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ドヴォルザーク 「ルサルカ」 ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(その3)

「大魔神怒る」を「だいまじんおこる」と読むとなぜか脱力する。




今回と次回、全3幕の音楽を一通りなぞりながら、もう少し「ルサルカ」を構成する音楽的要素について考えてみます。
第1幕。序曲Andante sostenuto(ハ短調)は和声の半音階的な移ろいが美しい名曲だと思います。ここには彼がこれまで学んできたドイツ流の手堅いオーケストレーションと、独特と言ってよい抒情が結合されています。変ホ長調に転調すると、ホルンとイングリッシュホルンによる狩人の歌が現れます。ワーグナー風の森の情景描写、鳥の声、円熟した書法ですが、ボヘミアの森から何時の間にかドイツの森に来たような気がするのがご愛敬。
イ短調Allegro moltoの導入の後、イ長調に転じて森の精と木霊の合唱が始まります。イ短調の間奏はドヴォルザーク独特の泥臭いもので、太鼓にシンバル、トライアングルも入って派手に繰り広げられますが、交響曲の一節なら恥ずかしくていたたまれないような音楽も、オペラであれば辟易はするがなんとか我慢できるというもの。合唱と間奏が繰り返され、嬰ハ長調に転じた後、もう一度合唱と間奏。全体に後期ロマン派というにはあまりに素朴でおとぎ話的というよりは子供っぽい感じがします。
次いでへ長調に転調し、水の精登場。ここからしばらく森の精との対話が続きます。変ホ長調のハープのカデンツァと共にルサルカが登場し、転調の多いワーグナー風の水の精とのやりとりの後、へ長調Moderato ma un poco più mosso のルサルカの美しいアリオーゾ Sem často příchází a v objetí mé stoupá。ここにはワーグナーの影はなく、これが真正なドヴォルザークの持ち味ではないかと思わせられます。さらに水の精とのやり取りの後、変ト長調の例の月に寄せる歌、水の精の嘆き、ルサルカの魔法使いイェジババへの呼びかけと続いていきます。
イェジババ登場の後のルサルカとの対話はまたもやワーグナー風の調性の不安定なものですが、嬰へ短調AndanteのルサルカのアリオーゾStaletá moudrost tvá všechno ví は音楽と言葉が一体となって、オリジナリティに裏打ちされた感動的な頁で素晴らしい。それに続くルサルカのレチタティーヴォ風のRusalky za noci hrozbou svou strašíš も素晴らしい。このような朗唱風の部分だけで全曲が構成されていたとしたら、このオペラ、20世紀の偉大な作品達の先駆的存在、例えばドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」のような存在になり得ていたのではないかとさえ思わせられます。それがあっという間に終わってしまうのがなんとも惜しいのですが。
イェジババとの対話の後、二短調の間奏となりますが、序曲冒頭の旋律が若干モディファイされると、マーラーの6番交響曲の一節が突如鳴りだしたような錯覚を覚えます。いや、これ錯覚ではなくマーラが引用したのではないのか?ドヴォルザークが1904年5月に死んだ正にその年の夏に、この「悲劇的」というタイトルの付いた交響曲が書かれています。偶然というには符徴が合いすぎますね。
この間奏の後、イェジババの呪文の歌Čury mury fuk(Allegro vivo ロ短調)が歌われます。前半は子供っぽくてあまり面白いとも思いませんが、後半のレントラーは狩のホルンが遠くで鳴り響き、まるでマーラーの「子供の不思議な角笛」を思わせます。ルサルカを書いていた1900年当時、ドヴォルザークは1886年作曲の「角笛」を知っていたのでしょうか?マーラーがルサルカの存在を知っていたのははっきりしているようですが。引用したりされたり、が本当であれば実に興味深い話です。
水の精の嘆きが繰り返された後、Andante変ホ長調の狩人の歌、Meno mossoの王子の口上。二長調Andante con moto の王子のアリアVidino divná, přesladká から独自の抒情の世界に入っていきます。水の精の娘たちの叫び、水の精の嘆き、そして最後変イ長調Andante sostenutoで王子のアリアVím, že jsi kouzlo, které mine、もはや誰のエピゴーネンでもない、ドヴォルザークの真実の音楽が高らかに歌われ、幕を閉じます。

結論めいた事を書くと、全曲の中でもこの第1幕がもっとも音楽として充実しているように思いますが、いままで詳細に見てきたとおり、ここにはワーグナーの顕著な影響、メルヘンオペラとしても些か素朴すぎる音楽、仮説レベルではありますがマーラーの角笛の遠いこだま、かつてのトレードマークであった泥臭い旋律、そして私が円熟期のドヴォルザークの本当にオーセンティックな音楽と考えているもの、これらの様々な要素が今一つ溶け合わずに並置されているような感じがします。私はルサルカを聞き始めた当初、この様式の不統一感はこの作品の弱点であって、一言でいえば「惜しい作品」だと思いましたが、何度も聴いているうちにこれはこれでひとつの魅力ではないか、と思うようになってきています。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-09-29 23:39 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ドヴォルザーク 「ルサルカ」 ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(その2)

会社の友人と電車の中で生体肝移植について議論する。
友「肝移植ってさあ、血液型違っても出来んの?」
私「うーん・・・血抜きとかしたら出来んじゃないの?」
友「そっか、肝臓だしな~」
けっこう真面目に議論していたのだが隣の客が笑いだした。



このルサルカというオペラ、1900年の作曲ですから、ドヴォルザークの一般によく知られている作品(交響曲やチェロ協奏曲、弦楽四重奏曲「アメリカ」等々)は既に数年前に完成されており、晩年の円熟期を迎えていたと言えそうです。一方で1900年という年を考えた場合、1904年にヤナーチェクがモラヴィア方言で書いた「イェヌーファ」が初演され、1911年にはバルトークがハンガリー語で「青髭公の城」を書いたことを知識として知っている現代人から見れば、ルサルカには二つの限界を感じざるを得ません。
一つは題材の問題。
お話の骨格は淡水版人魚姫。他愛もない童話ですが、料理次第でいくらでも大人向けに出来そうなものなのに、水の精だの魔法使いだのの歌が延々と続く割に、王子様との場面はあっさりしていてエロティックな要素はほぼ皆無。別に「青髭公の城」の晦渋だが強烈なエロス、みたいなものは求めませんが、「トリスタンとイゾルデ」後に、子供向けという訳でもないのにこの無毒ぶりは何なんでしょう。
もうひとつは、言葉と音楽の関係について、やはり自覚的であったと言うにはいささか中途半端であることです。前回に書いたとおり、チェコ語の抑揚を慈しむように書かれた頁があることは確かだと思うのですが、本来言語の音韻構造が異なれば、音楽の拍節の構造も全く異なってしかるべきでしょう。ですが、ルサルカにおいては、第1幕で支配的なワーグナー風の楽想、第2幕におけるチャイコフスキー風の楽想が、チェコ語の抑揚を生かしきる邪魔立てをしているように思われます。別にドヴォルザークの責任という訳ではありませんが、20世紀に活躍した天才達の先駆者とはちょっと呼べそうにないのは、少し残念な感じがします。

もう少し「月に寄せる歌」にこだわってみます。まず例によって歌詞と対訳(www.opera-guide.ch/の英訳からの拙訳)を掲げておきます。

 Měsíčku na nebi hlubokém,
 světlo tvé daleko vidí,
 po světě bloudíš širokém,
 díváš se v příbytky lidí.
 Měsíčku, postůj chvíli,
 řekni mi, kde je můj milý!
 Řekni mu, stříbrný mĕsíčku,
 mé že jej objímá rámĕ,
 aby si alespoň chviličku
 vzpomenul ve snĕní na mĕ.
 Zasvĕt' mu do daleka,
 řekni mu kdo tu naň čeká!
 O mnĕ-li, duše lidská sní,
 at'se tou vzpomínkou vzbudí;
 Měsíčku, nezhasni, nezhasni!

 おお、空の奥深く、高く昇った月よ、
 お前の光は遠くの国々を照らし、
 家々を覗き込みながら、
 この広い世界を巡っている。
 おお、月よ、じっとしていておくれ、
 あのお方はどこか教えておくれ。
 銀色の月よ、お伝えしておくれ、
 私はあなたを抱きしめましょう、
 たとえ束の間でもよいから、
 夢で私を思い出してくださるように、と。
 あのお方の遠いお城を照らし、
 私はここにいるとお伝えしておくれ。
 もし夢で私をご覧になっているなら、
 目覚めた後も憶えていてくださるように。
 おお、月よ、消えないで、消えないで!

音韻構造だのなんだの御託を並べましたが、私はチェコ語についての知識が全くありません。なのに何を大それた事を、と仰る方がおられるかも知れません。ですが、ドイツ語との違いなら比べてみればすぐに判ります。幸い、ルサルカの出版譜の声のパートにはチェコ語とドイツ語の両方が歌詞として書きこまれています。言語によって旋律を変えざるを得ない場合は、音符の旗が上向きに付いているのがチェコ語、下向きに付いているのがドイツ語に割り当てられています(ドイツ語用の音符は恐らく他人の手によるものでしょうが)。
IMSLPからダウンロードした楽譜はコピーガードされていますので、言語別に分けて再構成した楽譜を表示します(この楽譜はMuseScoreという無料ソフトで作成したものを圧縮してpngファイルにしたものですが、慣れないので数時間も掛ってしまいました・・・笑)。
まずはチェコ語バージョン。
a0240098_25659.png

お次はドイツ語バージョン。
a0240098_2565440.png

「月に寄せる歌」の出だしの部分ですが、わずかな差でも両者で随分と印象が異なります。最初の小節、チェコ語のほうは八分音符3個に対しドイツ語は附点付き。チェコ語のほうは長母音の-sí-に、そっとアクセント記号が付けられています。第7小節、チェコ語はvi-が短母音で-díが長母音ですので、前詰めの音形ですが、ドイツ語では第2音節は2拍目の八分音符に乗せられています。15小節目も同じく、チェコ語ではli-が短母音、-díが長母音ですので前詰の逆附点ですが、ドイツ語では八分音符2個。概してこのアリアではチェコ語の抑揚が比較的素直に音楽に反映されています。「月に寄せる歌」の創作の秘密、ミューズが降り立った原因を言葉の問題だけに帰するつもりはありませんが、非常に重要な要素ではあるでしょう。
当たり前のことですが、言語によって音楽が(正確にいうと拍節が)変化します。ドイツ語バージョンを仔細に見ていくと、チェコ語バージョンにないアウフタクトが頻出する箇所すらあります(音節の数の問題ではなく、ドイツ語の音韻構造がアウフタクトを招き寄せているのです。DerとかEinで始まる歌詞を強・弱の拍節を持つ旋律に乗せようとすれば必然的にアウフタクトが必要になりますね)。チェコ語の特性に起因する逆附点の音形や、語尾に短母音2個が繋がる場合の寸詰まりのような終始を持つフレーズは、このオペラのあちこちに出てくる非常に特徴的な音形ですが、ドイツ語バージョンではこの特徴は相当数消えてしまいます。裏を返せば、チェコ語の台詞にドイツ仕込みの、あるいはチャイコフスキー風の旋律を当てはめるとしたら、少し無理が生じるのではないか、とも思われます。
この「月に寄せる歌」では、完璧ではないにしても、チェコ語の抑揚に寄りそった旋律が書かれています。逆に他の箇所では随分無頓着に見えるところ(旋律が先にあってチェコ語が無理やり嵌め込まれている印象)もあります。もし、音楽のアーティキュレーションの全てを完全にチェコ語の音韻構造に従わせるとしたら、この音楽の姿は随分違ったものになったと思いますし、さらに言えば、言葉があろうがなかろうが、音楽的発想が根源から異なったものになった可能性すらあります。
時代が少し下ってバルトーク(私はあまり知らないが多分ヤナーチェクも)が行なったことはそういうことだったのだと思います。前回、このオペラがちまちまして聞こえ、ファンタジーとしての広がりに欠ける理由を、ドヴォルザークのドイツ正統派音楽とドイツ語による楽劇へのコンプレックスに求めましたが、ドヴォルザークという人は恐らくベートーヴェンやブラームス、ワーグナーをある時期猛烈に勉強したに違いありません。ドイツ音楽ではありませんがチャイコフスキーに対してもそうでしょう。逆にその修練がチェコ語のリブレットを前にした時、歌詞の求めるアーティキュレーションと音楽的発想の矛盾を招き、結果として音楽が窮屈なものになったのではないか、というのが今のところの仮説です。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-09-26 02:00 | CD・DVD試聴記 | Comments(6)

ドヴォルザーク 「ルサルカ」 ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(その1)

かなり昔。カミサンが一人目の出産で里帰りしていた時、会社の一年上の人が家に遊びに来た。飲みながら先輩「最近英会話のレッスン行ってんだ」 私「すごいやないですか」 先輩「けっこう喋れるようになるもんだよ」。で、彼そのままいい気分で爆睡。しばらくそのままほっといたら、寝言で「・・・むにゃ・・・むにゃ・・・カッフィー・・・」。えっ、カッフィーって。coffee?それ、会話やのうて単語ですやん。




ドヴォルザークが苦手です。幼少のみぎり、小学校の下校時にスピーカーから鳴る音楽が「新世界から」の第2楽章。これはまあ素敵な音楽だと思うけれど、前後は苦手。終楽章はなんとなく恥ずかしくて聴いていられない(というか、最後まで通して聴いたことがない)。
チェロのコンチェルトもよく知りませんが、やっぱりちょっと恥ずかしそう。ト短調のピアノ協奏曲はリヒテルが弾いてるから、と学生の時に友人宅で聴きましたが、だめでした。おまけにスコアを見たら、ピアノパートはどっかのピアニストが相当手を入れて何とかコンチェルトらしくなってますが、オリジナルのパートはソナチネか、みたいな感じで恥ずかしさも倍増。なんで無理してピアノ協奏曲書いたのか。
数年前、取引先の社長に大阪シンフォニカーの演奏会に誘われ、シンフォニーホールで8番だかなんだかの交響曲を聴きました。社長には予め「ちょっと最近忙しくて寝てしまうかも」と言い訳しておきましたが、始まって5分くらい経過したところで気絶。終楽章まで、まるで一服盛られたのか、というくらい昏睡してました。このとき、つくづく思いましたね。「ああ私は何の因果かドヴォルザークとは縁がないのだ、あの敬愛するアバド様もジュリーニ様も録音しているというのに、私にはその良さを理解する能力がないのだ。もう身銭を切ってドヴォルザークのCD買ったり演奏会に行くことは一生あるまい」と。

そんなこんなで幾星霜。今年の6月に新国立劇場でプッチーニの蝶々夫人を観たのですが、タイトルロールを歌ったオルガ・グリャコヴァというソプラノが素晴らしい出来栄えで、再度日本に来ることがあれば絶対聴きに行こう、と思いました。で、うれしいことに今年の年末に再びステージに立ってくれるのですが、曲目がルサルカ。うーんそう来るか(韻踏んでる)。でもこれも何かの縁、チケット買ってやろうじゃないか(でもB席というのがちょっと微妙なチョイス)、CDも買って予習してやろうじゃないか、と思った次第。で、このブログにこうして取り上げたということはもちろん作品を好きになったからなんですが、その好きさ加減が微妙というか。本当に好きなのは、第1幕でルサルカの歌う「月に寄せる歌」のところであって、他の部分はなんと言いましょうか、良いところもたくさんあるけれど、手堅く書かれているがダサい部分とか、ワーグナーやチャイコフスキーの劣化コピーみたいなところもあったりとか、このあたりは追々詳しく書いてみるつもりです。

ところで・・・ 一点豪華主義の系譜というのがありまして(嘘です今思いつきました)、ファッションならしまむらの上下にゴールドのロレックスとか、部屋なら畳敷き6畳間に鹿の首の剥製とか。オペラだったら、例えばドリーブのラクメ(「鐘の歌」だけ有名)、マスカーニのカヴァレリア・ルスティカーナ(間奏曲だけ有名)、ヘンデルのセルセ(オンブラ・マイ・フ)、そして最強の一点豪華主義プッチーニのジャンニ・スキッキ(私のお父さん)・・・いやいや一点じゃなくて全部いいよ、という反論はこの際措いとくとして、このルサルカ、まさにこの系譜ですね。もう「月に寄せる歌」が素晴らしすぎる。でもって、それ以外のところの音楽は上に書いた通りなのですが、全体的に何かちまちましてファンタジーが広がらない。このちまちま振りは何ゆえ?結論を急ぐつもりはありませんが、一つはブラームスやハンスリックが体現していたドイツ正統派音楽、それとワーグナーのドイツ語による楽劇へのコンプレックス、のような気がします(せんぞブラームスやハンスリックの世話になっておいて、彼らが嫌っていたワーグナーのエピゴーネン丸出しとは如何なものか)。せっかくのダイヤの原石のような優れた着想が、保守的な音楽構造に無理やり押し込まれて音楽的飛翔を妨げられているような気がします。換言すれば、古い音楽アカデミズムに角を矯められている。これがブラームスならアカデミックなカデンツ=拍節構造を突き破るだけの筆力があったでしょうし、ヤナーチェクならそもそもカデンツ構造など端から気にしない自由さと、モラヴィア方言の抑揚や民謡から得た独自の拍節法のみを信じる意思の力があったのでしょうが、ドヴォルザークにはそこまでの筆力も度胸もなかったと言わざるを得ません。
でも、それだけボロクソに言っても、この「月に寄せる歌」だけは、ミューズが舞い降りてドヴォルザークの肉体を借りて書いたとしか言いようがない。聞く度に猫にマタタビ状態。彼の全ての作品が世の中から忘れ去られたとしてもそれ程惜しくはないが、これだけは人類の未来に残しておきたい(誰目線?w)。それは単にメロディーが美しいというだけでなく、母国語(チェコ語)への愛が、本当にオリジナルな拍節構造を図らずも生み出し得たのだと思います。「図らずも」と書いたのは、言葉と音楽の関係が無頓着に見える箇所も散見されるからですが、言葉の音韻構造が人間の精神(及びその産物)の構造を決定付けるというような発想は、もちろんソシュール言語学など知るよしもない19世紀人のドヴォルザークには望むべくもないものだろうと思います。ですが、意識的であれ無意識であれ、言葉の抑揚を慈しむように音楽を書こうとした時、気まぐれなミューズが正にその時に彼のスコアに降り立ったのだと思われてなりません。

今回のシリーズも、演奏論より作品論が主になると思いますが、一応今聴いている音源のデータを記しておきます。

  ルサルカ・・・ガブリエラ・ベニャチコヴァー(S)
  王子・・・・・・・ヴィエスワフ・オフマン(T)
  侯爵夫人・・・ドラホミーラ・ドロブコヴァー(Ms)
  水の精・・・・・リハルト・ノヴァーク(Bs)
  魔法使い・・・ヴィエラ・ソウクポヴァー(A)
  ヴァーツラフ・ノイマン/チェコ・フィルハーモニーso(1982年8月25日~9月9日、83年8月23・24日録音)
  CD:SUPRAPHON COCQ84513~5)

タイトルロールのベニャチコヴァーの素直な歌いぶりは好ましくて好きですが、youtubeにルチア・ポップが「月に寄せる歌」を歌ってるところがアップされていて(それも舞台とコンサートの2種類)、これがまた素晴らしい。もう涙腺決壊。ちなみにノイマンの指揮はどことなくはじけない指揮ぶりで、世評はいざ知らず私にはちまちま感を増幅させているように思われました。
いや、あんた、そんなこと言うなら「月に寄せる歌」だけyoutubeで聴いてたらいいやんか、と言われたら・・・いやぁそれを言っちゃあ・・・ですよ。やっぱりオペラは全曲聴いてなんぼ、ですから。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-09-23 22:56 | CD・DVD試聴記 | Comments(6)

プッチーニ 「外套」 バルトレッティ/フレーニ

夢の中で「1ドルゆうたら360円に決まってるやろこのアホ!」と部下に怒る。



あの地震がなければ、3月に新国立劇場の研修生公演でプッチーニの三部作から「外套」と「ジャンニ・スキッキ」の二本立てを見に行く予定でした。浦安に住んでいるのでそれどころではなく、残念でした。
私の大好きな三部作ですが、「ジャンニ・スキッキ」についてはそれこそ何万というオマージュが今まで捧げられてきたはずですので、私が付け加えることもないと思います。「修道女アンジェリカ」も素敵な作品ですが、ちょっとあの終わり方はないだろうと思うのでパス。という訳で「外套」を取り上げてみました。音源は、

 ミケーレ・・・・・・・フアン・ポンス
 ジョルジェッタ・・・・ミレッラ・フレーニ
 ルイージ・・・・・・・ジュゼッペ・ジャコミーニ
 ブルーノ・バルトレッティ指揮フィレンツェ五月音楽祭o,cho(1991年7~8月録音)  
 CD:DECCA478 0341

この「外套」、大変な傑作だと思いますが、あまり評価されていない気がします。しかし、この中のわずか4分ほどのジョルジェッタとルイージの二重唱には、聴衆の心を鷲掴みにして引きずりまわすプッチーニのメチエが凝縮されているように思います。それは天才の一筆書きとは違う、一流のオペラ職人の仕事であると思いますが、この言い方はプッチーニの才能を貶めて言うのではなく最高級の賛辞だと受け取って頂きたいと思います。
「外套」について書くとなると、その「男と女の事件簿」みたいな情痴の物語や、タグボートや桟橋から聞こえてくる警笛などの描写的なオーケストラ書法、ストラヴィンスキーのペトルーシュカの顕著な影響など、面白い話題はたくさんありますが全て割愛して、プッチーニのメチエに焦点を絞ってみたいと思います。まず、今回取り上げる箇所の台詞(CD添付の英訳からの拙訳)から。

 GIORGETTA
È ben altro il mio sogno!
Son nata nel sobborgo e solo l'aria
di Parigi m'esalta e mi nutrisce!
Oh! se Michele, un giorno, abbandonasse
questa logora vita vagabonda!
Non si vive là dentro, fra il letto ed il fornello!
Tu avessi visto la mia stanza, un tempo!

 LA FRUGOLA
  Dove abitavi?

 GIORGETTA
Non lo sai?

 LUIGI
Belleville!

 GIORGETTA
Luigi lo conosce!

 LUIGI
Anch'io ci son nato!

 GIORGETTA
Come me, l'ha nel sangue!

 LUIGI
Non ci si può staccare!

 GIORGETTA
Bisogna aver provato!
Belleville è il nostro suolo e il nostro mondo!
Noi non possiamo vivere sull'acqua!
Bisogna calpestare il marciapiedi!....
Là c'è una casa, là ci sono amici,
festosi incontri, piene confidenze....

 LUIGI
Ci si conosce tutti! S'è tutti una famiglia!

 GIORGETTA
Al mattino, il lavoro che ci aspetta.
Alla sera i ritorni in comitiva....
Botteghe che s'accendono
di luci e di lusinghe....
vetture che s'incrociano,
domeniche chiassose,
piccole gite in due
al Bosco di Boulogne!
Balli all' aperto
e intimità amorose!?....
È difficile dire cosa sia
quest'ansia, questa strana nostalgia....

 LUIGI e GIORGETTA
Ma chi lascia il sobborgo vuol tornare,
e chi ritorna non si può staccare.
C'è là in fondo Parigi che ci grida
con mille voci il fascino immortale!....


 (ジョルジェッタ)
  あたしの夢はあんたとは違うの。
  この近くで生まれたのよ。
  だからパリの空気を吸うと元気になって生き返るの。
  ああ、いつかミケーレがこんなうんざりする
  船の生活を止めてくれたらいいんだけど。
  これは生活なんてもんじゃないわ、ベッドとストーブがあるだけ。
  一度あんたに部屋を見せたいくらいよ!

 (ラ・フルゴラ)
  どこに住んでたの?

 (ジョルジェッタ)
  知らなかったっけ?

 (ルイージ)
  ベルヴィルだよ!

 (ジョルジェッタ)
  ルイージが知ってるなんて!

 (ルイージ)
  俺もそこで生まれたんだ。

 (ジョルジェッタ)
  あたしと同じ、同じ育ちなんだわ!

 (ルイージ)
  もうここを離れちゃだめだ!

 (ジョルジェッタ)
  あんたなら分かるわよね!
  ベルヴィルはあたし達のふるさと、世界そのもの。
  水の上でなんか暮らせないわ。
  歩くんだったらやっぱり道の上よね。
  そこには家もあるし、友達もいるし、
  皆で楽しくおしゃべりしたり遊んだり。

 (ルイージ)
  みんな顔見知りで、家族みたいなもんだしな。

 (ジョルジェッタ)
  朝はお仕事が待ってるけど、
  夜はみんなで一緒に帰るの。
  お店は明々としてて、
  いっぱい物を売ってるの。
  タクシーが道を横切って、
  日曜日は騒々しくて、
  二人で出掛けるの、
  ブーローニュの森へ!
  外でダンスして、
  それからいちゃいちゃするの。
  この気持ち、なんて言ったらいいんだろ?
  恋しくて、なんだか懐かしくて。

 (二人)
  街を捨てたけど帰りたい、
  帰ればもう離れられない。
  パリが俺達(あたし達)を呼んでいる、
  たくさんの声が永遠の魅力を語っている!

ところで今回これを書くにあたって、IMSLPというHPで簡単にボーカルスコアがダウンロード出来ることを知りました。著作権の関係でコピーガードされているので添付出来ませんが、興味のある方は参照なさって下さい。http://imslp.org/wiki/
この二重唱、ジョルジェッタとルイージは不倫の間柄ですが、同僚達が周りにいるのでそんなことはおくびにも出せません。しかし、ルイージが同郷だと知ったジョルジェッタは次第に心が高ぶってきます。ついに二人は故郷への懐かしさにかこつけて愛の二重唱を歌いますが、ジョルジェッタが心の高ぶりを懸命に抑えようとすればするほど、聴く側の心も息苦しいまでに高揚し、ついには激情に翻弄されてしまいます。
練習番号48、アンダンテ・モデラートでジョルジェッタが È ben altro il mio sogno! を歌い出します。艀での生活をぼやきながらその実ルイージに恋焦がれる彼女の心は2/4拍子から3/4・2/4・3/8・3/4・2/4と激しく変わる拍子に託されています。第二節で危うく爆発しそうになる心をなんとか抑えて questa logora vita vagabonda! と歌う部分はun poco sostenendo でパルランド(話すように歌う)で歌われます。法定速度60kmの道を一瞬80kmまで暴走しかけた車が、なんとか元の速度に戻ったような感じです。
その後ルイージとのやり取りがあって、再度ジョルジェッタが Belleville è il nostro suolo e il nostro mondo! で一瞬の心の高揚を見せますが、またもや Noi non possiamo vivere sull'acqua! でsostenutoのパルランドに戻ります。ただし、一度目は二点ヘ音の連続で歌われた部分が、二度目は一瞬二点トまで上がります。さっきは80kmでブレーキを踏んだのに今度は90kmまで行ってしまったというところです。
Al mattino, il lavoro che ci aspetta 以下、4/8のメノ・モッソで暫らく60km運転が続きます。ア・テンポで突如変ロ長調から変イ長調に転調し、ゆっくり減速しながら、続くモデラータメンテで一旦徐行スピードまで落としていきます。が、彼女の心のたぎりは尚も続いていて(スコアにはcon grande intensità と記載されています)、ついに彼女の歌は三点ハまで上り詰めていきます。
練習番号53、もう誰もジョルジェッタの情欲の暴走を静めることはできません。アンダンテ・コン・モトで二人が Ma chi lascia il sobborgo vuol tornare をユニゾンで歌い始めます(スコアにはcon entusiasmo 熱狂して、の記載)。con mille voci il fascino immortale!....でついに二人は二点変ロまで上り詰めます。車のメータは・・・160kmで振り切れていました(笑)。
このユニゾンで、スコアを見ずともすぐに気がつくのは、ルイージがジョルジェッタよりも2拍遅れて歌い出すことです(途中で音を詰めて歌うのですぐに追いつくのですが)。同じ旋律が二回歌われますが二回ともそうです。これは何を意味しているのでしょうか?この不倫、ジョルジェッタが主導権を握っているのですね。この年下の沖仲士のルイージは腰が引けているのです。多分、やさ男ではあるが、小心で小ずるい男なんでしょう。結末の惨劇の前にもし二人が駆落ちしていたとしても、ルイージがすぐにジョルジェッタを捨てて逃げてしまうのは目に見えています。驚くことに、これらはすべてスコアに音で記されているのです。何度も音楽を聞けば自ずと理解できるように書かれています。冒頭に「最高のオペラ職人の仕事」と書いた所以です。
聴く者は、プッチーニの運転する車に乗せられて、一度ならず二度まで暴走しかけた後、徐行とみせかけて数十秒後にはメーター振り切れ、翻弄された挙句そそくさと二重唱は終わってしまいます。もう好きにして状態。
今回スコアを入手できたので詳細に分析してみました。その結果プッチーニのメチエの秘密の一旦が明らかになったように思います。なぜ人は、あんな三文小説みたいなボエームや蝶々夫人を観て、つい涙を流してしまうのか。そこには人間の心理を思うがままに操縦する職人の技があるのです。
by nekomatalistener | 2011-09-19 10:18 | CD・DVD試聴記 | Comments(6)

ヴェルディ 「イル・トロヴァトーレ」 カラヤン(その5)

べたうち一括変換して遊ぶ。だいたい予想通りの結果。

  会長ロプロス空を飛べポセイドンは海を行けロデム返信地を駆けろ

ロデム、返信打つのは大変だろう。肉球でぽちっとエンター(想像中)・・・かわいい。
ロプロスは高そうな麻のジャケットにループタイしてる感じ。ポセイどん、おさんどん。

  砂の嵐に守られたバベルの党に住んでいる超能力正念場ビルに勢

最後に大きく崩れる。



これまで、先の見通しもなく思いつくまま書いてきたので獺祭図の如くとっ散らかしてしまいました。もう少し深く掘り下げてみたかったのですが、どうも収集がつきません。猫またぎの名が泣きますが、素人の戯言と思ってご容赦ください。この項もそろそろ強引に幕を引くべく、最後は演奏論を離れてヴェルディの作品を俯瞰してみようと思います。

ヴェルディは生涯に28作のオペラを書きました。そのヴェルディの歩みを仮に3期に分けてみますが、第1作「オベルト」(1839.11.17初演)から第19作「椿姫」(1853.3.6初演)までを初期、20作目の「シチリア島の夕べの祈り」(1855.6.13)から「シモン・ボッカネグラ」初稿、「仮面舞踏会」等を経て25作目「ドン・カルロ」(1867.3.11)までを中期(この中には初期の「マクベス」の1865年改訂版も含めてよいと思います)、そして第26作「アイーダ」(1871.12.24)、第27作「オテロ」(1887.2.5)、第28作「ファルスタッフ」(1893.2.9)を後期あるいは完成期(1881年の「シモン・ボッカネグラ」改訂版と1884年「ドン・カルロ」改訂版も含めて)とする見方が可能だろうと思います。
初期の19作の中でも最後の3作(リゴレット、イル・トロヴァトーレ、椿姫)で、ドニゼッティ・ベルリーニ流のベルカント・オペラが完成され、同時にその解体の始まりが伺えることは先日記した通りです。
中期の諸作を特徴づけるものは、それまでのステロタイプなオーケストラ書法の著しい深化、因習的なカヴァティーナ・カバレッタ形式の放棄、錯綜したリブレットと興行面での不成功等々のキーワードで語れそうですが、一言でいうなら「苦渋に満ちた模索あるいは試行錯誤」とでも言うものでしょうね。しかし、この苦渋の時期があったからこそ、アイーダ以降の真の天才の高みに辿り着いたとも言えそうです。(余談ですが、ヴェルディ演奏の大家アバドの録音した作品がこの中期の諸作に集中しているのは大変興味深いことだと思います。)
この巨人の歩みに匹敵するのはシェークスピアの37作の戯曲の歩みです。「ヘンリー4世」で作家としての一定の高みを実現した後しばらくの間、後の人々が「問題劇」と名付けた一連の苦い味わいをもつ不思議な作品を書きました(「トロイラスとクレシダ」「終わり良ければすべて良し」「尺には尺を」等)。その後におなじみの「オセロー」「リア王」「マクベス」が続くのですが、シェークスピアの本当に凄いところは、その後「冬物語」「テンペスト」などで許しに満ちた静謐な世界を描いて更なる高みに至ったところだと思います。
ヴェルディとシェークスピアの歩みを重ねてみると、初期のトロヴァトーレや椿姫はヘンリー4世に、中期の諸作は一連の問題劇、アイーダとオテロはオセロー以下の傑作群、そしてファルスタッフが冬物語やテンペストに、不思議な符徴を見せながら重なり合うのです。
若書きのレベルから着実に上昇して一定の高みに到った後に苦渋の期間、それを経て更なる高みに、という軌跡、これこそ天才の軌跡と呼べるのではないでしょうか。

脱線ついでにもう少しこの天才の軌跡について考えてみますが、ではバッハやモーツァルトはどうなのか?彼らの作品の中で、苦渋にみちた試行錯誤の時期はあるのか、という問いについてはどうでしょうか?バッハのカンタータをあれこれ聴いてみると、確かに初期のワイマール時代のカンタータのいくつかには実験的としか言いようのないものが見つかります。例えば様々なスタイルのレチタティーヴォを連ねたBWV18「天より雨くだり雪おちて」、ダカーポアリアの可能性の追求BWV182「天の王よ、汝を迎えまつらん」等々。しかし、それ以降はなんの苦渋も淀みもなく、受難曲やミサ曲を経て「音楽の捧げ物」や「フーガの技法」の奇跡のような高みに到ったように思われます。モーツァルトも、確かにウィーンに出てからのある時期を境に、一段高いレベルに到ったのは間違いありませんが、苦渋や淀みとは無縁なように思われます。天才の質が違うのか、それとも私がそういった作品の存在を知らないだけなのか。いやいや、あんたそんな単純なもんじゃない、彼らにもこんな不思議な作品、一見淀みにしか見えないけれど重要な作品があるよ、と仰る方がおられましたら是非ともご教示願いたいと思います。
(この項、とりあえず終わり)
by nekomatalistener | 2011-09-17 22:16 | CD・DVD試聴記 | Comments(2)

ヴェルディ 「イル・トロヴァトーレ」 カラヤン(その4)

全然飼い主の言うことを聞かない犬の名前がロデム(しかも雑種)。



音楽を聴いて受ける様々な感情を言語化するのは本当に難しいですね。私の駄文を読んで、それでもトロヴァトーレを観たい、聴きたいと思って下さる人が一人でもいたら、もう4回目となるこの項を書き続ける目的の大部分は達成されているようなもんですが、猫またぎなリスナーとしては、まだまだこの魚には身が残っているような気がするのでもうちょっと続けます。

番号付きオペラという概念があります。時代時代で定義は異なりますが、いわゆるベルカント・オペラの場合、Scena-Cavatina-Scena-Cabaletta を基本形とする一区切りの楽曲を一曲として数え、全体が2曲目、3曲目と連なっていくものです。中にはカバレッタがなくカヴァティーナのみでナンバーを構成するもの(Romanza)、三部形式や二部形式による独立した合唱、あるいは各幕のフィナーレとなるナンバーでは少し自由度がアップして、ソロや様々な組合せのアンサンブルが幾つも続く場合もあります。前回舌足らずなまま、トロヴァトーレを構成する形式とその解体について書きましたが、その前提として全曲の構成がどうなっているのか見てみます。但し、スコアを見ながら、という訳ではないので、多少リブレットや楽譜の指定とはずれているかも知れませんが。

第1部
 第1曲 フェルランドと従者達の合唱による導入
  基本形。カバレッタの部分は簡潔極まりないですがいきなりメーター振り切れそうな盛り上がりを見せます。
 第2曲 レオノーラのアリア
  基本形。完璧なプロポーションの大アリア。
第3曲 伯爵・マンリーコ・レオノーラの三重唱
  基本形。第1シェーナは伯爵のソロ。カヴァティーナの部分に「トゥルバドゥールの歌」が嵌め込まれています。

第2部
 第4曲 ジプシーの合唱とアズチェーナの歌
  不均衡な三部形式。アズチェーナの歌の後に短いシェーナ、合唱の繰り返しは短縮されています。
 第5曲 アズチェーナのロマンツァ
  基本的にはロマンツァ形式と思いますが、後半は短縮されたカバレッタとも、劇的シェーナとも言える部分に繋がっています。
 第6曲 アズチェーナとマンリーコの二重唱
  基本形。
 第7曲 伯爵・フェルランド・従者達のアンサンブル
  基本形。
 第8曲 フィナーレ(レオノーラ・伯爵・マンリーコ・その他)
  尼僧の合唱の後に前曲のコーダが繰り返されるので、これを第7曲の結尾と見ることも出来そうですが、attaccaでそのままレオノーラのシェーナに続く為、これを拡大されたシェーナと見做しておきます。カバレッタは壮大なコンチェルタートの様相を帯びています。

第3部
 第9曲 兵士の合唱
  短い導入合唱とシェーナに単純な二部形式の合唱が続きます。
 第10曲 伯爵・アズチェーナ・フェルランドらのアンサンブル
  基本形。
 第11曲 マンリーコのアリア
  基本形。カバレッタの後半は兵士達も参加して白熱のストレッタとなります。

第4部
 第12曲 レオノーラのアリア 
  基本形。第2シェーナは修道僧の合唱と幽閉されたマンリーコの歌が入って拡大されています。
 第13曲 伯爵とレオノーラの二重唱
  基本形ですが、カヴァティーナの代わりに切迫したテンポの二重唱が置かれているのでカバレッタが二つあるように聞こえます。
 第14曲 フィナーレ
  様々な組み合わせのアンサンブルをシェーナで繋いでいく形式で書かれています。

カヴァティーナ・カバレッタ形式による独唱のための楽曲(他の登場人物は原則シェーナでしか歌わない)を狭義のアリアと呼ぶなら、実はこのオペラには3曲しかないのですね(No2レオノーラ、No11マンリーコ、No12レオノーラ)。なんとなく、次から次へとアリアを繋げて行く歌合戦という獏としたイメージを抱きがちな作品ですが、大半は種々の組合せのアンサンブルで構成されています。
私はこういう分析ごっこ(スコアを見ていないので、あくまで「ごっこ」です)は結構大切だと思っています。なぜなら、よく言われるような通説俗説(たとえば、ヴェルディは本来このオペラをアズチェーナと名付けようと思っていたが、なるほどレオノーラの占める位置は相対的に低い、とか)に対して疑問を持ち、判断を保留することが出来るからです。また、前作リゴレットでこの因習的な番号付きオペラの世界をせっかく脱却したのに、次のトロヴァトーレで再び保守的な世界に後退したとよく言われますが、それがどの程度正しいのか、一度は分析しないと直感だけでは判らないものです。
前回も書いたように、私はカラヤンの各幕、各部分の燃焼度の微妙な違いと、各ナンバーの様式の純正度あるいは解体の度合に関連を見たいと思っています。実のところ、矢張り相関がありそうだ、というぐらいで確信には至りません。また、どれだけ精緻に考察しても所詮印象批評の域を出ないような気もしています。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-09-15 22:22 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ヴェルディ 「イル・トロヴァトーレ」 カラヤン(その3)

「ひつこい」と「しつこい」、どっちが正解かとっさに判らない。
「正解は・・・料理はひつこい、勧誘はしつこい」などと言われると信用するね絶対。



あとはサクサク行きましょう。
第3部の最大の聴き所は幕切れのマンリーコのハイC。残念ながらステファノのハイCはなんとか絞り出しました、というレベル。この点セラフィン盤のベルゴンツィはすごいな。まぁ、音楽的にはハイCが出たからどうのこうの、は大した意味があるとも思えませんが、そこは歌舞伎役者が大見得を切るみたいなもんでね、やはり無いとさびしい。
第4部は再びレオノーラの大アリアで始まります。カラスの素晴らしさについて、もうくどくど書く必要もないでしょう。このアリア、第2シェーナに合唱が入って拡大されていますが、形式としては典型的なカヴァティーナ・カバレッタ形式に則っています。先ほど、喩えに持ち出した歌舞伎と同様、この、形式に則るということ、定められた矩の中で最大限の感情表現を行なうこと、ここにこそトロヴァトーレの魅力の一端があります。それはベルリーニやドニゼッティにより完成させられ、ヴェルディに受け継がれた形式美というものです。更に言えば、トロヴァトーレにはこの様式の完成と同時に、前作のリゴレットもそうですが、早くもその解体の過程が始まっているところにも魅力があるのですが、カラヤンの隈取のはっきりとした表現は、この形式美を夏の太陽のようにくっきりと照らし出すと共に、内在する衝動が形式の軛を破ろうとしているところについては、その光は混乱を混乱として露わにしているようにも思われます。ユーゲントシュティルを地でいくようなR.シュトラウスなどに対するカラヤンの偏愛を思うと、一見ことは逆のようにも思われますが、ここでのカラヤンは、形式の呪縛の中でより自在に息をしており、逆にその束縛が弱い箇所では不安にも似た表情を垣間見せるのです。
このオペラの第1部を構成する3つのナンバーは全てこのカヴァティーナ・カバレッタ形式を下敷きとしており、他の3部ではその解体が見られますが、カラヤンの指揮が本当に輝かしいのはこの第1部なのであって、その他の3部については、形式の溶け具合に応じて白熱した剛毅さよりも纏綿たる情趣のほうが勝っているように思われます。イタリアオペラとしては熱量がやや少ないというネガティブな見方もできるかもしれません。
これはカラヤンの解釈の問題でしょうか、それともヴェルディのトロヴァトーレの持つ本質的な欠陥、というのが言いすぎなら限界といってもいいですが、そういうものに起因するのでしょうか。その問いに答えることは、問い自体の正当性の有無も含めて困難ですが、一つだけ言えることは、ヴェルディはこのトロヴァトーレでベルリーニ以来のベルカントオペラの完成を成し遂げ、同時にその解体に向かっていったが、解体の果てに新たな様式の誕生と呼ぶに足る美的構造を生み出すには、その後「シチリア島の夕べの祈り」から「ドン・カルロ」に至る10年以上の歳月を必要としたということです。つまり、トロヴァトーレには輝かしい完成と同時に、苦渋に満ちた模索の始まりが刻印されており、カラヤンはこの作品を(セラフィンのように)徹頭徹尾輝かしい歌で覆い尽くすのではなく、様式の推移をなんとか描き分けようと心を砕いているように思われてなりません。その結果現れたものは、歌合戦になりがちなこの作品には類まれな、陰影に満ちた悲劇的世界の表現でした。
誤解のないように言えば、セラフィンのアプローチは本当に規範となるべきもので、十全なイタリアオペラの解釈としては正しいのだと思います。それでもカラヤンをより好むかどうかは、もう個人の趣味嗜好としかいいようのない問題なのでしょうね。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-09-13 23:32 | CD・DVD試聴記 | Comments(6)

ヴェルディ 「イル・トロヴァトーレ」 カラヤン(その2)

あるブログで「護身用ターミネーター」という言葉を発見。
ひょっとして売っているのなら、ほしい。



カラヤンのトロヴァトーレを聴くと標榜しておきながら、先ほどセラフィン聴いてました(笑)。一応、規範となる演奏ですからね。データをつけておきましょう。

 マンリーコ・・・・・・・カルロ・ベルゴンツィ
 レオノーラ・・・・・・・アントニエッタ・ステッラ
 ルーナ伯爵・・・・・・・エットーレ・バスティアニーニ
 アズチェーナ・・・・・・フィオレンツァ・コッソット
 フェルランド・・・・・・イーヴォ・ヴィンコ
 ルイス・・・・・・・・・フランコ・リッチャルディ
 セラフィン指揮ミラノ・スカラ座o,cho(1962年7月録音)
 CD:DG00289 477 5662

錚々たる、といいますか。先日、カラヤンのディスクについて「カラスを聴くための録音」と書きましたが、これは裏を返せば、人様にお薦めする際のファーストチョイスとしてはちょっとどうだろうか、という事です。多分沢山の方が、カラスはともかく、カラヤンのトロヴァトーレって真正なイタリアオペラとしてどうなのよ?と思ってらっしゃるということは重々分かっております。
世評に従えば、ファーストチョイスはなんといってもセラフィン盤でしょうね。ええ、そうです、そうですとも。でもね、こんなこと言うと袋叩きに会いそうですが、コッソットは美声過ぎて邪悪さがないし、ベルゴンツィは松竹新喜劇みたいなくさい泣きが入るし、ステッラはカラスと比べたらもう(自主規制)だし。
私はカラヤンの、ファーストチョイスとはなり得なくとも、時に規範からはみ出てしまっても尚、ヴェルディの本質に迫ろうとする演奏を愛して止みません。その魅力をもう少し書き連ねてみたいと思います。

ところで、前回第一部のレオノーラのアリアについて、カバレッタの繰り返しが省略云々と書きましたが、セラフィン盤も同様で、しかもイネスのセリフはレオノーラと重なって歌われていました。まったくいい加減な記憶です。批判めいたことを書くときはよくよく調べてみなければなりませんね。スコアではどうなっているのか、ご存じの方の御教示をお待ちしております。

第2幕、というより第2部と称したほうが正確ですが、古い録音のせいもあるけれど冒頭のジプシーの合唱(アンヴィル・コーラス)が物凄く荒削りに歌われています。え、なに、素人さん?と思うほど。しかし一度聴いてしまうと、プロの磨きあげた歌い方では物足らなくなります。

 Vedi! Le fosche notturne spoglie
 De' cieli sveste l'immensa volta;
 Sembra una vedova che alfin si toglie
 I bruni panni ond'era involta. 
 All'opra! all'opra!
 Dàgli, martella.
 Chi del gitano i giorni abbella?
 La zingarella!
 Versami un tratto; lena e coraggio
 Il corpo e l'anima traggon dal bere.
 Oh guarda, guarda! del sole un raggio
 Brilla più vivido nel mio/tuo bicchiere! 
 All'opra, all'opra...
 Dàgli, martella...
 Chi del gitano i giorni abbella?
 La zingarella!

 見よ!大空が闇夜の帳を
 払いのけるのを!
 まるで黒い喪服を脱ぎすてる
 未亡人みたいに。
 働け!働け!さあ!金槌を!
 ジプシーの日々を明るくするものはなんだ?
 そりゃジプシーの女さ!
 酒をくれ。酒は体に強さを、
 心に勇気を与えてくれるのだ。
 おお見るがいい!太陽の光に
 俺の/お前のグラスが輝くのを!
 働け!働け!
 ジプシーの日々を明るくするものはなんだ?
 そりゃジプシーの女さ!

 第3部の兵士の合唱もそうですが、これならオペラがはねた後、食事をして酔っぱらったイタリアのおじさん達も機嫌よく歌いたくなるというもの。ヴェルディの合唱が本当にプロでなければ歌えなくなるのはもう少し後、「仮面舞踏会」や「ドン・カルロ」の対位法的・立体的な合唱をヴェルディが書くようになってからです。この荒さは後年のカラヤンなら許さないかもしれませんが、これはこれで1956年当時のカラヤンの、センスの賜物と思いたい。
続くアズチェーナとマンリーコのやり取り、バルビエリのアズチェーナが少し物足りません。それなりにドスも効いてるのですが、いかんせんカラスの後に登場して割を喰った感じです。ステファノもおとなしめ。こちらはまぁ母親の前で神妙に話を聞く立場なので仕方がないか。
終わり近く、伯爵の、従者達の合唱を交えたアリアのカバレッタ Per me, ora fatale, i tuoi momenti affretta の自在なテンポ、スカラのつわものどもを引きずりまわすカラヤンの剛腕は圧巻です。
そして第2部フィナーレ、またもやカラスの登場で俄然音楽が引き締まります。レオノーラのカヴァティーナの、Può fra gli eletti al mio perduto beneというところのカラス独特の含み声に鳥肌が立つ思いです。ここからはもう頭を垂れて音楽を聞くのみ。私は、無理だらけの絵空事のお話が、すぐれた歌手と指揮者によって、血の流れている真実に昇華していくこの瞬間がたまらなく好きです。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-09-11 00:37 | CD・DVD試聴記 | Comments(3)

ヴェルディ 「イル・トロヴァトーレ」 カラヤン(その1)

会社で普段あまり話すことのない技術屋(26歳、ちなみに私は48歳)と昼飯食いながら話をしていた時のこと。「○○さん(私の2段階くらい上の上司)いつまでも帰らへんから『はよ帰れ~エコエコアザラク』て呪文唱えとなったわ」と私が言うと、目を輝かして彼が食いついてきた。おおっ君、エコエコアザラク知ってんのか、同志よ!と一瞬思ったが、私の頭の中には漫画(1975年連載開始)、やつの頭ん中は映画(1996年公開)、どうも噛み合わない。却って自分の歳を痛感して萎える。


東京初台の新国立劇場2011/2012年シーズンの開幕はご存じヴェルディの「イル・トロヴァトーレ」。今回はこの作品を聴いていきます。音源は1956年カラヤン盤。


 マンリーコ・・・・・・・ジュゼッペ・ディ・ステファノ
 レオノーラ・・・・・・・マリア・カラス
 ルーナ伯爵・・・・・・・ローランド・パネライ
 アズチェーナ・・・・・・フェドーラ・バルビエリ
 フェルランド・・・・・・ニコラ・ザッカリア
 ルイス・・・・・・・・・レナート・エルコラーニ
 カラヤン指揮ミラノ・スカラ座o,cho(1956年8月録音)
 CD:Naxos8.111280-81

イル・トロヴァトーレという作品の、ヴェルディの創作史の中の位置付けについては後日改めて触れるとして・・・
この録音、一言でいうならカラスを聴くための録音という気がします。ステファノもパネライも素敵ですが、カラスのレオノーラがあまりにも凄すぎる。レオノーラという人物造形そのものがまるで彼女の為に書かれたような、と言いますか。第1幕、フェルランドと夜警をする従者達の場面の後のレオノーラの大アリア、典型的(あるいは因習的)なカヴァティーナ・カバレッタ形式のアリアですが、最初の拡大されたシェーナで早くもカラスの本領発揮。戦くような、あるいは熱に浮かされたような歌唱に、聴く者は一気にドラマに引きずり込まれ、冷静さを失ってしまいます。

  Ne' tornei. V'apparve
  Bruno le vesti ed il cimier, lo scudo
  Bruno e di stemma ignudo,
  Sconosciuto guerrier, che dell'agone
  Gli onori ottenne... Al vincitor sul crine
  Il serto io posi... Civil guerra intanto
  Arse... Nol vidi più! come d'aurato
  Sogno fuggente imago! ed era volta

  馬上試合の時よ。そこに、
  黒い甲冑と黒い兜をまとい、
  黒い盾には羽飾りもなく、
  見知らぬ戦士が現れ、
  優勝の栄誉を勝ち取ったのです。
  私は勝者に王冠をさずけました。
  それから戦争が起こって・・・もうあの人を見ることはなかったのです。
  まるで黄金の夢の中の出来事のよう。

こんな録音残されたら後世の歌手はたまったもんじゃないでしょうな。誰が歌ってもカラスとの比較を免れないでしょうから。ある意味罪つくりなお方です。
続くカヴァティーナ、殆ど荒唐無稽に近いお話の中の人物なのに、何という存在感、実在感。

  Tacea la notte placida
  e bella in ciel sereno
  La luna il viso argenteo
  Mostrava lieto e pieno...
  Quando suonar per l'aere,
  Infino allor sì muto,
  Dolci s'udiro e flebili
  Gli accordi d'un liuto,
  E versi melanconici
  Un Trovator cantò.

  音もない静かな夜のこと、
  おだやかな空には美しい月が、
  銀色の丸いお顔を
  幸せそうに見せていました。
  その時、それまで大層静かだったのに、
  空気を鳴り響かせるみたいに、
  あまく切ないリュートの調べが
  聞こえてきたのよ。
  一人のトゥルバドゥールが
  物悲しい歌を歌っていたの。

カバレッタは技術的にもきわめて優れた歌唱です。カラヤンの指揮もカラスに寄り添って、彼女への奉仕だけを考えているようです。カラヤンの指揮は、後年唯我独尊というか、歌手の個性は二の次というスタイルに変わっていき、今となっては様々な毀誉褒貶が付いて回るけれども、この頃の彼の指揮はやっぱり他の追随を許さないものがあります。カラヤンの先祖はマケドニアの貴族だったそうですが、大げさにいえばゲルマンとは違うそのマケドニアの血が、ギリシャのディーヴァの血と共鳴しているような気がする。
カバレッタの繰り返しは省略されていて、おかげで侍女イネスのセリフもカットされています。こういう因習的カットは私の好むところではないけれども、これだけの演奏を聴かされたらもう何の不満もありません。

第1幕のフィナーレはルーナ伯爵・マンリーコ・レオノーラの三重唱。マンリーコの第一声、最初聴いたとき、えらく音程外しているように聞こえました。何度も聴いていると気にならなくなりますが、ステファノのちょっと脳天気なスタイルが今となっては違和感がある、ということでしょうか。
でも同時に、彼が全盛期どれだけイタリアで人気があったかもよく分かるような気がします。実際に舞台で聴いたら私も熱狂したに違いない。

  Deserto sulla terra,
  Col rio destino in guerra
  E sola spese un cor
  Al Trovator!
  Ma s'ei quel cor possiede,
  Bello di casta fede,
  E d'ogni re maggior
  Il Trovator!

  武運拙く 
  この地に独り、
  唯一の望みは心にのみ
  詩人に捧げられし心にのみ。
  だがもし操ただしきその心、
  己がものに出来たなら、
  彼は全ての王にぞ勝れりし、
  トゥルバドゥールぞ勝れりし。

これこそイタリアの歌。いや、やっぱり凄いや。脳天気だろうが何だろうが、合理的発声法と違ってようが、これぞイタリアのテノール、ディ・ステファノ。不遇の晩年と悲劇的な死に思いを至らせ胸が詰まる。
最後のメーター振り切れそうな三重唱に至ってはもう何もいうことがありません。血沸き肉躍るとはこのことでしょう。
(この項続く)
(対訳はhttp://www.opera-guide.ch/というサイトの英訳からの拙訳です。重訳ということもあって多分ニュアンスが違うとか、いろいろあると思いますが御容赦ください)
by nekomatalistener | 2011-09-09 00:13 | CD・DVD試聴記 | Comments(8)

ご挨拶

夜勤明けで一刻も早く寝なきゃならんというのにブログ開設。何なんだこの行動力。
はるか昔、試験前になるともりもり湧き出る読書意欲を思い出す。


魚をきれいに食べる人を見ると、ちょっと尊敬してしまいます。見習いたいものだと思いながら、ついつい面倒で結局食べ散らかしてしまうのですが・・・。
本当の魚好きは、それこそ頭と尻尾と骨以外はきれいに食らい尽くして、骨は出汁をとって味わい尽くすのだとか。料理屋さんではそんな客を「猫またぎ」と呼んで喜ぶという話を、昔なにかで読んだ記憶があるのだが、何の本だったか思い出せない(出典不明ですみません)。でもこの「猫またぎ」という言葉、最近では専ら「猫も跨いで通るほど不味い魚」という意味で使われるようです。まぁ間違いではないのでしょうが、何だか身も蓋もない感じがします。

ここから本題です。私はいわゆるクラシック音楽ファンというやつですが、もうすぐ49という歳ともなると、あれもこれもではなく、本当に気に入った作品を、それこそ全曲鼻歌で歌えるくらい時間を掛けて聴き込んでいきたいものだと、つくづく思うようになりました。猫またぎが一尾の魚をしゃぶり尽くすみたいに、一つの作品を、ここが美味い、あそこも美味いと言いながら味わい尽くしてみたいと思っています。
そんな訳で、あまり頻繁に更新は出来ないと思いますが、もしお目に留まりますれば気長にお付き合い下さいませ。
by nekomatalistener | 2011-09-07 14:47 | Comments(2)