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ストラヴィンスキー自作自演集WORKS OF STRAVINSKY (その14)

ネットで拾った小咄だけど、これ大好き。
【ブラフ】
「円周率って何桁くらいまで言える?」
「あー、一時期は全部言えたんだけどねぇ。」





CD14枚目はいよいよオペラ編。

 歌劇「夜うぐいす」(1909~14/1914.5.26初演) [1960.12.29-31録音]
    漁師:ローレン・ドリスコル(T)
    うぐいす:レリ・グリスト(S)
    料理人:マリナ・ピカッシ(S)
    侍従:ケネス・スミス(Bs)
    僧侶:ハーバート・ビーティ(Bs)
    支那の皇帝:ドナルド・グラム(Br)
    死神:エレーヌ・ボナッツィ(A)
    日本の使者:スタンリー・コルク(T)、ウィリアム・マーフィー(T)、カール・カイザー(Bs)
    ワシントン・オペラ・ソサエティ管弦楽団・合唱団

 歌劇「マヴラ」(1921~22/1922.6.3初演/1947改訂) [1964.5.7録音]
    パラーシャ:スーザン・ベリンク(S)
    母親:マリー・シモンズ(Ms)
    隣人:パトリシア・ライドアウト(A)
    ヴァシーリィ:スタンリー・コルク(T)
    CBC交響楽団

「マヴラ」から行きましょう。
中流家庭の娘パラーシャと若い軽騎兵ヴァシーリィは愛しあっていたが、パラーシャの母親がメイドを雇いたいというのでヴァシーリィを女装させ、マヴラという名のメイドとして家に引き入れる。最初は母親も隣のやかましい奥さんもマヴラが実は男だと気付かない。しかしパラーシャと母親の外出中にヴァシーリィが髭を剃っていると、戻ってきた二人に見つかってしまい大騒ぎ・・・
プーシキンの原作は読んだことがないのですが、お話は上記のとおりバカバカしいもの。30分にも満たない短いオペラですが、音楽は実に素晴らしい。ストラヴィンスキー自身、「マヴラ」は自らが書いた作品の中でもベストのものであると述べているそうですが、残念ながら一般的な人気は全く無いと言ってよいでしょう。音源も少なくて、斯く言う私も全曲盤を聴いたのはティエリー・フィッシャーのCDでつい数年前のことです。オペラの冒頭に出てくる「パラーシャの歌」だけは、ブーレーズが手兵アンサンブル・アンテルコンタンポランと録音したストラヴィンスキー歌曲集のLPの中に入っていて、学生の頃から愛聴しておりましたが・・・。チャイコフスキーやグリンカを思わせる旋律はロシアの憂愁をたっぷりと含んでいますが、これが簡素な編成の乾いたオーケストラに乗せて歌われる。この伴奏の、ストラヴィンスキー独特の一見調子外れのようでいて実は選び抜かれた和声は、耳が慣れてくると癖になります。ここでは土俗的なものと洗練されたもの、あるいはロシア的なるものと地中海的なるもの、といった本来両立しないはずのものが両立している。この独特さというのはちょっと他に類似するものが思いつかないほどです。
歌っている歌手たちは可もなく不可もないといったレベル。パラーシャはコロラトゥーラが相当歌える歌手でないと少ししんどい感じがする。指揮はこの作品に相応しい楷書のような演奏ですが、先に挙げたブーレーズの「パラーシャの歌」が素晴らしく、それと比べると若干重たく感じる。ブーレーズ先生には是非御存命の間に全曲盤を録音してほしい(笑)。
それにしても、ブログなどで取り上げられることも殆どないというのに、大して聴きもしないで「つまらん」と斬り捨てるような言説を見ると悲しくなってしまいますが、これが意外に世評というものの源流になっていたりする。こうした無知や思い込みの類は多くの人が実演に接することでしか無くならないと思う。登場人物も少なく、オーケストラも小編成、「きつね」や「結婚」と比べると演奏者の技巧的な負担もかなり少ないと思われますので、もっと実演の機会がないものか、と切に思います。

次に「夜うぐいす」。
支那の皇帝はうぐいすの歌を愛でて宮廷に招き入れるが、折しもやってきた日本の使節団が献上した機械仕掛けのうぐいすの方に夢中になり、生身のうぐいすは去ってしまう。その後、皇帝は死病に取り憑かれ、うぐいすの歌を聴きたいと願うが、機械仕掛けのほうは壊れている。そこにうぐいすが戻ってきて、死神は去り、皇帝は快癒する・・・というお話。サヨナキドリというのが生物学上の呼び名のようですが、馴染みがないので「うぐいす」としておきました。
アンデルセンの童話によるこの45分ほどの短いオペラは、第2幕と第3幕の素材をもとに書かれた交響詩「うぐいすの歌」が比較的よく知られており、オペラとしても「マヴラ」よりは上演の機会、あるいは音源など多いようです。
ストラヴィンスキーがまだリムスキー・コルサコフの影響下にあった1907年に書かれ始めて、一旦中断の後1913年から作曲を再開しますが、その間にいわゆる3大バレエを含む作曲様式の長足の進歩があった為に気乗りがしないまま作曲を続けたということです。その結果、作品の始まりと中ほど以降の部分の音楽的スタイルが全く異なるという、シェーンベルクの「グレの歌」と同じ現象が起こっています。
その第1幕はドビュッシーの「雲」に似た前奏に抒情的な漁師の歌とうぐいすの歌が続く。同時期の「火の鳥」よりもっとリムスキー風ですが、その抒情性はなかなか魅力的。第2幕以降はすっかり「春の祭典」を書いた人ならではの音楽になっていて珍無類の味わいです。支那の行進曲はステロタイプな五音音階なのに対して、日本の使節団の重唱はけったいな平行五度の国籍不明音楽(笑)。但し、その行進曲はただのペンタトニックの面白さだけではなくて、目が眩むようなリズムの饗宴に彩られているところが聴きものです。3管編成のオーケストラは初期のストラヴィンスキーとしては特に大編成という訳ではないけれど、まるで新ウィーン学派に倣ったかのようにギターやマンドリンが入っていて、「きつね」におけるツィンバロンの採用と同じく前衛的な響きを醸し出す。にぎやかな大編成の部分も音響としては面白いけれど、特に第3幕の宮廷に戻ってきたうぐいすの歌うところ、ほとんど点描様式といってもよいくらいの繊細な室内楽的書法がこのオペラをただの若書きと捨てられない要因の一つとなっています。
歌手ではレリ・グリストがさすが。コロラトゥーラの歌える高いソプラノの役ですが、テクニックが完璧なだけでなく、文字通り生き物の暖かさが感じられる声です。漁師や皇帝など他の歌手も総じて優れています。ストラヴィンスキーの指揮も3大バレエ同様、作曲家の余技のレベルを遥かに超えるもので、特に第2幕冒頭のリズムの炸裂は素晴らしい表現です。

うぐいすに関して余談その1。先日の新国立劇場研修生公演で、ラヴェルとツェムリンスキーの短いオペラの二本立てを観ましたが、音楽的な相性の良さから言えばラヴェルと合わせるべきはストラヴィンスキーだったのかも知れませんね。
余談その2。リヨンのエクサン・プロヴァンス音楽祭2010の大野和士指揮の「うぐいす」の舞台は凄かったと評判。NHK-BSでもやったらしいが観そびれてしまいました。
by nekomatalistener | 2012-03-25 16:34 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

新国立劇場公演 ワーグナー 「さまよえるオランダ人」

取り押さえられたネコ(一応先日の大分合同新聞ネタの続き)。
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「さまよえるオランダ人」の舞台を観て来ました。

  2012年3月17日
     ダーラント: ディオゲネス・ランデス
     ゼンタ: ジェニファー・ウィルソン
     エリック: トミスラフ・ムツェック
     マリー: 竹本 節子
     舵手: 望月 哲也
     オランダ人: エフゲニー・ニキティン
     指揮: トマーシュ・ネトピル
     演出: マティアス・フォン・シュテークマン
     合唱指揮: 三澤 洋史
     合唱: 新国立劇場合唱団
     管弦楽: 東京交響楽団

これを書く前にちらっと幾つかのブログを覘いてみましたが、特にシュテークマンの演出が評判が悪いですね。私はそんなに酷い演出ではないと思いました。ほどほどに保守的・・・というと否定的なニュアンスになりますが、妙ちきりんな読替えよりはマシ。最後にゼンタがオランダ船に乗り込んで、オランダ人が陸に取り残される、というのは、えっ?と思いますが、先日の拙論に書いたように端からオランダ人の救済なんてものを信用していない人間からすればどっちが陸に残ろうが大したことではない・・・と、ちょっと暴論すぎますね。もう少し正確に言うと、最後の演出は意外なくらい違和感がなかった、と言っておきましょう。というのも、結局は「救済」なるものはゼンタの独りよがりであってオランダ人は実は救済されない(メタレベルでは救済を望んでいない)という結論は変わらないから、ということであると思います。
演出の主眼である、スペクタクルをどう見せるか、という点については、第一幕のオランダ船出現の場面の不気味さは、簡素なセットだけれど効果的でした。しかしながら最大の問題は第三幕のオランダ船の亡霊の合唱。これがPAで興醒めなことこの上ない。PAを全否定するつもりはありません。第一幕はオランダ船の出番が少ない分あまり気になりませんでしたし、他のオペラなら、例えば「サロメ」で地下牢からヨカナーンが歌うところなど今どきPA無しではちょっと考えられないでしょう。しかし、オランダ人の第三幕の合唱をPAで処理するというのは演出家の発想の貧困以外の何ものでもないんじゃないか?ここは多少無理してでも生歌を聞かせるべきだったと思います。生きている船乗りの合唱のほうがあまりに素晴らしかっただけに残念でした。
登場人物の動かし方についても、私はゼンタやオランダ人のこの世の者とも思われない動きと、ダーラントやエリック、舵手などの日常的とも言える動きの対比がそれなりに筋が通っていると思いました。船乗りや娘たち群衆の動きはまぁこんなもんでしょう。こんなことをいちいち書くのも、こういった一人ひとりの動かし方についても随分と手厳しい批評があるから。ワーグナー以外だとそうでもないんですがね。いまやワーグナーの楽劇は、演出も何でもあり、批評もなんでもあり、ましてや素人は言ったもん勝ち、ということか。要するに、何か一言云いたい手合いにはぴったりの素材というわけです。私自身は、基本的にあまり音楽を邪魔しない演出だったので安心したといったところでした。
歌手については、ゼンタのジェニファー・ウィルソンが素晴らしい。ワーグナーのソプラノはこうでなくちゃ。稀に見る理想的なワーグナー歌いでしょうね。ブログで、動きが緩慢、とか、若い娘に見えない、とか皆さん散々書いておられますが、もうすこし大人になろうよ(笑)。歌舞伎だって黒子が現実にいるはずないとか、女形は実は男だ、なんてことふつう考えないだろ。ワーグナーの音楽を愛するということは、それを歌うに相応しい歌手の体格の問題も受け入れるということ。ウィルソンの体格について云々する人達というのは、私にはワーグナーに対する愛と理解とリスペクトが足りないという風に見えます。この歌手、そろそろこのあたりが声量的にレッドゾーンかな、と思っていたらそこから先さらに声量が増していき、しかもその増え方が凄まじく、一瞬も揺れたり割れたりしない。なんとか彼女の声が衰える前に、彼女の歌うブリュンヒルデを聴いてみたいものです。たぶん鳥肌がたつんじゃないかな。
歌手で次に良かったのは、脇役ですが舵手を歌う望月哲也。昨年の「サロメ」のナラボートの時も感心した歌手ですが、上手い下手という以上に、役柄のキャラクターを正確に表現し、聴き手に伝える能力において、ずばぬけた力量を持った歌手だと思います。この舵手の役というのは、それこそホモソーシャル代表の脳ミソ筋肉みたいな野郎なんだが、その愛すべき馬鹿さ加減まで表現し得ていました。
前評判の高かったオランダ人のエフゲニー・ニキティンは少し期待外れかな。声量はあるし、声質は深く、しかも舞台栄えのする偉丈夫なんですが、ところどころ音程が微妙に振れる。それもあがったりぶら下がったり、一貫しないので、どうも聴き手からすれば乗り切れない感じがする。もしかしたら他の日に比べて体調面で万全ではなかったのかも。むしろエリックのトミスラフ・ムツェックのほうが安心して聴けた感じがします。役柄としてもやや軽目のせいもあるけれど、若さもひたむきさもあって良かったですね。ダーラントのディオゲネス・ランデスですが、エリック同様そこそこ歌えていれば「我ら凡人」の代表としての役柄は充分に全うしているとも言える。しかし、それだけでは済まない重厚極まりない歌をワーグナーはダーラントに与えたわけで、それに相応しい声か、と言えば物足りないといわざるを得ない。辛い評価かも知れませんがダーラントが充実していれば、男声だけの第一幕はもっと(ワグネリアンでない人達にも)面白くなるだろうと思います。もっとも私が聴いたのと別の公演では不調で途中降板したと言いますから、やはり体調が万全でなかったのかも知れません。
今回の公演で何といっても印象に残るのは三澤洋史率いる船乗りの男声合唱の凄まじさ。新国立の合唱の素晴らしさは過去に何度か触れましたが、今回の合唱は世界のオペラハウスでもそんなに聴けないレベルじゃないのかな。それだけに、繰り返しになるけれどPAの使用が残念。
トマーシュ・ネトピル指揮する東京交響楽団、前奏曲ではすこし音が薄い、というかもっと音圧がほしいと感じましたが、劇が始まると全く気にならなくなりました。どうも私は、歌手に対する期待値よりオケに対する期待値のほうが若干低いせいもあるかも知れませんが、これぐらいやってくれたら言うことないと思う。むしろこれだけのレベルの演奏聴いて不満をいう人って一体なんなの?と思ってしまう。ただ、確かに音の薄さというのはどうしようもなくて、ところどころウェーバーみたいに聞こえるというのは否めない。それ自体はマイナスでもなんでもなくて、事実この若書きのオペラはウェーバーどころかイタリアオペラみたいなページまであるのである。それが第一幕のダーラントの出帆の場面、明るい男声の二重唱が高揚の果てに沸点を迎え、ト調長の属音の和音で終始すると見せかけてから突然のヘ長調の属七への遥かなる飛躍、これこそワーグナーをワーグナーたらしめるもの、この飛躍こそワーグナーの天才を証するものです。ワーグナーが単なるロマンティック・オペラの作曲家に留まらず、現代にまでまっすぐ繋がる音楽の始祖となった訳は、なにも「トリスタン和音」の発明だけではないのです。その、ウェーバーの後継者たる位置と後期ロマン派の入り口の両方を耳に感じさせてくれたのは今回のオーケストラの大きな功績だと思う。
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ちなみに前奏曲はいわゆる「救済のテーマ」のないバージョンですが、第三幕は「救済」ありのバージョンであまり一貫性がない。音楽的には「救済あり」のほうが満腹感があるね(笑)。休憩は第一幕の後に1回のみ。幕間なしバージョンはちょっときついだろうから、これは妥当。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2012-03-20 00:17 | 演奏会レビュー | Comments(0)

新国立劇場オペラ研修所公演 「スペインの時」&「フィレンツェの悲劇」

先日の大分合同新聞ネタで遊ぶサイトから。よくみんなこれだけ遊ぶなぁ、と感心。
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日曜日もまだ公演が残っているので、ネタばれ注意でお願いしますね。
新国立劇場のオペラ研修所公演に行って参りました。この研修生を中心としたシリーズ、珍しい曲目でしかも格安。私はいつだったか、プーランクの「カルメル派修道女の対話」を観に行って大変良かった。昨年はプッチーニの「外套」と「ジャンニ・スキッキ」の二本立てでしたがあの大震災で行けず、残念なことをしました。それにしてもこのシリーズ、いつも思うことはプロモーションが下手。もっとお客を呼ぶ方法はいくらでもあるだろう、と思いますが、新国立劇場のHP見てもあまり目立たないし。今後の公演に際しての一考をお願いしたいと思う。

2012年3月9日 @新国立劇場中劇場
ツェムリンスキー 「フィレンツェの悲劇」
   グイド: 伊藤達人
   シモーネ: 山田大智
   ビアンカ: 柴田紗貴子

ラヴェル 「スペインの時」
   コンセプシオン: 吉田和夏
   ゴンサルヴェ: 糸賀修平
   トルケマダ: 村上公太
   ラミーロ: 西村圭市
   ドン・イニーゴ: 後藤春馬

   指揮: 飯守泰次郎
   演出: 三浦安浩
   管弦楽: 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

今回の公演に先立って予習しながら考えたことについては先日3回に亘って投稿しているので参照してほしい(2月22日・2月25日・3月3日)。
まずは「フィレンツェの悲劇」から。
私が聴きに行った9日は公演の初日。すこし緊張して音楽も堅くなるはずだが、飯守泰次郎の指揮が素晴らしく、ツェムリンスキーのゴブラン織りのような音楽が流れ出すと思わず陶然となってしまいます。もう70を超えているはずだけれど、甚だ失礼ながらこのご老体からこんなに官能的な音楽が溢れだすとは本当に驚きます。ドイツの歌劇場で長い間修行し、バイロイトの音楽助手も務めたとのこと、ツェムリンスキーの音楽に親和性があって当然なのでしょう。シモーネがグイドに、薔薇の刺繍の施されたダマスク織の生地を売りつける場面の文字通り大輪の花が咲いたように音楽が華やぐところ(ボーカルスコアの練習番号23)、グイドとの別れを惜しむビアンカの歌(同120)のあたり、本当に素晴らしい。でも、鳥肌が立つところまでは行かないのは、これはもう音楽そのものの持つ限界か。
歌手の中ではビアンカを歌った柴田紗貴子が良かったと思います。役柄の性格もあって、立ち姿の華はちょっと少ない感じもしましたが、先ほど挙げたグイドに語りかける歌など零れるような色気があって大変ようございました。グイド役のテノールは歌う分量が少なくて喉が暖まる前に高い音域を歌わなくてはならない難しい役だと思いますが、伊藤達人は大健闘だったのではないでしょうか。逆にシモーネ役は殆ど出ずっぱり、歌い通しで、技術的にも大変な役どころだと思うが、その割にあまり報われないというか、それこそ華の無い役柄なのですね。そのシモーネ役の山田大智には敢えて大きな拍手を送りたいと思う。歌いきるだけでも大変だと思うが、安定したテクニックと、品を失わない美しいバリトンで十分に酔わせていただきました。
演出ですが、正直なところ音楽が始まる前のお芝居の部分、何が起こっているのか、演出家が何を狙っているのか、どちらも私には良く判りませんでした。教会のような建物で登場人物がセックスするところなど、「難儀やなぁ」と思いながら見てました。いや、私は舞台上の性的な所作については、以前の新国立劇場の「ムツェンスク郡のマクベス夫人」などもっとあからさまでエロな演出でしたが違和感の無い納得のいくものでしたし、基本的には忌避すべき理由は何もないと思ってますが、今回のはちょっとね。数年前に二期会がこのオペラをやったときは物語全体をSMクラブの客の痴態に読み換えて大顰蹙を買ったそうですから、演出家の性的なファンタジーを引き出す作品なんでしょうが、オスカー・ワイルドの原作だからといって殊更露悪的な演出をするというのは違うような気がする。また、唐突にパルチザン風の連中が右手を真っすぐ斜め上に突き出すナチス式敬礼をしながら行進していったりするのも、権力とエロスとの相関を提示しようとする演出家の狙いは少なくとも私には不発であったとしか言いようが無い。同じことが幕切れの演出にも言えます。今回の公演では日替わりで異なった演出をするようですが、私の観た9日は最後にビアンカがピストルで自殺するというもの。まぁ、演出というのは演出家が原作やリブレット、そして音楽から読みとったことをそのまま形にすればいいのだから、私の解釈と違うからといって文句を附ける筋合いはないのだが、これではヴェリズモ・オペラになってしまって、ワイルドの原作の持つ、洗練と裏腹の晦渋さ、性的なファンタジーを芸術至上主義的な膨大な台詞に塗り込めたワイルドの狙いと魅力は失われてしまいます。もちろん、ツェムリンスキーの音楽のもつ、まるでクリムトのタペストリーのような豪奢な味わいともそぐわず、なんとも言えない違和感を残します。いずれにしても今回の演出は、性的な記号をばら撒いておけばスキャンダラスな舞台になるという安直な考え方や、音楽だけでなく歴史文学美術哲学、あらゆる人文科学に対する演出家の勉強不足が露呈しているような気がしました。

休憩を挟んで「スペインの時」。
こちらも飯守泰次郎の指揮が素晴らしい。ツェムリンスキーの官能とラヴェルのそれとの違いが鮮やかに示されています。とくにゴンサルヴェのモチーフであるハバネラが、異国情緒がむせかえるような表現。最後のヴォードヴィル風の五重唱もハバネラのリズムですが、自在なリズムが素晴らしくて胸が熱くなります(お馬鹿なお話なのに)。東京シティ・フィルのソリスティックな名人芸がいっぱいの演奏も楽しかった。ただ欲を言えば、ラミーロが時計に囲まれて歌う2か所ある幻想的な場面で、さっと空気が変わるようなオケの音色の変化が欲しいところ。ものすごく高望みですが。
歌手ではコンセプシオン役の吉田和夏が、このツンデレ系キャラにぴったりで、お色気も十分あって大変よろしい(笑)。ただしフランス語がイマイチで、ラミーロを寝室に誘う時のSans horloge・・・と上気して歌うエロい場面がちょっと台無し。でもこれも高望み。全体としてはとても良い。ゴンサルヴェ役の糸賀修平は声の明るさが素敵なテノール。ネモリーノなんか合ってそうで、これからの活躍が楽しみ。ラミーロの西村圭市は声良し芝居良しで華も実もある逸材ですね。もっともラヴェルの御好みはもう少しマッチョな男でしょうが(笑)。ドン・イニーゴの後藤春馬は西村に比べるとちょっと粗い所があって表現が練れていない感じ。尊大で慇懃無礼で、お茶目なボクを見て、というボケも痛いだけなんだが、それでも大人の諦念に一抹の色気を漂わせなければならない、という役どころはもっともっと歌い込まなければ、と思います。トルケマダ役の村上公太は出番が少なくて気の毒ですが、過不足なくいい感じ。
演出は、やはり音楽に先立つ小芝居は何がしたいのかよく判らなくて困惑しました。とにかくお馬鹿でエッチで楽しいお話なのだから余計なことしなくていいのに、と思います。音楽が始まってからは、いくつか面白いこともやってましたよ。ラミーロが巨大な時計を斜めに持ち上げるとまるでビアズレーの猥画じゃないが、自らの巨大なペニスを抱え上げるような格好になる。するとあろうことかコンセプシオンは椅子の上に膝をついて後ろ向きにお尻を突き出す格好をしたり、時計の先っぽの文字盤を撫でさすったり・・・どんだけの観客が気付いたか知らないが随分とエロチックな演出で、しかもあからさまではあるが悪趣味ではなくて、こういうのは悪くない。但し、ラミーロの発情ぶりを強調しすぎるのがちょっと違うんじゃないのか、と思う。ラミーロはもちろん寝室での性豪ぶりはコンセプシオンもぐったりしちゃうほどなんだが(まぁお下劣!)、普段の彼は「気は優しくて力持ち」を絵に描いたような人畜無害な男。演出家にはこの「ギャップ萌え」が判らないようだ。コンセプシオンのスカーフかなんかをスーハーしたりしたら唯の変態じゃん、とその演出のはずれっぷりにがっかり。でもまぁ楽しかったからいいけど。

それにしてもラヴェルの音楽は素晴らしい。珍しいことに、次の5月に今度は二期会が「スペインの時」を取り上げるとのこと(同じラヴェルの「子供と魔法」との組合せ)。こちらも行くことにしました。
by nekomatalistener | 2012-03-11 00:28 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ワーグナー 「さまよえるオランダ人」 ドホナーニ指揮ウィーン・フィル

大分にしては凶悪事件だ。

先日の未明、「大分市内のドラッグストアに何者かが侵入している」と大分南署に警備会社から110番通報があった。 当直の署員たちが現場に急行。警備会社の案内で真っ暗な店内に入った。警戒しながら慎重に調べていると、署員の一人が「痛っ!」。 侵入者から攻撃されたのかと身構えると、足元には大きな野良猫。
他に異常はなく“侵入者”はネコらしいことが分かった。右足首をネコに引っ掛かれた署員は「事件でなくて良かった」とほっとしながら、 「このネコを建造物侵入と公務執行妨害の現行犯で逮捕してやりたいよ」。
大分合同新聞[2012年03月08日 14:22]
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予習シリーズ、3月の新国立劇場の演目はワーグナーの「さまよえるオランダ人」。

  ワーグナー「さまよえるオランダ人」
    オランダ人: ロバート・ヘイル
    ゼンタ: ヒルデガルト・ベーレンス
    エリック: ヨーゼフ・プロチュカ
    ダーラント: クルト・リドル
    舵手: ウヴェ・ハイルマン
    マリー: イリス・ヴァーミリオン
    ウィーン国立歌劇場合唱団
    クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
    1991.3~11月録音
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こんな有名作なのに予習か、と言われそうですが、この歳になるまでまともに聴いたことがないのだから仕方ありません。ワーグナーに関しては、私が高2か高3の頃から大学に入って1年かそこらの間、時期にして2年足らずほどでしたが、まるでハシカに罹ったようにそれこそ浴びるように聴いていた時期がありました。一番最初にハマッたのは「トリスタンとイゾルデ」、きっかけはNHK-FMで抜粋を聴いたことだったと思います。それから「ニーベルングの指輪」、その中でも特に「ヴァルキューレ」、最後に「パルジファル」。大学の途中くらいから憑き物が落ちたみたいに聴かなくなってしまいました。舞台で観たのは4度、何時の公演かもはっきり憶えていませんが、若杉弘が振った「ヴァルキューレ」、2008年のパリ・オペラ座の来日公演での「トリスタンとイゾルデ」、新国立の「ジークフリート」(2010年)と「トリスタン」(2011年。こいつは凄かった)、それぐらいだと思います。つまり、かつてワーグナー好きであった一時期はあるにせよ、よく知っているのは僅かな作品であって、オランダ人、ローエングリン、タンホイザー、そしてマイスタージンガーについてはちょっと齧ったくらいしか聴いてなかったのです。

そんな程度のワーグナー理解ではあるが、その経験のなかでなんとなく感じてきたのが、ワーグナーのミソジニーの問題。例えば「トリスタンとイゾルデ」。何度聴いても異様に感じるのは、マルケ王やクルヴェナールがトリスタンに示す過度の愛情、それは臣下を慈しむとか、主君に忠義を捧げるといったレベルを超えて、本来ならばホモフォビアによって辛うじて維持されてきたはずのホモソーシャルな騎士の世界に危機をもたらすように思われます。事実、この世界にイゾルデという異分子が投じられることによって、この麗しきホモソーシャリティは壊滅します。「パルジファル」ではそれがもっと露骨に描かれ、「指輪」では神と人間の世界の分裂を絡めて、幾分晦渋の度合いを強めながらも通奏低音のようにホモソーシャルな男性社会を破壊する女性(ブリュンヒルデ)という描かれ方をしています。こういった記述は判りにくいでしょうか。私はこれらの分析のツールとして、上野千鶴子によって判りやすくまとめられたイヴ・セジウィックの理論を用いようとしていますが、それは「ホモソーシャリティはミソジニーによって成り立ち、ホモフォビアによって維持される」というものです(上野千鶴子『女ぎらい―ニッポンのミソジニー』紀伊國屋書店)。実際のワーグナーの猟色家としての姿も、彼が典型的なミソジニストであると考えれば辻褄があうというもの。もっともそういった見方をするならば中世の騎士物語など殆どこの構図になるのではないか、という疑いもあるでしょう。それはその通りであって、だからこそミソジニーはこれほどまでに世間に蔓延しているのだ、と言えるのですが、それにしてもワーグナーのミソジニーの度合いは群を抜いていると言ってよいでしょう。

さて、オランダ人について。世間では、この作品の主題は「女性の愛による救済」であるなどと言われていますが馬鹿も休み休み言えと言いたい。本当に皆さん、このオペラを観て、聴いて、「オランダ人はゼンタの愛によって救済されて良かったね」とか、「やっぱり最後に勝つのは愛だよね」などと本気で思うのだろうか。もしそうなら本当に自分の頭の中が湧いてないか心配したほうが良いと思う。有名なハリー・クプファーの演出はこのお話全体がゼンタの神経症的妄想であるとしたようですが、それもまたおかしな話。そりゃ主人公は、というより、ワーグナーが自己を投影していたのは明らかにゼンタではなくてオランダ人だろう、って話です。この悪魔に取り憑かれたオランダ人、彼こそワーグナーが自己を投影するどころか、無意識のレベルでは同一化を図ろうとしていた存在であることは間違いありません。ではオランダ人の苦悩とは何だったのか?ここでニーチェの思想を持ち出しても良いのだが、この時期ワーグナーが深く影響されていたのはニーチェではなくてショーペンハウエルだろう、といった反論に対抗できるほどには私自身よく判ってませんので、ここでは仮にそれを創造のデーモンとしておきましょう。このデーモン故に、ワーグナーは極端な自己愛を持つと同時に、自己を呪わずにはおられなかったはずです。しかし、だからといって強烈なミソジニストであるワーグナーは、たとえ最後の審判の日まで冥い海を彷徨うことになろうとも女性の愛によって救済されたいとは思わなかったに違いありません。実際、ワーグナーはこのデーモンと共に人生を歩み、巨大な楽劇を創造し、バイロイトという理想の劇場まで作ったのですが、よくぞ途中でつまらぬゼンタに引っかからずに海に逃げ出せたものです(何の気なしにこう書いて、普段はあまり意識しない己のミソジニーの強さに驚いています)。この辺りの議論、精神分析の技法も知らぬ素人ですので上手く説明できずにもどかしい思いをするのですが、間違ってはならないのはこれはすべてワーグナーの無意識のレベルで起こっていることであり、台本にこう書いてある、といった反証は無意味であること、しかも厄介なことに、これを立証するには象徴界の産物としての台本を読む以外には手立てがないということです。しかしそこは素人の気安さで、厳密な議論は省いて論を進めていきます。

先程、半ば冗談めいてオランダ人が危うくゼンタの罠を逃れて海に逃げたかのように書きましたが、テキストのメタレベルで起こっていることはまさしくそういうことだったのではないか。第1幕、主体たるオランダ人が客体たるダーラントを説得して娘ゼンタを得るように描かれているが、主体と客体を逆転すれば、誇り高いオランダ人は俗物たるダーラントの姦計によってゼンタの罠に搦め取られようとしている、とはいえないか。オランダ人にとっての(ゼンタとの)陸の生活とは、創造のデーモンとは無縁の小市民的幸福の追求そのもの、その一方で第1幕の影の主役とも言うべき男声合唱は、軍隊と並んで典型的なホモソーシャルである船乗り達の世界の素晴らしさを謳歌しますが、これこそ栄光に満ちた創造のデーモンの世界です。第2幕のゼンタ、これは今の若い人の言葉で言えば「イタい女」ということでしょうが、実際にある種の精神病理学的な異常さを帯びています。「ゼンタ症候群」なんて病名が在ってもちっとも不思議ではない(実際にあったりして)。表向きの話は、自己犠牲を夢見るゼンタをなんとか現実の恋愛に引き戻そうとマリーやエリックが努力するが、彼女は言うことを聴かず、実際にオランダ人と対面すると直ちに我を忘れるほどの恋に落ちて救済の欲望に取り憑かれてしまう。メタレベルではオランダ人はゼンタに対して身の危険を感じ、彼女から逃げようと思っているはずだが、それはこの第2幕後半、オランダ人とゼンタの妙に噛み合わない二重唱に現れています。それまで二人の目には父ダーラントの姿はろくに入っていなかったというのに、オランダ人はゼンタに向かって、お前の父の選択に対して怒ってはいないのかと問い、ゼンタは父の命令に従うと答えます。ゼンタという人物がいかに分裂した存在であるかは、第2幕前半であれほど俗物(マリー・エリック・娘たち)を軽蔑していながら、後半では俗物中の俗物というべき父ダーラントの言いなりに(結果的に)なってしまうということ。そして、ゼンタは典型的な「父の娘」、すなわちエレクトラ・コンプレックスの持ち主であり、彼女の同一化の欲望はあくまでもダーラントに向かっている。ラカン風に言えば、彼女の欲望とは同一化の対象であるダーラントの欲望なのだから、そもそもオランダ人に対する救済者としての適格性自体に疑問符がつくのです。但し、ここで見落としてはならないと思うことは、ダーラントは確かに俗物ではあるが、彼の富に対する執着はおそらくワーグナー自身の姿が幾分投影されていること、音楽的にも決して(ミーメのような)コミカルな歌はあてがわれていないということです。そういった意味でダーラントの役割も分裂しているが、そこにアンビヴァレンツがあるとしてそれはより愛に近いほうに傾いていると言えるでしょう。そして第3幕。表向きの話は、エリックとゼンタという若くて将来のある2人を見てオランダ人は自らの救済を断念し、海に乗り出すが、ゼンタは海に身を投げ、救済が成就されるというもの(されないという版もある)。これも象徴界における隠喩や倒置といった手法で読み解けば、ゼンタの魔手を辛くも逃れたオランダ人は、友たる船乗りたちとともに冥い海原、すなわち前人未到の創造の旅に出て行くというわけだ。このテキストのメタレベルにおけるハッピーエンド、カタルシスに人は無意識に酔い痴れているとはいえないでしょうか。
ワグナーの楽劇については、ネットというメディアではなく同人誌のような媒体には恐らく多くの考察があると思いますので、以上述べたようなことはもしかしたら語りつくされているのかも知れませんが、ネット上の薄っぺらい紹介サイトやブログの類で胸焼けするほど「愛による救済」というマントラを読まされたので、敢えて以上のようなことを書かずにはいられませんでした。このブログで何度か(しかし控えめに)世評とかいったものに対する私の本能的といってもよいくらいの嫌悪感について言及してきましたが、「救済」云々の言説も同じです。もう気持ち悪くなる。

取り上げたCDは、単に予習のために音源を探していて、一番安かったからという理由で選びました(2枚組で1,775円)。これはセカンドチョイスというか、もしかしたらサードチョイスくらいにしときなはれ、という代物かも知れませんが、オーケストラと合唱は兎に角凄いの一言。ウィーン・フィルの何がどう凄いのか、これ聴けば如実に判ります。他と何が違うって音圧が違う。物理的に音が大きいとかじゃなくて、腹に響く感じ。なんだろうね、これは。オケと合唱だけなら数多の名盤の中でも一押しだと思う。最も問題なのは、ベーレンスのゼンタ。花の命は短いのがソプラノの宿命とはいえ、ベーレンスの花は本当に短かったと云わざるを得ない。録音が遅すぎたのか、もう声が揺れるわ、かすれるわ。ベーレンスの熱狂的なファンはどう受け止めるのか判らないけれど、私は聴いていて痛ましくて仕方が無かった。これはデッカのキャスティングのミスなのか、それともゼンタという役柄を深く考察した結果、こんな「イタい声」を採用したのか(まさかね)。オランダ人のロバート・ヘイルと、ダーラントのクルト・リドルは素晴らしい歌唱です。もう数年録音が早ければ凄い名盤になったろうに、と思いました。
最後にワーグナーの音楽そのもの。ハシカが治ってから30年が経ち、今更この歳になってどこまでシンパシーを感じることができるかな、などと甘いことを考えていたら、その音楽の魔力にあやうく搦めとられそうになりました。あやうく、というのはこのブログの為にストラヴィンスキーなんかも並行して聴いているので、それだけ毒の効き目が弱かった、ということ(笑)。しかしそれにしても恐るべき強靭な音楽です。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2012-03-09 00:41 | CD・DVD試聴記 | Comments(9)

ツェムリンスキー 「フィレンツェの悲劇」 コンロン指揮ケルン・ギュルツェニッヒPO

2ちゃんまとめサイトで見つけたもこみち(MOCO'Sキッチン)ネタ。
 ・弁当のおかずのリクエストに、まさかのパンプキンスープ
 ・大人数でワイワイ食べられる物のリクエストに、一人鍋すき焼きうどん
 ・余ったお餅で変わった料理のリクエストに、揚げた餅に砂糖醤油かけるだけ
 ・シャキシャキした山芋料理を作ると言い、食後の感想がホックホク
 ・斬新なチキンライスを作ると言い、チキンの照り焼きを白ご飯の上にそのままドーン!
 ・牡蠣の苦手な旦那でも食べられる物と言われ、がっつり牡蠣の土手鍋
 ・白菜が安く買えたから何かいいレシピと言われ、高級食材干し貝柱などを惜しげもなく使う中華





オペラ観劇予習シリーズ(笑)。今回は御存じツェムリンスキーの「フィレンツェの悲劇」(誰も知らないって)。
こういった一幕物の短いオペラの公演の場合、何と組み合わせるか、というのが主催者のセンスを問われるところ。今月の新国立劇場オペラ研修所公演では、ラヴェルの「スペインの時」との組合せということですが、どういった目論見が隠れているのか、そんなことも考えながら音源を聴いてみます。

  「フィレンツェの悲劇」Op.16
    グイド・バルディ: デイヴィッド・キューブラー
    シモーネ: ドニー・レイ・アルバート
    ビアンカ: デボラ・ヴォイト
    ジェームズ・コンロン指揮ケルン・ギュルツェニッヒ・フィルハーモニー管弦楽団
    1997.3.16-18録音
    CD:EMI7243 5 56472 21

この作品、私も聴くのは初めて。ツェムリンスキーと言えば大昔に「叙情交響曲」や「人魚姫」という長大な交響詩(確かリッカルド・シャイーの指揮だったと思う)をレコードで聴いたが、その時は面白さが判らずそれっきりになっていました。ツェムリンスキーを真面目に聴くのはほぼ30年ぶりじゃないですかね。
この音楽の特色を一言でいうなら「過剰」。典型的なユーゲントシュティルの人だと思いますがとにかく音がぎっしりびっしりという感じ。その過剰さは、シェーンベルクの「ペレアスとメリザンド」やR.シュトラウスのオペラの幾つかに似ていながらも、それぞれ少しずつ違う。和声の複雑さはむしろ「ばらの騎士」以降のR.シュトラウスを凌ぐ位だけれど、対位法的に処理された唐草模様みたいな旋律の息の長さ、という点では二人に比べて少し小振り感が漂う。フランツ・シュレーカーと同じく、マーラーとシェーンベルクを繋ぐ、歴史的には非常に重要な人で、このオペラが初演された1917年と言えばマーラーは既に亡く、R.シュトラウスは「ナクソスのアリアドネ」を書いたばかり、シェーンベルクは十二音技法の確立には未だ至らず試行錯誤していた頃。このオペラへのR.シュトラウスからの影響は顕著ですが、その影響は一方的なものではなく、「フィレンツェの悲劇」の少し後に初演されたR.シュトラウスの「影のない女」などには逆にツェムリンスキーからの影響が流れ込んでいる感じもします。

原作はオスカー・ワイルドの未完の戯曲。邦訳は『フロレンスの悲劇』というタイトルです。ワイルドと言えば、R.シュトラウスの「サロメ」が真っ先に思い出されますが、当然ツェムリンスキーの頭の中にもそれがあったと思われます。すなわち、ツェムリンスキーはオペラの題材として、
 ①原作自体が短く凝縮されていて、オペラ化に際してあまり削除や圧縮をしなくても良いこと、
 ②それでいて登場人物の台詞は過剰なまでに装飾的かつ耽美的であること、
 ③異常な性愛が題材となっていること、
このような要件を満たす題材をさがしもとめていたと思われます。その点、①については、このオペラの原作の戯曲は登場人物わずか3人、未完ということを措いても、とにかく短い。②は、と言えば、特に主人公の商人シモーネの台詞が圧倒的な過剰さ。リブレットは若干のカットがありますが、原作はこんな調子(シモーネがグイドに高価な衣装を売りつける場面)。
「ヴェニスの者が仕立てました、見事な盛装でございます。切り込んだピロード地には、柘榴の模様が、その柘榴の実一つ一つには真珠があてられ、襟にも全て真珠が縫い込められております。おびただしい真珠の数は、夏の夜の往来に群がる蛾さながら、それはまた、気狂いどもが、牢獄の窓から眺める、あの夜明けの月よりも更に白いと申せましょう。留め金の雄々しいルビーは、火のように赤く燃えております、ローマ教皇といえども、これ程の宝石はお持ちではありますまい、インド諸国にすら、これに似た宝石は見つからない。そのブローチひとつとってみても、比類なき不思議な芸術品、巨匠チェリーニすらも、ロレンゾー公爵を喜ばせるのに、これ以上見事な品は作らなかった。王子様、これこそ王子様の御召しもの、これ以上価値あるものは、この町にはございますまい(後略)」(島川聖一郎訳)。
こういった過剰な修飾が繰り返されるのは、「サロメ」でヨカナーンの髪の毛や唇を愛でるサロメの台詞、あるいはヘロデがサロメを翻心させるために、自分が所有する宝石や孔雀の素晴らしさを次々と述べるところと実に良く似ていますが、この唯美主義的な装飾の過剰さが正に作曲家を惹きつけたところでしょう。ちなみにどうでも良いことですが、グイドがシモーネに言う台詞「穢れを知らぬ、彼女の耳に、お前の下卑た音楽は、まことにふさわしくない。」がカットされているのは御愛嬌(豆知識w)。
③については、「サロメ」ほど病的でも退廃的でもありませんが、妻ビアンカとフィレンツェの富豪の王子グイドとの浮気に苦しむ商人シモーネが王子を殺害するというストーリーは、当時はこれでも十分スキャンダラスだったのかも知れません。ただし、この戯曲をリアリズムの観点から見てはいけない。商人が王子を殺した後、更には妻をも殺そうとするが、妻は「何故、あなたは言って下さらなかったの、こんなにも、あなたがお強い人だということを。」と言って夫である商人に縋りつき、キスをして幕。演劇にリアリズムを求めようとするとあまりの唐突さに呆然としてしまいますので、これは寓意劇として観なければなりません。商人は既に若くはなく、富も権力も持たないが腕力だけはある。王子は有り余るほどの富と権力、そして若さを所有しているが、腕力では商人に負けてしまう。なるほど、「スペインの時」との二本立て、ということは、騾馬曳きラミーロと商人シモーネが腕力の象徴という点で一致し、学生ゴンサルヴェ(若さ)と銀行家ドン・イニーゴ(権力)が王子(その両方)と照応しているということか。で、最後はどちらも腕っ節の強いほうが(性愛においては)勝利を得る、ということ?これでは身も蓋もない感じがしますね。まぁあまり図式的に考えるのではなく、二つの作品を舞台で観ることでどのような共通点と相違点が浮かび上がって来るか楽しみにしましょう。

このCDのキャストは、珍しいオペラの音源としては必要かつ十分な演奏ですが、シモーネ役のドニー・レイ・アルバートはやや一本調子で抑揚に乏しいのが物足りない。妻ビアンカ役のデボラ・ヴォイトはかつて太り過ぎで舞台を降ろされた経歴の持ち主。デボラ、愛称デブ(嘘)。で、ダイエットが祟った訳でもあるまいが、ちょっとギスギスした歌唱。王子グイド役のキューブラーはそつなく歌いました、というところ。J.コンロンの指揮は様式感のツボを押さえた非常に優れたものと思います。
今回久しぶりにツェムリンスキーを聴いた訳ですが、この先つぎつぎと聴いてみたいか、と言われると何とも微妙なところ。時代的には多少被っている超甘口のコルンゴルトなんかがすっかり復活している昨今なので、それよりはずっと苦味走ったツェムリンスキーを持ち上げたいという気持ちはあるんですが、積極的に踏み込むには何かが不足している感じ。例えば、ウニヴェルザール社のボーカルスコア(IMSLPでダウンロード可能)の練習番号116の手前から126aの手前までの部分、本来ならば最大の聴かせどころであるべきグイドとビアンカが愛を語り合う部分、蜜が滴るような豊麗な音楽なんだけれども感動には至らない。官能的というのとも少し違う。終幕の決闘の場の凄まじいばかりの音楽を聴くと、物凄くもったいない、と思ってしまう。こういった作品と比べると、R.シュトラウスとかシェーンベルク、あるいはベルクなんかは本当に凄い作曲家なんだと改めて実感します。才能の質が、優等生と天才くらい違う。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2012-03-03 18:00 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)