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ストラヴィンスキー自作自演集WORKS OF STRAVINSKY (その18)

さすがにケンタ食い放題(45分1200円)でモト取る気はないなぁ。




久しぶりのストラヴィンスキー自作自演集の感想シリーズ、CD18枚目は”Oratorio-Melodrama Vol.1”と題されています。

オペラ=オラトリオ「エディプス王」(1926~27/1927.5.30演奏会形式初演/1948改訂) [1961.1.20録音]
  エディプス: ジョージ・シャーリー(T)
  ヨカスタ: シャーリー・ヴァーレット(Ms)
  クレオン: ドナルド・グラム(Bs)
  ティレシアス: チェスター・ワトソン(Bs)
  伝令: ジョン・リアドン(Bs)
  羊飼: ローレン・ドリスコル(T)
  語り手: ジョン・ウェストブルック
  作曲者指揮ワシントン・オペラ・ソサエティ管弦楽団&合唱団

音楽劇「洪水」(1961~62/1962TV初演) [1962.3.28-31録音]
  語り手: ローレンス・ハーヴェイ
  ノア: セバスチャン・カボット
  ノアの妻: エルザ・ランチェスター
  神の声: ジョン・リアドン&ロバート・オリヴァー(Bs)
  ルシファー: リチャード・ロビンソン(T)
  呼びかける声: ポール・トリップ
  作曲者監修の下にロバート・クラフト指揮コロンビア交響楽団、グレッグ・スミス・シンガーズ

私にとって「エディプス王」と言えば何といっても1992年のサイトウ・キネン・フェスティヴァル松本におけるオペラ仕立ての公演。といっても生の舞台を観たのではないがBSで放送されたのが強烈に印象に残っているという訳。小澤征爾の指揮もジュリー・テイモワの演出も素晴らしく、ジェシー・ノーマンのヨカスタはこれ以上の歌唱があり得るとは思えないほど。冒頭の白石加代子の語りからしておどろおどろしく、暗黒舞踏のような演出が重厚なギリシャ悲劇の世界を描き出す。これは恐らく作品の本来の姿以上のものを現出させることが出来た、類稀な名演だと思います。
これを念頭に置いて自作自演盤を聴くと、最初は薄くて乾いたオーケストラの音響にちょっと拍子抜けしそうになります。ところがよくよく聴くと、この地中海的というか、明るいといってもよい音響によって人類の根源的悲劇が語られるのが何とも恐るべき効果をもたらしているように思う。ストラヴィンスキーの頭の中にある、本来の音(理想像)が見事に現実のものとなっていると思うのですが、その理想像とは1920年代のパリで、コクトーやクローデル達と、いわゆる6人組の連中のコラボが目指していた新しい芸術、すなわちサティの「ソクラテス」や「パラード」の世界から出発し、オネゲルの「アンティゴーヌ」やミヨーの「クリストフ・コロンブ」といった舞台作品に結実した芸術的潮流と関連があると見るべきでしょう。この辺りの音楽については私はあまり詳しくないので、これから色々と音源を集めたいと思っています。それにしても先ほど述べたような潮流を何と呼べばいいのか、新古典主義というのでは不十分、私が知らないだけかもしれませんが、適当な言葉がないですね。
この自作自演盤、歌手はやはりシャーリー・ヴァーレットのヨカスタが大変優れています。アリアの凛とした佇まいに時折狂気が閃くのが怖い。伝令のジョン・リアドンも素晴らしい。彼は先日紹介した「レイクス・プログレス」でニックを歌っていた歌手。突き刺すようなトランペットのファンファーレに続いて伝令がヨカスタの縊死を告げる場面は、まさに根源的悲劇と呼ぶに相応しく、アルカイックで格調の高い音楽に心が揺さぶられる思いがします。その他、エディプス役が少し弱い感じがしなくもないが、クレオン、ティレシアス等いずれも過不足ない歌唱だと思います。
この乾燥した響きとアルカイックな旋律によって生み出される表出力の強さというのは只事ではないのですが、どこかしら聴き手を選ぶというか、聴き手を突き放すような傾向があるのは否定できないと思います。脱線めきますが、これを聴いていて思い出したのが、(またかと言われそうですが)ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の1967年公開の映画「アポロンの地獄」(原題は”EDIPO RE”、すなわちエディプス王)。いや、題材が一緒だから、というのもあるけれど、からからに乾燥したギリシャの風景とか、一見舌足らずなほど簡潔な台詞、暗い情念のようなものを注意深く取り除いた表現、しかもなお立ちのぼる悲劇的なる何物か、こんなところが両者を結び合わせるような気がするのです。「アポロンの地獄」と「エディプス王」。ソポクレスの悲劇による、20世紀が生んだ偉大な2つの芸術作品。

「洪水」はストラヴィンスキーが珍しくテレビのために書いた作品。そのときの録画は残っていないようですが、ジョージ・バランシンの振り付けによるバレエが附いていたそうです。実にテレビ的というか、オペラでもオラトリオでもない不思議な作品ですが、結果としては単発の試みに終わった孤立的な作品という感じがします。このシリーズで何度か引用してきたJoseph N. Strausの”Stravinsky's Late Music”でもかなりの頁を割いて、この作品で用いられている音列操作の分析が挙げられていますが、より簡単にアクセスできる資料として、次のサイトを紹介しておきます。
http://home.earthlink.net/~akuster/music/stravinsky/objects/04-flood.htm
大変興味深い(人によっては大変辛気臭い・・・)論文ですが、実際に「洪水」を耳で聴いて感じるある種の平易さ、親しみ易さの原因としては、音列の操作の結果というよりは冒頭のヴァイオリンのトレモロによる5度の音形だとか、合唱によるTe Deumの、cis-disの繰返しが醸し出す一種の擬調性感によるところが大きいのではないかと思います。因みにこの合唱は基本音列(cis-h-c-fis-es-f-e-d-b-a-g-as)の反行形(cis-es-d-as-h-a-b-c-e-f-g-fis)の最初の6音から出来ていますが、cis-disが何度か繰り返された後の-d-gis-h-aの音形が、前半で生み出された調性感を歪める結果となっています。この図式は以前に取り上げた「兵士の物語」の冒頭4小節の分析(2011.10.27投稿)、仮にpseudo-tonalと述べたあの旋律と同様の構造ですね。こんなところに聴き易さ(というのが言い過ぎなら既聴感と言ってもいい)の一端が現れているのだと思います。
ストラヴィンスキー晩年の十二音技法による作曲手法、それは単純にシェーンベルクやウェーベルンから学んだというのではなくて、あくまでもストラヴィンスキーの眼鏡にかなった、彼自身のフィルターをくぐり抜けたものというべきであって、その導き手として彼が私淑し、採用したものはおそらくエルンスト・クシェネック、あるいはミルトン・バビットらのスタイルだと思われます。実際には当時の最先端の音楽というのはウェーベルンの後継と目されるような人達、ダルムシュタットでデビューしたような人達、ブーレーズやノーノもそうでしょうが、彼らこそが新しい音楽の旗手だったわけで、ストラヴィンスキーにしてもクシェネックにしても前衛の本流からは少し離れたところにいたのではと想像します。ただしこれは私の耳学問であって、私自身が彼ら(クシェネックやバビット)の作品を殆ど知らないので断言は出来ません。まだまだ自分自身の経験の裾野を拡げて行かねば、と痛感します。
お話は聖書のアダムとイヴの話からノアの方舟の話に至る自由な、というか他愛ないテキスト。晩年になって宗教的な作品が目立って多くなるストラヴィンスキーですが、この「洪水」をもって彼の信仰の拠って立つ所を云々するのは無理という他ない。聖書に題材を借りたテレビ向けエンタテインメント、というのが実態に近いような気がします。しかし音楽の方は本気も本気、特に洪水のスペクタクルな描写はなかなかのもの。
先程のサイトの音列分析は読むのにかなり骨が折れるが、登場人物毎に割り当てられた音列をトポロジカルに配列すると、そこに天上の世界と地の世界の位相が現れるというのはかなり魅力的な説であると思います。いや、そんなことは音楽の出来とか音楽的感動とは何の関係もないだろう、と憤激する向きもあろうかと思いますが、なに、バッハのスコアだってそんなトリヴィアだらけなのですよ。だからどうだ、と言うつもりもないが、ことさらむきになってこういったアナリーゼ、ひいてはその音楽自体を否定しようとする(世間によくある)言説には非常に幼稚な思考回路を感じます。いや、人様のことはとやかく言うまい。これはあくまでも私が猫またぎの名に懸けて一つの作品を味わいつくそうという過程の、その一端の紹介に過ぎない訳ですから。
by nekomatalistener | 2012-06-26 23:52 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

大井浩明 ジョン・ケージ生誕100周年記念 ≪ピアノ・アンバイアスト≫

テルメャーロメャーなんて言わんでよー。





月一回の週末の帰省を利用して、芦屋まで大井浩明のリサイタルを聴きに行きました。


  大井浩明 《ピアノ・アンバイアスト》第1回公演~ジョン・ケージ生誕100周年記念
  2012年6月16日 山村サロン(芦屋)

  J.ケージ: プリぺアド・ピアノのためのソナタとインターリュード(1946~48)
  片岡祐介(1969-): プリぺアド・ピアノ独奏のための《カラス》(2012 委嘱新作初演)
   (休憩)
  J.ケージ: 易の音楽(1951)

  (アンコール)E.サティ: ジムノペディ第3番


以前、大井浩明がシュトックハウゼンを弾いた際、「このブログが大井氏の目にとまるかどうか判らないけれど、次回は会場のイビキや寝息が気にならないように是非ジョン・ケージ特集をお願いしたいものです。『易の音楽』は我々聴衆にとっても絶対に素通りしてはいけない音楽だと思いますので」と書きました(2012.1.31投稿)。が、こうやって思いの他早く、「易の音楽」を聴けるとは!本当に今回のリサイタル、快挙だと思いました。「イビキや寝息」どころか、集まった聴衆は(100人もいないくらいだけれど)皆真剣に聴き入っており、それもまた大変うれしいものでした。駅前の商業ビルの3階、能の舞台に年季の入ってそうな小型のスタインウェイが鎮座しており、場所柄買い物客の声や子供の走り回る音が微かに聞こえたりするが、そこは目を瞑ろう。

リサイタル前半の「プリペアド・ピアノのためのソナタとインターリュード」は、ケージの作品の中では比較的CDも多く、よく知られている部類だと思いますが、後半の「易の音楽」はその名のみ有名で実際に演奏される機会は極めて少ないのが現実でしょう。因みに私は前者については高橋悠治の1975年録音のデンオン盤で親しんできましたが、この記念碑的CDについては別に稿を改めて取り上げてみたいと思っています。後者についてはヘルベルト・ヘンクが1982年に録音した独ヴェルゴ盤(WER60099-50)を聴いてきましたが、今回の大井浩明の演奏を聴いてしまうと、演奏・録音両面で些か情報量の少ない演奏に思えてしまいます。

詳細にきちんと時計を見ていた訳ではないけれど、前半の「ソナタとインターリュード」だけで70分くらい掛かっていたのではないか。高橋悠治のCDはトータルで61分位だが、大井の演奏はテンポがゆっくりしているというよりは、繰返しを全て行なった結果のようだ。全部で16曲あるソナタは、例外もあるが概ねAABBといった形式の、いわばスカルラッティ風の単楽章のソナタ。途中で4曲挟まれるインターリュードは幾分形式的な自由度が高く、敢えて言うならラプソディックな音楽。プリペアされた45の音は、弦にボルトを挟み込まれて「ビョ~ン」とノイズを含んで鳴る音から、ゴムを挟まれて「ポコッ」と死んでいる音の間の様々な表情(「カシャッ」とか「パシッ」とか)を見せる。また、ボルトの重さによっては、弦自体がその重みによりかなり音程が下がってしまい、奇天烈な響きを醸し出す。100人も入れば一杯になってしまう小さなホールで、ダンパーを上げた状態で鳴る音とも言えない音に息を詰め、時に一つ一つの音に淫するように、また時にガムラン風の響きにたゆたうように紡がれていく音楽に陶酔する思いでした。この山村サロンというホール、私は初めてでしたが、最初部屋の造りを見てデッドかな、と思ったら以外とよく響き、プリペアド・ピアノの響きを堪能することが出来ました。

続いて演奏された片岡祐介の「カラス」、チラシの解説には「必然性のある蛇足」とあるが、ネタバラシをすると、ケージの「ソナタとインターリュード」演奏後に弦からボルトやゴムを取り除いていく際の音響と一連のパフォーマンスが作品となっている、ということ。ケージ演奏後、大井はピアノの下にもぐりこんでペダルの後ろに木片のようなものを挟み込み、ダンパーを上げた状態にして楽譜(というか手順書)を見ながら、ボルトやゴムを順次取り除いていく。その際、低弦はビョーンと大きな音がなり、高音部はコリコリと小さな音、そして外したボルトやプラスチック片を容器に容れていく際のカラカラいう音、こういった全てが「作品」となっていて、実にケージの演奏会に相応しい素敵な「蛇足」なのでした。

後半の「易の音楽」、こういった演奏会というのは、語り継がれなくてはならないと思う。私はおよそ80分弱の間、身じろぎもできず聴き入り、とてつもない感銘を受けた。曲のコンセプトはよく知られていると思うが、8×8の方陣に記された音楽上のイベントとその構成要素としての音高・音価・強度などの全てが3枚のコイン投げの結果によって選ばれ、楽譜に確定的に記されていく、というもの。全4巻からなる大作だが、各巻の小節数もコイン投げの結果である。楽譜上の横方向2.5cmが四分音符一個の長さになぞらえられ、1分あたりの四分音符の数はこれまたコイン投げによって選ばれ、次々と変動していく。作曲のプロセスのかなりの部分が偶然に委ねられており、その結果数十秒の沈黙が続くかと思えば同時多発的なイベントによって超絶技巧を要するような音の密集が発生する。第1巻はそれでも比較的伝統的な奏法によるのだが、第2巻以降は、内部奏法や肘まで使ったクラスター、ピアノの胴体を叩いたり蓋をパシンと閉めたり、あるいは内部のフレームを棒で叩いたり、といったイベントが加わる。内部奏法は、弦を指ではじいたり棒で引っ掻く他、弦に指を置いて鍵を叩き、その瞬間ペダルを踏み込むことで「音を殺して響かせる」奏法もある(FINGER-MUTEDと記されている)。ソステヌート、ウナ・コルダとサステインの3種のペダルの使用は厳格に譜面に記されており、また打鍵後に音が消えようとする瞬間にサステイン・ペダルを踏むとか、鍵盤を鳴らさずに押しておいて倍音を響かせるといった特殊奏法に満ち満ちていて、こうして小さなホールで実際に聴くと驚くばかりの豊かで多彩な響きを作り出す。まったく不思議で仕方が無いのだが、この偶然の産物がどうしてこんなにかっこよく聞こえるのか。これは美なのか、といわれると少し躊躇する。響きというか、各イベント、各瞬間が言葉の通常の意味で美しいか、と言われたら、美しい瞬間もそうでない瞬間もある、といったところだと思う。ただ、それを黙々と演奏するという行為そのものが、私の貧しいボキャブラリーで表すと「かっこいい」ということになるのだ。CDで聴いていたときには全く思いもよらなかったことだが、大井はピアノから楽譜立てを取り外し、ペータース版の楽譜を拡大コピーしたと思しい冊子をフレーム手前に直接置いて弾いた。楽譜の下端が鍵盤に覆いかぶさり、鍵盤を弾く時はえらく弾きづらそうに見えるが、内部奏法が頻出するので致し方ないのだと思う。これって、プロンプターのような小さなモニターをフレームに置いて楽譜を写す、とか、やりようがあると思ったが。いずれにしても色んな意味で難曲中の難曲といえるだろう。CDが殆どないのも無理はないが、ヘンクのCDが46分強、ケージ自身の想定した演奏時間が43分に対して、今回の大井の演奏が70分超えとはどういうことか。全4巻の中で一番長い第2巻はヘンクのCDで約20分、楽譜に記されたケージ自身による目安の時間は16.5分であるが、このリサイタルでは多分30分を超えていたと思う。曲のテンポに関しては作品の性格上、もはや目安程度にしか現実には取り扱えないと思われる。実際耳で聞くと、ヘンク盤は各イベントの性格の対比にはあまり関心が払われておらず、一気呵成に作品の全貌を示そうといった趣ですが、内部奏法、特にFINGER-MUTEによる多彩な音色変化はややおざなりな感じで(演奏・録音両方に責任があると思う)、正直なところ、コンセプトあるいは現代音楽史上の重要性に比してさほど面白いとはいえない、というところでしょう。しかし大井浩明の演奏は、演奏時間が雄弁に示すとおり、どこまでも各イベントの醸し出す響きにこだわり、響きに淫するような演奏。音を鳴らさないままペダルを強く踏み込み、「・・・」(漫画なら「シーン」と書くところ)と音にならない音が消えるまで耳をすます行為。恐らくケージが(やや表層的に)鈴木大拙の思想などから夢想していた世界を、誰よりも正しく、ケージの想像をむしろはるかに超えて実現した演奏といえないだろうか。自分自身でもこれだけの長丁場、いっときも集中力が途切れることなく、最後まで聴き通したことに驚いています。

それにしても、ケージはやはりライブを聴くべき作曲家だとつくづく思う。特に後年の、図形楽譜や、本当に偶然の要素(ラジオを鳴らすという指示があれば、そのとき偶々ラジオでやっていた番組とか)による作品は、もはやCDのような繰返しの再現を前提とした記録媒体には向かないので当然だが、今回のような「確定的に書かれた作品」にしてもライブを聴いて初めてその面白さが体感できるような気がしました。そうはいっても、一般的なリスナーとしては、まずはCDやDVDから対象に近づいていくしかないのだから、とりあえず「易の音楽」などは何度もCDで聴くしか、ケージに近づく道はないと思う。少なくとも、ケージといえば「4'33''」、というのでは何も理解したことにはならないと思う。演奏家にももっと取り上げてほしいと思うが、「ソナタとインターリュード」はともかく、「易の音楽」の難しさは想像を絶するほどであるので、しばらくは大井氏に録音を期待するくらいしかなかろう。

「易の音楽」が終わって、アンコールにサティのジムノペディ第3番が演奏された。サティ→マルセル・デュシャン→ケージという水脈を知る者には何の違和感もない。実に素敵なアンコール。
by nekomatalistener | 2012-06-18 21:31 | 演奏会レビュー | Comments(4)

新国立劇場公演 ワーグナー 「ローエングリン」

前回クンタ・キンテのことを書いて、ふと(関係ないけど)ハクナマタタってどういう意味?と思って調べたらスワヒリ語で「くよくよするな、なんとかなるさ」だって。へ~。




新国立劇場で「ローエングリン」を観てきました。

  2012年6月13日
  ハインリッヒ国王: ギュンター・グロイスベック(Bs)
  ローエングリン: クラウス・フロリアン・フォークト(T)
  エルザ: リカルダ・メルベート(Sp)
  テルラムント伯フリードリッヒ: ゲルト・グロホフスキー(Br)
  オルトルート: スサネ・レースマーク(Ms)
  伝令: 萩原潤(Br)
  指揮: ペーター・シュナイダー
  演出: マティアス・フォン・シュテークマン
  美術・光メディア彫塑・衣裳: ロザリエ
  合唱指揮: 三澤洋史
  合唱: 新国立劇場合唱団
  管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

今シーズンの掉尾を飾る本公演、尋常じゃないクォリティながら私にはどうにも燃えない(萌えない)舞台でした。
今回の公演で恐らく最も世評の高いのはローエングリンを演じたフォークトであろうと思います。まず驚くのはその超が附くほど合理的な発声法。些かも力まずに声が客席までびんびん届く。ソットヴォーチェで歌っていても同様。その声の届き具合というのは他の出演者とはもう段違いなのである。第3幕のグラール語りの部分など、ビロードの手触りみたいな、息を呑むようなピアニッシモが出てくる。見事である。この一年程の間に、新国立劇場でまさに旬の歌手を聴いてきた。例えば昨年6月の「蝶々夫人」におけるオルガ・グリャコヴァ、今年4月の「ドン・ジョヴァンニ」におけるマリウシュ・クヴィエチェン。フォークトも多分今が旬の真っ最中、この時期に彼のローエングリンを聴けたというのは大変な幸運であろうと思う。
しかし・・・しかし、なのである。
私は彼の声質がどうしても好きになれない。この声がヘルデン・テノール?ちょっと待てよ、と言いたくなる。フォークトの声というのはちょっと特殊というか、カウンターテナーの逆みたいに女性が男声を歌うような感じの声。これはメゾソプラノ歌手がケルビーノやオクタヴィアンみたいなズボン役を歌うというのとは全く違って、女性が特殊な発声でテノールを歌っているみたいに聞こえるということ。ユニセックスな声というのか、アンドロジナスな声というのか、妖しいというのとも違う。もちろん少年みたいというのとも少し違う。なんだかそもそも性というものが存在しないような声。こういった声を愛して已まない人達が大勢いるのは判るのだが、私は(喩えは悪いが)美青年なのに脱いだら体毛が全く生えていなくて気持ち悪い、みたいな感じを受ける。ある意味、童貞の騎士ローエングリンにはうってつけなのかも知れない。パルジファルなんかも向いているのだろうと思う。でも私は嫌いだな。これはもう趣味の問題だから仕方が無いが、少なくともこの声でトリスタンやジークフリートは勘弁してほしい、と思う。美青年でも別によろしいかとは思いますが、脱いだらがっつり胸毛生えてるのが本来のヘルデン・テノールだと思うので・・・(笑)。古くて恐縮だが、往年のヴィントガッセンみたいな感じ。いやいや、好き嫌いを別にすれば凄い歌手だとは思う。カーテンコールの熱狂的な拍手も当然だと思う。昨日新国立にいた人の大多数はフォークトの声に興奮していたはずだ。ああ、でも。こんな時に自分のマイノリティぶりを痛感させられずともよいのに、と少し恨みがましい気分になりました。

今回舞台で観て、改めてこのオペラ、登場人物でまともな論理的思考が出来てるのはフリードリッヒだけだと思いました。だってそれ以外は訳判らん童貞騎士と、それに付和雷同する王と兵士、そして言いつけを守れないバカ女と、こちらも我慢しきれず呪いの満願成就を逃した間抜けな魔女だけですもんね。そのフリードリッヒを歌うグロホフスキー、第1幕では声量が足りずに小役人が王に讒言しているみたいに聞こえるが、第2幕のオルトルートとの対話、婚礼の行進を遮っての王への訴えの場面、エルザにローエングリンの体の一部を切り取るよう頼む場面(ここはワーグナーの音楽による心理表現もつくづく素晴らしいと思うが、それを音として表現するグロホフスキーの力量もなかなかのもの)と、ぐんぐん良くなっていきました。オルトルート役のレースマークは高音があまり伸びず、少ししんどそうと思いましたが、それでも第2幕は聞き応えのある歌唱。国王のグロイスベックも特に不満はなし。伝令の萩原潤は、今年1月の「ボエーム」のショナールは少し不満が残ったが、今回は声がよく届いてよかったと思います。
エルザ役のメルベートは、特に第1幕、ビブラートが大きすぎてあまり好きになれない声だと思いましたが、第2幕第3幕は(こちらの耳が慣れたせいもあるかと思うが)なかなか良い歌手だと思うようになりました。
三澤洋史率いる合唱団の素晴らしさはいつもどおりだが、「オランダ人」の時とくらべると場面によって若干出来不出来のむらがあったように思う。男声8部とかパートが細分化されるとすこし輝きが褪せる感じ。

フォン・シュテークマンの演出、というよりロザリエの美術といったほうが良いのかも知れませんが、前回のオランダ人の時よりさらに抽象化が進んだ感じ。背景のスクリーンの他には殆ど大道具がなくて、第1幕は1.5m角くらいのポリスチレンの板みたいなやつ(納豆パックのフタみたいな形ww)を積み重ねた上に王が乗って歌う。これが見た目がなんとも不安定(笑点のざぶとんみたく)なんだがそれも狙いの内だろう。またローエングリンとフリードリッヒの決闘もこの板の上で行なわれる。白鳥の場面は天井から羽に包まれたローエングリンが降りてくる仕掛け。失笑とまではいかないにしろ、正直なところ、第1幕だけ観るとげんなりしていたのだが、第2幕、殆ど何もない舞台にあかるく側面が光る足場板がすっと横に伸びてエルザがその上で歌う。この抽象化されたバルコニーの美しいこと。また、第2幕後半、婚礼の行進の場の美しさは特筆もの。最後、真っ赤なバージンロードを、婚礼衣装(これも高度に抽象化されたデザインで素晴らしい)を着けて歩みかけたエルザが気を失って倒れるのが何とも痛々しい。第3幕前半、舞台には初夜を表すかのように真っ白な巨大な花に、血のような花弁状(もしくはレバ刺し状)のものが一枚張り付いていてどきっとする。後半はこれまた何もない舞台に兵士たちが下からせりあがってくる。ローエングリンを迎えにくるはずの白鳥は現れず、少年ゴットフリートはセリに乗って舞台に現れる。最後なんともやりきれないというか、ちょっと理解に苦しむのは、一同の喜びの内に現れるはずのゴットフリートをエルザが邪険に突き放し、王を始め群集も誰も少年に見向きもせずに舞台から去ってしまう結末。哀れなゴットフリート少年は一人舞台で三角座りして幕。あまりにも救いがない結末で暗澹たる気分になってしまう。
主役たちや兵士たちの動きはどちらかといえば様式化されたもので、これはこれで納得のいくものでした。全体にシュテークマンの演出は何もしなさ過ぎという評価があるようだが、演出家が過剰にメッセージを発するよりは観客に謎を与えて考えてもらうといったやり方は私は悪くないと思う。だいたいワーグナーの長大なオペラで歌手の一挙手一投足まで過剰な演出を求めるのは歌手に酷なだけでなく、己(観客)の精神的怠惰以外の何物でもないと思う。でも、なんでも絵解きしてくれないと不満な人達は多いみたいですね。困った人達。

ペーター・シュナイダーの指揮はやや重たいリズムで、それが狙いだとは分かっていてもテンポの速いところは聴いていて心弾まないこと甚だしい。もともとゆっくりとしたところ、例えば第2幕の聖堂に向かうエルザの行進などは合唱の素晴らしさもあって感動的だったが、お目当ての第3幕前奏曲や、私の大好きな第3幕第3場の導入のファンファーレには不完全燃焼のもどかしさを憶えた。オケはこれだけの長丁場、大健闘といってよいのだと思う。

音楽とはまったく関係ない次元の話だが、最近の年寄りの、演奏中に飴やらガムやらの包装をカシャカシャ音立てて剥く風習はなんとかならんのか。それも、よりによって音楽が静かになるとおもむろにバッグをごそごそ、飴の包装をカサコソさせるのはどうして?大体60代から70代、婆さんが多いが昨日はジジイもいた。フォークトのすばらしいソットヴォーチェの最中のそれには殺意すら感じた。彼らは耳が遠いから聞こえないと思っているのかもしれないが、あれは離れていても50以下の人間の耳には聞こえるのである。こちらは2階B席とはいえ14,700円も払って、何が悲しくて年寄りの皮剥き音を聞かなくてはならないのか。劇場入り口で配っている大量のチラシの束を床に落とすバカ(何人か絶対にいる)への対策ともども、劇場側の善処を求めたいところだ。
by nekomatalistener | 2012-06-14 23:34 | 演奏会レビュー | Comments(3)

ワーグナー 「ローエングリン」 ケンペ指揮ウィーン・フィル(その2)

魔法の言葉。缶コーヒーの「ルーツ」飲むと、心の中でクンタ・キンテとそっと呟く。



前回の続きです。
前回は専ら物語りのことばかり書いて、音楽そのものには殆ど触れることができませんでした。まだどこかウェーバー風の尻尾を引きずっていた「オランダ人」と比べると長足の進歩というか、すっかりどこを取ってもワーグナーの音楽になっているのが凄いと思う。その分、各幕の長さも半端やないですが・・・。もう少し正確に言えば第1幕と第2幕の幕切れ近くのコンチェルタート様式は若干伝統的なオペラ書法という気もするが、これとてとんでもなく長く、複雑に引き伸ばされているので誰かの亜流という感じはしない(ただしこの長さについてはマイアーベーアの影響などが多少あるのかも知れないが・・・)。

このケンペという指揮者、日本だけの現象かも知れませんが、レパートリーという点でベームと被ってしまい損をしている感なきにしもあらず。しかしながら実に立派な演奏。ウィーン・フィルの音圧に乗っかっただけの演奏ではなくて、ヴォーカル・スコアを見ながら聴くとそのリズムの自在さ(あるいは音価の伸縮といったほうが良いか)に思わず唸ってしまう。第3幕第3場の白熱の前奏などはブラスが落ちる寸前でスリリングだが、かっちりしたのがドイツ風と思っている向きには目から鱗だろうと思う。この自在さと熱狂の両方があってこそのドイツロマン派なのだろう。ワーグナー然り、ブルックナー然り。これはマーラーに必要な精密さとはちょっと趣が異なるのだろう。音楽としてはブルックナーとマーラーはそれぞれ密接にワーグナーと結びついているが、演奏家の観点に立てば、ワーグナー・ブルックナー・R.シュトラウスを得意とする人達と、マーラー・シェーンベルクを得意とする人達のあいだにはかなりはっきりとした区分がありますね。そんなこともこの演奏を聴いていると良く判ります。一昔前の演奏スタイルには違いないが、そこから得られる感動は途方も無く大きい。

歌手たちはいずれも大変優れていますが、オルトルートを歌うクリスタ・ルートヴィッヒとフリードリッヒを歌うディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウが特に素晴らしい。F=ディースカウが亡くなる前に買ったCDですが、聴き始めて間もなく彼の死のニュースを聞き、この上ない追悼の機会となりました。私はF=ディースカウの残した膨大な録音のごく一部しか知らないし、その中でも全てを肯定するつもりもない。例えば「トリスタンとイゾルデ」のクルヴェナールなどは、役柄と歌唱のスタイルが合わない例であると思う。しかしこのフリードリッヒは唯一無二というか、他の演奏を知らないのにこんなことを言うのも何だけれど、強烈な「負け犬の美学」を感じるのです。前回の投稿で、主役のローエングリンよりもむしろ人間的な魅力はフリードリッヒに注がれている、と書きましたが、聖性を帯びた童貞の騎士なんていう訳の判らん存在よりも、特段の落ち度もないのに悪役に仕立てられたフリードリッヒのほうにどうしても感情移入してしまうのは、もしかしたら初めて聴いたこのF=ディースカウの歌唱の所為かも知れません。この歌唱には雄々しさも女々しさも全て入っていて、切れば血の吹き出る人間の歌という感じがする。
例えば第1幕冒頭近く、エルザ告発の場を見てみよう(対訳はすべて「オペラ対訳プロジェクト」からの転載http://www31.atwiki.jp/oper/)

  Lustwandelnd führte Elsa den Knaben einst
  zum Wald, doch ohne ihn kehrte sie zurück;
  mit falscher Sorge frug sie nach dem Bruder,  
  da sie, von ungefähr von ihm verirrt,
  bald seine Spur - so sprach sie - nicht mehr fand.

  エルザは、少年を森への散歩に連れ出しましたが、
  一人きりで帰って来ると、
  さも心配そうに弟の行方を尋ねました。
  弟は道に迷って、
  足跡を見失ってしまったというのです。

と歌う所の表情の異常な細かさ、とくにso sprach sie の箇所、憎しみに顔が歪むような歌い方はどうだろうか。彼はこの前後の長い語りで、エルザの罪を告発する際には音程の歪みも厭わず感情を露わにし(こういう箇所ではごく僅かにピッチが上がり気味になる)、自らの権力継承の正当性を述べる際は朗々と、精確な音程で歌いあげる。
そうかと思えば、ブラバントの貴族達に軽率な行為をたしなめられて歌う次の箇所、

  Viel lieber tot als feig!
  Welch Zaubern dich auch hergeführt,
  Fremdling, der mir so kühn erscheint,
  dein stolzes Drohn mich nimmer rührt,
  da ich zu lügen nie vermeint.
  Den Kampf mit dir drum nehm' ich auf
  und hoffe Sieg nach Rechtes Lauf!

  臆病者と呼ばれるぐらいなら死んだ方がましだ!
  厚かましくも私の前に現れたよそ者よ!
  いかなる魔術がお前を連れてきたにせよ、
  生意気な脅し言葉など、いささかも気にならぬわ。
  私は嘘をついてなどいないのだから。
  私はお前との戦いに臨み、
  正義の裁きにより勝利を収めるつもりだ!

一人の人間としての虚栄も含めた誇りと隠しようのない不安、畏れに身震いしそうになる。前後で歌われるローエングリンの歌よりももっと、はるかにかっこよく聴いていて痺れる思いがする。ここはワーグナーの書法も天才的な冴えを見せている。
第2幕、オルトルートの讒言のせいで名誉を失ったと泣きごとを垂れる場面、

  Durch dich musst' ich verlieren
  mein' Ehr, all meinen Ruhm;
  nie soll mich Lob mehr zieren,
  Schmach ist mein Heldentum

  お前のせいで、私は名誉を失った・・・
  私の名声の全てを失ったのだ。
  もはや賞賛の声が私を包むことはなく、
  勇士としての名声は、恥辱にまみれてしまった。

特にこの歌詞の繰り返しの部分、まさに泣きごとを垂れる、という感じ、人間の弱さ、いやらしさを抉りだす歌の力に震撼させられる。あるいはオルトルートを非難して歌う次の箇所、

  Du! Hat nicht durch sein Gericht
  Gott mich dafür geschlagen?

  お前だ!だからこそ、私は打ち負かされ、
  神の裁きが下されたではないか?

もそうだ。
まだまだ続けたい。

  Wer ist er, der ans Land geschwommen,
  gezogen von einem wilden Schwan?
  Wem solche Zaubertiere frommen,
  dess' Reinheit achte ich für Wahn!
  Nun soll der Klag' er Rede stehn';
  vermag er's, so geschah mir recht -
  wo nicht, so sollet ihr ersehn,
  um seine Reine steh' es schlecht!

  野生の白鳥に曳かれた舟に乗り、
  この地に流れ着いた男は一体全体誰なのです?
  魔法じみた獣たちを従えている男が
  清らかですと??妄想としか思えません!
  この男の義務は、私の訴えに答えることです・・・
  そうできたなら、これまでの事も正義です。
  ですが、できないとなれば誰の目にも明らかでしょう!
  この男の清らかさとは、よこしまなものだということが!

第2幕、エルザとローエングリンの婚礼の行進をさえぎって王に訴える場面、まるでこの不条理極まりない物語の中で、フリードリッヒだけが唯一まともな人間のようではないか。ここで彼は条理を尽くして人々の狂気を告発するのだが、こういった場面において、F=ディースカウ以上に上手く歌える歌手がいようとは思えない。
そして何より戦慄すべき箇所、おそろしいまでの人間心理の解剖といった次の箇所、

  Lass mich das kleinste Glied ihm nur entreissen,
  des Fingers Spitze, und ich schwöre dir,
  was er dir hehlt, sollst frei du vor dir sehn,
  dir treu, soll nie er dir von hinnen gehn!

  あの男の体から、ほんの少しの部分でも切り取ってこい・・・
  指の先っぽでもよいのだ。
  そうすれば、あの男の隠し事がお前に明らかにされ、
  あの男はお前に忠実なまま、決して去って行くことはないはずだ!

ここまで人間は卑屈になるのか。絶望の淵でプライドも全てなげうって、敵であるエルザに頭を垂れて頼み事をする場面、痙攣で顔の筋肉がぴくぴくと動くのを目の当たりにするような、凄まじい歌唱。負け犬フリードリッヒ、かっこよすぎる。
正直なところ、最初にこんなフリードリッヒを刷り込まれてしまうのは不幸なのかも知れないと思う。真に芸術とは美しいものばかりで成り立っているのではないと痛感させられるのは良いとして、おそらくこの先、いかなるフリードリッヒを聴いても、まるで呪われたかのようにこの録音との比較をせざるを得なくなるだろう。
クリスタ・ルートヴィッヒも素晴らしい。ベームの「トリスタン」におけるブランゲーネと並んで理想的なワーグナーのメゾソプラノだろう。しかもかたや忠義の鏡のような侍女、かたや希代の悪女、その表現の幅の広さと強靭な声には驚嘆する。まったくこの二人の悪役夫婦のお陰で、ローエングリンとエルザがかすんでしまったほど。誤解の無いように言っておくと、ローエングリンのジェス・トーマスもエルザのエリーザベト・グリュンマーも立派な歌手です。まったく脇の二人が凄すぎるのであって、決して主役たちが弱いというのではないと思います。

脱線するが、この第3幕第3場の前奏って正にジョージ・ルーカスの映画みたいですね(有名な第3幕の前奏曲じゃないですよ、エルザが禁問の誓いを破った後の夜明けの場面のほうです)。夜が明けて次々と兵士が集まってくる、やりようによってはスペクタクルな場面ですが、これを聞きながらジョン・ウィリアムスがスターウォーズやインディー・ジョーンズの音楽を書いた時の念頭にこの場面があったのでは、と夢想してしまいました(もちろん根拠はありませんが・・・でもこの旋律をふた捻りぐらいすると「ジュラシック・パーク」のテーマになるw)。ジョン・ウィリアムスのクラシカルな部分と、ワーグナーの好戦的といってもよい音楽がはるか時空を超えて共鳴している感じです。私はと言えば、すっかり若き日の(いささか中途半端であった)ワグネリアンの血がまたぞろ騒ぎ出して困っています。何が困るって、この血沸き肉躍る戦いの音楽を聴いてさえ涙腺が壊れそうになるから。来週新国立に行くんだけどどうしたものか(笑)。
by nekomatalistener | 2012-06-07 20:51 | CD・DVD試聴記 | Comments(3)

ワーグナー 「ローエングリン」 ケンペ指揮ウィーン・フィル(その1)

寅年生まれなんである。でも、会議とかで本人的には甘咬みのつもりで喋ったことが、「吼えた」とか「咬みついた」とか言われるとちょっと心外。




例によって、近々新国立劇場で「ローエングリン」を観るのに先立って予習しておこうと思う。つい最近までこのオペラについて、第3幕への前奏曲や結婚行進曲といった有名ナンバー以外は殆ど知らなかったという事情については、以前「さまよえるオランダ人」について書いた際に述べた通りである。取り上げる音源は下記の通り。

  ローエングリン: ジェス・トーマス
  エルザ: エリーザベト・グリュンマー
  オルトルート: クリスタ・ルートヴィッヒ
  テルラムント伯フリードリッヒ: ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ
  ハインリッヒ王: ゴットロープ・フリック
  伝令: オットー・ヴィーナー
  ウィーン国立歌劇場合唱団
  ルドルフ・ケンぺ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
  1962.11.23-30、1962.12.1-5、1963.4.1-3録音
  CD:EMI CLASSICS 50999 4 56465 2 2

音楽としての素晴らしさについては後述するとして、一聴して思うのはその物語の不思議さ(不条理さ、と言っても良い)。このブログで何度か書いてきたと思うが、私はオペラなんだからお話なんてどうでもいい、という立場は取らない。どんなに荒唐無稽であったり御都合主義的であったりしても、どうしてそういった物語でなければならなかったのか、ということに思いを馳せざるを得ない。特にこの「ローエングリン」においては、物語全体が様々な位相でのシンボリズムに満ち満ちているために、その理解というか、解釈は容易ではない。どこがどう不条理なのか、その幾つかを列挙してみよう。
①まるで人々を不幸にするためにやってきたように見えるローエングリンとは何者なのか、一体なんのためにやってきたのか?
②ローエングリンの素性に対する問いの禁止、これが意味するものはなにか?
③エルザはなぜかくも愚かに描かれているのか?ローエングリンはなぜあたかも人の心を持たないように描かれているのか?
④ゴットフリートだけがこのオペラでは幸福を得たような描かれ方をしているが、彼はそもそもなぜ白鳥の姿に変えられていたのか?

以下の記述はこれらの問いに対する答えを述べようというのではない。せいぜい思考に補助線を引いてみようとする試みに過ぎない。

①ローエングリンは何者なのか、一体なんのためにやってきたのか?
ローエングリンはパルツィファルの息子にして聖杯の騎士であり、エルザを救うため、あるいはゴットフリートを救うためにやってきた、というのでは殆ど説明にもならない。このオペラに登場する人物のうち、一言も発しないゴットフリート以外のすべての人物が不幸になる。いったい彼はどういった存在なのか。この根源的な問いに対してふと思い出されたのは、ピエル・パオロ・パゾリーニが1968年に発表した映画「テオレマ」のこと。パゾリーニの代表作の一つであり、私らの年代の映画好きには大変有名な作品だが、若い世代の方がどの程度ご覧になっているのかは判りません。
まぁこんな映画です。
「工業都市に変貌しつつあるミラノ郊外の大邸宅。工場経営者の夫、その妻、息子と娘、そして家政婦が住んでいる。ある日、頭のおかしい郵便配達夫が「明日着く」とだけ記された電報を届ける。その翌日、一人の青年がやってきて、庭でくつろいでいる。家政婦は青年に、とりわけその股間の膨らみに目が釘付けになるが、台所に戻り発作的にガスホースを咥え自殺しようとする。飛び込んできた青年が彼女を助け、そのままセックスする。家族の誰一人として青年を知らないが、名を尋ねることもなく彼と食卓を囲む。その日以来青年は、息子、娘、妻、そして夫とも次々と性的な接触をもつ。しばらくして再び郵便配達夫が届けてきた電報を見て、青年は突然旅立つ。その後、家族と家政婦はそれぞれどうしようもない欠落感を抱えたまま少しずつ崩壊していく。まず娘の体が硬直してしまい、そのまま病院に送り込まれてしまう。息子は前衛美術にはまり込み、アトリエで青一色に塗られたカンバスに放尿する。妻は街にでて次々と男漁りを行なう。夫は突然工場を手放し、駅の雑踏のなかで衣服を脱いで全裸になる。家政婦は郊外の農家で奇蹟を起こした後、泉になるために土に埋められる。最後は禿山を裸でさまよう夫の叫びでFine。
テレンス・スタンプ演じるこの青年はいったい誰なのか?それは神である、という見解が一般的なようだ。しかし、誰一人幸福にしない神って一体なんなんだ、と思う。なんのために、といえばブルジョア社会を毀すため、という説もある。家政婦はブルジョア階級ではないから彼女だけが奇蹟を起こし、昇天するのだ、と。しかし彼女の流す涙が泉になり、埋められていく姿はどうも救済とは程遠い、と思う。1968年という年代からどうしても反ブルジョワ思想を読み取ろうとするのは無理も無いのだが、解釈としては少し苦しい。結局、青年がどこから何のためにやって来て、去っていったのか誰もわからないといったほうがよい。
静謐な映像だけれどパゾリーニの映画によくある特質であまり詩的な感じはしない。その点、たとえばフェリーニが映画のどの一部分をとっても一編の詩になってしまうのとは好対照。俗悪ぎりぎりの映像で聖性を語る不思議な語り口が、まあパゾリーニのパゾリーニたる所以か。
この「テオレマ」が「ローエングリン」の影響を受けているとする根拠はなにもない。しかし芸術は時として似たようなテーマを追うものである、という例証ではある。ローエングリンや、テオレマの青年が誰なのか、何のためにきたのか、それは誰にもわからない。確かなことはただひとつ。人は常に名も知らぬ超越的な存在を待ち受けているということ、そしてそれは過去も現在も芸術上の大きなテーマであるだけでなく、日常に常に潜む切実な欲望でもある、ということ。その超越的・超自然的な存在に対する問いは禁じられており、それを「神」と呼ぶのは時に浅はかであったり瀆神的な行為だとみなされること。

②ローエングリンの素性に対する問いはなぜ禁止されねばならないのか?
この禁問のテーマの考察に対する補助線として、バルトークのオペラ「青髭公の城」を引き合いにだしてみたい。バルトークのこのオペラにローエングリンの影響が見られる、ということではない。むしろ「青髭」に顕著なのはドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」の影響。青髭の冒頭のテーマはペレアスの冒頭を上下ひっくり返したもの、闇から始まり中ほどの真昼の場面を経てまた闇にいたる構成もペレアスに倣ったもの、オマージュと言ってもよい。しかし、物語としてはローエングリンの禁問と同様のテーマが見られる。すなわち、青髭の妻ユディットは、青髭が禁じたにも関わらず、城の7つの扉の向こうにあるものをつぎつぎと尋ね、暴いていき、そのあげくに彼女の前のおろかな妻たちの仲間入りをしていく、というもの。
ここにはある種の「男性原理対女性原理」の対立が現れていると思う。青髭は7つの扉の向こうに様々な秘密を隠し持っている。それは血のついた武具に象徴されるサディズムであったり、広大な領地の真昼の光景に象徴される全能感であったりする訳だが、最後の扉の向こうには青髭のかつての妻たちが、豪奢な衣装をまとったまま標本のように、何かのコレクションのように幽閉されている。男なら誰しも気付くとおり、ここには性的対象に対する態度というものが端的に表れており、記号化してディレクトリーごとに収集する青髭と、対象の記号化が出来ずに、相手(青髭)に対して彼の性的対象を自分の表象で上書きさせようとするユディットとの相克が見られる。この補助線がもたらすものは、禁問が何か性的なものにかかわるのではないかという仮説だが、ここでも問いに対する答えは宙づりにしておこう。

③エルザはなぜかくも愚かに描かれているのか?ローエングリンはなぜあたかも人の心を持たないように描かれているのか?
エルザにしてもオルトルートにしても、女性が救い難いほど愚かに描かれているのは、以前「オランダ人」を取り上げた際にも書いたとおり、ワーグナーの持つ強烈なミソジニーの所為だろう。このオペラでは男性の登場人物がすべて軍隊を率いる者であったり兵士であったり、とことさらホモソーシャルな世界を描いているためにミソジニーも強烈な表現になりがちなのだろう。一方でホモソーシャルを律する役割のホモフォ―ビアはどう描かれているかと言えば、聖杯の騎士が童貞でなければならぬというところに、セックスのにおいを拭おうとする無意識のメカニズムが働いていると言える。同じく聖杯の騎士であるパルツィファルに息子がいるというのも、お話としてはそもそも破綻しているのだが、それでも敢えて聖杯伝説を持ちださなければならないこと自体がホモフォ―ビアの機構によるものである。究極のホモソーシャル(聖杯の騎士)と究極のホモフォ―ビア(童貞集団)という取り合わせ。ローエングリンが、禁問の誓いを破ったエルザを群衆の面前で非難する箇所など、どうにもローエングリンに対する感情移入を阻害されてしまうのだが、この心理を平たく言うなら、「これだから童貞は困る」というもの。戯曲家としてのワーグナーの腕は確かなのだが、このローエングリンの造形はなんとものっぺりとしていて、人間的な魅力はむしろフリードリッヒの方に注ぎ込まれた形だ。
さて、エルザとオルトルートについてもう少し考察するなら、彼女たちから連想されるのは創世記のエヴァと蛇のお話。オルトルートにそそのかされて禁問を破るエルザは、蛇の誘惑によって知恵の実をたべたエヴァそっくり。アダムとエヴァは知恵の実をたべて羞恥心を知り、額に汗してパンを食べ、苦しんで子を産むようになった。知恵の実こそ性と生にかかわる快楽と苦痛の起源である。ならば、ローエングリンによって禁じられた問いの本質は、蛇が暴いた起源と同様のものではなかったか、という見方も出来そう。聖書のアダムの役割は、ローエングリンではなく、オルトルートの夫フリードリッヒに転換されているようだ。

④ゴットフリートだけがこのオペラでは幸福を得たような描かれ方をしているが、彼はそもそもなぜ白鳥の姿に変えられていたのか?
この問いに対する答えは、「これが貴種流離譚の定石だから」というものだろうか。ゴットフリートはローエングリンの台詞のなかでFührer(総統)と述べられていて、誰しもあのヒットラーを思い浮かべることだと思うが、いずれにしても彼こそこのオペラの中の最大の貴種であり、そもそもこのオペラというのは如何なる苦難を経てFührerがドイツを統一したか、という物語なのである。
実はこの問いを立ててから白鳥のことが気になって、上村くにこ著「白鳥のシンボリズム」(御茶の水書房)を読んでいるのだが、これが大変な名著である。ギリシャ時代から近代ヨーロッパに掛けての膨大な文献を縦横にあさり、その浩瀚さたるやミシェル・フーコーの著作を思わせるほど。また一編の伝承がつぎつぎとモディファイされ、主体と客体が、男性と女性が、能動と受動がときに反対方向に変換されながら新たな伝承をうむ軌跡を追うところ、ほとんどクロード・レヴィ=ストロースの「神話理論」を読むのにも似た興奮を惹き起す。これはもう最強の補助線というべきだが著者はここで「白鳥の騎士伝説」の5つのルーツを挙げている。すなわち、
1)白鳥=子どものモチーフ
2)金の鎖のモチーフ
3)白鳥の曳く舟のモチーフ
4)角笛のモチーフ
5)タブーのモチーフ
これらはローエングリンの物語にすべて備わっているわけだが、これを12世紀以降の様々な文献によって、白鳥の子供にまつわるケルト系やゲルマン系の伝承にキリスト教の要素が入り込み、やがて十字軍文学、その中でも特に聖杯伝説と合体していくようすがあざやかに記されている。これらをここで詳述するのは些か気が引けるが、最後のタブーのモチーフは、禁問のテーマとも密接に関わる重要なポイントなのですこし紹介したい。ここではケルト系のメリジェーヌの物語が取り上げられているが、土曜日だけ下半身が蛇に変身するという呪いを掛けられた妖精の娘メリジェーヌは、結婚相手の王レイモンドに蛇の姿を見られなければ幸福な生活が約束されていた。しかし、王は約束を破って妻の蛇の姿を覗いてしまい、彼女は羽根の生えた蛇となって去っていく、というもの。聖書と同じく、またしても蛇が出てくるのも印象的だが、「ルクトゥはこの伝説と従来の白鳥の騎士伝説が合体して、新しい白鳥の騎士伝説に生まれかわったという注目すべき推定を提示している、主人公の性が女性から男性へと性転換し、そして変身の動物が蛇から白鳥に変わると同時に、タブーのモチーフが白鳥の騎士伝説の方に移されたのではないだろうか(中略)その中で白鳥は元来のエロス的なものや猛々しい好戦性をふりおとして、天上界からの使いというキリスト教的メッセージを伝えるロマンチックな英雄に変身したのである。」(本書159~160頁)
最終章で、近現代の芸術に話がかわり、まさにワーグナーのリブレットそのものが素材として取り上げられ、エルザとオルトルートの分析「女性を無垢と邪悪の正反対の特質に分裂させるこの発想は、『白鳥の湖』ではもっと推し進められる」(本書310頁)でさっとあのバレエに話がうつるのも見事。そういえばそもそもあの白鳥の湖の有名な旋律は、ローエングリンの禁問のモチーフをほんの少し変形させたものであった。まったくこんな調子で次々と脱線しているときりが無いのである。

音楽のことがそっちのけになってしまいました。ケンペのCDについて考えたことは次回に。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-06-02 21:46 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)