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ストラヴィンスキー自作自演集WORKS OF STRAVINSKY (その17)

会社で、人はすごくいいんだが仕事できないおじさん(いちおう管理職)にちょっと説教モードで話す時、気が付くと2丁拳銃の修士の嫁の由紀子さんみたいな話し方になってる。
「もー、ゴルフでお忙しいのは判るけど、仕事してから行ってくれへんかな」
「ちょとちょと、何してんの、もー、そろそろ管理職らしい仕事してくれへんかな」
「もー、ええかげんにしてっ!」
「もー(怒)」はゲイバーのママが客を叱るみたいな感じで発音してね。



CD17枚目は「レイクス・プログレス」の続きです。

【第2幕第3場】
1:ババのアリアとパントマイム
ロンドンのトムの部屋。ガラクタで足の踏み場もない。トムとババの朝食の場面。アリアの前半はババのナンセンスなおしゃべり、気の無い生返事をしていたトムは次第にいらいらして大声を挙げる。アリアの後半はババのヒステリー。トム、ババに鬘を被せて黙らせる。ババは置物のように固まってしまい、彼も眠りに落ちる。 ニックが出てきてガラクタをパンに変える怪しげな機械をトムの夢に現れさせる。
2:レチタティーヴォとアリオーゾ、二重唱、レチタティーヴォ
トムが目覚めると目の前に夢で見た機械がある。トムはこの機械があればこの世は天国になると有頂天になり、ニックのそそのかしに完全に嵌ってしまう。二人は投資家を募るため意気揚々と出かける。トムの歌は軽薄だけれど、「この善行で過去の罪が許されるなら、アンに相応しい男になれるだろうか」と呟く箇所だけは一瞬まじめな雰囲気になる。

【第3幕第1場】
3:(表記なし)
トムの屋敷のものが競売に掛けられている。アンが現れ、訪れた競売の客達にトムの消息を訊くが、あてにならない噂ばかりで借金で逃げていること以外は判らない。アンは自分で彼を探そうと誓う。
4:レチタティーヴォ、ゼレムのアリアと競売の情景
競売人のゼレム登場、競売が始まる。いくつかの品物を片付けた後、鬘とシーツにくるまれたババが落札され、鬘をはぎ取ると先程の場面のままのババがヒステリーの続きの状態で現れる。
5:ババのアリア、レチタティーヴォと二重唱
アンを認めたババは彼女に、トムがまだアンを愛していると告げ、彼のもとに行くよう優しく励ます。競売人は競売が台無しになったことを嘆くが、人々はむしろ面白い見ものだと思う。アンはババのこれからのことを心配するが、彼女は誇り高く立ち去ろうとする。二重唱のババの歌は優しさに溢れた絶品。ババは見た目は怪物だが、メゾソプラノ歌手なら一度は歌ってみたいと思うおいしい役柄ではないだろうか。トムとニックの脳天気な歌声が遠くから聞こえてくるが、ここにはBallad Tuneと記されている。
6:ストレットとフィナーレ
ババが威厳に満ちて荷物をまとめるようゼレムに言い附けると、彼は思わず執事のように甲斐甲斐しく世話をしてしまう。ババは競売客に向かって、「あんた達、今度あたしを見る時はお代を戴くわよ」と言いながら堂々と出て行く。

【第3幕第2場】
7:プレリュード
星のない夜、墓場。不気味な弦楽四重奏。
8:二重唱
不安になるトムに、ニックは一年と一日経ったので魂を支払えと悪魔の本性をむきだして告げる。
9:レチタティーヴォと二重唱
ニックはトムに最後のチャンスを与え、手にした3枚のトランプのカードを当てたら勘弁してやると言う。1枚目と2枚目のカードを次々と当てたトムは、アンの声を聞き、思わず「愛の他は何も要らない」と呟く。奇蹟が起き、トムは3枚目のカードも当てる。この場面は大半がチェンバロの伴奏だけで書かれている。モダンチェンバロが実に雄弁。
10:(表記なし)
賭けに負けたニックは地獄に堕ちるが、最後にトムに呪いを掛ける。トム正気を失う。「ドン・ジョヴァンニ」の地獄堕ちのパロディなんだろうけど、ストラヴィンスキーにしては随分とデモーニッシュな音楽。

【第3幕第3場】
11:トムのアリオーゾと狂人達とのダイアローグ。
舞台は精神病院。抒情的なアリオーゾ、美しいけれどところどころ伝統的な和声法を逸脱する音が混じっているのは、自分をアドニスだと信じていること以外は妙にまともなトムや、その他の狂人達(その多くはまともな受け答えをする)にぴったり。ヴィーナスの降臨に備えよというトムを馬鹿にする狂人達、そこに看守がアンを案内して入って来る。
12:レチタティーヴォ、アリオーゾ、二重唱、レチタティーヴォ・クァジ・アリオーゾ
トムがヴィーナス(アン)に許しを求める美しいアリオーゾと、アンとの二重唱。アンはトムを許し、胸に彼を抱く。トムが「ヴィーナスよ、玉座にお登りください。おお、慈悲深い女神よ、我が罪の告白を聞きたまえ」と歌うところはあまりの美しさに涙が出そうになる。
13:子守唄、レチタティーヴォと小二重唱
アンの歌う美しい子守唄。トゥルーラヴが娘を迎えに来て二人去っていく。父娘の二重唱の苦い味わいはストラヴィンスキーのただならぬ天才のなせる技だと思う。
14:フィナーレ、弔いの合唱
目覚めたトムはアンを探してアキレスやヘレナ、エウリディケー、オルフェウス達を呼ぶが、絶望して倒れる。このトムのアリオーゾはバロック風のメリスマに飾られている。狂人たちが出てきて、弔いの合唱を歌う。

【エピローグ】
15:鬘をとったババ、トム、ニック、アン、トゥルーラヴ登場、モーツァルトの「後宮からの逃走」あるいは「ドン・ジョヴァンニ」風に、このお話の教訓を皆で歌って幕。モーツァルト風でもあるし、ミュージカル風でもある。楽しく感動的なヴォードヴィル。


今回のブログを書くにあたって、昔はよく分からなかったこの作品を何度も聴き返し、すっかりその魅力にはまってしまいました。特に第3幕後半からエピローグにかけて、もう涙なしでは聴けないほどです。このオペラを書きあげた後、例の「シェーンベルク・ショック」を体験し、いよいよ最晩年の一連の十二音技法による作品群が書き始められますが、そういった意味でもこのオペラはストラヴィンスキーの1951年までの創作活動の総決算と言っても過言ではない。一人でも多くの音楽愛好家がこの傑作を耳にすることを願って已みません。
演奏も文句のつけようがない。歌手達も実に優れています。こういった現代オペラの録音となると、どうしてもニ流どころの歌手たちが適当に歌ってお茶を濁す、というケースが多いような気がするけれど、この録音に限ってはどの歌手も本当に素晴らしい歌唱を聴かせてくれます。その中でもババを歌っているレジーナ・サーファティと、ニックを歌うジョン・リアドンは特に素晴らしい。前者は、ババという怪物的な人物の、ハチャメチャでありながら威厳と慈愛に満ちた性格を見事に造形していますし、後者の、慇懃無礼な態度から妙に馴れ馴れしい態度に変わり、終盤悪魔の本性を顕わにしてからの豹変ぶりも鮮やかで間然するところがありません。正に不朽の名盤だと思います。
by nekomatalistener | 2012-05-27 19:00 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ストラヴィンスキー自作自演集WORKS OF STRAVINSKY (その16)

「さまよえるオランダ人」第3幕の水夫の合唱、Steuermann!Lass (die Wacht!)のところ、「アヤパンで~す」という歌詞で一回歌っちゃうと、もう勝手に脳内変換してそう聞こえるから不思議。



久しぶりのストラヴィンスキー自作自演シリーズ、CD16/17枚目はいよいよ大作「レイクス・プログレス」の登場です。

歌劇「レイクス・プログレス(The Rake's Progress)」(1948~51/1951.9.11初演) [1964.6録音]

  トゥルーラヴ: ドン・ガラード(Bs)
  アン: ジュディス・ラスキン(Sp)
  トム・レイクウェル: アレクサンダー・ヤング(T)
  ニック・シャドウ: ジョン・リアドン(Br)
  マザー・グース: ジェーン・マニング(Ms)
  トルコ人ババ: レジーナ・サーファティ(Ms)
  競売人ゼレム: ケヴィン・ミラー(T)
  看守: ピーター・トレイシー(Bs)

  コリン・ティルニー(ハープシコード)
  サドラーズ・ウェルズ・オペラ合唱団(指揮:ジョン・バーカー)
  作曲者指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

この世の中には、一度聴いただけでは決してその価値が判らない音楽、いや一度どころか二度三度聴いてもそんなに簡単に判ってたまるか、と謂わんばかりの作品ってものがあるのですね。ストラヴィンスキーの音楽の殆どに対して、聴けばヨダレが出てしまうパブロフの犬状態になる私ですが、昔リッカルド・シャイーの録音で「レイクス・プログレス」(その当時は「放蕩者のなりゆき」という邦題が一般的だったような気がします)を聴いて途方に暮れてしまったことを思い出します。正直に言えば、当時はその面白さがまったく判らず、駄作とすら思っていました。様式的にはいわゆる新古典主義様式、調性やリズムにおける過激さは意識的に抑制されており、部分的にはヘンデル風のアリアがあったり、箍の外れたモーツァルトといった音楽もあったり、平明で擬古典的な音楽。アリアや重唱、合唱をレチタティーヴォで繋いでいく番号付きオペラに則った構成原理、しかもレチタティーヴォ・セッコにはチェンバロ伴奏が附くという懐古ぶり。内容的にも音楽的にも、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」に倣ったと思われるところがあちらこちらに出てきます。どこといって難解な要素はないのに、耳が慣れない内はこの音楽の美点はなかなか見えてきません。
今回は(シャイーの録音は手元にないので)、ネットで入手した歌詞を訳しながら少しずつ聴き、ようやく作品の魅力に近づくことが出来たように思います。W.H.オーデンとチェスター・コールマンの格調高い英語の韻文のリブレットは、日常会話ではまず使いそうにない詩語や接続法の構文など、大学で英文科にいたような人はいざ知らず、一般のサラリーマンの英語力では相当辞書を引かないと理解できません。リブレットの読解にてこずりながらも、そのおかげで時間をかけて少しずつ作品を聴き、昔とくらべて随分と作品そのものが面白く感じられるようになりました。

CDのトラック毎に簡単に物語を紹介しておきます。
【第1幕第1場】
1:プレリュード
輝かしいファンファーレ。モンテヴェルディの「オルフェオ」風でもありイギリス・バロック風でもある。
2:二重唱と三重唱、レチタティーヴォ
郊外のトゥルーラヴの邸宅の庭。アンとトムの愛を語らう二重唱に続いて、二人の行く末を心配するアンの父トゥルーラヴとの三重唱。トゥルーラヴはプー太郎のトムにロンドンの会計事務所の仕事を紹介するが、トムは断る。トゥルーラヴは「あの子が選んだ男が真面目な男であれば、たとえ貧しくとも結婚を許そうと思うが、怠け者は許さん」という。トゥルーラヴが去ると、トムは「おいぼれ」と罵る。
3:レチタティーヴォとアリア
トムの歌う輝かしいアリア。「健やかな体と上々の気分、悪知恵があって心も軽い、堅気の仕事なぞまっぴら御免」「この世は所詮運次第、他人の為にあくせく働くものか、たとえ病に倒れようと雷に打たれようと、俺はずる賢く生きて行く」と歌う。「俺の人生は目の前に開けている。世界はかくも広いのだ。望みよ、来て俺の馬になれ、この乞食が乗ってやるぞ」と歌うところは突然の転調が効果的で素晴らしい。
4:レチタティーヴォと四重唱
トムが「それにしても金がほしい」と呟くと突然ニック・シャドウが登場し、トムの叔父がトムを莫大な遺産の相続人に指名して亡くなったと伝える。トゥルーラヴとアンも現れ、素直にこの話を喜び、父はすぐにも財産を相続しろという。ニックはすぐにトムとロンドンに発たねばならぬといい、馬車を呼ぶ。
5:小二重唱、レチタティーヴォ、アリオーゾと小三重唱
トムがニックへの報酬について尋ねると、それは一年と一日が経過した後に正当な対価を支払ってくれたらよい、と言う。トムはトゥルーラヴに、落ち着いたらアンをロンドンに呼ぶという。アンが着いたらロンドン中が彼女に跪くだろうと早くも大言壮語。トムとアンの別れの二重唱。トゥルーラヴは幸運が人を罪に誘うのではと心配する。小二重唱も小三重唱も美しいけれど、どこかモーツァルトの箍が外れたような感じ。

【第1幕第2場】
6:合唱
ロンドンのマザー・グースの娼館。娼婦と酔客達の合唱はミュージカル風の楽しいもの。これは亡命後アメリカでストラヴィンスキーが得た音楽的イディオムだろうか。
7:レチタティーヴォと情景、合唱、レチタティーヴォ
教理問答のパロディ風の情景。ニックと娼館の女将マザーグースはトムに美とは、快楽とは、と尋ね、トムは機知に富んだ定義をするが、ニックの「愛とは」という質問に動揺して答えられない。時計が1時の時を告げ、トムは帰ろうとするがニックの魔法で12時に戻る。娼婦と酔客の合唱。ニックはトムに歌を歌うようそそのかす。
8:カヴァティーナと娼婦達の合唱
トムは裏切られたアンの愛を思って後悔の歌を歌う。娼婦達はトムの悲しい歌に心動かされるが、マザーグースがトムの相手はあたしだよと言ってトムを連れていく。
9:合唱
空虚五度のドローンに始まるスコットランド舞曲風の合唱。ニックは「夢見るがいい。夢から覚めたらお前は死ぬのだ」と歌う。

【第1幕第3場】
10:レチタティーヴォとアリア、レチタティーヴォ
第3場はアンのソロによるモーツァルト風の大アリア。アン、トムからの便りがないと嘆くが、泣くばかりではだめ、トムは助けが必要かもしれないのだから、と歌う。オーボエとファゴットの淋しく美しいアコンパニャートは素晴らしい。アリアも抒情的で美しい。
11:カバレッタ
「あの人の下に行こう。愛はためらわない。たとえ避けられ、忘れられても見捨てはしない」。アンはロンドンに行く決心を歌う。モーツァルト風のフィオリトゥーラも出てくる。

【第2幕第1場】
12:アリアとレチタティーヴォ、アリア(繰り返し)
トムは享楽に満ちたロンドンの生活に倦怠感をおぼている。アンの事をふと思い出しそうになると、それを振り払うように威勢よく歌う、が最後に「ああ、幸せになりたい」と呟く。繰り返しのアリアの短い後奏は天才の自在な筆致。ストラヴィンスキー以外の誰にこんな音楽が書けようか。
13:レチタティーヴォとアリア
ニックはトムに愚かな常識に囚われた惨めな大衆について語り、トムに常識を超えた怪物、トルコ人のババと結婚するよう勧める。
14:二重唱とフィナーレ
ニックの提案にトムはすっかり元気を取り戻し、意気揚々と出かけて行く。

【第2幕第2場】
15:レチタティーヴォとアリオーゾ
アン、ロンドンのトムのもとにやってくる。心ははやるのに身がすくむアン。逡巡するかのような揺れ動く弦に、悲しいトランペットの調べ。イングランド風の行進曲が聞えてきて、召使達の奇妙な行列によって運ばれた輿からトムが降りてくる。不安を感じるアン。
16:二重唱、レチタティーヴォ
トムはアンを見て、帰るように諭す。ロンドンはお前の来るような街ではないと。アンは拒むが、輿からババが顔を出していつまで待たせるのかとトムに不平を言う。
17:三重唱とフィナーレ
アン・トム・ババの三重唱。トムからババを妻だと紹介され、全てを悟ったアンは立ち去る。ババ、人々の歓呼の声に答えてヴェールを取ると黒々とした髭が現れる。フィナーレの荘重な音楽はディアトニックな単純さにも関らず、作曲技法の粋を集めたストラヴィンスキーのいわゆる新古典主義様式の集大成という趣すらある。

CD16枚目はここまで。続きは次回に。
by nekomatalistener | 2012-05-22 23:37 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ラヴェル 「スペインの時」&「子供と魔法」 二期会公演

「虚構新聞」の愛読者である。昨今の橋下ツイッター騒動に関して言えば、単にツイッター=バカ発見器であることが再度判明しただけのことだと思っている。騙された人は静かに自分のバカさ加減を恥じてりゃいいのに「虚構新聞」を責める夜郎自大さ。この件で「虚構新聞」を非難する奴もまた概ねバカだと思うが、その背景にはソース(原典)に当たろうとしない現代の高等教育の在り方があるのではないか。Wikipediaに書いてあることを何の疑いもなく信じているバカ(ブロガーにも沢山いるね)も同様。戦後60年ほどかかってこの国の愚民化政策はここまで完成した。まったく慶賀の至りである。




二期会のニューウェーブ・オペラ劇場公演でラヴェルのカミングアウト・オペラとマザコン・オペラの二本立てを観てきました。

  2012年5月19日 於新国立劇場中劇場
  「スペインの時」
   コンセプシオン: 経塚果林
   ゴンザルヴェ: 高柳圭
   トルケマダ: 吉田伸昭
   ラミーロ: 門間信樹
   ドン・イニーゴ: 狩野賢一

  「子供と魔法」
   子供: 澤村翔子
   ママ: 遠藤千寿子
   ティーカップ/とんぼ: 福間章子
   火: 守谷由香
   お姫様: 湯浅桃子
   夜鳴き鶯: 飯生優子
   安楽椅子/ふくろう: 伊藤光
   こうもり: 辻由美子
   りす: 清水多恵子
   牝猫: 志岐かさね
   雄猫/柱時計: 野村光洋 
   肘掛椅子/木: 岩田健志
   ティーポット: 木野千晶
   小さな老人/蛙: 新津耕平
   羊飼いの少年: 久利生悦子
   羊飼いの娘: 金澤梨恵子

  指揮:ジェローム・カルタンバック
  演出: 加藤直
  管弦楽: 東京交響楽団

今年はどういう訳か、決してポピュラーとは言えない「スペインの時」を、新国立劇場研修生オペラ公演に続いて2回も観ることが出来ました。もうこれだけで良しとせねばならないのかも知れませんが、今回の二期会の公演、いろいろな意味で「惜しい」舞台でした。
まず「スペインの時」ですが、加藤直の演出は上品すぎて、このオペラの艶笑譚としての側面は少し後退してしまった感じがする。前の新国立劇場研修生オペラの時の三浦安浩の演出は、最初の訳の分からない小芝居はともかく、本編中のエロティックな演出についてはそれなりに見るべきものがあって、前回の批評にもそう書きました(2012.3.11)。今回の演出は、ラミーロが物思いに耽る場面で、大きなからくり時計の自動人形がバレエを踊るところに照準が合わされており、そのせいで艶笑譚から幻想劇へとシフトされているように思われました。それはこのオペラの一つの解釈として納得出来るものではありますが、そうなると無い物ねだりしたくなるのが贅沢な聴衆というもの。音楽面も含めてエロの要素が殆ど感じられないのは考えものという感じがします。
歌手の中では、ラミーロの門間伸樹がとても良かったと思う。今回の上品な演出のコンセプトを、歌手としては一番よく体現していました。ただし、贅沢を言えば、筋肉自慢の粗野な騾馬曳き、心根は優しいのだが女性と気の利いた会話をするのは苦手、といった役柄の側面は薄められていました。しかしそこにこそ、ラヴェルが自らのセクシュアル・オリエンテーションに導かれるままに創作意欲を掻き立てられた秘密があるはず。正確でなめらかなデクラメーションだけでは痒いところに手が届かないもどかしさが残ります。コンセプシオンの経塚果林もなかなか素敵だったと思うけれど、前回聴いた吉田和夏のツンデレキャラと比べるとどうしてもお色気少なめに思ってしまう。ドン・イニーゴとの情事が不首尾に終わってヒステリーを起こす場面、コンセプシオンの踊るセギディーリャが下手糞でちょっと失笑。ちゃんとしたフラメンコのダンサーに振付させたらいいのに、と思いました。ゴンザルヴェの高柳圭は、高音は音程が上振れ気味、低音は響かず不満でした。あとはまぁちょぼちょぼかな。
カルタンバック指揮の東京交響楽団、精確ではあっても精妙とまでは行かない、惜しい演奏。ハバネラのリズムが妙に重たく、最後の五重唱による楽しいはずのヴォードヴィルも心弾まなくて残念。これはこの前の飯守泰次郎の指揮が素晴らしかったので、比べるのは良くないのだけれどどうしても比べてしまう。

「子供と魔法」も悪くは無いのだが惜しいなぁと思うところ多数。舞台にはカーテンのような布が吊るされていて、いろんな登場人物はその影から舞台に現れるという仕組み。その布が巻きあげられると舞台は夜の庭に変貌します。子供が暴れ回ってものを壊す場面は、何せ舞台上には教科書とティーポットとティーカップぐらいしかないのでややおとなしめ。猫やりすを苛めるのも、カーテンの下からちょろっと出てきた黒い猫の尻尾を引っ張る程度で、悪いけれどちょっと苦笑。安楽椅子と肘掛椅子(ルイ15世風には見えないけれど)は、着ぐるみを着た歌手が出てきて安岡力也のホタテマンを思いだして失笑。萎えました。あの~、いくら音楽が主体のオペラとは云え、せっかく珍しい演目を舞台でやるのだから今まで誰も見たことのないものを見せて欲しいと思うのだが。リヨンで大野和士がストラヴィンスキーの「うぐいすの歌」を舞台でやったときの映像を観ると、ああこんなやり方があったか、と目を瞠る思いがする。「ライオンキング」のジュリー・テイモワの被り物も然り。アジアには動物や超自然的な事物の出てくる演劇はたくさんありますね。まだまだ開拓されていない要素を持ち込んで、大人がびっくりするような舞台を見せてほしいと思う。
歌手は沢山でてきて、みんな少しずつしか持ち場がないので、特に誰がどうこう、と言いにくいのですが、りすの清水多恵子が頭一つ抜けていたような気がします。火の超絶技巧コロラトゥーラは見せ場の一つだと思うけれど、守谷由香のそれはちょっと惜しい出来栄えでした。イタリアオペラの狂乱の場じゃないんだから、難しいパッセージの前にいちいち間を取って溜めるのはどうかな、と思う。
オーケストラについては冒頭の2本のオーボエのペンタトニックによる平行移動が物凄く美しくてびっくり。期待がいやが上にも高まりますが、その後もラヴェルの精妙極まりないスコアを精確に再現していく。素晴らしいのは承知の上で無い物ねだりをすると、やはり精確さが精妙さにまで昇華していかないのがもどかしい。もっとも、最後の動物達の合唱、「この子は良い子です、とても賢い子です」の盛り上がりは思わず涙腺が緩みそうになるほど。最後がとても良かったので、今回の公演、なんだかんだ言いながら楽しかったと思います。

どうでもいいことですが、今回は新国立劇場の中劇場の2階で観ましたが、今回のような演目にはこの中劇場というのはぴったりの器です。今回の公演の一番の立役者はこの劇場そのものかもしれないなぁ。
by nekomatalistener | 2012-05-20 20:51 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ラヴェル 「子供と魔法」 マゼール指揮フランス国立放送管弦楽団(その2)

ファブリーズのCMのお父さんがピエール瀧から松岡修造に替ってそうとう経つが、いまだに違和感あり。





前回の続きです。
羊飼い達が消え去ると、今度は子供が引き裂いた童話の本からお姫様が現れ、子供のせいで童話の結末が分からなくなったと嘆く。子供は姫を救う王子になろうとするが剣もなく為すすべがない。お姫様は消えてしまう。お姫様の歌う部分はオーケストラが沈黙し、たった一本のフルートのみの伴奏。2本の線が絡み合う美しさは、ラヴェルの高度な作曲技法の賜物。今まで恐怖に慄いていた子供はようやく姫への淡い恋心を歌う。子供が歌い出すと音楽は木管やハープの急速なアルペジオやグリッサンドで彩られ、夢幻のような恍惚とした響きが立ちこめる。お姫様が消えてからの子供の歌は、まるでフォーレのように切なく美しい。
子供はびりびりに敗れた童話の結末のページを探すが、破いた教科書からせむしで鉤鼻の小人の老人が現れる。小人の服には数字が書いてある。教科書から飛び出した沢山の数字たちと、4たす4は18とか、7掛ける9は33とか、無茶苦茶な歌を歌いながら踊り、その輪舞に巻き込まれた子供は目を回してしまう。ここもポピュラー音楽みたいな軽い音楽で始まりますが、最後は狂騒のカタストロフの内に終わる。
子供が何とか起き上がると、黒い雄猫が毛糸玉をおもちゃにして遊んでいる。雄猫は子供の頭を毛糸のように弄ぶが、白い雌猫が庭に現れると雄猫は求愛する。いつの間にか場面は月に照らされた庭になっている。猫の二重唱Duo miauléの歌詞は「みゃ~お」「おわ~お」といった鳴き声のみ。やがて発情した猫たちは喧しく騒ぎまくったあげく突然姿を消す。雄猫は最初チェロの悩ましいポルタメントに合わせてあくびしたり伸びをしたり。それが最後には金管のグリッサンドで大騒ぎになる。猫好きな私はもうニャハ~と脱力してしまいます。
音楽が一瞬静まると高弦のトレモロとおもちゃの笛を伴う神秘的な弦の音楽に合わせて、虫や蛙、蟇蛙、ふくろう、風、夜うぐいす達がざわめき始める。ベルクの「ヴォッツェック」の、蛙の鳴く沼地の場面の、遥かに遠いこだまを聴くような気がする(因みにラヴェルはアルバン・ベルクをかなり高く評価していたふしがある)。子供に傷を付けられ、樹液を血のように流した樹木が恐ろしい呻き声をあげて子供を非難する。
とんぼが妻を探して子供の回りを飛び回る。雌のとんぼをピンで壁に突き刺してしまった子供はとんぼに問いかけられても答えられない。こうもりも片言で子供に妻の行方を尋ねるが、雌こうもりを殺した子供は罪に慄くのみ。とんぼの歌はサティの「ジュ・トゥ・ヴー」のような瀟洒なワルツ。これに夜うぐいすのコロラトゥーラが絡む。こうもりの歌はごく短いが、はじけるような才気煥発な音楽。続く蛙たちのワルツも軽妙洒脱。
リスが現れて、かごに気を付けるよう蛙に話しかけるが、蛙がかごというものを理解できないのでリスは「馬鹿、僕みたいになるよ」と言う。吃の蛙はかごcageが上手く言えず、Que-que-que-que-dis-tu?Je ne connais pas la ca-ca-ca-cage.と歌うが、イヴリーの著書によればこれは「うんちの籠」と聞こえるそうな。子供はリスに向かって、「君の素早い動き、小さな手足やきれいな眼をみたくてかごに閉じ込めたんだ」と弁解するが、リスは自由な大空や風、自由な兄弟の素晴らしさを子供に語る。他のリス達が大勢集まって来る。仲のよいリス達や、じゃれ合う猫を目にして、自分が一人ぼっちであることに気付いた子供は思わず「ママ…」と呟く。リスの歌は大きなアーチを描いて盛り上がり、猫の二重唱の旋律が一瞬現れて途絶える。
動物達が「悪い子供、誰からも愛されない子供」と歌う。「子供に罰を与えよう。僕には爪が、僕には牙がある」と凶暴な合唱が続く。動物たちは子供を小突きまわし、押したり引っ張ったり、やがて子供そっちのけで大乱闘になる。さっきのリスが怪我をして叫び声をあげる。動物達は凍りついて何も出来ないが、子供は自分のリボンを包帯にしてリスの怪我の手当てをしてやり、気を失ってしまう。
初めて子供の優しさを知った動物達は、自分達も傷ついた子供を介抱しようとするがどうすることも出来ない。そこでみんなで子供のママを呼ぶことにする。最初はおずおずと、やがて「ママ、ママ」の大合唱。動物達は「この子は良い子です。とても賢い子です」と歌う。子供が腕を伸ばして「ママ」と呟いたところで幕。音楽は「マ・メール・ロワ」の終曲「妖精の園」のような感動的な大団円。通俗的と言えば通俗的だが、お約束の大きな盛り上がりの果てにふっと消えるように終わるのが何とも不思議な余韻を残す。これは子供が聴いてももちろん大喜びでしょうが、本当は大人の為の、それも知的でソフィスティケーションを知る大人の為の音楽だろうと思います。

このオペラ、舞台に寄せる期待の最も大きな要素は何と言っても演出。恐らく、心の底から感嘆するか、子供騙しの演出に失笑するか、そのどちらかでしょう。演出家が如何に自由な想像力を持っているかに公演の成否の全てが掛っている。何とも恐ろしい作品です。

マゼールの演奏について一言。これはもう完璧な演奏ではないでしょうか。かなり大きな編成のオーケストラを自在に操り、一瞬の内にさっと空気が変わってしまうような瞬間があちこちに出てきます。弦・管・その他の楽器の混合のバランスが実に素晴らしいと思う。これは偏にマゼールの耳の良さに起因するものでしょう。歌手の素晴らしさについてはこれ以上望むことは何一つない。

併録のストラヴィンスキーの交響詩「夜うぐいすの歌」は、自作自演の(交響詩の元になった)オペラ全曲盤やブーレーズ版と比べると、面白いことに、ギトギトした極彩色の表現が抑えられていて、譬えて言えばフランス語の鼻母音のような中間色のニュアンスに富む音響。こと音色という点においては寧ろエキセントリックな感じがします。が、これはこれで実に魅力的なストラヴィンスキー。ラヴェルの音楽との相性の良さも、作曲者の資質を考えると当然ではあるが、この馴染みの良さはマゼールならではという気もする。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2012-05-17 00:00 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

新国立劇場バレエ公演 チャイコフスキー 「白鳥の湖」

ある日の夢。会社の昼休みに机に突っ伏して昼寝していると頭ががんがん痛み出した。あんまり頭痛が酷いので後頭部を両手の親指でぐりぐり押さえているとそこから角が2本にゅーっと生えてきて、鹿か!と思ったが、人に見られるとまずいと思って何とか角を押し込もうと苦労してるとこで目が覚めた。
別に寝違えたり頭痛がしたりは無かったです。角も生えてなくて良かったです。





新国立劇場でチャイコフスキーのバレエ「白鳥の湖」を観てまいりました。

  2012年5月13日
  振付: マリウス・プティパ/レフ・イワーノフ
  演出・改定振付: 牧阿佐美
  オデット/オディール: 米沢唯 
  ジークフリート王子: 菅野英男
  ロートバルト: 厚地康雄
  王妃: 西川貴子
  道化: 福田圭吾
  指揮: アレクセイ・バクラン
  管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

実は私、バレエ初体験。正確に言うと、遥か昔、小学生の頃に両親に連れられてプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」を観に行ったことはありますが、残念ながら記憶が殆ど無い(普段は演歌しか聞かない彼らですが、何の気まぐれだったのか)。しかしあの「モンターギュ家とキャピュレット家」の癖のある転調だけはよく覚えている。それと、うちの娘が昔バレエを習っていて、発表会を観に行ったことはあります。こちらはまぁお遊戯みたいなもんだけど(笑)。でも一度ちゃんとした舞台で観てみたかったんですよね。結果は、とても良かった。こういった作品はCDで音楽だけ聴いていたのでは分からない、ということに改めて気づく。チャイコフスキーの音楽に対して余りシンパシーを感じてこなかった私ですが、舞台を伴う形で聴くと本当に素晴らしい。
しかし、私はバレエについて余りにも無知であるし、何せまともにバレエを観たのは初めてなので、今回の舞台について的確な批評をするだけの力がありません。まったく歯痒い限りですが、それでも備忘も兼ねて感じたことを記しておきたい。ド素人の言説ですので的外れな意見もあるかと思うがどうかご容赦願いたい。

まず、オペラの時と客層が大きく違うことにびっくり。日曜日のマチネなので、バレエを習っておられるお子さんとお母さんの組合せ多数。女子率高っ!でもって、数少ない男性は、よく判らんがマニアというか、熱烈なバレエファンといった感じ。熱狂的なブラヴォーやブラヴァの野太い声があちらこちらで掛る。なんだか凄いね、こりゃ。今回はバレエが好きな友人に無理やりガイド役になってもらったのですが、舞台が始まる前に「焼き鳥の湖」とか馬鹿なこと言ってヘラヘラ笑ってたんだけど、下手すりゃマニアに袋叩きにされたかもw。こういった人達が日本のバレエを支えていたのか、と目から鱗が落ちる思いでした。
個々のキャストについて上手いの下手の、と言うのが正直なところ全く分からない。しかしオデット/オディールを踊った米沢唯は素人目にも素晴らしいと思いました。第3幕の圧倒的なグランフェッテ、私はもう茫然と目を瞠るだけでしたが、客席からは盛大な拍手とブラヴァの声が掛ってましたからきっと技術的にも素晴らしいものだったのでしょう。第2幕のパ・ダクシオンの繊細な踊りも良かったなぁ。ジークフリートの菅野英男はよく分からないうちに終わってしまった感じ。男性でそれより印象に残る踊り手はいましたが、何と言う方か分からない。江本拓?登場人物についてイマイチ把握しないまま観てるからこういったことになってしまうが後悔先に立たず。
第1幕の乾杯の踊りなど、コール・ド・バレエ(群舞)も素晴らしいと思いました。日本の、あるいは世界のバレエの水準から言ってどの程度なのでしょうか。物凄く精緻な印象を受けましたが・・・。
音楽については、きっと音だけ聴く場合とは異なる評価軸が必要なのでしょう。指揮のアレクセイ・バクランはバレエの指揮者としては手練という感じがしましたが、踊り手の謂わば肉体的な生理に寄り添った音楽は、音楽そのものが求めているテンポとは少し乖離しているように思われます。つまり、音楽が要求する早いテンポはややゆっくり、遅いテンポならやや早く、といった感じの、妥協とは言わないが角が取れた表現になりがち。いわゆるシンフォニックな演奏とは一線を画すものですが、それでもチャイコフスキーの音楽の輝かしさが些かも損なわれないのは大したものと言うべきでしょう。東フィルの演奏も素敵でした。第2幕のパ・ダクシオンや第3幕のパ・ド・ドゥのヴァイオリンのソロの美しさ。オクターブのダブルストップが頻出するが、コンマスの方は大変だと思う。
音楽はマリウス・プティパ/レフ・イワーノフ版をベースに牧阿佐美が振付したもの(この両者の間にはコンスタンチン・セルゲーエフ版が位置する)ということで、原典とは曲順が大きく異なっていたり、第3幕のパ・ド・シスや原典第27曲の極めて美しい踊りがばっさりカットされていたり、他にも各幕の情景の短縮など、カットが多数あるが、世間ではこちらのほうが圧倒的に一般的なのだろう。チャイコフスキーの音楽はこれくらいのカットではびくともしないぐらい力強いが、全曲版に親しんでしまうと、これらのカットは残念な気がする。原典により近いブルメイステル版による舞台も観てみたいものだ。ちなみに私が今回の観劇に先立って聴いていたCDはシャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団による全曲版で、第3幕の黒鳥のパ・ド・ドゥは第1幕に戻され、第3幕にはパ・ド・シスと1953年に発見されたパ・ド・ドゥの補遺も入って、ほぼ完全全曲版と言ってよいものだと思います(第14曲が抜けているのは第10曲の丸々繰り返しであるから)。バレエ音楽というと、音楽だけ取り出して聴くには少々辛いものも多いような気がしますが、チャイコフスキーの「白鳥の湖」は(特に原典版の場合かなり長大であるにも関わらず)音楽だけ聴いても実に面白く、様々な踊りやディヴェルティスマンのみならず、情景の部分にも内実がしっかりと含まれているような感じがします。こういった感想は、もちろんバレエに主眼を置くのか音楽に置くのかによって、人それぞれ。それにしてもこの原典主義全盛の現代においても、プティパ/イワーノフ版が圧倒的に優位であるということをどう考えたらよいのか。私のこの舞台の享受の仕方はどうしても音楽寄りになってしまいます。そしてバレエ愛好家の方の相当の部分は、原典がどういった曲順になっていて、どこがカットされたのか、あるいはどこが後世の人間の加筆によるのか、ということについては極めて鷹揚である、ということかと思います。
終幕の演出はそれこそ数えきれないほどのバージョンがあるようですが、牧阿佐美の演出は王子がロートバルトを打ち倒してハッピーエンドに終わるというもの。もともと悲劇を想定して書かれ、オデットと王子の魂の救済をロ長調で描いたチャイコフスキーの狙いは些か皮相的な勝利の音楽となってちょっと辟易してしまいました。それでも私はバレエというものを、開眼したとまでは言わないが大いに楽しみ、機会があればもう一度観てみたいと思っています。そして、いままで敬遠気味であったチャイコフスキーの音楽にも少し興味を持ち始めています。
by nekomatalistener | 2012-05-14 21:07 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ラヴェル 「子供と魔法」 マゼール指揮フランス国立放送管弦楽団(その1)

清水ミチコの「イェル・ケ・クク」最高。この人やっぱり天才。分からない人はyoutubeで探してね。




以前新国立劇場でラヴェルの「スペインの時」を観てとても気に入り、二期会でまたもや「スペインの時」と同じくラヴェルの「子供と魔法」の二本立て公演があるというので行くことにしました。「子供と魔法」も今迄聴いた事がなかったので、例によって予習としてマゼールのCDを聴いてみました。


  子供: フランソワーズ・オジェア
  ママ・支那のティーカップ・とんぼ: ジャニーヌ・コラール
  安楽椅子・白猫・リス・羊飼い: ジェーン・ベルビエ
  火・お姫様・うぐいす: シルヴェーヌ・ジルマ
  こうもり・ふくろう・羊飼いの娘: コレット・エルツォグ
  肘掛椅子・樹: ハインツ・レーフュス
  振り子時計・黒猫: カミーユ・モラーヌ
  ティーポット・数字のこびと・蛙: ミシェル・セネシャル
  ロリン・マゼール指揮フランス国立放送管弦楽団&合唱団(1961年録音)

  (併録)ストラヴィンスキー 交響詩「うぐいすの歌」
  ロリン・マゼール指揮ベルリン放送交響楽団(1958年録音)
  CD:DEUTCHE GRAMMOPHON449 769-2

年を追うごとに寡作となり、遅筆でもあったラヴェルらしく1920年に作曲が始められ1925年までほぼ5年が費やされています。この同時期に作曲された作品としては「ラ・ヴァルス」「ヴァイオリン・ソナタ」「ツィガーヌ」など。それ以降死ぬまでに書かれた作品は「ボレロ」、2つのピアノ協奏曲、「マダガスカル島民の歌」等。通常なら円熟期の作品ということになりますが、以前にどこかで書いた通りラヴェルという人はそもそも人間的な円熟とかいったものとは無縁なような気がして、若書きと比べてどうこう、といった議論は殆ど意味を成さないような気がします。敢えてこの時期ならではという特色を言えば、ジャズあるいはアメリカのポピュラー音楽の顕著な影響ということになるでしょう。以前「スペインの時」を取り上げた時に紹介したベンジャミン・イヴリーの『モーリス・ラヴェル ある生涯』(石原俊訳、アルファベータ社)によればこの時期「ラヴェルはパリのナイトクラブで、黒人ミュージシャンや黒人ダンサーを見物して多くの夜を過ごし、「屋根の上の牛」亭(Le Bœuf sur le Toit)なるクラブでは、コクトーが恋人のアル・ブラウンなる麻薬中毒のアメリカ黒人ボクサーといるのを目撃していたのかもしれない」とのこと。いきなり脱線しますが、私はダリウス・ミヨーの「屋根の上の牛」という作品が大好き。イヴリーの著書のこのくだりを読んで、点と点が繋がった感じがします。それはともかく、このオペラ、どこをとっても精妙極まりない音楽、完璧なクォリティ。しかもお子様向けのお話なのに妙にエロティックな仕掛けが仕込まれていて油断も隙もないのがいかにもラヴェルらしい。これも敢えて、もう一つのオペラ「スペインの時」との違いについて述べると、「スペイン・・・」のほうは5人の登場人物それぞれにライトモチーフ風の特徴ある旋律があてがわれていて、物語の進行に伴ってそれらが舞台上の人物の絡みに追随したり、あるいは舞台にいない人物を想起させたり、といったことが起こるのに対して、こちらは次から次へと新しいモチーフが現れては消えていくのが違うと言えば違う。もっとも、(ストラヴィンスキーと同様)凡そドイツ風の動機労作的手法には何の興味も持たなかったラヴェルらしく(ベートーヴェンのことを「あの大音痴」と呼んだらしい)、「スペイン・・・」のライトモチーフは単に聴衆の理解を助け、楽想を節約するだけのものであって、音楽的構造という意味では両者の間に大した違いは無いような気もします。すなわち、ストラヴィンスキーを論評しながら私が再三「シニフィアンの連鎖」と書いてきたのと同じことが、ラヴェルの音楽の本質的な構造にも見られるのではないか、ということです。

以下、例によって若干粗筋も追いながら音楽的要素について書いてみたい。ちなみにスコアは著作権の問題があってダウンロード出来ませんでした。
短い前奏は支那風のペンタトニックな音楽。男の子が「宿題いやだ、お外に行きたい、ケーキを全部食べて猫のしっぽを引っ張ってリスの尻尾をちょん切りたい」などと歌っているとママが食事を持って部屋にやってきて宿題を急かす。子供が舌を突き出すと、ママはヒステリーを起こし、「坊やのお紅茶はお砂糖なし、パンはバター無しよ」と喚いて出て行く。ト書きにはママは舞台の上では巨大な足とスカートだけが見えるように、と書かれており、スカートには鎖で裁縫用の鋏がぶら下がっている。漫画「トムとジェリー」に出てくる奥さんと一緒の手法ですね。イヴリーの著書にはクロード・レヴィ=ストロースがこの作品に表れている去勢コンプレックスについて言及したくだりを引いて、このママの鋏や、後で出てくる振り子を引きぬかれた振り子時計の場面の解釈が書かれています。私にはその是非を判断する力はちょっとありませんが、昔随分苦労してジャック・ラカンやメラニー・クラインの著書を読んだことのある身としては、こういった議論を荒唐無稽だとか牽強附会といった言葉で片付ける気には到底なれません。ママが出て行くと子供は癇癪を起してポットやカップを粉々にし、かごからリスを引っ張り出してペン先で突き、猫の尻尾を引っ張り、壁紙を破り、本を破り、狼藉の限りを尽くす。ラヴェルの音楽も、もうやりたい放題。管楽器が咆哮し、ピアノが駆け降り駆け上がる。早くもラヴェルの才能が全開です。
音楽が静まると、肘掛椅子とルイ15世風の安楽椅子(ベルジェール)が歌いだし、子供が壊した様々な家具たちが「もう子供はまっぴら」と歌う。子供は壁に張り付いて茫然と見ている。音楽はちょっと気どったフランス宮廷舞曲風、そう、「クープランの墓」のフォルラーヌみたいな、貴婦人の衣擦れの音が聞こえてくるような世界。ここでラヴェルはリュート風ピアノpiano luthéalという楽器を指定していますが、無い場合は弦とダンパーの間に紙を挿んで代用するように指定しています。世間に普及しなかった為、一体どんな楽器なのか想像も付きませんが、CDから聞こえてくるのは風邪をひいて鼻声になったみたいなピアノの音。どこからこんな発想が出てくるのか不思議ですが、ここから一気に「魔法の世界」が始まります。
子供に振り子を引っこ抜かれた時計が狂ったように歌いだし、「チャイムが止まらない、時間も判らない、子供が振り子をちょん切ったのでぽんぽん痛い」と歌う。この場面の音楽は数年後に書かれたピアノ協奏曲の終楽章のような、ラヴェルの耳によって濾過されたジャズのイディオムが用いられています。
お次はウェッジウッドの黒いティーポットと支那風のティーカップの二重唱。ティーポットは黒人ボクサー気どりで「黒くて逞しい」セックスアピールを誇示しながら、英語でキャバレー風の歌を歌う。ティーカップは殆ど翻訳不可能な訳の判らない歌を返す。歌詞の中にはHarakiriとかSessue Hayakawaなんて言葉も出てきますが、これはもちろん「腹切り」とハリウッドで初めてスターとなった日本人、早川雪洲のこと。この後の歌詞についてイヴリーの著書には「Kek-ta fouhtuh d'mon Kaoua?は、「Qu'est-ce que tu as foutu de mon・・・」とも読め、これは英訳すれば「What the fuck have you done with my・・・」(私のお○○○とナニしたい?)ほどの意である」云々と書かれていてホンマかいな、と思いますが・・・。二期会公演の字幕でどう訳すのか見ものです(笑)。この辺りの音楽はラヴェルがそれこそ魔法を掛けて洗練の極みまで高めた、ナイトクラブの黒人の歌うポピュラーソング。
ただただ恐怖に慄く子供の前に、今度は暖炉の中から火が登場し、「良い子は暖めてあげるが、悪い子には火傷させるよ」と子供を脅かす。火の歌を歌うのはコロラトゥーラ・ソプラノ、夜の女王もツェルビネッタものけぞるような超絶技巧で書かれています。火(男性名詞)はやがて燃えがら(女性名詞)とダンスを踊りながら静かに消えて行くと、部屋はすっかり暗くなる。
子供が破った壁紙に描かれていた羊飼いの男と娘が、引き裂かれた悲しみを歌う。妖しくも美しいオリエンタル情緒たっぷりの韃靼風の歌。「ボレロ」と同じく、通俗すれすれでありながら高度な音楽語法が駆使されており、ラヴェルの真骨頂という感じがする。
続きは次回に。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-05-11 00:40 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)