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カフェ・モンタージュでウェーベルンを聴く

ジャコウソウモドキというピンクのかわいい花を咲かせる植物があるのだが、その英名をPink Turtleheadというんだって。ピンク色の亀の・・・いや、いいんですけどね別に。ちなみに花言葉は秘密の生活。





京都のカフェ・モンタージュで面白いリサイタルがありました。

 2017年6月24日@カフェ・モンタージュ
 ウェーベルン
  シュテファン・ゲオルゲの「第七の指輪」による5つの歌曲 Op.3(1908-9)
  シュテファン・ゲオルゲによる5つの歌曲 Op.4(1908-9)
  4つの歌曲 Op.12(1915-17)
  ヒルデガルト・ヨーネの”Viae inviae”による3つの歌曲 Op.23(1933-34)
  ヒルデガルト・ヨーネの詩による3つの歌曲 Op.25(1934)

 太田真紀(Sp)、塩見亮(Pf)

またまた企画の勝利というか、ウェーベルンのピアノ伴奏による歌曲だけ集めて一夜のリサイタルを組むなど、このカフェ以外にありえないプログラムという気がする。何せウェーベルンの作品はどれもこれも短いので、このプログラムだと正味35分といったところ。それを店主のトーク→Op.3&4→トーク→Op.12→トーク→Op.23&24でようやく1時間ほどのリサイタルとした訳だが、店主も仰っていた通り、通常の演奏会だと、ウェーベルンの作品というのは他の作品に呑み込まれてしまって印象に残りにくい。確かに、いろんな演奏会でウェーベルンを聴いてきたような気がするが、大方は前座もしくは刺身のツマ扱い、シェーンベルクやベルクの作品とセットにする場合が多いようだが、それでもウェーベルンが主役という演奏会はなかなか考えにくい。今回のリサイタルは、そういった意味でウェーベルンを聴くには理想的な一夜だったと思う。もちろんアンコールは無し。一切の夾雑物を排してウェーベルンだけを聴けたのだから、何の不満もない。

個人的な話になるけれど、私が初めてウェーベルンを聴いたのは、まだ高校生の頃だったと思うが柴田南雄氏が司会をしていたNHK-FM「現代の音楽」で、当時ようやく日本語解説のついたLPが発売されたブーレーズの旧全集(全集といってもLP4枚組)の紹介があり、たしか「弦楽合奏のための5つの小品(Op.5の弦楽合奏版編曲)」を放送していたときだったと思う(この番組のオープニングもウェーベルンの「6声のリチェルカーレ」の編曲だったが、それと知らずに聴いていた・・・いや、ポリーニの弾いた変奏曲Op.27は既に聴いていたと思うが、その時はまだウェーベルンの真価が分からなかった)。これは凄い!と思って早速LPを買い、それから40年弱、LP→CD→ブーレーズの新全集、と何度も何度も聴いてきて、やはり私にとってかけがえのない音楽だと思ってきた。それでも、ピアノ伴奏の歌曲については、管弦楽伴奏の歌曲やカンタータ、室内楽などに比べるとどうしても影が薄くて、スコアが頭に入るほど聴いてきたとは言えない。本当にこのリサイタルを聴いて、改めて「歌曲も凄い」と思った次第。
ウェーベルンという人は、Op.1の「パッサカリア」からOp.31「第二カンタータ」まで驚異的な完成度を貫いた人ゆえに、通常の意味での成長とか円熟というものがあまり感じられないのだが、歌曲だけをこうやって年代順に聴いていると、その様式の微妙な変化とともに、作品がどんどん純化されていくのが手に取るように分かる。演奏技巧の困難さとか複雑さはOp.20の弦楽三重奏で極限に達したのち、Op.21の交響曲以降は打って変わってシンプルで静謐な書法に転じ、まるで小さな鉱物の結晶のような音楽を書き出すのだが、そういった意味ではやはりOp.23と25のヨーネの詩による歌曲が圧巻だと思った。この歳になって改めてこれらの作品の真価を知ることになろうとは思ってもみなかったが、そんな機会を与えてくれたカフェ・モンタージュの店主には本当に心から感謝したい。ちなみに、店主のトークは、まぁそんなにびっくりするような情報はないのだが、それでもウェーベルン愛が溢れていて実に結構。「ヴェーベルン」と発音するのもこだわりが感じられて良い。私は「ヴァーグナー」を普段「ワーグナー」と書いたり話したりするので、このブログでは「ウェーベルン」と書いているが、友人と話すときは「ヴェーベルン」派かな。このあたりはあまりこだわりはないのだが・・・。

演奏も大変良かったと思う。太田真紀の声は声量や表現の幅が非常に広く、控えめなビブラートが作品にとてもよく合っている。ウェーベルンだからといって、あまりにも虚弱な演奏は好まないので、これは私にはとても好ましい。塩見亮のピアノも歌の邪魔をせずいい感じ。このカフェのアンティークなスタインウェイのアクションは、最近さすがにガタが来ているように思えるのだが、それも音色の暖かさと近しさをもたらしていると言えなくもない。ただ音の消え際に若干ビリつくのと高音域のムラはもうちょっと整備してほしいと思った。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2017-06-25 23:33 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ワーグナー 「ワルキューレ」 愛知祝祭管弦楽団公演

ポケモンGOのイシツブテを見ると、なんかチキチキマシン猛レースのタメゴローとトンチキを思い出す。40代以下の人は誰も知らんと思うけど。





わざわざ名古屋までこの演奏会形式による「ニーベルングの指輪」シリーズを聴きに行こうと思ったのは、昨年の「ラインの黄金」の評判がまぁまぁ良かったのと、清水華澄がジークリンデを歌うと知ったから。で、その結果はというと、本当に行ってよかった。恥ずかしながらあちこちで大泣きしてしまいました(笑)。

 2017年6月11日@愛知県芸術劇場コンサートホール
 ワーグナー「ワルキューレ」全三幕
  ジークムント: 片寄純也
  ジークリンデ: 清水華澄
  フンディング: 長谷川顯
  ヴォータン: 青山貴
  ブリュンヒルデ: 基村昌代
  フリッカ: 相可佐代子
  ゲルヒルデ: 大須賀園枝
  ヘルムヴィーゲ: 西畑佳澄
  オルトリンデ: 上井雅子
  ヴァルトラウテ: 船越亜弥
  ジークルーネ: 森季子
  ロスヴァイセ: 山際きみ佳
  シュヴェルトライテ: 三輪陽子
  グリムゲルデ: 加藤愛
  三澤洋史指揮 愛知祝祭管弦楽団
  演出構成: 佐藤美晴

歌手達の中では清水華澄はもちろん良かったのですが、何より素晴らしかったのはブリュンヒルデを歌った基村昌代。第二幕で、ちょっとお転婆風の軽めの声で現れた時は正直「あちゃー」と思ったのですが、これはもちろん計算の内。ブリュンヒルデはジークムントに対して死の告知をするが、彼のジークリンデへの愛の深さを知っていきなり真実の愛に目覚める。それからの表現の激しさと深さはただならぬものがありました。ジークムントが死んで絶望するジークリンデに、お腹の中に子供が宿っていることを告げる場面や、終幕のヴォータンとの別れの場面、もう言葉が追いつかなくて素晴らしいとしか言いようがない。この二つの場面、私は涙なくして観られませんでした。
ジークリンデの清水華澄、この人の身上は何と言っても忘我といってもよいほど役柄に没入していく姿勢と、テンペラメントの激しさ。ジークリンデはうってつけの役だろうと思いきや、第一幕はちょっと手が届きそうで届かないもどかしさを感じる。この人にとって、ワーグナーはヴェルディのエボリ公女のようにはいかないのか、と少し物足りない。でも第二幕、ジークムントに不幸な半生を語って錯乱する場面からは俄然熱を帯びてきて、ブリュンヒルデに触発されたのかどうか、第三幕の対話はもう凄まじいまでの激しさ。やはり類まれな歌手だと思いました。
ジークムントの片寄純也は私はだいぶ前にパリアッチのカニオを聴いて以来かも知れません。偉丈夫で声量もあり、ジークムントのような直情的な役柄にはよく合っていると思います。ただ、声楽用語でなんと言ったらよいのか分からないのだが、ところどころ、舞台の俳優に例えるとセリフが棒読みみたいなこなれていない歌い回しが気になります。十分水準以上とは思いながらも、先の女声二人にはわずかに及ばず、といったところ。
ヴォータンの青山貴は、これまで聴いてきた中では一番良かったのではないでしょうか。第二幕で登場したときは、声がこちらに届く前に散ってしまう感じも受けましたが、すぐに持ち直して深々とした声を堪能させてくれました。ブリュンヒルデとの告別の場も文句なし。
フリッカの相可佐代子は役柄に即したヒステリックな表現はとても良いが、ちょっとオケに声が負けた感じ(オケはちょっと鳴らしすぎ、というより制御しきれていない所あり)。フンディングの長谷川顯もスイッチが入る前に出番が終わってしまう感じが少し気の毒。8人のワルキューレの乙女達も、思ったより声が届かない。このあたりはまぁこんなもんかな、といったところ。

愛知祝祭管弦楽団は、この4年がかりの「指輪」シリーズのための寄せ集めで、基本的にアマチュアの人たちとのこと。その気になればいくらでもケチをつけれそうではあるが、私はそういったことは書かないでおこうと思う。立派な演奏だったと思います。三澤洋史は新国立劇場の合唱団の指揮者としてしか知りませんでしたが、こういった楽団を相手に長大な音楽を破綻なくねじ伏せただけでも大変なことだろうと思います。ただ、指揮は拍子をきっちりと刻むことに最大のポイントを置いているように思われ、その分音楽のうねるような自発性が多少犠牲になっていたようにも思います。おそらくもっとプロフェッショナルなオーケストラ相手なら違うやり方があったのかも知れません。そこは目を瞑るしかないのだけれど、これが名古屋の一回きりの公演ではなくて、東京のように二度三度の公演ならもっと良い成果が出せたに違いありません。いずれにしろ、私は早くも来年の「ジークフリート」公演を楽しみにしています。

ワーグナーの音楽そのものについて少しだけ。
私は先にも触れたブリュンヒルデがジークリンデに懐妊を告げる場面と、罰を与えられたブリュンヒルデがヴォータンに自分をつまらぬ男から護ってほしいと懇願する場面が白眉だと思っています。そのどちらも、ジークフリートの動機が金管で高らかに現れますが、それは単に回想とかほのめかしといったレベルではなくて、どこか無意識のレベルに直接働きかけてくるような強烈な効果があることに気が付きました。それは、長大な作品を経済的・効率的に紡ぎだすためのメチエとか、聴衆が理解しやすいように、あるいは退屈しないようにするための方法といった、いわばレトリックとしてのレベルではなくて、ジークフリートの不在(語られないもの=欠如)を埋めるためにジークフリートの動機(象徴=ランガージュ)が生まれるといったレベルに達していると言えるかも知れません(ライトモチーフの全てがそうではないにせよ、このジークフリートの動機の出現で図らずもそのレベルに触れてしまった、というのが実際のところかも知れませんが)。だからこそ、ワーグナーの「ラインの黄金」から「パルジファル」に至る諸作が、あれほどまでに哲学や精神分析学をはじめ広く人文科学全般に影響を与え得たのではないかと思いました。演奏会の備忘のついでに書くには話が広がりすぎるし、もっと言葉を尽くそうにも印象批評みたいな書き方しかできないのだけれど、これだけは書かずにはいられませんでした。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2017-06-14 22:58 | 演奏会レビュー | Comments(4)

シューベルト 「美しき水車小屋の娘」D795

取引先の合田(ごうだ)さんという方からメールが来るたびに、頭の中で「太陽光だゴーダ♪」というCMがエンドレスで鳴りだして困っています。それに、業務で団体積立保険の振込承認をするたびに、「純金積み立てコツコツ♪」というCMがこれまたエンドレスで鳴りだします。もういや。





久しぶりのカフェ・モンタージュで、シューベルトの「美しき水車小屋の娘」を聴きました。

 2017年4月2日@カフェ・モンタージュ
 シューベルト 「美しき水車小屋の娘」D795
  ペーター・シェーネ(Br)
  武田牧子・ヘルムス(Pf)

40人ほどのキャパのカフェでシューベルトを聴く。考えただけでわくわくするようなリサイタル。さぞかしインティメートな一時間だろうと予想していたのだが、ピアニストが野太い音で序奏を弾きだした瞬間「あれっ?」と思いました。数秒遅れてバリトンが歌いだした瞬間、ああ、この声も身振りも大柄な歌にはこの伴奏しかないのか、と納得するものがありました。物理的に声がデカいという訳ではないが、もう少し大きなホールのほうが聴き映えがするだろうと思わせる声。ドラマティックというより、演劇的と言ったほうがしっくりくる感じがしました。
シューベルトの作品の中でも最も抒情的と思われがちなこのツィクルスが本当に凄いのは、こういった演劇的な歌唱であっても何の違和感もないところでしょう。この作品の白眉は、第17曲「いやな色」と第18曲「しぼめる花」の落差にこそあったのだと気付かされる。この二曲の間にはほとんど深淵といってよいぐらいの虚無が広がっているようにも思います。それ以前にも、あちこちに現れる長調と短調の交代、あのシューベルトの音楽のトレードマークのように言われながらも、どちらかといえば垢抜けない、素人臭くさえ思われたメチエが、シェーネの歌唱では千々に乱れる心そのものの表現として聞こえるのにも驚きました。
ただ、この日の歌唱の全てを肯定するつもりはありません。本当に息もつかせない演奏ではありましたが、心を揺さぶられるような思いはありませんでした。CDなどで聴いてきて、下らない三文詩人の詩がどうしてここまで昇華されるのか、なぜ涙を禁じ得ないのか、と不思議に思う経験もしてきたのですが、この日の演奏にそこまで思わせるものはなかったという他ありません。では、何が足りなかったのか。
これは本当に言語化するのが困難ですが、一つは歌い過ぎ、ピアノも鳴らし過ぎ、会場が狭すぎ、といった身も蓋もない言い方になるのでしょう。だがもう一つは(私の信条としてあまり形而上学的な言説は弄したくないのだが)、なぜシューベルトがこのツィクルスにおいて、有節歌曲の形式と、より自由度の高い形式を対比させながら書いたのか、という考察の有る無しに関わるような気がします。心の欲するところに従い則を超えず、ではないが、最初の「さすらい」からして、歌手もピアニストも、どうもこの則を超えて奔放に走ってしまった感がある。有節歌曲の頸木とシューベルトのイマジネーションのせめぎあいがあればこそ、「しぼめる花」の後半、形式を大きく逸脱して、長調に転じてからの音楽の広がりが聴き手の涙を絞るのだろうと思うのですが、終にそのレベルには至らなかった、それどころか、最後の2曲が付け足しのように聞こえてしまった、ということでしょう。これは芸術家の円熟といったことではなくて、分析的アプローチの有無の問題という気がします。
だが、つらつら思うところはあっても本当に良い歌唱だったと思います。声質も容姿も気持ちよく、まだまだ伸び代のある歌手と思いました。
武田牧子・ヘルムスの伴奏、冒頭にも書いた通り野太く歌手に負けないピアノ。終了後のトークによれば、ずいぶんと久しぶりの合わせで、シェーネが前日に日本に着いたためリハもほとんど取れなかったようですが、歌にぴったりと寄り添ってどんなに劇的であっても破綻しないのはさすがです。ペダルが少な目なのは良いとして、もう少し余韻のようなものがあれば、というのは私の悪い癖の無い物ねだり。

最後にどうでもいい話。今回のチラシには「水車屋の娘」とあって、店主のトークによれば、彼女は粉屋の親方のお嬢さんであるので、水車「小屋」の娘ではなく「水車屋」という呼び名がよかろう、とのこと。私は以前ブリテンの「真夏の夜の夢」に関して書いた通り、作品の表題で逐語訳をしても仕方がないし、長く親しまれ、日本語としてのリズムが良い呼び名でいいと思っているので、断然「水車小屋の娘」派です。そんなに原義が大切なら「美しき製粉業者の娘」と呼んだらいいんじゃないか。ま、どうでもいいんですが(笑)。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2017-04-07 01:01 | 演奏会レビュー | Comments(2)

ワーグナー 「ラインの黄金」 びわ湖ホールプロデュースオペラ公演

マクドのポテトの端っことか切れ端がカリカリに揚がってるのがたまに混じってるのって、けっこう幸せ。





仕事の忙しさにかまけてたらあっという間に3週間以上も経過。いろんな方の感想も出尽くした頃に間の抜けたブログ更新ですが、自分の為の備忘として、あれやこれやの記憶が薄まらないうちにメモを書いておこう。

 2017年3月5日@びわ湖ホール
 ワーグナー 「ラインの黄金」
  ヴォータン: 青山貴
  ドンナー: 黒田博
  フロー: 福井敬
  ローゲ: 清水徹太郎
  ファゾルト: 片桐直樹
  ファフナー: ジョン・ハオ
  アルベリヒ: 志村文彦
  ミーメ: 高橋淳
  フリッカ: 谷口睦美
  フライア: 森谷真理
  エルダ: 池田香織
  ヴォークリンデ: 小川里美
  ヴェルグンデ: 森季子
  フロスヒルデ: 中島郁子
  管弦楽: 京都市交響楽団
  指揮: 沼尻竜典
  演出: ミヒャエル・ハンペ


「ラインの黄金」をまともに通して聴くのって久しぶりのような気がします。高校生の頃に「トリスタンとイゾルデ」の毒にあてられてしまい、大学に入った記念に、「ニーベルングの指輪」全曲のベームのバイロイト盤(当時LPレコードで16枚組だったと思う)を買って、浴びるように聴いたのも今は遠い昔。その頃も、「ワルキューレ」以降の3作に比べて、「ラインの黄金」は音楽的に今一つのような気がして、それほど真面目に聴いた記憶がありません。
しかし、今回の公演を聴いて、やはり抜群に面白い音楽であると改めて認識しました。以前このブログで「マイスタージンガー」のいくつかの動機を細かく分析したことがありましたが、この「ラインの黄金」についても一度はそういった作業をしてみたいという気になっています。そんな誘惑に駆られるのも、偏に沼尻の指揮のおかげといえそうです。
沼尻さんの指揮といえば、このブログでは過去プッチーニやコルンゴルト、そして「オランダ人」などを取り上げてきて、いずれもサクサクと進む音楽に何かしら不満めいたものを書いてきました。その指揮の真価に気付いたのは昨年のドニゼッティの時でしたが、今回の「ラインの黄金」の指揮は素晴らしいものであったと思います。冒頭の変ホ長調のコードが延々と続く序曲といえば、混沌から次第になにか形のあるものが浮かび上がってくる、といった演奏が多いと思いますが、沼尻の音楽は常に明晰で混沌の対極にある音楽といった感じ。こまかく動く弦の内声を克明に聴かせて、これほどの大曲の演奏としてはあり得ないほどの精緻な印象を受けました。こういったアプローチは敢えて言えばブーレーズのそれに近いと思いますが、沼尻のほうがより劇場的なセンスがあるというのか、醒めているようでいて、燃焼度が高いというのか、要は長時間飽きずに聴かせるオペラ職人としての技を備えているということでしょう。この人が昔からこうなのか、ここ最近進化を遂げてこうなったのか、数えるほどしか聞いていない私には俄かに判断がつかないけれど、今回の公演に限って言えば、情におぼれない音楽はそのままでありながら、四つの場をつなぐ間奏が文字通り白熱の演奏で、全体として大変メリハリのある強靭な音楽となっていたというのが真相かと思います(それにこたえる京響も素晴らしいものでした)。これから毎年一作ずつ行われる指輪の公演、とても期待できるものになりそうです。

オーケストラはこんなに素晴らしかったのに、全体としての印象がそれほどでもないのは、演出によるところが大きいと思います。ミヒャエル・ハンペのプロジェクションマッピングを駆使した演出については、以前に「さまよえるオランダ人」で絶賛したところですが、今回の場合、ト書き通りになんでもできてしまうが故のPMの限界というものをまざまざと感じたような気がします。確かに冒頭のライン河の水底の場面は大変美しく、水中を舞うラインの乙女の映像と、舞台上で歌う歌手が自然に入れ替わるのも見事というほかなかったのですが、ワルハラ城を望む天上界やアルベリヒとミーメの住む地下世界の描写は、あまりにも表現がト書き通りに過ぎて、どうにも興醒めのする思いでした。少なくとも聴き手の想像力の一切を封じ込めてしまうのは、やはり舞台芸術としてどこか違うのではないかとの疑念をぬぐうことができません。PMの威力を否定するつもりは毛頭ありませんが、この技術の凄さに、観客の想像の余地を残す工夫のようなものが加われば、というのは無い物ねだりでしょうか?

歌手勢は大変充実しており、特に私の観た二日目の公演、ほぼオール日本人キャストでよくぞここまで隙のない布陣を組めたものだと感心した次第。ここまで粒がそろっていると、個別の歌手について云々するのも、技術的にどうこういうよりは個人の好き嫌いの話になってしまいますが、それでも特に印象深い歌い手を記すと、まずはローゲの清水徹太郎。「ジークフリート」のミーメ同様、大変重要な役回りだと思いますが、十分に重責を果たしたといえるのではないでしょうか。そのドイツ語のデクラメーションについて云々する力は私にはないが、とにかく膨大な台詞を伝えるだけで流麗な旋律がまったくないと思われがちなローゲの歌が、音楽としても自律的で魅力あるものとして聞こえたことは強調しておきたい。アルベリヒの志村文彦も、性格的なバリトンとしての表現力が凄いと思いました。楽譜に書かれた音との乖離がどこまで許容できるかという問題はあるのかも知れませんが、オペラが一方で演劇でもあることを改めて感じました。
出番は少ないが、去年「トリスタンとイゾルデ」を聴いた福井敬(フロー)と池田香織(エルダ)のコンビがまたもや素晴らしい歌を聞かせてくれました。「ジークフリート」でのエルダはもう少し出番が長いから、是非とも彼女のエルダを再来年に聴いてみたいものです。
ヴォータンは神としての威厳を強調するか、それとも人間臭さというのか、神であるのに碌でもないことばかりやらかす輩という側面を出すかで表現が大きく変わるのだろう。かつてのホッターなんかを聴いてきたオールドファンの受けはいざ知らず、私はこの後者寄りのヴォータンは悪くないと思いました。
その他すべて割愛するが、どの歌手も誰一人これはちょっと・・という人がいなかったのは大変なことだと思います。できればダブルキャストの両方を聴いておきたかったと思いました(一日目を聴いた方の感想をみていると両日行く値打ちは十分あったようだ)。
「東京・春・音楽祭」では来月いよいよ「神々のたそがれ」公演。関西住まいの身には羨ましい限りだが、関西でも上質なリング上演が始まったことを心から喜びたいと思います。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2017-03-28 00:27 | 演奏会レビュー | Comments(2)

ドニゼッティ 「連隊の娘」 びわ湖ホール公演

ブログのアクセスレポートの検索キーワードを見てちょっと笑ったやつ2件。
「ポゴレリチ 客席を見る」
「フロリアン フォークト 嫌い」
これで私のブログを訪れた方がどうかがっかりしてませんように。





昨年の「ドン・パスクァーレ」に続いてまたもドニゼッティ。今回は中ホールでの公演でしたが、ベルカント好きのファンに支えられてそれなりの盛況でした。

 2017年2月12日@びわ湖ホール中ホール
 ドニゼッティ 「連隊の娘」
  マリー: 飯嶋幸子
  トニオ: 小堀勇介
  ベルケンフィールド侯爵夫人: 鈴木 望
  スュルピス: 五島真澄
  オルテンシウス: 林 隆史

  園田隆一郎指揮 大阪交響楽団
  びわ湖ホール声楽アンサンブル
  演出: 中村敬一

演出の中村敬一氏によるプレトークがあって、ヴェルディの「ナブッコ」の少し前に書かれたことから、オペラというものが貴族やブルジョア階級の嗜みから市民の愉しみに変わりゆく時代の推移について触れられていましたが、実際の楽しい舞台を観ているとまぁそんなことはどうでもよくて、ひたすら音楽を楽しむというのが正しい享受のあり方という気がします。
実際、吉本新喜劇みたいなお話に、ドニゼッティの中でも極め付けの脳天気な音楽。このブログで何度か書いてきたように、ドニゼッティには「ロベルト・デヴェリュー」や「マリア・ストゥアルダ」のような天才的な作品があるのだが、こちらはお世辞にも傑作という感じはなくて、せいぜい手練れのオペラ職人のやっつけ仕事といったところ。だが、トニオの有名なハイCが頻出するアリアを聴くとどうしようもなく胸が高鳴るし、マリーのロマンスには思わず涙腺が緩んでしまう。この快楽と無縁の人のほうが寧ろ世間のクラシック好きやコンサートゴーアーの中ではマジョリティかも知れないというのは寂しくもあるけれど、冬枯れの琵琶湖畔でこういった密やかな愉しみを味わうにはその寂しささえ一種のスパイスになるような気もします。

今回の公演は何より主役の二人の歌唱が素晴らしかったと思います。トニオの小堀勇介は初々しい歌いぶりで大変好ましく思いました。見た目と声と純朴な役柄が寸分のずれもなく一致している感じ。例の9連続ハイCは、あまりにも軽やかなので拍子抜けしそうになります。これならCisでもDでも大丈夫そうと思うが、これは大変なことに違いありません。パヴァロッティのレコードで聴いてきたような興奮とは違いますが、どちらかと言えばバカでおっちょこちょいなトニオのアリアには背筋に電流が走るみたいな興奮は不要なのだと気付きました。それでもびわ湖の客は皆さん耳が肥えてらっしゃるのか割れんばかりの拍手。小堀さんも本当にうれしそう。いいもの聴いたなと思います。
マリーの飯嶋幸子も策を弄せず愚直に役柄に取り組んでとてもよかったと思います。コロラトゥーラも危なげなく、ロマンスもしんみりと聴かせます。もっと手練手管の限りを尽くすみたいなやり方もあるんじゃないか、と思いながらも、この素朴な人たちばかりのオペラにはこれで十二分じゃないか、とも思います。
その他ではスュルピスの五島真澄が美声のバリトンで思いのほか良かったと思います。最後にちょこっとだけ出てくるクラーケントルプ公爵夫人を増田貴寛が演じていましたが、まるでマツコ・デラックスみたいな衣装で存在感を発揮。侯爵夫人の鈴木望も最後に悲しみと威厳をちらっと垣間見せて後味よく大団円を迎えました。
あと忘れてはならないのが兵隊や農夫や小間使い達といった役柄の合唱。この軽いオペラにはもったいないほどの立派な合唱で、贅沢な気分を味わえました。

園田隆一郎の指揮も秀逸。なんの引っ掛かりもない脳天気な音楽だからこそセンスがまともに出てしまう怖さがある音楽ですが、本当になんの引っ掛かりもなく楽しめたのは実は凄いことだと思います。初演当時のパリの当世風なのか、些か軽佻浮薄な音楽と、ベルカントの神髄たるロマンスが何の矛盾もなく同居するこの音楽で指揮者のセンスの良さを感じたのは意外な喜びでした。
演出もまた妙なひねりの一切ないもの。衣装も身のこなしも兵隊さんは兵隊さんらしく、貴族は貴族らしく、といった感じ。下手にはしゃがれると辟易すること必至のお話だけにこれはありがたい。よくも悪くも素直、という言い方があるけれど、今回はその素直さがすべて良い方向にいったんじゃないかな。フランス風のオペラ・コミークなので地の台詞による学芸会みたいな芝居が音楽を繋いでいくのですが、これが全てフランス語。まぁ若干尻がもぞもぞする感じもあるものの、フランス語と日本語のまぜこぜよりはマシかなといったところ。難しいものです。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2017-02-15 00:43 | 演奏会レビュー | Comments(0)

三輪眞弘の個展を聴く

紅白は家人が観るのでなんとなく目に入るだけなんだけど、SEKAI NO OWARIだけは目が耳が否応なく吸い寄せられる。なんかJ-POPで世界観みたいなものを感じさせるって凄いよね、知らんけど。





連休をだらだら過ごしていたらいつの間にか年が明けている。とりあえず去年聴いた最後のコンサートの備忘を書いておこう。


 2016年12月25日@フェニックスホール
 「声のような音/音のような声」三輪眞弘作品集
 (1)言葉の影、またはアレルヤ
 (休憩)
 (2)独唱曲「天使の秘密」
 (3)再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための新しい時代
 (4)独唱曲「訪れよ、我が友よ」+「新しい時代」
 (休憩)
 (5)フォルマント兄弟の「スターバト・マーテル」
 (6)合唱曲「新しい時代」The New Era
 (7)ポップソング wach jetzt auf!

 丸谷晶子(Sp)
 岡野勇仁(MIDIアコーディオン)
 山名敏之(cemb)
 Orphe Choirs(合唱)
 大阪大学「芸術計画論」受講者有志(kb)

三輪眞弘の作品をライブで聴いたのは3回目。今回の作品はいずれも三輪眞弘が2000年に書いたモノローグ・オペラ「新しい時代」のスピンオフ作品で、最初の「言葉の影、またはアレルヤ」がオペラの前に書かれた以外はすべてオペラ完成後の作品。このオペラについて私はなにも知らないのだが、作曲者自身のトークから推し量ると、90年代後半に日本中を震撼させた二つの事件、すなわち1995年の地下鉄サリン事件と97年の神戸連続児童殺傷事件、それにまつわる「言葉」に対する思索がきっかけとなって作曲されたのだという。演奏に先だって企画・構成の伊東信宏氏と三輪氏とのトーク。作曲者はけっこう饒舌な方であるがトークはけっして判りやすい内容ではない。私の受け止めたままにあえて要約すれば、作曲者はあの教祖の名前を連呼する、一度聴けば忘れられない歌であるとか、14歳の少年による警察やマスコミを愚弄する一連の手紙であるとか、こういったテクストのもつ強度、明晰であり恐るべき訴求力をもつ言葉に対する羨望と絶望の入り混じった感情を吐露されていたように思う。もうひとつトークで興味深かったのは、この人は「歌」を書くというのがそもそも苦手である、個人の感情をメロディーに乗せて公にするということが出来ない、という話に続けて、しかし架空の教団の布教歌であれば大丈夫だと話していた。今回の最後のポップソングがまさにそれ。そういえば前回私がこの人の個展を聴いたときも、この人の言葉というものに対する強いこだわりを感じたのだが、今回の個展はそこに焦点を絞った好企画であったと思う。
実はこの個展を聴いて、私も音楽と言葉について何かしら思索の跡を言葉にしてみたいという誘惑に駆られていた。だがこの人の個展はプロの音楽家やライターがけっこう集結する場でもあるらしくて、例えば白石知雄氏の次のような文章を読むと素人が出る幕というのはほとんどないと思い知らされる。


と言う訳で、今回もそれぞれの作品の中でなにが起こったのかを書き残すに留めておきたい。
まず最初の「言葉の影、またはアレルヤ」について。会場の照明が落ちると、4人の黒い衣裳のキーボード奏者が現われ、互いに向き合って舞台の上に座る。なにかの儀式のように一礼。やがてミニマル音楽のような旋律の断片をそれぞれが弾き始め、少しずつ変化していくが、その変化のスピードは気が遠くなるほど遅い。よくあるミニマル音楽のモアレ状の変化よりも、キーボードの発する音のノイズ成分の変化のほうが結果として印象にのこる。これが30分ほども延々と続く間、何度か意識が飛びそうになるが、途中で数回ノイズが凝り固まった末に「ア、レ、ル、ヤ・・・」という囁きに聞える瞬間が出てくる。私は最初4人の演奏者が囁いているのかと思ったがどうもそうではないらしい。一体どのような仕組みなのか、これもフォルマント合成音声の一種なのだろうが、私はアメーバのように不定形な動きをしていた粘菌が、時期が来ると子実体を作って胞子を散布する映像を思い浮かべていた。機械の発する言葉は不気味であるが、これがなぜ不気味に思われるのかというのも考えてみると不思議ではある。フロイトの『不気味なもの』を再読したくなった。
第二部をとりまく二つの歌曲、「天使の秘密」と「訪れよ、我が友よ」+「新しい時代」はいずれもPCから流れるミニマル風の伴奏に乗せて歌われるもの。最初の「言葉の影・・・」もそうだが、このミニマルを構成する音楽の断片はいずれも「神の旋律」と呼ばれていて、オペラ「新しい時代」の基本原理となっている。歌そのものは何の変哲もない、どちらかといえば単純なものだが、なんとなく感じられる落ち着かなさについては最後のポップソングと併せて後述する。
第二部の、というよりこの個展の中心に位置づけられる「再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための新しい時代」は大変興味深い作品で、これを聴けただけでも元が取れた感じがする。作曲者自身が舞台に一台のラジカセを置きに現われ、スイッチを入れて立ち去る。このラジカセと客席を取り囲む6チャンネルのスピーカーから、繁華街の雑踏の物音が聞こえてくる。やがて教団の信者と思しい若者のモノローグがあちこちから聞こえ、最初は聴力検査かと思うような微弱な音で教団の神の旋律が鳴っていたのが次第に大きくなっていく。殆ど真っ暗だった会場は、背景の壁がゆっくりと上がるとフェニックスホール自慢のガラス張りの向うに煌めく大阪の夜景が現われ、やがてまた背景の壁が降りて闇に閉ざされる。聴き手としては当然ながら、生の音声、アク―スティックな楽音が一切ない大作をコンサートの真ん中に配置した意図を探らずにはいられないのだが、何分言葉が熟して行かないので別の機会に譲りたい。
第3部はチェンバロとMIDIアコーディオンとソプラノによる「スターバト・マーテル」から始まる。ペルゴレージの「スターバト・マーテル」の最初の二重唱を、生身の歌手とMIDIアコーディオンのフォルマント合成による音声が歌うという趣向。MIDIアコーディオンの不安定さというのは、アコーディオンのボタン操作で子音と母音を指定することの非合理的な指使いにあるように見えた。もちろんこの不安定さそのものが作曲者の狙いなので、聴衆としてははらはらしながら(時に笑いをこらえながら)聴いているしかない。
合唱曲「新しい時代」も一筋縄ではいかない。一見活気に満ち溢れた布教ソングのように始まるが、その錯綜ぶりはなかなか半端なものではなくて、それまで伴奏ないし背景音として聴いてきたミニマル音形が合唱で展開されているかのようだ。
最後のポップソングも歌手とMIDIアコーディオンによる重唱(?)。明確な調性に基く音楽を現代音楽というシーンの中に置くことの、本質的ないかがわしさといったものを、架空の宗教団体のイニシエーションに置き換えるという意図、あるいは(作曲者は一種の照れというのか韜晦というのか、「歌」と言っていたが)調性音楽はもはや「夢落ち」のレベルでしか書けないという問題意識はここにきて明白。

私はこの雑文を専ら自分の備忘として書いていて、この場に居合わせなかった方にそこで得られた感興について伝えるのは本当に難しいことだと思う。しかし、私は2016年に聴いたすべてのコンサート(本当に恥ずかしいくらい少ないのだけれど)の中では、先日の京響の「グルッペン」に次いで印象深いものとして、つまり3月の「イェヌーファ」公演や、7月の「真夏の夜の夢」公演を凌ぐほどの面白いものとして感じ、受け止めたことを書きとめておきたい。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2017-01-03 13:21 | 演奏会レビュー | Comments(0)

シェルシ 「山羊座の歌」を聴く

「オスマントルコ」でGoogle検索406,000件に対して、「雄マントルコ」240,000件って多すぎるやろ。





23日は昼にグルッペン、夜にシェルシの「山羊座の歌」というダブルヘッダー。もうお腹いっぱい。


 2016年12月23日@カフェ・モンタージュ
 ジャチント・シェルシ 独唱のための「山羊座の歌」(抜粋)
 (第1,2,3,8,13,14,16,17,18,20曲)

 Sp:太田真紀


例によって店主高田氏のプレトークにほっこりさせられる。店主曰く、今日のお客さんはお昼のみやこめっせから流れてきた方が多いと思う。どうすれば昼公演に対抗できるか考えてきて、シェルシをやることにした。多分東京からもたくさん関係者が集まっているはずなので夜にこういうのをやれば皆さんくるだろう・・・(笑)。
カフェのいつもの観客席に30脚ほどの椅子、そしてそれに相対するように8脚の椅子が並べられている。観客席に向き合うように楽譜スタンドが立てられ、そのすぐ後ろに8脚の椅子に向き合うようにもうひとつスタンド、8脚の後ろにもスタンド、客席の真後ろの階段の上に更に一台のスタンド、つまり合わせ鏡のように四面舞台が設えられていて、8脚並びの椅子にもお客さんがすわる(当日はキャパ40人ほどのカフェは店主の読み通り満員御礼であった)。店主の「3つのオーケストラに対抗して四面舞台にしたら、ケージは五面舞台でした」というトークに皆大笑い。
ジャチント・シェルシについては何の予備知識も持たずに聴いた。「山羊座の歌」は夫人である平山美智子氏の存在がなければ生れ得なかった作品であること、1962年に原型が出来てから長い時間を掛けて作曲されたこと、ジェラール・グリゼーやトリスタン・ミュライユに影響を与えたこと、アシスタントに採譜させるスタイルが多少物議を醸すことがあったらしいこと、等々は後で知ったことである。
店主が照明を少し落とすと、お辞儀も拍手もなく控室からゆっくりとブリキの太鼓のようなものを鳴らしながら歌手が登場し、階段を上って歌い始める。歌、には違いないが、テキストらしきものは聴き取れない。微分音やグリッサンドの多用、舌打ちや喉を緊張させて絞り出すような声、それこそ山羊のべぇぇぇぇという鳴き声に似た声、叫び声、カップを口にあててこもらせた声、等々なんとも呪術的な世界が立ちのぼる。歌手は四面舞台を行ったり来たりしながら歌う。知らない人がこの光景を見たら、変な宗教の教祖様と信者の秘儀だと思うに違いない。
語法的にはべリオの「セクエンツァⅢ」(1965)やケージの「アリア」(1958)、リゲティの「アヴァンチュール」(1962)「ヌーヴェル・アヴァンチュール」(1966)、シュトックハウゼンの「私は空を散歩する・・・」(1972)なんかを聴いてきた人間にとっては腰を抜かすようなことはないのだけれど、ここで引合いに出した諸作と比べてもその音そのものへの執着というのは際立っているように思う。反面、洗練とか繊細さへはあまり関心が無さそう。およそ聴き手を楽しませようとするサービス精神も欠如している感じ。とはいえ、途中2回ほど現われる民謡風、あるいは日本の童歌(「かごめかごめ」のような)を思わせる単純な歌があったり、エコーマイクを通してグリッサンドの上端の音を響かせたり、終曲はリコーダーを吹きながら短3度の音程で発声したり、とあれこれしている内に45分ほどの時間があっという間に経ってしまったのも事実。音楽に感動や癒しを求める人には決してお薦めしないけれど私は実に面白く聴いた(深入りしたいかと問われたら微妙ではあるが・・・)。
歌い手の太田真紀にはお疲れ様の一言。この曲の演奏でこの人をどうのこうの評するというのは私には不可能である。べリオ、ブゾッティ、シャリーノなどを得意としているということなので機会があれば聴いてみたい。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2016-12-25 11:16 | 演奏会レビュー | Comments(0)

京都市交響楽団創立60周年記念特別演奏会 シュトックハウゼン 「グルッペン」

猫にいつものカリカリじゃなくて猫缶あげたら余程美味いのかフガフガいいながら食べてる。クリスマスだしいいよね。





関西でグルッペンを生で聴く機会があるとは思わなかった。しかもケージとの取り合わせ。

 2016年12月23日@京都市勧業館みやこめっせ(第3展示場)
 シュトックハウゼン 3つのオーケストラのための「グルッペン」(1955~57)
 (休憩)
 ジョン・ケージ 5つのオーケストラのための30の小品(1981)
 (休憩)
 グルッペン(2回目)

 指揮
 シュトックハウゼン1・ケージ5:広上淳一
 シュトックハウゼン2・ケージ1:高関健
 シュトックハウゼン3・ケージ4:下野竜也
 ケージ2:大谷真由美
 ケージ3:水戸博之
 京都市交響楽団


今回の演奏会は京響60周年記念演奏会ということなのだが、それにしてもなんという大胆なプログラム。しかも驚いたことに何百人、何千人いるのか分からないけれどぎっしりのお客さん。いわゆる現代音楽だけのプログラムでこの集客は驚異的、というより殆ど有り得ないことだと思う。グルッペンが世に出てほぼ60年で、日本で演奏されるのはこれが3回目だという。東京からもたくさんの音楽関係者や好事家が集結していたのは間違いないにしても、どうみてもオタク系でないごく普通のコンサート客が大半を占めている。これはひょっとして1曲目で半分くらい帰っちゃうんじゃないか、と危惧していたが、最後までそんなに減った印象はない。休憩時にごく普通の若夫婦やオバサマ達の会話を聞くともなく聞いていると、「なんか難しいけど面白いね」「下野さんカワイイ!(笑)」といった感想が聞こえてくる。演奏中もみんな身じろぎもせず聴いている感じ(ケージのときはさすがに爆睡客が多かったみたいだが・・)。聴衆のマナーも上々。京響おそるべし。京都という町の懐の深さはもっとおそるべし。本当にこのオーケストラは日本一、いやもしかすると世界一市民から愛されているのかも知れない。
会場のみやこめっせは普段は企業の展示会などに使われているようだが、そのだだっ広い展示場(4千平米!)の正面と四方の5ヶ所にオーケストラ席があり、それに取り囲まれたフロアに折畳み椅子が並べられている。一旦座ってしまうと身動きもできないほどの詰込ぶりに、おそらく主催者だってここまでの盛況は予想していなかったことが伺われる。演奏前にNHKの岩槻アナの司会でまずは指揮の広上氏登場。60周年の記念に常任指揮者3人で何かやろうということになり、最初はモーツァルト(たぶん4つのオーケストラのためのセレナード第8番と、3台のピアノの協奏曲)などが案として挙がっていたようだが、下野さんが「グルッペンやりたい」と言い出し、高関さんが「いいね」、広上さんは「・・・?」だったそうだ。
さて肝心のグルッペンだが、私は生でこの作品を体験できただけでもう感無量であった。しかも3人の指揮者の確信に満ちた指揮を見ていると、完全に作品が手の内に入っているという印象を受けた。3つのオケが合うべきところでびしっと合うのには一種の生理的快感を味わった。中ほどより少し後の、3つの金管群が同じコードを吹き交わすところは(録音で聴いて想像はしていたけれど)頭のまわりをぐるぐると音像が駆け巡る。この目眩にも似た身体的な快感は本当に素晴らしい効果で、セリエリズムがどうのこうの、といった議論を吹っ飛ばすだけの力がある。会場が会場だけに、弦の音が届きにくい(ただでさえデッドな音響なのにフラジョレットやピッチカートを多用したりするので余計に)憾みはあるけれど、管と打楽器はほぼ過不足なく聞こえた。いやむしろシュトックハウゼンが書いた精緻極まりないスコアを耳で聞いて体験するには、音が融け合わないこのデッドな空間は意外に悪くなかったとも思えた。

休憩を挟んで今度は岩槻アナと高関氏のトーク。ケージ作品は3つのオケが緊密にリンクするグルッペンと異なって、5つのオケの指揮者とメンバーは自分の属するオケのスコアしか見ることができず、各曲の時間の中で、他の4群の音を聞きながら「適当に入っていく」のだそうだ。拍手が静まると会場のどこからともなくラジオの音が流れてくる。この日23日の15時過ぎのNHK第一ラジオはニュース解説でヘイトスピーチがどうとかの後にシェイクスピアの「ヴェニスの商人」の放送劇をやっていたのだが、それが演奏中にずっと流れている(なんか出来過ぎのような気がしたが後で調べてみたらリアルタイムでやっていた)。5つのオケといっても基本は音がスカスカなところがケージらしい。何より面白いのはこの偶然性という基本原理と作品の構造的な緩さというものが耳で聞いて如実に実感できるということ。先にも書いたが、聴衆がついつい眠りに落ちてしまうのも、グルッペンの緊密な書法と正反対のケージの書法を正しく受け止めた結果だとすれば、爆睡するのもまったくOKということになるだろう。まったくグルッペンと並べてケージをやろうという発想には恐れ入る。私はグルッペンの一回目と同じ席、会場の真ん中よりすこし後方(グルッペンの3人の指揮者は一望できるがケージの第1・第4オケは見えない)で聴いたのだが、グルッペンより更にサラウンドな音響効果を期待したが後方の2つのオケは殆ど後方から響いているようには聞こえなかった。これは人間の耳の構造上やむを得ないことなのだろう。第4オケにはパーティーで使うクラッカーのようなものも置いてあったはずだがこれも聞こえなかった。こんなことも生で聴かない限り決して分からないことだろう。

ケージのあとの休憩で何と席替え。一旦荷物を持って外にだされた客が大槻アナの合図で一斉に前方の席取りに駆け出すのは壮観でもあり、ちょいと危険な感じもするが、京都のお客さんは(大阪と違って)筋が良いので事故もなく席替え完了。こんなこと書くと大阪人に怒られそうだが、京都の人は性格は悪いけど民度は高い(大阪はその逆)ので仕方がない。私は後半は下野さんの第3オケのすぐ近くの席を確保した。
最後は下野氏のトークで、あんまり覚えていないが(笑)人柄の良さだけはよく分かる。そして2回目のグルッペン。こういった作品で繰り返し聴けるのは本当にありがたい。聞こえ方の違いそのものも面白いが、舞台狭しと並べられたザイロリンバやタムタム、スネアドラムとアフリカンドラム、カウベルといった夥しい打楽器群と、気迫に満ちた奏者の動きという視覚的な要素も加わってより面白く、この作品を本当に堪能したといったところだ。演奏後のなかなか熱狂的な拍手に、これは現実の光景だろうかと訝しく思ったほど。ケージはともかく、グルッペンは完全に古典の領域に入ったと言えるかもしれない。それにしても昨年のサントリーホールのツィンマーマンの時も思ったが、前衛的な音楽は客が入らないと思い込んでいるプロモーターは少し考えを改めたほうが良いのではないか。この日の偉業はしばらく業界の語り草になるだろうが、是非とも他のオーケストラやオペラハウスのレパートリー拡大に繋がってほしいものだと思う。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2016-12-24 23:38 | 演奏会レビュー | Comments(0)

京都市交響楽団第607回定期演奏会 メシアン「トゥーランガリラ交響曲」

ユーキャンの流行語大賞って年々酷くなっとる。なんかぱよちん系のジジイがはしゃいでるみたいで痛々しいというか。で、それをまたよりによって鳥頭ちゅん太郎が擁護するってもう地獄絵図。あ、でも三省堂の「今年の新語」はわりとマトモですよ。





10月から職場が変わり、猛烈に忙しい日々を過ごしておりまして、なかなか音楽を聴く時間がとれません。そんな中でも、「トゥーランガリラ」を生で聴く機会となれば聞き逃す訳にはいきません。積もり積もった疲労と寝不足で80分の長丁場は少々心配でしたが、目の覚めるような演奏にあっという間に時間が過ぎ去った感じがしました。

 2016年11月26日@京都コンサートホール
 メシアン トゥーランガリラ交響曲

 京都市交響楽団
 指揮:高関健
 ピアノ:児玉桃
 オンド・マルトノ:原田節

メシアンが好きな人もそうでない人も、彼の代表作が「トゥーランガリラ交響曲」であることに異論を唱える人は少なかろうと思います。私はどこかで書いたとおり、60年代の「クロノクロミー」「七つの俳諧」「天国の色彩」あたりが本当の傑作群だと思っているのですが、それでも「トゥーランガリラ」を実際の演奏で聴くと、その途轍もないエネルギーに圧倒される思いでした。音楽そのものについて書きたいことはたくさんあるのですが、それはメシアンのコンプリートアルバムの試聴記に譲ることにして、演奏の備忘のみ簡単に記しておきます。
演奏の始まる前に、指揮者の高関健氏によるプレトークがあり、まずは舞台前方に並べられた独奏楽器群(ピアノ、オンド・マルトノ、チェレスタ、ジュ・ドゥ・タンブル、ビブラフォン)の説明(オンド・マルトノ以外を「ガムラン隊」というのだそうだ)。それから「移調の限られた旋法」「不可逆リズム」といった音楽原理の説明がありました。後者は素人にも分かるように、というのはなかなか難しくて、若干舌足らずな感じもしましたが、高関氏自身が若いころはメシアンをあまり好きではなかったのに、近年になって楽譜をアナリーゼするとすべての音がこういった原理に基づいて書かれていることに驚き、それ以来メシアンが大好きになったと仰ったのは印象的でした。
そんな高関氏のプレトークを聴いたから、というのではなくて本当に精緻である意味醒めた演奏でした。「トゥーランガリラ」と聞いてまず思い浮かべるカオティックな猥雑さとかエロティシズムといった要素は希薄で、あまり好きな言葉ではないが「分析的」というか、音楽の構造が透けて見えるような不思議な演奏でした。ブーレーズは「トゥーランガリラ」を嫌っていたと聞いたことがありますが、こういう演奏なら御大も喜んで聴いたのでは、と想像します。これまであまり強い印象を持たなかった指揮者ですが、本当に面白い演奏をする人だと思いました。それでもあちこちに出てくる三和音による強烈な終始の臆面の無さはどうしようもなく、盛り上がることは確かだが少々げんなりするのも事実。まぁ大戦後すぐに現れた異形の音楽であることは確かでしょう。
児玉桃のピアノは大熱演。80分ほとんど出ずっぱりで弾くのはピアニストにとってこの上なく過酷だろうと思いますが、「嬰児イエズスの20のまなざし」を全曲通して弾くことに比べれば、彼女くらいのプロのピアニストにとってはまだしも楽なのかもしれません。彼女の強靭な打鍵を以てしてもオーケストラのトゥッティが被るとほとんどピアノが聞こえなくなりますが、これは偏にメシアンの書き方が悪いのであってピアニストのせいではないと思います。
オンド・マルトノを生で聴くのも初体験でしたが、実際に聴くと思いのほかあちこちで音が鳴っているという印象(録音で聴いても全部は聞き取れない)。緩徐楽章でクラリネットと被せて鳴らすところの精妙な音色など、こればかりは実際の演奏を聴かないと絶対にわからないと痛感しました。
京響も熱演だったと思います。指揮者の目指す音楽をとにもかくにもリアライズして長時間弾き切ったというだけでも大変なことだと思います。ですが、終演後に指揮者がオーケストラのセクションごとに立たせてねぎらいの拍手を送っている時、パーカッションのセクションになった途端にしつこくブーイングしている人が一人いてちょっと興ざめしました。これほどの難曲、大曲でパーカッションの大小の事故というのは避けられません。少なくとも私にはまったく気になるほどではなかったのですが、あまりに執拗なブーイングを聞くと、この人どれだけ分かってんのかね、と嫌みのひとつも言いたくなるというもの。私だって準備不足の、あるいは技術の追いつかないプロの演奏には激しく拒否反応を起こしたりすることはあるけれど、それとこれとは違う。ちょっと余談になるけれど、私は以前友人と2台ピアノのための「アーメンの幻影」の終曲「成就のアーメン」のプリモをあるアマチュアの演奏団体のセミクローズドな演奏会で弾いたことがあるのですが、その時最も困難を極めたのはデュラン社のスコアで最初の7ページほどのリズムカノンの箇所でした。プリモの右手、左手、セコンドの旋律がずれにずれていく複雑なリズムカノンは、youtubeでプロの演奏を観ても無事故で弾いているものは皆無といってよいほど。大切なのは小さい事故があってもすぐに合わせるべきところで合わせて復帰することだと思いました。そういった意味でこの日の京響のパーカッションはまさにプロの演奏だと思ったのですが、何がそれほど気に食わなかったのか、この手のブーイングの主は、逆に自分の知識をひけらかすだけの御仁に思えてしまうのがつらいところ。ブーイングを否定するつもりはありませんが、周りに「よくぞやってくれた」と思わせるのは至難の業なのでしょう。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2016-12-07 01:03 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ドニゼッティ 「ドン・パスクァーレ」 沼尻竜典オペラセレクション

毎朝ラジオで、
モノタロウ~、モノタロウ~、こうばでつかう~しょーもーひんを、ネットでちゅーもんモ~ノタロウ~
というCMが流れるのが頭にこびりついて離れないのでなんとかしてください。





びわ湖ホールで「ドン・パスクァーレ」を観てきました。

 2016年10月23日@びわ湖ホール
 ドニゼッティ 「ドン・パスクァーレ」
  ドン・パスクァーレ: 牧野正人
  マラテスタ: 須藤慎吾
  エルネスト: アントニーノ・シラグーザ
  ノリーナ: 砂川涼子
  公証人: 柴山秀明
  合唱: びわ湖ホール声楽アンサンブル、藤原歌劇団合唱部
  管弦楽: 日本センチュリー交響楽団
  指揮: 沼尻竜典
  演出: フランチェスコ・ベッロット


ドニゼッティ晩年の喜劇ということで、日本での上演は何かと難しいだろうと思ってましたが、全体としては大健闘といった感じがしました。だが同時にコンメディア・デラルテの末裔たるドタバタ劇で観客を笑わせるのは、日本ではまず不可能ということもよく分かりました。今回の公演では演出にフランチェスコ・ベッロットを招いて、いろいろと工夫の跡も伺えるのだけれど笑いに繋がらない。この7月にブリテンの「真夏の夜の夢」を見て、ルーシー・バージの振付に大笑いしたことを思うと、演出次第でもうちょっと何とかなるような気もするが、イタリアの気候風土の中で生まれたこういった喜劇は、温暖で湿度の高い国では無理なのでしょう。
もちろんドニゼッティの音楽が素晴らしいので、かならずしも笑いは必要ではないという意見もあると思いますが、感傷はほどほどで切り上げてさっさと乾いた音楽に戻っていくこの音楽のスタイルは、やはり舞台で観るなら笑いとセットであってほしいというのが私の無いものねだり。
話のついでで演出から備忘を記すと、舞台はドン・パスクァーレの豪邸の居間。壁にはちょっとくすんだ色合いの巨大な絵画がびっしりと飾られ、ギリシャ風の彫刻やソファなどの調度が設えられている。ノリーナがこれらを売り払ってしまうと、それまで重厚な邸宅の居間であった舞台が白々となにもない壁だけのセットになる。最初は正装の執事と召使がうやうやしく出入りしていたのが、後半は何やらいかがわしい連中も交じって賑やかにドタバタを演じる。演出家がドン・パスクァーレの孤独に着目した創意工夫はよく分かるのだが、肝心の笑いの要素がなければ些末な演出意図だけが独り歩きする感じもする。

歌手では売れっ子のシラグーザを招いたのが何よりの目玉だと思いますが、なにか突き抜けてくるような歌の力というものが少し物足りない。シラグーザをもってしてもアンサンブルとなると全体にこじんまりとした感じがつきまといます。それを承知の上でいうと、ノリーナの砂川涼子が素晴らしいと思いました。リリコが身上の歌手だと思うけれど抜群のアジリタのテクニックを持っているので今回の役まわりはぴったりだと思います。アジリタだけでなく、声に強い芯がある歌い手なので、しおらしい修道女から蓮っ葉な女に豹変してからの声質が更に役柄との一体感を感じさせます。終幕のロッシーニ風のロンドはお見事の一言。
シラグーザは、ロッシーニならいざ知らず、どうもドニゼッティでは声が脳天気すぎて殊更薄っぺらい男に聞こえてしまうのがどうも好きになれません。以前聴いたネモリーノ(愛の妙薬)なら、それでも観客の涙を絞る美しいカヴァティーナを堪能できて多少のことはどうでもよくなるのですが、ドン・パスクァーレではカヴァティーナもセレナーデも随分あっさりとしているので(それが晩年のドニゼッティの様式なのでしょうが)、物足りなさだけが残るといったところ。それでもこの人がアンサンブルに入ると俄然音楽が引き締まるのはさすがだと思いました。
マラテスタの須藤慎吾、脇役ですがバリトン歌手としてはアジリタがきちんと歌えていて気持ちが良い。ロッシーニのブッフォ歌手でもなかなかこうは歌えないのじゃなかろうか。タイトル・ロールの牧野正人はオーケストラより一歩飛び出す癖があって、ソロもアンサンブルもちょっとハラハラする。まぁイタリアの歌劇場のライブなどを聴いても、ブッフォのバス・バリトン歌手なんかこんなもん、という気もするが、せっかくのアンサンブルなのにもったいないと思う瞬間が多々ありました。マラテスタと聴き比べると、やはりなんだかんだ言っても技術があってこそ、と思います。
合同編成の合唱もなかなかのレベル。お話としてはあってもなくても一向に構わない役回りだが、だからこそ高レベルの演奏で聴くと尚更贅沢感が出るというもの。

今回の公演の立役者は実は沼尻の指揮だと考えています。プッチーニやコルンゴルトだと、泣かせてほしいところでサクサクと進んでいくので物足りない思いをしてきたのですが、こういう喜劇に思いのほか適性があったのかと驚きました。序曲からして、カラッとして粘らないのに絶妙なアゴーギグが効いていて、これぞドニゼッティ、と嬉しくなります。アンサンブルの推進力も見事。例によってカヴァティーナは良くも悪くも情に流されないものですが、この作品の性格にはむしろ向いている。エルネストのカヴァティーナなど、さあこれから、と思った瞬間にぷいっと喜劇の音楽に戻る瞬間が堪りません。大げさに言えば、こういった書法というのはヴェルディの「ファルスタッフ」第3幕のフェントンのカヴァティーナ、あの涙腺が緩みそうになる瞬間にもう終わってしまう変わり身の早さと共通するところがあるようにも思えます。ドニゼッティとヴェルディの格の差こそあれど、一生をオペラに捧げた人生の果てにたどり着いた境地といえなくもない。私はドニゼッティについて、世間で思われているよりずっと偉大なオペラ作曲家だと思っているけれど、改めてそんなことに気づかせてくれたのは今回の指揮の大きな成果じゃなかろうかと思っています。センチュリーも実に結構。多少のデコボコはあっても来て良かったと思える公演でした。
(この項終り)


by nekomatalistener | 2016-10-26 00:06 | 演奏会レビュー | Comments(0)