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-09-23 19:39 | CD・DVD試聴記 | Comments(4)

アルディッティ弦楽四重奏団公演 「古楽と現代の饗宴」

刷り込みというのは恐ろしくて、未だに夜の女王のアリアを聴くと戸川純のレーダーマンを思い出す。




アルディッティ弦楽四重奏団の演奏、いやぁとにかくすごかった。彼らの演奏を生で聴くのは初めて。もちろんリゲティやH.W.ヘンツェの弦楽四重奏曲を収めた独WERGO盤などではすでに馴染みではありましたが、その音の美しさはCDではなかなか伝わらない彼らの美点であろうと思います。それは伝統的な意味での「美しい響き」だけでなく、ファーニホウ以下の作品に頻出するコル・レーニョやスル・ポンティチェロなどの特殊奏法のもたらす軋むような響きも含めて「美しい」と感じさせるものがありました。ただ、贅沢極まりないのだが、美しすぎるが故の物足りなさがあったのも事実。

  2012年9月16日 @石橋メモリアルホール  
  カルロ・ジェズアルド(ヒルダ・パレデス編曲):悲しや私は死ぬ*
  ジョン・ダウランド(同上):暗闇に私は住みたい*
  カルロ・ジェズアルド(同上):大胆な小さい蚊が*
  ブライアン・ファーニホウ:弦楽四重奏曲第6番(2010)
  (休憩)
  ジョン・ダウランド(同上):流れよ我が涙*
  カルロ・ジェズアルド(同上):美しい人よ、心を持ち去るのなら*
  藤倉大:弦楽四重奏曲第2番《フレア》(2010)
  ヒルダ・パレデス:月狂いの三つの歌*(2009)

  アルディッティ弦楽四重奏団
  (アーヴィン・アルディッティ、アショット・サルキシャン、ラルフ・エーラース、ルーカス・フェルス)
  ジェイク・アルディッティ(CT)*

ルネサンス時代のマドリガルやリュート伴奏歌曲と現代モノ(いずれも日本初演)との組合せという曲目がまず目を惹くが、ダウランドもジェズアルドもかなり大胆な編曲がなされています。最初いきなり高音のフラジョレットで始まるので、てっきり曲順を変えたのか、とおもったくらい。後半のダウランドの「流れよ我が涙」はさすがに有名曲だけあって、編曲も少し手加減した感じだが、とても美しい。これは万人受けする編曲だろうと思う。最後のジェズアルドも出だしは普通かなと思ったが、すぐにスル・ポンティチェロに変わって不思議な響きを醸し出す。プログラムにはカウンターテナー(ジェイク・アルディッティ)の歌が附くものと附かないものがあるようだったが、実際にはダウランドとジェズアルドは全て歌附きで演奏された。

プログラム前半の最後はイギリスの作曲家ファーニホウの30分ほども掛かる弦楽四重奏曲第6番。全曲に亘って饒舌な特殊奏法が炸裂する。一度聴いただけではもちろん作品の構造原理など判るわけもないが、とにかくかっこよくて、聴いていて少しも飽きることがない。もっとも、ここで用いられている特殊奏法の大半は、新ウィーン楽派以降60年代の前衛の旗手たちによって開拓され尽くしたものとそんなに変わるところはない。音楽の造りには意外なほど「演奏会」という枠組みにすんなりと馴染んでしまうお行儀のよさも感じられ、これが良くも悪くもファーニホウの持ち味か。それにしてもここで用いられている奏法は、さぞかし演奏至難なものばかりだろうと思うが、アルディッティSQにとっては朝飯前なのだろうか。まるで呼吸するみたいに楽そうに弾いていて、見事だとは思うが、その分手に汗握るライブならではの臨場感は幾分殺がれてしまったようにすら思う。いや、実際は大変な演奏が目の前で繰り広げられていたのだが・・・。

後半の藤倉大の弦楽四重奏曲第2番≪フレア≫もまた、演奏至難な特殊奏法に満ち溢れた作品。こうして若手の作曲者が所謂大衆の嗜好など歯牙にもかけず、新ロマン主義だの新調性主義だのといったものに目もくれずに前衛的な作品を書き続け、それが評価されてこうして世界で消費されていることは実に素晴らしく、心強いことだと思う。だがその音楽はファーニホウと同じく、妙にお行儀がよくてスタイリッシュな感じがする。絶対にスキャンダルにならないタイプの作品。長さも20分ほどと手頃だし、現代音楽のファンの心を掴むだけの力量もあるのだろうと思うが、(アルディッティSQの演奏そのものも含めて)こんなに品よく収まるべきところに収まっていいのだろうか、というのが率直な感想。ただ、繰り返しになるが私は若い作曲家がクラシックというそもそも食えない世界で生きていくと決めた以上は、まずは今まで誰も書いたことのない音響を追求すべきであって、まるで愚昧な大衆に媚びるような調性音楽など後回しにしたらよかろう、と思っている。その意味でこの作曲家の潔さは気に入っている。まぁ、『情熱大陸』のおかげで一定の知名度を得たという幸運があって、少なくとも日本ではこんな作品でも客が呼べる、という事情もあるのだろうが。

ヒルダ・パレデスの「月狂いの三つの歌」も面白い作品でした。タイトルも、歌附き室内楽というスタイルも、シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」を連想しないわけには行かないのだが、意外なほど表出力に富んだ力作だと思いました。第2曲目だったと思うが、弱音で空間にふわふわと漂いながら各楽器が対話をする箇所はとても美しくて、そのアタックが全く無い音の入りの精妙さには唖然とするほど。またコル・レーニョやノン・ヴィブラートが少しも騒音めいた響きにならずに極めて美しく響くのは冒頭に書いた通りだが、一回聴いただけで良くは判らないながら、彼らの演奏スタイルがこの作品にとてもよく合っていると感じました。ファーニホウでは些か美しすぎて毒が無さ過ぎと思えた彼らの演奏と、ラテンの血を感じさせるパレデスの激しい表出性がうまく結合した感じだ。実は作曲者はアーヴィン・アルディッティの妻であり、ジェイクの母であるとのことだが、この事実を知らずに(余計な先入観を持たずに)作品を聴いたことは幸いであったと思います。ジェイクのカウンターテナーは、今回のプログラムだけでその力量を云々する力は私にはない(ヘンデルなどを聴かないことには上手いも下手もないだろう)が、彼のおかげで公演が随分華のあるものになったのは間違いないでしょう。

さて、現代モノとルネサンス音楽とを併置する試み、これが成功していたかというと、実は期待していたほどの面白さは感じられなかった、というのが正直な感想。かつてポリーニ・プロジェクトでジェズアルドのマドリガルとルイジ・ノーノの「ディドーネの合唱」を並べた時は、その各々をオリジナルな形で演奏することで400年の時空のパースペクティヴを強烈に感じさせたものと思うが、これは合唱という古い演奏形態だからこそ可能な体験だった訳である(私はこれを生で体験したのではなくて、テレビでちらっと観ただけなのだが)。弦楽四重奏という形態は言うまでもなくたかだか300年程の歴史しかなく、当然ルネサンスと現代を併置するには「編曲」という過程が介在するので、400年の懸隔を感じることによる感動は薄められてしまうのだろう。実に魅力的、刺激的なプログラムだと思って大いに期待していたのだが、若干の肩すかしを味わったのは確かだ。しかしながら現代作品で客を呼ぶにはこういった工夫も有意義なことだろうと思う。
by nekomatalistener | 2012-09-18 23:35 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ストラヴィンスキー自作自演集WORKS OF STRAVINSKY (その21)

8月31日のサントリーホールにおけるクセナキス「オレステイア」公演、仕事で行けなかったのだが悔いが残る。様々なブログでの絶賛の嵐を見ると、なんとしてでも行くべきだった・・・



CD21枚目は”Sacred Works Vol.2”。

 ①カンティクム・サクルム-聖マルコをたたえて(1955/1956初演) [1957.6.19録音]
 ②イントロイトゥス(T.S.エリオット追悼)(1965/1965初演) [1966.2.9録音]
 ③説教、説話と祈り(1960~61/1962初演) [1962.4.29.録音]
 ④アンセム「鳩は空気を引き裂いて降りる」(1962/1962初演) [1962.4.29.録音]
 ⑤トレニ(預言者エレミアの哀歌)(1957~58/1958初演) [1959.1.5&6.録音]

 
 ①リチャード・ロビンソン(T)、ハワード・チジャン(Br)、ロサンゼルス祝祭合唱団・交響楽団
 ②グレッグ・スミス・シンガーズ、コロンビア室内Ens.
 ③シャーリー・ヴァーレット(Ms)、ローレン・ドリスコル(T)、ジョン・ホートン(語り)
  CBC交響楽団(合唱はクレジットがないが録音日より④と同じと思われる)
 ④トロント祝祭合唱団(合唱指揮:エルマー・アイスラー)
 ⑤ベサニー・ビアズレー(Sp)、ベアトリス・クレブス(A)、ウィリアム・ルイス(T)、ジェームス・ウェイナー(T)
  マック・モーガン(Br)、ロバート・オリヴァー(Bs)、ザ・スコラ・カントールム(合唱指揮:ヒュー・ロス)
  コロンビア交響楽団

ストラヴィンスキーの最晩年、十二音技法を取り入れてからは正に「傑作の森」と言ってよいと思いますが、正直なところごく一般的なリスナー(いわゆるクラシック音楽の愛好家)からすればこれほど敷居の高い作品群もないような気もします。このあたりになると日本語版のwikipediaには殆ど情報がないようですので、少しだけ作品の背景なども書いておきます。
ヴェネツィア現代音楽ビエンナーレの委嘱により1955年に書かれた「カンティクム・サクルム」は、サン・マルコ聖堂の5つのドームに倣ってdedicatioと名づけられたヴェネツィア讃歌に続く5つの楽章から成っています。テキストはウルガタ聖書によるラテン語。歌詞はマルコによる福音書、申命記、旧約雅歌、詩篇、ヨハネによる福音書の継ぎはぎですが、冒頭のDedicatioのみ出典が判りませんでした。
テノール、バリトン、混声合唱、オルガンを含むオーケストラ。オケはかなり大規模なものですが、弦はヴァイオリンとチェロが無く、コントラバスとヴィオラのみの編成。多彩な管楽器もクラリネットとホルンを欠いており、フルートは第2楽章のみ。詩篇交響曲も良く似た編成でしたが、官能的な音響というものを注意深く排除した結果でしょう。また、トゥッティは第1楽章と第5楽章のみで、その他はごく僅かの楽器による室内楽的な書法。
序章Dedicatio”Urbi Venetiae”「ヴェネツィアの街に向かいて、その守護者、使徒なる聖マルコを讃へよ」。テノールとバリトンのソロ、3本のトロンボーンによる短い序章。ここはへ長調とも教会旋法ともとれる部分ですが、終わりはGとDの完全5度で終止します。
第1楽章Euntes in mundum「全世界を巡りて凡ての造られしものに福音を宣傅(のべつた)へよ(マルコ16:15)」。十二音技法採用前のストラヴィンスキーの書法による壮麗な合唱。途中2度、オルガンによるリトルネロが挿入されます。
第2楽章Surge,aquilo「北風よ起れ 南風よ來れ 我園を吹てその香氣を揚(あげ)よ ねがはくはわが愛する者のおのが園にいりきたりてその佳き果を食(くら)はんことを(雅歌4:16)。わが妹わが花嫁よ 我はわが園に入り わが沒藥と薫物(かをりもの)とを採り わが蜜房と蜜とを食ひ わが酒とわが乳とを飮(のめ)り わが伴侶等(ともだち)よ 請ふ食へ わが愛する人々よ 請ふ飮あけよ(雅歌5:1)」。ここから完全に十二音技法によって書かれています。テノール・ソロとフルート、コールアングレ、ハープ、3台のコントラバス・ソロという室内楽の繊細な響きが実に美しい。
第3楽章Ad Tres Virtutes Hortationes「汝心を盡し精神を盡し力を盡して汝の神ヱホバを愛すべし(申命記6:5)。愛する者よ、われら互いに相愛すべし。愛は神より出づ、おほよそ愛ある者は、神より生れ神を知るなり(ヨハネの第一の書4:7)。ヱホバに依頼むものはシオンの山のうごかさるることなくして永遠(とこしへ)にあるがごとし(詩篇125:1)。我ヱホバを俟(まち)望む わが霊魂はまちのぞむ われはその聖言によりて望をいだく(詩篇130:5)。わがたましひは衛士があしたを待にまさり 誠にゑじが旦(あした)をまつにまさりて主をまてり(詩篇130:6)。われ大になやめりといひつつもなほ信じたり(詩篇116:10)」。テノールとバリトンのソロ、合唱。ここでもオーケストラの各楽器は一斉に鳴らされることはなく、極めて禁欲的な使われ方をしています。合唱の入りは精緻極まりないカノンで書かれており、ちょっとだけ簡略化した譜例を掲げておきますが、テノールが基本音列によってDiliges Dominum Deumと歌い出すと、トランペットが半音下で倍の音価でこれを追い掛け、次いでアルトが半音上の反行形、ソプラノが完全2度上の基本形でカノンを形成しているのがお判りだろうと思います。
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この精緻極まりないカノン、スコア分析の面白さもさることながら、耳で聴いても息を飲むような精妙な響き、美しい対位法の綾を感じることが出来ます。ここにはストラヴィンスキーのバッハ研究の最良の成果が表れていると思います。
第4楽章Brevis Motus Cantilenae「イエス言ひたまふ「為し得ばと言ふか、信ずる者には、凡ての事なし得らえるるなり」その子の父ただちに叫びて言ふ「われ信ず、信仰なき我を助け給へ」(マルコ9:23-24)。第2楽章と対をなすバリトンと合唱の室内楽。オーケストラはほぼフルで使われていますが、トゥッティはなく、ごく節約された書法。ここでも途中合唱によるフーガが出てきます。
第5楽章Illi autem profecti「弟子たり出でて、あまねく福音を宣傅へ、主も亦ともに働き、伴ふところの徴をもて、御言(みことば)を確(かた)うし給へり(マルコ16:20)」。第1楽章の再現で、この壮大な作品はシンメトリカルに終止します。
オーケストラ、合唱団とも音楽祭の為の寄せ集めだと思いますが素晴らしい演奏です。指揮も、このあたりになると付き人のロバート・クラフトの助けがあってのことだろうと思うけれど実に精緻。何度でも言う、ストラヴィンスキーの指揮を「ヘタウマ」なんぞという輩ども、でてきて頭を丸めなさい。
宗教曲、特にラテン語のそれの歌詞など気になさらない方も多いかと思いますが、私は音楽における言葉の重要性というものを堅く信じていますので、ついこんな作品でも何が歌われているのか知りたくなるのです。CDには対訳がついておらず、海外のサイトも調べましたが適当なものが見つかりません。結局自分で引用データから歌詞を再構成してみました。自分自身の備忘の為ということもあって随分長々と書いてしまいました。

T.S.エリオットの追悼に書かれた「イントロイトゥス」は、男声合唱と、ハープ、ピアノ、タムタム、ティンパニ、ヴィオラとコントラバスのソロの為に書かれています。歌詞はラテン語によるレクイエムの「入祭唱Introitus」ですので、これは解説する必要はないでしょう。ピアノとハープは幾つかの和音を鳴らすだけ。これまた禁欲的な、というよりこの上なく厳しい響きの作品。合唱はところどころソット・ヴォーチェのパルランドで囁くように歌う。エリオットへの個人的な追悼の想いがこのような作品を書かせたのでしょうが、ほとんど聴く者を拒絶するような峻嶮さには言葉もありません。ストラヴィンスキーのミザントロープここに極まれり、といったところ。

パウル・ザッヒャーの指揮、バーゼル室内管弦楽団によって1962年2月23日に初演された「説教、説話、祈り」については、数あるストラヴィンスキーの作品の中でも最も情報に乏しいものではないでしょうか。海外のものも含めて歌詞の出典の載っているサイトはほぼ皆無といった状況。全編十二音技法で、蚕が繭を作るように精緻に織りあげられた作品。アルトとテノール二人のソリストと語り手、合唱とオーケストラのために書かれていますが、オーケストラはほぼ2管編成で弦は8・7・6・5・4の5部。但し、トゥッティで奏される部分は殆どなく、全編ウェーベルン風の点描手法で書かれています。合唱は4部のそれぞれが所々ニ分されて複雑極まりない対位法をなし、その演奏は極度に困難なものと思われます。語り手は比較的自由に喋る部分と、シュプレッヒシュティンメでリズムを厳格に指定している部分の両方があり、語りから歌へと自在に繋がっていくように書かれています。この音楽の複雑さ、演奏の至難さというのはちょうどウェーベルンの作品10番台後半の室内楽附きの歌曲から作品20の弦楽三重奏曲に至る複雑さに近いものがあると思います。
第1楽章「説教」の歌詞は次の通り。
 We are saved by hope,
 But hope that is seen is not hope.
 For what a man sees why does he yet hope for?
 The substance of things hoped for is faith.
 The evidence of things not seen is faith.
 And our lord is a consuming fire.
 If we hope for what we see not,
 Then do we with patience wait for it.
いろいろ調べてようやく、これは「ローマ人への手紙」8:24-25、「ヘブライ人への手紙」11:1、12:29を継ぎ接ぎしたものということが判りました。
第2楽章「説話」、語り手と歌手に受け渡されながら語られる歌詞は「使徒行伝」の第6章から第7章、聖ステパノの殉教のくだりを自由に編集したものらしい。
第3楽章「祈り」は1960年に没したジェームス・マクレーン師(この人については情報が殆どありませんが、デンヴァーのThe Church of the Ascensionの司祭をしていた人物にその名がありました)に捧げられていますが、タムタムが鳴り渡る中のアレルヤの祈りは、死の気配に満ちているようにも思われます。容易なことでは近付きがたい、まことに狷介な音楽。聴くほどに魅力の増す音楽ではあるが、これは人気がないのも致し方ないという気がします。歌詞はトマス・デッカー(1570?-1632)の詩から採られているが、Project Gutenbergで検索しても原詩は見つかりませんでした。先程も書いた通り、この作品には極めて情報が乏しいのでこの第3楽章の歌詞も挙げておきたい。
 Oh my god, if it bee Thy Pleasure to cut me off before night.
 Yet make me, my Gratious Sheepherd, for one of Thy Lambs
 To whom Thou wilt say, "Come You Blessed"
 And cloth me in a white robe of righteousness
 that I may be one of those singers who shall cry to Thee Alleluia
演奏については何と言っても二人のソリストが素晴らしいと思う。オーケストラ、合唱ともその演奏の至難さを思えばよくぞここまで、というくらいの健闘。

無伴奏4部合唱の為の「アンセム」は、ケンブリッジ大学が1960年に「あたらしい英語の聖歌集」を作ろうと何人かの作曲家に委嘱したものの一つ。十二音技法による大変美しい作品で、その密やかなアカペラの響きは、当然のごとくウェーベルンの「軽やかな小舟にて逃れよ」Op.2を連想させます。音列に現われる短3度の音程を活かして、最後はあたかもヘ短調に終止するように聞こえるのも、ウェーベルンのOp.2がふわふわと無調の響きをさまよった末にト長調に終止するのと似ています。トロント祝祭合唱団は多分臨時編成の寄せ集めだとは思うが大変けっこうな演奏。こういった現代作品に関しては北欧を中心にもっと精緻な演奏を聴かせる合唱団もあるだろうが、私には十分に美しい演奏だと感じられました。T.S.エリオットのテキストは著作権の関係がどうなっているのかよく分からないので載せません。ただし、この「リトル・ギディング」の中の詩「鳩は空気を引き裂いて降りる」は、原詩・翻訳ともネットで容易に見つかると思います。

6人のソリストと合唱、オーケストラのための「トレニ」は「カンティクム・サクルム」同様ヴェネツィア現代音楽ビエンナーレの為に書かれ、1958年9月作曲者の指揮により初演されました。ちなみに数ヶ月後のパリ初演はピエール・ブーレーズが指揮をしたのですが、この時は適当な奏者が得られず途中で何度も止まるなど惨憺たる出来だったそうで、ストラヴィンスキーはずっと恨みに思っていたとのこと。
歌詞は冒頭の"Incipit lamentatio Jeremiae Prophetae" (ここに預言者エレミアの哀歌始まる)以外はすべて旧約聖書の「哀歌」から抜粋されていますので、大意はそちらをご覧いただきたいのですが、ストラヴィンスキーはこの「哀歌」から第1章、第3章、第5章の一部だけを取り出して曲を付けています。例えば第1曲では第1章第1節「ああ哀しいかな古昔(むかし)は人のみちみちたりし此都邑(みやこ) いまは凄(さび)しき樣にて坐し 寡婦(やもめ)のごとくになれり 嗟(ああ)もろもろの民の中にて大いなりし者 もろもろの州(くに)の中に女王たりし者 いまはかへつて貢をいるる者となりぬ」、第2節「彼よもすがら痛く泣きかなしみて涙面(かほ)にながる」、第5節「その仇(あだ)は首(かしら)となり その敵は享(さか)ゆ その愆(とが)の多きによりてヱホバこれをなやませたまへるなり」、第11節「ヱホバよ見そなはし我のいやしめらるるを顧りみたまへ」、第20節「ヱホバよかへりみたまへ 我はなやみてをり わが膓(はらわた)わきかへり わが心わが衷(うち)に顛倒す 我甚しく悖(もと)りたればなり 外には劍ありてわが子を殺し 内には死のごとき者あり」を繋げてテキストとしているといった具合。オーケストラはほぼ3管編成の大規模なもので、中にはサリュソフォーンやB管のフリューゲルホルンといった(吹奏楽ではともかく)クラシックでは珍しい楽器も含まれています。特に第1楽章でのテノールのソロとフリューゲルホルンとの掛け合いはとても美しく、この楽器特有の白痴美とでも言いたいような甘く滑らかな音色によって目が眩むような官能的な響きが聞かれ、テキストとのある種の衝突、異化効果をもたらしています。晩年の多くの作品同様、オーケストラは極めて禁欲的な使われ方をしていて、特に第2楽章の前半、テノールとバスのソロが歌う部分は、かなり長大であるにも関わらずオーケストラは殆ど沈黙しています。Andrew Kunsterの”Stravinsky's Topology”には「トレニ」の音列技法に関する浩瀚な分析が載っており、私も全て読んだわけではありませんがこれは1958年までの作曲者のメチエの集大成である、という感じがします。音列技法はともかく、ここに見られる多彩なポリフォニーの技法も詳細に分析すればさぞ面白いだろうと思いますが、特に第2楽章冒頭、テノール・ソロのモノディから始まって、バスとのカノン、次いでバスが一人増えて3声のカノン、4人のソリストによる二重カノン、と(カンティクム・サクルム同様)バッハの晩年の作品を思わせる複雑な書法が続く部分は素晴らしいと思います。いずれにせよこの長大な作品はちょっとやそっと聴いたぐらいでは「判った」という気にならないのですが、手元にクラヴィノーヴァさえない現状ではこれ以上の分析はちょっと困難。
演奏については、録音時の1959年当時としてはこれ以上のものを望むのは不可能だろう、というぐらいの出来栄え。ブーレーズがこの作品を(多分)録音していないのはパリ初演の時のトラウマだろうか?
by nekomatalistener | 2012-09-11 00:07 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

「創世記組曲」を聴く

スギちゃん、番組収録中に事故で3カ月の重傷。もし会社の慰安会に呼んでたら大変だったわ(実際には2700に変更)。




珍品中の珍品、「創世記組曲」を聴きました。

  1.シェーンベルク:「前奏曲」
  2.シルクレット:「天地創造」
  3.タンスマン:「アダムとイヴ」
  4.ミヨー:「カインとアベル」
  5.カステルヌオーヴォ=テデスコ:「洪水」
  6.トッホ:「契約(虹)」
  7.ストラヴィンスキー:「バベル」

  トヴァー・フェルトシュー、バーバラ・フェルドン、デイヴィッド・マーギュリス、
  フリッツ・ウィーヴァー、イザヤ・シェッファー(語り)
  エルンスト・ゼンフ合唱団
  ジェラード・シュウォーツ指揮ベルリン放送交響楽団
  2000年12月録音
  CD:NAXOS8.559442

多分、大半の読者(クラシック音楽の愛好家)はシェーンベルク、ミヨー、ストラヴィンスキー以外の作曲者は名前すら知らないのではないか、と思います。私自身も殆ど知らなかったので、Wikipediaの受け売りですが少しだけ紹介しておきましょう。ナサニエル・シルクレット(1889-1982)はニューヨークでユダヤ系オーストリア人の家庭に生まれ、クラシックだけでなくポピュラー音楽も手掛け、盛んに映画音楽を書いたと言います。アレクサンデル・タンスマン(1897-1986)はユダヤ系ポーランド人で、若い頃にパリに亘り、それ以降フランスで活躍した作曲家。多くの作品を書いたようだが今では(少なくとも日本では)セゴヴィアのために書いたギター曲などが知られているだけのようです。マリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコ(1895-1968)はユダヤ系イタリア人で1939年アメリカに亡命、以降200本もの映画音楽を書いたそうです。エルンスト・トッホ(1887-1964)はオーストリア人だがその進歩的作品がナチスに睨まれアメリカに亡命。戦後マンハイムに戻りましたが、アメリカ時代には映画音楽も手掛けているとのこと。CDのブックレットには各作曲家についての非常に詳細な英文の解説が附いているが、活字が小さすぎて老眼の身には辛くて読むのを断念しました(笑)。
シルクレットの発案によるこのコラボレーション、創世記の前半、天地創造からバベルの塔の逸話までを音楽に合わせてナレーターが語るという趣向。テキストはほぼ聖書の通りですが若干の短縮が見られます。1945年に初演された後は殆ど知られることも無く埋もれていた作品ですが、これを聴くと、シェーンベルク、ミヨー、ストラヴィンスキーの3人は妥協が無い、というかKYというか、まるで前後のコラボレーター達と(曲想とかを)合わせようという気がないみたいだ。以前ストラヴィンスキーの「バベル」紹介の際にも書いたが、シルクレットはスペクタクルな音楽を期待していたようだがストラヴィンスキーはこれを拒否、出来あがった代物はもうストラヴィンスキー以外の何物でもない、といった結果となった訳ですが、このことはシェーンベルクの「前奏曲」にも言えます。ここでシェーンベルクは十二音技法による辛口の音楽を書いており、これはこれで実に立派な音楽。最後のほうにちょろっと歌詞の無い合唱が出てくるので、演奏の機会がぐっと減ってしまったように思います。
一番好き勝手に書いてるKYは4曲目のミヨーかな。彼が書いた音楽はいかにもミヨーらしいもので、旧約聖書というよりは西部劇の映画音楽みたいな趣。ちょっと能天気な緩さもミヨーらしくて思わず微笑んでしまいます。それに比べて他の人達はとてもよく似ていて、良くも悪くも甘口の映画音楽みたいな感じ。ところが全体を通して聴くと、ちょうど3枚のパンで2層の具を挟み込んだサンドイッチみたいな不思議な統一感があって、ある意味1945年当時のアメリカ西海岸のハイブラウな音楽が如何なるものであったかという見取り図のようにも思えてくるところが実に面白い。
サンドイッチの具についてもう少し詳しく見てみると、シルクレットとタンスマン、カステルヌオーヴォ=テデスコの3人が特に甘く描写的な音楽で、亡命ユダヤ人達の「血の濃さ」のようなものを感じます。その中でもシルクレットとタンスマンは双子の兄弟のように似通った音楽で、ナレーションの言葉の一々に音楽が反応するのが少々煩わしいくらい。例えば”And the Spirit of God moved upon the waters.”の部分ではオーケストラが水の波紋のような音形で応えたり、”And God said, "Let there be light"; and there was light.”の部分ではオーケストラと女声合唱が天から降り注ぐ眩しい光のような響きを奏で、それまでの調性のはっきりしない混沌から明朗な3和音に移りゆく、といった具合。これって正に昔のディズニー映画(「白雪姫」とかの頃の)みたいです。ちなみにクラシック音楽の世界では「映画音楽みたい」というのは大抵悪口として使われる訳ですが、私自身は(このブログに長くお付き合い頂いている方は何となくお判りだと思うが)映画音楽をいわゆるクラシック音楽より劣るものとは考えていません。まぁ「映画音楽」という括りも大雑把に過ぎるとは思うけれど、このジャンルが無ければ20世紀の音楽は随分寂しいものになったはずだし、それより何より映画音楽を貶めるというのはラフマニノフもショスタコーヴィチもニ流どころだ、というに等しいものだと思います。それはともかく、音楽に甘口と辛口があるとすれば、パンが激辛で具が激甘なのは間違いないところ。
タンスマンの音楽は所々ラヴェルの「ダフニスとクロエ」風になるのも楽しい(例えば”This is now bone of my bone and flesh of my flesh; she shall be called Woman.”のところ。殆どパクリ)。
カステルヌオーヴォ=テデスコは同じ甘口でも最も通俗的なものかも知れません。なかなかキレのいい音楽を書いているのだが、先の二人がディズニーなら、こちらの方舟に乗り込む番の動物達の行進は「ジャングル大帝」といったところ。洪水の場面はスペクタクルなものですが、ストラヴィンスキーがテレビ番組のために書いた「洪水」に比べるとかなり見劣りします。ストラヴィンスキー自身はエンタテイメントを書くつもりは毛頭なかったでしょうが、結果として抜群に面白い音楽が書けてしまうのでしょうね。
トッホも甘口ながら、この具のなかではいかにも独墺系の趣があって、こんな企画モノの作曲にあたっても中ほどにオーケストラによるフーガが出てきたりと全力投球。5分半ほどの短い音楽ですが、亡命者の悲しみを偲ばせるみたいな抒情性に思わず聴き惚れてしまいました。
具の4人とも、それなりに光るものがあり、オーケストレーションも見事で決して(これを聴く限り)ニ流とは思いませんが、最後のストラヴィンスキーを聴くとやはり格が違うと思わざるを得ない。終盤、”So the Lord scattered them abroad from thence upon the face of all the earth ,and they left off to build the city.” というナレーションをきっかけに始まるオーケストラのフガートは実に見事。他の楽章では殆ど歌詞らしい歌詞を持たなかった合唱がここでは神の御言葉を歌う。ただしストラヴィンスキーは女声を排して男声だけを用いており、いつものことながら音楽の官能性といったものを排除しています。禁欲的な音楽ですが、全体の中に置くと甘ったるい具の部分が俄然引き締まるような気がして、シルクレットの想定外の音楽だったのでしょうが結果オーライといったところです。他の作曲家も皆そうなのだが、こんな作品でも、というかこんな作品だからこそ持てる限りのメチエを投入してみました、と言わんばかりの入魂の作です。

演奏については期待以上の素晴らしさでした。普通ならこういった「ゲテモノ」は二流どころのオーケストラがそれらしく演奏してくれれば御の字だと思いますが、ベルリン放送交響楽団の演奏はもったいないぐらいの出来栄え。合唱もまずまずだが、最後の「バベル」の男声合唱はテノールにくらべてバスが幾分オフに録られているのでちょっと素人っぽく聞こえる。神の声としては少し座りが悪い感じがするが、まぁ大きな瑕ではあるまい。これをきっかけにこの珍品が復活するとはいくら何でも思えないけれど、ふと興味が湧いた時に何時でも実際の音として聴くことができるというのはとても有難いことだと思います。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2012-09-01 23:48 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)