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日本IBM管弦楽団第18回定期演奏会

基本的にブラームスの第4交響曲を「ブラよん」とか略して言うのはあまり好きじゃないのだが、タコテンはOK(ショスタコーヴィチの10番です念の為)。タコハチも語呂がいいし、タコキューも美味しそう。




日曜日は日本IBM管弦楽団の定期演奏会に行ってきました。

 2011年11月27日 新宿文化センター大ホール
 R.シュトラウス 歌劇「ばらの騎士」から ワルツ(1944年編曲版)
 R.シュトラウス 4つの最後の歌
 ベートーヴェン 交響曲第6番ヘ長調Op68「田園」
 指揮:新通英洋 ソプラノ:松田昌恵

私はこれまで、いわゆるアマチュア・オーケストラの演奏会を聴く機会もけっこうありました。技術的にはピンキリであっても、楽団員の音楽作品に対する愛や思い入れが強く感じられる演奏である場合が多く、いつも大いに楽しませてもらってます。しかしながら、アマチュアの演奏をブログの上で「論評」するというのは、上手下手といった評価とどうしても切り離すことが出来ないと思い、出来ることなら当ブログでは取り上げない方針でおりました。でも、このIBM管弦楽団に関して言えば、エキストラが多いという点を除いてもアマチュア楽団の中では群を抜いて上手いオーケストラだと思いますし、今回の演奏は本当に素晴らしいものでしたので、こうして取り上げてみようと思った次第。それと、楽団員のMさんに出来れば当ブログを宣伝して頂いて、読者数をアップしようという下心も・・・(笑)。
それにしても一つの私企業でこれほどのオーケストラを抱えているというのは稀有の例ではないでしょうか。さすがにダイバーシティをもって鳴るIBMならでは。ダイバーシティと言えば女子社員に「お茶汲み」以上の仕事をさせること、ぐらいに思っている凡百の会社とはえらい違いですが、昔から性別国籍思想信条セクシュアル・オリエンテーションまで、あらゆるマイノリティに対して受容政策を取ってきた会社であればこそ、これほどの多様な人材が自然と集まるのかな、と思いました。なかなか他の企業に出来ることではありません。

これほどのオーケストラですから、更にレベルアップしてもらいたいと思い、ちょっとだけ無い物ねだりをしてみます。まずは最初の「ばらの騎士」のワルツ。なんというか、ワルツというより「3拍子の音楽」という感じです。序奏のあとの元帥夫人とオクタヴィアンの後朝(きぬぎぬ)のワルツは、Walzertempoとは書いてあっても実質は典雅なメヌエットだと思うのでこんな感じかなぁと思いましたが、続くマリアンデルのワルツとオックス男爵のワルツを聴くと、つくづくこの国ではワルツというものが暗黙知のレベルでは理解されていない、楽団員の血や肉となっていないことが如実に判ってしまいます。指揮者はなんとかワルツのリズムを楽団員にやらせようとしていることは判りますが。理想的なワルツの演奏を、羽二重餅を指揮者が思いのままに手の中で転がすようなものだとすれば、これはまるで床に落ちて固く冷めてしまった餅を指揮者が無理やり引き剥がそうと格闘してるみたいでした。楽団員が指揮者の指示する微妙なアゴーギクを全く理解していないように見受けます。オックス男爵のワルツの終わり方にDie Auftakte in den Streichern stets in dem süßlichen Wiener glissando(弦のアウフタクトは甘いウィーン風のグリッサンドで)と書かずにはいられなかった作曲者の意図とは相当距離があるように思いました。オペラを聴かずしてシュトラウスの理解はあり得ないと思いますが、大半のメンバーは多分交響詩は聴いても「ばらの騎士」はお聴きになっていないのでしょうね。でも、この複雑なスコアをとにもかくにもそれらしく聴かせてくれたのは、アマチュアでは中々考えられないことですからね。「無い物ねだり」という所以です。
「4つの最後の歌」はとても良かったと思います。一曲目で、松田さん(この方二期会の方のようですが)がちょっとオペラ風に歌ってしまったのは違和感がありましたが、だんだんと良くなりました。思うに、この新宿文化センターの大ホール、楽器はともかく声があまり響かないホールで、その響きの悪さに手こずって最初こういう歌い方になったのかと想像します。まぁ今までLPやCDで、シュヴァルツコップやらヤノヴィッツやらノーマンやらの名唱を聴いてきて、ちょっと点が辛くなるのは聴き手のこちらにも問題あり、ですが・・・。オーケストラの方は、「ばらの騎士」よりは余程こなれているように見受けました。編成としてはほぼ3管だと思いますが、弦と管のバランスが良いのもアマチュアとは思えません。弦5部の人数は12-10-10-9-7、シュトラウスとしては多いとは言えませんので、管に負けないということは大変なことだと思いました。
休憩後の「田園」、これも良かったですよ。こちらはワルツと違って、団員にも馴染みがあるでしょうし、新通さんの指揮が過不足なく的確で、楽団員が本当に楽しんで弾いているのが聴き手にもよく伝わってきました。特に第5楽章のどこだったか、音楽が自発的に良く流れているところでは細かい指示をやめて、左手でゆっくりと大きなアーチを描いてらしたのが印象的です。こういう指揮で演奏が音楽的に流れるということは素晴らしいことです。本当に良い指揮者の指導を得られて幸せなオーケストラだと思います。
この田園の第4楽章でちょっとしたハプニングがありました。ティンパニのトレモロの途中でマレットが一瞬手を離れ、高く宙を舞いましたが、ティンパニ君ナイスキャッチ、すぐにまたトレモロを叩き続けてました。これ何か新しいパフォーマンス?いいえ事故ですね(笑)。
今回の演奏会、新宿文化センターの大ホールがほぼ9割以上の入りで何よりでした。大部分が楽団員のお身内の方と拝察しました。こういった場合、マナーを云々しても仕方ないのですが、「4つの最後の歌」のよりによって4曲目で、左後方から何かビニールの袋をごそごそするような音が数分に亘って聞こえてきて閉口しました。わざわざ4曲目でなくても、と思いますが、それまで我慢してきて4曲目で退屈しちゃったんだね(苦笑)。それと田園の第5楽章に入るなり鉛筆でシャカシャカとアンケートを書き始めた隣のおっさん。お子さんの晴れ姿を見に来たお父さんかも知れん、と思うと文句も言えません。あのアンケートってのも考えもんですね。
まぁそれはそれとして、Mさん本当にありがとう。次回も楽しみにしてますのでご案内くださいね。
by nekomatalistener | 2011-11-28 00:41 | 演奏会レビュー | Comments(2)

ストラヴィンスキー自作自演集WORKS OF STRAVINSKY (その5)

昼飯時に同僚に「ちょっと前に、シルク・ド・ソレイユみたいなやつで何とかいうのあったよね~」と言いながら
「何とか」が出てこない。同僚も一応、「シルク・・・みたいなヤツですか・・・・」と考えるフリ。飯終了後、ようやく「サルティンバンコ」という言葉を思い出して、「あーあれ、サルティンバンコや」と言ったら、「え?それ、シルク・ド・ソレイユの出しもんの名前やないですか」だと。いやだからさぁ・・・。もうキーッてなるね。



CD5枚目もバレエのための作品。

 バレエの情景(1944/1944初演) [1963.3.28録音]
   CBC交響楽団
 チャイコフスキー「眠りの森の美女」より「青い鳥のパ・ド・ドゥ」の編曲(1941) [1964.12.17録音]
   コロンビア交響楽団
 バレエ「妖精の口づけ」(1928/1928初演/1950改訂)〔チャイコフスキーによる〕 [1965.8.19-20録音]
   コロンビア交響楽団

ストラヴィンスキーの諸作品の中で、どちらかといえば苦手なもの、あまりピンと来ないものは私の場合、このディスクに納められたチャイコフスキー関連ですね。私は基本的に、チャイコフスキーの音楽に対して、「エフゲニー・オネーギン」だけは別として、今まで殆どシンパシーというものを感じたことがないので、これらのストラヴィンスキーの作品も「苦手」意識があります。
「妖精の口づけ」は、音楽的素材がチャイコフスキーのものである、という点を除くと、ペルゴレージの素材を元に「プルチネッラ」を書いたのとほぼ同様の手法で書かれています。ただ、「プルチネッラ」の場合、イタリアンバロックの様式の中に、最初の内は、ほんの少し墨を垂らしたようにストラヴィンスキーらしいいたずら(この時代の和声進行ではありえない音がちょこっと入っていたり、経過句のオスティナートが長すぎたり・・・)が含まれていて、次第にその墨が広がっていくように異化効果が目立ってくる、もう最後はどっから見ても墨だらけ、という過程そのものが聴き手の知的興奮を誘う仕組みになっていますが、「妖精の口づけ」では、素材(チャイコフスキー)と墨(ストラヴィンスキー)の落差が、ペルゴレージに比べると小さい為に、ぼんやり聴いているとストラヴィンスキーを聴いているのかチャイコフスキーを聴いているのか、判然としなくなってしまいます。よくよく聴くと、いろんなことをやらかしているようではありますが。それにしても、この結構長い作品(自作自演で46分ほど)から読み取るべきは、ストラヴィンスキーのチャイコフスキーに対するリスペクトと、バレエという芸術様式への絶大な信頼でしょう。私はチャイコフスキーとバレエ、そのどちらにも疎いので、ストラヴィンスキーのこの方面に対する理解のためにはもっと勉強する必要があると痛感しています。まずは手始めに、せめて「白鳥の湖」くらいはきちんと聴いておかないと、と痛感した次第。

「青い鳥のパ・ド・ドゥ」、作曲の経緯に関する外部情報を全く持ち合わせていないので、習作として自発的に書いたのか注文仕事か判りませんが、まぁ、どっかのバレエ団のコンペ用の劇伴あるいはアンコール・ピースとして委嘱されたと考えるのが妥当でしょう。元ネタの「眠りの森の美女」そのものを聴いてないので話になりませんが、聴いた感じでは何の変哲もないチャイコフスキーの音楽。オーケストレーションにピアノが入っているのがやや異質ですが、これも効果を狙って入れたというよりは、委嘱元のオーケストラ編成に併せた、といった機会的理由によるもののように聞こえます。しかしながら、ストラヴィンスキーが自作の集大成を録音するにあたって、わざわざこの作品を取り上げたということ自体が、彼のチャイコフスキーに対する偏愛を物語っているのでしょう。作品目録を見ると、20作を超える編曲作品がリストアップされていますが、この自作自演集にはこの「パ・ド・ドゥ」とジェズアルドの編曲だけが取り上げられている、というのも非常に興味深いことだと思います。編曲といえば、1913年にラヴェルと共作で、ムソルグスキーの未完のオペラ「ホヴァンシチナ」のオーケストレーションをしたり、1918年には「ボリス・ゴドゥノフ」のピアノ編曲をしたりしていますね。ムソルグスキーのオペラは私も大好きなので、ストラヴィンスキーもムソルグスキーの音楽を愛していたと思われるのはうれしい話です(たとえそれが金儲けの為の仕事であったとしても)。ちなみに「ホヴァンシチナ」のオーケストレーションですが、クラウディオ・アバドのCDでは基本的にショスタコーヴィチの補筆版を採用しながら、第5幕の最後のみラヴェル=ストラヴィンスキー版を用いており、実際に耳で聴くことが出来ます。同じくショスタコーヴィチ補筆版を採用しているゲルギエフ盤(幾つかの箇所はゲルギエフ自身が補筆しているらしい)と比較すると、より現代的な透徹した響きがしますが、ムソルグスキーに対する私自身の偏愛についてはまた機会を改めることにしましょう。

「バレエの情景」はこのCDの中では最もストラヴィンスキーらしい作品です。ここでは、ストラヴィンスキーが考える「バレエ的なるもの」、長いバレエ音楽の創作の中で得られた手法を抽出したもの、バレエそのものの抽象化が見られます。換言すれば、バレエそのものに関するバレエ、いわばメタ・バレエとでもいうべきコンセプトで書かれているということです。この作品の短さが、この抽象化という見方を正当化してくれているような気がします。メタ・バレエというコンセプトは当然に音楽的側面にも反映されており、音楽的には一見、ストラヴィンスキーが考えていた「バレエ音楽なるもの」をさまざまな要素に分解し、それをつぎつぎと並置しただけのようにも思われますが、ディアトニックな書法にも拘わらず抽象化の度合いは深く、中期の作品としてはより後期の「アゴン」以降の作風に近づいていると見るべきでしょう。それはともかく、聴いて楽しく、豊かで洗練されたストラヴィンスキーらしい佳品です。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-11-23 20:02 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ストラヴィンスキー自作自演集WORKS OF STRAVINSKY (その4)

会社の親睦会でシルク・ド・ソレイユのZEDを鑑賞。もうぽか~んと口あけて観てるしか仕方ない。でも、赤い民族衣装みたいなの着て棒やら縄やら持って踊る中国人の若い子が、親睦会の幹事クンに似てて、もう気になって気になって仕方がない。終わってから多分10人くらいに「・・・クン、あの赤い服の子に似てへん?」と同意を強要。





自作自演4枚目はこれまたバレエの為の、作曲年代もオーケストラの編成も様々な三作品。

 バレエ「ミューズの神を率いるアポロ」(1927~28/1928初演/1947改訂) [1964.6.29録音]
    コロンビア交響楽団 
 バレエ「アゴン(Agon)」(1953~57/1957初演) [1957.6.18録音]
    ロサンゼルス祝祭交響楽団
 バレエ「カルタ遊び」(1936/1937初演) [1964.3.13録音]
    クリーヴランド管弦楽団

私はここで「アゴン」についてお話できることがうれしくて仕方ありません。まずは突然ですが、下記のyoutubeを見てほしい。
http://www.youtube.com/watch?v=gpiBlf4249o
youtubeみたいな、いつ削除されるか判らないURLをブログに張り付けるのは出来ればしたくないのだけれど、音楽そのものを言葉で伝えるのが難しい以上仕方ありません。たかしまあきひこ氏作曲の聴けば誰でもすぐ「ああ、あれ・・・」と判るニュースのオープニングの音楽。1984年4月から1998年3月まで、産経テレニュースのオープニングに流れていたものです(今でも地方によってはFNNニュースのOPでやっている)。これって凄く「かっこいい」音楽だと私は思いますが、こういった音楽の源流をずーっと辿っていくと「アゴン」の冒頭とコーダの音楽に行きつくような気がするのです。戦後間もない頃の黛敏郎の作品などにはストラヴィンスキーの影響が顕著ですが、その系統の水脈がいろんな人達に伝わったのだろうな、と想像しています。
それにしても「アゴン」の冒頭のブラスのファンファーレ、いや、これに限らず「新しい劇場のためのファンファーレ」とか「管楽器のための交響曲」とかもそうだけど、まず「都会的」とか「洗練」という言葉が浮かびます。同じ系統のブラスの使い方はバルトークにも見られるけれど、ストラヴィンスキーの現代にまっすぐ通じている、今も少しも古びないブラスの使い方はもっと高く評価されてしかるべきじゃないか。なのにこの「アゴン」、LP時代も含めて実に録音が少ない。もう、どうして?って歯ぎしりしたくなる。私がこうやって馬鹿みたいにストラヴィンスキーについて書き続けているのはもっとこういった作品を多くの人に聴いてほしいから。「アゴン」に関して、無調だの十二音技法だのといった言葉にビビってしまう人が多いのは実に残念。今やニュースや映画音楽やCMなんかに満ち満ちている音楽の、一つの源流だと思うのですが。

もう少しだけ「アゴン」について。別にジョージ・バランシンとニューヨーク・シティ・バレエ団のために書いたから、という訳ではなくて本当に都会的な、ニューヨークの摩天楼が似合う音楽。クールでしかもいくらかスノビッシュなところもあるニューヨーカー達のための音楽という気がしてなりません。それがウェーベルンに倣ったドデカフォニックな部分と接続される。それは混合でも融合でもなく、接ぎ木による異化効果です。ウェーベルンの影響あるいはオマージュはあちこちに見られてちょっとほほえましい感じも。マンドリンの繊細なトレモロはウェーベルンの「管弦楽のための5つの小品Op.10」、最初のパ・ド・トロワのコーダは「ヴァイオリン・クラリネット・アルトサクソフォンとピアノのための四重奏曲Op.22」、二番目のパ・ド・トロワ、パ・ド・ドゥー後半は「管弦楽のための変奏曲Op.30」をお手本としているかのようです。
この自作自演も実に素敵な演奏ですが、昔のハンス・ロスバウトの録音は凄かったと記憶しています。たしかアルバン・ベルクの「管弦楽のための3つの小品Op.6」とウェーベルンの「管弦楽のための6つの小品Op.6」とのカップリング。いわゆる現代音楽を得意としたロスバウトならでは、のかっこよさ。本当にクールなストラヴィンスキーでした。思い起こせば私がストラヴィンスキーの真の魅力に開眼したのはこのロスバウトの「アゴン」を聴いてからのような気もします。
それと、バレエの為の音楽というけれどチュチュを着たバレエではなく、限りなくモダンバレエ、あるいはコンテンポラリーダンスに近いものであったようです。抽象的な肉体の運動だけで成り立った舞台を想像します。機会があれば舞台で観たいものです。さぞかしストラヴィンスキーの面目躍如という感じの、このシニフィアンの連鎖のような音楽とよくマッチすることでしょう。以前投稿した「兵士の物語」ではpolytonalとpseudo-tonalとの対置という切り口で分析を試みましたが、ついに「アゴン」に至って、その二つの対比軸だけでなく、ディアトニックとドデカフォニックという対立軸さえ一つの結晶体に収斂されてしまったかのようです。

次に「ミューズの神を率いるアポロ」、非常に玄人向けの音楽と言う気がします。ストラヴィンスキー独特の和声とリズムの古典的規範からの逸脱が、ロマンティック・バレエに接ぎ木されて異化効果をもたらす。それもこれみよがしでなく、判る人にだけ判ればよい、という感じに。
昔、まだ大学に入ったばかりの頃にカラヤンのLPを買って聴いた頃はまったくこの美しさが判らなかった。それは恐らく若かりし頃の私だけでないはず。このあたりからストラヴィンスキーの中期はつまんない、という意見が出てくる、それはとてもよく判るような気がします。カラヤン盤は今はもう手元にないので確認できませんが、どうも美しくヤスリをかけ過ぎて、接ぎ木の継ぎ目が見えなくなってるんじゃないかな。そりゃ面白くないって。自作自演盤はそのあたりをしっかり聴かせてくれます。聴きこむほどに美しくも、どこか空虚というか、精神性とかいった詰め物がわざと注意深く排除されているような音楽。

「カルタ遊び」、第二部におけるマーラーの交響曲の引用、マーラーのいかにも後期ロマン派風の軋むような和音がひしゃげたような響きに変えられているのがご愛敬。第三部のロッシーニの「セヴィリアの理髪師」の引用は聴けば誰にでもすぐに判ります。この「本歌取り」の手法、他にもっといろいろあるような気がします。私は詳しくないのでよく判りませんが、例えばプロコフィエフとか・・・。なんだか手癖で書き流しているようなところもあってちょっと霊感が足りないような気もするし、演奏次第でもう少し面白くなるような気もする。バレエの舞台を見ずに音だけ聴いている限界か。でも、ある種の「緩さ」がいかにもバレエ音楽なんだなぁ。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-11-18 22:52 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ストラヴィンスキー自作自演集WORKS OF STRAVINSKY (その3)

会社の人で背が低い、というより足が異常に短い人がいる。会社のトイレに初めてウォシュレットが装備された日、その方がロッカーでびしょびしょに背中が濡れた作業服を着替えていらした。そのこと自体よりも、ウォシュレットがお尻にちょうど当たるように深く腰掛けると、きっと両足がぷらんぷらん状態になりそうな気がして、想像するとそっちのほうが笑える。




自作自演集の3枚目は舞台作品が3作。

  バレエ「結婚」(1914~17/1919改訂/1923改訂/1923初演) [1959.12.21録音]
   Mildred Allen, Soprano
   Regina Sarfaty, Mezzo-Soprano
   Loren Driscoll, Tenor
   Robert Oliver, Bass
   Samuel Barber, Aaron Copland, Lukas Foss, Roger Sessions, Piano
   The American Concert Choir
   Columbia Percussion Ensemble
  ブルレスク「きつね」(1915~17/1922.5.18初演) [1962.1.26録音]
   George Shirley, Tenor
   Loren Driscoll, Tenor
   William Murphy, Bariton
   Donald Gramm, Bass
   Toni Koves, Cimbalom
   Columbia Chamber Ensemble
  組曲「兵士の物語」(1918) [1961.2.10-13録音]
   Israel Baker, Violin
   Charles Brady, Trumpet
   Richard Kelly, Bass
   Roy d'Antonio, Clarinet
   Don Christlieb, Bassoon
   Robert Marsteller, Trombone
   William Kraft, Percussion

すんません、何人か読み方が判らなかったもので、英語表記のままにしております。
3枚目は舞台作品が3作。いずれも歌や語りやパントマイムやバレエの為に書かれたということ、また作曲年代が近いという以上に、音楽のエクリチュールそのものにおいて、三つ子の兄弟といいたくなるほど似通ったところのある3作。
「結婚」の歌唱部分はスラヴ民謡風、あるいは教会旋法(ドリア・フリギア・ミクソリディア旋法等)やペンタトニックの旋律で書かれ、またそれらが絶妙なセンスでポリトナールに重ね合わされたりする上に、時として暴力的なまでのリズムの爆発が見られ、土俗的でありながら高度に知的な書法で書かれています(他の2作にも共通している点の一つです)。特に練習番号62から64にかけての暴力的なサウンドは、「春の祭典」の「生贄の踊り」の興奮を呼びさまします。考えてみればあの「春の祭典」ですら、旋律だけを拾っていくと実にディアトニックな書かれ方をしていましたが、それに加えてこの作品では編成が切り詰められている分、音楽の構造が透けて見えるように思われます。「春の祭典」の精緻な設計図をみているような、と申しましょうか。
「結婚」、この自作自演以前に私が愛聴していたのはバーンスタインの演奏(1948年初演の「ミサ曲」とのカップリング)でしたが、そちらの4台のピアノもアルヘリチ・ツィメルマン・カツァリス・フランセシュと超豪華版でしたがこちらもその豪華さにかけては引けを取りません。なんせコープランドにサミュエル・バーバー、ルーカス・フォス、ロジャー・セッションズですからね。アメリカの現代モノがお好きな方にとっては正にドリーム・キャスト。一つの時代のドキュメントとしても貴重極まりない録音といえましょう。
それと、これはあまり世間で言われていないことですが、ストラヴィンスキーのピアノ書法というのは本当に素晴らしいものがあります。「ペトルーシュカからの三楽章」を聴くと、ピアノが下手な人間には決して一小節たりとも書けない書法だということは容易に気がつくと思いますが、この作品ではそれがなんと4台分。一体ストラヴィンスキー先生、どんだけ弾けたんかいな、という感じです。後日取り上げることになるピアノ協奏曲なども、ロマン派のピアニズムとは似ても似つかないものの、ピアノを多少弾く人間にとっては一度は弾いてみたい、涎が出そうな書法ですが、「結婚」もピアノ弾きは是非スコアを見て舌なめずりしながら聴いて頂きたい(笑)。
バーンスタイン盤も非常に優れた演奏でしたが、そちらはロシア語なのに対してこちらは英語版。ストラヴィンスキーの不思議なところは歌詞が英語でもあまり違和感がないこと(その代り非常に聴きとりにくいですが)。このあたりがストラヴィンスキーのコスモポリタンたる所以か、それとも言語に対する無頓着というべきか、いずれにしても英語を母国語とする人たちがこれを聴いてどう感じるのか、日本人が日本語に訳されたミュージカルなんかを聴いて受ける違和感というか、気恥ずかしさを彼らも感じるのかどうか不明ですが、たまに歌詞がはっきり聴き取れても英語ゆえの違和感は少なくとも私は殆どありませんでした。
あまり本質的でないところにこだわり過ぎてしまいました。この作品、本当に傑作と呼ぶに値すると思います。ゴージャスな音響に耳を奪われがちですが、ここには真の抒情、ウェットなセンチメンタリズムとは無縁の、透明で硬質な抒情があり、同時に亡命者ならではの望郷の念を遥か遠くに聴くことができるのではないでしょうか。酔いの回る程に喧騒の度を深めていくドンチャン騒ぎが一転して、ピアノの長く延ばされた煌めく和音、クロタルとベル(クロッシュ)の澄んだ響きの中、暖められたベッドに向かう新婚の二人。清冽なエロティシズムを感じさせる幕切れの音楽は何度聴いても心から感動させられます。

次の「きつね」、ストラヴィンスキーといえば三大バレエばかりでこんなに面白い作品がマイナーな地位に甘んじているのが残念でなりません。この作品、特に「兵士の物語」との類似点がたくさんあり、大変な傑作だと思いますが、「兵士」に時折現われていた抒情性といったものはあまりありません。とことん乾いた、リズムと言葉の面白さを中心とした書法です。こちらも英語で歌われていますが、いきなりChuck-chuck-chuck-chuck-chuck-Chuck-a-dah・・・といった言葉遊びから始まり、最後もZoum! Zoum! Zoum!Patazoum, patazoum!といった呪文みたいな歌が出てくる。で、最後に"Now the story is done""You must pay for your fun!"と人を食った台詞があって冒頭のサーカスみたいな行進曲の再現で幕。私のヒアリング能力では殆ど歌詞が聴き取れないのがなんとも残念。スコアにはロシア語、ドイツ語、フランス語の歌詞が併記されていますが、このあたりもストラヴィンスキーのポリグロットぶりが如何なく発揮されています。一つだけはっきりと言えることは、ロシアの田舎から突如現れたこの天才には、先般取り上げたヤナーチェクなどとは全く違って、母国語と音楽との密接な繋がりというものがあまり無さそうだということです。私は特に練習番号24Con brioの、あっけらかんとした旋律が大好きですが、全体にディアトニックな書き方であるにも拘わらず、ときおり挟まれるツィンバロンの響きなど非常にアトーナルな感じがして、三作の中では最も急進的。リズムも複雑の限りを尽くし、演奏もさぞかし至難だろうと思われます。初演当時どれだけ前衛的な響きがしたことか、想像に難くありません。

「兵士の物語」(組曲版)は先日3回に亘って取り上げた語り入り全曲版の基となった録音ですので、演奏に関しては悪かろうはずがない。比較のためブーレーズのクリーヴランド・オーケストラのメンバーとの録音も聴いてみましたが、いかにブーレーズと雖もその湧きあがるリズムの豊かさにおいて自作自演盤の足元にも及びません(昔のアンサンブル・アンテルコンタンポランとの演奏のほうが少しマシなような記憶がありますが残念ながら手元にありません)。このシリーズの初回にも書きましたが、一体だれがストラヴィンスキーの指揮を無骨だのへたくそだのと貶めるようなことを言ったのでしょうか。このブログのあちこちで書いている通り、私は世評というものを信じない、というか、殆ど嫌悪さえ感じるのですが、特にストラヴィンスキーに対する評価(作品についても演奏についても)に関してはそれを強く感じます。

この3作品、先日「兵士の物語」についてあれこれとスコアの分析を試みましたが、「結婚」と「きつね」に関しても、この一週間ほど、この天才のメチエをなんとか解剖してみたいという欲望と戦わねばなりませんでした。なんせ、さらっと22回シリーズと宣言しておきながら、そんなことをすれば「きつね」だけで数回分の分量になるのは目に見えていますから、さんざん迷った挙句分析ごっこみたいな記述は全て諦めました。いずれ何らかの機会に思う存分これらの作品と戯れてみたいと思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-11-15 18:29 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

内田光子ピアノ・リサイタル

リサイタルでソリストがミスタッチするたびに頭を振る前の客(かなりウザイ。しかも頭でかい)。
マレー熊のツヨシ君だと思えばちょっとは可愛く思えるかな~と試してみるが無理。




内田光子のリサイタルに行ってきました。

 2011年11月7日(月) サントリーホール 大ホール
 シューベルト ピアノ・ソナタ ハ短調  D958
          ピアノ・ソナタ イ長調  D959
          ≪休憩≫
          ピアノ・ソナタ 変ロ長調 D960

内田光子については、最近すごいらしい、という話は聞いていましたが何となく食わず嫌いで熱心に聴こうとしないまま時が過ぎておりました。いや、正確にいうとジェフリー・テイトとのモーツァルトのシリーズのCDは、少しは聴いたがあまり感心しなかった。どんなフレーズも指のメカニックな運動にしてなるものか、という意思は良しと思うが、なんだか表情がいちいちうるさくてね。そんな訳でモーツァルトのコンチェルトはゲザ・アンダの全集があれば充分と思ってました(それとミケランジェリがジュリーニと協演した放送録音の幾つかがあればもうそれ以上何も望まない、と)。
今回たまたま学生時代の畏友からお誘いがあって行ったわけですが、結論から言えば本当に素晴らしいリサイタル、それも一生に何度あるか、というぐらいの充実したものでした。内田氏も既に還暦を少し過ぎて、恐らく今、ピアニストとしての絶頂期を迎えているような気がしました。メカニックと言う意味では僅かなほころびはありましたが、音楽的にはもう凡百のピアニストがよってたかっても足元にも及ばないような近寄りがたい域に達していると思います。

プロアマ問わず、シューベルトの遺作のピアノソナタを少しでも自分でさらったことがある人は、ハ短調・イ長調・変ロ長調を一晩で弾く事が、肉体的にも精神的にもどれだけ過酷なことかお判りだと思います。これらのソナタは耳で聞いて受ける印象、あるいは楽譜づらを目で見た印象よりは遥かに技巧的に難しいですが、だからといってリストばりの殊更なヴィルトゥオジテが要求されているという訳ではありません。ですが、この孤独な魂と語り合うような3作品は表面的な技巧以上に、張り詰めた精神の緊張が、それに伴う激しい気力の消耗を招くような気がします。もちろん弾き手だけでなく聴き手に要求される極度の緊張もただならぬものがあります。一言で言うなら「ありえない」プログラムだろうと思います。

なんといっても今回最も聞き応えがあったのはイ長調。豊穣な歌と幸福感に満ちた第一楽章のあと、精神の深淵を覗き込むような第二楽章の素晴らしさをどう表現したらよいでしょうか。彼女が忘我の境地で第二楽章を弾いている間、確かに二千人近い聴衆が周りを取り巻いていた訳だが、私は独りシューベルトの孤独に向き合う内田氏の、ひりつくような彼女自身の孤独の痛みを感じながら、自分の孤独が照り返されるのをただひたすら見守っていた、というべきでしょうか。この絶対的な孤独こそが晩年のシューベルト(31歳で死んだシューベルトに晩年という言い方が相応しいかどうかはともかく)の特徴、これをここまで表現しきった演奏というのはちょっと他に思いつかない。殆ど聴衆を拒絶するかのような深淵の表現の後だからこそ、軽快な第三楽章、リートの主題を借用したと思しい第四楽章の晴朗さが引き立ちます。私はこのイ長調に関してはクラウディオ・アラウのフィリップス盤が空前絶後だと思っていましたが、第一楽章の艶やかに花が咲くような主題の歌わせ方こそアラウには及ばないものの、第二楽章の深い解釈については内田氏がむしろ勝っていました。私自身もようやくアラウ盤の呪縛から解けそうです。それにしても最後の最後に第一楽章冒頭が回帰するところ、聴いていて胸が熱くなります。いつの日か、この世を早く去った懐かしい人達との再開の喜び、幸福感はかくもあろうか、という思いがしました。

リサイタル冒頭のハ短調も優れた演奏。聴き手の耳が慣れないせいか、それとも楽器そのものの鳴りのせいか、最初の曲目だけに大ホールではピアノの音が拡散してしまいがち、それでも終盤には気にならなくなってしまいます。第二楽章、ここでも聴衆を拒絶するかのような忘我の境地を見せる。ふと、彼女のシューベルトの演奏には、この巨大なホールではなく、小さいが良いピアノのあるホールでせいぜい数十名程度の聴衆に聞かせるのが正しい姿ではないか、と思う。彼女の人気、ステイタス、プロモーション戦略あらゆる面から不可能なのは分かっていても、そう思う。基本的に彼女のシューベルトは、群集に語りかける類のものではない。そもそもシューべルトの遺作三作自体が、本当に判ってくれるごく少数の人間に向けて書かれた音楽なんでしょうが、これを彼女は自分のための祈りのように弾く。そこには芸術家の正しい姿として、ショウマンシップの片鱗もない。それなのに、長大なリサイタルの最初だから、という計算があってのことでしょうが第一楽章提示部の繰返しなし。どうせ一晩のリサイタルとしては破格もいいとこなのだから遠慮せず繰り返してほしいと思う。第二主題変ホ長調から変二長調への和音の移ろいがあまりに美しくて、もう一度と熱望してしまいます。

休憩後の変ロ長調、まるで霧の向こうから現れたような茫漠とした第一主題、またしても作曲者と演奏者と聴き手の三つの孤独な魂の交感を感じます。内田氏は鎮魂の儀式を司る巫女のように思えてくる。桁違いに長い第一楽章が終わって深く息をつく暇も無く、再び深淵に沈んでいくような二楽章。私がもしプロのピアニストだったとして、このソナタを人前で弾く勇気はない。この孤独には耐えられそうにないから。彼女の強靭な精神力、孤独に耐える凄まじい力に満腔の敬意を表して、私も正直にその時感じていた真情を吐露しよう。このソナタを親しみ易い、とか暖かい歌心、とかいった感覚でしか聴けない者たち、語れない者たちは立ち去ってほしいと思う。シューベルトの心の闇に気づかぬ鈍感な人間はこの神殿に立ち入るべからずと思う。彼女の演奏をメカニックの瑕疵が以前より増えたとかなんとか、そんな基準でしか語れないものも去れ。確かに一曲一曲長いけれど、たかだか4,50分のソナタの楽章の合間の咳すら我慢出来ない者も去れ、と。私はオペラの帰りなど、不特定多数の聴衆との見えない紐帯を感じて、連帯感に満ちた暖かい気持ちを抱いて帰るのが常なのに、このシューベルトのリサイタルではそれは全く感じられなかったのです。自分とごく少数の聴衆だけが選ばれし者であるという幻想を抱いてしまう。もっと正直に言おう。この千数百人の聴衆の中で、本当にシューベルトの遺作のソナタの意義を正しく理解し、内田氏の演奏のよって立つところを理解しているのは俺と畏友と、あとせいぜい10人ぐらいじゃねえか、と(笑)。いや馬鹿な考えだというのは良く分かっています。これは限りなく大衆というものに対する悪意、いや憎悪といってもいいくらいの感情ですが、この感情はシューベルトの音楽そのものに根ざしているような気がしてなりません。シューベルトの本質が、大衆ではなく孤独な私のためにだけ語りかけるその音楽の本質が、私にそう思わせるのではないか。とくに晩年のシューベルトの解読にはこの悪意が重要な意味を持つような気がしています。心優しい友達想いのシューベルト、といった幻想はそろそろ止めませんか、と。子供の情操教育にシューベルト・・・やめといた方がいいですよ奥さん(笑)。
鬼火がちろちろと燃えるような冷たい火のような第三楽章のあとの最後のロンド、もうあと数分で終わりというところでちょっとした事故がおこり、一小節弾き直し。あちこちに無限ループに落ち込む罠が仕掛けられたこの楽章で、おそらく疲労の極致でふと魔が差したのでしょうか。全体からいえば本当に些細な瑕ですが心臓が停まりそうになりました。それでも本当に素晴らしい演奏でした。全曲を弾き終えた後、もう拍手拍手、私は普段スタンディングオベイションというやつが嫌いなんだが、今日は自然にそうしたくなった。今までごく僅かなモーツァルトの録音以外知らずに残念だって?それがそうでもない。この日こうして一生に数度限りというほど素晴らしい演奏を聞かせてもらって、もうそれだけで充分という気持ちです。
ちなみにイ長調のアラウは凄いが、ハ短調と変ロ長調はそれほどでもない。この二曲は私も決定盤を知りません。いずれ内田盤を聴いてみましょう。
by nekomatalistener | 2011-11-08 21:14 | 演奏会レビュー | Comments(12)

ストラヴィンスキー自作自演集WORKS OF STRAVINSKY (その2)

ある日の夢。単身先のワンルームは、ベッドの足元側がシンクと玄関になっているのだが、それがなぜか旧家の黒光りした階段のようになっていて、薄暗い中、その階段を腰の曲がった老婆が念仏を唱えながら物凄い勢いで昇ったり降りたりしている(ちなみにどれぐらい物凄い勢いかと言うと輪っかの中をくるくる回るハムスターぐらいである)。それをベッドに仰向けに寝たまま金縛り状態で見ていると、今度はその老婆がこっちめがけて突進してきた。汗びっしょりで目が覚めたのだが・・・だれか夢分析してくださいw。




CD2は超有名曲の組合せ。

 CD2
  バレエ「ペトルーシュカ」(1910~11/1911初演/1946~47改訂) [1960.2.12-17録音]
  バレエ「春の祭典」(1911~13/1913初演/1947改訂) [1960.1.5-6録音]
  作曲者指揮コロンビア交響楽団

「春の祭典」からいきます。前回「火の鳥」の版の問題について、あまり重要な議論ではないといったニュアンスの書き方をしました(少なくとも全曲版に関しては)。しかし、この「春の祭典」についてだけは、版の問題を抜きに語ることはできないと思います。最後の「生贄の踊り」、あるべきところに音がなくて初めて聴いた時は「録音事故」かと思ってしまうぐらい、ある意味衝撃的。階段を歩いていて、あともう一段あると思ったら無かった時みたいに、ひっくり返りそう、あるいは関節が外れそうになる。事故かと思ったら、繰返しも同じなので、これは版が違うのだとようやく気づく。時に金管群がごっそり16分音符一音分抜けたり、間違いましたと言わんばかりのタイミングでティンパニが鳴ったり、今までそれなりに色んな演奏を聴いてきたつもりだが、こんなの聴いたの初めてです。もともとこの作品はいろんな版があって、今手元になくて詳細は確認できませんが、Boosey&Hawkes社のスコアを見ながらいろんな録音を聴いても、ファゴットのパートに前打音があったりなかったり、といったレベルだと演奏によって細かいところがかなり違う。でもこの版の違いはそういった印税稼ぎみたいなものも含めたマイナーチェンジとは少しレベルが違う感じです。いったいどういう版なのか?この謎、ネットで調べてみたら意外と簡単に解決しました。
http://www.k4.dion.ne.jp/~jetter/cd/rite_edition.htm
という物凄くマニアックな方のHPで「春の祭典」の版の問題を整理しておられますが、これによればこの自作自演の準拠している版は1943年のAssociated Music Publishers版という、他の指揮者がめったに取り上げないレアな版ということになります。ただでさえ(=一般的な1947年版でさえ)、強烈な関節外しのリズムが続く「生贄の踊り」、それに輪を掛けるようにがっくんがっくんとつまづいたりつんのめったり、最後の一音まで異様としか言い様のない音楽が続いていきます(それにしても世の中には恐るべきマニアがいらっしゃるものです。「春の祭典」の版の問題について大変勉強になりました)。
ここ以外の部分はほぼオーソドックスな演奏(作曲者自身が振っていてオーソドックスというのもへんな話だけど)、第一部などどちらかと言えば大人しいくらい。「生贄への賛美」の部分も慌てず騒がず「正しい変リズム」を刻んでいきます。
「春の祭典」は指揮者もオーケストラも様々な組合せの無数の録音があるせいもあって、この自作自演集の中でも最も聴き手によって好き嫌いが分かれる演奏だろうと思いますが、私は大変感銘を受けました。私は、この自作自演集の殆どの演奏がファーストチョイスに相応しい演奏として人様にお薦めできるものと考えていますが、この「春の祭典」に限っては、ブーレーズでもアバドでも何でも良いけれど幾つかのスタンダードと目される演奏を聴きこんだ経験をお持ちの方(「生贄の踊り」くらい鼻歌で歌えるわそんなもん、と仰るような・・・)の、セカンドチョイスの対象として強力に推したいと思う。
作曲者だって恐らくこれが自分の最後の演奏になるだろうと判っていたはずだし、そこで敢えてレアな1943年版を用いたことに遺言としての大きな意味があるのだろうと思いました。彼自身、今後1947年版が一つのスタンダードとして浸透していくだろうということは容易に想像がついていたはずですが、最初は衝撃的であったものが次第に手垢にまみれ、角がとれていく、そういった歴史的必然に対して、敢えて事故と見紛うばかりの新たな衝撃を盛り込んだ版(しかもそれは作曲者自身が半ば引っ込めてしまったもの)を採用した、と。その録音からほぼ半世紀後、こうして日本の片隅で演奏を聴いた私は、作曲家の仕掛けた罠にまんまと引っ掛かって、「なんだこの演奏は?」とショックを受けているわけです。偶々今回目にしたいくつかのブログでも、この最後の部分のガックンガックン振りにとまっどったり、あるいは前回ご紹介した世間に流布されている俗説(指揮が無骨、あるいはもっと端的にいうとヘタ)を再確認されている向きもおられたり。みんな作曲家の仕掛けた罠に引っ掛かったという点では同じというのも、なんだかちょっと楽しい感じがしますね。

「ぺトルーシュカ」、これも本当に見事な演奏。作曲者自身が振っているから説得力があって当たり前、というのはやはり違うと思います。これだけのポリリズムの饗宴を正しく再現するスキルというのは、一朝一夕に身につくものではないと思います。むしろ後世の指揮者達が、荒ぶるポリリズムの氾濫にやすりをかけ表面を滑らかにしていく傾向があるように思われるのに対して、この演奏の特徴はそのぶつかりあい、もつれ合うリズムを強調、というか整理しないままで放り出すようなアプローチにあります。こう言うとまたしても、「その整理のしなさ加減が、いわゆる無骨とかヘタとか言われる所以じゃないのか?」と訝る方もおられるかもしれませんが、それは違う。指揮者の頭のなかにはきっと進む速度がそれぞれ異なる時計が3つくらいあって、混沌とは明らかに異なる明晰さでさまざまなリズムもテンポも異なる対位旋律が歌われ、音楽が進んでいきます。オーケストラの各楽器の音色は、火の鳥同様ギトギトした原色志向。ここに聴かれるのは歳をとって丸くなった老人の音楽ではなく、1911年当時の(アンファンテリブルというには少し歳をとりすぎているがまだまだ若い)作曲者自身の姿です。これは本当に、若き日の自作を一つの客体として完全に手中に納めた者だけに可能な表現だと思います。ちなみにこの演奏、CDを収めた紙ジャケには1911年版と記載されていますが、あれこれブログ探索していると1947年版の間違いとの指摘もありました。私はぺトルーシュカに関しても版の問題について詳しくないので何とも言えませんが、本当にネットの世界にはすごいマニアがうようよいますね。ブルックナー同様版がいろいろあるというのはある意味マニア心をくすぐり、薀蓄合戦もまた楽しからずや、というのも良く判ります。楽譜がもうすこし安くて版違いの入手が容易であれば私も参戦したいと思うけれどなかなかそうもいかない、というのが実情です。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-11-05 20:11 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ストラヴィンスキー自作自演集WORKS OF STRAVINSKY (その1)

葬儀の席にて。斎場の司会のお姉さん、やけに目張りが濃いなぁと思っていたら、隣の人がぼそっと「エジプトのミイラ・・・」と呟いた。悶絶して死ぬかと思った(でもよく考えるとミイラじゃなくて、クレオパトラ(の目張り)とか言いたかったんだと思う)。





以前予告した通り、これから暫らく、表題の記念碑的CD(SONY CLASSICS)について紹介していこうと思います。CD22枚組ですから恐らく22回シリーズ。このブログを開設してから今まで、一つの作品についてどちらかと言えば狭く深く、可能な限りスコアの分析なども交えながら思うところ感ずるところを書いてきましたが、これからCD22枚分の音楽でそれをやろうとすると息切れしてしまうでしょうし、第一スコアも大して持っておりません。ですからこのシリーズについてはなるべくさらっと、感想文みたいなレベルで、でも読んでいただいた人に「ああこれ聴いてみたい」と思ってもらえるような記述を心がけて書いていきたいと思います。

 CD1
 バレエ「火の鳥」(1909~10/1910初演) [1961.1.23-25録音]
 ロシア風スケルツォ(1943~44) [1963.12.17録音]
 幻想的スケルツォOp.3(1907~08/1909初演/1930改訂) [1962.12.1録音]* 
 幻想曲「花火」Op.4(1908/1908初演) [1963.12.17録音]
 作曲者指揮/CBC交響楽団*・コロンビア交響楽団

一体誰が言い出したのやら、世間では「ストラヴィンスキーの指揮というのはものすごく無骨らしい」とかいった俗説がけっこう信じられているばかりか、タワレコのPOPにも「作曲家のぶっきらぼうな指揮」などと書いてあって、売る気あるのかと思ってしまう。私も作曲家の自作自演なんてまぁそんなもんだろうと思って買うのを少し躊躇ってましたし、コロンビアSOというのも(私がオケを良く知らないだけかも知れませんが)なんとなくニ流感ただようところです。しかし実際に聴いてみて驚きました。作曲者はおそらくリムスキー・コルサコフの弟子の頃から指揮法もちゃんと学んだのだろうと思いますが、まったく余技という感じがしません。むしろ自作自演でこれだけやられてしまったら後世の指揮者は本当に困ったと思いますよ。コロンビアSOのメンバーのヴィルトゥオーゾぶりも大したもんです(wikipediaによればコロンビアSOは録音用の臨時編成もしくは覆面オケで、その実態はニューヨークフィルのメンバーだったりするそうですね)。
それにしてもよくこんな企画が通ったもんだと思います。いくら自作自演といっても3大バレエ以外は(当時も今も)まるで一般受けしそうにないですしね。その頃コロムビア社の内部でどういった経営判断がなされたのか判りませんが、もうこれは崇高な使命感、というべきものだったのでしょう。

まず「火の鳥」。よく話題になる版の問題ですが、私はもともと詳しくないですしスコアも持っていないのでどこがどうとか言えません。私の理解では何種類もある組曲版と違い、全曲版は1910年の初演版しかないと思うのですが、それもよくわかりません。しかしそんなことより、人生の終わりに差し掛かった作曲者が50年も前に作曲した作品を振っているのですから、これこそ最終稿の響きだというだけで十分なのではないでしょうか。
演奏は全体的にはギトギトした4管編成の響きを生かした凄まじい迫力のもの。こういう演奏が本人の指揮で出てくると、バルトークらがどんなに影響を受けたかということが知識としてではなく感覚として良く判ります(バルトークが少し後に書いた「中国の不思議な役人」にははっきりと「火の鳥」の影響が刻印されています)。しかも単に迫力があるというだけでなく、「火の鳥の嘆願」では少しざらっとした弦の響きによって、むせかえるような異教的な雰囲気が醸し出されていますし、「王女たちのロンド」の、ネルの手触りのような、鼻にかかった弦楽器によるノスタルジックな表現も素晴らしい。作曲者の頭の中にこういうテクスチュアがあって、それを克明に記譜し、指揮して的確にリアライズする能力の高さに圧倒される思いです。
「魔法のカリヨン、カスチェイの番兵の怪物たちの登場」は本当に天才ならではの筆致です。この部分を例えばブーレーズ/シカゴSOの演奏で聴くと、エスタブリッシュメントというか、すっかり古典となった音楽に聞こえますが、作曲家の指揮では面白いことに今生まれたばかりの前衛的な現代音楽という風に聞こえます。ここから「カスチェイ一党の凶悪な踊り」まで、演奏も録音も凄いですね。録音に携わった技術者達もコロムビア社の威信にかけて、という感じだったのでしょう。「石にされていた騎士たちの復活、大団円」も凶暴なブラスの凄まじさにぞくぞくします。
もう一つ特筆すべきことは、全曲版に多かれ少なかれ付きまとう冗長感(それはバレエという視覚的要素がないせいかも知れません)が、この演奏では殆ど感じられなかったということです。それほど迷いがなく、勢いに満ちた演奏。おかげで却ってバレエという形態で観てみたいと痛切に思った次第です。この国では仕方ないことですが、「火の鳥」がどんなに有名曲であっても、それをバレエで観た人は殆どいないと思います。しかし、そういった受容の形態はやはり歪というべきでしょうね。

次のロシア風スケルツォ、これだけ作曲年代が離れているけれどあまり違和感がありません。「火の鳥」が若書きとして見劣りする訳でもなければ、このスケルツォが円熟の境地という訳でもない。もともと映画音楽として委嘱されたとのことですが、いずれにしてもオーケストラのアンコールピースとしてはとても気が利いていて、おしゃれでしかも知的。主題がペトルーシュカの一節にちょっと似ているのも面白いですが、ピアノとハープをフィーチャーしたトリオの、和声のお約束の破り方がすっとぼけた感じで何ともユーモラス。何時ものことながら洗練の極みのような小品です。ふと、ストラヴィンスキーという人、こういうところが器用すぎて損をするタイプなのかも、と思いました(委嘱されると、簡単にちゃちゃっと書けてしまって軽く見られる、みたいな)。

「幻想的スケルツォ」と「花火」、些か同工異曲という感じですが、いずれも作曲の経緯はwikipediaを見て頂くとして、実質的にはリムスキー・コルサコフ門下としての卒業作品だろうと思います。こういった作品を聴くにつけ、私には彼の先行者に対する知識がすっぽりと抜け落ちていることを痛感します。具体的にはリムスキー・コルサコフの他に、もしかしたらボロディンも。リムスキーはシェエラザードしか知りませんし、ボロディンに至ってはイメージさえ湧きません。
それはともかく、極彩色のオーケストレーションには若書きの稚拙さは微塵もありませんが、聴いて楽しいかと訊かれたら微妙なところも。「花火」はストラヴィンスキーには珍しいくらいの描写的な部分もあって、ディズニーの「ファンタジア」みたいに脳裏に花火が明滅するのが煩わしい。これもブーレーズの演奏だと、スコアのディティールの精密なリアリゼーションに重心を置くあまり、鈍重で野暮ったい感じがしてならないのですが、作曲家の指揮は意外なほど現代的、都会的。指揮者として、自分の若き日の作品達を完全に客観視し得ていることの表れだろうと思います。

以下、こんな感じで書き進めていきます。万人に薦められるCDではないことは重々承知してますが、ストラヴィンスキーといえば3大バレエしか知らないというのは(実際にそういう人多いと思うのだけれど)何としてももったいないと思うので、他の曲も聴いてみるきっかけになれば素敵なことだと思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-11-02 23:22 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)