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Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その10)

近鉄の車内放送で、車掌さんが何度も「ドアが閉まります、ドアが閉まります」と言ったあとに、ちょっと怒った声で”The doors will be closed!”と叫んではりました。外国の方がふざけてたんでしょうね。でも南海やったら「閉まるゆうとるやろがこのボケ」とか言いそう。





60年代の掉尾を飾る大作「我らの救い主イエス・キリストの変容」。

 CD14/15
 我らの救い主イエス・キリストの変容
 ロジェ・ムラーロ(Pf)、トマ・プレヴォー(fl)ロベール・フォンテーヌ(cl)
 エリック・ルヴィオノワ(vc)、フランシス・プティ(マリンバ)、
 ルノー・ムッツォリーニ(シロリンバ)、エマニュエル・キュルト(ヴィブラフォン)
 フランス国立放送合唱団
 チョン・ミュンフン指揮フランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団
 2001年9月録音


1965年から1969年にかけて作曲され、1969年6月にリスボンで初演されています。テキストはマタイによる福音書の他、トマス・アクィナスの『神学大全』から取られているとのこと。しかし、このような外部情報が作品の理解に幾らかでも助けになるかと言えば勿論否である。正直なところ、私はこの大作を持て余していて、何度も聴けばそれなりに良さが分かるかと思いながらも、聴き通すこと自体がかなり重荷に感じています。作風は60年代の傑作群(「クロノクロミー」「七つの俳諧」「天の都市の色彩」)の流れを汲む辛口の楽章もあれば、幾分年代が遡ったような甘口のものもあって、その混合こそが70年から晩年に至るメシアンのスタイルの始まりだというのはよく分かりますが、私には苦手な音楽という他ありません。いまつらつらと考えていることは、やはり神学に対する教養なくしてメシアンの理解はあり得ないのではないだろうか、ということ。メシアンの少なくとも幾つかの作品は、音楽愛好家の誰でもがアプローチ可能な、普遍的で開かれたものではなくて、カトリックの教義を非常に深いレベルで共有する者にのみ、その狭き門が辛うじて開かれているのではないか、などと考えています。そのアプローチの至難さを思うと、半ば諦めの境地ではありますが、せめてトマス・アクイナスの著作の幾つかでも読んでみようかという無謀な気持ちも湧いてきます。メシアンの作品の中でもおそらく大変重要に違いないこの「変容」が、全く腹に入らないというのは実に悔しいものであります。
全体の理解とは程遠いのを承知で、備忘として全14楽章のちょっとした感想を記しておきます。各楽章の表題の邦訳は定まったものはないと思うので、ネットで拾ったものを仮に掲げておきますが、これが正しいのかどうか私には判断つきません。

第1セプテネール
第1曲 福音叙述
打楽器のみの開始に続いておもむろにユニゾンの合唱が歌い出す。 この楽章に限らず、オーケストラも合唱も巨大な編成の割に極めてストイックというか、不経済な書法が目立つ。
第2曲 御自身の栄光の体のかたどりに
歓びに溢れる冒頭の主題が印象的。合唱は前半またもやユニゾン、後ろ三分の一ほどがハーモニックな書法。拡大された調性によるやや辛口の音楽に甘い和音が時折現われる。
第3曲 イエス・キリスト、あなたは神の栄光の輝き
「クロノクロミー」の延長線上にある素晴らしい音楽。管弦楽、合唱とも室内楽的な密やかさから巨大編成ならではのマッシヴな響きまでとてもレンジが広い。
第4曲 福音叙述
第1曲とほぼ同様の音楽が繰り返される
第5曲 あなたの幕屋は何と慕わしいことか
抒情的な合唱に続いて、ピアノ、チェロ、シロリンバなどのソロを含む室内楽的な響きが美しい。
第6曲 それは永遠の光の輝き
女声のユニゾンとオーケストラの鳥の声による短い間奏曲風の楽章。木管とシロリンバ、ピアノが啼き交わす鳥の歌はなかなかカオティークで面白い。
第7曲 聖なる山の聖歌
40年代の諸作品に出てくる、不協和に軋みながら協和音に解決するメシアン独特の音形が現われる。静かで美しい合唱。

第2セプテネール
第8曲 福音叙述
第1曲、第4曲の再現だが、クセナキスを思わせる弦のグリッサンドが出てくる。かつての弟子が「メタスタシス」を書いてから10年以上も経って、なぜ引用めいた音形を書いたのだろうか?
第9曲 完全なる出生の完全なる承認
導入は最後の審判の如く打ち鳴らされるシンバルや喇叭の咆哮、男声ユニゾンが続くが、これが何度も繰り返され、第1曲の福音叙述、ソロ楽器による技巧的なフレーズ、男声ソロの単音によるテキストの朗唱、トニカで始まる調性感のある合唱などがモザイク状に組み合わされる。長大な楽章の中に、福音叙述や朗唱が嵌め込まれているのは、この楽章自体が入れ子状になった小規模なミサ曲であるようにも聞こえる。
第10曲 子らの完全なる世継ぎ
チェロの抒情的なソロ、薄いオーケストラを伴って歌われるユニゾンの合唱、言葉は矛盾しているが「巨大な室内楽」を聴いているよう。
第11曲 福音叙述
第1曲、第4曲、第8曲より幾分長く、開始は他の3曲と異なって上昇音形から始まる。
第12曲 このところは何と恐ろしい
ピアノのカデンツァに続いて40年代風の合唱が2回現われる。合唱はユニゾンから終盤のカオティークな叫びまで多様。
第13曲 完全なる三位一体の現出
点描的な書法の大変前衛的なオーケストラと、時にグレゴリオ風男声ユニゾンを伴う合唱、それに臆面もない協和音の奇妙な混合。
第14曲 栄光の光の聖歌
苦悶と陶酔の狭間を、軋みながら移ろい、協和音に至る合唱。好きか、と聞かれると困るけれども、ある意味メシアンの面目躍如たる音楽だろう。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2017-04-23 00:33 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その9)

分け入つても分け入つても社畜





60年代の作品を聴いていきます。今回は1965/69年に書かれた大規模なオルガン作品。

  CD10
  聖なる三位一体の神秘への瞑想(1965/69)
  
  オリヴィエ・ラトリー(org)
  2000年7月パリ・ノートルダムで録音

1965年の即興演奏を元に作曲され、メシアン自身の演奏で1972年3月29日、ワシントンDCの無原罪の御宿りの聖母教会で初演されています。
どうも私はメシアンのオルガン作品と相性が悪いのではないかと考えています。ピアノや管弦楽のための作品にくらべると、より実験的、即興的な要素が強いように思われますが(それはとりもなおさず、メシアンにとってオルガンが最も身近な楽器であったという証左でもあるのでしょう)、聴く側からすれば些かしんどいという感じがします。今回取り上げたような長大な作品だと、最後まで何度も聴き通すのはかなり忍耐のいる仕事でした。いや、実験的であること、長大であることが悪いのではないでしょう。私はもっと前衛的で長大な作品、例えばシュトックハウゼンであれフェルドマンであれ、これほどまで苦行めいた聴き方はしてこなかったはず。ならば相性が悪いとしか言いようがありません。それと、他のジャンルの作品とくらべてカトリシズムへの耽溺の度合いが著しく強い感じがして、それもつい敬遠してしまう原因かもしれません。まぁそれを言うなら「20の眼差し」だって同じようなものかも知れませんが、あちらは絢爛たるピアノ技巧が楽しみの大きなポイントになっているので大部分の聴き手はカトリシズムの教義を忘れて聴くことができる。だがそれが果たして正しいメシアンの享受のあり方かという疑問を持たざるを得ません。少なくともオルガン作品の場合、楽器の制約によってピアノほどの目覚ましい技巧は使えないので、その分カトリシズムという要素が全面に出てきて、私のような不心得な聴き手を苦しめるのかもしれません。

全部で9つの楽章から出来ていますが、解説によれば3つの性格を持つ3曲のセットから出来ているとのこと。すなわちⅠ:三位一体のそれぞれ(父と子と聖霊)に捧げられたもの(第1・6・7曲)、Ⅱ:神の様々な属性を表す音楽(第2・5・8曲)、Ⅲ:トマス・アキナスと出エジプト記に書かれた神の記述(第3・4・9曲)。曲順にこのカテゴリーを記すとⅠ→Ⅱ→Ⅲ→Ⅲ→Ⅱ→Ⅰ→Ⅰ→Ⅱ→Ⅲとなっていて、タイトルの三位一体と音楽の3曲×3セットの構造が照応しています。一方、この作品の中でメシアンは"langage communicable"という技法を第1・3・7曲で用いて音と言葉(文字)を照応させようとしているらしい。これが何を意味しているのかはスコアを取り寄せて分析しないと何とも言えませんが、これもまた晦渋な印象の原因なのかもしれません(ふと思い立って楽譜販売のサイトをみたら税込で22,356円もするので絶対取り寄せないと思うけど・・・)。
解説はともかく、耳で聴いた印象をもう少し分析すると、概ね3つのタイプの音楽にカテゴライズできるような気がします。まず9曲中6曲がオッフェルトリウムとでも呼べそうなソロと応唱が交替していくタイプの音楽で、その内第1・5・9曲が調性のないソロに先導され(カテゴリーA)、第2・6・8曲がグレゴリオ聖歌風のソロに先導されます(カテゴリーB)。全体に不協和音と無調的なパッセージに満ちた音楽の中で、カテゴリーBの3曲は比較的取っつきやすくて、聴いて楽しくまた美しい響きが随所に出てきます。第2曲のソロはあの「天の都市の色彩」で聴かれた東洋風の旋律で、私はてっきりガムランにインスパイアされたものと思っていましたがグレゴリオ聖歌をモディファイしたものと言われたらそんな気もしてくるのが面白い。第3・4・7曲はオッフェルトリウムの構造を持たないもので、トッカータ風であったり鳥の歌であったり、といった曲想(カテゴリーC)。これを曲順に並べるとA-B-C-C-A-B-C-B-Aとなって、シンメトリックという訳ではないがやはり3曲×3セットという構造が見て取れます。もっとも、こうやって分析しても苦手な作品が聴き易くなるわけでもなく、やはり難物だと思わざるを得ません。

演奏についてはこのシリーズの(その5)に書いた以上の印象はありませんので繰り返しません。何度聴いても腹に入らない音楽ですが、しばらく冷却期間を置くことにしましょう。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2017-01-08 18:41 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その8)

真冬のさっむい日の早朝、駅のホームで半袖シャツで震えてるおっさんを見たことがあるのだが、あれは何かの罰ゲームだったのだろうか?未だに謎。





60年代の作品を網羅的に聴いていきます。

CD2
①鳥の小スケッチ(1985)
 1.ヨーロッパコマドリ
 2.クロウタドリ
 3.ヨーロッパコマドリ
 4.ウタツグミ※
 5.ヨーロッパコマドリ
 6.ヒバリ
②4つのリズムのエチュード(1949-1950)
 1.火の島Ⅰ
 2.音価と強度のモード
 3.リズム的ネウマ
 4.火の島Ⅱ
③カンテヨージャーヤー(1949)
④ロンドー(1943)
⑤ファンタジー・ブルレスク(1932)
⑥前奏曲(1964)
⑦ポール・デュカの墓のための小品(1935)

ピアノ: ロジェ・ムラロ
①②2001年2月15日③~⑦2001年2月22日

※表題のla grive musicienne(ウタツグミ)の学名はturdus philomelosが一般的なようだが、楽譜にはturdus ericetorumという古い学名が書かれている。

まずは「前奏曲」(1964)から。
比較的有名な初期の「8つの前奏曲」とはまったく別物。ですが、調性感のはっきりとしたアルカイックな旋律は、ラヴェルを思わせるものがあって大変魅力的。この古雅な旋律をメシアン独特の煌めくガラス片のような不協和音が彩る。この作品についてはメシアンの死後に遺稿の中から発見されたということ以外、ネットで調べても情報が乏しく、前衛真っ盛りの60年代にどうしてこのような調性作品が書かれたのかよく判りませんでした。まぁメシアンのような作曲家にとっては調性の有無などというのは大した問題ではなかったのかも知れません。こういった佳品に出会えるのはComplete Editionならではでしょう。

「鳥の小スケッチ」(1985)はイヴォンヌ・ロリオの希望に応じて書かれたもの。6曲のセットだが各曲はわずか2分ほどの小品。素材はタイトルの鳥の歌と「背景」をなすゆったりとした和音のみ、楽譜には鳥名以外は速度記号しか書かれておらず、大作「鳥のカタログ」や「ニワムシクイ」が標題以外にも様々な鳥の声や事物の音で満たされ、また言葉で楽譜に書き込まれているのとは大違いのシンプルさ。そのピアニスティックな書法は洗練の極みですが、特に第2曲など終止の和声がともすると協和音に解決する傾向など、晩年のメシアンのスタイルがよく現われていると思います。それを円熟と見るか、それともある種の退嬰と見るか、意見が分かれそう。だが終曲の息つく暇もなく啼き続けるヒバリの歌を聴いていると、老いたりとは云え、さすがは「ニワムシクイ」を書きあげた人だと心打たれずにはおれない。

「4つのリズムのエチュード」(1949~50)と「カンテヨージャーヤー」(1949)はメシアンのピアノ独奏曲の中ではもっとも実験的、しかも音楽史的な意味で最も重要であり、なおかつ耳で聴いてこの上なく面白いものではないでしょうか。私の個人的な好みでいえばエチュードの第1曲「火の島Ⅰ」はメシアンの数あるピアノ曲の中でも最も好きな作品。第2曲「音価と強度のモード」は後のトータル・セリエリズムの嚆矢となったことであまりにも有名ですが、その音響は難解どころか大変美しいもの。私は高校生の頃にミシェル・ベロフのLPで聴いて驚いたものです。そして「カンテヨージャーヤー」。タイトルは13世紀のインドの音楽学者Sarangadeva(1210-1247)の理論書Sangita Ratnakara に体系化されたヒンドゥーのリズムのことらしいのですが、理屈はともかく実に面白い音楽。「音価と強度のモード」で全面的に展開された音高・音価・強弱・アタックのセリーが部分的に使われているのも注目されます。

残りの3曲、「ファンタジー・ブルレスク」(1932)、「ポール・デュカの墓のための小品」(1935)、「ロンドー」(1943)は作曲年代は10年以上の開きがあるけれど、いずれも習作といって差し支えなさそう。逆に、まだまだドビュッシーの尻尾を引きずった「ロンドー」とほぼ同時期に「アーメンの幻影」や「嬰児イエズスにそそぐ20の眼差し」が書かれていることのほうが驚きなのかも知れません。最も作曲年代の古い「ファンタジー・ブルレスク」は導入に続いて現われる主題の三連符と四連符のぶつかり合いや、裏拍に附けられたアクセントがジャジーな雰囲気を醸し出して面白い。ポール・デュカの死に際して書かれた小品は厳粛な下降音形をメシアン独特の和音が彩る。それは苦痛に引き裂かれるようでもあり、苦悶と見紛うばかりの快楽の表象とも聞える。これは異色のtombeau(故人を追悼する器楽曲)と言えるのではないでしょうか。

ロジェ・ムラロの演奏はいずれも見事。特に「鳥の小スケッチ」と「4つのリズムのエチュード」はライブ録音で聴衆の拍手も入っているのですが、ごく小さな傷がいくつかあるものの技巧的に突き詰めた演奏だと思います。中でも「火の島Ⅰ・Ⅱ」の気迫が凄い。思うにライブならではの音楽の推進力を慮って敢えて傷の修正はしなかったのでしょう。先に少し触れたミシェル・ベロフの若き日の録音と比べると若干モノクロームな感じもしますが、現時点で望みうる最上の演奏であると思います。それにしてもベロフ盤の色彩感あふれる録音は、録音技術の賜物なのか実際の演奏自体のせいなのか、未だによく分かりませんが本当に素晴らしいものであったと懐かしく思い出します。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2016-10-24 22:54 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その7)

手塚治虫の「ユフラテの樹」という漫画に、超能力を得た少女がペトルーシュカを初見で弾くという場面が出てくる。この漫画の初出は1975年、ポリーニのペトルーシュカのLPは71録音で、翌年の暮には日本でも発売されたそうだが、手塚治虫はこのLP聴いていたのかなぁ?にしてもペトルーシュカを初見で、という発想すげーな。





60年代の作品「天の都市の色彩」を中心に。

 CD30
 ①神の顕現の3つの小典礼(1944)
 ②天の都市の色彩(1963)
 ③聖体秘蹟への讃歌(1932)
 ④ヴァイオリンとピアノのための幻想曲(1933)

 ①ロジェ・ムラロ Roger Muraro(pf)
  ヴァレリー・アルトマン=クラヴリー Valérie Hartmann-Claverie(オンド・マルトノ)
  エレーヌ・コルレット Hélène Collerette(vn)
  フランス国立放送女声合唱団
 ②カトリーヌ・クルノー Catherine Cournot(pf)
 ①~③チョン・ミュンフン指揮フランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団
 ④ダニエル・ホープ Daniel Hope(vn)
  マリー・ヴェルムラン Marie Vermeulin(pf)

 ①2008.4②③2008.7④2008.7.4録音


以下は現時点での私の仮説にすぎないが、このメシアンという人はラヴェルやストラヴィンスキーのように生涯のどの時期をとっても高いクオリティで駄作がないタイプではなくて、駄作佳作混在する初期(30年代)、実験と作風の確立の中期(40~50年代)、傑作の森というべき充実期(60年代)、若干過去の作風に回帰しつつ手癖のようなものでそれなりに大作を書き続けた後期(70年代以降)とおおまかに見取り図を描くことができそうだ(これからいろいろと聴き込む内に考えが変わるかもしれないが)。
まず「天の都市の色彩」(「天国の色彩」とも)ですが、少し前の「クロノクロミー」「七つの俳諧」とともに60年代の、というよりメシアンの全創作の中での頂点を形作っているように思います。これはもう「音と色彩の三部作」と言っても良いのではないでしょうか。ガムランの影響、というよりそれを咀嚼しきった表現が素晴らしく、ところどころあからさまな東洋風の旋律も出てくるが抽象度は高い。因みに初演は1964年10月17日、ドナウエッシンゲン音楽祭でイヴォンヌ・ロリオのピアノ、ピエール・ブーレーズ指揮アンサンブル・ドメーヌ・ミュジカルによって演奏されています。スコアには黙示録から下記の引用が書き込まれているそうだ。

1.その御座(みくら)に坐したまふ者あり、その坐し給ふものの状は碧玉・赤瑪瑙のごとく、かつ御座の周圍(まはり)には緑玉のごとき虹ありき(Ⅳ.3)。
2.ここに七つのラッパをもてる七人の御使これを吹く備をなせり(Ⅷ.6)。
3.第五の御使ラッパを吹きしに、われ一つの星の天より地に隕(お)ちたるを見たり(Ⅸ.1)。
4.その都の光輝(かがやき)はいと貴き玉のごとく、透徹(すきとほ)る碧玉のごとし(XXI.11)。
5.都の石垣の基はさまざまの寶石にて飾れり。第一の基は碧玉、第二は瑠璃、第三は玉髄、第四は緑玉、第五は紅縞瑪瑙、第六は赤瑪瑙、第七は貴橄欖石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶なり(XXI.19-20)。

メシアンはいわゆる音と色彩の「共感覚」(ある音を聴くとある色が見える)を持っていたらしいが、私にはこの共感覚というものがよく判りません。時々音楽の印象を述べるのに「色彩的」という言葉を使うけれども、具体的に緑や赤の色が見えている訳ではありません。ですがこの黙示録の引用を見ていると何となくメシアンの感じていたものが判るような気がします。実際の色彩を想起すると若干悪趣味な感じもするが、これは純粋に言葉からその言わんとする美を感受すべきものでしょう。メシアンの響きそのものから受ける印象もまた、ぎらぎらと光る極彩色の綾織のように悪趣味スレスレではあるが、それが極度の洗練と同居していて大変クセになります。

フィルアップの3曲はいずれもあまり知られていない初期の作品で、正直それほど面白いとも思えません。
「神の現前の3つの小典礼」は「アーメンの幻影」と同じく、ドゥニーズ・テュアルによってプレイアッド演奏会の為に委嘱され、1945年4月21日にジネット・マルトノのオンド・マルトノ、イヴォンヌ・ロリオのピアノ、イヴォンヌ・グヴェルネ合唱団、ロジェ・デゾルミエール指揮のパリ音楽院管弦楽団により初演されています。
第1曲のピアノによる鳥の歌はたいへん魅力的、第2、第3曲の、ちょっと「喜びの精霊の眼差し」を想起させるようなリズムの乱舞も聴きどころ。しかし凡庸な旋律や臆面もなく表面的な効果をまき散らすオンドマルトノを聴いていると、駄作と言うつもりはないがちょっと苦手だと思ってしまう。
「聖体秘蹟への讃歌」は1932年に作曲されたものの、その後の戦禍によりスコアが失われ、1947年に記憶に基いて書きなおしたものといいます。出だしを聴いただけでトゥーランガリラを想起せざるを得ないところなど、これはむしろ1947年の作品と言いたくもなるけれど、それに続くドビュッシーのエピゴーネン丸出しの曲想や、仰々しいタイトルと内容とのギャップはやはり初期作という感じもします。
1933年に最初の妻クレール・デルボスのために書かれた「幻想曲」は、メシアンの死後、2007年にデュラン社より出版されたとのこと。メシアン独自の和声にも溢れ、初期の全貌を把握するうえで貴重な作品かもしれないが、佳作扱いするのはすこし躊躇われる感じも。

チョン・ミュンフン指揮するフランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団の演奏はたいへん美しく精緻。「天の都市の色彩」など、ブーレーズほどの踏み込みはないようにも思うがこれはこれで立派な演奏だと思います。初期作がこのような高いレベルで聴けるというのはたいへん喜ばしいことだと思います。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2016-10-02 15:32 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その6)

某業界紙にあるメーカーの「リケジョ向けイベント」の記事が載っていたが、今時リケジョて、「ナウなヤング」くらい読んでて恥ずかしいな。しかもこれ、理系女子を対象にしたイベント「理工チャレンジ(リコチャレ)」の一環で、リコチャレっつーのは「内閣府や経団連などが共催、企業や大学の協力で展開」しとるそうな。リコチャレ(笑)。もう理系女子は怒ってもいいと思うの。





引き続き60年代の作品を中心に。

 CD26
 ①ミのための詩(管弦楽版)(1937)
 ②鳥たちの目覚め(1953)
 ③七つの俳諧(1962)

 ①フランソワーズ・ポレ(Sp)
 ②ピエール=ローラン・エマール(Pf)
 ③ジョエラ・ジョーンズ(Pf)
 ピエール・ブーレーズ指揮クリーヴランド管弦楽団
 ①1994年11月録音②③1996月2月録音


指揮者としてメジャーになってからのブーレーズの特色が、良くも悪くもあからさまに現れ出たような一枚。若いころのブーレーズであれば、初期作の「ミのための詩」など決して取り上げなかったような気もしますが、大成した指揮者として「トゥーランガリラ」だけではないメシアンの全体像をブーレーズなりに示そうとしたのでしょうか。いずれも極限まで音を磨き上げ、ひたすら美しい響きを追及したといった趣だが、ブーレーズが若いころにアンサンブル・ドメーヌ・ミュジカルと録音した「七つの俳諧」と聴き比べてみると、ほとんどムード音楽のように聞えてしまうところが好き嫌いの分かれるところだと思います。といっても決して微温的というのではなくて、その完成度の高さというのは本当に素晴らしいのだけれど、旧録音のあの、生まれたばかりの現代音楽の仮借なき演奏と比べると、もしかしたら物凄く大切なものが失われているのではないかという思いを禁じえない。批判的な感想を書いたが、メシアンのスコアからこれほどの美しさを引き出すのはブーレーズの天才的な耳の良さという他ないということは強調しておくべきでしょう。辛口と思われがちな「七つの俳諧」がこれほど甘く聞こえるというのはある意味驚異的。


個々の作品について少しだけ触れておきます。
「ミのための詩」はメシアンの最初の妻クレール・デルボスのために書いた1936年の歌曲集を翌37年にオーケストラ伴奏に編曲したもの。この最初の結婚は不幸な結果に終わったけれど、この歌曲集はメシアンには珍しく思われるほど愛と優しさにあふれたもの。こういった作品も魅力的だ。比較的知名度が低く、日本語で読める文献も少ないですが、大井浩明のブログに寄せた甲斐貴也氏の解説は曲の背景を知る上で大変参考になりました。

「鳥たちの目覚め」は鳥の歌だけを素材とした20分ほどの小オーケストラのための作品。最初長いピアノ・ソロのユニゾンで一羽の鳥が啼き始め、次第に鳥が増え始めて曲の中ほどでは様々な鳥たちが目覚めて一斉に啼きだす。メシアンの作品としては辛口の部類だと思いますが、そのめくるめく啼き声には圧倒される思いがします。
大変実験的な音楽と、絵画的描写的な構図との重ね合わせ。こういった形でなければ53年の段階ではメシアンといえども鳥の歌だけの作品というのは提示し得なかったのだろう。しかしこの実験は、わずか3年後には「異国の鳥たち」や「鳥のカタログ」という傑作に結実する。そのプロトタイプとしての「目覚め」をブーレーズは録音する価値があると考えたのだろう。曲の終りがた、ピアノの高音でチチチと鳥が啼くところでふとクセナキスの「エヴリアリ」を思い出したりするのも楽しい。

「七つの俳諧」はメシアンとイヴォンヌ・ロリオが1962年に日本を訪れた際の様々な印象を7つの短い音楽にまとめたもの。第4楽章の雅楽の響きを翻案したものの他はことさら日本的な素材はないが、これは60年代の傑作群のひとつといって良いと思います。
第1曲「導入」は微かな風に反応して動くモビルを見ているような極度に抽象的な、しかも美しい音楽。本人がどういうか分らないが、例えばハリソン・バートウィッスルとか近藤譲のある種の作品に(影響とは言わないが)微かな木霊を聞く思いがする。「クロノクロミー」とも共通する、純粋に音響としての美を追求した傑作。
第2曲「奈良公園と石灯籠」。「導入」の印象のままに続けて演奏されます。作曲者が石灯籠に着目したのは、無機質だが構成と秩序の美が感じられるという点で、よく判るような気がします。
第3曲「山中━カデンツァ」。鳥の歌が現れて先のニ曲の冷たい美との対称を図る。鶯の歌がトランペットで歌われるのがめっぽう面白い。
第4曲「雅楽」。メシアンが雅楽を一旦咀嚼して再構成した響きは、雅楽のもつウルトラモダンな側面をよく捉えている。表面的でない日本の印象の内面への取り込みを感じます。
第5曲「宮島と海の中の鳥居」。ことさら描写的な音楽という訳ではないが、なめらかな金管の旋律と鳥の声、そして絵画的なタイトルによって、どこかクリスチャン・ラッセンのイラストみたいにつるつるした感じが無きにしも非ず。一歩間違えば表面的かつ俗悪な印象すら与えるリスクを孕みながらも、辛うじて抽象的な美として存立しているところがメシアンのメシアンたる所以か。
第6曲「軽井沢の鳥たち」。「クロノクロミー」、そしてこの「俳諧」において、鳥の声は自然の描写といったレベルを遥かに超えて、音響的素材として抽象的な知的構造物のいわば建築資材としての役割を果たすようになったように思う。メシアンは同じ事を何十年もやっているようでいながら、鳥のカタログから更に高みに昇ったのではないか。
第7曲「コーダ」。「導入」とほぼ同じ素材を用いてシンメトリカルにこの楽曲を締めくくります。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2016-09-11 19:05 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その5)

最近の話だけどピアノのレッスンでブラームスの3番ソナタの第1楽章を弾いたら、最後の和音に対して先生に「ニャン、じゃなくてニャ~ン」と言われた。ニュアンスはビシバシ伝わるので、その時はなるほどと思ったが、あとで楽譜に赤鉛筆で「にゃーん」と書いてあるのを友人に見られてちょっと恥ずかしかった。





引き続き60年代の作品を中心に聴いていきます。

  CD11
  オルガンのための前奏曲(1930)
  献堂式のための唱句(1960)
  モノディ(1963)
  キリストの昇天(1933~34) 
  聖霊降臨祭のミサ(1949~50)

  オリヴィエ・ラトリー(org)
  2000年7月パリ・ノートルダムで録音


今回の一枚はオルガンのための作品集。
この5曲、最初期の「前奏曲」と「キリストの昇天」以外は、非常に晦渋な作風で、メシアンにとってのオルガンという楽器はピアノ以上に実験の場として機能していたのではないかという印象を持ちました。メシアンのピアノ作品がいずれも高度な技巧を駆使したものであるとしても、それはあくまでもイヴォンヌ・ロリオを想定して書いたからそうなったのであって、メシアン自身の腕前の程はどうだったのだろうか、という問いに対しては、2台ピアノのための「アーメンの幻影」の、初演でロリオが担当したプリモ(第1ピアノ)とメシアンが担当したセコンド(第2ピアノ)の、かなりはっきりとした技巧的水準の差を見ればある程度はっきりしていると思います。だが、オルガンの場合、どこまでもメシアン自身による演奏を想定して書かれており、そのために却ってピアノよりも自由な即興的要素や、容易に人を近づけない実験的精神に溢れた作品になりえたと考えることが出来そうです。

最初の「前奏曲」は1930年(ネットには28年という記載も)に作曲され1997年に遺稿の中から発見されたとのこと。初期作ながらも聴けばすぐメシアンと判る個性の強さ。ドビュシー直系の音楽だが、後半の巨大なゴシック建築のような和音群は宗教的法悦を感じさせるメシアン独自なもの。だが私はふとサティの「4つのオジーヴ」を思い出しました。フランスの音楽の底知れぬ魅力の源流をあれこれ想像する楽しみがここにもありました。

1960年の「献堂式のための唱句」については「聖堂奉献祭のための唱句」という訳も見かけます。先程、メシアンにとってオルガンという楽器はピアノ以上に実験の場であったと書きましたが、この作品もおよそ聞き手に媚びるということがない。だが静謐なモノディと鳥の歌に挟まれて何度か現れる色彩的な和声はまぎれもなくメシアンのものであって、峻嶮な音楽という感じはしません。もともとコンセルヴァトワールの学生の試験用として書かれたということと関係があるのかも知れません。

次に1963年の「モノディ」。メシアンには例えば「世の終わりのための四重奏」の中のクラリネットソロとか、以前このシリーズでも取り上げた「峡谷から星たちへ」のホルンソロのような不思議な楽曲があるが、このオルガンのための「モノディ」もその系列をなすものだろうか。実際に教会やコンサートホールで聴けばどう感じるか分らないが、CDで聴くだけではちょっと途方に暮れる感じがします。だがメシアンの全体像を知るには、こういった作品を知らずに済ますことはできないだろうと思います。

1933年に管弦楽のために書かれた「昇天」をオルガンに編曲する際、メシアンは第3楽章を別の楽曲に入れ替えています。宗教的な法悦、爆発的な歓喜、気の遠くなるほど長く引き伸ばされた甘い旋律、等々初期メシアンを代表する作品には違いありません。こういった楽曲にオルガンという楽器は実に相応しいと思いますが、私がひねくれているのか信仰心を持たないせいか、感動というよりも些か大仰に過ぎるところや通俗的な側面を感じます。

メシアンのオルガン作品の晦渋さや実験性という点で、とりわけ1950年の「精霊降臨祭のミサ」のそれは群を抜いているように思いました。全5楽章の内、最初の4つの楽章は、およそ音楽の快楽といったものと無縁な、ちょっとやそっと聴いただけでは山裾に近づくことすら困難な音楽が続きます(第4曲だけ少し甘い旋律が出てくるけれど)。最終楽章でようやく音楽的な爆発が聴かれますが、おそるべき不協和音のクラスターは、一瞬リゲティの「ヴォルーミナ」を思い出すほどの凄まじさで、メシアンが実際の降臨祭のミサでこれを弾いたのかどうか知りませんが、もしそうならミサに集まった信徒たちは呆気にとられたことと思います。
ちなみにタイトルの「精霊降臨祭」pentecôteはペンテコステあるいは五旬節とも言われ、一般の日本人にはなじみが薄いがカトリックでは復活祭の50日後(年により異なるが5月半ばから6月半ば)の重要な祝日であるらしい。

奏者のオリヴィエ・ラトリーは1962年生まれのオルガニストで、ノートルダム寺院の正オルガニストとのこと。これまであまり近現代のオルガン曲を聴いてこなかった私にはその演奏の巧拙を語ることはできませんが、大変な集中力と知性を感じました。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2016-08-26 23:15 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その4)

卵から孵化したと思ったらコラッタだったときの落胆たるや・・・




前回とりあげた「鳥のカタログ」に続く、黄金の60年代の作品を聴いていきます。

  CD23
  クロノクロミー(1959-1960)
  天より来たりし街(1987)
  我死者の復活を待ち望む(1964)
  ピエール・ブーレーズ指揮クリーヴランド管弦楽団
  1993年3月録音

「クロノクロミー」は1960年10月16日にドナウエッシンゲンでハンス・ロスバウトにより初演された大規模オーケストラの為の作品。
今年の初め、ブーレーズ死去に際して短い追悼記事を書いた際にも言及したことですが、1995年5月26日サントリーホールで聴いたブーレーズ指揮ロンドン交響楽団による「クロノクロミー」は本当に素晴らしいものでした。詳細は繰り返しませんが、当該記事で書かなかったことを少しだけ。
ブーレーズにとってメシアンはかつての恩師でもあり、当然その作品を得意としている、と思いがちなのですが、実は非常に限られた曲目しか取り上げていないように思います。例えば若き日のアンサンブル・ドメーヌ・ミュジカルを指揮ないし監修した10枚組CDの中で、メシアンはピアノソロを含めても「異国の鳥たち」「カンテヨージャーヤー」「七つの俳諧」のわずか3曲。そのいずれもがメシアンの作品のなかでも特に辛口で、甘さや官能性とは無縁の音楽だけを選んだ結果だと言えそうです。ブーレーズは「トゥーランガリラ」などは嫌っていて(ソースが不明なのだが)「売春宿の音楽」と評したという話を見聞きしたこともあります。ブーレーズのこのような非寛容ともいえる姿勢は、年齢とともに、また指揮者としての成功とともに和らいでいき、今回取り上げたCDの他、「ステンドグラスと鳥たち」「「天国の色彩」などを録音していますが、メシアンの多くの作品に現れる甘さ、官能性、あるいは若干の通俗性、といった要素は最後まで苦手であったように思います。
話を「クロノクロミー」に戻すと、この作品こそブーレーズの志向する甘くないメシアンの代表作にして最大の傑作という感じがします。これからメシアンのコンプリート盤を聴いていこうとする矢先にこんなことを書くのも気が引けるが、もしかするとこれはメシアンの膨大な作品のなかでも最も優れたものではないか、と思うのはブーレーズの影響を受け過ぎた結果なのかも知れません。あるいは私がカトリックの教義に疎いことの裏返しで、宗教的なテキストを持たないがゆえにアプローチしやすかったとも言えそう。それはともかく、極度に抽象的で、リズムと音色の多彩さだけで勝負したような(まさに時間χρόνοςと色彩χρώμα)音楽、鳥の歌さえここでは具象性を剥奪されています。しかし、終盤で18人のソリストが無秩序に鳥の歌を歌い始めると、そこには官能というのとは違うけれど法悦とか恩寵としか言いようのない不思議な感覚に満たされます。だが、日本語wikipediaにはこの作品が立項されていないということが、現在のこの作品に対する不当ともいえる人気の無さを物語っています。「トゥーランガリラ」の演奏会がごく日常的なイベントとして受容され、アマチュアのピアノ・コンペティションで「嬰児イエズス」を取り上げる猛者もいる昨今、あえて「クロノクロミー」のような作品に光を当てたいというのが今こうして私がブログで取り上げている理由です。

1987年に作曲された「天より来たりし都市」は、1992年に死去したメシアンのほぼ最後の大がかりな作品と言って良さそうです。初演は1989年11月17日ピエール・ブーレーズ指揮。
その創作の最初期から何度も何度も書いてきた宗教的法悦境というべき作風の、最後の開花といってよいのでしょう。メシアンなりに戦後の前衛音楽をあるいはリードし、あるいは少し距離を置きながら伴走してきた50年代・60年代を経て、再び40年代の、甘さと若干の通俗性を含む作風に回帰したようにも思えます。これを一種の退嬰と見ることもできそうですが、かのバッハがライプツィヒで書いた夥しいカンタータだって、どれをとってもバッハそのもの、ある意味進歩や進化といった概念を超越しているのと同じで、メシアンという人はことカトリシズムに関しては生涯を貫いて同じことを語り続けたと考えることもできそう。

「我死者の復活を待ち望む」は1963年に当時の文化相であったアンドレ・マルローより、先の世界大戦の犠牲者の追悼のために委嘱され、1965年5月7日セルジュ・ボドの指揮で初演されています。
メシアンのカトリシズムへの思いというのは、私のような宗教心の欠片もない人間には理解不能としか言いようがないのですが、それが全面的に表に現れたこのような作品を前にすると本当に途方にくれてしまいます。これまでメシアンをあれこれ聴いてきて、時に分かった風な小賢しい言説を垂れ流してきた私のような人間に対して、まさに鉄槌を下すような難解な音楽という気がします。拡大され曖昧だとはいえ調性感がない訳でもなく、第4楽章のようにガムラン音楽のあからさまな影響が聴かれたり、チューブラーベルやタムタムなど多彩な打楽器が使われていたり、メシアンとしては決して人を寄せ付けぬ音楽を書いたつもりはないのかも知れませんが、結果的には随分取っつきの悪い音楽になってしまったという印象。だが、これとほぼ同じ時期、1965年にストラヴィンスキーが書いた「イントロイトゥス」の、あのミザントロープを想起するほどの峻嶮な音楽と比べれば、何度も繰り返し聴くことで作品に近づくことは出来そうな気がする。

ブーレーズの演奏について一言。どの曲も、冒頭に記した私の記憶の中にある「クロノクロミー」の演奏と比べると、些か整理されすぎという感なきにしもあらず。しかしオーケストラから引き出す音の色彩感が尋常でない感じがします。本当に耳の良い指揮者であったと改めて感服しました。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2016-08-19 23:12 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ブリテン 「真夏の夜の夢」を聴く

私は例えば上司に向かって「本気で怒らせないよう、でも反対意見をきちんと伝えるべく手加減しながら反論する」みたいなことを「甘噛み」と言ってたのだが、ある人から「それは乳首に対して使う言葉!」と訂正された。そうなの?





7月に佐渡裕が指揮するブリテンの「真夏の夜の夢」を観にいくにあたり、少々予習をしております。
ブリテンの1ダース以上もあるオペラについては、以前「ピーター・グライムズ」「ビリー・バッド」「カーリュー・リヴァー」をこのブログで取り上げてきました。他にも音源は買い込んであるのですがなかなか腰を据えて聴くところまでいかず、今回ようやく重い腰を上げて聴き込んだ次第。
①は購入してそのままになっていた音源。それにはリブレットも対訳も附いておらず、省略や入れ替えはあるものの殆どシェークスピアの原文をそのまま用いた歌詞を理解するのは私にはかなりハードルが高い。という訳で日本語対訳が欲しくて図書館で②の音源を借りてきた。両者の聴き比べは後程。

 ブリテン「真夏の夜の夢」Op.64
 音源①
 オーベロン: アルフレッド・デラー
 タイターニア: エリザベス・ハーウッド
 パック: スティーヴン・テリー
 シーシアス: ジョン・シャーリー=カーク
 ヒポリタ: ヘレン・ワッツ
 ライサンダー: ピーター・ピアーズ
 ディミートリアス: トーマス・ヘムズリー
 ハーミア: ジョセフィン・ヴィージー
 ヘレナ: ヘザー・ハーパー
 ボトム: オーウェン・ブラニガン
 クインス: ノーマン・ラムズデン
 フルート: ケネス・マクドナルド
 スナッグ: デヴィッド・ケリー
 スナウト: ロバート・ティアー
 スターヴリング: キース・ラゲット
 ダウンサイド・スクールおよびエマニュエル・スクール合唱団
 ベンジャミン・ブリテン指揮ロンドン交響楽団
 1966年9月23,25-28日・10月3・5日録音
 CD:DECCA478 544 8

 音源②
 オーベロン: ブライアン・アサワ
 タイターニア: シルヴィア・マクネアー
 パック: カール・ファーガスン
 シーシアス: ブライアン・バナタイン・スコット
 ヒポリタ: ヒラリー・サマーズ
 ライサンダー: ジョン・マーク・エインズリー
 ディミートリアス: ポール・ウィーラン
 ハーミア: ラビー・フィロジーン
 ヘレナ: ジャニス・ワトソン
 ボトム: ロバート・ロイド
 クインス: グウィン・ハウエル
 フルート: イアン・ボストリッジ
 スナッグ: スティーヴン・リチャードソン
 スナウト: マーク・タッカー
 スターヴリング: ニール・デイヴィス
 ニュー・ロンドン児童合唱団
 コリン・デイヴィス指揮ロンドン交響楽団
 1995年12月録音
 CD:Philips PHCP5384

*登場人物の日本語表記はあまり定まっておらず、タイターニアのかわりにタイテーニアあるいはティターニア、シーシアスのかわりにシーシュースなどと表記されることも。

最初にどうでもいい話だが、タイトルについて最近は「夏の夜の夢」とする場合が多いようだ。そもそもMidsummerは夏至のことであって「真夏」というのが誤訳だとする説によるものだろう。私のごく個人的な意見だが、ながらく「真夏の・・・」で定着してきたこと、またそのほうが日本語としてもリズムが良いこと、夏至だろうが真夏だろうが、どのみちイギリスの気候風土や聖ヨハネ祭にまつわる様々な含意を普通の日本人が思い浮かべることはタイトルだけでは不可能なこと、等々で「真夏の・・・・」で良いのではないかと思っています。要はちょっと昔の映画、例えば「慕情」でも「望郷」でもなんでもいいが、原題とまったく違うからといって誰も咎めることがないのと似たようなものだろう。

シェークスピアの原作は5幕構成で、もちろんそのままでは一夜のオペラのリブレットとしては長すぎます。ブリテンは原作冒頭のシーシアスの宮殿の場をそっくりカットし、ハーミアの父イージーアスや臣下フィロストレートの登場場面もカットして最後の劇中劇の場以外はすべて森の中に絞り込んでいます。登場人物の饒舌で多分に装飾的な台詞もかなり刈り込まれていますが、(精査した訳ではないので感覚的ではあるけれど)ボトム以下の職人たちの会話は比較的カットが少ないように思います。
シーシアスとヒポリタの場面が短縮された為に、原作では
a1.貴族の中でも最も権力の大きい者
a2.貴族の若者
b.職人
c.妖精
という4グループに登場人物が分けられていたのに対し、オペラのほうでは
A.貴族
B.職人
C.妖精
という3グループにいわば圧縮されていて、ブリテンの音楽もほぼこの区分に従って3つのタイプにカテゴライズできるように思われます。

Aの貴族のカテゴリーについては、最後の劇中劇を別にすると、極めてシリアスで劇的な音楽。4人の恋人達の音楽だけ聴いているとこれまで私が聴いた陰惨なオペラの音楽とそんなに変わらないような気がします。ハーミアとヘレナが罵り合う場面で幾分喜劇的な要素が感じられるものの、基本は人間のリアルな愛憎をヴェリズモ・オペラさながらに描いたと言えなくもない。
戦後の前衛的な音楽の動向にはほとんど興味を示していないブリテンだが、完全に保守的とか伝統的というのとも少し違う。パリ時代のストラヴィンスキーやヒンデミットとブリテン、この3人の音楽語法というのはそれぞれ全然違うのだが、調性の体系を拡大して独自な語法としていくところは共通している。ただ誤解を恐れずにいえば、ストラヴィンスキーは常に未来を見つめながら自分の耳だけを頼りに極めて感覚的に書いているような気がするのに対し、ヒンデミットは過去に向き合いがら理論的に調性の拡大を図っている。ブリテンは当時のイギリスの保守的な音楽界や映画音楽などをたくさん書いた経験を踏まて、彼なりにコンテンポラリーな音楽を書いたのだろうが、背景には終生敬愛していたアルバン・ベルクのロマンティックな音楽への憧憬があることは確かだと思います。

次にBの職人たちの音楽だが、これが全体の中では一番面白く生気に溢れていて、ブリテンはさぞ嬉々としてこの音楽を書いたのだろうと想像できます。基本的にはブッフォな音楽だが、中でも注目すべきだと思われるのは、ロバの頭を被せられたボトムが仲間においてけぼりを食らって歌う"The woosell cock, so black of hue"。タイターニアの短い歌を挟んで2節あるのだが、まさにベルクの「ヴォツェック」を思わせるような面白さがある。そもそも妖精界と人間界というのは(妖精が人間の目には見えないこともあって)基本的に交わらないのだが、この歌をきっかけに二つの世界が交わるようになる。そこで、ヴォツェックのような正気と狂気を行ったり来たりする音楽に似通った音楽を書いたのだろうと想像します。
また第3幕の職人たちによる劇中劇の場は、まさかのイタリア・オペラのパロディーになっています。ピラマスに扮したボトムの歌う"Grim-look'd night!"はヴェルディのバリトンのアリアさながら。ここはブッフォではなく、シモン・ボッカネグラにでもなったつもりで大真面目に歌ってほしいところです。シスビーに扮したフルートの歌はドニゼッティの「ルチア」を初めとする狂乱のアリアのスタイルで書かれていますが、最初調子っぱずれに歌い始めて笑わせながら、最後はたいそう技巧的なアジリタを披露します。このアジリタが歌えなければ話にならないので、フルート役の歌手にはレジェロなハイテノールが必要でしょう。

最後にCの妖精の音楽だが、弦のグリッサンドやチェレスタの響きで幻想的な雰囲気を醸し出すところは、まあ常套的といってよいのかも知れません。ここで私が注目したのはまず第1幕のオベロンの歌"I know a bank where the wild thyme blows”。ここはバロックオペラの様式で書かれていて(私はよく言われるパーセルよりはモンテヴェルディのモノディーに近いような気がしました)、とても魅力的。タイターニアのパートはどこも素晴らしいですが、ロバ頭のボトムと添い寝するところは全曲の中で最も官能的な(ブリテンにしては、という意味だが)音楽で書かれています。

ボトムとタイターニアの場の官能性に言及しましたが、よく考えてみると貴族の若者たちの場というのは、基本的に純潔とか貞操といったものに価値をおく世界なのでそもそも性的な要素というのは希薄にならざるを得ません。例えばヘレナがディミートリアスに対して、私をスパニエル犬のように打ってという台詞には誰しもマゾヒズム的な意味を嗅ぎとろうとするはずだが、ブリテンは賢明にもこの台詞にパストラル風の新古典主義的な音楽を附けて、過度な官能性を排除している。職人たちはというと、こちらは男ばかりの世界なので少なくとも表向きは官能の描写というのとは無縁(実際にはフルートの"Nay, faith,let me not play a woman;I have a beard coming.”という台詞でもって彼らの職人階級のホモソーシャルとホモフォービアの桎梏の問題がそれとなく示唆されているようにも思うのだが・・・)。対するに妖精の世界というのは人間界のモラルや性的タブーには全く縛られていない(この劇の発端はそもそも、インドの王様のところから盗んできた男の子をお小姓にした女王タイターニアと、その男の子を自分のものにしたくて仕方のない王オーベロンとの諍いであった)。モラルやタブーがあってこその官能、という訳で、人間のボトムと妖精のタイターニアが交わる場面(まさに禁断の愛だ)がもっとも性的なイメージを帯びるのは当然と言えば当然。もちろん原作でもオペラでも、タイターニアとボトムの間でどこまでの行為があったのかは何も書かれてはいないけれど、この芝居のなかで性的な交渉があったとすればこの二人の間にしかありえないのは事実。
次に、ではなぜこの場面でボトムはロバ頭の間抜けな姿に変身したのか、という問いに対しては、ヤン・コットが『シェイクスピアは我らの同時代人』所収の「ティターニアとろばの頭」という章の中に端的にこう書いています。
「ボトムはやがてろばの姿に変えられる。だがこの悪夢に満ちた夏の夜においては、ろばは通常の場合のように愚鈍さを象徴するのではない。古代からルネサンスまで、ろばという動物は、とたえばアプレイウスの『黄金のろば』の挿話が示すように、最も強い性的能力をもっていると信じられていたのであり、あらゆる四足獣の中で、いちばん長くいちばん堅い男根をもっていると考えられていたのだった。」
(ヤン・コット『シェイクスピアはわれらの同時代人』蜂谷昭雄・貴志哲雄訳、白水社)
ヤン・コットの分析というのはその精神分析的なアプローチなど、間違いとは言えないまでも、既に現代においては批判的に読まれるべきところも多いと思われます。しかしいまこうして改めて読み直すと、ブリテンのような、性的マイノリティ故にオペラの題材一つとってもそこに内在するエロスの要素に敏感かつ意識的にならざるをえなかった作曲家の作品を理解するには、恰好の補助線となりうると思いました。

演奏について少しだけ。
まず①の演奏だが、単に作曲者が指揮しているから、とか初演の時の主要メンバーによるとかいう以上に、これほど作品の世界観まで感じさせる演奏というのは稀だろうと思います。かつてのDECCAがその技術・ノウハウのすべてを注ぎ込んだであろう録音は本当に素晴らしく、夜の森のひんやりとした空気におもわず鳥肌が立つほどだ。歌手については個別にあれこれ言うのも愚かに思われるほど粒が揃っています。デラーのカウンターテナーなど、演奏スタイルとしてはもちろん古いのだけれど、一度聴いてしまうとこれ以外にありえないだろうと思ってしまいます。
②のコリン・デイヴィスは、例によって真摯で明晰、しかも情熱にも事欠かない良い指揮だと思いますが、①と比べると残念ながら何かが足りないと言わざるを得ません。予想通り、デイヴィスのある意味とてもリアリスティックな指揮というのは、Aの貴族たちの音楽にはとてもよく合っていて成功していると思いますが、Bの職人、Cの妖精の音楽は真面目なだけでは歯が立たないといった感じがします。ブライアン・アサワのカウンターテナーやシルヴィア・マクネアーのコロラトゥーラなど、②の歌手のほうが技術的な面ではむしろ①を上回っていると思いますが、それだけでは満足できない、というのも実に贅沢な話ではあります。もっとも、②がことさらレベルが低いというのではなくて、もっと高い次元での微妙な差異について述べたつもりなので、これから音源を求めようと思われる方には正直どちらでも良いのではと思っています。

ついでながら、Youtubeで簡単に観れる動画としては、エクサンプロヴァンスで大野和士が振った舞台の録画がとても面白いと思いました。ロバ頭のボトムとタイターニアの場は微妙にエロくて作品の本質をきちんと押さえていると思います。さて7月の兵庫県立芸術文化センターでの公演、どんな舞台が観れるのか。お子様向け人畜無害な舞台でなければ良いのだけれど・・・。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2016-07-05 01:19 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その3)

「朝の声掛け運動」なるものに駆り出されて「おはようございます」の連呼。でも50回目くらいになると「おはいおごじまー」とか「おあごやー」とか、もはや原型を留めていない。





今回は大作「鳥のカタログ」。

  CD5~7
  鳥のカタログ
    第1巻
      1.キバシガラス※
      2.ニシコウライウグイス※
      3.イソヒヨドリ
    第2巻
      4.カオグロサバクヒタキ※
    第3巻
      5.モリフクロウ
      6.モリヒバリ
    第4巻
      7.ヨーロッパヨシキリ
    第5巻
      8.ヒメコウテンシ
      9.ヨーロッパウグイス
    第6巻
      10.コシジロイソヒヨドリ
    第7巻
      11.ノスリ※
      12.クロサバクヒタキ
      13.ダイシャクシギ

  Pf:ロジェ・ムラロ
  1999.2ライブ録音

※タイトルの鳥の種名について。
第1曲「ベニアシガラス(ベニハシガラスの誤記?)」と書いてある文献もあったが、Chocard des Alpesに対応する英語名Alpine Choughの和名はキバシガラスが妥当。ただしキバシガラスの学名は楽譜の扉に記載されているラテン名Corasia graculusではなくてPyrrhocorax graculusが正しいようだ。
第2曲「キガシラコウライウグイス」「コウライウグイス」と書いてあるものもあるが、Loriot(仏)Oriolus oriolus(羅)Golden Oriole(英)の和名はニシコウライウグイスが妥当。
第4曲「カオグロヒタキ」と書いてあるものがあるがTraquet Stapazin(仏)Oenanthe hispanica(羅)Black-eared Wheatear(英)の和名はカオグロサバクヒタキが妥当。
(以上3件は偶々手元に楽譜があったので確認できたけれど、wikipediaもピティナ・ピアノ曲事典もナクソス・ミュージック・ライブラリーも、殆どの無責任な個人ブログ同様間違いだらけということがよく判る事例)
第11曲「ノスリ」Buse variable(仏)Buteo buteo(羅)Buzzard(英)は正確には日本のノスリButeo japonicusとは別種のヨーロッパノスリだがごく最近まで同種とされていたので単にノスリとしておく。


今年の東京のラ・フォル・ジュルネでピエール=ローラン・エマールが「鳥のカタログ」を取り上げたり、最近では児玉桃・大井浩明・中川賢一といった人達が全曲演奏会をするなど、ここ数年の日本における「鳥のカタログ」の受容には目を見張るものがあると思います。メシアンのピアノ作品としては「嬰児イエズスに注ぐ二十の眼差し」が突出して人気があるのに対して、この「鳥のカタログ」はメシアンの中でもかなり辛口の音楽であって、これが一定の広がりをもつ聴衆から認知される事態というのは一昔前には想像もつかなかったことでした。
戦後の「音価と強度のモード」で一躍前衛音楽の最前線に躍り出たものの、やがてその流れとは一線を画することとなったメシアン。この時期、伝統と前衛のどちらにも与せず孤高の道を歩んでいたメシアンにとって、「鳥の歌」は音楽語法の最大の武器であり、1956年から58年に書かれた「鳥のカタログ」はその語法のネタ帳でもあり、試作の場でもあり、同時に完成品に磨き上げられた作品でもある、といったところでしょうか。
そこには通常の意味でのエンターテイメント性や音楽の愉しみといったものは皆無とはいわないがとても少ない。その点で「嬰児イエズスに注ぐ二十の眼差し」のような、今やPTNAのアマチュアコンクールでも時々弾く人がいるといった事態は少し考え難いかも知れません。また同時代あるいは後世への影響という点では「音価と強度のモード」のような革新的なイディオムは実はあまりなくて、「カンテヨージャーヤー」なんかのほうがよほど重要に思われるほど。いずれにしても、10年後20年後に、この作品がさらに広い聴衆を獲得するに至るのかどうか、非常に関心のあるところではあります。

この作品に接する時いつも思うことですが、作曲者はこれを耳で聴くだけでなく楽譜を見ながら聴くことを期待していたのではないかと思われてなりません。楽譜のほとんどどのページにも、今鳴いている鳥の名前、鳥以外の様々な事物(蛙や蝉や植物、海や池や氷河など)、夜明けであるとか日没であるとかの背景が書き込まれていて、良くも悪くも紙芝居めいたところもあり、こういったテキストを知らずにタイトルのイメージ、あるいはそれすらなく抽象的な音の運動としてこれらの作品を聴くということは如何にも片手落ちという感じがします。もちろん、この作品は抽象的な音の運動として聴いても十分面白く、退屈することもないのだが、歌詞の内容を知らずにオペラや歌曲を聴くことと同じく、それだけでは正しく作品を受容したとは言えない気がする。もし楽譜が入手できるなら是非ご覧になることをお勧めします。
例えば演奏に30分を要する大曲「ヨーロッパヨシキリ」には20種類近い鳥たちの歌の他に、蛙の合唱や、あやめ、睡蓮、ジギタリスなどの植物があらわれ、楽譜のあちこちに夜明けから日没までの具体的な時間(たとえば午前10時など)の書き込みがある。また全曲のなかでももっとも急進的な「コシジロイソヒヨドリ」には鳥だけでなく、ステゴザウルスやディプロドクスの化石なんてものが現れる(もしかしたらサン=サーンスの「動物の謝肉祭」からの連想?)。耳だけで聴くとほとんどセリエリスムの音楽と見紛うばかりだが、書き込みを見ていると映画「ナイトミュージアム」ばりのファンタジーに溢れた音楽にも聞こえる。たとえば小学生くらいの子供に、楽譜の書き込みを読みながら聴かせたなら、とても面白がってくれるんじゃないかな。
こんなことをつらつら書いていると、はからずも音楽の二つのありかた、いわゆる絶対音楽と標題音楽との対立とか止揚といったものをメシアンが念頭に置いていたように思われてきます。高度に抽象的な現代音楽としての顔と、ほとんどリヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」並みに具体的・描写的な音の絵巻物(そこには良い意味での通俗性もたっぷりと含まれている)としての顔、その両方を作曲者は聴く者に感受してもらいたかったのでは、と思います。
だがネットで検索するとけっこう「鳥のカタログ」について書かれた記事は沢山見つかるのだが、この夥しい楽譜への書き込み(特に鳥以外の要素)を丹念に追ったものは残念ながらほとんど見当たらない。いずれもう一度この作品に立ち戻って自分で書こうか、と思った次第。


ムラロの演奏はそのややモノクロームな響きのせいか、具象的な題材を用いながらも高度に抽象的に響くこの作品の性格にそれなりに合致していると思われます。コントラストのきつい(だがめっぽう面白い)ウゴルスキー盤と好対照だが、ムラロの路線をもっと徹底しているのはピーター・ヒルかも知れません。夥しい種類の鳥の鳴き声の中でも、めくるめくようなテンポで気が遠くなるほど長く鳴きつづける鳥たち(例えば2曲目に登場するニワムシクイとか7曲目のヨーロッパヨシキリ、12曲目のミナミノドジロムシクイなど)の声は、ムラロは猛烈によく回る指で一気呵成に弾いたという感じだが、ウゴルスキーはスピードよりも打鍵の深さを求めているのか、一見ダサく、もっさりして聞こえる。またスタジオ録音のウゴルスキーに対して、ムラロはライブ録音(途中2回の聴衆の拍手も入っている)で、もちろん多少の修正はあるのでしょうが実演でこれだけ弾ければ大したものであるし、「一気呵成」に聞こえるのもライブならではのことなのだろう。だが聴いていて息が詰まるような、一種恐怖にも似た感銘を受けたのはウゴルスキーのほうでした。まぁこの辺りは優劣というより個人の好き嫌いの問題だろうと思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2016-06-05 02:07 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その2)

北京ダックの「全聚徳」の漢字を説明するのに、「しゅは「聚楽よ~ん」の聚」と説明して分かってもらえる世代。





このメシアン・シリーズ、気の向くまま順不同で聴いていきます。今回は「峡谷から星たちへ」。

 CD21/22
 峡谷から星たちへ(1974)
 第1部
  I.砂漠
  II.ムクドリモドキ
  III.星たちの上に書かれているもの・・・
  IV.マミジロオニヒタキ
  V.シーダー・ブレイクスと畏怖の賜物
 第2部
  VI.恒星の呼び声
  VII.ブライス・キャニオンと赤橙色の岩
 第3部
  VIII.甦りしものとアルデバランの星の歌
  IX.マネシツグミ
  X.モリツグミ
  XI.ハワイツグミ、ソウシチョウ、ハワイヒタキ、アカハラシキチョウ
  XII.ザイオン・パークと天上の都

  ピアノ: ロジェ・ムラロ Roger Muraro
  ホルン: ジャン・ジャック・ジュスタフレ Jean-Jacques Justafré
  シロリンバ: フランシス・プティ Francis Petit
  グロッケンシュピール: ルノー・ミュゾリーニ Renaud Muzzolini
  チョン・ミュンフン指揮フランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団
  2001年7月録音

(タイトル邦訳はタワレコHPの楽曲紹介から拾ったが鳥の名前についてはどこまで学問的に正確なのか私には判断がつきません)

アリス・タリーの委嘱により作曲され、1974年にアメリカで初演。もともと1976年のアメリカ建国200年での演奏を目論んでいたもののようです。オーケストラはソリスト扱いされているピアノ・ホルン・シロリンバ・グロッケンシュピールの他に多数の管楽器や打楽器を含むが、弦楽器は13人しかおらず、あたかも巨大な室内楽といった響きが特徴的。
各楽章のタイトルを見ればお分かりの通り、グランドキャニオンなど大自然を描く音画(メシアンは1972年の春にユタ州を訪れている)、ピアノを中心とした鳥の歌、星に寄せる音楽、の3つの要素から成り立っています(天と地と、それを結びつける鳥、という構図)。
この自然の描写だが、風や砂嵐の直截な描写(エオリフォーンやジェオフォーンといった特殊楽器が使われている)と、随所に現れる調性も露わな甘ったるい旋律が特徴で、こういっては何だがかなり通俗的な感じ。しかも「トゥーランガリラ」ほどの溢れだすパワーというのはなくて、なんとなく隙間の多い音楽に聞こえる。ふとアラン・ホヴァネスの「そして神は偉大なる鯨を創り給うた」を思い出したといえば何となく雰囲気を理解していただけるだろうか。誤解を恐れずに言うと、少しチープなのである(それが悪いという訳ではないし、駄作と決めつけるつもりもない。それに、メシアン自身は大真面目でこの作品を書いているはずなので、チープという評価も畏れ多いという他ないのだが・・・)。
一方、鳥の歌についてはもうお手の物といった感じのいつものメシアン。ただ、この作品の直前に書かれた大作「ニワムシクイ」などと比べると、なんとなくエネルギーに乏しい感じがしなくもない。作曲当時60代の半ば。メシアン老いたりというほどの歳でもないのだが明らかに内包するエネルギーが低い。好意的に考えれば、それだけメシアンの自己主張が減って、自然・鳥・星の世界をありのままに描写しようとする態度になってきたと言えるだろうか。
メシアンが星にちなんだ音楽を書くと、いつも禍々しい響きになるような気がするが、第8曲「甦りしものとアルデバラン星の歌」はこの大作の中でも最も美しい楽曲だろうと思います。これだって通俗的といってしまえばそれまでなのだが、その甘い旋律とクロタルやグロッケンシュピールなど金属打楽器の煌めくような響きの魅力はやはり堪えられません。これだけ単独で何度も聴いてしまいそう。また第6曲「恒星の呼び声」はホルンのソロのための楽曲で、独立して吹かれることもあるといいます。官能とは正反対の、いわば体温を感じさせない不思議な楽曲。

余談ですが、いまブーレーズのアンサンブル・ドメーヌ時代の録音を集中して聴いているのですが、ブーレーズが取り上げるメシアン作品というのはものすごく偏りがあるのが面白い。具体的には「異国の鳥たち」とか「七つの俳諧」とか、とにかく甘い旋律が出てこない辛口の作品が多いということ。一方で「トゥーランガリラ」のような楽曲には全く関心がなかったようだ。その意味で、この「峡谷から星たちへ」も、ブーレーズが絶対に取り上げなかったであろうタイプの作品ということになるだろう。私自身はその甘ったるさとチープさに「どうしようもないなぁ」とつぶやきながら、それでもつい魔がさすように繰り返し聴いてしまうのがちょっと悔しい。

ムラロのピアノ、チョン・ミュンフンの指揮、いずれもこの作品にはほどよく合っているのだろうが、精緻さが過ぎてちょっと脂が抜け過ぎたきらいも。特にムラロのピアノは意外にモノクロームな感じがするが、いずれにしてもピアニストにとっては大変な難曲だろうと思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2016-05-15 00:41 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)