<   2012年 07月 ( 5 )   > この月の画像一覧

ストラヴィンスキー自作自演集WORKS OF STRAVINSKY (その19)

ラムスデン現象(ラムスデンげんしょう、Ramsden phenomenon)は、牛乳を電子レンジや鍋で温めたりする事により表面に膜が張る現象である(Wikipediaより)。
・・・って、最初絶対「フェレンゲルシュターデン現象」みたいなやつだって思うよね。




”Oratorio-Melodrama Vol.2”と題されたCD19枚目は語り手、テノールと合唱、管弦楽のための大作「ペルセフォーヌ」の登場です。

  メロドラマ「ペルセフォーヌ」(1933~34/1934初演/1949改訂)[1966.5.4-7録音]
    ペルセフォーヌ: ヴェラ・ゾリーナ(語り)
    ユーモルプ: ミシェル・モレーズ(T)
    イサカ・カレッジ・コンサート合唱団
    テキサス・フォート・ワース少年合唱団
    グレッグ・スミス・シンガーズ
    コロンビア交響楽団
  オード(1943/1943初演)[1964.3.13録音]
    クリーヴランド管弦楽団
  ジェズアルド・ディ・ヴェノーサ400年祭のための記念碑(1960/1960初演) [1960.6.9録音]
    コロンビア交響楽団

前回、「エディプス王」について書きながら、ストラヴィンスキーといわゆる6人組の意外なほどの芸術的立場の近さについて言及しました(2012年6月26日の投稿)。私はそのあたりの音楽には不案内ながら、ミヨーやオネゲルの舞台作品についても少し触れた訳ですが、このメロドラマ「ぺルセフォーヌ」を聴いても同様の感想を持ちます。もっともこの路線は、ストラヴィンスキーのアメリカへの移住によって一過性のものに終わった感じもしますが、少なくとも1926~27年の「エディプス王」から1933~34年の「ペルセフォーヌ」の間に書かれた諸作品(ミューズを率いるアポロ、詩篇交響曲、ヴァイオリン協奏曲etc)については、6人組の影響という視点から聴き直してみる必要を感じています。これまで見てきたストラヴィンスキーというのは、ロシア人としての顔とコスモポリタンとしての顔の両面を時に使い分けつつ見せてきたわけですが、このペルセフォーヌについては6人組以上にフランス人に同化した姿を見せているように思います。少なくとも自身の独自性よりは彼らの作風への意識的接近が顕著であるように思う。大変美しい作品ですが、私にはどうも今一つ作品との壁があって、思う所がうまく言葉になりません。
それにしても、全編に亘ってフランス語による歌と語りが入るこういった作品で歌詞と対訳が添付されていないのは辛い。色んなサイトを探してみたが、著作権の関係からかフランス語のリブレットを発見できませんでした。アンドレ・ジッドによるテクストは、古い新潮社の「アンドレ・ジイド全集Ⅴ」(昭和25年)に翻訳が載っており、これを取り寄せてようやくテクストの意味が分かったような次第。6人組風の作風は、ストラヴィンスキーの他の作品よりむしろ一般受けするような気もするだけに、言葉が障壁になっていつまでたっても知られざる作品に甘んじているのならば惜しい話だと思います。ジッドのテクストはギリシャ神話のペルセポネー神話をほぼ忠実になぞりながら、ペルセフォーヌが自らの意思で黄泉の国に降りて行くとするのがミソなんだろうが、文学的素養のない私にはあまり面白いとも思えません。「強ひられなくてもいいのです。私は進んで法則(おきて)と言はうより私の愛が私を導く場所へ、一歩一歩、段々と降りて行きたいのです。人間の悲しみの底にまで。」(中村眞一郎訳。漢字は新字体に改めた)。ついでながら、この作品のコラボを通じてジッドとストラヴィンスキーの仲は随分険悪なものになったそうだ。理由はよく分からないが、ジッドがストラヴィンスキーの音楽的イディオムを理解しなかったのか、フランス語を母国語としないストラヴィンスキーの側に問題があるのか。今回は情報量が少なくて蘊蓄どころではありません(笑)。


余白のフィルアップとして短いオーケストラ作品が二つ納められています。
「オード」の2曲目はアメリカ移住後ハリウッドに居を構えたストラヴィンスキーが、1943年の映画「ジェーン・エア」の音楽のオファーを受けて書き始めたもの。ジェーン・エア役はジョーン・フォンテーン、ロチェスター役はオーソン・ウェルズ。この計画はハリウッドのある大物との衝突によって不調に終わり、書き始めていた狩の場の音楽をクーセヴィツキーからの新作委嘱に際して転用したとのこと。同時期の「ロシア風スケルツォ」や「ノルウェーの情緒」と同様、映画音楽との不幸な出会いを物語る作品です。各々eulogy(死者への追悼)、Eclogue(牧歌)、Epitaph(墓碑銘)と題された3部構成の全体にThe elegiac chant(悲歌)という副題が付せられているが、具体的に誰の追悼なのか分かりませんでした。正直なところ、悪い作品ではないけれど、このアメリカ移住の時期、1940年「ハ調の交響曲」から1945年の「3楽章の交響曲」に挟まれた数年間はやや不作の年、という感じがしなくもない。ちなみに、先程紹介した映画の音楽は結局バーナード・ハーマンが書いたのだが、この人は映画音楽の作曲家としては超が付くくらい素晴らしい人。ユダヤ系亡命ロシア人の息子。この人のことは改めて取り上げてみたいくらいだ。何と言っても遺作があのロバート・デ・ニーロの「タクシードライバー」ってんだから凄いよね。

もうひとつは1960年に書かれたルネサンス時代の作曲家ジェズアルドのマドリガーレの編曲。ストラヴィンスキーはこの数年前にもジェズアルドの編曲(「3つの聖歌」)を行っており、暗い半音階的和声進行と異常な不協和音が頻出するこの特異な作曲家への偏愛が偲ばれます。この「記念碑」の元ネタは、
 1.Asciugate i begli occhi (マドリガーレ集第5巻第14曲)
 2.Ma tu, cagion di quella (マドリガーレ集第5巻第18曲)
 3.Beltà, poi che t'assenti (マドリガーレ集第6巻第2曲)
ですので興味のある方はお聴きあれ。もう少し後に書かれたフーゴー・ヴォルフの編曲同様、特に何も附け加えない素直な編曲ながら、非常に優れたもの。おそらく元ネタを超える世界を実現しています。余談ながら、現代の音楽家にもこのジェズアルドは大人気なようです。シュニトケやシャリーノといった現代の作曲家が彼の生涯を元にオペラを書いているそうだし、数年前にポリーニが東京で行った現代音楽の祭典「ポリーニ・プロジェクト」ではジェズアルドのマドリガーレとルイジ・ノーノの「ディドーネの合唱」を組み合わせるという大変興味深い試みがなされていた。また、次の9月に来日するアルディッティ弦楽四重奏団の演奏会のプログラムはジェズアルドの編曲とファーニホウや藤倉大の新作との組合せ、これも凄そうだ。私自身はジェズアルドはほんの数枚レコードを持っているだけなので、いずれ体系的に聴いてみたいと思いながら果たせないままである。
by nekomatalistener | 2012-07-28 23:12 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956 (その3)

新ことわざ辞典

【猫に鰹節】
堅くて食べられないこと。「猫に小判」とも言う。
【猫の額】
(猫の額に触ると気持ちいいので、これが畳くらい大きかったらいいのに、と思う所から)狭いこと。




今回取り上げるのは1枚目のディスク、ベートーヴェンの中期の変奏曲と、初期のソナタ集の取り合わせ。

  CD1
  ベートーヴェン
  創作主題による32の変奏曲ハ短調WoO.80 [1955.2.録音]
  ピアノ・ソナタ第1番ヘ短調Op.2-1 [1955.9.20以前の録音]
  ピアノ・ソナタ第2番イ長調Op.2-2 [1955.9.20以前の録音]
  ピアノ・ソナタ第3番ハ長調Op.2-3 [1955.9.1録音]

1806年に書かれた「32の変奏曲」は、ピアノ・ソナタで言えば23番と24番の間に書かれたことになる訳ですが、確かに誰しも持つであろう中期のベートーヴェン像というものにこれほど合致した作品もなかろうと思います。すなわち、ハ短調の持つ悲劇性と雄々しさ、少しも華美に流れないのに雄弁極まりない演奏技法の数々、長くも短くもなく筋肉質に引き締まっていて、どこにも無駄のないプロポーション、こんなところがこの作品の特質であると思います。ベートーヴェンといえば後期のソナタや弦楽四重奏曲こそが最上のものである、という世の通説はその通りだと思うけれど、本当にそう思えるようになるにはある時期、徹底的に中期の諸作品を学ぶ必要があるように思います。ピアノを弾く人であればこの変奏曲など、是非とも弾いてみてほしいと思いますし、専ら聴くだけの人も交響曲や室内楽だけでなく、こういった作品を繰り返し聴くことでどれほど多くのもの、ベートーヴェンの本質に関する知見を得られることか、と思います。

ナットの演奏は、もうこれは規範と言ってもいいと思います。辛い見方をすれば古い時代のステロタイプなベートーヴェン像に余りにもとらわれ過ぎと言えなくもないでしょうが、一度は聴いておくべき演奏だと思います。先程敢えて「学ぶ」という表現をしましたが、たまには背筋を伸ばし、居住まいを正して謹聴するベートーヴェンも良いものです。超個性的な演奏からピリオド楽器による演奏までよりどりみどりの現代に、こういったヒストリカルな演奏を聴く意義は大きいと思っています。

ベートーヴェンその人自身、成長の人というか、昨日よりは今日、今日よりは明日の方がより成熟した作品を書く、というタイプなだけに、その初期作品というのは殊更未熟なもの、劣ったものと捉えられるきらいがあるように思いますが、随分久しぶりに、改めてOp.2の3つのソナタを聴くと、その完成度の高さに驚きを禁じ得ませんでした。悲劇的で雄渾なヘ短調、軽やかにして優美なイ長調、威風堂々たるハ長調、ベートーヴェンがその後一生を通じて追求することになる3つの要素が明瞭に現われていることにも驚きます。特にヘ短調のソナタは、ぱっと見、きわめてシンプルな書法ながら、実際に弾いたり聴いたりするとその無駄のなさと雄弁さというものはやはり途方もないものに思われてきます。しかも、そこから受ける感動というものは、エモーショナルなものというよりは意外なほど知的な喜びのほうに近いという気がします。続くイ長調は、Op.2の中でも特に完成度が高い作品ですが、そこに現われているヴィルトゥオジテへの飽くなきこだわりというものは、看過されがちであるがもっと注目されるべきものだと思います。そしてクレメンティとの親近性についても然り(クレメンティといえばソナチネ・アルバムの子供向け音楽というイメージが強いのは残念。ホロヴィッツのRCAの古い録音やミケランジェリのブートレグ盤、ラザール・ベルマンのカーネギー・ホール・ライヴなどに優れたソナタの演奏があるのは知ってる人は知っている)。第1楽章の展開部は型通りの展開の後、(イ長調からは遠いへ長調による)師匠のハイドン風の疑似再現部を経て本格的な展開部後半が始まる。若きベートーヴェンの意気込みとハイドンへの敬意が微笑ましい。面白いのは緩徐楽章である第2楽章にLargo appassionatoと記されていること。二長調の美しい旋律からappassionatoの表現を引き出すのは並大抵のことではない。それと終楽章のロンドは、ベートーヴェン作品におけるGraziosoが如何なるものであるかの、最良の実例の一つであると思います。ハ長調は、その後「ワルトシュタイン」を経て「ハンマークラヴィア」に至る明朗快活な
ベートーヴェンの原型ですが、コンチェルトを思わせるようなカデンツァ附きの長大な第1楽章や、(作曲当時としては)圧倒的ヴィルトゥオジテを誇る終楽章など、聴けば聴くほど初期だの中期だのといった切り分け方が無意味に思えてきます。第2楽章のホ短調に転調してからの沈鬱な表現も素晴らしい。そういえばこのソナタはミケランジェリのお気に入りでもあった。

Op.2のナットの演奏は、変奏曲について述べたことがそのまま当てはまる訳ですが、特にヘ短調の終楽章の凄まじいばかりの気魄は特筆すべきだろうと思います。現代の感覚からすれば若干牛刀を以て鶏を裂く感なきにしもあらずだが、それだけOp.2の中でのヘ短調の位置づけが截然と現われ得たように感じました。またイ長調の演奏は、およそ感覚的な喜びを追求する姿勢とは遠そうであるのに、実際に現われた演奏はこの上なくgiocosoでありgraziosoであるもの。こんなところに(前々回にも書いたが)音楽の様々な側面を削ぎ落として行くタイプであるよりは円満で十全な表現を目指すタイプだと思わせるところがあります。このイ長調は名演といっていいんじゃないかな。ハ長調は、何もミケランジェリを引合いに出さずとも、もっと精緻な演奏はいくらでもあると思うが、その音楽の端正なところ、恰幅のよさ、例のホ短調の部分の節度あるロマンティックな表現など、やはり一つの規範として学ぶべき点の多い演奏です。そして私自身、感覚的情緒的なベートーヴェン演奏よりも知に訴える演奏を好むせいもあって、実に好ましい演奏だと思いました。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-07-25 16:03 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956 (その2)

永久機関(「アンサイクロペディア」より)。
a0240098_199550.gif





イーヴ・ナットを聴くシリーズ。第2回目はシューマンを取り上げてみます。

  CD12
  シューマン
  幻想曲ハ長調Op.17 [1952.6.6以前の録音] 
  フモレスケ変ロ長調Op.20 [1955.10または11月の録音]
  交響的練習曲Op.13 [1953.1.28録音]

シューマンの1830年から1839年に掛けての、すなわち1840年にシューマンがクララと結婚して狂ったように膨大な歌曲を書きだす以前の作品、Op.1の「アベッグ変奏曲」からOp.32の「4つの小品」までずらっと並んだピアノ曲に見られるのは、形式の頸木を強く求める傾向と、形式をはみ出してどこまでも飛翔するファンタジーの相克であり、それはまるでシューマンが自分自身をなぞらえたオイゼビウスとフロレスタンのように互いに拮抗しながら、シューマンの分裂症気質を助長していったのは間違いない所でしょう。幻想曲と銘打ちながら、実質的には3楽章のソナタであるOp.17、形式と表題の間の分裂はその相克の現れの一つですが、個々の楽章は、極めて自由な楽想ながらソナタ形式が支配する第1楽章、単純なコーダ付三部形式の第2楽章、これぞ幻想曲、といった自由な第3楽章といったように、かなり意識的な配列が伺われます。そういった点からも、Op.17は(そのタイトルにも関らず)形式の頸木への強い欲求が勝った作品であり、その方向の作品の中では最高傑作のひとつだと思います。

ナットの演奏は殊更晩年の録音という訳でもなかろうに、技巧の面の瑕が多く最初はそれが気になりました。しかし何度か聴き込むうちに、耳が慣れてくる所為もあるが、ナットが表現しようとしたこと、ナットの頭の中に鳴っていたであろう理想像が(現実とは若干乖離があるとしても)ありありと分かって来るような気がしてきて、最初何度か聴いた時には思いもよらなかったような感銘を受けました。その理想像は、意外に近代的なところが20世紀初頭のロマンティックな巨匠たちとは一線を画し、またその燃焼度の高さ故ドイツ流のノイエ・ザッハリヒカイトとも異なるもののような気がします。「構築的」という言葉を使いたいところだが、私はこの言葉を(「深い精神性」といった言葉と同じく)出来ることなら使いたくないのです。一見もっともらしいこういった言葉を使った瞬間に、なにか分かったような気がして思考停止に陥るような気がするから・・・。しかし今回はとりあえず(面倒な定義は抜きで)構築的なシューマン、と言っておきたいと思う。おそらく70年代から80年代前半のポリーニはドイツものの作品を勉強するにあたってこのナットの演奏を聴いたはずです。この時期のポリーニの演奏に通じるものがある、と言えば、この「構築的」という言葉で私が言わんとするところが少し分かって頂けるでしょうか。

Op.17が形式希求傾向の極めて強い作品だとすれば、次の「フモレスケ」こそ、その半面のファンタジーの病的なまでの伸張というべき作品でしょう。私見ですが、こちらの傾向の作品群にこそシューマンの天才が最高度に発揮されており、私が愛して已まない作品たちということになります。こちらのカテゴリーの代表作はなんといっても「クライスレリアーナ」と「ダヴィッド同盟舞曲集」ということになるかと思いますが、どちらも溢れ出るファンタジーの暴走に歯止めを掛ける如く、連続して演奏される部分部分に番号が振られ、あたかも非連続な小品集といった趣になっていて、文字通り内的衝動と外的形式とが分裂しています(分裂というのは、これらの作品の任意の何曲目かを抜き出して弾くことが殆どナンセンスだということ)。一方、この「フモレスケ」ではついに連作の体裁は捨てられ、最初のうちこそ「クライスレリアーナ」風に三部形式なりロンド形式のまとまりのある部分が続くものの、後半は最早なんの形式原理もなく、次々とまるでうわごとのように異なった楽想があらわれては消えて行きます。最後の唐突な、殆ど何の脈絡もないまま現れるコーダに至っては、もうこれは狂気の音楽というべきではないでしょうか。狂気といえば、Hastigの部分、弾かれない内声Innere Stimmeが楽譜に書かれているところがよくシューマンの狂気の例証として挙げられるが、それどころではなくこの作品全体が精神病理学的産物だと言っても過言ではないでしょう。この「フモレスケ」、私の知る限り、シューマンの作品の中では知名度、人気、いずれも低いのがまったく理解できません。私は「フモレスケ」を、「クライスレリアーナ」や「ダヴィッド同盟舞曲集」とならんで、いやむしろそれ以上に愛しているので残念でなりません。

ナットの演奏は大変な名演だと思います。Op.17と比べると技巧の瑕も少ない(変ロ長調のIntermezzoの右手の急速なオクターヴの下降など、技術的には猛烈に困難な部分も含めてよく弾ききっている)。それよりも、ナットの構築性、対象の構造を抉りだし、形式の箍を嵌めずにはおられない性向と、作品自体の持つ、常に形式から逸脱していく力とが拮抗し、危ういバランスの上に類まれな美的構築物が生まれたように思われます。ほらね、「構築性」という言葉を使うと、こんな風に分かった風な文章になるでしょ(笑)。こんな言葉ではなく、演奏というのは音と時間による物理的現象なのだから、もう少しその現象を構成するパラメーターの選択基準あるいは偏向の具合に則して書くことが出来ればよいのですが・・・。少し思いつくことは、ナットの演奏は次々目まぐるしく現れる部分部分のテンポや表情の対比が絶妙なのだと思う。この対比が少なければ凡庸で体感時間が物凄く長い演奏(申し訳ないがアシュケナージの「フモレスケ」の録音がそうだったように思う)になるし、対比がきつければ、一瞬一瞬のイベントの生成に眼を瞠っている内に終わってしまって、体感時間は短いものの、なんだかよく分からない捉えどころのない演奏になります。そのどちらでもなく、的確な対比によって、この形式原理が壊れかけた作品の部分部分を弾き分けた時に初めて、この作品の形式ではなくその構造が顕わになり、同時に作品の真の魅力が現れるのでしょう。ナットの「フモレスケ」のどこがどう名演なのか、言葉にするのは難しいけれど、およそこんなところがカギだと思う。

「交響的練習曲」は、いうまでもなく「形式希求派」の作品。ここに収められているのは遺作を含まない短い版なので特にその傾向を強く感じますが、5つの遺作を含めて弾くと、途端にファンタジーの翼が拡がっていくような気がします。そういう意味で、この遺作抜きの版は物足りないところがあるものの、その分フィナーレの前に置かれた嬰ト短調の部分の魅力がクローズアップされてくるのが面白い。この部分は全曲の白眉であるに留まらず、シューマンの書いたあらゆる頁の中でも特にロマンティックなものだと思う。

ナットの演奏はこれまた立派なものです。左手の小さな奏者には特に終曲の10度の連続など苛酷すぎるところがあって、ナットの演奏もかなり怪しい音が鳴っているが、何度か聴くと瑣末な瑕と言う風に思われてきます。ただこの作品自体が、がちがちの形式の中に押し込められたものであるせいか、ナットならでは、といった部分があまり感じられないのも事実。その中ではやはり嬰ト短調のところが燃焼度が高く、素晴らしいと思いました。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-07-20 01:15 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

「カヴァレリア・ルスティカーナ」&「パリアッチ」 二期会公演

【丁寧語表現】
シュレディンガーの猫ちゃん
【2ちゃん的表現】
シュレディンガーのぬこ





二期会のヴェリズモ・オペラ二本立て、当初さほど興味がなかったのに急遽観に行こうと思い立ったのは、先日の新国立劇場の「オテロ」公演で侍女エミーリアを歌った清水華澄がサントゥッツァを歌うと知ったから。その「オテロ」ではエミーリアの出番は少ないけれど、ひたむきな歌唱で抜群の存在感を示していました。おそらくこれから旬を迎えるであろうこの歌手を聞き逃す手はありません。

 2012年7月14日 於東京文化会館大ホール
   マスカーニ「カヴァレリア・ルスティカーナ」
   サントゥッツァ: 清水 華澄
   トゥリッドゥ: 大澤 一彰
   ルチア: 池田 香織
   アルフィオ: 松本 進
   ローラ: 澤村 翔子

   レオンカヴァッロ「パリアッチ」
   カニオ: 片寄純也
   ネッダ: 高橋 絵理
   トニオ: 上江 隼人
   ペッペ: 与儀 巧
   シルヴィオ: 与那城 敬

   合唱: 二期会合唱団、NHK東京児童合唱団
   管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団
   指揮: パオロ・カリニャーニ
   演出: 田尾下 哲

その「カヴァレリア・ルスティカーナ」からいくと、予想通り清水華澄の一人勝ち。本当に素晴らしい歌手です。さっき「ひたむきな」と書きましたが、ただ輝かしく強靭なだけでなく、どこか仄暗さを湛えた声質が役柄にぴったりです。表現は役柄に即してあくまでも直情的。一歩間違えばストーカーになりそうな、という感じ。アムネリス、アズチェーナ、マクベス夫人、エボリ公女、ウルリカ・・・彼女の声で聴いてみたい役柄はヴェルディには沢山ありますね。これから精進していろんなメゾの役柄を歌ってほしい。彼女なら日本のコッソットになるのも夢ではないと思います。
残念ながら他の歌手で彼女と鎬を削るクラスの歌手はいませんでした。ローラの澤村翔子は可憐さはありましたが、蓮っ葉なところはちょっと隠れてしまった感じです。ルチアの池田香織は出番が少ないので可もなく不可もなく。問題はトゥリッドゥの大澤一彰とアルフィオの松本進。上手い下手以前に口先だけで歌っている感じがしました。トゥリッドゥにしてもアルフィオにしても、現実にこんな人がいたら絶対に友達にしたくないDQNキャラだと思う。にもかかわらず聴き手が感情移入できるとすればそれこそ歌の力というもの。残念ながら今回の男声役にその力は無かったと言わざるを得ません。
東フィルは素晴らしい演奏でした。豊穣とか芳醇とかいうのとは全く違って、喩えて言えば痩せた土地に育つオリーヴのような強さ、とでもいいましょうか。有名な間奏曲も基本的にドライなのに音楽の本質を外さない。これをウェットにやっちゃうとムードミュージックになってしまう(通販のヒーリング・ミュージック集のCMみたいなやつね)。そんな響きを引き出した指揮者のカリニャーニは評価して然るべきだと思うが、ここぞというところで溜めがなくサクサク進んでいくのでカタルシスがないこと甚だしい。このオペラ、数あるイタリア・オペラの中でもキワモノもしくは格下扱いされることも多いのは事実。音楽的にも一歩間違えば稚拙と見做されても仕方のない部分があったりする。しかし(カラヤンやシノーポリを引き合いに出すまでもなく)演奏によってはとんでもなく近代的な傑作になるのも事実だと思う。残念ながらカリニャーニの指揮にはこの作品が孕む大きな可能性は感じられませんでした。
演出については、ほとんど何も無い簡素な舞台の上で、衆人環視の中でドラマが進展していく、というコンセプトは悪くないと思いました。現実のシチリアがどんなところか知りませんが、日本でも田舎のほうに行けばプライヴァシーもへったくれもないような息苦しいコミュニティが今でも健在なんでしょうね。だから演出の狙いはよく判ります。ただ群集の動かし方が、リアルさと様式化のどちらを狙っているのかよく判らないのと、ミサの場面を結婚式の場面にしたのはあまり意味のあることにも思えなかった、ということで、若干私には落ち着かない演出でした。私はもう途中から、色々おまけつきの清水華澄リサイタルだと割り切って聴いていたので、それはそれでとても良かったですが。

休憩をはさんでの「パリアッチ」。こちらでまた素晴らしい歌手にめぐり合いました。ネッダを歌った高橋絵理。前半の清水華澄も凄いが、こちらも凄い。舞台でコケティッシュな格好で歌う姿はそんなに大柄にも見えませんが、驚くほど声がよく通る。物語の大詰めの劇中劇の場面、ついに堪えきれずに観衆の目も忘れてカニオを非難する場面には鳥肌が立ちました。優れたオペラの舞台でいつも感じることだが、私はオペラの中で御都合主義的であったりお涙頂戴式であったり、要するにろくでもないお話が歌の力によって突如真実の世界に変貌する瞬間が何より好き。そしてその真実への変貌は優れた歌手によってしかもたらされるものではありません。いや、それにしても女声の世界では本当に凄い歌手が次々と育ってきているような予感がします。
こちらは他の歌手もとても良かったと思います。カニオを歌った片寄純也、ネッダがこれほど優れた歌手でなかったとしても、彼だけでも聴きにいった値打ちがあると思ったことでしょう。声もでかいし、表情も隈取が濃くていい感じ。でもなぜか感動するところまではいかない。「衣装をつけろ」も、すごくいいんだが涙腺がおかしくなるほどではないのがもどかしい。なんだろうね、あとは場数かな・・・。それが日本にいては最も難しいことなんだけれど。トニオ、ペッペ、シルヴィオ役で脇を固める歌手たちも好演。「カヴァレリア」もこれぐらいの男声が揃っていれば良かったのに。というか、よく考えたらカヴァレリアの男声はトゥリッドゥにしてもアルフィオにしても歌手にとってものすごく難しいのだろうな、と改めて思いました。
演出はいわゆる「読み替え」ってやつですが比較的良くできていたと思います。場面を現代に移し、テレビのバラエティ番組の公開収録中に惨劇が起こるという設定。冒頭のトニオの前口上は番宣の中でカメラに向かって話すということになってたり、サーカス一座を迎える群衆の合唱は、空港に到着した大物タレントへの群集の歓呼になっていたり。なるほどね。でもアイデアは面白いんだが、このまま最後まで歌詞と齟齬を来たさずに押し切れるのだろうか、と要らぬ心配をしてしまうのが何とも苛立たしい。ワーグナーのような象徴性の高い物語ならともかく、ヴェリズモで読み替えというのはけっこうきわどい感じがして私はやはり好きになれないと思いました。
東フィルの巧さについては前半と同じく。カリニャーニの指揮はこちらのほうはとても良かったように思います。思うに、レオンカヴァッロの方がマスカーニよりも音楽的により保守的な書法を採っている所為ではないか(それはより優れているというのとは違う)。ですが無いものねだりを承知で言えば、このオペラに関してはもっと下品に扇情的に、泥臭くいくやり方もあるような気がする。まぁいろいろケチを附けているんだが、概ね日常的な公演としては立派なものであったと思います。

場所は東京文化会館大ホール。音の良さは言うこと無しですが、座席の勾配が緩くて前にちょっとでかい人が座ると舞台のど真ん中が影になってしまう。私は2階席右手だったのだが、斜め前にでかい兄さん座ったのでかなりいらいらするはめに。それと、二期会公演の後期高齢者比率ってすごいね。聴衆の平均年齢70近いんじゃないか。年寄りは大体若いのよりもマナー悪いのでこちらもいらいらさせられること多し。なかなか世の中ままなりません。
by nekomatalistener | 2012-07-15 20:31 | 演奏会レビュー | Comments(0)

イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956 (その1)

量子力学ことわざ集

【シュレディンガーの猫にまたたび】
箱の中に猫とまたたびを入れておくと猫がよっぱらう現象。
【シュレディンガーの猫に小判】
猫が小判をもらって喜ぶ確率は50%という法則。
【シュレディンガーの猫耳メイド】
口では「お帰りなさいませご主人さま」とか言いながら実はいけない子猫、というパラドックス。




昔は大好きだったのに今はピアノ音楽を好んで聴きたいとは思わない。だからこそ、今ピアノ音楽に真剣に向かい合ってみたいと思う。昔はテクニックに瑕のある演奏にはあまり興味がなかった(興味がない、というのは、嫌い、というよりも対象を貶める言葉だ)。しかし、ピアノへの熱が醒めた今だからこそ、かつては技巧の瑕が気になって真剣に聴こうとも思わなかった数々の大家たちと虚心坦懐に向き合えるような気がするのだ。
そんな訳で以前から興味はあったが手が出なかったイーヴ・ナットの、EMIに残した録音の集大成といったCD。いくつか聴いてみて立派な演奏だと思いました。CD15枚組で、内8枚がベートーヴェンのソナタ集、残りはシューマンをメインに、シューベルト、ショパン、ブラームス等々。とりあえず順不同に心の赴くままに15回シリーズを目指します(途中で飽きるかも知れないけれど・・・)。初回の今回は敢えて15枚中7枚目のディスクを紹介したい。

 CD7
 ベートーヴェン
 ピアノ・ソナタ第26番変ホ長調Op.81a「告別」 [1954.5.3録音]
 ピアノ・ソナタ第27番ホ短調Op.90 [1954.6.録音]
 ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調Op.106「ハンマークラヴィア」 [1954.10.4,22,25&26録音]
 (EMI CLASSICS0946 347826 2 3)

ベートーヴェンの32のソナタでは、誰が何と言おうと私は第29番「ハンマークラヴィア」が最も好き。学生の頃に、とあるアマチュアの演奏会で第4楽章のフーガを取り上げ、随分苦労して何とか人様にお聞かせできるようになったという極私的思い入れがあること、そして何より、ベートーヴェンのピアノソナタの中では最も「後期様式」が色濃く現れた作品であるからです。何を以って「後期様式」というかは議論のあるところでしょうが、精神論的なものは措くとして、①フーガの活用②装飾音としての機能を著しく逸脱した長大なトリル③ソナタ形式の再現部等における単純な繰り返しの回避④緩徐楽章における果てしない沈滞⑤形式上の、あるいは規模的な肥大、他にも色々あるけれどまずはこういったものだと思います。それらが一般に後期の作品とされる28番以降のソナタの中でも特に顕著であるのが29番ソナタ。理屈はともかく、最後の壮大なフーガは本当に人類の遺産というに相応しい。これを練習していた時、友人達と手持ちのレコード(当時はまだLPの時代)を持ち寄って29番の聴き比べをしたことがあります。その時私の気に入ったのはポリーニとルドルフ・ゼルキン。がっかりしたのはバックハウス。全然弾けてなくて愕然とするほど。ついでに聴いたバックハウスの第32番の2楽章はまるで小便を我慢しながら弾いてるみたいな落ち着きの無い演奏。世評というものが如何にあてにならないものか痛感しました。その後30年ほども経って、最近ではソロモン・カットナーの演奏が最高ではないかと思うようになりました。最初の2つの楽章における強靭なテクニックも凄いですが、第3楽章の深い沈滞、終楽章の感動的なフーガに参りました。

のっけから脱線が過ぎました。ナットのことを書かねばなりません。誰の録音であれ、ベートーヴェンのソナタ集を聴くならまず29番を聴きます。それがダメならもう聴く値打ちないかな、と。結論から言うとナットの29番、とても感動しました。この人、左手の広い和音の掴みに難があり、他の音を引っ掛けたり、そうでない時でも音がしばしば濁ったりする。多分あまり手が大きくないのでしょう(ゆっくり手を広げれば10度はとどくみたいだが、ぱっと瞬間的に掴むのは8度すらちょっと怪しい感じ)。しかし1930年から56年の録音であることを考えると、同時代の様々な演奏家たちと比べてもテクニックがまずまずしっかりしているほうで、おそらく編集によるミスの修正も殆どされていないと思われるのに随分瑕が少ない方だと思います。何よりもミスタッチを恐れて勢いを殺がれているような箇所が一箇所もないのが素晴らしいと思う(楽想の勢いを重んじた結果のミスタッチはあまり気にならないものだ)。第1楽章の気迫と妥協の無さ、第2楽章の推進力、第3楽章の深く呼吸するようなアーティキュレーションが素晴らしいと思う。ですが最も素晴らしいのは終楽章のフーガ。高々3声のフーガだけれど、内声部の錯綜や跳躍を伴う音形によってフレージングを犠牲にすることなく、いや、それ以前に、一音符たりとも端折らず誤魔化さずにインテンポで弾くことはプロにとっても相当な困難だと思います。ナットのこの演奏は、誤魔化しが一切ないとは言わないが本当に少ない。そして素晴らしいインテンポ。完成度としてはソロモンの演奏を上回るものではないが、私は久しぶりにこのフーガを聴いて胸が熱くなりました。この感動は正真正銘の本物という気がして、これで残り14枚のCDを真面目に聴いてみようという気になりました。

カップリングの26番と27番も大変優れた演奏だと思います。26番はエクリチュールの自在さは後期を先取りしているようなところがあるが、ピアノの技巧という面では中期のスタイルの延長線上にある。これが意外に弾き辛いのですが、こういうところを誤魔化したり妥協したりせずに、実に剛直に押し切った感じがする。しかもただ剛直なだけでなく、両手がLebewohlと呼び交わす部分の纏綿とした情緒、あまり神経質なデュナミークの変化をつけない古いスタイルですが、何というか花がひらくようなかぐわしさに満ちていてまことに結構。音楽の「十全な全体像」というものが仮にあるとして、それから色々と削ぎ取って残った側面を拡大して聴かせるタイプの一群の演奏家がいる。反対に、一つ一つのアスペクトに深入りするのではなく、ましてやその一部を捨て去るのではなく、十全な全体像を示そうとするタイプの演奏家もいる。ナットの古い録音は表現の厳しさ、妥協の無さにもかかわらず、この「十全な」感じというのがよく現れているように思う。
27番は、意外に多い2楽章形式のソナタの一つ。厳しい第1楽章と歌謡的な第2楽章、この第2楽章に溢れる歌はどこかシューベルトの20番ソナタの終楽章を思わせるものがあって、これまた私の大のお気に入り。この2つの楽章だけで、もう何も附け加えるものがないと思わせるところが作曲技法上のミソ。ナットの第1楽章は発止と打ちこむ和音の激しさが聴いていて少し疲労を覚えるほどですが、第2楽章の自然なアーティキュレーションと併せて聴くと、やはり削ぎ落していくタイプではなく十全さを追い求めているタイプなのだと思う。なかなか上手く言語化できないのだが、このあたりは追々言葉を尽くして明らかにしてみたいと思います。

蛇足ですが、ハンマークラヴィアの第1楽章の再現部でナット盤は聴きなれない音がある。何だろうと思ってIMSLPで調べたら1910年頃に出版された古いペータース版(図1)の4小節目の右手上声部のAの音がそれ。さらに調べたら初版のアルタリア版がAなのでした。因みに図2は1920年頃のペータースの新版でAsの表記。ブライトコップ&ヘルテル版もリコルディ版もウニフェルザール版もAs。どうでもいいんだが、ナット盤はAで比較的珍しいのでは、と思ったので・・・。
(図1)
a0240098_4124466.png

(図2)
a0240098_4374862.png

(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-07-13 05:37 | CD・DVD試聴記 | Comments(6)