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ラヴェル 「スペインの時」 マゼール指揮フランス国立放送管弦楽団(その2)

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前回の続きです。
第8場
ラミーロが降りてくると、コンセプシオンは今度はゴンサルヴェの入った時計を寝室に上げるよう命じる。私を放っておくのですか、と非難するイニーゴを尻目に、この時計は振り子が繊細だから、などと言い訳しながらコンセプシオンはラミーロの後を追う。
ラヴェルに限らず当時のインテリならフロイトの名前くらいは知っていたでしょうが、男が身を隠す時計が女性の象徴ならば、コンセプシオンが振り子を気にしている時計は男性器の象徴、と二面性を持たせているのが面白い。ラミーロがゴンサルヴェごと時計を振り回すところは目が眩むようなアルペジオで書かれています。
第9場
イニーゴ独り。コンセプシオンにおどけた自分の姿を見せようと、時計の中に隠れてカッコウの真似をする。
洒脱でみだらなワルツ。イニーゴは役柄としては三枚目ですが、音楽は決して下卑たものにならないのが素晴らしい。
第10場
ラミーロが降りてくるのでイニーゴは時計に隠れる。ラミーロの独白。例の無骨な旋律は3/4拍子にモディファイされ、蕩けるような男の色気を発散する。この部分、「優雅で感傷的な円舞曲」にも似て、全曲中でも最も美しい箇所なのだが、それが騾馬曳きに与えられている。ラヴェルの舌舐めずりの音が聞こえてきそう。途中時計が鳴りだし、幻想的な雰囲気が立ちこめる。ラミーロは複雑な時計の機構を女に譬え、堪らない気分になるが、自分に与えられた才能は時計を運ぶことしかないのだから、断じて時計(女体)に触れたりするまい、と歌う。
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第11場
コンセプシオンがいらいらしながら階下に降りてくる。どうもゴンサルヴェとの情事は上手く行かなかった模様。ラミーロは再びゴンサルヴェの入った時計を戻しにいく。
第12場
イニーゴが時計から顔を出してカッコウの鳴きまね。店先に戻ってきたコンセプシオンはあきれるが、イニーゴが若い男は経験も足らず、詩などにうつつをぬかして現実を見ないというので、コンセプシオンは悲しく認めざるを得ない。その後一瞬出てくるハバネラのリズムはゴンサルヴェのそれとは違って、老練な愛撫のようなエロさ。
第13場
ラミーロがゴンザルヴェの入った時計を降ろすと、次はイニーゴの入った時計を担いでいく。コンセプシオンは惚れぼれとラミロを眺める。ラミーロの動機は2/4拍子の快活なもの。
第14場
コンセプシオンは相変わらず詩作に耽っているゴンサルヴェにとうとう愛想をつかす。ロマンティックなハバネラ。コンセプシオン、今度はイニーゴのいる寝室に向かう。
第15場
ゴンサルヴェ一人。時計の中に入ったまま詩作に耽っている。このあたりの音楽はラヴェルのオリジナリティと通俗性の入り混じった独特なもので、ある種のカンテ・ヒターノの味わいがあります。いわばステロタイプなスペイン風音楽はだいたいこのゴンザルヴェが担っているという訳ですね。
第16場
ラミーロが降りてきて、時計のさまざまな音の中で歌う。コンセプシオンの言いなりに時計を運ぶマゾヒスティックな悦び。自分が騾馬曳きでなく時計屋の主人であればと夢想する。時を告げる自動人形の恍惚とした音楽。そこにコンセプシオンが降りてくる。
第17場
実は時計の中に入ったイニーゴは腹がつかえて出られなくなり、情事どころではない。コンセプシオン、ゴンザルヴェとイニーゴの不甲斐なさを嘆き、ヒステリーを起こす。烈しいセギディーリャのリズムがコンセプシオンの欲求不満を表す。
第18場
ラミーロは今度はイニーゴの入った時計を階下に降ろす。さあ次はどの時計を?とラミーロが訊くと、彼の腕っ節に惚れたコンセプシオンは時計は要らないから部屋にいらっしゃいと告げる(この時点で二人の男の入った二つの時計は両方とも1階の店先にあることになる)。コンセプシオンの歌はしなをつくるようなポルタメントに彩られた何ともエロい音楽。
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寝室に誘われたラミーロは、呆けたような顔でほいほいと彼女に着いていく。このあたりのユーモアが素晴らしい。少しも下品でなく、愛すべき騾馬曳きのキャラクターをたった5小節の音楽で描き尽くす。
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第19場
階下に取り残されたイニーゴは家にいた方がよっぽど良かったと嘆くが、音楽は滑稽よりは大人の諦念に相応しい。一方ゴンサルヴェはこの恋を諦めようと歌うがトルケマダが戻ってくるので今度はイニーゴの入っている時計に押し入る。ファンダンゴのリズム。
第20場
トルケマダは時計の中のイニーゴと、時計に夢中になっている振りをしているゴンサルヴェを見つけて、そんなに気に入ったのならお安くしておきましょう、とまんまと時計を売りつける。後ろめたい二人は逆らえない。イニーゴが時計から出してほしいと懇願するので、トルケマダとゴンサルヴェで引っ張りだそうとするがびくともしない。
第21場
2階からお楽しみの後の火照った顔を扇で煽ぎながらコンセプシオンとラミーロが降りてくる。ラミーロ簡単にイニーゴを引っ張り出す。厚かましくもコンセプシオンは、明日から毎朝この騾馬曳きが時刻を告げにあたしの寝室の窓辺にきてくれるのとトルケマダに告げる。最後はみんなでボッカチオの教訓、「役に立つ恋人は一人だけ、時には騾馬曳きにも恋のチャンスが訪れる」をみんなで楽しく歌って幕。

なんちゅうお話!(笑)。しかしながら、再三書いたように、お話のあけすけさにも拘わらず音楽は本当に素晴らしいのですよ。スコアの引用はボーカル・スコアを用いましたが、オーケストラのスコアの精密さは目を瞠るばかりです。前回書き忘れましたが、序曲のところでさまざまな時計の振子の音が鳴っていますが、これ別に効果音としてマゼールが勝手に書き足したのではなくて、ラヴェルのスコアに四分音符=40,100,232でそれぞればらばらに鳴らすように指定されているのです(音楽そのもののテンポは四分音符=72)。
ようやく演奏について書く番ですが、マゼールという指揮者、どうもヘンタイ指揮者というイメージがありますが、こういった知性とセンスを問われる作品では本当に巧い指揮者であると思います。凡百の指揮者が感情移入したくなる個所では知らん顔しておいて、思いもよらぬ盲点でいやらしいくすぐりを仕掛けてくるこの指揮、ラヴェル好きを名乗るのなら一度は聴いてみてほしいと思う。世に溢れているラヴェル演奏に、いかにつまらないものが多いかよく判ります。歌手達も心憎いばかりのはまり役。特に若き日のホセ・ファン・ダムのドン・イニーゴは、ラヴェルが宛がった音楽に相応しく、決して下品ではない大人の男の音楽になっていて素晴らしい。

フィルアップの「スペイン奇想曲」について一言だけ。曲から言えば無くもがなの組合せ。だいたいグラモフォンの節操のない音源切り売りにしか過ぎないとも言えますが、なんとなく一気に聴いて違和感がないのがマゼール・マジック。本当に目の眩むような真昼の音楽。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2012-02-25 23:27 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ラヴェル 「スペインの時」 マゼール指揮フランス国立放送管弦楽団(その1)

当ブログのサービスサイトで、検索キーワードが見れるようになった。予想通り「ラ・ボエーム」で検索してこちらに迷いこまれた方が多かったが、中には「亀田のあられ」とか「裸」とかで検索してお越しいただいた方もおられた。裸って・・・。



3月の新国立劇場のオペラ研修所公演は、ラヴェル「スペインの時」とツェムリンスキー「フィレンツェの悲劇」の二本立てという珍しいプログラム。私は初めて聴く作品はたいていピンと来ないので、出来る限り予習してから聴きたいというタイプなんです。

  ラヴェル「スペインの時」
    コンセプシオン(トルケマダの妻):ジェーン・ベルビエ
    トルケマダ(時計屋):ジャン・ジロドー
    ラミーロ(騾馬曳き):ガブリエル・バキエ
    ドン・イニーゴ(銀行家):ホセ・ファン・ダム
    ゴンサルヴェ(学生):ミシェル・セネシャル
    ロリン・マゼール指揮フランス国立放送管弦楽団(1965年録音)

  (併録)リムスキー・コルサコフ「スペイン奇想曲」
    ロリン・マゼール指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1959年録音)
    CD:DEUTCHE GRAMMOPHON449 769-2

この作品、ラヴェルが好きとか言いながらこの歳になるまで全く聴いたことがありませんでしたが、物語としてはいわゆる艶笑譚、それもかなりあけすけなお話。日本人からみればフランス人も相当スケベという気がするけれど、そのフランス人から見たスペイン人のイメージはもっとスケベな民族ということなんでしょう。まるでこれでは、スペイン人はシエスタにセックスばかりしているみたい(これがタイトルの由来)ですが、これこそフランス人がスペインに思い描く憧憬と差別意識の交じり合ったものなのかも知れません。

ベンジャミン・イヴリーの著書以降、ラヴェルが同性愛者であったことは常識と化しているようですが、そういった目でこの作品を見てみるとラヴェルのセクシュアル・オリエンテーションがはっきりと刻印されているような気がしてくるから不思議なものです。いや、それどころか、ブリテンの「ビリー・バッド」のようにある意味カミングアウト・オペラではないかとすら思えます。お話は実にばかばかしくて、時計屋の奥さんのコンセプシオンが、亭主の留守の間の浮気相手に、若いツバメでもなければ金満家の紳士でもなく、屈強な騾馬曳きを選ぶというもの。いわばこれ、「美女と野獣」のパターンです。しかも武骨なリズムの騾馬曳きの歌はここぞという時には官能の限りを尽くすこともあり、ラヴェル、もとい、コンセプシオンが、最初は下層階級故に視界にも入っていなかった騾馬曳きを次第に性の対象として認知していくようすが克明に描かれています。

お話はともかく、音楽としてはラヴェルの作品の中でも最高の部類、精緻かつ洗練の極みをゆく音楽。それもそのはず、1907年から09年に掛けて作曲されたといいますから、「優雅で感傷的な円舞曲」はまだですが「鏡」「夜のガスパール」は既に書かれていることになります。因みに私は「鏡」の第1曲「蛾」や「夜のガスパール」の中の「絞首台」、「優雅で感傷的な円舞曲」「マラルメの3つの詩」あたりが、ラヴェルの「耳」が最も冴え渡っていた時期だと考えています。特に「蛾」については人間の耳がここまで進化するものかと、聴くたびに恐怖にも似た感覚を覚えます。「スペインの時」の音楽はそこまで先鋭的ではないですが、怪物的な耳の持ち主にしか書けないという点では明らかに「鏡」以降の作品という感じがします。しかも少し後に書かれた「優雅で感傷的な円舞曲」とよく似た洒脱さも併せ持っており、今まで知らなかったことが悔やまれるほど。なぜこれほど人気がないのか不思議です。

いかにも馴染みのないオペラですから、少し物語も追いながら登場人物ごとの音楽的特質を記述してみたいと思います。譜例はIMSLPからダウンロードしたボーカルスコアです。ちょっと長くなるかも知れませんがご容赦を。
導入Introduction
トレドの昼下がり、時計屋の店先。5/4拍子ホ短調の前奏。途中で変ニ長調になり、店の時計の時を告げる機械仕掛けの人形の音楽や雄鶏の声が一斉に鳴り出す。「マ・メール・ロア」の「パゴダの女王レドロネット」を思わせる天才的な音楽で、私はもうこの前奏だけでメロメロ(笑)。因みに前奏の旋律は時計屋トルケマダのモチーフですが、ワーグナー風のライトモチーフよりは柔軟な扱いがなされています。この後、登場人物それぞれのモチーフはいずれも専らオーケストラに現れ、歌唱部分はほとんどがレシ風に歌われます。
第1場
騾馬曳きのラミーロがやってきて、トルケマダに伯父の形見の時計の修理を依頼する。ラミーロのモチーフは7/8拍子のもそもそしたリズム。
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第2場
女房のコンセプシオンが店先に来て、亭主のトルケマダに早く街の時計の時刻合わせに行くよう促す。実は亭主の留守に若いツバメを引き込んで浮気をしようという算段。ラミーロは店に取り残される。
コンセプシオンが登場すると音楽が俄然色っぽくなります。彼女がトルケマダの非力を詰るところでは、腰をくねらすみたいな音形が出てくる。この奥さんの人物造形はミストレス好きなM男系の殿方には堪らんのじゃないかな、と(笑)。
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第3場
コンセプシオンはラミーロが店先にいると邪魔なので、巨大な時計を二階に運ぶよう命じる。力自慢のラミーロは嬉々として重い時計を運ぶ。
ここであらわれる長7度が特徴的な音形がコンセプシオンのモチーフ。
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ラミーロのモチーフはここでは9/4拍子(3+2+4拍子)となって、もっさりした動作が目に見えるよう。
第4場
浮気相手のゴンサルヴェ、アルボラーダを歌いながら登場。すぐにハバネラのリズム。ゴンサルヴェのモチーフはこのハバネラのリズムそのものと言ってよいと思います。時間のないコンセプシオンはすぐに情事をせがむけれどゴンサルヴェは今で言う草食系なのか、詩作に耽ってばかりで彼女をいらいらさせる。
始めのアルボラーダは「鏡」の中の「道化師の朝の歌」を連想させます。ピアノ弾きの人気は今一つの曲だと思うけれど、たいていのピアニストは中間部をどう弾いたらよいか判らないのだろう。ヒントはこのオペラにあったという訳。
第5場
ラミーロが戻ってくるが、コンセプシオンは別の時計を運ぶよう命じる。ゴンサルヴェは馬鹿みたいに時計を運んで昇り降りしているラミーロに軽蔑の眼を向ける。3人のモチーフがくるくると入れ替わり立ち替わり現れる。
第6場
コンセプシオンはゴンサルヴェを巨大な時計の中に隠し、ラミーロに時計ごと寝室に運んでもらおうと思いつく。ゴンサルヴェは時計の中に入りながら「愛は死を超える」と歌うとコンセプシオンは「大袈裟だわ」。とにかくこの奥さん、ドライで即物的。
第7場
そこに銀行家のドン・イニーゴがやってくる。彼もコンセプシオンを狙っている。尊大で慇懃な口説き。コンセプシオンは「時計には耳があるわ」というが、イニーゴは口説きを止めない。ラミーロが降りてくるので奥さん慌てて「引越し屋が来てるの」と言う。
特徴のある附点付きの音形がイニーゴのモチーフ。威厳のある旋律だが、口説きの場の音楽は滅法エロい。
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さてようやく登場人物が出揃いました。続きはまた後日。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-02-22 20:41 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

新国立劇場公演 松村禎三 「沈黙」

ハッシュタグで#任天堂が経営するうどん店にありがちなこと、というのがあるが、これにツイートしている人のうちどれだけが、「任天堂がうどん店に」が回文であることを知っているのか?




松村禎三のオペラ「沈黙」を観ました。

 2012年2月18日@新国立劇場中劇場
 ロドリゴ:小原啓楼
 フェレイラ:与那城敬
 キチジロー:桝貴志
 モキチ:鈴木准
 オハル:石橋栄実
 指揮:下野竜也
 演出:宮田慶子
 合唱指揮:三澤洋史
 合唱:新国立劇場合唱団、世田谷ジュニア合唱団
 管弦楽;東京交響楽団

オペラ「沈黙」については先日予習がてら私が問題だと思うところをまとめておきました(2月3日投稿)。しかしその時から、これは耳だけで聴くと色々と物足らない点はあるが、舞台で観れば途轍もない作品になるのではないか、という予感がありました。実際に舞台を観て、これは大変な力作・傑作であり、日本人が誇るべき作品であると思いました。これから先も頻繁にとは行かないでしょうが、いずれまた上演の機会があるでしょう。現代モノなんて、とか邦人のオペラなんて、と仰らずに機会があれば是非ともご覧頂きたい。本当に心の奥底を揺さぶられる思いがします。
私がCDで聴いていたのは若杉弘による初演バージョン。対するに今回の公演は改訂版によるものであり、第1幕のキチジローのコンヒサン(告悔)の場や、第2幕の牢内の場が相当違う。特に、長崎の牢の中で、LAUDATE EUM(主を讃えよ)と彫り刻んだ文字をロドリゴが発見する場は、初版ではカットされていたものですが、この場があることによってその後ロドリゴがどれほど大きな衝撃を受けたか、つまり、なぜロドリゴは転んだのか、という問いに対し、説得力が著しく増しているように思われます。先日の投稿で、原作に登場するガルペ神父がカットされていることについて、「やはりガルペの入水によるトラウマがあってこそ、ロドリゴの苦悩も痛切なものになるのではないか」と書きましたが、その不満については牢内の場が拡大された改訂版を聴いて随分と和らげられました。
ただ、井上筑後守の人物造型に関してだけは原作が圧倒的に素晴らしく、オペラの筑後守の方は「ちょっと偉い役人」程度にしか見えないのがもったいないと思います。この役柄をもう少し膨らませることでこのオペラは更なる高みに辿り着いたかも知れないのに、と考えざるを得ません。
原作にないオハルとモキチの祝言の場を無くもがな、という風に前回は書きましたが、実際に舞台を見ると余りの深刻さに、この場がなければ観客の身が持たなかったろうと思いました。換言すれば、この場は決して聴衆への単なるサービスであるとか興行の上での妥協といったものではなく、全体の深刻さとバランスを取る為に、作曲家にとって是非とも必要な場であったという風に感じられました。
あとは・・・「野良犬のように」という執拗に反復されるモチーフの扱いなどについても、原作との違いを幾つか前回列挙したけれども、今回の公演を観て、やはりオペラは原作とは別物、というか、原作に負けないくらいの力強さを備えた舞台だと思い、とりあえずは原作のことはさて措いて舞台をありのままに受容すべきものであると感じました。

今まで私が聴いてきた若杉弘のCDは、まさに生まれたばかりの現代作品を録音するということで、必要以上に肩に力が入っていたようにも思います。特に音楽がサディスティックに高揚する部分は、指揮者にも武者震いするほどアドレナリンが出まくっているような演奏でした。それを私は前回、自分自身の内なるサディズムを照らしだすものとして捉えたけれど、今回の演奏は初演から随分と時間も経過し、何度も再演され、それなりの評価も得てエスタブリッシュメントに一歩近づいた作品を演奏しているという感じ。この作品にしてはややおとなしいと感じる向きもあろうかと思いますが、烈しくサディスティックな力よりも抒情に力点を置いた、これはこれで非常に説得力の高い演奏。下野竜也の指揮も素晴らしいけれど、この作品自体が、こういった抒情性を追求する演奏(大家風といってもいい)にも耐えるばかりか、その作品の世界観が些かも傷つけられていない点、今後もさまざまなアプローチに堪えて生き残っていく作品なのだろうとの思いを新たにしました。

歌手ではロドリゴの小原啓楼が素晴らしい。弱音になると少し歌詞が聞こえ難いところもありましたが、全体としては本当に切実な歌を聴かせてくれたと思います。ただし、今回実演に触れても、先日の投稿に書いたとおり、このロドリゴは「若くて思慮に乏しい司祭」という風な役柄に聞こえてしまう、特に今回強く感じたのは、このロドリゴという司祭は随分と自己愛が強くて、いよいよ明日処刑される時になってさえも、殉教するであろう自分自身のことばかり考えている。転ぶことに依ってようやく一人前のキリスト者となったようにも思われます。原作をどう読みこむかにもよりますが、私はやはりこのロドリゴは「若くてしかも思慮のある」司祭には思えず、その弱さも含めて極めて的確な歌唱表現であったと思います。
フェレイラは決して歌手にとって見せ場の多い役柄とは云えませんが、与那城敬はこの役を卑小化することなく、ロドリゴに「今まで誰もしなかった最も大きな愛の行為」を促す重要な役として、素晴らしい歌唱を聴かせてくれました。フェレイラは恐らく、ロドリゴよりは多少は思慮深い司祭だったはずであり、彼が転ぶまでの苦悩を思うと粛然とする他ありませんが、そういった観点から演じるのが難しい役柄であり、それをよく表現し得ていたように思いました。
キチジローも処を得た歌唱ですが、演出のせいで、やや煩い演技が気になって音楽に集中できない恨みが残りました。オハルも良かったですが、こまかいコロラトゥーラ風の音符を律儀に崩さず歌うのが違和感がありました。これは私の好みの問題かも知れませんが、半狂乱になってモキチの名を呼ぶところなどポルタメントで少し崩した方が状況に合致していると思う。全体に女声のほうが日本語が聴き取りにくい傾向がありますが、字幕が用意されていたので殆ど気にならずに歌詞を聴きとることができたのは助かりました。それと、新国立劇場合唱団はいつものことながら、素晴らしい演奏。改めてこのオペラ、合唱の聞かせどころが多いことに気がつきました。

いくつかのブログで、このオペラが中劇場の公演であること、また中劇場ゆえにピットに楽器が入りきらず、一部の打楽器が別室での演奏でPAを用いた音響となったことについて随分と非難が寄せられています。私の感じるところ、結論からいえば、音響面では中劇場ならではの繊細さが感じられて、これはこれで良かったのではないか。PAを使用したことについては、出来ればそうでないほうがよいというのが一般論でしょうが、今回に限って言えば、結果的に膨大な打楽器群のバランスを取るという点ではある種の効用があったという風に思いました。この邦人の、しかも現代的なイディオムを用いたオペラをなんとか興行面でも成功させようという関係者の思いは本物であろうと思いますので、この問題についてあれこれと非難めいたことは書きたくないと思います。

演出については、狭い中劇場ではかなりの制約があったように思えますが、にもかかわらず今回の簡素な回り舞台は優れたものであったと思いました。ただし、先にも書いたようにキチジローの演技は、なんというか、日本の舞台の「イケてない」部分が全部出てしまったような感じがする。もう少し抑えた演出のほうがこの舞台に相応しかったように思います。村人たちにあれこれと小芝居を附けるのも同様。もっとも音楽そのものの烈しい求心力の前にあっては、こういった瑕疵とも言えない好き嫌いレベルの不満は殆ど問題とならない。終幕、ロドリゴは神の声を聴いたのか否か、透明な合唱が雄弁に鳴り渡り、これが正に答えだと思うけれど、舞台の上では一瞬光の筋が十字架の形に交わって、視覚面でも神の実存を高らかに示しています。しかしロドリゴは踏み絵を踏んだ後、それを抱きしめて幕が降りるまですすり泣いている。「烈しい悦び」を得たのとは少し違うような気がして、若干釈然としない終わり方。だが、こうやって観客の心に引っ掛かることはもとより作り手の望むところでしょうから、これを一つの解釈として受容するしかないでしょう。

これを機会に久しぶりに原作を読みましたが、若い頃には思いもよらなかった部分に惹きつけられ、感銘を受けました。私自身はとてもじゃないがキリスト教を信仰することは無かろう、キリスト教徒になる資格はとてもないだろうと思いました。例えばロドリゴの内的表白を描くこんな箇所。
「(前略)しかし、このキチジローは悪人にも価しないのだ。襤褸のようにうす汚いだけである。不快感を抑え、司祭は告悔の最後の祈りを唱えると習慣に従って、「安らかに行け」と呟いた。(略)いいや、主は襤褸のようにうす汚い人間しか探し求められなかった。(略)魅力のあるもの、美しいものに心ひかれるなら、それは誰だってできることだった。そんなものは愛ではなかった。色あせて、襤褸のようになった人間と人生を棄てぬことが愛だった。司祭はそれを理窟では知っていたが、しかしまだキチジローを許すことはできなかった。」
私にはこれほどまでに愛というものの本質について考えなければならない宗教など、とてもじゃないが帰依するのは無理である。それにしても遠藤周作の原作も恐ろしいが、このオペラも本当に恐ろしい。今後再びこの作品を舞台でやる機会があれば、私はどんなことがあろうとも観に駆けつけるだろうと思う。
by nekomatalistener | 2012-02-21 22:22 | 演奏会レビュー | Comments(5)

ストラヴィンスキー自作自演集WORKS OF STRAVINSKY (その13)

あんず酒ソーダの発音の難しさは新春シャンソンショー並み。




CD13枚目はChamber Music&Historical Recordings Vol.2のタイトル。

  ①デュオ・コンチェルタント(1931~32/1932放送初演) [1945.10.11-13録音]
  ②イ調のセレナード(1925) [1934.7.5-13録音]
  ③2台のピアノのための協奏曲(1931,34~35/1935初演) [1938.2.16録音]
  ④ピアノ・ラグ・ミュージック(1919/1919初演) [1934.7.5-13録音]
  ⑤2台のピアノのためのソナタ(1943~44/1944初演) [1961.11.30録音]
  ⑥ピアノ・ソナタ(1924/1925初演) [1960.12.28-30録音]

  ①ヨーゼフ・シゲティ(vn)、①②③④ストラヴィンスキー(pf) ③スーリマ・ストラヴィンスキー(pf)
  ⑤アーサー・ゴールド、ロバート・フィツデイル(pf) ⑥チャールズ・ローゼン(pf)


この一枚も、ストラヴィンスキーに今一つシンパシーを感じていない方々からすれば、なんとも取っつきにくい作品ばかり並んでいるように思われるかもしれません。ピアノやヴァイオリンの独奏曲の愉しみと言えば、通常ならば豪快な、あるいは軽妙な名人芸を聴くことであったり、美しく抒情的なメロディーの愉悦であったりする訳ですが、およそそれらとは程遠い不思議な音楽。また、2台ピアノの作品であれば、室内楽的な、あるいはハウスムジークとしての愉しみ、聴くよりは気の合う仲間と弾いてみたいと思わせるところが魅力でしょうが、ソナタの方はともかく、協奏曲の方は相当毛色が違う。斯く言う私だって、少し前なら駄作集で済ませたかも知れませんが、この数ヶ月浴びるようにストラヴィンスキーを聴いてきたおかげで、これはこれで風変わりだが面白い音楽だと思えるようになりました。
そもそもストラヴィンスキーにとってピアノとは如何なる楽器だったのか?最初期のピアノのエチュードなど、いかにもスクリャービンの亜流といった書法で書かれていて、ちょっと微笑ましいのですが、彼がこの路線を追求しなかったことは、ピアノ好きには大いなる損失であり、ストラヴィンスキーの好きな人間にとっては誠に幸いなことでした。あの素晴らしい「ペトルーシュカからの3つの楽章」は(さすがに本人にも上手く弾けなかったのか)収められておらず、このCDの諸作品の演奏では彼の腕前の本当のところは判らないとしか言いようがありません。「ペトルーシュカ」にしても、実際のところはあのポリーニの演奏が凄過ぎるものだから、20世紀を代表するピアノ曲みたいに思われているけれど、作曲家本人としてはもしかしたらオーケストラの不完全な代用品でしかなかったのかも知れません。以前の投稿で「結婚」や「ピアノ協奏曲」を取り上げた際に、ストラヴィンスキーのピアノ書法の素晴らしさを力説した訳ですが、ストラヴィンスキー自身は恐らくアンサンブルの中で他の楽器と溶け合うのでなく、鋭く対立する要素としてのピアノ、あるいは打楽器の一種としてのピアノを愛していたのであって、ラフマニノフやスクリャービンの延長線上にあるピアニズムに関しては若い頃は別として、基本的に興味がなかったのだろうと思わざるを得ません。

①「デュオ・コンチェルタント」はアメリカのヴァイオリニスト、サミュエル・ドゥシュキンと自らのリサイタルツアー(1932~34年)の演目として書かれたもので、他にも「妖精の口づけ」や「プルチネッラ」などのヴァイオリン・デュオの編曲が数多く書かれています。それ以前にヴァイオリンとピアノのデュオに興味を示した形跡はなく、同じ時期のピアティゴルスキーの為のチェロ編曲同様、祖国ロシアからの印税収入の無くなった時期の、糊口をしのぐ為のお仕事という以上のものではなかったと思われます。それならそれで、もう少しリサイタルで受けそうな曲を書けばいいものを、なんとも無愛想で乾いた曲想というのが一筋縄では行かない。第3曲Eglogue(牧歌)Ⅱと第5曲Dithyramb(デュオニュソス神への賛歌)は抒情の勝った美しいものですが、それとて万人受けはしないだろう。曲はともかくシゲティのソロが素晴らしい。普通なら禁欲的過ぎて色香に乏しいというイメージがあるのに、この作品では却って彼の音色が艶っぽく聞こえるのが実に面白く、不思議な味わい。第5曲は気高く、ちょっと神々しいほどだ。こんなシゲティの魅力をどれだけの人が知っているだろうか?もうこれはこのCDを所有している者だけが知る密かな悦びです。

②イ調のセレナード、リサイタルのプログラムに載せられるぎりぎりの体裁を備えている、という点で数少ないピアノ独奏曲の一つだけれど、これを聴いてかっこいい、とか俺も弾いてみたい、と思うピアノ弾きは少ないんじゃないかな。私もまぁ駄作の一つかな、と正直思います。擬古典的な音の選び方がなされていて、「プルチネッラ」(1919~20年)と「ミューズを率いるアポロ」(1927~28年)の橋渡しという意味合いはあると思いますが、あまりにもピアニスティックな要素がなくて、オーケストラの出来の悪いスケッチのように聞こえます。ちなみにyoutubeにソヴィエトのピアニスト、マリア・ユーディナの1962年の演奏なるものがアップされていて、音は良くないが演奏は自演盤よりなんぼか面白い。
http://www.youtube.com/watch?v=bCR_1bMC-qk

③息子スーリマとの共演を念頭に置いて書かれたコンチェルト。ストラヴィンスキーはこの作品の第1楽章を書いた後、通常の2台ピアノの響きが気に入らずプレイエル社に「ダブル・ピアノ」を特注したらしい(作曲年代が飛んでいるのはそのせい)。ダブル・ピアノ、ご存じでした?
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そんなトリヴィアはどうでもいいんだが、第3楽章の4つの変奏曲や、終楽章のフーガなど、2台ピアノならではのマッシヴな響きと意匠を凝らした作曲技法がそれなりに聴かせる。ただそれが好んで聴きたくなるか、と言えばちょっと別。どうしても私がピアノに求めるものとストラヴィンスキーのそれとが合わない感じですね。

④「ピアノ・ラグ・ミュージック」は以前にこのシリーズで少し取り上げたことがあります(2011-12-10のシリーズその7)が、小品ながらも前衛的で、非常に重要な作品だと思います。前年に書かれた「11楽器の為のラグタイム」とごく近い音楽ながら、より実験的で、まるで一般的なリサイタルを前提としていないように聞こえます。拍節が無茶苦茶な感じなのに、作曲家自身の演奏はそれでもちゃんとラグタイムのリズムになっているところがさすが。

⑤と⑥は自作自演ではないのでちょっと看板に偽りありの録音ですが、作品も演奏も上々の2作。⑤の2台ピアノのためのソナタは、フォーレの「ドリー組曲」やミヨーのピアノ曲を連想させるような平明な作品。ソナタというよりソナチネと呼びたくなるような小品ながら、その対位法的書法や、シンプルな主旋律と洒落た和声の組合せがストラヴィンスキーの円熟を示しています。これは広くピアノ好きの方々にも受け入れられるのではないでしょうか。⑥のソロ・ピアノのソナタは、ピアノ協奏曲の直後に書かれていますが、曲想はまったく異なっており擬パロック的な音楽。第2楽章はバッハの緩徐楽章によくあるような、オーボエが歌うみたいな旋律。第3楽章はまるでインヴェンションを聴いているかのような知性の勝った音楽。ローゼンのピアノは実によく合っております。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-02-08 23:26 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

シェーンベルク 「組曲」Op.29&「浄められた夜」Op.4 ブーレーズ/Ens.アンテルコンタンポラン

「フィガロの結婚」第3幕フィナーレの手前のレチタティーヴォ・セッコで、伯爵がいきなり日本語で「助かりました」というところ、何度聴いてもびっくりする(本当はtasca rimastaと言ってる)。




現在少しずつ書き進めている「ストラヴィンスキー自作自演集」のシリーズ(その12)の回で「七重奏曲」(1952年)を取り上げた際に、この作品がシェーンベルクの「七重奏の為の組曲」Op.29と深い関係があると書きました。しかしながら、それはロバート・クラフトの言葉を引いただけであって、私自身はその元ネタというべきシェーンベルクのOp.29について実は良く判っていなかった事を告白せねばなりません。正確に言うと、若い頃にLPで聴くには聴いたが全く面白さが判らず、それ以来多分30年以上聴く機会がありませんでした。たとえ駄文を書き散らしたブログであっても、自分の書いたことには責任を持ちたいとの思いから、CDを取り寄せてちょっと真面目に聴いてみた次第です。

 「組曲」Op.29
  P.ブーレーズ指揮アンサンブル・アンテルコンタンポラン*
 弦楽六重奏曲「浄められた夜」Op.4
  P.ブーレーズ監修アンサンブル・アンテルコンタンポラン**

   *Michel Arrignon, Alain Damiens :cl
   Guy Arnaud :bs-cl
   Marryvonne Le Dizés-Richard :vn
   Jean Sulem :va
   Pierre Strauch :vc
   Cristian Petrescu :pf

   **Charles-André Linale, Marryvonne Le Dizés-Richard :vn
   Jean Sulem, Garth Knox :va
   Philippe Muller, Pierre Strauch :vc

   Op.29:1982.6.14/Op.4:1983.11.6録音
   CD:CBS/SONY32DC543

個人的な話で恐縮ですが、私が初めてシェーンベルクの音楽に触れたのは中学生の頃だったか、高校生になっていたのか記憶も定かでありませんが、NHK-FMでラサール・カルテットによる弦楽四重奏曲全4曲の連続演奏会を放送したことがあり、カセット(古~w)に録って繰り返し繰り返し聴いたのが最初でした。もうショックでしたね。こんな音楽が世の中にあるのかと思いました。4つの楽器が鋼鉄の針金のように絡み合い延々と40分以上も続く第1番、調性があるような無いような、不安な夢の中でソプラノがシュテファン・ゲオルゲの詩を歌う第2番、十二音技法という言葉くらいは知っていたものの、それまで全く知らなかったシステムに拠る流麗な第3番と確信に満ちた第4番。この時以来、私の音楽との接し方はそれまでとは全く違ったものになってしまったと思います。今となっては、というより、今も尚、この4つの弦楽四重奏曲がなぜそれほどまで私を夢中にさせたのか、上手く説明できませんが、私が無意識に待ち望み、心の中にそれが嵌め込まれるべき鋳型を密かに彫っていたところにぴったりと嵌り込んだとしか云い様がありません。それから数年の間に当時LPで入手可能な目ぼしい作品はたいてい聴いたと思いますが、結局はこの弦楽四重奏曲、「ピエロ・リュネール」、「期待」、「モーゼとアロン」、ポリーニの弾いたピアノ曲集、これぐらいが今も時折聴くことがあるぐらいで、他はもう滅多に聴くことがなくなりました。爛熟と言いたくなるようなロマンティックな「浄められた夜」や「グレの歌」にどれだけ青春の孤独を慰められたか判りませんが、それもある時期、憑きものが落ちたみたいに聴かなくなりました。不思議なものです。

その中で、当時何がどう面白いのかさっぱり分からなかった一連の作品群がありました。いずれも無調から一歩進んで十二音技法を確立した初期の作、「セレナードOp.24」「ピアノ組曲Op.25」「木管五重奏曲Op.26」そしてこの「組曲Op.29」(Op.27と28は合唱曲で未聴)。Op.25はその後、大学生の頃と、結婚前にちょこっと実家にいた頃、自分でもすこし練習したこともあってむしろ今ではかなり好きな曲の部類ですが、Op.24、26、29はそのまま封印したきりになりました。ブログの効用というのか、ストラヴィンスキーのことを深く考える機会がもしなければこのシェーンベルクのOp.29は一生聴く機会が無かったかも知れません。

さて、こうしてほぼ30年ぶりに聴いたOp.29。なかなか心の中に入ってこない。4楽章通すと結構時間も長くて(約30分)、意識が途中で何度も途切れる。それでも何回か聴いていると、まるでカンディンスキーの絵画のように、あちこちで饒舌なお喋りが聞こえてくる。7つの楽器に「ねぇ君たち一体何を喋ってるの?」と訊きたい気分。毎晩寝る前に聴いて、1週間もすると、不思議なことにこの音楽にはシェーンベルクの精髄のようなものが含まれているような気がしてくる。そしてまるで啓示が降りてきたように、これはmusizierenそのものじゃないか、という思いが起こりました。ドイツ語以外でこういう動詞があるのか知りませんが、無理やり日本語にするなら「楽しみながら楽器を弾く」とか、「楽器を弾いて身も心も弾む思いがする」といったところでしょうか。ポイントは「自ら演奏する」ということと、概念ではなくて極めて身体的な言葉である、ということ。啓示がどのようなものか、回り道しながら書きます。その昔、決して好きではなかった「ピアノ組曲Op.25」をなぜか弾きたくなって、終曲のジーグを練習していた時のこと、少しばかり弾けるようになってくると突如面白くなる音楽でした。その時はそれ以上深く考えることもありませんでしたが、このジーグが面白く弾けるというその身体反応が、今思えば正にmusizierenという動詞の実体なのでした。英会話を例に挙げると、英語に堪能な人は例外なく、喋れるようになる時は突然やってくると仰います(私は英会話はさっぱりですが)。海外転勤などでも、最初の2ヶ月かそこらは片言で相手の言う事も半分くらいしか聴き取れていなかったのが、次第に、というのではなくていきなり判るように、喋れるようになった、と。私自身のジーグの例もちょうどそんな感じで、本当に突然面白さに目覚める時があった訳です。ですが、今言いたいことは突然云々ではなくて、それがmusizierenの悦びであったということです。

シェーンベルクの、特に十二音技法以降の作品を頭で考えたシロモノであると見做す言説は、完全に誤りであると断言しますが、その根拠はこのmusizieren体験にあります。シェーンベルクは作曲家としてはプロ中のプロですから、耳で聴いて美しく、快楽をもたらす音楽は易々と書けたはずですが、さすがの彼も十二音技法を採用した初期には、その技法がmusizierenの快楽をもたらすかどうか、まず自らピアノに指を置き、友人や作曲の弟子たちとの試演を通じて試行錯誤を繰り返したのではないか、その結果、広く聴衆に聴かれるべき音楽としては随分内向きというか、インティメイトではあるが耳だけで理解しようとすると思いの他高い障壁を持つ音楽が生まれたのではないか。やがて自信を得てからの作品、私は30数年前にLPで容易に入手できたものしか知らず、知らない作品は沢山あるけれど、「モーゼとアロン」や有名な「ワルシャワの生き残り」など、大変な傑作で、関心を持って真摯に向き合えば必ずや聴き手に感動で報いてくれると思いますが、そこに至るまでにはそれなりの苦心惨澹があったのだろう、ということに私自身ようやく気付きました。

ちょっと脱線しますが、こういった種類の音楽は、楽器が弾けなければ判らないとは言えないか。あるいは、楽器が弾けたりスコアが読めたりしなければ判らないシロモノなど、そもそも音楽と言えるのか、という問いについて。あまりこういった事を書くと、鼻持ちならないと思われかねない。そうでなくとも罵詈雑言が飛び交うネット世界に対しての正しいリテラシーというのは、多分今回のブログみたいなことを書かない、ということに尽きるのでしょうが、それでは私は何も発信できなくなる。だから敢えて先ほどの仮想質問に答えると、まず当たり障りのないレベルでは「楽器が弾けなくとも何度も繰り返し聴けばきっと弾く人たちと同様の愉しみが得られる」、しかし本当のところは、「楽器を弾いたり楽譜を読んだり出来なければ厳しい音楽ってのは確かに存在する」。だいたいmusizierenという言葉自体、何度もいうが能動的身体的な言葉であって、ドイツ古典派からシェーンベルクに至る音楽というのは嫌味なほどこの身体感覚にこだわった音楽という気がします。そんなものは音楽ではない、というのは、「そう思う人にとっては」音楽ではない、というだけで、この「 」の言葉抜きでこういった言説を振りまわすのは逆に傲慢以外の何物でもないと思う。私はちょっと事情があってスポーツ全般が大の苦手。だからテレビでスポーツ観戦することにも全く何の興味もない。下手でもなんでも自らスポーツしなければ野球でもサッカーでも見て面白いわけがないと思う。だからと言って、スポーツの楽しさを熱く語る人に「苦手と言ってる俺にそんなことを言うとは鼻持ちならない」などとバカなことはもちろん言わない。でも世間ではスポーツに対するコンプレックスを持つ人間はひっそりと黙っているが、こと音楽とか文化的な事になるとコンプレックスを持つ側が逆に噛みついて来たりするのが面白い。何か文化におけるねじれのようなものを感じます。

まだ終わりませんよ(笑)。1952年のストラヴィンスキーにとっての「シェーンベルク・ショック」とは何だったのか。それまでシェーンベルクが大嫌いだったストラヴィンスキー、ドイツの音楽よりは断然ラヴェルの音楽に近い、知的な音楽を書いてきたストラヴィンスキーが、突如シェーンベルクの、いやドイツ音楽の本質は、ソナタ形式だのライトモチーフだのではなくてmusizierenという身体感覚にあったことに気付いたことではなかったか。それまで徹底的にリズムにこだわった、即ち身体的な音楽を書いてきたつもりで、シェーンベルク一派を”the gentlemen who work with formulas instead of ideas”(Joseph N.Straus”Stravinsky's Late Music”)と攻撃してきたのに、突如実はシェーンベルクのほうがより身体的で、自分こそideasのかわりにformulasで音楽を書いてきたと気付いた衝撃。しかしストラヴィンスキーが真に偉大だったのは、すかさずシェーンベルクに倣ったピアノを含む編成の七重奏曲で、音列技法と二重フーガを用いて、湧きたつようなmusizierenの悦びに溢れた音楽を書いたこと。70にもなってこの謙虚さと柔軟さ。世の年寄り達は頼むから見習ってほしい。ここまでくればもうどちらが偉大か、などという議論は意味をなしませんが、ものすごく大雑把に言えば、シェーンベルクは過去を閉じた音楽でストラヴィンスキーは未来を開いた音楽、ということは言えそうです。

「浄められた夜」について少しだけ。この演奏、ブーレーズ監修の弦楽六重奏によるものですが、それまでのブーレーズにはあり得ないほど表現の振幅が大きく、まさに表現主義的。自らの美意識のみを頼りとし、それにそぐわなければ作品の本質を踏みにじることも厭わないブーレーズですが、この録音の頃ようやくシェーンベルクの本質を尊重した音楽をやりだしたということでしょうか。ココシュカやエゴン・シーレにごく近いところにある音楽。これをムード音楽のように聴いては絶対にいけない。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2012-02-06 00:23 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

松村禎三 「沈黙」 若杉弘指揮

ツイッターのハッシュタグで「曲のタイトルに何かの手違いでをつけるとなんか迷惑」というのを発見。何かの手違いでウェディング・ベル、何かの手違いでこんにちは赤ちゃん、何かの手違いで七つの子・・・ホントだw。クラシック編もあるぞ。何かの手違いで音と香りは夕べの大気に漂う・・・そりゃ香りじゃなくてニオイだろww。ドビュッシーはいっぱいあるなぁ。何かの手違いでラモーを讃えて、とか。他にも沈める寺とかウェリントンの勝利とか眠れる森の美女とか絞首台とか、お好きな曲をあてはめてくださいね。





来る新国立劇場公演に備えて、オペラ「沈黙」の予習中。

  指揮:若杉弘
  管弦楽:新星日本交響楽団
  合唱:二期会合唱団・東京混声合唱団・ひばり児童合唱団
  合唱指揮:三澤洋史・樋本英一
  ロドリゴ:田代誠
  フェレイラ:直野資
  ヴァリニャーノ:大島幾雄
  キチジロー:宮原昭吾
  モキチ:小林一男
  オハル:釜洞祐子
  おまつ:秋山雪美
  少年:青山智英子
  じさま:桑原英明
  老人:有川文雄
  チョウキチ:土師雅人
  井上筑後守:池田直樹
  通辞:水野賢司
  役人・番人:峰茂樹
  牢番・刑吏:志村文彦
  刑吏:藤沢敬
  修道士:高松洋二
  1993年11月4日・6日録音
  CD:カメラータ・トウキョウCMCD50009-10

そもそも邦人作品に対する一般のクラシック音楽のファンと称する人々の冷淡さ、それは私自身の心の中にも巣食っているものですが、それはどこからやってくるのか。そのことを突き詰めて考えれば、戦後の日本人のメンタリティに関わる問題点の一端が明らかになるような気がしますが、今回は大きな問題は棚上げして、差当りCDを聴いて考えたこと、この作品の問題点だと思うことについて備忘的に書き留めていきます。これは決して批判ではなくて、私自身の問題意識の整理です。その中の幾つかは、実際に舞台を観ることですっきりと解決するかも知れないし、より謎が深まるかも知れない。あくまでも備忘につき甚だまとまりのない文章になることはお許しください。それと、ネタバレ箇所がございますので、先入観なしで舞台を観たい方はお読みになりませぬ様に。

文学をオペラのリブレットに翻案するに当たって、R.シュトラウスの「サロメ」のような数少ない例外は別として、登場人物や物語の刈り込み、あるいは圧縮が行なわれることは当たり前のことでしょう。原作とは別の芸術的な価値が舞台の上で生み出されるならば全ては許される、と言えるかもしれませんが、原作が遠藤周作の高名な作品ともなれば「オペラのリブレットと文学は別物」と言って済まされるか否か、微妙なところ。

①オペラではばっさりとカットされているガルペ神父だが、原作では非常に重要な役を担う。簀巻きにされて海に突き落とされる信徒たちを追って、海に飛び込み藻屑と消えてしまうが、ロドリゴの心に癒しがたい傷を残す。ロドリゴがなぜ「転んだ」のか、穴吊の場面だけでもその理由としては充分かも知れないが、やはりガルペの入水によるトラウマがあってこそ、ロドリゴの苦悩も痛切なものになるのではないか。原作を知ってオペラを聴くと、どうしても、若くて理想家ではあるが思慮の足りない神父が、現実の前に夢破れて転んだ、という風に表面的に感じられてしまう。

②原作の奉行の井上筑後守は、オペラでは通辞の役人や刑吏と融合ないし圧縮されており、あたかも筑後守が自ら苛酷な拷問を行なっている如く描かれている。これに比べて、原作の筑後守ははるかに複雑な性格を持ち、まさに煮ても焼いても食えない人物である。原作の、中庭に牀机を持ち出してロドリゴと対峙する場面は全体を通して最も重要な場面の一つであり、井上筑後守という人物に、物語の時代に留まらず現代にまで続く日本人の抱える「闇」が凝縮されている。大体、キリスト教徒でもない大多数の日本人にとっても遠藤周作の「沈黙」が重要な作品であるのは、ロドリゴの煩悶よりは井上筑後守の人物造形に負うところが大きいのではないか。私には筑後守と通辞や刑吏との融合は、「圧縮」というよりは「矮小化」と感じられる。中庭の場を追加する事でオペラの尺が10分か20分延びたところで何ほどのことがあろうかと残念に思った。

③原作に何度も繰返し現れる「野良犬のように」という言葉。原作では多分10箇所くらい出てくる。それは最初、キチジローのみすぼらしく下卑た表情、薄汚く異臭を放つような身なりに対して使われるが、次第にロドリゴ自身の形容、自嘲の言葉の中にも頻繁に使われるようになる。対するにオペラでは第1幕最後「海沿いの断崖の上」の場で2回、ロドリゴのシュプレッヒシュティンメで歌われるのみ。この「野良犬のように」という言葉の原作における重要性を思うと、オペラでの扱いは些か軽すぎるような気がする。とはいえ例えばベルリオーズの幻想交響曲のイデエ・フィクスのような扱い方をされても安っぽくなるだろうし、音楽としてどう処理するかは難しいところ。

④原作にないモキチとオハルの祝言の場の追加は、オペラは基本的にエンタテイメントでなければならぬ、という立場からすれば容認すべきものと思うが、言葉は悪いけれど深刻極まりない原作の「プッチーニ化」という気がしてならない。「ヴォツェック」や「モーゼとアロン」をあるがままに受容しうる現代の聴衆にとって、本当に必要な措置であったのか疑問なしとしない。

次は音楽的側面についての問題点。

①非キリスト者である私が最も困ってしまうのは、第2幕海辺の場の、蓑虫のように簀巻きにした信徒たちを次々と海に突き落とす場面。調性と無調の間を行ったりきたりする全曲を通して、無調で描かれるこの場面は音楽的には全曲の白眉といってよい箇所であるが、音楽そのものも、躍動するオーケストラも、なんだかサディスティックな喜びにのたうち回っているように聞こえてしまう。否、オーケストラの所為にしてはいけない。罪深い私はこの場面になるとサディスティックな喜びにのたうち回り、身も心も打ち震える思いがする。控えめに言っても、興奮を抑えきれない。転びます、転びますから、と命乞いする若者に対して、役人ではなく私の心が「突き落とせ」と叫んでしまう。しかしこの狂騒を突き抜けて、信徒たちの合唱が沸き起こり、途方もない感動に襲われる。もしこの場が無ければ、この作品をブログに取り上げることもなかったろうと思うが、キリスト教徒はこれを聴いてどう感じるのだろうか?感動するのか、それともひたすら嫌悪を感じるのか?その昔、カール・リヒターがバッハの「マタイ受難曲」の旧盤を録音した際、音楽のプロと言う以前に敬虔なキリスト教徒であった合唱団員は、ピラトの「イエスとバラバ、どちらの命を救うか」と訊かれて「バラバを!」と答えるユダヤの群集を歌う時、精神的な苦痛を感じたということだが・・・・。

②最後の場面、ロドリゴが踏絵を踏んでから歌や台詞は一切なく、音楽によって基督の声を聴いたことが表現される。原作ではロドリゴは基督が語りかける言葉を聞き、「烈しい悦び」を感じたと書かれているが、オペラで基督の声が聞こえるというのはどう考えても興醒めであろうから、これは妥当な処置。但し、音楽そのものがこの奇蹟を表現し得ているかと言えば残念ながらそうではない。少なくともCDで音だけ聴いているのでは判らない。全曲通して、大変な筆力とは思うが、最後の最後に何かが足りない。そこを演出がどう埋めるか。

③音楽の技法としては、概ね平和な、あるいは日常的な部分では調性がはっきりしており、苛酷で非日常的な部分は無調、と図式化できそう。一方、歌唱については、調性のはっきりした部分はアリアや二重唱などがしばしば朗々と歌われ、先ほど「プッチーニ化」と悪口を書いたが、それはそれで大変美しい。音楽が無調に傾くに連れて通常の語りやシュプレッヒシュティンメによる朗唱のウェイトが大きくなる。これは歌手、特に沢山いる脇役達の負担を軽減することと、ドラマが大きく展開する部分では日本語がきっちりと聴き手の耳に届くことがなにより必要であるという、二つの理由があると思う。そこから日本のオペラの宿命とも言える二つの問題が浮かび上がる。一つは、クラシックなアリアのような伝統的語法に日本語を乗せると歌詞が聞き取れなくなる、ということ。これはもう日本語の抱える宿痾なのか。しかしこれでは、劇的な対話が主体となる第2幕は殆どアリアの出番が無くなってしまうというのが何とも不都合。歌手の負担ということについて言えば、確かに多様なキャストによって繰返しの興行を行なうことを前提とすればやむを得ない事情かも知れないが、現代的なイディオムに対する日本人歌手の適応力の高さを考えればこちらはあまり問題とはならないのではないか。無いものねだりになるが、シェーンベルクの「モーゼとアロン」で、終始朗々と歌うアロンと、苦悩に満ちて終始シュプレッヒシュティンメで語るモーゼとの対比がドラマの核となり、芸術に必要な幾許かの狂気の源泉となっていることを思うと、歌手の力量への妥協や日本語の制約の一切を免れた表現が他に可能ではなかったかと夢想せざるを得ない。その点でこのオペラには、妥協とまでは言わないまでも、若干の手心のようなものが感じられて仕方が無い。

このCDの演奏に関して言えば、こういった新作オペラでこれだけの録音が残され、今も入手可能であるというのは奇跡という感じがする。歌い手もしくは語り手では、何といってもキチジローが出色。オハルも素晴らしいが、アリアを歌うとやっぱり歌詞が聞き取れない。ロドリゴはそれこそ「若くて思慮が足りない」という役柄にはぴったりだが、「若くてしかも思慮深い」役柄だったとしたらどうだろうか。もっともこのオペラをロドリゴの成長物語、ビルドゥングスロマンと捉えれば、なかなか所を得た配役という気もする。フェレイラは人物の卑小さにやや傾いた表現。ただし、この役柄はそれだけではないだろうと思う。

震災と神の存在、キチジローとユダの関係、旧約ヨブ記のこと等々、非キリスト者であっても書きたいことは他にも山ほどあるが、いずれも公演を観てからとしたい。
by nekomatalistener | 2012-02-03 01:08 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)