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大井浩明 カールハインツ・シュトックハウゼン歿後5周年 初期クラヴィア曲集成

大阪万博のニュージーランド館で食べたマトンカレーをもう一度食べてみたい。
(ネタ切れ中)




大井浩明のPortraits of Composersシリーズの最終回はシュトックハウゼンの初期ピアノ曲の全曲
(KlavierstückeI~XI)と、晩年のオペラ「光」から派生的に生まれた作品KlavierstückXVIII のシンセサイザーによる演奏。

  2012年1月29日@白寿ホール
  クラヴィア曲I~IX 
    (休憩)
  クラヴィア曲XVIII ≪水曜日のフォルメル≫
  クラヴィア曲XI
  クラヴィア曲X
    (アンコール)
  ≪自然の持続時間≫より 第24曲


予想通りというべきか、やはりピアノ曲X の演奏が圧巻。前半はI からIX まで順番通り弾いたのですが、後半は順序を入れ替え、XVIII→XI→X という順番でした。
私のようなごく一般的な聴衆にとっては、シュトックハウゼンのピアノ曲Ⅰ~XI を全曲通してとにもかくにも聴き通すという事自体に大変な意義があった訳で、大井浩明のようなピアニストが出てきたから当たり前のようにこんなリサイタルを企画しているけれど、普通は一晩で全曲弾くなんてありえない話。しかし大井氏自身にとっても、全曲弾くという点に最大の眼目があった筈であり、こうすることによって作曲家の全体像に少しでも近づき、俯瞰する目線を得ようと考えたのだろうと思います。もしも時間的な、あるいは物理的・生理的、さまざまな制約がないならば、XI までとは全く作曲年代も様式も異なるXII~XVII や、「自然の持続時間」など、あるいは「マントラ」とか他のピアノ作品も含めて全部やりたいと思われていたに違いありません。そういった性格をもつリサイタルですので、聴き手としては全体を全体として受容するような姿勢さえあれば、小賢しいことは言わずとも、この演奏会を正しく享受できたといえるでしょう。しかしそうは言っても、個々の作品の印象は書き留めておきたいところ。
I~IV については、こういった性格のリサイタルですから殊更小手調べとして聞こえますが、V はメシアンを思わせるような装飾音符群の響きが大層美しく、早くも初期のシュトックハウゼンの音楽に陶然としてしまいます。V からVIII についてはいずれもダンパーを上げた状態で弦を共鳴させるハーモニクスや、3本のペダルの踏み込みの深さまで指定したペダリングなど、まずは音の美しさそのものを感じ取るべき作品でしょう。長大なVI、一つの音が完全に消え去るまで耳を澄ませなければならない、長い休符が頻発する作品ですが、本来こういったコンセプトは、梵鐘や仏壇のりんの果てしない響きが消え去るまで(大した我慢もせずに)耳を傾けていられる日本人には珍しくもないものでしょう。しかし、当日の会場では、この長い休符のところであちこちから深い寝息が露わに聞こえてきて恥ずかしい。これがジョン・ケージの「易の音楽」かなんかだったら、寝息もイビキも音楽の一部として許されるかも知れませんがこの時期のシュトックハウゼンの音楽は何というか、そういうノイズを許さないのですねぇ(笑)。困ったものです。
それはともかく、Ⅰ~VIII は基本的にはいわゆるクラシック音楽の延長線上にある音楽であり、伝統的なヴィルトゥオジテに則った作風。今の地点から振り返ればそんなにぶっとんだ感じはしない。これがIX になると相当いっちゃってる、というか、いきなり何かクスリでもやってそうなあぶない音楽になってしまいます。そしてX は今や戦後前衛作品の金字塔と言ってよいと思います。その規模の大きさ、後世への影響の大きさ、そして何よりも音楽それ自体としての力強さと美しさに掛けて、ブーレーズの第2ソナタと並び称されるべき作品でしょう。ただし、一般的な評価としては、X よりもXI の方が、その不確定性の採用によって、より歴史的に重要な作品と考えられているのかも知れません。

ちょっと個人的な思い出も含めて脱線しますが、ピアノ曲X といえば、なんといってもあのポリーニが1978年に来日した際の演奏が今も語り草です。私もこの時の公演の記録を昔読んで、実際に聴いた人達をどんなにうらやましく思ったことか。その記録はたいてい、それまできっちりした身なりをしていたポリーニが上着を脱ぎ、手にプロテクターをはめて舞台に現れたことへの驚きと、その後の火花の散るような凄絶な演奏への賞賛が書かれていたものです。私自身とシュトックハウゼンの音楽との接点に関して言えば、それからかなり時代が下って1989年のポリーニ来日時のリサイタルを聴く機会がありましたが、その時のプログラムはブラームスのOp.119、シェーンベルクのOp.11、シュトックハウゼンのピアノ曲VとIX、休憩を挟んでベートーヴェンの29番ソナタ「ハンマークラヴィア」という重量級のものでした(確か東京文化会館で聴いたはずです)。ヘルベルト・ヘンクやアロイス・コンタルスキーのCDを買ったのはそれよりずっと後のことですから、私はこのとき何の予習もなしでシュトックハウゼンのV とXI を聴いたことになります(今時はyoutubeでX だって聴ける時代ですが、その頃は絶望的に情報が少なかったのです)。そのせいか、V に関しては殆ど記憶にないのですが、対するにIX の記憶は今も鮮明です。強烈に憶えているのは、クラシック音楽の延長線上にあるV と、カルトな味わいのIX の間に横たわる深淵の目も眩むような深さ、それと、楽譜を見ながらポリーニは弾いていたのですが、途中で楽譜が楽譜立てからずり落ちそうになり、間一髪でポリーニが手で押しとどめたのですが、見ていたこっちが心臓がとまりそうになったことです。それでも、ポリーニのその時のIX は、終盤に出てくる、夜空に消えていく星屑のような装飾音符の乱舞が息を呑むばかりに美しく、シュトックハウゼンの音楽におけるピアノ書法(もっともそれは1952年から1961年という非常に限られた期間のことですが)に完全に魅せられてしまったのでした。私は最近のポリーニの公演には殆ど行っていないのですが、彼はその後もことある毎にシュトックハウゼンを取り上げています。ポリーニという演奏家に対する好き嫌いは措くとして、このことは大変素晴らしいことだと思います。
シュトックハウゼンのピアノ曲は、聴いた感じだけなので確信はないですが、X を除くとピアニズムという観点ではロマン派の名人芸の延長線上にあるといえます。指の回りと別次元の、リズムの複雑さや音価の測り方が極めて困難なことに由来する難しさ、さらにはハーモニクスや特殊なぺダリングの困難さはあっても、基本的には古典派やロマン派をきっちり学んだピアニストならば弾けるはず。しかしX に関して言えばもう完全に過去の音楽とは切断されており、ピアノの技巧ということに関しても、過去のそれとは全く異質。にもかかわらず言葉の通常の意味で超絶技巧の極致という感じがします。XI は不確定性が全面に出ている反面、ピアノ技法という点ではIX 以前に戻っている感じですが、これを事前の準備なしで本来の指定の如く、断片を目にとまった順番に弾く、というのは別の意味で困難さがあるのでしょう。いずれにしてもX 以外はプロのピアニストであれば何とか弾けるハズ。X だって、演奏には大変な困難を伴うと思うけれど、リサイタルに掛ける意義も大きく、報われるものも非常に大きいと思います。少しでも多くのピアニストが当たり前のように取り上げてほしいものだと思う。なんといっても、この時期のシュトックハウゼンのピアノ曲は、ピアノを弾きながら舞台の上で目玉焼きを作る必要もなければ、グランドピアノの蓋の上で全裸になる必要もないですから、その点は簡単ですねw。
話は変わるが、よく最近のピアニストが、現代モノ(同時代の作品、ということではなくて、一応エスタブリッシュメントとしての現代音楽という意味だが)にも目を配ってますよ、といったジェスチャーでリゲティのエチュードであったり、シャリーノであったりを採り上げることがありますよね。アマチュアのピアニストにヴァインなんかが最近人気あるみたいなのも、同様の文脈で理解する必要がある。それが決して悪いとは言わないがそれって現代モノと言っていいのか?と思うことがあります。ある意味「現代風」という衣装をまとったサロン音楽なんじゃないか(それが言い過ぎなら、ソフトコアな現代曲という言い方もある、同じようなものか)。その点、シュトックハウゼンのXI までの諸作品は紛れも無くハードコアなのに響きも美しく、超絶技巧が聴く者を魅了して已まない。もちろん、人気投票したらリゲティの10分の1も得票できないことはよく分かっている。

大井氏の演奏に戻りましょう。XI の演奏に際して、例の大判の断片がばらばらに記された楽譜と、事前に弾く順番を記したと思しい小さめの楽譜の両方を楽譜台に置いて弾いていました。事前に準備することによって失われるものと、事前の準備なして弾くことのリスクないしは困難について云々する資格は私にはありませんが、本当のことを言えばXI に関しては事前に準備した上で暗譜して弾くのが一番良い解決法という気がします。
そしていよいよX。殆ど全編を覆う凶暴なグリッサンドとクラスターとパルス。そして時々果てしない沈黙。人間の耳はどんな音にもいずれ慣れる、という意味で言うなら、私は初めてこれを聴いたとき、これは音の暴力だと感じて最後まで聞くのが辛かったのですが、すぐに慣れて、とうとうその響きを美しいと感じてしまうようになりました。こんな体験は他にはクセナキスの「ジョンシェ」(1977年)を聴いたときぐらいでしょうか。まぁ、斯く言う私だって高校生のころはシェーンベルクのOp11-3ですら音の暴力と感じていて、何度も聴くうちに堪らなく美しく感じられるようになった訳ですが・・・それはともかく、大井氏が上着を脱いだ時は、ああなんて締りのないカラダ、と別なところに注意力が行ってしまって萎えそうになりましたが、プロテクターを嵌めて弾き始めたらもうかっこよくてしびれました。いや、そんなことより大井氏の音質がこの音楽に本当によく合致しているのだと思いました。
順番は前後しますが、XVIII、なんというか、安っぽいミュージカル、あるいは暗黒舞踏かなんかの舞台音楽みたい、というのが正直な感想。とにかく私にはシュトックハウゼンの後半生の創作について云々できる知識が全く無いので、こんな印象だけでネガティヴなことは言いたくないのだが、ずっと居心地が悪くて難儀しました。これはアンコールの(その割には15分も掛かるけれど)「自然の持続時間」の終曲も同様。いずれにしても、生涯に亘る作品をいろいろ聴きたいと思うのですが、シュトックハウゼンのCDってなぜか馬鹿高いですね。いくらなんでもコスパ悪すぎだろうと思って買えません。それでもいつかは「光」を聴くことがあるかも知れませんから、ネタ元の「光」を聴かないうちはとりあえずXVIII の判断も保留しておきたいと思います。

このブログが大井氏の目にとまるかどうか判らないけれど、次回は会場のイビキや寝息が気にならないように是非ジョン・ケージ特集をお願いしたいものです。「易の音楽」は我々聴衆にとっても絶対に素通りしてはいけない音楽だと思いますので。白寿ホールのピアノはプリペアさせてくれなさそうだけど「易の音楽」ならその点も大丈夫だし(笑)。
by nekomatalistener | 2012-01-31 22:31 | 演奏会レビュー | Comments(2)

ストラヴィンスキー自作自演集WORKS OF STRAVINSKY (その12)

帰省の時のこと。近鉄特急の二人掛けシート後列の親子(5、6歳の息子と若パパ)の会話がよく聞こえる。

 パパ「じゃぁね~、上が「み」で下が「く」の赤ちゃんの食べ物は?」
 息子「え~っと・・・・・あ、わかった、離乳食!」
 パパ「え?「み」で始まんねんで」
 息子「み?・・・・ほな、みにゅうしょく」
 パパ「り、ちゃうがな、み、やがな」
 息子「離乳食ちゃうの?」
 パパ「あのなぁ、み、で始まんねん」
 息子「せやから、みにゅうしょくてゆうたのに」
 パパ「あんなぁ、み、や。み・・・・(怒)」
 息子「(消え入りそうな声で)み・・・にゅうしょく・・・」
 (以下、離乳食から離れられない息子とのバトルは延々と続くのであった)





この「ストラヴィンスキー自作自演集」シリーズ、「はよ終わって」と思ってらっしゃる方が多いことは重々承知しておりますw。折り返し地点を過ぎましたのでもうしばらくの御辛抱ですwww。
さて、このChamber Music & Historical Recordings vol.1 のタイトルの附いたこの一枚、前回同様落ち穂拾い的なごちゃまぜの選曲ですが、前回よりもさらに「取っつきにくい」あるいは「途方に暮れそう」と思う方がいらっしゃるかも知れませんね。ここに収められた小オーケストラの為の諸作品は、ストラヴィンスキーに対してそんなに親しみのない人々が近づくには大変高いハードルだろうなと、ストラヴィンスキー・フリークの私にも容易に想像がつきます。しかしながら、これらの作品はストラヴィンスキーの全体像を知るには決して避けて通れないものばかり、という気がしています。

  ①前奏曲(1936~37)[ジャズ・バンドのための] [1965.4.27録音]
  ②12楽器のためのコンチェルティーノ(1952) [1965.10.26録音] 
  ③管楽八重奏曲(1922~23/1923初演/1952改訂) [1961.1.5録音]
  ④11楽器のためのラグタイム(1918/1920初演) [1962.1.26録音]
  ⑤タンゴ(1941) [1965.4.27録音]
  ⑥七重奏曲(1952~53/1954初演) [1965.10.27録音]
  ⑦パストラール(1933) [1965.10.26録音]
  ⑧エボニー・コンチェルト(1945/1946初演)[cl,ジャズ・バンド] [1965.4.27録音]
  ⑨管楽器のサンフォニー(1920/1921初演/1947改訂) [1951年録音]

  ①⑤⑧コロンビア・ジャズ・アンサンブル
  ②③④⑥⑦コロンビア室内アンサンブル 
  ⑨北西ドイツ放送交響楽団
  ④トニ・コーヴズ(ツィンバロン) ⑦イズラエル・ベイカー(vn) ⑧ベニー・グッドマン(cl)

順不同で⑥の「七重奏曲」から行きましょう。Joseph N. Straus の”Stravinsky's Late Music”(Cambridge University Press) に引用されているロバート・クラフトの回想に拠れば、1952年2月24日ストラヴィンスキーは南カリフォルニア大学でシェーンベルクの「七重奏のための組曲Op.29」のクラフトによる演奏会とリハーサルを聴き、その後の3月8日、パームデイルからの帰路、突如「私にはもう作曲することが出来ない」と泣き崩れた、とあります。当時、戦後の若い世代から既に時代遅れと見做されていることを知っていた彼は、それからシェーンベルクやウェーベルン、クルシェネクらの十二音技法を学び始めるのですが、その正に1952年にシェーンベルクのOp.29と同じく「七重奏曲」を書いたという訳です。もっとも、こちらの七重奏曲は無調ないし十二音に依るものではなく、むしろこれまでの彼の創作活動の総決算といった趣があります。全編が緻密な対位法的書法で書かれており、特に第2楽章のパッサカリアと対位法の組合せはウェーベルンの「パッサカリアOp.1」と関係があるのかも知れません。ジーグと名附けられた第3楽章はまるで後期のベートーヴェンを思わせるようなトリルを含む主題によるフーガ、しかもそれは後半反行形で展開され、最後は壮大な二重フーガで終わります。更には、それらの主題と展開は十二音技法とは全く違うものの、明らかに(調性の枠内ではあるが)一種の音列技法、すなわち一連の幾つかの音の繋がりとその変形が全曲を支配するスタイルを取っており、それまでの作品の総括であると共に、その後彼の死に至るまでの創作活動の嚆矢としての側面も示しています。以前の私は、正直申し上げてこの作品をそれほど面白いとは思っておりませんでしたが、今回改めて聴きなおして、本当に後期のベートーヴェンを聴くのと同質の喜び、そして偉大な芸術作品を前にした時に感じる畏怖の念を感じました。何より凄いことは、それでいてどの一小節を取っても、ストラヴィンスキー以外の何物でもないということ、借り物を思わせる要素がまったくないところです

⑨「管楽器のサンフォニー」はストラヴィンスキーの作品の中でも、その響きの美しさ、豊潤さという点で極めて重要な作品であると思います。国内盤では「交響曲」という訳が多いようですが、単楽章であるにも関わらずSymphoniesと複数形になっているので、シンフォニーズもしくはフランス・バロックの伝統に倣ってサンフォニーとするのが妥当でしょう。一見奇矯とも見える音の選択から、一種独特のほの暗い「夜の音楽」が組み立てられており、ストラヴィンスキーの聴覚の驚異的な鋭敏さを痛感します。これがドビュッシーの追悼のために書かれたというのも納得がいくというもの。全く他に類似する音楽を私は知らないのですが、前例も頼るべき理論もなく、桁外れの耳の導くままに書きあげたのでしょう。残念ながらこのCDに収められた古い録音は、ドイツのオーケストラ(この北西ドイツ放送soというのは現在の北ドイツ放送NDRsoのこと)がこの音楽のイディオムに適応しきれていないと言わざるを得ないのですが、それも含めて「歴史的録音」というべきか。せっかくの企画なのに、アメリカのオーケストラで新しく録音してほしかったと思います。もっともこの作品は様々な指揮者の録音が出ており比較的入手しやすいので、是非とも一度お聴きになることをお薦めします。先ほど私は「夜の音楽」と書いたけれど、バルトークの「戸外にて」第4曲、ピアノ協奏曲第2番第2楽章、「弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽」等々の一連の「夜の音楽」と幾分感覚的に近いところがありますので、これらがお好きな方であればきっと気に入って頂けると思います。
因みにこの録音は1947年の改訂版ですが、私はどちらかと言えばより抒情的な1920年版のほうが好き。Boosey&Hawkesのスコアは両方載っていて大変興味深いものがあります。冒頭部分、1920年版は5/8拍子が2小節続いて3/4、4/4と続くのに対して1947年版は2/8と3/8の交替でフレーズがぶつぶつと切れる等、よりaridな表現に改められている他、1920年版の練習番号3の第3バスーンとチューバのfの音が2小節目ではfesとなって、より闇の深さが増すような感じがするのに対して、1947年版はf のままになっていたり、1920年版に比べて1947年版の方は全体にデュナーミクのコントラストがきつくなっている等、看過できない変更が幾つもあります。1996年のブーレーズ/ベルリン・フィル盤は1920年版の抒情を活かしきった名演。対するにロバート・クラフトの1966年の録音は1947年版に忠実なアーティキュレーションを貫いていて非常に立派な演奏。マニアックな聴き比べは止めておきますが、CDのデータやネット記事に記されている版はしばしば間違っているので余り信じないように(笑)。

20世紀初頭パリでジャズの影響を受けなかった音楽家はおそらく殆どいなかったでしょうから、ストラヴィンスキーの音楽に対するジャズの影響を過大に見積もる必要はないと思いますが、①の1937年にパリで書き始められ、アメリカへの演奏旅行中に仕上げられた「前奏曲」と、⑧の1946年ウディ・ハーマンの委嘱による「エボニー・コンチェルト」は「ジャズ風クラシック音楽」ではなくて最早「ストラヴィンスキー風ジャズ」というべき作品。私はジャズ音楽に対する体系的な知識が殆どないので、これらの作品がビッグバンドの演奏史においてどういった位置づけを持つのか判りませんが、編成も音楽的なイディオムにしても完全にジャズの様式となっています。作曲者の指揮も大したもので、そこはかとなく漂う気だるさ、ミュートを附けたトランペットのしどけない音色など、目を瞑って聴いていると映画か何かで観た雨に煙るニューオリンズの風景が瞼に浮かびます。これを聴いた後にブーレーズ指揮アンサンブル・アンテルコンタンポランの「エボニー・コンチェルト」の録音を聴くと、もう衝撃的なくらいつまらなくて笑ってしまう程。まぁこれはこれで、鋭角的でちっともスイングしない「ジャズ風クラシック」としては面白いのですが、自作自演(それとあのベニー・グッドマンのソロ)の、いやらしい位上手い演奏の前では形無しです。

②「コンチェルティーノ」は1920年に書かれた「弦楽四重奏のためのコンチェルティーノ」の編曲。③の「八重奏曲」と並んで1952年、すなわち「七重奏曲」と同じく「シェーンベルク・ショック」の年に改定されています。「八重奏曲」は第2楽章が変奏曲である点が「七重奏曲」と同じですが、原曲は1922~23年の作曲ですので作風としてはいわゆる「新古典主義」。1919年から1952年までのストラヴィンスキーの作風がほぼこの「コンチェルティーノ」と「八重奏曲」の2曲で決定づけられたと見ることが出来ます。その作風を要約して言うと、エソテリックなものとアポロニックなものとの対比と言えるかも知れません。それをなぜ1952年に改定したのか知る由もありませんが、それまでの総決算としての「七重奏曲」とそれ以降の方向を決定づけた「アゴン」の間に是非ともこの改定作業が必要であったようにも思われます。

④の「ラグタイム」は「きつね」(1915~1917年)と「兵士の物語」(1918年)の余勢を駆って出来た小品。例によって一筋縄ではいかない複雑なリズムが特徴ですが、スコアを見ると全曲4/4拍子で書かれていてびっくり。ツィンバロンを含む編成が何とも不思議かつ脳天気な味わい。

⑤の「タンゴ」は1940年のピアノ曲の編曲。1939年にアメリカに亡命したストラヴィンスキーにとって、憂愁に満ちたタンゴの旋律がどんなに心に沁みたか想像に難くありません。物憂く、しかもかっこいいタンゴ。原曲はミシェル・ベロフの録音があるが、こちらはあまりかっこよくない。

⑦の「パストラール」は1907年のロマンティックな歌曲の室内楽への編曲ですが、これをリムスキー・コルサコフあるいはボロディンの作品と言われたら信じてしまいそうです。このCDの中に置くと、青黴のチーズやウォッシュタイプのチーズを一杯載せた皿の上に、甘くて小さなシュークリームが一つだけぽつんと置かれているみたいでおかしい。私には毒にも薬にもならん作品ですが、まぁこの曲だけがまともで残りは全部ゲテモノという方がいても不思議ではない(笑)。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-01-29 00:36 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

新国立劇場公演 プッチーニ 「ラ・ボエーム」

電車の隣の席で小学3、4年くらいの女の子が子供向けの科学本を読んでいる。隣の父親に「ねえ、東京を出発してずーっと真っすぐ北に行ったらどこに行くと思う?」と訊くと、パパさん「・・・そんなのどこに行くか判らない」と返事。女の子「地球は丸いからまた東京に戻るって書いてるよ」パパ「書いた人が間違ってんだよ」・・・・(えーっ、それで終わり?お前DQNかよ・・・)それから2分後くらいにパパさんぼそっと「・・・地球は自転してんだから、北に行ってるつもりでも違うとこに行くんだよ」(おーっ確かに・・・DQNなんて思って済まん)さらに2分後くらいにパパ「ハッブル望遠鏡って知ってる?」女の子「知らない」パパ「それってさぁ・・・」以下、娘にハッブル望遠鏡の仕組みを解説。(えーっあんた何モン?すごいよ。娘さん、今はハッブル望遠鏡の仕組みは判らないだろうけど、いいお父さんで良かったねw)。




新国立劇場にプッチーニの「ラ・ボエーム」を観に行ってきました。

  2012年1月22日
  指揮:コンスタンティン・トリンクス
  演出:粟國淳
  ミミ:ヴェロニカ・カンジェミ
  ロドルフォ:ジミン・パク
  マルチェッロ:アリス・アルギリス
  ムゼッタ:アレクサンドラ・ルブチャンスキー
  ショナール:萩原潤
  コッリーネ:妻屋秀和
  ベノア:鹿野由之 
  アルチンドロ:晴雅彦
  東京交響楽団

通俗名曲の代名詞のような「ラ・ボエーム」ですが、やはりこの作品の魅力には抗えません。今回の舞台は優れた演出と、歌手やオーケストラの好演によって、素晴らしい出来栄えであったと思います。行く前から密かに恐れていたことですが、私はもう第1幕の「私の名はミミ」から涙腺がおかしくなってしまい、第2幕のムゼッタのワルツ、第3幕のマルチェッロに対するロドルフォの告白、終幕のミミの死まで、目が腫れてしまうのではないかというぐらい涙が止まりませんでした。まったくお恥ずかしい限りですが、これも一種の加齢現象と諦める他はありませんw。
プッチーニの音楽には、よくもここまで人の心の琴線を弄び鷲掴みにして引きずりまわすものよ、と驚かざるを得ません。涙腺を攻撃されたならこちらとしては徹底的にそのメチエを分析して報復してやると、普通ならば思うところですが、「ラ・ボエーム」に関しては(以前C.デイヴィスのCD紹介でも書いたとおり)もう無条件降伏するしかないと思っています。これも以前「外套」の紹介で書きましたが、プッチーニは私にとっては天才というよりは第一級の職人と言いたいところなのですが、優れた舞台を目の当たりにすると、やはり天才は天才であると頭を垂れるのみです。

ミミを歌ったヴェロニカ・カンジェミは初めて聴く歌手ですが、温かみのある声質とコントロールの行き届いたテクニックが素晴らしいと思いました。容姿も立ち姿も美しくて、彼女のミミを聴けて本当に良かったと思います。ロドルフォを歌ったジミン・パクは、第1幕は喉が暖まっていない感じで、ひたむきではあるが若干素人っぽさが伺えましたが、第3幕以降は別人のように素晴らしい歌を聴かせてくれました。特に第3幕のマルチェッロとの会話は、この有名なアリアに満ち溢れたオペラの中では地味な箇所ながら最高の聞かせどころだと思うのですが、実に感動的な歌唱でした。マルチェッロ役のアリス・アルギリスも良かった。だいたいどんな作品でも主人公の親友というのはおいしい役どころですが、マルチェッロは歌う箇所も多くて別格でしょうね。ムゼッタを歌ったアレクサンドラ・ルブチャンスキーにも満足。コロラトゥーラが歌える歌手のようですので、一度本格的な役で聴いてみたいと思いました。コッリーネを歌った妻屋秀和は立派な体躯と素晴らしい声で、いつも脇役でもったいないと思う方ですが、今回はちゃんと聴かせどころ(「古い外套よ」)もあって大満足。ショナールの萩原潤はこれらの脇役達の中ではちょっと見劣りしてしまいました。随分前に、鈴木雅明率いるバッハ・コレギウム・ジャパンの「マタイ受難曲」の大阪公演で、ピラトをまさに「渾身の力を込めて」と言わんばかりに歌っていたのを聴いてから、機会ある度に密かに応援している歌手なので、これからも精進を重ねてほしいと思います。
トリンクス指揮の東京交響楽団もまずは満足すべき出来栄えだったと思います。何ヶ所か、もう少し音量を抑えたほうが良いのでは、と思ったところもありましたが、鳴らないよりは良いのでこれでいいのでしょう。奇を衒ったところが一切なく、安心して身を任せることが出来る演奏でした。
粟國淳の演出は正攻法で音楽の邪魔をしないもの。第2幕のカルチェ・ラタンの場は、書き割を動かすたびに次々と街並みが姿を変え、まるで舞台の上の虚構から真実が生まれる現場に立ち会っているような感慨を覚えます。音楽の本質が自由というものにある以上、どのような読み換えによる演出であっても基本的には許されると思っているのですが、やはり定番オペラではこのような正攻法の演出で観るに如くはないと思いました。

さて、新国立劇場の2012/2013年シーズンのラインナップが発表されましたね。イタリアものが6作、ドイツものが2作、イギリスと日本が1作ずつ。邦人作品を別にすれば近現代ものとしてはブリテンの「ピーター・グライムズ」のみ。R.シュトラウスは無し。かつて「ヴォツェック」や「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の素晴らしい舞台を観た者としては、このラインナップは余りにも保守的過ぎるのでは、と一抹の寂しさを覚えます。一つは故若杉弘氏と尾高忠明氏の資質の差、もう一つは昨今の事業仕訳の影響で、一部の好事家向けの「高踏的な」作品が排除される傾向があるのでは、ということ。更には当節の原発騒ぎの影響で、昨年末のアグネス・バルツァのドタキャンのような事態が想定される以上、急なカバーに備えて一般的な作品に傾きがちになるのではないか、ということも考えられます。例えば今シーズンの「ルサルカ」のようなオペラでは急なカバーが必要となった際、大変困ることでしょう。しかし、これでは新国立劇場ではヤナーチェクもベルクも当面観ることが出来ないことになってしまいます。3.11以降の東京の実情を考えれば致し方のない事とは云え、もうちょっと何とかならんものか、という思いを禁じ得ませんでした。
by nekomatalistener | 2012-01-25 23:16 | 演奏会レビュー | Comments(2)

ストラヴィンスキー自作自演集WORKS OF STRAVINSKY (その11)

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CD11枚目はMiniature Masterpieces のタイトルが附けられています。私のような人間にとってはまさに宝石箱のような一枚。でもある種の人々にとってはせいぜいガラクタの一杯詰まったおもちゃ箱といったところでしょうか。二つのコンチェルト・グロッソを除けば殆どの作品が1~2分程度のミニチュアから出来ています。私もこれらの作品の短さにならって、今回はツイッター風に短くコメントしていきます。

  ①祝賀前奏曲(1955/1955初演) [1963.12.17録音]
  ②小管弦楽のための組曲第1番(1917~25/1926初演) [1963.3.29録音]
     1.アンダンテ 2.ナポリターナ 3.エスパニョーラ 4.バラライカ
  ③小管弦楽のための組曲第2番(1921/1922初演) [1963.3.30録音]
     1.マーチ 2.ワルツ 3.ポルカ 4.ギャロップ
  ④協奏曲変ホ調「ダンバートン・オークス」(1938/1938初演) [1964.3.29録音]
  ⑤ノルウェーの情緒-4つのエピソード(1942/1944初演) [1963.3.29録音]
     1.序曲 2.歌 3.婚礼の踊り 4.行列
  ⑥サーカス・ポルカ(1942/1944初演)〔サーカスの象のために〕 [1963.3.29録音]
  ⑦弦楽のための協奏曲ニ調「バーゼル協奏曲」(1946/1947初演) [1963.12.17録音]
  ⑧15人の奏者のための8つのミニチュア(1961~62/1962初演) [1962.4.29録音]
  ⑨管弦楽のための4つのエテュード(1929/1930初演) [1962.11.29-12.1録音]
     1.踊り 2.風変わりExcentrique 3.讃歌Cantique 4.マドリード
   
  ①④⑦コロンビアso  ②③⑤⑥⑧⑨CBCso

ピエール・モントゥーの80歳の誕生日のために書かれた「祝賀前奏曲(Greeting Prelude)」はあのHappy Birthday To You のメロディーに基く素敵な小品。凝った和声附けによってきらきらと光る鉱物の結晶のような響きがもたらされており、僅か1分に満たない作品にも関わらず作曲技法の粋を集めた、と言いたくなる出来栄えです。

次の二つの組曲はいずれも1914~1917年に書かれたピアノの為の「易しい小品」からの編曲。めっぽう楽しい作品ですが「子供っぽい」と言う勿れ、「マーチ」の不穏な響きなど、ストラヴィンスキーならではの和声感覚に満ち満ちています。アンコールピースとして委嘱されたのでしょうが、こういった作品で絶対に手を抜かないのが彼らしいところ。

「ダンバートン・オークス」は御存じバッハの「ブランデンブルグ協奏曲」第3番にインスパイアされたと思しい合奏協奏曲。このarid な知的構造物を面白いと思うかどうかが(3大バレエ以外の)ストラヴィンスキーを好きになるか嫌いになるかの分かれ目。因みにプーレーズが1980年代の始めに手兵アンサンブル・アンテルコンタンポランを振ったこの作品の演奏は乗りに乗った物凄いもの。ブーレーズの興味が那辺にあるのかが実によく判ります。そして私がストラヴィンスキーの音楽になぜこうも惹かれるのかも。それは敢えて挑発的に書くと、「音楽とは頭で聴くもの」というテーゼだろうと思います。

「ノルウェーの情緒」、海外サイトの情報によれば、ナチスのノルウェー侵攻を描いたハリウッド映画The Commandos Strike at Dawn の映画音楽として書いたものの、映画会社からの種々の要求に妥協出来ずにお流れになったとのこと。素材であるノルウェー民謡は、ストラヴィンスキーの妻が古書店で見つけた云々とあります。残念ながらこの作品は、絵葉書みたいというか、ノルウェー民謡による気の利いたコンサート・ピース以上でも以下でもない、という感じがします。

「サーカス・ポルカ」は楽しい小品。捻りまくったリズムと和声の中に、シューベルトの「軍隊行進曲」が出てくるのには大笑いします。それにしてもwikipediaに「バランシンの演出の下にマディソン・スクウェア・ガーデンで50頭の本物の象が踊った」とあるのは本当だろうか・・・?

「バーゼル協奏曲」は「ダンバートン・オークス」同様、一種のコンチェルト・グロッソというべき作品ですが、より骨ばった、素材がむき出しになったような作風。些か「手癖」で書いている感なきにしもあらずで、「ダンバートン」ほど好きになれません。第1楽章中程にマーラーの第5交響曲の有名な「アダージェット」の一節が聞こえるのは偶々なのか意図的なのか、スコアの前後の部分を詳細に調べてみないと何とも言えませんが、弦楽合奏ということで何らかの連想が働いたのかも知れません。

「8つのミニチュア」は1921年の「5本の指で」という子供用のピアノ曲の編曲。これが十二音技法にのめり込んでいた最晩年に書かれているというところに興味をそそられます。簡素で洗練の極みを行くオーケストレーション、単純な民謡風の旋律に附けられた選び抜かれた和声、それはラヴェルと同様、ストラヴィンスキーの驚異的な「耳の良さ」が生んだ傑作だと思います。敢えてこれに似ている作品を挙げるならば、ルチアーノ・べリオがキャシー・バーベリアンの為に1964年に書いた「フォーク・ソングズ」。この自作自演集の歌曲編に登場するキャシーが夫であるベリオに「ねぇダーリン、あなたもこんな作品を書いて」って言ったとしたら・・・(笑)いや、実にあり得る話です。大半が1分にも満たない小品ばかりですが、第7曲など美しすぎてなぜか淋しくなってしまう程。

「4つのエチュード」は1914年の「弦楽四重奏のための3つの小品」及び1917年の「ピアノラ(自動ピアノ)のための習作」の編曲。ブーレーズのお気に入りなのか、彼は何度もレコーディングしていますね。確かにディアトニックな書法にも関わらず、随分と急進的な感じがします。第3曲のCantique、作曲者指揮のCBC交響楽団の禍々しい響きも魅力的ですが、ブーレーズの振る透徹した響きで聴くと、不協和な響きの美しさに参ってしまいます。本当に作曲家も演奏家も耳が命だと今更ながら思った次第。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-01-17 23:11 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ストラヴィンスキー自作自演集WORKS OF STRAVINSKY (その10)

普段は会釈程度の顔見知りの人が、猫を飼っていることが判って急にお近づきに。
 私「どんな猫飼ってはるんですか?」
 彼「シベリアンハスキーです」
 私「・・・・・・ロシアンブルーですね?」
 彼「あ、はいっ!」
たまたま私の飼ってるのもロシアンなのですぐに判ったけど(笑)。ちなみにこのブログの右上の写真の子です。




CD10枚目はそれぞれ異なる作風の協奏曲仕立ての作品集。

  ピアノと管楽器のための協奏曲(1923~24/1924初演/1950改訂) [1964.5.13録音]
      フィリップ・アントルモン(Pf) コロンビア交響楽団
  ムーヴメンツ(1958~59/1960初演) [1961.2.12録音]
      チャールズ・ローゼン(Pf) コロンビア交響楽団
  ピアノと管弦楽のためのカプリッチョ(1928~29/1929初演/1949改訂) [1966.1.3録音]
      フィリップ・アントルモン(Pf) ロバート・クラフト指揮コロンビア交響楽団
  ヴァイオリン協奏曲ニ長調(1931/1931放送初演) [1960.6.29-30録音]
      アイザック・スターン(vn) コロンビア交響楽団


「ピアノと管楽器のための協奏曲」は私の大好きな作品ですが、今までちょっとした勘違いをしておりました。てっきりこの作品、バルトークのピアノ協奏曲第2番へのオマージュだろうと思っていたら、ストラヴィンスキーが1923~1924年の作曲、バルトークは1930~1931年の作曲。そうなるとバルトークの2番こそストラヴィンスキーへのオマージュに聞こえてきます。これは決して私の思い込みではないと信じたい。バルトークがドビュッシーと並んで、如何にストラヴィンスキーの音楽を敬愛に満ちて受容していたかは、「中国の不思議な役人」と「火の鳥」あるいは「夜うぐいす」との類似、あるいは「弦楽四重奏曲第3番」と「兵士の物語」の中の「パストラル」の類似など、具体的に例示することが出来ます。いずれにしてもバルトークがそのアイデアを流用した管楽器だけのオーケストラと、打楽器的ともいえる独特のピアニズムは、ピアノ協奏曲の歴史に本当に新しいものをもたらしたと言ってよいと思います。それなのに何という人気の無さ!せめてバルトークの半分なりと演奏機会があれば、と思わざるを得ません。冒頭の、ただならぬ悲劇性を感じさせる管楽器の葬送行進曲めいた部分、頻出する短2度のぶつかり合いがなんとも美しく胸を締め付けられます。ピアノが登場すると一転してマッシヴな和音による激しい楽想が続きます。それまでのロマン派的なピアニズムとは完全に隔絶しており、これと比べればプロコフィエフの協奏曲など何とも保守的に思えるほど。分厚い和音の連打で始まる第2楽章もちょっと比較するものが思いつかない。アントルモンの独奏は非常に立派で、曲を知るという意味では充分ですが、欲を言えばもう少し技巧的な余裕があれば、というところ。彼のもつ技巧ではもう一杯一杯という感じがしなくもない。もし1970年代のポリーニぐらいの腕のあるピアニストが目の前で弾いてくれたら多分私、失神どころか失禁してしまうと思います(笑)。

ピアノとオーケストラのための「ムーヴメンツ」はストラヴィンスキーの十二音技法による作品の中でも最も急進的な部類です。1953年から書き始めた「アゴン」がウェーベルンのお手本をなぞるように書かれているとすれば、こちらは早くもトータル・セリエリズム風の書式が随所に見られます(特に両端楽章)。70歳を超えて世間より遅く十二音技法を取り入れたストラヴィンスキーですが、あっという間に時代に追いついてしまった感じがします。この両端楽章は、明らかにストラヴィンスキーが1952年のブーレーズの「2台のピアノのためのストルクチュール」、あるいは同じく1952年のシュトックハウゼンの初期のピアノ曲あたりを知っていた証であると思います。この頃のブーレーズやシュトックハウゼンの作品に共通するのは、コンセプトが如何に新しいものであろうと、超絶技巧に対する顕著な偏愛であろうと思います(その後シュトックハウゼンはこの路線を捨ててしまいますが)。「ムーヴメンツ」に見られる、夜空に煌めくような装飾音に満ちたピアノ・パートにもこれら先行作品を聴いた際に得られるのと同種の感覚を覚えます。然しながらこの後ストラヴィンスキーはこの路線(トータル・セリエリズム)を追求せず、エルンスト・クルシェネックやミルトン・バビットらの影響を受けながら、最晩年に掛けて独自の作風を確立していきます。その意味ではこの「ムーヴメンツ」はストラヴィンスキーの作品の中でもあまり類例のない作品です。ピアノを弾いているチャールズ・ローゼンはブーレーズのウェーベルン全集の旧盤のピアノ作品を弾いていた現代音楽のスペシャリスト。ちなみにブックレットには次のカプリッチョがロバート・クラフト指揮と書かれていますが、この「ムーヴメンツ」の指揮のほうじゃないのかな、根拠はないけれど。

その「カプリッチョ」ですが、ここに見られるピアノの書法はこのCDの中では最も伝統的。サンサーンスのピアノ協奏曲のソロを「ピアニスティック」と呼ぶとすればこちらもピアニスティックと言えるかも知れませんが、目新しさはあまり感じられません。これならアンドレ・プレヴィンとプロコフィエフの協奏曲を録音した頃のアシュケナージでも弾けそう(笑)。目まぐるしく変化する楽想はまさにカプリッチョというところですが、音楽としての斬新さはあまり感じられません。しばしば見受けられる「手癖で書いた音楽」の一つのような気がします。

「ヴァイオリン協奏曲」はトッカータ、アリアⅠ、アリアⅡ、カプリッチョの4楽章構成。この構成を見ても判る通り、古典的な協奏曲とは違う、ディヴェルティメント風のめっぽう楽しい作品。但し、ただ楽しいだけではなくて前回の投稿でもちょっと書いた通り、第2楽章は全体がシェーンベルクの弦楽四重奏曲第1番の悪意に満ちたパロディになっていますが、私の知る限りwikipediaなどのネット情報では誰も言及していないので若干不安になります。シェーンベルクの冒頭の譜例を掲げておきますので、ご確認いただければと思います。
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ついでに言えば、第3楽章の冒頭のヴァイオリンの和音は「トリスタンとイゾルデ」第2幕冒頭の引用かと思われますし、終楽章はバッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番を連想させます。以前このシリーズの「カルタ遊び」でも書きましたが、おそらくこの手の作品には古今の様々な作品のオマージュやらパロディが隠されているような気がしてなりませんが、私の知識が乏しいせいで、具体的にこれ、と指し示すことが出来ないのがとてももどかしい思いがします。アイザック・スターンのソロはなかなか名演だと思いますね。曲想からすればひたすら楽しいレヴァイン&パールマンの演奏もなかなか良かったと記憶していますが、このスターンの演奏はこの作品の意外に複雑な性格をよく表現し得ていると思いました。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-01-10 22:38 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)