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ストラヴィンスキー自作自演集WORKS OF STRAVINSKY (その9)

前から顔面めがけてゴキブリが飛んできた時と、後ろから後頭部めがけてカマキリが飛んできた時はアドレナリンの出過ぎで死ぬかと思った。




CD9枚目は大変な力作3点。

  3楽章の交響曲(1945/1946初演) [1961.2.1録音]
    コロンビア交響楽団
  交響曲ハ調(1940/1940初演) [1962.12.2-3録音]
    CBC交響楽団
  詩篇交響曲(1930/1930初演/1948改訂/1960初演) [1963.3.30録音]
    CBC交響楽団、Festival Singers of Tronto


どうも、こう毎回ストラヴィンスキーの指揮を褒めちぎっていると、これはいわゆる贔屓の引き倒しという奴で、このCDの素晴らしさを世間に訴えたい余りに、ちょっと眼が曇っているのではないか、もう少し冷静に長所だけでなく欠点も指摘すべきではないかと少々不安になりました。では一度、一流どころの演奏との聴き比べをしてみようと思い、かなり時間を掛けてじっくりと他の演奏も聴いてみました。
「3楽章の交響曲」は1945年の作、凡人であればそろそろ老境に差し掛かる年代に作曲されたにも拘わらず、生気漲る入魂の作です。5年ほど前に書かれた「交響曲ハ調」の第4楽章、フガートの前に一瞬現れる動機の萌芽を発展させた第1楽章に始まり、急緩急の伝統的な楽章配置ながら、いつもながらのシニフィアンの連鎖といった様相(詳しく分析すればなんらかの形式に依っているのかも知れませんが)の音楽。「オルフェウス」や「アゴン」の紹介の際にも述べましたが、私はこういった作品を聴くとつい、70年代以降のサスペンス映画の音楽を連想します。現代的で、ある種実用的というのか、晦渋なところが一つもないのに洗練の極みを行くような作風は、これといった後継者もいない代わりに、現代のあらゆる音楽にその水脈が流れていることを感じさせます。因みにwikipediaには第二次世界大戦の映画を見てインスピレーションを得たなどと書いてありますが、あまり額面通りに受け取らない方がいいと思います。ストラヴィンスキーがそう言っていたとしても、それは自己韜晦の一種のような気がします。
聴き比べの対象はピエール・ブーレーズがベルリン・フィルを振った演奏(1996年2月録音)と、ミヒャエル・ギーレンが南西ドイツ放送交響楽団を振ったもの(2003.3.25-26録音)です。まずは各楽章の演奏時間を比べてみると、自作自演はそれぞれ9:27、5:59、6:00、ブーレーズは9:56、6:37、6:06、ギーレンは10:33、6:27、6:13となっています。第3楽章は余白の取り方の違いもあるのでほぼ誤差の範囲内だと思いますが、第1楽章はブーレーズは自作自演よりほぼ30秒長くギーレンは1分あまりも長い時間を掛けています。たかだか10分ほどの曲で1分の差は相当のものと思われます。第2楽章もブーレーズとギーレンは30秒乃至40秒近くも違います。実際に聴いてみると、自作自演盤は実に明快、颯爽としたテンポでドライなのに無味乾燥なところは一つもなく、時折ひんやりとした抒情が心に沁みる。金管や打楽器は幾分オンに録られていて、エッジの立った音像が何とも快感です。無調ではないものの近代以前の調性感とは全く異なる作風ですが、これなら多くの聴き手が抵抗感を感じず聴くことができるのではないか。それは一つには変リズムの扱いが完全に手の内に入っているため、下手をすればぎくしゃくしたものになりがちなフレーズが肉体の運動を感じさせる、人間の生理に則したものとなっている所為ではないかと思います。交響曲を書く、という気負いが幾分感じられるものの、基本的には彼が得意としたバレエ音楽とそんなに異なるものではなく、こういったアプローチは自作自演という以上にオーセンティックなものに思われます。ブーレーズは、演奏時間だけ見ると第1楽章は自作自演とギーレンの中間、第2楽章はギーレンより10秒ほど長いだけですが、聴いた感じは3種類の演奏の中で最も鈍重な感じがします。ブーレーズに関してよく言われる「分析的」という形容は、一つ間違うと音楽の推進力を弱める方向に向かうのではないか。「分析的な」音楽表現、というのもよく判りませんが、思うに横の流れについてはフレーズの一つ一つを矯めつ眇めつ、縦方向には響きの一つ一つに淫するような姿勢が確かに感じられます。ベルリン・フィルのメロウなサウンドと、金管や打楽器が心持オフに録られた録音が、鈍重感に拍車を掛けているように思いますが、当然録音のスタイルも含めて指揮者が最終的に責任を負うものでしょう。ブーレーズのストラヴィンスキーについては、様々な作品の録音を、学生時代から今に至るまで随分いろいろ聴いてきましたが、自作自演盤を聴いた後では、本当に世間で言われているほどストラヴィンスキーの音楽と親和性がある演奏スタイルなのかどうか、正直判らなくなっています。そういえば1995年の「ブーレーズ・フェスティヴァル」で来日した時だったと記憶していますが、サントリーホールで演った「春の祭典」も妙に垢抜けないものだったように思います(当時関西に住んでいた私は、無理やり東京での出張を作って聴きに行ったものです)。同じ演奏会で彼が振ったメシアンの「クロノクロミー」は言葉も出ないほどの鮮烈な演奏で、細部に至るまで鮮明に記憶していますが、休憩後の「春の祭典」はところどころ忘却の彼方に沈んでしまっています。こんなことも、自作自演を聴いてから改めて気付いたことの一つです。ギーレン盤の第1楽章は一番時間が長い割には鈍重さは感じません。自作自演がスポーツカーならこちらは大型トラック、演奏の重量感と演奏時間がマッチしているせいでしょう。エッジの効いた音像は自作自演に近いですが、時代が新しい分、分離がよくブラスと重ねられたピアノも抜けがよく聞こえてきます。但し第2楽章は幾分胃にもたれそうなところも・・・。変リズムの処理はぎくしゃく感を排除しない、いかにもドイツ現代音楽の作曲家と思わせるもので、これと比べると自作自演はいささかエンターテイメントに寄り過ぎているような感じがしてきます。換言すると、自作自演はそのままバレエ音楽として踊れそうなのに対して、ギーレン盤はあくまでも耳で聴くための音楽といったところ。結論というほどのものではないですが、やはりストラヴィンスキーの演奏は大したもの、耳の愉しみとして聴くならこれ以上の演奏は考えられないほどです。で、たまにちょっと神妙な顔をして「現代音楽」を聴きたくなる夜はギーレン盤を。ブーレーズ盤はかつて私にとってはスタンダードと言うべき存在でしたが、今はちょっと距離を置きたくなっています。

「交響曲ハ調」は楽章の構成だけ見ると緩いソナタ形式が伺える第1楽章、歌謡的な緩徐楽章(第2楽章)、アレグレットのスケルツォ(第3楽章)、ラルゴの序奏つきのアラ・ブレーヴェ(第4楽章)と極めて古典的。プロコフィエフの「古典交響曲」が念頭にあったのかも知れません。両端楽章は箍(たが)が外れたベートーヴェンといった趣ですが、ここに聴かれるのはベートーヴェンのパロディというよりは、ベートーヴェンに代表されるようないわゆる動機労作(Thematisch-motivische Arbeit)の手法そのものに対するパロディであると思います。しかも、「ヴァイオリン協奏曲」に出てくるシェーンベルクの弦楽四重奏曲第1番のパロディを聴いた時に感じるかすかな悪意のようなものが、ここでも感じられます。もちろん基本的な構成原理は例のシニフィアンの連鎖構造に依っており、つくづくストラヴィンスキーという人はドイツ的、弁証法的構成原理とは折り合いの悪い人であると思います。そんな訳で、この作品は、確かに交響曲というタイトルに相応しい力作ではあるけれども、どこか手癖で書き進めているような部分もあり、評価が難しいところです。第4楽章の中盤のフガート、フーガを書くということは数百年来の伝統に繋がろうとすることですから気合いが入って当然ですが、この出だしの「気合い」のフレーズが後の「3楽章の交響曲」の萌芽となっているのが面白いと思います。かと思えば、この楽章の終盤は1920年の「管楽器のためのサンフォニー」の終わりの部分の回想になっていたり、と自己引用の網目も興味深いところ。因みにwikipediaによれば作曲当時アメリカへの移住、娘・妻・母を立て続けに亡くした云々とありますが、そういった背景を微塵も感じさせないのもストラヴィンスキーらしいと思います。
聴き比べはギーレン+南西ドイツ放送交響楽団との録音(2006.5.2-4)。楽章ごとの時間は自作自演が9:24、5:43、4:36、7:22なのに対して、10:42、7:45、5:15、7:38とかなり遅め。第2楽章は実に2分も違います。ドライな自作自演に対して重量級のギーレン。演奏の本質とテンポがぴったりと合致しているので、前者がせかせかしている訳でもなく、後者が殊更遅く感じられるということもありません。録音も、前者は各楽器を分離よくフィーチャーしているのに対して、後者はホールトーン豊かな響きを再現しています。特に第2楽章の木管のカンティレーナはとても美しい。概して自作自演盤はサービス精神というのかエンタメ性というのか、まるでディヴェルティメントを聴いているような気がするのに対して、ギーレン盤はいかにも現代の音楽と聞こえるところが面白く、この勝負どちらも名演ということで引き分け。

「詩篇交響曲」をこのブログを書くために何度も聴いて、改めてこの作品の偉大さ、真価というものを感じています。ストラヴィンスキーが一連の宗教的な作品を書くようになるのはもう少し後のことですので、1930年に委嘱によるとはいえ、どういった理由でこの作品を書いたのか私は知りません。またストラヴィンスキーという人がどの程度宗教というものに対して敬虔な人物であったかも判りません。しかし、ここに聴く、特に第2楽章の真摯な祈りは古今の宗教作品の中でも一際高く聳え立つ最高峰の一つであろうと思います。この楽章を聴きながら、未曾有の困難に満ちたこの一年を振り返り、この年末に偶々この作品をこうして聴くことになったのも故なきことではないような気がしています。
余談ですが、第2楽章のテキストは詩篇40の第1節から第3節、

 Expectans expectavi Dominum, et intendit mihi.
 Et exaudivit preces meas; et eduxit me de lacu miseriae, et de luto fæcis.
 Et statuit super petram pedes meos: et direxit gressus meos.
 Et immisit in os meum canticum novum, carmen Deo nostro.
 Videbunt multi, videbunt et timebunt: et sperabunt in Domino.

 我たへしのびてヱホバを俟望みたり ヱホバ我にむかひてわが號呼をききたまへり
 また我をほろびの阱(おとしあな)より泥のなかよりとりいだしてわが足を磐のうへにおき
 わが歩をかたくしたまへり
 ヱホバはあたらしき歌をわが口にいれたまへり此はわれらの神にささぐる讃美なり
 おほくの人はこれを見ておそれ かつヱホバによりたのまん

をテキストとしていますが、wikipediaやいくつかのCDのブックレットに詩篇39の第2~4節と書いてあり、そういう版もあるのかどうか、御存じの方がおられましたらご教示願いたいと思います。こちらは「われ默して啞となり善言すらことばにいださず わが憂なほおこれり。わが心わがうちに熱し おもひつづくるほどに火もえぬればわれ舌をもていへらく。ヱホバよ願くはわが終とわが日の數のいくばくなるとを知しめたまへ わが無常をしらしめたまへ」という内容で、曲の雰囲気からすればこちらのほうが相応しいようにも思えます。因みに第1楽章は詩篇39第12-13節ですが、こちらを第38篇と書いてあるデータもあり、随分混乱しております。wikipediaを信用してはいけない、とは申しませんが、誰かが間違うと延々とそれが転記されていく、なんてことでなければ良いのですが。
聴き比べの対象はブーレーズのベルリン・フィル盤(合唱はベルリン放送合唱団、1996年2月録音)と、ギーレン&南西ドイツ放送交響楽団(合唱はケルン放送合唱団、2005.12.7-8録音)。曲が曲だけにいずれ劣らぬ気合いの入った演奏です。各章ごとの時間は、自作自演3:23、6:17、11:56、ブーレーズは3:12、6:08、10:50、ギーレン3:15、7:08、12:36となっており、第1楽章はほぼ誤差の範囲内ですが、2楽章はブーレーズが幾分早め、ギーレンはかなり遅め。第3楽章はブーレーズは自作自演より1分近く早く、ギーレンは相当遅いテンポとなっています。合唱団は自作自演盤はいかにも臨時編成といった名称の合唱団で、決して上手くはないですが、一種熱に浮かされたように高揚した、ただならぬ気配が感じられます。ストラヴィンスキーは各パートの入りに軽いアタックを付けさせているので、特に終楽章など音程が若干歪む箇所もあるけれど、ひたむきさは良く伝わってきます。そのために第2楽章は聴き手も冷静ではいられなくなるほど。今までこのシリーズで紹介してきた演奏は、本当に自作を客観的に捉え得る者のみに可能な、サービス精神に溢れた演奏が多かったのですが、この第2楽章(及び後日登場する幾つかの晩年の作品)については、ストラヴィンスキーのペシミズムのようなものが伺われます。もちろんそれは続く第3楽章の、安息とも諦念とも受け取れる静けさのなかに溶けていくのですが。ブーレーズはこれまた極限まで磨き上げたような美しさ、ベルリン・フィルもさることながら、ベルリン放送合唱団の巧さはさすがですが、これを自作自演盤と比べると巧さが必ずしも音楽的感動に直結しないところが音楽の難しいところです。音楽が爆発するところは十分に熱くもなるのですが、全体としては紗の向こう側で執り行われている儀式を眺めているようなもどかしさを感じます。ギーレンは例によって重量級の楷書の演奏、現代ものに強いケルン放送合唱団も巧いのですが、これも第2楽章は音楽的感動とは別の、特殊な編成やフーガによる書法への作曲家としての興味が先行している感なきにしもあらず。第3楽章は緩急の差が激しく、後半は少し胃にもたれる感じです。私はこの聴き比べで、自作自演必ずしも正解とは限らないよなぁ、と思いながら他の演奏を聴こうとした訳ですが、この自演盤「詩篇交響曲」の感動は圧倒的でした。残念ながら本作についてはブーレーズもギーレンも勝負にならないというか、上手い下手を超越した表現というものが確かに存在すると思い知りました。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-12-27 21:26 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

大井浩明 Portraits of Composers 韓国現代ピアノ作品を集めて

よくある「俺、芸能人の誰それ見たぜ!」的な自慢話。その誰それが長澤まさみだったり武井咲だったりするとちょっとうらやましくて、おもわず「俺かて昔御堂筋線の車内で池乃めだか見たもん」とか張り合ってしまう。しかも「芸能人オーラ出てたよ、一応」とか注釈までしてしまう。




今年の演奏会は先日の「こうもり」で終わりにしようと思っていましたが、ついつい三連休の初日、大井浩明氏のピアノ・リサイタルに出かけてしまいました。結果は「行って良かった」。

 2011年12月23日(金)白寿ホール
 韓国現代ピアノ作品を集めて
  尹伊桑(ユン・イサン、1917-1995)
     5つの小品(1958)
     小陰陽(1966)
     間奏曲A(1982)
  朴琶案泳姫(パク・パアン・ヨンヒ、1945-)
     波紋(1971)
     のどの渇き(2008)
  陳銀淑(チン・ウンスク、1961-)
     ピアノのためのエチュード集(1994-2003)
      Ⅰ.インC(初版+改訂版)
      Ⅱ.連鎖(初版+改訂版)
      Ⅲ.自由なスケルツォ(初版+改訂版)
      Ⅳ.音階(初版+改訂版)
      Ⅴ.トッカータ~大井浩明のために
      Ⅵ.粒子~P.ブーレーズのために
  (休憩)
  姜碩熙(カン・ソッキ、1934-)
     ピアノ・スケッチ(1968)
     アペックス(1972)
     インヴェンツィオ~ピアノと電子音響のための(1984)
     ソナタ・バッハ(1986)
  アンコール:姜碩熙"Get Back"(ビートルズの編曲)
  大井浩明(ピアノ)、有馬純寿(エレクトロニクス)

このリサイタル、Portraits of Composers 2011というシリーズの4回目なのですが、1回目(クセナキス特集)は仕事で行けず、2回目(リゲティ特集)は新国立のサロメと被ってしまい、ダブルヘッダーで行こうかなと思ってましたが、サロメがとても良かったので結局行く気にならず、3回目(ブーレーズ特集)は当日階段を踏み外して軽い捻挫になり、大事を取って行かず。という訳でようやく4回目にして聴くことができました(因みに5回目は来年のシュトックハウゼン特集)。
大井浩明氏の演奏については、アルトゥール・タマヨ指揮のクセナキス管弦楽作品集の中の「エリフソン」と「シナファイ」の、目も眩むような圧倒的な演奏に接して、是非リサイタルを聴いてみたいと思っていましたが、昨年7月の「新ウィーン楽派ピアノ曲集成」と銘打ったリサイタル(2010.7.31於 公園通りクラシックス)は全く感心しない演奏でした。思うに、シェーンベルクやウェーベルンの音楽に対して、大戦後の音楽ほどには大井氏がシンパシーを感じていないこと、それに会場が渋谷の教会の下の、ライブハウスに毛の生えたような場所で、ピアノのコンディションも悪かったのかも知れません。という訳で、期待と恐れが半々のまま、しかも馴染みのない作品ばかりで迷いながら聴きに出かけたような次第ですが、今回は響きのよいホールと状態のよいスタインウェイにも恵まれ、氏の使命感にも似た凄まじい気迫を感じる演奏でした。正味ほぼ3時間に及ぶ長丁場、聴く側の疲労もちょっとやそっとではありませんが、物凄く充実した時間を過ごせたように思います。
個々の作品について詳しく論じるだけの知識は私にはありません。そちらは大井氏のブログ
http://ooipiano.exblog.jp/にお任せするとして、ちょっと思いついた事を備忘代わりに書き留めておきます。
今回とりあげられた4人の作曲家の内、唯一音楽と人となりについて多少は知っていた尹伊桑ですが、ピアノ曲を聴くのは初めて。十二音技法に拠ると思しい「5つの小品」はいかにもドイツ留学中の習作という感じで、正直よく判らないままに終わりました。「小陰陽」もピンと来ず。「間奏曲A」は後年の無調的ながら基底音のある音楽の作りですが、やはり良く判らない。思うに尹伊桑の真骨頂はやはり管や弦によるグリッサンドや微分音による表現にあるのであって、ポルタメントも微分音も不可能なピアノでは彼の本来の音楽というものは表現できないのでしょう。先日北朝鮮の金正日が死んだばかりでもあり、かつて留学先のドイツから北のスパイの疑いでKCIAの手によって朴政権下の韓国に拉致され、終身刑の判決を受けた尹伊桑の作品に期待するところ大でしたが、結果としてはピアノという楽器の制約を痛感させられた次第です。もっとも演奏そのものは大変な熱演でしたが。ちょっと脱線しますが、尹伊桑の拉致事件と、その時のドイツや日本の反応の一部始終については、一面的な見方であることは已むを得ないとしても尹自身とルイーゼ・リンザーの対話『傷ついた龍』(伊藤成彦訳、未来社)に詳しいので、興味を持たれた方にお薦めしておきます。
朴琶案泳姫の2作品、ピアノの内部奏法を含む表出力の強い作品ですが、興味を惹かれたとまでは行かず。
陳銀淑のエチュード集は、師事していたというリゲティのエチュードを思い起こさせるような、聴きやすく華やかな技巧が聴き手を楽しませる佳作。90年代には想像だにしてませんでしたが、今やリゲティのエチュードは先日来日したユジャ・ワンも取り上げるほどの人気作。今時ではちょっと現代モノに興味のある音大生にとっては必修科目でしょうし、PTNAなどのアマチュア・コンクールに登場するのもそう遠くないものと思われますが、今回聴いた陳銀淑のエチュードも、きっとリゲティにも飽きた腕自慢たちがそのうち取り上げるようになるのではないか、と思いました。今回の演奏では最初の4曲を、初版と改訂版続けて弾いてくれたおかげで、こちらの頭にすっと入ってきました。しかしながら、このような耳によく馴染む作品、プロ・アマ問わず、いわゆる爆演志向の強い腕自慢たちが今後競って取り上げそうな作品というのは、「現代の音楽」という意味では本当のところどうなんだろう?前後に弾かれた作品群とくらべて、ちょっと聴きには断然面白いのですが、そこにはとんでもなく深い断絶があるような気がします。韓国の文化事情についても良く判りませんが、日本で言うなら、演歌しか受け付けない世代と私なんかのもう少し下の世代、物心ついた時にはサザンやB'zが既にいた世代の間くらいの断絶じゃなかろうか、と。大体リゲティのエチュードですら、60年代の前衛的な傑作群を知る者からすれば退嬰以外の何物でもない、と思っている世代は多いはずです。さて、そうは言いながらこのエチュード、私の予言のとおり今後ポピュラリティを獲得できるかどうか、楽しみではあります。
姜碩熙はそういった意味では明らかに旧世代の人。作曲者御本人がご臨席されておられましたが、言葉は悪いですが中小企業のおやっさん、って感じの方でした。「アペックス」は中ほどまではシュトックハウゼンの幾つかの作品を思わせるような激しい表現に満ちていて、肘まで使ったクラスター奏法などに圧倒されましたが、終盤は殆ど単音かせいぜい3つまでの音の和音がポツンポツンと果てしなく鳴るだけになります。この「果てしなさ」というのは本当に気も遠くなるほどで、この妥協(聴き手と音楽産業に携わる人々への妥協)の無さに匹敵するのはモートン・フェルドマンの作品くらいなものではないでしょうか。演奏後の大井氏のトークで、出版譜にはもうすこし早いテンポが指定されているが、来日中の姜碩熙が「より東洋的に」と遅いテンポを要求したとのこと。力作には違いありません。その他は、まあこの世代の精一杯のはじけっぷり、という感想を持ちましたが、「インヴェンツィオ」におけるライヴ・エレクトロニクスの使い方など早くも古色蒼然という感じがして、音楽の世界における世代交代の早さ、進歩だかどうかは判りませんが変化の速さというものをつくづく感じさせられます。この「インヴェンツィオ」と「ソナタ・バッハ」の共通項は、いかにも80年代の作品らしく、調性が感じられるところ(古典的な意味における調性とはもちろん違いますが)。しかしながら、こういった作品はやはり古びるのが早いような気がしてなりません。私には前衛そのものといった1972年の「アペックス」のほうが、より研ぎ澄まされた内実を持つ音楽に聞こえました。アンコールにビートルズ・ナンバーの編曲。これパーティーか何かの席上で弾いたらきっと拍手喝采でしょうね。旧世代、頑張ってるなぁと思いました(笑)。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2011-12-25 00:33 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ストラヴィンスキー自作自演集WORKS OF STRAVINSKY (その8)

時節柄、略礼服が大活躍なのだが、先日職場の若い衆の結婚式に招かれた際、額の汗を拭うためにハンカチを取り出そうとサイド・ポケット(ダブルの礼服は尻ポケットにハンカチを入れると出し辛いのでサイドに入れてる)から、若干の違和感を感じつつ数珠を取り出して御列席の皆様に御開陳。



CD8枚目はストラヴィンスキー20代半ばの交響曲変ホ長調Op1と、ストラヴィンスキーの肉声入りのリハーサル風景との組合せ。
  交響曲第1番変ホ長調Op.1(1905~07/1907初演/1908公開初演/1913改訂)
    コロンビア交響楽団 [1966.5.2録音]
  リハーサル風景(ミューズを率いるアポロ) [1964.12]
    同上     (青い鳥のパ・ド・ドゥ) [1963.12]
    同上     (わが幼き頃の思い出) [1964.12]
    同上     (プルチネルラ) [1965.8.]
    同上     (ピアノ協奏曲) [1964.5]
    同上     (ハ調の交響曲) [1962.12]
  ストラヴィンスキー自身を語る [1965]

最近のWikipediaの項目の充実ぶりには目を見張るものがありますが、本作も「交響曲変ホ長調 ストラヴィンスキー」で検索するとちゃんと独立した項目として出てきます。作曲の経緯や音楽的な特徴も含め懇切丁寧に書かれているので、ほとんど付け加えることもありません。ストラヴィンスキーがこれを習作扱いせず、自作の作品リストにOp1として挙げ、こうやって録音もしているのはそれだけ愛着があった、ということでしょうが、正直なところ後のストラヴィンスキーの姿は殆ど伺えません。Wikipediaにはグラズノフの影響などと書かれていますが、グラズノフの交響曲そのものをよく知りませんので、なんとも・・・。第1楽章は模範的と言ってもよいソナタ形式で書かれています。附点付きの分散和音による第1主題となだらかな下降音形による第2主題の対比も教科書的。第2主題は第4楽章に引用されている民謡「チーチェル・ヤーチェル」と関連がありますが、だからどうした、という程度。痛切な内的衝動による引用とは言い難いと思います。第2楽章は少し後のストラヴィンスキーが繰返し展開するスケルツォの原型ですが、この楽章だけ見るとメンデルスゾーンあたりがやり尽した手法に則って、特段新しい事をしているわけではない。トリオの「ペトルーシュカ」に良く似た主題はご愛嬌。Largoの第3楽章も、グラズノフ風なのかチャイコフスキー風なのか、いわゆるスラヴ風の憂愁に閉ざされた緩徐楽章。別につまらない訳でもないし、良い曲なんだけれども、やはりどこか教科書的、敢えて今回は模範解答風に書きました、といった風。第4楽章に至って、ようやくちょっと後のストラヴィンスキーを彷彿とさせる部分がちらほら。全体にオーケストレーションはすごくよく出来た作品、という感じがしますが、この楽章の練習番号5から6にかけて、木管の前打音付きの内声と弦のピッツィカートが沸々と沸き立つ辺りは如何にもストラヴィンスキー。この部分は、さすがに数年後に「火の鳥」を書くだけのことはあるなぁと思います。
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例の「チーチェル・ヤーチェル」の引用は練習番号13に出てきます。1906年に同じ旋律を用いて「わが幼き頃の思い出」の第3曲「チーチェル・ヤーチェル」を書き、さらに1929~30年に掛けて室内楽用の伴奏を付けていますが、その時の天才的な翻案と比べると何の変哲も無くて脱力してしまいそう。第1楽章の第2主題の種明し、といった趣向ですが、「ちょっと気の利いた引用」以上ではないところが辛い。
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以上、およそ40分の堂々たる大交響曲。評価が実に難しい。この余りにも型通りの、音響効果だけはやけに優れた作品をもって、ストラヴィンスキーはプロコフィエフなどとは対照的に遅咲きの作曲家であった、と結論付けるべきか、それとも、凡庸な素材でどのような要望にも応えられる天才、リムスキーやグラズノフの期待とあらば、こんな凡作と見紛うばかりのかっちりとした交響曲だって書けるんです、というデモンストレーションと捉えるべきか。それはこの選集を丹念に聴くだけでは判りません。おそらく本当の意味での習作を分析しなければ何とも言えないはずですが、それはこの一連のレビューの目的でもないし、私の手に余る課題です。

リハーサル風景の録音は、まぁ興味深いというほどのものではないけれど、そこから浮かび上がるのは、基本的にはオケのメンバーに対してフレンドリー、暴君タイプではない枯れた指揮者としての姿と、妥協したくない部分にはとことん拘る厳しい指導者としての姿がバランスよく納められているということ。ピアノ協奏曲のリハ風景はかなり面白い。アントルモンのピアノにいかにもテキトーな感じで合いの手を入れようとする金管の連中にてこずって、複雑なリズムをとにかく数えさせています(One,two,one-two-three,one,twoみたいに・・・)。何で読んだのかはっきりしないけれど、オケで現代的なイディオムに最もすばやく適応するのは打楽器奏者、次いで弦、木管、一番コンサバなのが金管、だそうですね(本当かどうか知りませんが、何となくさもありなん、と思う)。そういった金管の連中相手に、御大、そうとうアタマに来てます(笑)。あと、「青い鳥のパ・ド・ドゥ」のクラリネットの装飾音に対するこだわりとか、キャシー・バーベリアンを相手にロシア語の発音を何度も繰返し矯正しようとするところなどが収録されています。この頃ストラヴィンスキーは既に80代、英語が上手ではないというより、もうすっかり老人の喋り方、息も絶え絶えようやく意思を伝える、といった風情なのに、一旦指揮を始めれば腰を抜かすほど瑞々しい音楽が流れ出す不思議。実は御大の後ろに隠れて弟子のロバート・クラフトが振ってるんじゃないか、と疑いたくなるほど。本当にリハ風景でちょっと出てくるだけの音楽が素晴らしいパフォーマンスです。最後の1913年のピエール・モントゥーによる「春の祭典」初演時の思い出については、あまり流暢でない英語で訥々と喋るので時間の割りに情報量が・・・それに、それこそこの時のスキャンダルについてはもうあらゆるところで語りつくされてますので、格別新しい情報というのもなくて、まぁストラヴィンスキーの肉声を聴くことができるという以上のご利益はあまりないかと・・・。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-12-15 22:53 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

新国立劇場公演 J.シュトラウス 「こうもり」

安全コールというのがありまして、工場とか工事現場で「足元注意ヨシッ!」とか数名で唱和するやつね。会社の若いやつがまぁ~ったく覇気のない声で「なんとかかんとか、よし」と言うのを聞いて、「なんかスネークマンショーの『急いで口で吸え』思い出すな~」と言ったら、周りの殆どの社員(年下)がスネークマンショーを知らず萎える。



今年最後の演奏会は「こうもり」でした。

  2011年12月11日
  指揮:ダン・エッティンガー
  演出:ハインツ・ツェドニク
  ガブリエル・フォン・アイゼンシュタイン:アドリアン・エレート(Br)
  ロザリンデ:アンナ・ガブラー(Sp)
  フランク:ルッペルト・ベルクマン(Bs-Br)
  オルロフスキー公爵:エドナ・プロホニク(Ms)
  アルフレード:大槻孝志(T)
  ファルケ博士:ペーター・エーデルマン(Br)
  アデーレ:橋本明希(Sp)
  ブリント:大久保光哉(Br)
  フロッシュ:フランツ・スラーダ(語り)
  イーダ:平井香織(Sp)
  東京フィルハーモニー交響楽団、新国立劇場合唱団

実際に舞台を観ている最中は、芸達者な役者たちにすっかり乗せられて大爆笑、演奏も上々。でも一夜明けて感想を書こうとするとなぜか筆が進まない。何度も書いては消し書いては消し、考えあぐねた末に、二つの制約を設けることにしました。すなわち、①アグネス・バルツァのことは書かない②カルロス・クライバーのことも書かない・・・(笑)。なぜレビューを書くのに興が乗らないかと言えば、結局「酸っぱいブドウ」や「甘いレモン」の論理に陥ってしまうから、というのがその理由。ならばその話題は封印してしまおうと思った次第です。もっとも、こういう制約を設けておかないと何となく書きにくい、というのが、とりもなおさず今回の公演の性格を物語っているといいますか・・・。

「こうもり」の人気の秘密、それは観ている間だけでもこの世の憂さ、現実の辛さを忘れさせてくれる、ということに尽きます。倦怠期の夫婦は、各々の火遊びの結果、本来ならちょっとした修羅場の末に破局を迎えたかも知れませんが、舞台の上では決してそんなことは起こらない。終わりよければ全てよし、多少ごたごたがあったとしても全てはシャンパンの所為にして丸く収まります。でも観客は、現実にはそんな麗しい世界はこの世のどこにも存在しないことを判っている。判っているからこそ、尚更舞台の上で繰り広げられる世界は儚くも美しいものとなるのでしょう。だから、本当に優れた舞台というのは、たとえ一時であっても観客に苛酷な現実世界を忘れさせてくれるものでなければならないと思いますが、今回の公演がそうであったか、と言えばやはり何かが足りない。一つは贅沢さという要素だと思います。先日、「ルサルカ」の舞台について、簡素な大道具から照明ひとつで素晴らしい演出効果を引き出していたことについて書きましたが、「こうもり」について言えば、やっぱり舞踏会の場面は贅を凝らした舞台であってほしい。決してチープという訳ではないけれど、酔わせてくれない舞台でした。第一幕のミュシャ風の書き割りは面白いですが、よりによって「こうもり」でなくとも、と思いました。肝心の第二幕も新国立劇場の奥行きを活かせていません。第三幕の刑務所の場が一番良くできている、というのも皮肉なものです。もうひとつの要素は、まぁ色気といいますか、早い話、舞台の上では8頭身の美男美女にワルツを踊ってもらいたい、特にロザリンデには、長恨歌に出てくる「眸を迴らして一笑すれば百媚生じ、六宮の粉黛顔色無し」みたいなこぼれるような色香がほしい、アデーレは健闘していたと思いますが、残念ながらあれでは萌えない、と思いました。でも、それを言うのなら半分くらいは日本人がやる新国立では「こうもり」を観てはいけない、ということにならないか?私は決してそうは思いません。たとえ6頭身のワルツでも(失礼な書き方ばかりですみません)、観客を酔わせるのが演出の腕だと思うので。そのあたりが何とももどかしい舞台でした。

この楽しいオペレッタで、歌手の一人ひとりについて上手いだの下手だの言うのはとても野暮なことだろうと思います。でもロザリンデに対してだけはついつい贅沢を言いたくなる。今回聞きながら、このオペレッタはやはりロザリンデで決まると思いました。彼女さえ良けりゃ、他はそこそこであれば形になる、と。そのロザリンデ役のアンナ・ガブラーが、悪くはないんだけどひと味足りない、というのが全体の印象にも繋がってしまった感じですね。本来なら感動的な見せ場の「チャルダーシュ」も、隔靴掻痒というか、いまいち音楽に乗りきれない。第一、低い音域が歌えていません。ただこの見方はこの作品をオペラとして捉える側に寄りすぎているかも知れません。もっと気楽に楽しめば良いのでしょうが。
アイゼンシュタインのアドリアン・エレートは先日の「コジ・ファン・トゥッテ」のグリエルモよりはずっといい感じ。ファルケ博士役のペーター・エーデルマンと、フランク役のルッペルト・ベルクマンは役柄の間尺がぴったり、という感じでした。ベルクマンは、動きは熊みたいにもそもそしてますが、台詞回しは巧くて第一幕の小芝居も手慣れたもの。アデーレ、アルフレート、それと今回は何かと損な役回りのエドナ・プロホニクのオルロフスキー公は、言っちゃあ悪いけどまぁまぁそこそこ、の域を出ない感じ。でもオペレッタってそんなものじゃないのかな、とも思います。大歌手揃い踏みみたいだと却って落ち着かないのではないか。そんなことよりも看守フロッシュと刑務所長フランクとの芝居がもう抱腹絶倒の出来だったことのほうが余程オペレッタとしては大切なような気がします。フロッシュ役のフランツ・スラーダだけが歌手ではなく役者、ということですが、やはり他の場面の歌手たちの小芝居とはレベルが違う。いやいや本当に面白かったです。
ダン・エッティンガーの指揮については、巧いなぁとは思いますが、やはり酔わせてはくれません。所詮オペレッタ、そんなにご大層な音楽じゃなし、と思っていると、何かの拍子にとてつもなく深遠な、人間の真実を描いているとでも言いたくなるような顔を見せる優れた音楽ですが、良くも悪くも常識的な演奏だったように思います。
脱線しますが、私、常々日本で「こうもり」やるんだったら三輪明宏御大にオルロフスキー公歌って頂いたらどんなに面白いだろう、と思っていました。今回の演出で、オルロフスキー公に護衛の熊みたいなお兄さんとワルツを踊らせていたからそう思った、という訳ではありませんよ。ま、それはそれで、は~そういう事なんですね、と納得するものがありましたが・・・。基本的にクラシックの歌手でなければ歌えない、という役柄ではなくて、この不思議なキャラを表現できるかどうかが大切なので、十分「あり」な話だと思いますが、いかがでしょうか?
by nekomatalistener | 2011-12-15 01:09 | 演奏会レビュー | Comments(6)

ストラヴィンスキー自作自演集WORKS OF STRAVINSKY (その7)

嘘ちゃうからね、と念押しで同僚から聞いた話。ちょっと込んでる電車内、座って居眠りしている若いサラリーマンの前で、吊革もって立ってる中年サラリーマン。中年が思いっきりクシャミをした拍子に、ヅラ(付け毛)が外れて座ってる若いリーマンの丁度股間のあたりに落ちた。クシャミで目を覚ました若い方が、ふと自分の股間の毛の塊りに気づいて、何を思ったかそれを引っ掴むと、ベルトの上から自分のズボンの中に押し込んでしまった。目が点の周りの客に見送られて、気まずい沈黙の中2人とも次の駅で降りてったそうな。はみ出てるって勘違いしたんだね多分。




CD7枚目は既出のバレエ作品の組曲版。

  「ペトルーシュカ」組曲(1947) [1960.2.12-16録音]
  「プルチネルラ」組曲(1922頃/1947改訂) [1965.8.25録音]
  「火の鳥」組曲(1945) [1967.1.18録音]
   コロンビア交響楽団

私とストラヴィンスキーの出会いについて記憶を手繰っているのですが、恐らくストラヴィンスキーの音楽に初めて触れたのは、私が中学生の頃、全音のピアノピースで出版されていた「ピアノ・ラグ・ミュージック」を弾いた時だったと思います。当時まだピアノのレッスンに通っていた私は、先生の薦めに従って、あまり気が乗らないままにベートーヴェンのピアノ・ソナタを学んでおり(今にして思えばもったいない話です)、それだけでは退屈だろうと、ショパンのワルツ集などを与えられていたのですが、そろそろ自我が目覚め始めた私は、自分の小遣いでも買える全音ピアノピースを手当たり次第に買っては弾き散らかしていたのでした。その中に偶々あった「ピアノ・ラグ・ミュージック」。ハ長調と嬰へ長調が同時進行したり、ころころと拍子が変わった挙句に、最後は小節線すら無くなってしまうような作品に初めて接し、「何じゃこれは?」と訝しがっておりました。FM放送で「春の祭典」など有名曲を初めて聴いた時の記憶は殆どありません。中学から高校に掛けての頃は、私は当時の青少年にはよくあることでしたがキング・クリムゾンの「太陽と戦慄」や、EL&Pの「悪の経典#9」などいわゆるプログレ系と呼ばれるロックにはまっており、「春の祭典」の多調や変リズムにはへっちゃらになっていたのだと思います。同じ頃、小倉朗という作曲家が書いた「現代音楽を語る」という著作で、ストラヴィンスキーの「春の祭典」を、こんなものは音楽ではない、とばかりに批判しておられるのを読んでも、「こいつ馬鹿じゃね~の?」ぐらいにしか思いませんでした(小倉先生ごめんなさい、今ならもう少し謙虚に読んだだろうと思います・・・)。つまらない個人的な記憶ですが、偶々とは云え、よりによって「ピアノ・ラグ・ミュージック」からストラヴィンスキーの世界に入って行ったこと、それも耳で聴くのではなく自分の演奏で、つまり精神でなく肉体でもって彼の作品を享受したということは、3大バレエ以外の作品に対する敷居を低くするには大いに意味のあることだったように思います。

ところでこのCDですが、ごく普通のクラシック・ファンにとっては、まぁここに収められた3つの組曲と「春の祭典」があれば十分、なんでしょうねきっと。もったいない話ですが。
録音データを見ると、「ペトルーシュカ」は全曲版と録音日がほぼ同じ。全曲版のテイクと、組曲版の終結部の別テイクを編集したものと推察されます。以前「兵士の物語」を取り上げた際に書いたように、「兵士」においては、全曲版の録音に興味を示さなかった作曲家に対して、コロムビア社側が何とか全曲版のレコードを作りたいと考えて、組曲版の録音から暫らく後に全曲版用の別テイクを録音した経緯がありましたが、その逆のことが起こっているような気がします。想像ですが、作曲家は全曲版の録音で十分と考えていたのに、LPレコード片面にそっくり入る組曲版がどうしても欲しいコロムビア社側の事情があって、このような編集による組曲版が出来上がったのではないか、と思うのです。いずれにしても、全曲版から「ムーア人の部屋」の場面と、終幕のペトルーシュカの死以降をカットしてコーダを付けただけのものですので、自作の集大成としては無くもがな、という気がします。それにしても見事な演奏。作品の細部まで知り尽くした作曲者ならでは。

「プルチネルラ」の録音日は、全曲版と近接しているけれども一応別テイク。もっとも前回も書いたように、このCDのデータは若干雑なところもあって今一つ信用できません。この組曲、全曲版との違いは、歌の入った部分の内、テノールによるセレナータと、テルツェットによるメヌエットを管弦楽用に編曲している他はバッサリとカットしたものですので、作曲者の側からすれば余り録音に積極的にはなれないだろうと想像できますが、ではこれも編集モノかと言えばそうとも言い切れない。この組曲版においてはペルゴレージという素材に対する異分子、ストラヴィンスキーの仕込んだいたずらを強調するのではなく、より普遍的な演奏、流麗で美しいイタリアンバロックの世界を志向しているように思われます。例えばセレナータの部分では、全曲版で耳にびんびん届いていた弦のリコシェはあまり目立たなくされていますし、オスティナートのデュナーミクの変化も抑え気味でおとなしく演奏されています。全曲版のテイクの流用があるとしても、基本的には全曲版とは別のアプローチをしてみようという作曲者の意図が伺えます。面白さという点では断然全曲版ですが、これはこれで耳の慰みとしてはとても素敵な演奏です。

「火の鳥」組曲については先の2曲とは少し事情が違います。4管編成の1910年の全曲版と限りなく2管編成に近い1945年版組曲では、編成が小さくなったというだけでなく、志向するものが随分違っています。リムスキー・コルサコフ流の原色のオーケストレーションが、よりストラヴィンスキー的な乾いた響きに改められ、ラストの大団円もスタッカートで、まるで安直な感動を拒否するようにパキパキと進む。作曲者にしてみれば、全曲版と組曲版、両方とも録音したかったのでは、と想像します。どちらを好むかは人それぞれ。私はどちらかと云えば豪奢な4管の響きが好きなのと、「魔法のカリヨン」以下のストラヴィンスキーの天才が迸るような部分が組曲版ではカットされているので、どうしても全曲版派、ということになります。ブーレーズも確か組曲版には見向きもしていなかったように思います。

さて、以上で自作自演の「バレエ編」は終わり。CD22枚組の内およそ三分の一がバレエ音楽でした、という訳ですね。この後はいよいよ交響曲編です。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-12-10 19:28 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

プッチーニ 「ラ・ボエーム」 コリン・デイヴィス指揮

大阪人なので「ラ・ボエーム」第二幕終わりの合唱(ファ・ミミ・レ・ド・レ・ミ・ファー)を聴くと「亀田のあられ」と聞こえてしまう。そして(うまく繋がらないにも関わらず)心の中でそっと、「おせんべい」と付け加えてしまう。



ストラヴィンスキーばかり取り上げていると、どんどん読者が減っていくので(これ、ホント)、ちょっと口直しにプッチーニを軽く取り上げてみます。フルコースの途中に出てくるグラニテみたいな感じで読んでくださいね。
「永遠の青春」な~んて気恥ずかしい言葉、普段絶対死んでも口にすることは無いと思いますが、ことプッチーニの「ラ・ボエーム」を形容する言葉としては使いたくなりますよね。以前当ブログで、三部作の「外套」の、ルイージとジョルジェッタの二重唱の分析を通じてプッチーニのメチエなるものを論じました。この三部作のいずれも、あるいは「トゥーランドット」なども、このような分析に耐えるだけの実質を備えていると思いますが(それがある種の人々にとっては「あざとさ」と受け取られることも確かでしょう)、こと「ボエーム」に関する限り、こういった分析は無力であろうと思わざるを得ません。ここでは「あざとさ」は皆無、どの小節も天から降りてきたとしか思えない。何度も気恥ずかしい言葉を書きますが、「青春」が誰にも一度しかないのと同様、プッチーニにもこれほどの青春そのものといった音楽は「ラ・ボエーム」でしか書けなかったとすら思えます。
お若い方には判らないかもしれませんが、私の年代(50前後)だと、クラシック音楽の魅力に目覚めた一番多感な頃に吉田秀和氏の著作を読み、結構感化されたりした時期もあるのですが、その中で氏はプッチーニの通俗性を吉川英治の大衆小説だかなんだかになぞらえ、徹底的にこきおろしておられました。人を疑うことを知らない素直な青少年であった私は(今もそうだけど)、当時そんなものかな、と思い、もう少し時間が経ってから何という罪深い言説であることか、と憤慨したものです。でも結局、あまり心配する必要はなかったようですね。「ラ・ボエーム」でブログ検索するとまぁ出てくるわ出てくるわ。皆さん本当にお好きなんですね。実際今もオペラの出し物としてはドル箱でしょうし、これも古い話になりましたが1988年のミラノ・スカラ座来日公演でも、まぁクライバーが振るというせいもあったんだろうけど、「ラ・ボエーム」のチケットは予約の電話がやっとのことで繋がったと思ったら既に売り切れでした(因みにその時は「ナブッコ」(ヴェルディ)、「カプレーティとモンテッキ」(ベッリーニ)、「トゥーランドット」(プッチーニ)は聴きに行きましたよ・・・って自慢してるみたいですが、自慢ですw)。
皆さん大好きな「ラ・ボエーム」に私如きが何かを付け加えたり、えらそうな講釈を垂れる必要は全く無いと思います。ですが、CDやDVDで、それもファーストチョイスは評価の高い名盤を買ったけれど、セカンドチョイスは何がいいかな、などと迷っておられる方にお薦めの音源、となれば私もあれこれ書きたくなるというものです(まぁファーストチョイスはフレーニでもネトレプコでも、お好きなのを選んでくださいね)。

  ミミ:カティア・リッチャレッリ
  ロドルフォ:ホセ・カレラス
  マルチェッロ:イングヴァール・ヴィクセル
  ショナール:ホーカン・ハーゲゴール
  コルリーネ:ロバート・ロイド
  ムゼッタ:アシュレー・パットナム
  サー・コリン・デイヴィス指揮コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団・合唱団
  1979年2月録音
  DECCA478 2494

イギリス人のコリン・デイヴィスの指揮にリッチャレッリのミミ。いかにもセカンドチョイス向けでしょう?(笑)。でも素晴らしい演奏です。来年1月の新国立劇場の「ラ・ボエーム」公演に先立って予習しようと思われている方に、そっと小声でお薦めしたくなる(なぜか大きな声は似合わないような気がする)。でもロドルフォをホセ・カレラスが歌っているので、案外ファーストチョイスがこれだった、という方も多いのかも知れませんが・・・。
リッチャレッリという歌手、あまり大成しなかったソプラノという感が無きにしも非ずですが、私は大好きでした。ジュリーニが指揮した「ファルスタッフ」(ヴェルディ)のフォード夫人役、マゼールの「オテロ」(ヴェルディ)のデズデモナは本当に素晴らしい。ロッシーニも歌ってますが(アバドの「ランスへの旅」の旧盤とか)、アジリタがあまり歌えない人なのでベルカントものは世間で言われるほどには合っていないと思います。ヴェルディにしても、スピントは駄目となると役柄が極めて狭い歌手ということになります。プッチーニも、カラヤンが(可哀そうに、リュー役を歌わせてあげればよいものを)トゥーランドット姫を歌わせたりするもんだから、結局評判も下げてしまった感じがします。その代わり、先ほど挙げたフォード夫人、デズデモナ、そしてこのミミは、本当に声と役柄が寸分の狂いもなく合致した稀有な例ではないでしょうか。どこまでも透明な声、震え慄くようなピアニッシモ、清純で儚いヒロイン役には最高の声質です。しかも透明なのにどこかほの暗く、どちらかと言えば体温を余り感じさせない声です。フォード夫人はもちろん喜劇の、にぎやかでお喋りな奥さん連中の一人なので、「清純」とか「儚い」というのとは違うのだけれど、彼女が歌うと本当に清楚で上品。ジュリーニの指揮にも言える事ですが、それでいてしっかりと「喜劇」になっているという神業的演奏です。ついつい脱線してしまいますが、話をミミに戻しましょう。第一幕の余りにも有名な「私の名はミミ」、まだ悲劇は始まっていないというのにどうしてこんなに泣けるのか。もう涙でボロボロになってしまいます。ねえ旦那、そこ、泣くとこちゃいまっせ!リッチャレッリの声そのものが、なんというか悲劇の到来の予感に満ちているのですね。第三幕から終盤にかけての哀切極まる表現も素晴らしい。人によっては彼女の、声を下からずり上げる癖やソット・ヴォーチェを使いすぎる癖が鼻につくと仰るかも知れません(一方で私もその気持ちはよくわかる)。しかし、その声には透明な泉の底を覗き込むような恐るべき魔力が確かに備わっていて、何気ないパルランドの部分に不意打ちを食らわされたように涙腺が決壊しそうになることもしばしば。でも、最初に「あまり大成しなかった」と書きましたが、本当に凄いプッチーニ・ヒロインの歌い手(例えばフレーニ)とリッチャレッリを隔てるものは何かと考えると、結局彼女の歌と言うのは生来の声質(それ自身は何度も言うように本当に素晴らしい)に頼り過ぎていたのかなと思われます。フレーニは持って生まれた声質の上に、役柄の心理をどこまでも抉り出そうとする大変な努力があり、それを可能にする分析力が備わっていたのでしょう。いや、しかしもしリッチャレッリの声にもう少しスピントな力が備わっていれば、彼女だってフレーニのように様々な役柄を歌うことでそうした分析力を身に付けたかも知れません。つくづく惜しい歌手だと思いますが、私には数少なくともこのような素晴らしい録音を残してくれただけでもう十分だとも思えるのです。

ロドルフォを歌うカレラスについては文句なしの名演だと思います。彼の資質と年齢的な巡り合わせが奇跡的なまでに合致した結果ですね。録音時カレラス32歳、後にも先にもこれほどの凄絶な歌唱はありえなかっただろうと思います。私は決してカレラスの良き聴き手ではなかったけれど、このディスクの演奏に関して言えば、もう言うことがありません。完璧といってよいと思います。有名な「冷たい手を」、直情的な詩人の姿が目に浮かぶようです。第三幕で、最初は「あんな女なんか」と強がっていたのが、ついに苦しい胸の内を明かす、その心理的な推移の表現、終幕の臓腑を抉るような「ミミ!」の絶唱。数多の名盤の中にあって、これほど声質と役柄(おそらく容姿も含め)がぴったりと一致するのも珍しいほどでしょう。
ロドルフォの友人達、蓮っ葉だが情に厚いムゼッタらを歌う歌手達は誰一人として有名どころはおりませんし、欠点をあげつらおうと思えばいくらでも挙げられるのかも知れませんが、誰ひとりでしゃばらず、哀れな恋人達を見守る役柄としてこれ以上の布陣があろうとも思われません。そして何より特筆すべきはデイヴィスの指揮。中庸をもって良しと為すタイプと思われがちですが、ここぞという時の凄まじい燃焼度はベルリオーズの「トロイの人々」の記念碑的な録音を知る人にはよく判って頂けるものと思います。そしてこの「ボエーム」、情熱もありあまるほどですが、第一幕のろうそくが風で消えるまでの二人のぎごちない対話、第三幕マルチェッロとミミの対話、そして第四幕のムゼッタがミミを連れてきてから彼女の死に至る決して長くもない場面、こういった部分をクライマックスへの繋ぎとしてではなく真の聴きどころとして聴かせる腕に、本当に魂のある指揮者だと思わせられます。デイヴィスに対しても私は良き聴き手ではなく、つまみ食い程度しか知りませんが、ふと彼のシベリウスの交響曲第7番の演奏を思い出しました。あの、風が吹き交わすような、堅固な構造を持たない単楽章の不思議な交響曲、私はデイヴィスの指揮で聴いてから、それまで泥臭くそれこそ通俗的と退けてきたシベリウスの面白さをようやく知ったのですが、その演奏にもどこか通じるようなプッチーニです。イタリアの影も日なたもくっきりとした演奏とは違いますが、心優しい人たちが織りなすこの物語を、単なる悲劇ではなく、「永遠の青春」の肖像画として提示するこの演奏を私は愛して已みません。以前アップしたカラヤンのトロヴァトーレの旧盤同様、万人にお薦めはしないけれど、気が向いたら是非聴いていただきたいと思います。
それにしても年明けの新国立の「ボエーム」、中年男が号泣するという恥ずかしい姿を晒してしまうのでは、と今から凄く心配(笑)。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2011-12-09 22:05 | CD・DVD試聴記 | Comments(2)

新国立劇場公演 ドヴォルザーク 「ルサルカ」

会社の親睦会なんかでビンゴゲームやると必ず神様のいたずらみたいな事が起こる(例えば不倫の噂のあるおじさんにお二人様箱根一泊券が当たったりの類)。去年のビンゴでは職場で一番体格のふくよかな女性にヘルシオ(スチームで余分な油をおとす電子レンジみたいなやつね)があたった。口の悪い連中がすかさず「お前が入れ~」とか言い出す。なんというか、神の悪意を感じるなぁ。




新国立劇場に「ルサルカ」を観に行ってきました。

 2011年12月3日(土)
 指揮:ヤロスラフ・キズリンク
 演出:ポール・カラン
 ルサルカ:オルガ・グリャコヴァ
 王子:ペーター・ベルガー
 外国の公女:ブリギッテ・ピンター
 イェジババ:ビルギット・レンメルト
 水の精:ミッシャ・シェロミアンスキー
 森番:井ノ上了吏
 皿洗い:加納悦子
 第一の森の精:安藤赴美子
 第二の森の精:池田香織
 第三の森の精:清水華澄
 狩人:照屋睦
 東京フィルハーモニー交響楽団

一言で言うと、とても素敵な舞台でした。以前ヴァーツラフ・ノイマン指揮の「ルサルカ」について投稿した際にも書きましたが、この歳になるまで殆どドヴォルザークに興味を持ったことが無かったので、よもやドヴォルザークを聴いて感動するなんて思いもしませんでしたが、舞台で観ると本当に良い音楽ですね。
まずはポール・カランの演出から。音楽の本質に合わせて全幕を少女が読んでいるお伽話の枠組みに入れた着想が秀逸です。けっこう長い序曲の間、舞台は月の明るい夜の少女の寝室。両親にもう寝なさいと促されますが、寝付けない少女が姿見の前に立つとそこには別の少女の姿が。序曲が終わるとセットが沈んで水底の場面に転換。寄宿舎のような広間に沢山のベッドが並んでいて、まるで修学旅行の枕投げの様相で水の精の娘達が大騒ぎしているという設定。音楽だけ聴いていた時は「子供っぽい」とか「泥臭い」とか散々ケチを付けた音楽も、こうやって舞台で見せられると実に面白い。魔法使いイェジババは、まず大きな月の中に姿が浮かび上がり、地に降りてきた月から現れます。人間になって王子と結ばれたいというルサルカの決意が固いと見てとったイェジババが、呪文を唱えながら秘薬を調合する場面、ドールハウスのような小さな家から、つぎつぎと動物やバレリーナや鉛の兵隊などが飛び出し、バレエを踊ります。ちょうどチャイコフスキーのくるみ割り人形のような演出。大道具は、少女の寝室以外は木々が描かれた書き割りのみ。それが照明ひとつで水底の世界と森と王宮の広間に次々と姿を変えていき、しかもどの場面もチープでなく本当に美しいものでした。このプロダクションはノルウェー国立オペラ・バレエのものを持ちこんだとの事ですが、予算縮減で新国立劇場も大変な時代に、演出家の工夫次第で簡素な大道具でもこういった素晴らしい舞台が可能なのだという意味で大変示唆に富む舞台なのではないでしょうか。第2幕のポロネーズの場面では、祝賀の客達がルサルカを無視し、あるいはあからさまに避ける様子が様式化されて描かれ、観ていて図らずも胸が痛みました。外国の公女(ノイマンのCDには「侯爵夫人」となっていたけど・・・?)のルサルカに対する苛めも酷いけれど、王子を離すまいとするルサルカの自己主張もなかなかのもの。美しいけれど宮廷のcourtesyというか、振舞い方を知らないルサルカが周囲との間に引き起こす軋轢がよく表現されています。優柔不断な王子が公女に捨てられると、王子の周りに不気味な水底の怪物達がやってきて、王子を虜にしていまいます。お伽話の本質的な怖さ、残酷さを感じます。終幕、ルサルカに許しを求めようと王子が森の水辺にやってきますが、ルサルカが王子にキスをすれば王子は死んでしまう、というのが原作の設定。しかし王子は死なずにルサルカが去ると夢から醒めたように、また王宮に戻っていきます。一人残されたルサルカが最後のアリアを歌い終わると、舞台には最初の少女の寝室がせりあがり、少女が童話を読み終わる、という設定(あのドールハウスもサイズダウンして鎮座してました)。以前にも書いた通り、このオペラの音楽にはエロスの要素が決定的に欠けている、というのが私の見立てですが、この演出はその音楽的な欠点、とまでは言わないけれど、その音楽的側面を逆手にとって、しかもお伽話の残酷さに許しと救済の要素を盛り込んで、実に説得力のある舞台に仕立てていました。
タイトルロールのオルガ・クリャコヴァについては、以前「蝶々夫人」の素晴らしい舞台を観て、こちらの期待が大きすぎたせいか、やや精彩を欠いているように思いました。声量はずば抜けているのですが、チェコ語のデクラメーションに対する不慣れなのか、どうも声量の豊かさがニュアンス豊かな表現に繋がらない。あの「月に寄せる歌」も、なんとなく神経が集中せず、気が逸れている内に終わってしまい、残念な思いをしました。別の日に観た友人は「肉感的すぎてこの役にはミスマッチ」と言ってましたがその通りなんだろうと思います。プッチーニであればその肉感的な声質がぴったりなんでしょうが、このお伽話に必要な非日常性、無垢な処女性のようなものは感じられませんでした。それでも水準以上の歌唱だとは思いますし、カーテンコールでも盛大な拍手を受けていましたが、これが別の歌手ならもっと違った感動があったようにも思います。
王子役のペーター・ベルガーは適役です。テノール・リリコの役柄ですが、少しドラマティコの要素も持ち合わせていてほしい、という聴き手の無い物ねだりを満足させてくれるには打ってつけの声質です。第1幕の登場の場面、第2幕の公女との二重唱など大変聴きごたえがありましたが、惜しむらくは第3幕、ちょっとスタミナ切れなのか低音が苦しそうでした。解説によればピンカートンや「椿姫」のアルフレード、「エフゲニー・オネーギン」のレンスキーあたりが持ち役とのこと、なるほどね~。舞台映えするイケメンなので、マスネなんか歌ってくれたらまた聴いてみたいと思いました。
外国の公女を歌ったブリギッテ・ピンターは優れた歌手だと思いました。最近はエレクトラやブリュンヒルデを歌っているとのこと。この人の名前はしっかり憶えておきましょう。
イェジババ役のビルギット・レンメルト、水の精のミッシャ・シェロミアンスキーも過不足ない歌唱、後者はもう少し声量とプロフォンドな表現が欲しかったですが。
脇を固める日本人勢も各々立派でした。特に狩人と3人の森の精。森番と皿洗いは随分長い歌が当てがわれていますが、ちょっとブッファ的な歌い方に傾き過ぎていたような気がします。もう少し楽譜に忠実に歌った方がこのオペラには合っていると思います(個人的な意見ですが)。これら脇役の場面は、原曲では繰り返しが多くて些かダレるところですが、この日の演奏では繰り返しに若干のカットが施されていて、妥当な処置だろうと思いました。
ヤロスラフ・キズリンク指揮の東フィル、全体に粘らずサクサクと進んでいきますが、おかげであまりワーグナーやチャイコフスキーのエピゴーネン的な側面は目立たず気になりません。ドヴォルザークの音楽の本質をよく理解させてくれる演奏であったと思います。もっと重厚な、それこそ「ジークフリート」の二番煎じみたいな表現もあると思いますが、今回の演奏はドヴォルザークの身の丈に合ったものではないでしょうか。今までドヴォルザークの音楽にシンパシーを殆ど感じてこなかった私ですが、今回の舞台は色々と物足りないところもあるとは言え、とても感銘を受けて、雨の上がった初台を後にしたのでした。
by nekomatalistener | 2011-12-04 22:30 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ストラヴィンスキー自作自演集WORKS OF STRAVINSKY (その6)

どう考えてもピロリ菌ってかわいいよね。




CD6枚目もバレエの為の作品。

 バレエ「プルチネルラ」(1919~20/1920初演)〔※ペルゴレージによる〕 [1965.8.23録音]
   コロンビア交響楽団
 バレエ「オルフェウス」(1947/1948初演) [1964.7.20録音]
   シカゴ交響楽団

「プルチネルラ」は歌入りの全曲版。残念なことに歌手(ソプラノ・テノール・バスの3人)の表記がありません(全体にこのCDのブックレットやCDのデータは随分雑な感じがします)。組曲版に比べて演奏の機会は少ないですが、音楽的には全曲版のほうが圧倒的に面白い。演奏時間も組曲版の6割増くらいありますが、何度聴いても面白くてあっという間に時間が過ぎてしまいます。「プルチネルラ」の面白さについては、以前「妖精の口づけ」を紹介しながら少し触れましたが、この自作自演、私が素材(ペルゴレージその他のイタリアン・バロックの数々)の中に垂らされた墨に譬えたいたずらを、これでもかと強調するやり方。清朗な序曲から既に、伝統的和声から少し逸脱するような音があちこちに忍び込んでいます。続くラルゲットのセレナータ、組曲版にも入っていますがこちらはテノールのアリアMentre l'erbetta pasce l'agnella付き。弦のリコシェや弱拍に付けられたスフォルツァンドが強調され、長すぎるリズム・オスティナートも極端な強弱の変化が付けられています。アレグレットのソプラノのアリアContento forse vivere nel mio martir potreiも調子外れのピッツィカートが強烈、アレグロ・アラ・ブレーヴェのバスのアリアCon queste paroline cosí saporitineでは4拍子の中に突然3拍子の刻みが入ってきます。セレナータの再現Chi dise ca la femmenaに続くアレグロのソプラノとテノールの二重唱では変ホ短調から強引にへ長調に転調、組曲でもお馴染みのヴィーヴォはトロンボーンのグリッサンドにコントラバスのソロの珍妙な取り合わせ。このあたりからもうやりたい放題。終盤のメヌエットは三重唱Pupillette fiammette d'amore 入りで、最後は殆どクラスター状の響きにまで至り、アレグロ・アッサイのフィナーレはもうどっから見てもストラヴィンスキーそのもの。バロックと20世紀モダニズムの接ぎ木による異化作用の強調は、聴いていて少し疲れてしまう程で、私は他の作品を聴く時よりも少し音量を絞って聴きました。作曲者が表現したかったことを素直に音にしたらこうなった、と言わんばかりの天衣無縫の音楽です。全曲版は録音も少ないですが、ブーレーズのアンサンブル・アンテルコンタンポランの録音など、この「墨」の表現は少し抑えて上品かつ洗練の極みを行く演奏で、改めてブーレーズが現代音楽の作曲家という以前にフランスの指揮者であることがよく判る(昔のアンサンブル・ドメーヌ・ミュジカル時代のブーレーズは「怒れるブーレーズ」の面影を残していて、ちょっと違うけれど)。どちらを良しとするかは、まぁ人それぞれとしか言えませんが、私はこの自作自演、小さな子供が自分のおもちゃを自慢しているみたいなほほえましさを感じて、好きですね。ある意味作曲者にのみ許される表現で、現代の指揮者が真似たら下品ということになりかねませんが。
話は脱線しますが、それこそブーレーズの洗練された演奏だけ聴いていたころは、果たしてこの作品をストラヴィンスキー中期の代表作と言っていいのだろうか、という素直な疑問を持っておりました。オールモウスト・ペルゴレージ、オリジナルな作品と言えるのだろうか、と。それからいろんな演奏を聴いて、やはりこれはストラヴィンスキーの(敢えて代表作とは言わないけれど)オリジナルな傑作だと思うに至りました。的確な譬えかどうか判りませんが、ウェーベルンがバッハの6声のリチェルカーレをオーケストラに編曲したもの、あれをただの編曲と見なす人は少ないだろうと思います。あれはウェーベルンが全身全霊を込めて精緻に編み上げた完全なオリジナル作品(ただし素材はバッハ)、というのが一般的な見方でしょう。いや、それより適切な譬えは、ルチアーノ・べリオの「シンフォニア」の第3楽章かも知れません。あれはマーラーの「魚に説教するパドヴァの聖フランチェスコ」を土台に、古典派ロマン派印象派現代と一体何曲あるのか私も判らないけれど恐らく数十作の、古今の作品の断片をコラージュしたものですが、あれもどうみてもべリオのオリジナル作品、しかも言葉のごく普通の意味で「代表作」だと思います。そういった意味で、この「プルチネルラ」は、極めて現代的なコラージュ作品の先駆としても捉えることが出来ると考えています。

「オルフェウス」も、ストラヴィンスキーの作品の中では不当に冷遇されているものの一つでしょう。彼の諸作品の中でもとりわけ抒情性に富んだ傑作だと思います。冒頭、Orphéeと題された部分、弦とハープの合奏から抒情が滴り落ちるようですが、これはヴェトナム戦争以降のアメリカ映画の音楽などでおなじみの音作り、という感じがします。別にアポロやオルフェウスでなくとも、苦悩するFBI捜査官とか、兵役忌避の青年とエイリアンとの精神的交流、とかの場面でも多分何の違和感もない、21世紀に生きる我々には不思議な既視感のある音楽です。
最近はどうなっているのか、LPの時代には映画のサントラ盤というジャンルがあり、一本の映画の音楽を丸々一枚のレコードに収めたものがありましたが、ちょうどそういった音楽を聴いているようです。ソナタや変奏曲といった構成原理を持たないストラヴィンスキーの音楽にとって、バレエは恰好の器だったと言えますが、ハリウッドの映画音楽に興味を示した痕跡は、企画そのものが頓挫した「ロシア風スケルツォ」を除いては殆ど見当たりません。「大洪水」はテレビ放映の為に書かれたようですが、映画音楽というのではない。ストラヴィンスキーの音楽の資質から言えば、ハリウッド全盛時代よりもう少し後の映画音楽にぴったりな感じがしますが、思うに彼の強い肛門性格Analcharakterが、映画音楽という著作権の甚だはっきりしない様式を忌避したのではないか、という仮説を提示しておきます(フロイト流の用語を借りましたが、彼の印税収入に対するこだわりや、几帳面な手稿をみると強ち間違ってはいないと思います)。
脱肛、じゃなかった、脱線ついでにもう少し映画音楽について。ハリウッド映画の甘い音楽については、1938年から39年頃に亡命したユダヤ系作曲家、例えばコルンゴルトのような人々を抜きに語ることは出来ないでしょうが、ストラヴィンスキーのようなもう少し辛口の音楽も、アルフレード・カゼッラやマリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコ、エルンスト・クルシェネックらを経由して、現代のジェリー・ゴールドスミスやジョン・ウィリアムスらの映画音楽に、細くとも確固たる水脈となって流れ込んでいる、という仮説も成り立つような気がします。私にはこの仮説を立証するだけの力がありませんが、博覧強記の音楽評論家に是非とも取り上げてもらいたいテーマです。要は、先日の「アゴン」の投稿にも書いたとおり、映画やテレビの実用音楽の中に、ストラヴィンスキーの影響というものが確実に今現在も存在し続けている、ということだけは確かだと思う訳です。
話を「オルフェウス」に戻しますが、冒頭部分以外にも、Pas d'actionからPas de deux、Interludeを経てもう一つのPas d'actionに至る部分のブラスの書法は、ほぼ10年後の「アゴン」を予言するかのような現代的な書かれ方をされていて、聴きどころの一つだと思います。Air de danseの部分は、何かバロック時代の元ネタがあるような気がしますが、それが何なのか思い浮かびません。海外のサイトもいろいろと調べてみましたが、この部分の引用(?)に言及したものは見つかりませんでした(モンテヴェルディとの親近性について書かれたサイトはありましたが・・・)。Pas de deuxの後半の弦楽合奏は、さしずめストラヴィンスキー版「愛が私に語ること(©マーラー)」といった美しさ。指揮するストラヴィンスキー自身の、感に堪えぬといった風情の唸り声が録音されています。最後のApothéose d'Orphéeでは冒頭のハープと弦楽の音楽にブラスが加わり、感動的な挽歌となって全曲を閉じます。私自身は未聴ですが、CDは数少ないながらもサロネンの指揮したものなどがあるようですので興味をお持ちでしたらご一聴をお薦めします。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-12-03 11:01 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)