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クルシェネク作品集 KRENEK conducts KRENEK

映画「ヘルタースケルター」で一番得したのは戸川純かも。ってか、おじさんは彼女の復活の兆しが素直にうれしい。




エルンスト・クルシェネクの自作自演集を聴いてみました。


  ①弦楽オーケストラの為のシンフォニエッタ「ブラジル風」 Op.131(1952/1953初演)
  ②2台ピアノとオーケストラの為の協奏曲 Op.127(1951/1953初演)
  ③オーケストラの為の11の透かし絵 Op.142(1954/?)
  ④小オーケストラの為の「クエスチオ・テンポリス」 Op.170(1959/1959初演)
  ⑤鎖・円・鏡 ― オーケストラの為の交響的素描 Op.160(1957/1958初演)

   クルシェネク指揮北ドイツ放送交響楽団
   ゲルティ・ヘルツォーク&ホルスト・ゲーベル(pf)
   ①②③1964.6.24-26④1960.9.29-30⑤1958.10.26-27録音
   CD:EMI 7243 5 62858 2 8 NDR10082

以前何度か、ストラヴィンスキーが1952年以降十二音技法を採用するにあたって、クルシェネクを導き手としたことに触れました。このクルシェネクErnst Krenekという人、私の世代が若かりし頃は(多作家であるにもかかわらず)せいぜい「ジョニーは弾き始める」ぐらいしか知られておらず、その所為でぼんやりとではあるが、ハンス・アイスラーやクルト・ヴァイルの亜流のようなイメージだけが先行し、甚だ輪郭のはっきりしない謎に満ちた作曲家ではありました。だいたい名前からしてクルシェネクと呼ばれたりクシェネックと呼ばれたり、あるいは英語読みでクレネックと表記されることもあり(どだいチェコ語のřをカタカナ表記すること自体無理がある、ドヴォルザークDvořákも耳で聴けばドゥヴォジャックみたいに聞こえるだろう)、もうそれだけで敷居の高い感じがしていたものです。
今回、まさにストラヴィンスキーが十二音技法を採用する前後、1950年代の作品を聴いて、初めてシェーンベルクの(良くも悪くも)正当な後継者としての姿を知ることになりました。ストラヴィンスキーの晩年の作品から推し量って、やや折衷的な作風を想像してましたが実際には全く違うものだった訳です。1900年に生れ、若い頃はジャズやら新古典主義やら、時代の最先端の潮流に乗って作曲活動を行い、やがてナチスから退廃芸術の烙印を押されて1938年にアメリカに亡命、以降十二音技法による作品を書き続けた、というのがwikipedia風の要約ということになりますが、このディスクに収められた1951年から59年の諸作を聴くと、この9年の間ですら顕著な作風の変化が感じられ、全貌を掴むのは極めて困難な作業だというように思います。

1952年の「シンフォニエッタ」は、リオデジャネイロで完成され、翌年シュトゥットガルト室内管弦楽団により初演されました。「ブラジル風」という副題が附いているけれども全くそんな感じがなくて、序奏附き急緩急の3楽章形式によるシェーンベルク流の極めて緻密に書かれた音楽。ここにはウェーベルンの抒情性や、ベルクの殆ど「大衆的」といってもよい取っつき易さは無く、息苦しいまでの濃密な表現主義的世界が展開されており、面白いと言えば面白いのだが、1952年当時としては些か古めかしい感じもします。
ミトロプーロスの委嘱により1951年に作曲され、53年ニューヨーク・フィルによって初演された「2台ピアノのための協奏曲」も実にシェーンベルク的。形式的には古典的な4楽章から成るものの、ここには協奏曲という呼び名に人が期待するような華やかなヴィルトゥオジテも無ければ、人を陶酔させる美しいカンティレーナも無く、ひたすら生真面目な音楽が続く。ピアノ・パートはかなりの技巧を要しそうで、ピアニストもそれなりのカタルシスを感じるだろうが、エクリチュールという点でシェーンベルクが開拓した世界を一歩も出ていない感じがする。亡命ユダヤ人たちが新大陸で、甘く人にすり寄るような映画音楽やミュージカルで成功するのを横目で見ながら、この人は一体どのような心境でこれらの作品を書いていたのだろうか。また、同じロサンゼルスに住んでいたストラヴィンスキーは、このような音楽から何を感じ取っていたのか。以前の投稿で、幾度か晩年のストラヴィンスキーのミザントロープの問題を提起しておいたが、それと関係があるのだろうか。
ルイスヴィル管弦楽団の委嘱により1954年に書かれた「11の透かし絵」も、無調時代のシェーンベルクを彷彿とさせるようなミニチュア形式による作品。各曲1~2分台の極めて短い時間にみっちりと音が、というより内実が詰まっている印象を受ける。Garrett H.Bowlesによるカタログには各曲に闇とか稲妻とか波といった表題が附いているそうだが、これはまぁ気にする必要もなかろうと思います。しかしこれも1954年という年代を考えれば、スタイルとしては古色蒼然という感じがします。
1959年に書かれ、ハンブルクで作曲者指揮北ドイツ放送交響楽団によって初演された「クエスチオ・テンポリス」は、このディスクでは最も面白い作品でしょう。先の3作品に見られたシェーンベルクの呪縛からようやく解放され、一気に戦後の自由な息吹に満ち溢れたダルムシュタットの世界に一歩近付いた感じがします。多彩な打楽器を含むオーケストラがたゆたうようにあちこちで明滅しながら、18分弱という長い時間を掛けて徐々にテンポをあげ、音の密度が増していく。過去の(というよりドイツ・オーストリアの)伝統から離れて、これぞ現代音楽の美というものが現われています。所謂トータル・セリエリズムとは一線を画した書法ながら、これは師匠のシェーンベルクも為し得なかった世界だ。
1957年パウル・ザッヒャーの委嘱によって書かれ、翌年バーゼル室内管弦楽団によって初演された「鎖・円・鏡」は、「クエスチオ・テンポリス」と作曲年代が逆転しているので、順番に聴いていくと少し様式的に後退しているように感じられるのが、ある意味実に愉快。タイトルから想像するに、スコアを分析すればさぞかし面白い知的企みが仕込まれているのでしょうが、耳で聴く限りやはり一時代ずれている、と思わざるを得ない。もっとも最初の3曲に比べれば遥かに自由度の増した書法ではある。

作曲者自身の指揮による北ドイツ放送交響楽団の演奏、比較の対象もなく上手いとか下手とか言うのは不可能ですが、緊張感のある良い演奏だと思います。録音も鮮明だが、協奏曲のソロは幾分オフに録られていて、ピアノ弾きとしては若干フラストレーションが溜まります。

随分長生きして、作品番号にして242という膨大な作品を残したクルシェネク。この一枚のディスクだけでああだこうだと分かった風なことは言えませんが、結論から言えば本当に面白いCDでした。残念ながらそれほどCDが沢山出ている訳でもないようですが、これから少しずつ他の作品も聴いてみたいと思います。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2012-08-27 21:50 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956 (その5)

会社の慰安会で、スギちゃんが来るって聞いてたのに急遽2700になって残念。




今回取り上げたのはベートーヴェンの中期を代表する「熱情」と「ワルトシュタイン」を含む6曲のソナタ集。

  CD6
  ベートーヴェン
  ピアノ・ソナタ第20番ト長調Op.49-2 [1954.9.21以前の録音]
  ピアノ・ソナタ第21番ハ長調Op.53「ワルトシュタイン」 [1954.5.4.録音]
  ピアノ・ソナタ第22番ヘ長調Op.54 [1954.11.18.録音]
  ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調Op.57「熱情」 [1954.9.22.録音]
  ピアノ・ソナタ第24番嬰ヘ長調Op.78 [1954.2.23.録音]
  ピアノ・ソナタ第25番ト長調Op.79 [1954.5.5.録音]

20番ソナタは実際には初期に書かれた易しいソナタ。私が子供の頃は、ソナチネ・アルバムを終了する頃には誰でもレッスンで弾かされたものですが最近はどうなんでしょう?しかし短くて技術的に平易ではあるが、音楽としては実に魅力的。簡潔でしかも堂々としたソナタ形式の第1楽章と、貴婦人の典雅さよりは騎士の凛々しさを感じさせるメヌエットの第2楽章からなり、たった二つの楽章で何の過不足も感じさせないのがミソ。
ナットはこういった軽い作品でも直球勝負。全体的に拍頭の和音のアタックが強くて、第2楽章の第2クープレなどガツンガツンと鳴らすのは好き嫌いが分かれるかも知れませんが、音楽の柄が一回り大きく聞こえるのは事実。そうかと思えば第1楽章ではアーティキュレーションがけっこう自由自在で、スタッカートとノン・スタッカートとレガートの弾き分けが実に融通無碍なのが面白い(ちなみに初版の楽譜にはこれらの表示は殆ど書かれていない)。今時のピアニストは程度の差はあれどこういう弾き方はあんまりしないのじゃないかな。最近はこれと19番を習作とみなして全集に取り上げないピアニストもいるというが、私は若書きでも立派な作品だと思っているので、この演奏は大変気に入りました。

21番「ワルトシュタイン」はあまりにも有名すぎて、最近ではこういった機会がなければ聴くこともあまりないのが実情ですが、改めて聴くとやはり大した作品です。Allegro con brioといえば中期のベートーヴェンのトレードマークといってもいいと思いますが、この第1楽章ほどcon brioという表示に相応しいものもないでしょう。大人になって、やれベートーヴェンは後期に限るだの、弦楽四重奏曲が一番だの、生意気を言うようになった訳ですが、やはり中期の熱いベートーヴェンの魅力は格別です。思えば私も中学生に上がった頃は、レッスンで初期のソナタを練習していたものの、待ちきれなくてワルトシュタインや熱情など中期ソナタをこっそり練習したものです。この子供の頃のベートーヴェンへの愛着、これは誰でも通過するものなのかどうか、私の場合は実はこの頃の刷り込みというのが思いの他大きくて、この歳になっても実はベートーヴェンが、それも初期や中期のベートーヴェンが大好き(汗)。ラヴェルはベートーヴェンの事を「大音痴」と呼んで嫌ったそうだが、私がラヴェルやストラヴィンスキーを片一方で好むのはベートーヴェンへの愛の反動なのかも知れない。
そんなワルトシュタインであるから当然思い入れも大きくて並みの演奏では満足できない。ナットの演奏は「熱情」もそうだがこうした有名曲では細部の粗さが気になります。スケールやアルペジオの粒が揃わないのは、そういった細部の彫琢の精密さを追求するタイプの演奏家でないのは重々承知していてもやはり気になります。音楽を大掴みに、というのと、このソナタにおける粗さは少し違うものでしょう。リサイタルで弾き過ぎた(弾かされ過ぎた)とでも言うのか。それに全体にテンポが速すぎて私の趣味ではない。このソナタの一番難しいところはテンポの設定かも知れません。早ければ落ち着きがなく粗雑になり、遅ければ如何にも素人臭い演奏になりがち。ナットの早いテンポは剛直な表現を追求した結果かも知れないとは思いながら、どうしても落ち着きなく聞えてしまう。ナットの演奏に欠けているものは感覚的なソノリティの美しさでしょうが、その点でナットの対極にいるクラウディオ・アラウが驚くほどスローテンポでこのソナタを弾いていたのが印象的だ。ああ、アラウを聴きたくて仕方が無い(笑)。

22番ソナタは、ベートーヴェンの32のソナタの中でも最も風変わりな作品でしょうね。ソナタ形式に拠らず、附点附きの第1主題とオクターブの三連符の第2主題が交替するだけの第1楽章と、無窮動の第2楽章。私は殊更このソナタが好きって訳でもないし、傑作だとも思っていないけれど非常に気になる存在です。以前にも書きましたが、ヴェルディが晩年の傑作群を書く前に、「仮面舞踏会」や「シモン・ボッカネグラ」など、苦渋に満ちた筆致の作品を書いたり、シェイクスピアが「ヘンリー4世」の後、「トロイラスとクレシダ」や「尺には尺を」などの一連の奇妙な問題劇を書いたこと、それこそ年代とともに成長し、成熟していくタイプの天才が必ず通る道のような気がしますが、このソナタももしかしたらベートーヴェンの問題作品なのであって、こんな作品の存在自体がベートーヴェンという人の天才の証なのかも知れない、と思ったり、いややっぱりこれは単なる筆のすさび、ベートーヴェンの気紛れに過ぎないと思ってみたり。こうしてベートーヴェンをまとめて聴く際にはついつい何度も聴いてしまう。
そんな訳でこのソナタの演奏は軽くサラサラと弾くか、何か言いたそうに(だが上手く言えないとでもいうように)弾くか、二通りのやり方があると思いますが、ナットはもちろん後者のタイプ。かっちりと落ち着いた第1楽章と、早すぎない第2楽章。改めてこの無窮動がAllegroでなくAllegrettoと記されていることに気が附きました。模範的な演奏だと思います。

23番ソナタ「熱情」。ベートーヴェンの代名詞。子供の頃にバックハウスのレコードを文字通り擦り切れるほど聴き、自分でも(たどたどしくではあるが)弾き倒して以来、さすがに大人になってからはあまり真面目に聴いた記憶がありません。もちろん聴けばそれなりに優れた作品だとは思うし、随分前で記憶も定かではないが、園田高弘と諸井誠の往復書簡か何かで詳細なアナリーゼを読んで、これがベートーヴェンのメチエか、と驚いたこともある。でもなかなか普段、改めて聴こうという気になりません。食傷、ということなのでしょう。
ナットの演奏は、ワルトシュタインもそうですが、やっぱりちょっと粗い。冒頭のた、た、た、たーんの動機がリタルダンドしていきなり急速なアルペジオで駆け降りるところも、緩急の差が大きすぎて少しエキセントリックな感じがする。リサイタルなんかで弾かされ過ぎて、とにかく何かしなければ、という心境なのかも知れませんが、もう少し何というか、何もしない演奏でもいいような気がします。ベートーヴェン弾きとして有名な割に、実際のところ(少なくとも日本では)あまりメジャーにならないのは、こういった有名曲における磨き上げの不足だろうと思う。じっくり聴けばそれなりに良い演奏なんだが、聴き手の耳の垢をすっかり落として無心に聴く、というのは想像以上に難しいことだと痛感しました。

24番「テレーゼ」は、ベートーヴェンのgraziosoな側面を代表する作品。楽譜のどこにもgraziosoとは書かれていないけれど、その代わりにdolceとかleggiermenteと何度も書き込まれているのが印象的(この表示は後世の追記ではなくて自筆譜にちゃんと書かれている)。第2楽章の嬰ニ長調と嬰ニ短調(後半の繰り返しは嬰へ長調と嬰ヘ短調)の交替は後のシューベルトが多用した手法で、古典派からロマン派への歩みをこれほど如実に表しているものもない。地味な作品だけれど、中期から後期への移行を示す傑作だと思います。
ナットは、こういった作品の重要性をよく判らせてくれる演奏だと思います。なんの衒いもなく弾いているようで、ちょっとしたニュアンスがとても意義深く聞こえる。

25番は、これも子供の学習用のソナタ・アルバムに入っていて誰でも練習されられたものですが、音楽的に弾こうとするととても難しい作品です。ベートーヴェンとしては随分気楽に書いた感じがして、傑作とも大作とも言えませんが、第2楽章のゴンドリエーラは殆どメンデルスゾーンの無言歌の世界を思わせるユニークなもの。曲が曲だけにナットの演奏は特にこれといって際立つものはない。尚、第1楽章の展開部冒頭、楽譜にない低音をガツンと響かせるのでびっくりします。現代のピアニストはこういうことは絶対しないが、かつては珍しくもなかったのだろう。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-08-13 22:30 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ストラヴィンスキー自作自演集WORKS OF STRAVINSKY (その20)

友人とモツ鍋屋に行った時の話。そろそろ鍋も終わる頃、彼がメニューを見ながら「このアルファーのラーメンってどんなんかな?食べてみたいなぁアルファーのラーメン・・・」というので頼んでみることに。彼、店のお姐さん呼んでメニューを指さして「このアルファーのラーメンください」というとお姐さん、しばらく考えてから爆笑。メニューには丸っこい字で「〆のラーメン」と書かれていた。




この自作自演シリーズも残り僅か。CD20枚目は"Sacred Works vol.1"というタイトルが附いています。

  ①J.S.バッハ「高き天よりわれは来れり」によるコラール変奏曲の編曲(1955~56/1956初演)
    [1963.3.30録音]
  ②カンタータ「星の王」(1911~12/1939放送初演) [1962.11.29録音]
  ③アヴェ・マリア(1934) [1964.5.8録音]
  ④クレド(1932/1949,64改訂) [1965.8.20録音]
  ⑤パーテル・ノステル(1926/1949改定) [1964.5.8録音]
  ⑥古い英語のテキストによるカンタータ(1951~52/1952初演) [1965.11.27、1966.2.10録音]
  ⑦ミサ曲(1944,47~48/1948初演) [1960.6.5.録音]
  ⑧カンタータ「バベル」(1944/1945初演) [1962.11.29録音]
 
  ①②③⑤⑧トロント祝祭合唱団(エルマー・アイスラー指揮) ①②⑧CBC交響楽団
  ④⑥⑦グレッグ・スミス・シンガーズ ⑥アドリエンヌ・アルバート(Ms)、アレクサンダー・ヤング(T)
  ⑥コロンビア室内アンサンブル ⑦コロンビア交響楽団 ⑧ジョン・カリコス(語り)

まずは「古い英語のテキストによるカンタータ」から行きましょう。このメゾソプラノとテノール、女声合唱と室内楽(2フルート、オーボエ、コールアングレ、チェロ)の為の作品、あまり知られていない作品だと思うけれど傑作だと思います。「レイクス・プログレス」を書き終えてすぐに作曲を開始し、同時期の「七重奏曲」と同じく、1953年以降の12音技法を採用した作品群と極めて近い世界、深い抒情性に満ちた世界が体現されています。53年の「シェイクスピアの3つの歌」と並んで、この時期を代表する作品です。調性の範囲内で、一種の音列の操作による作曲法を取り入れているとのことだが、耳で聴くと、奇数楽章の旋律の繰り返しや、第4曲で何度も現われるリトルネッロの旋律が耳によく馴染んでとても聴きやすい。演奏も非常に優れています。歌詞は、http://www.recmusic.org/lieder/assemble_texts.html?SongCycleId=5997
というサイトに載っているのを発見しましたが、なんせ15世紀から16世紀にかけての古い英語なので何となく雰囲気は分かっても細かいところが分からなくて難儀します。例えば第1曲の第1節はこんな感じ。
  This ae nighte, this ae nighte,
  Every nighte and alle,
  Fire and sleete and candle-lighte,
  And Christe receive thy saule.
ストラヴィンスキーは原詩のfleeteをsleeteに変えていますが、それはともかく古英語がどんなものかお判り頂けると思います。困り果てていると、この第1、3、5、7曲目のテキストの元になったA Lyke-Wake Dirge(通夜の挽歌)という詩にブリテンが作曲していることを発見(Op.31-5)、これなら、以前にも紹介したサイト「梅丘歌曲会館」
http://umekakyoku.at.webry.info/
に邦訳が載っており、ようやく歌詞の意味が分かった次第。全体の中心となる長大な第4曲目、"Tomorrow Shall Be My Dancing Day"はキリストの受難を描いたものだとは判りますが、やはり細部が読解困難。イギリスでは有名なキャロルのようで、ホルストが同じ詩に作曲しているようですが(Op.34-1)、邦訳は入手できませんでした。その他第2曲、第6曲はお手上げ。第2曲はピーター・ウォーロックが、第6曲はジョン・タヴナーがやはり曲を附けているようですが私は全く知らない領域。イギリスのキャロルもいずれまとめて聴いてみよう。宝の山が待っているのか、収集地獄に嵌るのか知らないけれど・・・。

「ミサ曲」も掛け値なしの傑作だと思います。1926年以降、ストラヴィンスキーはロシア正教会のcommunicant(領聖者)であったといいますが、誰かの委嘱という訳でもなく、ロシア正教の忌避する管弦楽附きのカトリックの典礼音楽を書いた理由はよく分かりません(モーツァルトのミサ曲の華美さに対するアンチテーゼだと本人は言ってるようですが、これは本当のところ理由になっていません)。それはともかく、ヨーロッパで何千何万と書かれたミサ曲の歴史の中においても、この作品の美しさは際立っているように思います。特にグローリアにおける少年の二重唱や、アニュス・デイの移ろいゆく和声の殆どロマンティックといってもいいくらいの響きなど、天才的な筆致で書かれています。それは近代に書かれたミサよりも、ゴシックからルネサンスにかけての古風なミサに時空を超えて結びついているような気がします。ストラヴィンスキーはソプラノとアルトは少年の声が望ましいとしたようだが、ここではソロは少年で合唱は大人の女声が混ざっているようだ。これは純粋に実際の演奏上の技術的問題でしょう。しかしグローリア冒頭の名も知らぬ少年の二重唱はとても美しい。美しすぎて、エロスの排除が却って官能を呼び覚ますとでも言いたくなるほどだ。そして管楽器のみの特異なオーケストラ(2オーボエ、コールアングレ、2バスーン、2トランペット、3トロンボーンによる二つの管楽五重奏)。この声と器楽両面のアルカイックな響きが、古様式のミサを連想させるのでしょう。第3部の冒頭のCredo in unum deumは司祭がソロのグレゴリオ聖歌で歌う前提で音楽が附けられていない等、意外なほど古いミサの様式を研究した形跡があるのも興味深い。この曲はバーンスタインも素晴らしい録音を残していて、それと比べるとこの自作自演盤はサンクトゥス冒頭のテノールのソロが少し素人くさくて見劣りがします。合唱も粗いところもあるが、しかしこの演奏から受ける感動はとてつもないものです。先程のカンタータにしてもこのミサ曲にしても、人気が無くて埋もれているのが本当にもったいないと思う。

その他の作品は簡単に。「高き天より我は来たれり」はバッハの原曲(BWV769)を9割方忠実になぞりながら、ところどころ原曲にない対旋律をいくつか挿入しています。バッハの原曲はコラールの提示と5つのカノン変奏からなり、8度のカノンに始まって5度のカノン、7度のカノン、8度の拡大カノンと続き、最後は様々な度数の反行カノンと、cantus firmus(コラールの定旋律)がソプラノとバスに分かれてカノンを形成するなど、バッハの対位法技法の粋を集めたもの。ストラヴィンスキーの追加した部分は、ペルゴレージの場合ほど大胆ではなく、ジェズアルドの時ほど忠実な編曲でもない。オルガンのコラールを合唱に戻したところが面白いと言えば面白いが、さすがのストラヴィンスキーもバッハ相手にどこまで遊んだものか躊躇っているみたいだ。このシリーズの次回で取り上げる予定の「カンティクム・サクルム」と同時進行で書かれたというから、これは一種の「対位法のお勉強」だったのかもしれません。

「星の王」、これは本当に天才的な作品で、1911年当時に既にずっと後のメシアンを思わせる和声が用いられていて驚かざるを得ません。これがあまり知られていないのは偏に、わずか5分ほどの演奏時間で合唱と4管の巨大なオーケストラが必要という経済上の問題だと思います。ブーレーズがクリーヴランド管弦楽団・合唱団を指揮した録音が素晴らしいですが、この自作自演は男性合唱が粗削りで、それはそれで別の魅力があります。

「アヴェ・マリア」「クレド」「パーテル・ノステル」はいずれもシンプルなアカペラの為の作品。背景にはロシア正教が教会での管弦楽の演奏を禁じていたこと(作曲者は演奏会ではなくて実際の典礼で歌われることを前提としていた)と、ストラヴィンスキー自身がアカペラでは単純な和声しか使えないと思っていたことが挙げられます。その結果として、素朴極まりない簡潔な美が生まれました。作曲者を伏せてブラインドテストされたら、誰もストラヴィンスキーとは分からないと思います。多分19世紀初頭のロシア聖歌かなんかだと思うだろう。CDの紙ジャケにアヴェ・マリアを1949年改訂版と書いてありますが、この教会スラヴ語でアーメンのないバージョンは1934年の初稿じゃないのかな?楽譜を持っていないので断言できませんが、前にも書いたとおり、このCDの諸データはちょっと怪しいところが多い。他の2曲も改定版と書いてあるが、いずれも後の改定はスラヴ語からラテン語への変更なので、これも間違いだろう。

「バベル」はナサニエル・シルクレットの発案で、聖書の創世記を題材に数人の作曲家が連作組曲を作った際の最終楽章となったもの。この「創世記組曲」、ストラヴィンスキーの他にもシェーンベルクやミヨー、カステルヌオーヴォ=テデスコなどが参加しています。シルクレット自身はもっと描写的な、もっと言えばスペクタクルな音楽を期待していたようですがストラヴィンスキーは当然のことながらこれを拒否、結果はいつもながらのストラヴィンスキーらしい作品になっています。ストラヴィンスキーの中では特に優れているとも思いませんが、かっちりと書かれている感じはします。実はこの「創世記組曲」、全曲聴いてみたいと思ってamazonに発注しました。いずれ改めて感想を書いてみたいと思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-08-07 21:41 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956 (その4)

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シリーズ4回目は再びシューマンのディスクを取り上げます。

  CD11
  シューマン
    トッカータ ハ長調Op.7 [1952.12.録音]
    幻想小曲集 Op.12 [1955.10.録音]
    ノヴェレッテン Op.21 [1950.12.22以前の録音]

以前の投稿で、シューマンの初期ピアノ曲に見られる構成原理を「形式の頸木を強く求める傾向と、形式をはみ出してどこまでも飛翔するファンタジーの相克」と書きました。トッカータOp.7は、そのソナタ形式だけ見ればまさに前者の代表例と考えられるけれども、一方でピアノの技巧の追求(その実、それは記譜上の新奇なエクリチュールの追求でもあった)に託けたファンタジーの噴出でもある。その両者がせめぎ合っているのだと思います。演奏技巧の見せびらかしのように軽く思われがちですが、私はとても重要な作品だと考えているし、昔から大好きな曲の一つです。
最近のピアニスト事情はよく知らないのですが、youtubeでシューマンのトッカータを検索するとあるわあるわ、昔も今も爆演系ピアニストに大人気の演目なのですね。ホロヴィッツやリヒテルからポゴレリチにルガンスキー、古いのから新しい活きがいいのまで様々な演奏が楽しめますが、これという決定打がないという感じがします。作品そのものにメカニックの追求という要素があるのでつい早いテンポを設定してしまうピアニストが多いのですが、そうなると第2主題が殺伐としてしまうか、それを歌わせるために不自然にテンポが揺れるか、いずれにしても問題が残ります。その少し後に出てくる次の箇所の、右手の内声の連桁が窮屈そうに記されている部分、
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右手の内声がきれいに聞えて、かつ歌になっていなければ、と思います。メカニックの凄さという点ではポゴレリチが最右翼という感じがしましたが、この内声部はまるで砂を噛むみたい(それも奏者の狙いだと思うからこれは非難というのとは少し違う)。ルガンスキーの内声はすごくきれいに聞えるがちょっと表情に乏しい。ホロヴィッツはさすが。基本的には出来の良くないやりたい放題の演奏なのだが、ここの内声は(ことさら強調していないにも関らず)猫がすり寄ってくるみたいに聴き手の耳に媚びる。他にもいろいろ聴いたが体育会系弾き飛ばしか、そもそも弾けてないか、のどちらか。例えば冒頭から22小節目のオクターブの3和音で右手がガガガガと上昇するところ、アマチュアのピアノ弾きがまず絶望してしまう箇所ですが、プロと言われる人だって、わざとらしくテンポを落としたり、酷いのになると真ん中の音を抜かしていたり(こういうの許せない。フランソワ、お前だよ・・・w)、弾けていない人多いです。いやはや難曲です。

ナットの演奏はかなり遅めのテンポだが、このテンポだと第2主題が実に美しく、これぞシューマン、と言いたくなる。それに先程述べた内声部が本当に意義深く聞こえるのが素晴らしい。以前の投稿でナットの演奏に関して、テクニックに少し難があるように書いたので、コルトーやフランソワみたいな演奏を想像されているのなら全く違う。メカニックという点についても驚くほどよく弾けています。ナットのどの演奏にも感じられることですが、ミスタッチを恐れて音楽の流れがもたついたり不自然になったりすることが一切ない。だから、次のような大きな跳躍を伴う箇所、
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で左手のミスタッチが目出つということはあるが、それは弾けていない、というのとは全く違います。剛直でごまかしがなく、直球勝負。そのくせ、シューマンのあの、野辺に咲く花を思わせるような一種独特の歌も忘れられていない。いろいろと思い入れのある曲なのでこれを聴いても、やはりこの作品の決定打、とは思わなかったものの、なかなか優れた演奏だと思いました。

幻想小曲集Op.12をシューマンの最高傑作とする人はあまりいないと思いますが、それでもシューマンを特徴づけるファンタジーの飛翔を代表する作品ではあるでしょう。連作の体裁を採るシューマンの作品の中では比較的一曲一曲の独立性が高いと思われますが、全8曲の調性やテンポの配置、あるいは終曲のコーダが、第8曲目の、というよりは全曲の結びとしての位置づけとして置かれているように思われるところなど、やはり8曲通して弾かれるべきものだと思います。調性の配置ですが、変二長調-ヘ短調-変二長調-変二長調-ヘ短調-ハ長調-へ長調-へ長調、という並びは、ほの暗く夢見がちな前半から明朗で穏やかな目覚めへと大きなアーチを描くよう、周到に計算されたもののように思いますが、こんなところにもシューマンの形式希求性を感じます。

ナットの演奏は大変すぐれたもので、全体としてはいつもながらの剛直な演奏ですが、例えば第5曲「夜に」のへ長調の中間部Etwas langsamerが素晴らしくて胸を締め付けるような思いがしました。それは溢れ出る思いを身も世もなく吐き出すのではなく、抑えに抑えた感情がつい漏れ出てしまうような切なさに満ちています。無愛想で強面の男が子犬を可愛がるところを盗み見たような気分(笑)。

ノヴェレッテンOp.21は明らかに「クライスレリアーナ」や「フモレスケ」の系譜に連なる作品ですが、その病んでる度合いはシューマンの作品の中でも随一でしょう。私はこの作品をシューマンの中でも非常に重要な作品だと考えていますが、にもかかわらずそんなにしょっちゅう聴きたいとも思わないし、「フモレスケ」と違って世間の人気がないのを残念に思うこともない。いや、むしろ人気がないのは当然、というか、これが人気曲になるようでは世も末だと思う。
全体を支配するのは「多幸感」と「全能感」。それは明らかに病的な躁状態に由来するものと思われ、多かれ少なかれ他の多くのシューマンの作品にも感じられるものですが、この作品が異常なのは、それがほぼ45分にも亘って延々と続くこと。まず「多幸感」から言うと、全8曲の調性はへ長調-二長調-二長調-二長調-二長調-イ長調-ホ長調-嬰ヘ短調となっていて、ロマン派のピアノ連作集で二長調が4曲続くことなど稀でしょう。唯一の短調である終曲はすぐに狂騒的な二つのトリオが続き、長いコーダの末に二長調に終止します。しかも緩急については全8曲とも急で始まり、各曲とも中間部に緩やかな曲想は出てくるものの些かおざなり、全曲を聴いた感じは「交響的練習曲」や「ダヴィット同盟舞曲集」のフィナーレを延々と45分聴かされたようなものとなる。次に「全能感」ですが、これは主に2つの現われ方をしています。一つは豪壮で分厚い和音の多用。特に第5曲など、ほとんどラフマニノフばりの音の厚さ。もうひとつは強引な、あるいは無茶な転調。属調や下属調ではなく遠く離れた調への転調はロマン派の作曲家にとっては腕の見せ所でしょうが、ここにはこれみよがしに意外な調に着地する転調が随所に見られ、シューマンの躁的な昂りが感じられます。これを2ちゃん風に言うと「【転調注意】シューマンのドヤ顔がイタ杉ワロタwwww」。例えば第1曲の中間部の次の箇所。
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あるいは第6曲の次の箇所。
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だが部分部分の調性の配列については第6曲全体が無茶な転調の連続である。
しかし、それらにもましてこの作品の病的な傾向を強く感じさせるのは、終曲のコーダの次の箇所。
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ここには何か感情の決壊のようなものが現われていて、まるでさっきまで上機嫌でべらべらと喋りまくっていた人が急に号泣するのを目にするような感じがします。精神の破局。この部分があるので、いままで延々と聴いてきた多幸感も全能感も、一皮剥けばそこには深淵があるように思われて来ます。大体、この第8曲自体、形式的にも異常で、嬰ヘ短調の主部にトリオⅠ、主部の再現、トリオⅡと続くのでロンド形式かなと思いきや、突然Stimme aus der Ferne(遠くから聞こえる声)と記された部分、すとんと夢の中に落ち込んでしまったかのような感じで一旦終止してしまう。それから長大なコーダ、鬱がぶり返したようなロ短調に始まり、トリオⅡが一瞬再現して、全く別の上機嫌な二長調の主題、これが発展して狂騒の極みに先程譜例で挙げた破局が現われ、再び狂騒状態から二長調に戻って終止します。何と言ったらいいか、上機嫌ではあるが目が血走ってる人みたいで怖い。

ナットの演奏、これだけの長大な作品をよくぞ弾ききったという感じがするけれど、反面おそろしく疲労感を伴う演奏でもある。生真面目すぎると言ってもいい。録音の状態は余り良くなく、ナットの演奏もすこし荒んだところがあるが、作品の性格にはよく合っている感じがします。最後の譜例にあげた箇所のキレ方はちょっと空恐ろしいくらい。この作品、競合盤が殆どないので、これでもう少し録音が良くて精緻な演奏なら断トツの名盤となったところだ。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-08-01 18:09 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)