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新国立劇場公演 モーツァルト 「ドン・ジョヴァンニ」

昔の話だが、岡山から関西に出てきた友人が少し混んでる電車に乗っていると、ランドセル背負った小学3,4年の子が「すんませんすんません」と手刀切りながら客の間をすり抜けていった。強烈に関西を感じたそうだww。




新国立劇場の「ドン・ジョヴァンニ」、またしても伝説的な名演の生まれる瞬間に立ち会ったような気がしました。

 2012年4月29日
  ドン・ジョヴァンニ: マリウシュ・クヴィエチェン
  騎士長: 妻屋 秀和
  レポレッロ: 平野 和
  ドンナ・アンナ: アガ・ミコライ
  ドン・オッターヴィオ: ダニール・シュトーダ
  ドンナ・エルヴィーラ: ニコル・キャベル
  マゼット: 久保 和範
  ツェルリーナ: 九嶋 香奈枝
  指揮: エンリケ・マッツォーラ
  演出: グリシャ・アサガロフ
  合唱: 新国立劇場合唱団(三澤洋史指揮)
  管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

今回の公演、何が凄いって、タイトルロールのマリウシュ・クヴィエチェン、レポレッロの平野和、ドンナ・アンナのアガ・ミコライ、騎士長の妻屋秀和の4人の歌いっぷりが凄過ぎる。「声の饗宴」といった評を与えたくなるのは、ヴェルディならともかくモーツァルトのオペラに相応しくないような気もしますが、それだけ彼らの声に力があったということ、そしてモーツァルトのオペラといっても、オペラである以上、歌手の声そのものが非力ではどうしようもないのだ、という当たり前の事に気付かせられました。

マリウシュ・クヴィエチェンは初めて聴きましたが、まさに旬の逸材、今現在の彼のドン・ジョヴァンニを聴けて本当に良かったと思います。重すぎず軽すぎず、女を口説く時はあくまでいやらしく甘く、レポレッロには横柄、ドンナ・エルヴィーラには冷たく、しかしどんなに下卑た言動をしようとも片時も貴族であることを忘れさせない気品のある声、これ以上のドン・ジョヴァンニってあるだろうか、と思ってしまう。ツェルリーナを口説く有名なLà ci darem la manoや、レポレッロの恰好で歌うセレナードは鳥肌が立つほどいやらしい素晴らしい。
今回、ある意味最も驚いたのはレポレッロを歌った平野和。レポレッロという人物像、つまり幾つか独立したアリアも与えられてはいるけれども所詮舞台の上では脇役、というイメージをぶち壊してしまうほどの存在感。よくよく考えればレポレッロという役柄は脇役どころか殆ど出ずっぱり、準主役と言ってもよいくらいなのだが、舞台でこれほどの優れた歌手によって歌われるものだろうか、と思う。声量はもちろん、舞台に真実を呼び込むのに必要な表現力もあり、ドン・ジョヴァンニと衣装を取り替える場面の演技力には思わず吹き出してしまうほどだし、何より主役に負けない体躯にも恵まれている(クヴィエチェンが外人勢の中では小柄だったのかも知れませんが)。新国立劇場の公演評でついつい「日本人も頑張っていた」とか「日本人の割には良かった」といった言い方を私もしてしまうし、誰しもしがちだと思うのですが、もう平野和に関してはそういった修飾語を付ける必要は全くない。
ドンナ・アンナのアガ・ミコライがこれまた(語彙が貧しくて申し訳ないですが)凄いとしか言いようがない。だいたい、このドンナ・アンナという役、モーツァルトのヒロインの中でも屈指の難しさじゃないかと思う。第1幕ではドラマティックな声が要求され、第2幕の長大なアリアでは揺れ動く心理の襞を歌うそのすぐ後のカバレッタで目の覚めるようなフィオリトゥーラを歌わねばならない。アガ・ミコライという歌手、声域によって微妙なむらがあり、声量はあるが少し発声に無理があるんじゃないか、と思われるような、豊麗さとは趣の異なる声質ですが、ドラマティックな表現もリリカルな表現もどちらも素晴らしい。フィオリトゥーラはぎりぎり合格、といったところ。でもこれが潰れた団子みたいになって歌えないソプラノ歌手はゴマンといると思う。モーツァルトに限っては、「あたくしコロラトゥーラじゃないので、そこのところは大目に見てよね」というのが通用しないのですね。彼女の素晴らしいのは、声質に頼ることが出来ない分、知性による制御に長けているところ。若干綱渡りのようなところも含めて、実にスリリングでした。
騎士長の妻屋秀和については、私いっつも誉めていると思うけれど、今回も素晴らしい歌を聴かせてくれました。カーテンコールの時に思いましたが、ほんとにガタイがでかい。やはり歌手はガタイが一番という気がする。
以上の4人が優れているので、開幕いきなりレポレッロの歌→ドン・ジョヴァンニとドンナ・アンナの格闘→騎士長の登場→殺害、と息つく暇もなくドラマに引き込まれてしまいます。これぞオペラの醍醐味。終幕の地獄堕ちの迫力も凄まじいばかり。ピリオド楽器のモーツァルトが一般的になって、このオペラも「ジョコーゾ」な部分に光を当てようとするのが当世風なのでしょうが、私はやっぱり地獄堕ちの場面は凄絶な表現、いわゆるデモーニッシュなものであってほしいと思います。

それ以外の歌手についても少し書き留めておきます。
ドンナ・エルヴィーラのニコル・キャベルもなかなかの出来ではありましたが、先程の4人と比べると少し精彩を欠く感じ。この人も発声に少し無理があるのか、あまり声が伸びない感じがします。でも第8曲のアリアの最後のアジリタはびしっと決まっていました。第2幕の方のアリアは少し苦しい、が、この至難なアリアを楽そうに歌う歌手を私は未だ知らない。
ドン・オッターヴィオのダニール・シュトーダは声量不足と一本調子な歌唱で、第2幕のアリアで盛大なブーイングを浴びてました。ネット評でも散々な書かれようで、気の毒過ぎて逆にちょっと庇いたくなる。非難されるべきは、ドン・オッターヴィオをリリコ・レジェロの為に書いたモーツァルトその人であって、主役級の肺活量コンペの中に置かれると可哀そう。あの第2幕の至難なアリアは、ドラマがそこで完全に停滞してしまうということもあって、この部分のトラディショナルカットは容認すべきだろうと思う。それをちゃんと歌ったのにブーイング(笑)。そりゃかわいそうだって。
ツェルリーナの九嶋香奈枝、個人的な嗜好の問題かも知れませんが、声質が私の考えるスーブレットとは合わない感じがしました。スーブレットをどうも(死語っぽいですが)「おきゃん」な女みたいなイメージで捉えると少し違うと思います。軽はずみ、機智、陰謀家、といった側面だけでなく、とくにツェルリーナはお色気が大切ですからね(デスピーナならともかく)。モーツァルトのスーブレットは本当に歌うのが難しいと思います。特に私らの年代は往年のスーブレットの女王、ルチア・ポップを生で聴いたりしてる世代ですからね、うるさいですよ(笑)。
マゼットの久保和範、ちょっと今回のキャストの中では厳しかったですね。二期会であればスタンダード?これからの人だと思うので、頑張ってほしい。

私は今回の公演の評としては、こうやって素晴らしい歌手達(登場人物8人のうち4人大当たりなんだから凄いですよ)のあれやこれやを反芻するだけで十分という感じがしている。モーツァルトの音楽そのもの、「ドン・ジョヴァンニ」論を書いてみたい誘惑に駆られるけれど機会を改めたい。
演出や管弦楽について少しだけ備忘的に書いておくと、演出はこれといって引っかかるところのない、いや一か所、巨大な操り人形が出てくるところは首を捻ったが、まずは無難な演出。舞台は光沢のある黒い床が水面のように舞台を反映させるのが美しく、白と黒が基調のチェスの駒をかたどったセットも大変結構。指揮はところどころ走る癖があって、歌手がついていくのが大変そう。ドラマティックな部分は聴きごたえがあるが、もう少し落ち着きがほしいところも。やはり「ジョコーゾ」という言葉に捕われてしまうのでしょうか。東京フィルはいつになく品の無い金管だったような気がします。私思うのですが、モーツァルトは素晴らしい演奏を聴けば聴くほど、難しいなと思う。プロの楽団たるもの、もっとモーツァルトを勉強すべきだと思います。そしてアマチュア・オケには・・・モーツァルト禁止令を出したい(笑)。
by nekomatalistener | 2012-04-30 13:10 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ストラヴィンスキー 歌曲集 ブーレーズ/Ens.アンテルコンタンポラン

拾いGIFシリーズ。
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以前ストラヴィンスキー自作自演集のCD15歌曲集を取り上げた際、その内容のあまりの素晴らしさに、何とかこれ多くの人に聴いてもらいたい、と思いながらも、CD22枚組買うって余程の物好きだよなぁと思わざるを得ないのでした。そこで、ブーレーズのストラヴィンスキー作品集6枚組の中の一枚を代わりに紹介しようと思った次第。何せ22枚組より6枚組の方が手を出しやすいだろうというのが一つ(笑)、それと、この中にストラヴィンスキーの最晩年の作品であるフーゴー・ヴォルフの「スペイン歌曲集」からの編曲が含まれていて、それが作品、演奏とも素晴らしいものであるから。
まずは曲目の紹介からいきましょう。

①パストラール(1907/1908初演、室内楽伴奏版1923)
②ヴェルレーヌの2つの詩Op.9(1910,室内楽伴奏版1951)
 第1曲「白い月影は」 第2曲「大いなる憂鬱な眠り」
③バーリモントの2つの詩(1911/1954改訂)
 第1曲「忘れな草、愛のささやき 第2曲「鳩」
④日本の3つの抒情詩(1912~13/1914初演/1943改定)
 第1曲「赤人」 第2曲「当澄」 第3曲「貫之」
⑤3つの小さな歌「わが幼き頃の思い出」(1906頃/1913改訂/1929~30編曲)
 第1曲「小さなかささぎ」 第2曲「からす」 第3曲「チーチェル・ヤーチェル」
⑥プリバウトキ(戯れ歌)(1914/1918初演)
 第1曲「コルニーロおじさん」 第2曲「ナターシュカ」 第3曲「連隊長」 第4曲「お爺さんとうさぎ」
⑦ねこの子守歌(1915~16)
 第1曲「暖炉の上で」 第2曲「部屋の中」 第3曲「ねんね」 第4曲「猫の飼い主」
⑧4つの歌(1953~54)
 第1曲「雄がもの歌」 第2曲「異端派の歌」 第3曲「鵞鳥と白鳥」 第4曲「チーリンボン」
⑨「子供のための3つのお話」から「チリンボン」(1923編曲)
⑩パラーシャの歌(1922~23、歌劇「マヴラ」より)
⑪シェイクスピアの3つの歌曲(1953/1954初演)
 第1曲「汝妙なる調べよ」 第2曲「汝の父は五尋の水底に」 第3曲「まだらのひなぎく」
⑫ディラン・トーマスの思い出に(1954/1954初演)
⑬J.F.ケネディのためのエレジー(1964/1964初演)
⑭ヴォルフ「スペイン歌曲集」より2つの宗教歌曲の編曲(1968)

  ①③④⑤⑧⑨⑩フィリス・ブリン=ジュルソン(Sp) ⑦⑪⑭アン・マレー(Ms) 
  ⑫ロバート・ティアー(T) ②⑥⑬ジョン・シャーリー=カーク(Bs)
  ブーレーズ指揮アンサンブル・アンテルコンタンポラン 
  1980年IRCAMオータム・フェスティヴァルでの録音
  CD:DG00289 477 8730

自作自演盤の歌曲集と比べると、まずそちらにあってブーレーズ盤にないのが、「牧神と羊飼いの娘」「4つのロシア農民の歌」「ふくろうと猫」、逆に自作自演盤になくてブーレーズ盤に含まれているのが初期の「パストラール」、「パラーシャの歌」とヴォルフの編曲。他にも自作自演盤でフランス語で歌われていた②がロシア語で歌われていたり、「プリバウトキ」と「J.F.ケネディのエレジー」がバスによって歌われていたり、と細かな違いが幾つかあります。私はまだ学生の頃、このディスクがLPで発売されてすぐに買い、しばらく夢中になって聴いていました。演奏も非常に優れたものですが、その後ながらく廃盤になっていて、つい最近CDで聴けるようになったものと思います。大半の曲目については先般詳述したので、今回は特にヴォルフの編曲について書いてみたいと思います。

実は私はヴォルフの作品をよく知りません。若い頃「メーリケ歌曲集」は一時よく聴いてましたが、どういう訳か本格的に深追いしようとはどうしても思えないのでした。それ以来、ヴォルフを聴くのはもう少し歳をとってからにしようと思いながら、敢えて遠ざけてきたきらい無きにしもあらず。しかし私ももうすぐ50の大台、そろそろ色々と聴いてみようと思っているのですが、私にとってこの「スペイン歌曲集」からの2曲の編曲はヴォルフ探索への格好の入口となるかも知れません。
それにしてもこの2曲の素晴らしさをどう表現したらよいものか。私のこれからの人生に、私にとって殆ど未開の沃野とも言うべきヴォルフの世界を知る楽しみが残されていると思うと、もう愉しみで堪らないほどだ。
ストラヴィンスキーが取り上げたのはスペイン歌曲集の第9曲”Herr, was trägt der Boden hier”と、第10曲”Wunden trägst du mein Geliebter”の2曲。いずれもスペインの古い宗教詩をパウル・ハイゼとエマヌエル・フォン・ガイベルがドイツ語に訳したものをテキストとしています。邦訳については「梅丘歌曲会館」というサイト
http://homepage2.nifty.com/182494/LiederhausUmegaoka/songs.htm
を運用しておられる藤井宏行氏、および翻訳をされた甲斐貴也氏のお許しを得てここに掲載します。ちなみにこの「梅丘歌曲会館」というサイトは本当に素晴らしい業績です。これだけ膨大な歌曲作品の邦訳と解題を地道に続けてこられたことに心から敬意を表します。甲斐氏のHP「フィヒテとリンデ」
http://homepage2.nifty.com/182494/Fichte/index.html
と並んで、リートの世界を知ろうとする者にとって掛替えのない道標だと思います。

聖歌曲第9番「主よ、この地には何が生えるのでしょう」

Herr, was trägt der Boden hier,
Den du tränkst so bitterlich?
»Dornen, liebes Herz, für mich,
Und für dich der Blumen Zier.«

Ach, wo solche Bäche rinnen,
Wird ein Garten da gedeihn?
»Ja, und wisse! Kränzelein,
Gar verschiedne, flicht man drinnen.«

O mein Herr, zu wessen Zier
Windet man die Kränze? sprich!
»Die von Dornen sind für mich,
Die von Blumen reich ich dir.«

主よ、あなたが苦い涙をそそがれたこの地には
何が生えるのでしょうか
「わたしのために茨が生えます、愛する者よ。
そしてあなたのためには飾りになる花が咲きます。」

ああ、涙が小川となって流れる所に
花咲く園など出来るのでしょうか
「出来ます。そして覚えておきなさい!
そこで人々がとりどりの冠を編むのです。」

おお、わたしの主よ、誰を飾るために
人々は冠を編むのでしょうか、教えてください!
「茨の冠はわたしのために、
花の冠はわたしがあなたに授けるために。」


聖歌曲第10番「あなたは傷ついています、愛する方よ」

Wunden trägst du mein Geliebter,
Und sie schmerzen dich;
Trüg' ich sie statt deiner, ich!

Herr, wer wagt' es so zu färben
Deine Stirn mit Blut und Schweiß?
"Diese Male sind der Preis,
Dich, o Seele, zu erwerben.
An den Wunden muß ich sterben,
Weil ich dich geliebt so heiß."

Könnt' ich, Herr, für dich sie tragen,
Da es Todeswunden sind.
"Wenn dies Leid dich rührt, mein Kind,
Magst du Lebenswunden sagen:
Ihrer keine ward geschlagen,
Draus für dich nicht Leben rinnt."

Ach, wie mir in Herz und Sinnen
Deine Qual so wehe tut!
"Härtres noch mit treuem Mut
Trüg' ich froh, dich zu gewinnen;
Denn nur der weiß recht zu minnen,
Der da stirbt vor Liebesglut."

Wunden trägst du mein Geliebter,
Und sie schmerzen dich;
Trüg' ich sie statt deiner, ich!

あなたは傷ついています、愛する方よ
そしてその傷に苦しんでいます
できることならかわりにその傷を担いたい、わたしが!

主よ、あなたの額を血と汗にまみれさせたのは誰なのでしょうか

「魂よ、この汚れはおまえの魂を得るための代価
 その傷のためにわたしは死のう
 それほど深くわたしはおまえを愛しているのだ」

主よ、死をも与えるその傷をわたしが担えればよいのですが

「この苦しみがおまえの心を動かすなら、我が子よ
 それを命を与える傷と呼びなさい
 わたしのこの傷がなければ、おまえの内に命が流れることもないのだから」

ああ、あなたの苦しみはなんとわたしの胸を痛めることか!

「おまえの心を得るためなら、さらに辛いことでも
 真の勇気を持ち喜んで耐えよう
 愛の炎に包まれて死ぬものだけが、真実の愛を知るのだから」

あなたは傷ついています、愛する方よ
そしてその傷に苦しんでいます
できることならかわりにその傷を担いたい、わたしが!


1966年の「ふくろうと猫」以降、殆ど筆を折ったかの如く創作意欲も落ちてしまった最晩年のストラヴィンスキーが、どうしてこの歌に心惹かれたのか、いずれ「スペイン歌曲集」のオリジナルを聴いて考えてみたい。さしあたって私は、訳者の甲斐さんがストラヴィンスキーの編曲に触れて、特に2曲目について「小受難曲」のよう、と書いておられる以上に的確な評価はないと思います。ヴォルフの原曲の楽譜を見ると、第9曲の調性記号はシャープが1つ書かれているけれども、ついに最後まで明確なホ短調もしくはト長調は現れず、最後はホ長調に終わります。同じく第10曲はシャープが2つ記されているが、ロ短調の近くをうろうろはするものの最後は嬰ヘ長調で終わります。謎に満ちた書き方、転調の仕方もどこか異常な感じがしますが、それがヴォルフの魅力だと言いきるだけの力は私にはありません。それはともかく、第10曲の最後の6小節、万感の思い溢れるコーダには胸を打たれます。以前に1966年の「ふくろうと猫」について、晩年のストラヴィンスキーのミザントロープの表明のようだ、と記しましたが、このヴォルフの編曲にも同じような傾向を感じて、心がしんと静まり返る思いがします。それは恐らくヴォルフその人にも顕著であった傾向でしょう。ストラヴィンスキーがなぜこの編曲を手掛けたのか、答えはすぐにも見つかりそうですが、もう少しヴォルフを聴きこむまで結論は保留しておきます。

このディクスを録音した頃、すなわちアンサンブル・アンテルコンタンポランとの活動を中心としていた頃のブーレーズには本当に素晴らしい録音がありますが、これはその中でも最も優れた業績の一つだろうと思います。ブーレーズのストラヴィンスキーについては何度もこのブログで言及してきて、良いものもあれば今一つなものもある、という評価をしてきましたが、この録音についても、1910年代から20年代の作品ではどうしても作曲者の生気漲るリズム感の前ではやや分が悪い。しかし「シェイクスピアの3つの歌曲」以降の作品の緻密な表現と作品の本質の幸福な合致については本当に譬えるものがないほど素晴らしい。機会があれば是非聴いてみてほしい一枚。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2012-04-28 23:38 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

プッチーニ 「西部の娘」 マゼール/ミラノ・スカラ座管弦楽団(その5)

拾いGIF。これ本物?
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これまで専ら音楽の素晴らしさについてのみ書いてきました。音源の演奏ですが、これはスカラ座の1991年のライブ録音で、私はCDを買うまで知らなかったけれど舞台を記録したDVDもあるとのこと。観客の興奮は凄まじく、2つあるジョンソンのアリアの終わりは絶妙のタイミングで熱狂的な拍手が入る。決して有名とは言えないこのオペラの、このアリアというにはいささか短すぎる絶唱にこの拍手、スカラ座の観客達のレベルの高さを伺うことができます。
そのジョンソンを歌っているドミンゴ、これはもう文句の附けようがない模範的歌唱。どちらかと言えばジョンソンという役柄はプッチーニのテノール役としては感情移入しにくい人物ではあるが、ここまで完璧に歌われるともうお話の出鱈目さなど問題になりません。但し問題がない訳ではない。第2幕の愛の二重唱がついにユニゾンになるところで9小節程カットされていて、そこでジョンソンの三点ハ(ハイC)が出てくる。ドミンゴはハイCを歌う自信が無かったのだろうか?もっとも音楽的にはこのカットによって失うものは殆どないという感じがします。
ランスを歌うホアン・ポンスも素晴らしい。前にも書いた通り、このランスという人物は愛を知らぬ不幸な半生を送り、実に陰影に富んだ人物。保安官のくせに、やることなすこと無茶苦茶なのだが、何と言うか、悪人役なのにどうしても憎むことが出来ない。ポンスはこういった性格的な役柄には打ってつけの歌手だと思います。
ミニーを歌うザンピエリもなかなか良い。大体このミニーという役、純粋無垢な聖母的側面と、鉄火肌の女としての側面の二つが無理やり一つの人物像に押し込められている感じがしなくもない。従ってこの矛盾する人物像を十全に歌うには大変な歌唱力、演技力が必要となる訳ですが、ザンピエリはリリコ・スピントからドラマティコまで振幅の大きな歌唱で大変説得力があります。
そして何よりマゼールの天才的な指揮。イタリア・オペラとマゼールというのがどうしても頭の中で結び付かない御仁もおられると思いますが、この人のアゴーギグはプッチーニの音楽に向いていると思います。私もついついヘンタイ呼ばわりしてしまうけれど、知的な造りとイタリア物ならではの臭みや過剰感が絶妙なバランスを保っていて、独特なアラルガンドには冷静さを保つことが出来ません。ライブなのでマイクがやや遠い感じがして、比較的新しい録音の割には物足りなく感じる所もありますが、全体の中ではごく小さな瑕だろうと思います。私は「西部の娘」については色んな録音を聴いた訳ではありませんが、これは理想的な演奏と言っても良いのではないでしょうか。
それにしてもこの作品、ブログを書く為に随分繰り返して聴き込みましたが、何度聴いても飽きるということがない。私は、オペラは音楽が全てであってお話などどうでもよい、という立場は採りませんので、このあまりに御都合主義なストーリーの所為で「傑作」と呼ぶのには躊躇してしまうのですが、本当に一級品の音楽だと思いました。

以下は蛇足ですが、以前紹介した玉崎紀子氏の論文にはオペラの元ネタのベラスコの戯曲や、その後作られたミュージカル映画との比較など大変興味深い内容が書かれています。前にこの音楽を「ミュージカル風」と書いたけれど、1910年のアメリカ初演当時の彼の地の音楽はどんなものだったのか、大層興味をそそられます。特にミュージカルの世界はいつかどっぷりと浸かってみたいと思いながら果たせないままです。
ブロードウェイ・ミュージカルの誕生と発展を歴史的に俯瞰するというのは意外と困難なようです。そんなに昔の事でもなかろうに、クラシックとポピュラー音楽のクロスオーバーする領域で、そのどちらにも通暁している著者による体系的な記述は、少なくともネット世界の情報を渉猟しただけではまず見当たらない。
wikiのミュージカル史に少し付け加えるなら、まずこの基になった1つ目の要素はミンストレル・ショー、ヴォードヴィル、レヴュー、バーレスクといった様々な名称によって呼ばれる笑劇。何となく音楽劇というよりは「横山ホットブラザース」みたいなお笑いのイメージを持ってしまいますが、かのスティーヴン・フォスター(1826-64)などもミンストレルの為に沢山の歌を書いたらしい。
2つ目の要素は世紀の替わり目頃にアメリカに移住したヨーロッパの、それもなぜか辺境の音楽家達の影響。例えばヴィクター・ハーバート(1859-1924)。ダブリン出身、1892年よりアメリカで活動、オペレッタから初期のミュージカルの創設へ貢献したと言います。ルドルフ・フリムル(1879-1972)。プラハ出身、あの「蒲田行進曲」はオペレッタ「放浪の王者」の中の「放浪者の歌」の翻案。1906年にアメリカに移住、初期のミュージカルの創設に与った。あるいは、シグマンド・ロンバーグ(1887-1951)。ハンガリー出身、1909年渡米、1920年代にオペレッタ、初期のミュージカルを作曲。この人達が創生期のミュージカルの骨格を形作ったと言えそうです。
3つ目の源流は何と言ってもジャズの要素。ご存知ジョージ・ガーシュウィン(1898-1937)。ユダヤ系ロシア移民の子、その作品リストには驚くことに1916年から1936年にかけて、50作ものミュージカルと称する作品が並んでいます。歌入りの芝居、くらいのイメージなのかなと思いますが、何せ聴いた事がないので何とも言いようがありませんが、ひょっとするとこれは宝の山かも知れないという予感がします・・・・。他には「キス・ミー・ケイト」のコール・ポーター(1891-1964)や「二人でお茶を」のヴィンセント・ユーマンス(1898-1946)らによってジャズやブルースの要素がもたらされたとのこと。
4つ目の要素はヨーロッパで、またアメリカでも大流行したオペレッタ。オペレッタといえば何といってもレハール。ナチスと上手く折り合いをつけられたレハールはヨーロッパに留まったが、その作品はアメリカでも知られていました。だが、ミュージカルの関係で行けば影響が大きそうなのは「チャルダーシュの女王」のエメリヒ・カールマン(1882-1953、1942アメリカに帰化)、ユダヤ系ハンガリー人。アメリカ時代の作品はよほどの好事家にしか知られていないであろう。
5つ目は1930年代後半にナチスやムッソリーニ政権を逃れてアメリカに亡命したユダヤ人作曲家達の筋金入りのクラシカルな音楽。エーリッヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト(1897-1957)、モラヴィア生まれのユダヤ人、1938年亡命。マリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコ(1895-1968)、ユダヤ系イタリア人、1939年亡命。この2人はミュージカルこそ書かなかったが映画音楽で大きな影響をもたらしたのではないか。あるいはクルト・ワイル(1900-1950)、デッサウ生まれのユダヤ人。1935年アメリカ亡命後に多くのミュージカルを書いたと言いますが、これらの人々の影響は大きいだろう。「西部の娘」は彼らの亡命より30年近くも前にヨーロッパからもたらされた最新のクラシカルな音楽、ということだったのでしょうが、上の記述から考えると初演の1910年当時はオペレッタとは明らかに異なるミュージカルというジャンルはまだ確立されていなかったと言えそうです。それを思うと、この「まるでミュージカルみたいな」オペラが当時如何に斬新なものであったか想像に難くありません。また、このオペラの影響というものが後のミュージカルに何らかの形でもたらされたことも、その後何度も舞台にかけられ、映画化もされていたということから明らかであると思います。
最後にロンドン発のコミカルな舞台音楽の影響があるようですが、これは調べてもよく判りませんでした。お詳しい方のご教示をお願いします。
これらの先人達の築いた土台がまずあって、その後オスカー・ハマースタイン2世(1895-1960)というユダヤ系アメリカ人の作詞家によってミュージカルは映画と手を携えながら完成の域に達します。「ショー・ボート」1927、「オクラホマ」1943、「南太平洋」1949、「王様と私」1951、「サウンド・オブ・ミュージック」1958etc、これらの作品の内一つも聞いたことがないという人は多分いないのではないか。音楽を書いたのはリチャード・ロジャース(1902-1979)というユダヤ系アメリカ人(オクラホマ、南太平洋、王様と私、サウンド・オブ・ミュージック)やジェローム・カーン(1885-1945)というドイツ系ユダヤ人。彼の「ショー・ボート」1927を以って最初のアメリカのミュージカルの確立とする意見があるようです。
以上は私の見解ではなくて、これから少しずつ観たり聞いたりするにあたっての、聞きかじりによる備忘のようなものです。音源の入手がけっこう大変そうですが・・・。またいつか当ブログで紹介する機会があるかも知れません。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2012-04-19 00:00 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

プッチーニ 「西部の娘」 マゼール/ミラノ・スカラ座管弦楽団(その4)

「なぞなぞ。朝は4本、昼は2本、夜は3本のもの、なーんだ?」
「俺が飲むヤクルトの本数。」




第2幕の続き。激昂するミニーに、ジョンソンは自分の呪わしい半生を語り、ミニーに出会ってから愛と真面目な仕事との生活を夢見るようになったと歌います。しかしミニーはジョンソンが盗賊であったことは許せても、情婦がいながら自分を騙し、初めてのキスを奪ったことは許せないと言います。ジョンソンの語りはかろうじてアリアと呼べるものの一つですが、ここに現れる5/2拍子の小節は前々回私が「歌が上り詰めていくその更に向こうに、真の感情の爆発が控えている際、そこに到達するのももどかしく階段を一段おきに駆けのぼるように切迫して現れる」と表現した「字足らず」の小節です。この一小節があるために聴く者は瞬時にして音楽の最大限の昂り、感情の爆発に引きさらわれてしまうのだろうと思います。プッチーニの音楽を「お涙頂戴」式と呼ぶことは強ち間違ってはいないと思うけれども、この天才とメチエの類まれな結合を見落としてはならないと思います。
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結局ジョンソンは吹雪の中山小屋を去り、ミニーは自分を納得させるように「終わった」と呟きます。そこに銃声が聞こえ、ドアに何かが倒れ掛る音が聞こえます。ミニーは扉を開け、銃で撃たれたジョンソンを小屋に引き入れようとします。尚も戸外に出て行こうとするジョンソンにミニーは思わずIo t'amo!(愛してるわ!)と叫び、血を流す彼に何とか梯子を登らせて屋根裏部屋に匿います。烈しく扉を叩きながらランスが小屋に入ってきます。「俺はランスじゃない、保安官だ!」。ランスはジョンソンが傷を負って逃げ込んだことを確信していますが、ミニーに罵倒され、彼女を押さえつけて無理やりキスしようとします。ミニーはランスに出ていけと言いますが、その時天井から血が滴り落ちてきます。ランスが高圧的にジョンソンに降りてくるよう命じると、息も絶え絶えのジョンソンが降りてきて、気を失ってしまいます。
追い詰められたミニーはランスに向かって「あんたはギャンブラー、ジョンソンは盗人、そしてあたしは鉄火場の女、みんな同じ穴のむじなよ。あたしとジョンソンの命を賭け金にしてポーカーをしましょう、あんたが勝てばこの男を好きにしたらいい、でもあたしが勝ったらこの男はあたしの物」と賭けを持ちかけ、ランスとの息詰まるポーカーが始まります。一瞬の隙にカードをストッキングに隠した彼女は、途中緊張のあまり気分が悪くなった振りをしてランスに水の入ったグラスを取りに行かせ、手持ちのカードとすり替えます。3枚のキングを手に勝ち誇るランスにミニーは3枚のエースのフルハウスで勝利を告げ、ランスは振り絞るようにBuona notteとだけ言って憤然と出て行きます。変ホ短調の叩きつけるようなオーケストラに乗せて、ミニーは「ジョンソンはあたしのもの」と叫んで幕。
銃声が聞こえてから幕が降りるまでの音楽は、一々譜例は挙げませんがこの上なく劇的で息詰まる思いがします。でもポーカーの場面は舞台よりも映像向きでしょうね。

第3幕は森の場面。焚き火の回りでランスは切り株に座って思案しており、ニックは行ったり来たりしています。ミニーに同情するニックの歌は、全音音階によって調性が宙吊りにされ、不安な心を表します。ランスはジョンソンへの憎しみを歌いますが、ニックはミニーの恋を成就させてやりたいと思っています。
ジョンソンを捕まえた男達が興奮して現れ、口々に「吊るしてしまえ」と叫びます。ニックは首吊り用の縄を準備しているビリーに、自分が戻るまで決して殺すな、と言い置いて姿を消します。ランスの歌う「今度泣くのはお前の番だ、ミニー」はアリアと呼べる代物ではないが素晴らしい部分。ここにも感情の爆発がうねるような6/4拍子の中に「字余り」の9/4拍子を招きよせ、いやが上にも興奮を誘います。こんな旋律があるから私はどうしてもこの敵役のランスを憎むことが出来ない。もしかするとこの「悪人の魅力」は「トスカ」のスカルピアを凌ぐかも知れない。
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ジョンソンは最後に一言言わせてくれと叫びます。男達は尚も殺せと騒ぎますが、兄貴格のソノーラが「聞け」というとようやく静まります。ここからジョンソンのもう一つのかろうじてアリアと呼びうる絶唱が始まります。ジョンソンは男達に、ミニーに自分が死んだと言わないでおいてほしい、自分は男達に許されて追放となり、彼女の教えてくれたより良い生活を送っていると伝えてほしいと力の限り歌います。
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何ということもない、一見霊感に乏しいとすら思える旋律ですが、これが次第に高揚すると感動せざるを得ない。ここにも4/4拍子の中に「字余り」の2/4拍子が2回差し挿まれています。この小節があるせいでどれだけ聴く者が涙を絞られることか。
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死の儀式が始まります。嬰ハ短調と二短調の交替はどこかアルカイックな響きを醸し出します。そこにニックに導かれてミニーが馬に跨って登場、男達は殺せ、いやもう放してやれ、と大混乱。ミニーは皆にピストルを向け、行かせてくれなければジョンソンを殺して自分も死ぬと叫びます。あの強盗ラミレスは私の部屋で死に、生まれ変わったのだからあんた達には殺せない、どうか許してやって、と。ソノーラは「行かせてやれ」と言い、「金の事はどうでもいいが、奴は俺達からミニーを奪った」とすすり泣きます。ミニーは男達一人一人に優しく語り掛け、ミニーのこれまでの献身を思って男達は二人を許します。あの二重唱の旋律や、ジェイクの望郷の歌の旋律などが懐かしく回想されます。男達の別離の歌が静かに流れる中、二人はカリフォルニアに別れを告げて立ち去り幕が降ります。
もう少し書きたいことがあるので続きはまた今度。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-04-16 23:51 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

プッチーニ 「西部の娘」 マゼール/ミラノ・スカラ座管弦楽団(その3)

また拾いネタだけどこれ好きww。
【原材料】
アンパンマン「小麦が高くて、力が出ない……。」



第1幕の後半になってようやくジョンソンが登場しますが、ジョンソンが気に入らないランスはこの優男がウィスキーをソーダで割って飲むのも癪にさわり、敵愾心をもってジョンソンをあれこれと穿鑿します。ミニーはランスをたしなめて、よそ者のジョンソンを迎え入れますが、ここでミニーとジョンソンが以前にも顔を会わせたことがあり、淡い恋心を抱いていたことが判ります。音楽もまるで印象派のような和声進行で、二人の歌を盛り上げていきます。ランスは更にジョンソンに絡み、男達も同調しようとするものの、ミニーのとりなしで大人しくなってしまいます。ミニーとジョンソンは男達に囃し立てられてワルツを踊ります。この男達の合唱を伴うワルツは単純極まりないものですがとても美しいもの。
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そこにアシュビー達が盗賊の一味カストロを捕まえて引っ立ててきます。カストロは自分達の首領ラミレス(ジョンソン)が無事なのを見てとると、ランスやアシュビーらの捜索を邪魔するためラミレスを裏切った振りをして、彼らに嘘のアジトを教えようと皆と酒場を出ていきます。ミニーはジョンソンを引き止め、先程のワルツの旋律に乗せておずおずとした会話が始まります。ここから第1幕の終わりまで、プッチーニが腕によりをかけて書いた長大な愛の二重唱が続きます。
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先程は単純極まりなかったワルツの旋律が、ここでは極上のオーケストレーションを伴って蕩ける様な甘い音楽となっています。ジョンソンの愛の歌はプッチーニお得意の変ト長調で2点変ロまで上り詰めますが、そこに盗賊一味の合図の口笛が聞えてきます。ニックが「強盗が近くをうろついている」と注意を促しに来るが、ジョンソンを信頼しているミニーは樽の中に鉱夫たちの金が入っており、自分は不幸な男達の為に命を掛けて金を守ると話します。実はその金こそジョンソン、つまりラメレスの目当てであった訳ですが、ミニーが心の底から鉱夫達の荷馬車のように惨めな人生に同情していることに彼は心を打たれます。ここは本当に感動的な歌ですが、二重唱の一部となっていてミニーの独立したアリアでないことは再三触れたとおり。
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別れを告げて出ていこうとするジョンソン。ミニーは自分の住む小屋にジョンソンを誘いながら、自分をつまらない女だと言って感極まって泣きます。ジョンソンは山小屋を訪れることを約束して出ていきます。ミニー夢うつつのまま幕。

ここで注意せねばならないことは、ジョンソンはミニーの純真さに心打たれてはいるけれども、結局盗賊仲間に金の在処を教えに出て行ったことです。ジョンソンはこの後ミニーの山小屋に現れますが、あくまでも彼の目当てはミニーの肉体であり、未だ行きずりの恋以上のものを求めている訳ではないということです。

第2幕はミニーの住む山小屋。女中のインディアン娘ウォークルの子守唄から始まります。この歌は「蝶々夫人」のスズキが歌う「イザナギイザナミ」を連想させます。プッチーニの頭の中にあるオリエンタリスムは所詮この程度のものか、と思わざるを得ません。二人は未婚のまま子供をもうけていますが、ミニーの薦めで結婚することになっています。もっとも、二人とも大して嬉しそうでもないところが面白いところ。
ミニーはウォークルに二人分の食事を言いつけ、晴れの衣裳を着てうきうきしています。ここでミニーの歌う歌は例によってアリアとは云えない短いものですが、ミニーの心が昂るにつれて聴く者の心まで切なくさせる素晴らしい旋律です。
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ジョンソンが来てぎこちない会話が始まります。ミニーは山の生活の喜びを歌いますが、愛に対する二人の考えは微妙に異なります。甘い旋律が現れ、この後大きな盛り上がりを見せますが、この旋律は流しのジェイクの歌や、ワルツの旋律同様、アメリカ民謡風の素朴なペンタトニックでありながら、プッチーニの手に掛ると二人の官能の限りを尽くす名旋律に変貌していきます。プッチーニの手腕の素晴らしさには驚嘆する他ありません。
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最初はキスを迫るジョンソンをいなすミニーですが、ウォークルを帰らせてから音楽もいよいよ只ならぬ気配を漂わせ、ミニーはついにジョンソンにキスを許します。ここからの二重唱はプッチーニの作品の中でも最も素晴らしいものの一つだと思います。というか、これほど激しい愛の二重唱は他に見あたらないほど。5/2拍子の大きくうねるオーケストラに始まり、4/2拍子と3/2拍子が激しく交替して、聴く者はもう翻弄されるのみ。
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最初の部分は前奏曲に現れたうねるような旋律、そしてついに先程の甘い旋律で二人のユニゾンとなります。
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音楽の狂おしい昂りが少し収まると、今度は第1幕のワルツの旋律がオーケストラに現れます。ミニーは気になっていたこと、ジョンソンとニーナとの関係について尋ねますが、ジョンソンは知らないと答えます。もともとミニーの体目当てと思われたジョンソンですが、ミニーのあまりの純粋さにキスをしただけで帰ろうとします。その時ランス達の声がするので、ミニーはジョンソンを隠します。ランスらはジョンソンが実はラミレスだったこと、ニーナはジョンソンの情婦であったことを話し、ミニーは動揺を隠して彼らを帰らせます。ただ、バーテンダーのニックだけは、ジョンソンの葉巻が落ちているのを見つけ、二人の関係を察しますが、知らぬふりをして一緒に帰っていきます。ミニーの激昂。続きは別稿にて。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-04-15 21:42 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

プッチーニ 「西部の娘」 マゼール/ミラノ・スカラ座管弦楽団(その2)

ネットの拾いネタばかりですみません・・・

「今からこのトランプを消して、観客の誰かの胸ポケットに入れてみせましょう。」
「えぇー、さすがにそれは無理じゃないですか?」
「いいえ、ものの見事にやってのけますよ。」
「小野妹子に?」




前回の予告通り、幕を追いながら聴きどころを紹介しようと思いますが、このオペラに関しては中京大学文化科学研究所の玉崎紀子氏の論文「西部の娘―原作戯曲、オペラそしてミュージカル―」という示唆に富む論文がCiNiiのオープンアクセスで読むことができます。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004648944
私のような素人がこれに附け加えることなど実は殆どないのですが、以下の拙文は出来るだけこの論文の内容と被らないように配慮しながら、私のオリジナルな考察を少し書いてみたいと思っています。

第1幕は短い前奏曲から始まりますが、全音音階によって調性がぼかされた部分、烈しい情念のうねりのような部分(これは後でミニーとジョンソンの愛の二重唱の旋律となる)、古き良きアメリカを偲ばせるジャズ風の部分(ケークウォークのリズム、これはジョンソンのライトモチーフとして後の部分に何度も現れる)の3つの要素から成り立っています。ヴォーカルスコアでわずか2ページの簡潔さながら、この作品の要約として申し分ない出来栄えです。
次にいかにも西部開拓時代に相応しい6/8拍子ののんびりとしたリズムにのって、仕事を終えた鉱夫達(いわゆるフォーティナイナーズ)が酒場「ポルカ」に三々五々集まってきます。バーテンダーのニックは商売上手で、男達の幾人かに「女主人のミニーが、あんたに気があるみたいだぜ」と囁くと、男達は舞い上がって煙草やら酒やらを皆に振舞って散財します。
流しの歌手ジェイク・ウォーラスが望郷の歌を歌うと男達はしんみりと聴きほれ、その一人ジム・ラーケンスが故郷を想って泣きだします。一文無しのジムが故郷に帰れるようになけなしの金を与える男達の美しい場面にこちらも涙腺が緩んでしまいます。
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その後、賭けポーカーでいかさま騒ぎがあり、男達が大騒ぎをしていると保安官のジャック・ランスが現れ事態を収拾します。運送会社のウェルズ・ファーゴの代理人アシュビーは、ランスにメキシコから来た盗賊団の情報を入れます。ミニーに惚れているランスは、ソノーラという鉱夫達の兄貴格の男とミニーを巡って発砲沙汰の喧嘩となるが、そこにミニー登場、荒くれ共もミニーの前では少年のように大人しくなってしまいます。ミニーのモチーフは振幅の大きな旋律でこの後何度も現れます。
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ミニーは読み書きすら怪しい男達に聖書を読み聞かせます(鉱夫のハリーはダビデとサムソンがごっちゃになっていて皆の嘲笑の的になります)。男達にとってミニーは教師であり憧れの対象であり、いやむしろ聖母なのかも知れません。ここで彼女が読むのはダビデの詩篇51の第7節「汝ヒソブをもて我をきよめたまへ さらばわれ浄まらん 我を洗ひたまへ さらばわれ雪よりも白からん」。ミニーは男達に「愛による許し」を教えます。ミニーの歌はアリアとも呼べぬささやかなものですが、控え目なオーケストラに乗せて語りかけるミニーの優しさに、こちらも心が融けていくようです。
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郵便配達夫が現れ、アシュビーの下に盗賊団の首領ラメレスが酒場ポルカに現れるだろうという手紙が届く(この場面のペンタトニックは「トゥーランドット」のピン・パン・ポンの三重唱を連想させます)。ランスとアシュビーは、ラメレスの情婦ニーナの裏切りによる密告だろうと推測します。ランスはミニーに言い寄るがミニーに手厳しく撥ねつけられます。ランスは愛を知らぬこれまでの自分の人生を歌いますが、この部分は前回も書いたとおりこのオペラ唯一のアリアと言ってもよい、切なくも美しいもので、正にプッチーニの本領発揮という感じがします。このアリアのせいで私はミニーやジョンソンよりむしろランスの方に感情移入してしまうほど。
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少し長く譜面を引用したのは、4/8拍子のゆったりとした流れに2/8拍子の1小節が入っていることに注目してもらいたいから。プッチーニの数ある名アリアにしばしば見られるこの「字余り」あるいは「字足らず」のような小節、感情の昂りが頂点に達して、伝統的な拍節法をぶち破ってしまうのが「字余り」、歌が上り詰めていくその更に向こうに、真の感情の爆発が控えている際、そこに到達するのももどかしく階段を一段おきに駆けのぼるように切迫して現れるのが「字足らず」の変拍子の小節。ランスのアリアには「字余り」の2/8拍子が2回現れます。以前「外套」を取り上げた時にはこの独特の変拍子について舌足らずにしか書けませんでしたが、これはプッチーニが聴く者の心を鷲掴みにして引き摺り回すメチエの秘密の一つではないかと密かに考えています。あまり言及されませんが、この独特のアーティキュレーションは本当にプッチーニの魅力の源泉であろうと思います。ランスの求愛に対して、ミニーは自分の父母が如何に愛しあっていたかを歌い、本当に好きな人でなければ結婚出来ないと歌います。
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練習番号71から一気に3点ハまで盛り上がるミニーの歌は、前回「最短距離で人を泣かせるアリア」を書こうとして少し失敗している、と書いた部分に該当するような気がします。
ジョンソン(実は盗賊団の首領ラメレス)の登場からは次回に。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-04-14 17:36 | CD・DVD試聴記 | Comments(2)

プッチーニ 「西部の娘」 マゼール/ミラノ・スカラ座管弦楽団(その1)

お気に入り画像シリーズ第二弾。ワロタ。
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まずは音源の紹介から。

 プッチーニ 「西部の娘」
  ミニー: マーラ・ザンピエーリ
  ディック・ジョンソン: プラシド・ドミンゴ
  ジャック・ランス: フアン・ポンス
  ニック: セルジオ・ベルトッキ
  アシュビー: ルイジ・ローニ
  ソノーラ: アントニオ:サルヴァドーリ
  トリン: エルネスト・ガヴァッツィ
  シッド: ジョヴァンニ・サヴォイアルド
  ベッロ: オラツィオ:モーリ
  ハリー: フランチェスコ・メメオ
  ジョー: アルド・ボッティオン
  ハッピー: エルネスト・パナリエッロ
  ラーケンス: ピエトロ・スパニョーリ
  ビリー・ジャックラビット: アルド・ブラマンテ
  ウォークル: ネッラ・ヴェッリ
  ジェイク・ウォーラス: マルコ・チンガリ
  ホセ・カストロ: クラウディオ・ジオンビ
  郵便配達夫: ウンベルト・スカラヴィーノ
  ミラノ・スカラ座合唱団、管弦楽団
  ロリン・マゼール指揮
  1991年1月17&31日、2月3&7日録音
  CD:SONY MUSIC88697446622

私はプッチーニのオペラが大好物。もちろん「トスカ」や「トゥーランドット」は大傑作だと思いますが、このブログでは出来ることなら普段あまり陽の当たらない作品をこそ取り上げたいと思っています(以前に「外套」を取り上げたのもそういった気持ちがあったから)。という訳で「西部の娘」。「トスカ」から10年後、「蝶々夫人」から6年後の1910年の初演ですから、この後は「つばめ」「三部作」「トゥーランドット」が残されたのみ。本来ならば最も油の乗り切った頃の作品としてもっと人気があってしかるべきところ、これがまったく人気がない。確かに一度や二度聴いただけではなかなか魅力が判らない。聴き始めた頃は「ひょっとして、というか、やっぱり失敗作?」と思ってしまうほど。そうは云いながら、ところどころしゃぶりつきたくなるような美しい箇所があり、音楽的にも極めて充実した書法が随所に見られます。完成度という点では若干の瑕があるけれども才能があちこちから噴出している。それこそ猫またぎなリスナーが愛して已まないタイプの作品。喩えが適切かどうか心許ないが、シューマンのピアノ曲、それも「ダヴィッド同盟舞曲集」のような、瑕も多いが天才的としか言い様のない作品についつい惹かれてしまう私の嗜好にぴったりと合う作品であると思います。

一般的な人気がない理由を考えてみることは無益ではないと思います。いくつか挙げていきますと、
①主人公の2人(ミニーとジョンソン)に独立して歌えるような手頃な長さのアリアがない
②グランドオペラには珍しくハッピーエンドに終わる(しかもかなり御都合主義的)
③全音音階の採用など玄人受けを狙った技法が大衆的な嗜好に合わない
④かと思えばミュージカル風の解り易い部分がしばしば大衆迎合的と受け取られる
⑤映画、特に西部劇の流行によって逆にオペラの題材としては奇異なままに留まってしまった
⑥「蝶々夫人」が日本人にとって「恥ずかしい」のと同様に、アメリカ人からみるとちょっと居心地が悪そう
⑦劇中でのインディアンの描写が孕むセンシティブな問題

他にもまだまだあると思いますが、これらの理由についてもう少し詳細に見ていきます。

①主人公の2人(ミニーとジョンソン)に独立して歌えるような手頃な長さのアリアがない
 これは特にミニーについて言える事ですが、ほとんどソロの見せ場らしいものがない。あちこちに美しい旋律が現れるが、それは専らジョンソンとの二重唱や鉱夫らとのアンサンブルの中に短く出てくるだけで、 リサイタルで独立させて歌えるようなアリアではありません。ジョンソンのほうは辛うじてアリアと呼べる歌が与えられていますが、それとて些か短すぎてリサイタルで歌うにはちょっと辛いところ。敵役のランスには実に美しい、長さも充分で均整のとれたアリアがあるのですが、これはバリトンの役。主役のプリマドンナにアリアがないのはやはりポピュラリティの獲得という点では致命的です(もし「蝶々夫人」に「ある晴れた日に」が無かったとしたら!)。その代わりに、二重唱やアンサンブルには本当に美しい箇所があり、プッチーニがかなり意識的に(実験的に、といっても良いと思うが)、大向こうを唸らせる手法を排してアンサンブル・オペラを書こうとしていたようにも思われます。あるいは、プッチーニは自分の持てるメチエの限りを尽くして、「最短距離で人を泣かせるアリア」を書こうとして、さすがに不発に終わっているように感じられる部分もなきにしもあらず。この辺りは稿を改めてじっくりと分析してみたいと思います。要は、この一見短所にも見える特質はこのオペラの魅力の一つでもあるということ。

②グランドオペラには珍しくハッピーエンドに終わる(しかもかなり御都合主義的)
 これは「お涙頂戴」式のお話のほうが受ける、といった表面的な理由だけでなく、ならず者は罰を与えられるべし、という道徳的な話でもない。盗賊の首領であるジョンソンは逆説的な英雄としての存在である訳だが、英雄はすべからく死すべきであって、生きのびて小市民的な、家庭的な幸福を追求してはならないというのが英雄譚の大原則。こんな事を思うのは、若い頃に三島由紀夫とか(例えば『午後の曳航』)を読みすぎた悪影響かも知れませんが(笑)、判りやすく云えば映画「俺たちに明日はない」でボニーとクライドが結婚して幸せな家庭生活を得たとしたら随分興醒め、この映画の魅力は半減以下じゃないかな、というのと同じ事です。ハッピーエンドのグランド・オペラという発想は確かに新奇ではあったでしょうが、これは残念ながら不発だったと言わざるを得ない。御都合主義という点に関して言えば、プッチーニのオペラの物語ではいつもの事じゃないか、という声もあるかも知れない。それにしても、ジョンソンの一味のカストロや情婦のニーナの事が後半一言も触れられないのはちょっとリブレットが酷過ぎると思います。

③全音音階の採用など玄人受けを狙った技法が大衆的な嗜好に合わない
 これはプッチーニが如何に当時の最先端の音楽的な手法に敏感であったかを良く物語っています。ドビュッシーがほとんど全音音階だけで「帆」を書いたのが1910年ですから、「西部の娘」を作曲中のプッチーニは未だ聴いていない可能性が高い。むしろそれに少し先立つ「水の反映」や「ペレアスとメリザンド」などからこの技法を習得したという見方が妥当だと思います。①と同様、プッチーニとしてはかなり実験的な試みであったことは間違いないが、誰にでもわかりやすい音楽的魅力とは成り得ないのも事実。他にもインディアンのウォークルとビリーの歌などでも随分と革新的な和声進行が見られますが、やや音楽全体の中で座りが悪いというか、単発的な効果の域を出ていないような気がします。

④かと思えばミュージカル風の解り易い部分がしばしば大衆迎合的と受け取られる
 私は不勉強でブロードウェイのミュージカルのことについてはとんと知らないのですが、少なくともその音楽的本質においてプッチーニのこの作品と極めて近い要素があることは確かであると思います。実際のところは、ミュージカルの音楽的な確立については1930年代終わり頃の、ヨーロッパからのユダヤ人音楽家の大量亡命という要素抜きでは語れないはずなので、年代的にはすこし合わないのですが、この「まるでミュージカルみたいに聞こえる」ということ自体、ただでさえ通俗的と看做されがちなプッチーニの音楽をさらに貶め易いものにしていると言えるでしょう。誤解の無いように言っておくと、私自身はミュージカルに対しても多大な関心を持っておりますし、プッチーニの音楽が本質的に含む通俗性、甘ったるさも全部込みで好きですので、このような誹謗中傷は全く問題にはなりませんが・・・。ちなみに③の玄人向けの部分と④の大衆的な部分は特に融合を図るということはなくて、しばしば乱暴なまでに隣り合っているという印象を持ちます。

⑤映画、特に西部劇の流行によって逆にオペラの題材としては奇異なままに留まってしまった
 これはまぁ仮説みたいなものですが、要は戦後の聴衆としては「映画向きのお話をわざわざオペラで見せられてもなぁ・・・」という感想に繋がるのではないかと思っているのです。事実、映画でならこのゴールドラッシュに湧くカリフォルニアの埃っぽい空気や、汗臭いフォーティナイナー達の臭いまでもリアルに表現できるでしょうが、オペラの舞台ではどだい無理がありますし、リアルに表現したところで、「なんとも華のない舞台」と思われるのが関の山。このオペラとミュージカルと映画との関係については稿を改めてもう少し述べるつもり。

⑥「蝶々夫人」が日本人にとって「恥ずかしい」のと同様に、アメリカ人からみるとちょっと居心地が悪そう
 これはアメリカ人じゃないので想像でしかないですが、第1幕の鉱夫たちがなにかというとHello,hello!と呼び交わすとか、イタリア語の台詞のなかに取ってつけたようにAllright!とかいった英単語が出てくるところなど、随分気恥ずかしいと感じられるのでは?我々が「蝶々夫人」をみていて、前後の台詞がイタリア語なのに登場人物が「チョチョさ~ん」とか「おーカミ(神)」などと言うとかなり恥ずかしいですもんね。他にもウィスキーをストレートで飲まねぇのはけしからん、とか皆が言い出すのも、ミニーがアシュビーに葉巻を勧める場面でことさら商品名(Regarias,Auroras,Eurekas)をいう場面(むりやり日本語に訳すなら「・・・いこい、わかば、それともしんせい?」みたいな)、なんてのも恥ずかしそう。インディアンの娘ウォークルの子守唄も、蝶々夫人でスズキが歌う「イザナギ、イザナミ、サルンダシコ(猿田彦www)」と同じくネイティブが観たら噴飯モノっぽい。鉱夫らは困っている仲間にみんなで金をカンパしたと思ったら、ポーカーでイカサマをした仲間を「吊るしちまえ!」と叫びだしたり、第1幕ではジョンソンに対して友好的だったのに第3幕では「殺せ殺せ」の大合唱だったり、荒くれどもの描写にしてもちょっと馬鹿に描きすぎ。そのくせミニーの仕草のいちいちに狂喜したりしゅんとしたり。小学生か。

⑦劇中でのインディアンの描写が孕むセンシティブな問題
 これは映画の西部劇も一緒のことでしょうが、『ちびくろサンボ』も発禁になっちゃう世の中では何かと舞台に掛け難い箇所があるのは確かでしょうね。もっともオリジナルの台本ではインディアンのビリーが客の飲み残しの酒を盗み飲んだりする場面があるのをオペラではカットしていたり、どこまでプッチーニの意思なのかよく判りませんが、昔の作品としてはネイティブが随分マシに描かれているほうだと思う。とはいえ、事実上の夫婦であるビリーとウォークルの会話が"Ugh!" "Ugh!"ってちょっとまずいだろ、と思う。

以上のことから言えるのは、やはり一般的には失敗作のレッテルを貼られても致し方ない部分があること、同時にプッチーニとしても随分と実験的な要素の多いオペラであること、またそのことは作品の興行的な成功とは折り合いが悪いけれど、音楽そのものの魅力としてはむしろ捨てがたい魅力に繋がっているところもある、という事だろうと思います。次回、劇の進行に沿って、もうすこし詳しく語ってみたいと思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-04-13 01:07 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

新国立劇場公演 ヴェルディ 「オテロ」

千葉で単身赴任中だが、大阪では一家に一台たこ焼き器があると言うと未だに「ネタ」と思う人がたくさんいる。「またまた~(笑)」みたいな。





3月7日、新国立劇場に「オテロ」を観に行きました。

  オテロ: ヴァルテル・フラッカーロ
  デズデーモナ: マリア・ルイジア・ボルシ
  イアーゴ: ミカエル・ババジャニアン
  ロドヴィーコ: 松位 浩
  カッシオ: 小原 啓楼
  エミーリア: 清水 華澄 
  指揮: ジャン・レイサム=ケーニック
  演出: マリオ・マルトーネ
  合唱指揮: 三澤 洋史
  合唱: 新国立劇場合唱団
  管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

まだ私が高校生の頃、学校の図書館にあったクラシックの解説本(詳細は忘れてしまいましたが)のなかに、イタリア・オペラの金字塔はモンテヴェルディの「ポッペアーの戴冠」、ロッシーニの「セミラーミデ」、そしてヴェルディの「オテロ」の3作であると書いてあり、へぇそんなもんか、と思いました。その後30年以上が経過し、ようやく私もその意見に同意出来る程度には経験を積んできたと思います。それはそれとして、オテロを聞くたびに思うけれど、イタリアオペラ400年の歴史の中で、ヴェルディのオテロは悲劇の最高峰ではないか、と思う。ちなみに喜劇なら同じくヴェルディの「ファルスタッフ」。ヴェルディの28作のオペラの中でも双璧、おまけにどちらもシェイクスピアの翻案。その「オテロ」の舞台をこうして東京に居ながら舞台で観る喜び。

09年のプロダクションと同じ舞台ですが、久しぶりに観ると前回気がつかないところに気がついたり、前回と少し異なる演出があったり、で大変面白い。どうせなら新しい舞台を、と思いがちであるが、このオテロはこうして何度も舞台に掛けられ、そのたびに磨かれて良くなっていくのでしょうね。観客もプレミアと違ってレパートリー公演では自ずと目より耳のほうに重きを置いて観賞することになり、観方聴き方が変わってきます。裏を返せば、指揮者や歌手はもはや初めて観る舞台に眼を瞠っている観客を相手にするわけではないので、その分プレミアとは異質の緊張感があるはず。つまり「前回と比べられる」ことが不可避である、ということ。こうして演奏者も聴衆も共にレベルアップしていくというのが正しいレパートリー公演の在り方だろうと思う。このオテロは新国立劇場のレパートリー・オペラとなっていく資格が十分ある美しい舞台であると思います 。
今回改めて舞台を観て、そのディティールの素晴らしさに唸りました。とくに女声の合唱団員の一人一人の衣裳が微妙に違う色合い、どれもくすんだ中間色ながら皆が集まると本当にきれい。演出で前回と大きく違うのは第2幕のマンドリン・コーラスの辺り、確か前回は舞台に張った水が明るくきらきらと輝くなか、履を脱いだデズデモナが水に足を浸したりペチコートを太腿までたくしあげたり、といった演出があって、えらくお転婆なような気がしたり、そうかデズデモナはまだ少女と言っても良い歳だしなぁ、などと考えていました。今回はマンドリン・コーラスの辺りでは既に夕暮れの設定、デズデモナは終始貞淑な妻、といった落ち着いた所作。デズデモナの造形はどちらも在りだと思うが、この場面の明るさがあってこそ、この後の物語の闇の深さも引き立つのに、と少し物足りない思いもします。第3幕終結部は人によってはスタティックな人の動きが不満かもしれない。ここは因習的なコンチェルタート様式で音楽を書いたヴェルディが悪いのだが、もう少し動かし方はあるかも知れません。後は概ね言うことなし。安心のクオリティ。

歌手の中では何といってもデズデモナを歌ったマリア・ルイジア・ボルシが素晴らしい。昨年「コジ・ファン・トゥッテ」でフィオルディリージを歌ってた時とは別人と思ってしまうくらい大違い。強靭なのに柔らかい温もりの感じられる声質で、声量も十分あり、リリコよりは幾分ドラマティコに傾いた歌ですが悲しみが胸に迫るような歌い方。私は終幕の「柳の歌」からエミーリアへの別れ、「アヴェ・マリア」にかけての部分を聴きながら落涙を禁じ得ませんでした。ここはヴェルディの筆致自体も神がかっていて、柳の歌の後、嬰ヘ長調の和音が4回鳴らされて感極まったデズデモナが「ああ、エミーリア、エミーリア、さようなら」と歌う部分は胸を抉られそうになる。そのあとの「アヴェ・マリア」、これを聴いて心動かない人は一体音楽の何を聴いているのか、と思います。私はもうこのボルシの感動的なデズデモナを聞けただけで十分元を取った気分になりました。
脇役ですが侍女のエミーリア役の清水華澄が素晴らしかった。終幕でヤーゴの姦計を暴露し、オテロを非難する場面の凄まじさ、こういう歌手が一人いるだけで舞台の迫真性は飛躍的に伸びる気がします。カーテンコールの時も、脇役には珍しく彼女に対しては盛大な拍手が送られていました。
ヤーゴのミカエル・ババジャニアンは知的な歌い方で、ヤーゴの人物造型には瞠目すべきものがありました。狡猾なだけではなく第2幕のクレドなど人間的な底知れぬ魅力を感じてしまうほど。ですが残念なことにここぞという時の声量が今一つ。ゆえにその人間的魅力が輝かしい悪の魅力にまでは至らない。
カッシオの小原啓楼は前に「沈黙」のロドリゴを歌っていた人ですが、この役では可もなく不可もなく、というところ。もっともレパートリー公演で日本人が歌うレベルとしては十分すぎるほど。これで文句を言ってはバチがあたる。
タイトルロールのヴァルテル・フラッカーロは前半はまるで駄目。昨年のトロヴァトーレでマンリーコを歌った時は、音程がずるずると上がる癖があるが、明るくよく伸びる声でまずまず好意的な評を書いた。が、今回は第1幕登場のEsultate!でまずがっかりしてしまいました。まったく声が届かない。音程も甘い。ヴェルディの書いた音楽は歌手に対して苛酷過ぎるとは思うけれど、ここがまともに歌えないのならオテロやるのは百年早いわ、と思う。いや本来オテロってテナー・オブ・テナーズの歌う役どころでしょう?いくらレパートリー公演ったって、Esultate!で鳥肌立たない程度の歌だったら値打ち半減だと思う。その後のデズデモナとの二重唱も、第2幕ヤーゴとの二重唱もなんだかぱっとしない。休憩後の後半になってようやく声が出てきた感じで、そうなると今度はなかなか他に得難い良い歌手だという気になる。マンリーコでは明るく感じられた声質が、ここでは立派にオテロに相応しくロバストな太さを備えている。今や伝説と化したかつての名テノールが次々と第一線を去るなかで貴重な歌手には違いない。という訳で実に評価が難しいのだけれど、後半が良かったので総合点ではまあまあかな、と思います。
ジャン・レイサム=ケーニックの指揮はあまり手練手管を使わず、悲劇の終結に向けて一直線に進んでいく推進力のあるもの。本来そんなに短いオペラではないはずなのに心理的な時間はすごく短く感じます。今回のようなタイトルロールが非力な時はこれで良いのかも、と思います。そうでなければ第1幕の幕切れの二重唱など、もっと情緒纏綿とやってほしいと思うかもしれません。そこは計算なのか、この指揮者の資質なのか、一度聴いただけでは私はよく判らない。
私は09年にも観てるので今回は舞台が少々見えにくくてもいいや、と思い、安い4階席で聴きましたが、金管が鋭く耳を撃つのに対して弦と木管がやや弱く感じました。これは座席の問題なのかオケのバランスのせいなのかはよく判りませんでした。ですが全体としてはとても良くオーケストラが鳴っており、ブラスも臆せす豪快で、とてもいい演奏であったと思います。
by nekomatalistener | 2012-04-08 22:38 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ストラヴィンスキー自作自演集WORKS OF STRAVINSKY (その15)

最近のお気に入り画像。
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CD15枚目は歌曲集。

  ①牧神と羊飼いの娘Op.2(1905~06/1908初演) [1964.5.8.録音]
    第1曲「羊飼いの娘」 第2曲「牧神」 第3曲「急流」
  ②ヴェルレーヌの2つの詩Op.9(1910/1951改定) [1966.9.26.&1964.12.11録音]
    第1曲「白い月影は」 第2曲「大いなる憂鬱な眠り」
  ③バーリモントの2つの詩(1911/1954改訂) [1967.1.24.録音]
    第1曲「忘れな草、愛のささやき」 第2曲「鳩」
  ④日本の3つの抒情詩(1912~13/1914初演/1943改定) [1968.6.10録音]
    第1曲「赤人」 第2曲「当澄」 第3曲「貫之」
  ⑤3つの小さな歌「わが幼き頃の思い出」(1906頃/1913改訂/1929~30編曲) [1964.12.11録音]
    第1曲「小さなかささぎ」 第2曲「からす」 第3曲「チーチェル・ヤーチェル」
  ⑥プリバウトキ(戯れ歌)(1914/1918初演) [1964.12.11録音]
    第1曲「コルニーロおじさん」 第2曲「ナターシュカ」 第3曲「連隊長」 第4曲「お爺さんとうさぎ」
  ⑦ねこの子守歌(1915~16) [1964.12.1録音]
    第1曲「暖炉の上で」 第2曲「部屋の中」 第3曲「ねんね」 第4曲「猫の飼い主」
  ⑧4つのロシア農民の歌(1914~7/1917初演/1954改訂) [1965.8.2録音]
    「チギサークの救世主教会の前で」「オヴゼン(古代の春の祭り)」「ノヴゴロド川の川かます」「太っちょ」
  ⑨4つの歌(1953~54) [1965.11.30録音]
    第1曲「雄がもの歌」 第2曲「異端派の歌」 第3曲「鵞鳥と白鳥」 第4曲「チーリンボン」
  ⑩シェイクスピアの3つの歌曲(1953/1954初演) [1964.12.14.録音]
    第1曲「汝妙なる調べよ」 第2曲「汝の父は五尋の水底に」 第3曲「まだらのひなぎく」
  ⑪ディラン・トーマスの思い出に(1954/1954初演) [1965.11.27.録音]
  ⑫J.F.ケネディのためのエレジー(1964/1964初演) [1964.12.14.録音]
  ⑬ふくろうと猫(1966/1966初演) [1967.8.18録音]
  ⑭子供のための3つのお話(1915~17)から「チーリンボン」(1923編曲) [1967.1.23./1968.6.10録音]

①マリー・シモンズ(Ms) ②ドナルド・グラム(Br) ③④⑭イヴリン・リアー(Sp) ⑤⑥⑦⑩⑫キャシー・バーベリアン(Ms) ⑧グレッグ・スミス・シンガーズ ⑨⑬アドリエンヌ・アルバート(Ms) ⑪アレクサンダー・ヤング(T)
①CBC交響楽団 ②③④⑤⑥⑦⑭コロンビア交響楽団 ⑨ルイーゼ・ディ・トゥリオ(fl)・ドロシー・レムゼン(hp)・ラウリンド・アルメイダ(gt) ⑩⑪コロンビア室内Ens.
⑫ポール・E・ハウランド、ジャック・クライゼルマン、チャールズ・ルッソ(cl) ⑬ロバート・クラフト(pf)
ストラヴィンスキー指揮、③④⑭はロバート・クラフト指揮による


このシリーズも佳境に入ったというか、とうとう私の最も愛するディスクに到達しました。この様々な編成の伴奏をもつ歌曲達、どれをとっても傑作揃い、何せ一曲一曲が短いので、いずれの作品も「これぞストラヴィンスキーの代表作」とは言えないけれど、私にとってはどれもがかけがえのない作品。天賦の才が迸るのを目の当たりにする思いがします。これは私の信仰告白と受け取ってもらっても良いが、これらの作品を知らないということは何と言う不幸か、とすら思います。私はこのディスクを聴きながら、私のささやかな音楽鑑賞歴でこれらの作品群に出会ったこと、そしてそれを味わうことのできる耳を父母から得たことにただただ感謝するのみです。
たくさんの作品が並んでいますが、大きく分けると、未だ先人達の影響下にあって進むべき道を模索していた頃の作品(①・②)、独自の道を発見し確立していく過程の作品(③~⑨、⑭)、十二音技法を取り入れ生涯の最後に更なる高みに向かっていく時期の作品(⑩~⑬)の3つのカテゴリーに分けることが出来ると思います。これらを通して聴いた時、若書きが晩年の作品より劣っているということはなくて、前にも書いたとおり最初から完成された姿で我々の前に現れ、最後までその洗練されたスタイルを変えなかったことを改めて感じることができます。ちなみに①・③~⑨・⑭がロシア語、②がフランス語、⑩~⑬は英語によって歌われています。

①「牧神と羊飼いの娘」はリムスキー・コルサコフ門下としての卒業作品の一つと思われますが、分厚いオーケストラはどこかワーグナーを思わせるところがあります。メゾソプラノのパートもドラマティックな強さを要求する書法で書かれており、転調の多い旋律もいかにもワーグナー風。たゆたうような半音階的な転調は時に全音音階によって調性がぼかされ、第2曲など表記のハ短調に到達するのは33小節目になってようやく、といった調子。これを習作と片付けるのは簡単ですが、何度も味わえばロシア5人組の伝統とワグネリスムの融合が驚くべき完成度で実現されていることが判るはず。

②「ヴェルレーヌの2つの詩」は1951年の室内オーケストラ版。これも一種の習作といっても良いけれども、すでにリムスキーの頸木から逃れて、ドビュッシーやラヴェルの世界に接近しています。フランス語で歌われていますが、そこはかとなく漂うロシアン・テイストは、ストラヴィンスキーと並び称されるべきもう一人の天才ムソルグスキーの歌曲に通じるところも。

③「バーリモントの2つの詩」は2本のフルート、2本のクラリネット、ピアノと弦楽四重奏のための室内楽伴奏版。ここに至って、祖国ロシアの先人達の世界から完全に脱却した独自の世界が展開されます。ここでは1954年の室内楽版で演奏されていますが、原曲は1911年作曲、ということはシェーンベルクの「ピエロ・リュネール」(1912年)の初演はまだということになりますから、ストラヴィンスキーのアヴァンギャルドぶりがよくわかろうと言うもの。もっとも殆ど無調の域に達している宙づりにされた調性感は、シェーンベルクの「架空庭園の書」(1910)や「心の茂み」(1911)を既にストラヴィンスキーが耳にしていたことを物語っているように思います。もちろん後期のスクリャービンの無調的な書法の影響や、ヴィシュネグラツキーらロシアン・アヴァンギャルドとの関係もあるかも知れません。私はよく知らない領域なので深入りはしませんが・・・。

④「日本の3つの抒情詩」(ソプラノと2本のフルート、2本のクラリネット、ピアノと弦楽四重奏のための)も③と並んでこの時期の作品としては最も急進的な書法で書かれています。「ピエロ・リュネール」の影響もあらわです(ストラヴィンスキーは1912年12月のベルリンでの「ピエロ」の演奏を聴いている)が、以前にも書いたとおり、同時期のラヴェル(「マラルメの3つの詩」)との親近関係が顕著に見て取れます。正に時代の最先端を突っ走っていた頃の作品ですが、極端に短い時間の中での完成度の高さはウェーベルンに譬えることもできそうです。

⑤から⑨に掛けての一連の歌曲はいずれもロシアの民謡もしくはわらべうたを、これまた急進的な伴奏に乗せて歌うという趣向の作品群。いずれも室内楽の伴奏付ですが、⑦の3本のクラリネット(B管・Es管とBのバスクラ)のほの暗い音色や、⑨のフルート・ハープ・ギターの組合せによる奇天烈な音響は天才的な着想。どの作品も無類の楽しさと活力に溢れていて、土俗的な力強さと同時に、聴き手の知性に強烈に訴えかける傑作ぞろい。民謡素材が最も生な形で生かされているのは「4つのロシア農民」の歌だろうと思いますが、1954年改訂版に附加された4本のホルン伴奏は「アゴン」を書きあげた作曲家の会心の作という気がします。この生の素材と現代的なイディオムとの結合はバルトークにも無いものかも知れません。こういった路線ではなぜか日本では(欧米もそうかも知れませんが)バルトークが非常に高く評価されるのに反して、ストラヴィンスキーは不当に低く評価される傾向があるように思いますが、虚心に耳を傾ければいずれも偉大な仕事を成し遂げた人達であることが判ると思います。⑨だけ作曲年代が離れていますが、1915~19年の歌曲の編曲ですので、⑤~⑧と同じカテゴリーと言えます。CDにはテキストが添付されていないので内容がよく判らないものもありますが、例えば「プリバウトキ」の第4曲「お爺さんとうさぎ」はこんな感じ。
 
  さびれた町のまんなかに、
  ちいさな茂みがありました。
  そこに座ったじいさんが、
  たまねぎスープを作っていると、 
  すがめのうさぎがやってきて、
  スープがほしいと言いました。
  そこでじいさん命じると、 
  足無し走って腕なしつかみ、
  服なしシャツにいれたとさ。

Dover社のスコアに載っていた英訳からの拙訳ですが、それにしても詩の翻訳は難しい。谷川俊太郎など、本物の詩人の仕事の凄さが身に沁みて判ります。いわゆるナンセンスな言葉遊びですね。

⑩の「シェイクスピアの3つの歌」は晩年のストラヴィンスキーが十二音技法を取り入れてからの作品。もっとも厳密な音列技法ではなく、多分に調性感を残した独特の技法で書かれています。テキストは第1曲が1609年のソネット集の第8篇、第2曲は「テンペスト」のエアリエルの歌(ヴォーン・ウィリアムスもこれに作曲している)、第3曲は「恋の骨折り損」から採られています。この辺りから本当に最晩年の作品が続きますが、かつてのaridな作風から転じて深い抒情性に傾倒していくような気がします。そこに幾ばくかのシニシズムとペシミズムが感じられ、単なる好々爺ではない真の知性に溢れた巨人の音楽を聴くことができます。この素晴らしさを私の貧しい語彙でどう表現したものか、今少しずつ読んでいるJoseph N. Straus の”Stravinsky's Late Music”(Cambridge University Press)にはそれぞれ詳細な分析が載っていますが、ここにそれらを紹介するのは諦めざるを得ません。いずれ改めて紹介する機会もあるでしょう。
⑪と⑫、ストラヴィンスキーはえらく長生きしたおかげで、晩年親しい友人達に次々と先立たれ、一連の追悼の音楽が書かれます。ここに挙げたディラン・トーマス、J.F.ケネディの他にも、T.S.エリオット、オルダス・ハックスレー等々。いずれも感傷に流れないという意味で素晴らしい作品群であると思います。ここでも言葉による伝達というものの無力さを痛感します。精緻極まりない書法の分析がそれを補うかも知れませんが、やはり他の機会に譲りたいと思います。
⑬「ふくろうと猫」は恐らくオリジナルの作品としては絶筆ではないかと思います(死の直前にかけて、フーゴー・ヴォルフの歌曲やバッハのコラールの編曲などがありますが・・・)。この骨とわずかな筋肉だけで書かれた簡素な歌、作曲家の行き着いた極北の心象風景は、私には一種のミザントロープ(人間嫌い)の表明のようにも聞こえ、あえかな悲しみを感じずにはおられません。突き放されてしばし呆然とする思いでいると、最後に「チーリンボン」の滅法楽しいオーケストラ伴奏版が賑々しく現れてこの充実したディスクを締めくくります(「火事だ!火事だ!カーンカーン!」ぐらいの意味か)。人はどう思うかいざ知らず、私には聴くたびに音楽の喜びと感動を与えてくれる1枚です。

ストラヴィンスキーの指揮がいかに躍動感に満ちたものであるか今更言うまでもありません。多彩な歌手陣の中ではキャシー・バーベリアンの素晴らしさが頭一つ抜きんでているように思いました。それは上手い下手を遥かに通り越して、作曲者への愛とリスペクト、そして作品への深い理解のなせる技であろうと思います。夫であるルチアーノ・ベリオやジョン・ケージやヘンツェといった人たちがいかに彼女を愛し、多くの作品を捧げたかよく判るような気がします。まさに現代音楽のディーヴァでしょう。イヴリン・リアーはベームが指揮した「ヴォツェック」の記念碑的な録音でマリーを歌っていた人ですね。さすがです。とても懐かしい思いで聴きました。
by nekomatalistener | 2012-04-05 21:51 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)