Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その14)

東京五輪音頭のお披露目のニュース、どうでもいいんだけど井手茂太が浴衣着て踊ってると「ここ芝プー?」って思ってしまう。なんかね。なんでだろ。





いよいよ超大作「アッシジの聖フランチェスコ」に辿り着きました。


CD16~19
アッシジの聖フランチェスコ
 天使: ドーン・アップショウ
 聖フランチェスコ: ジョゼ・ヴァン・ダム
 レプラ患者: クリス・メリット
 兄弟レオーネ: ウルバン・マルムベルク
 兄弟マッセオ: ジョン・アレール
 兄弟エリア: ギー・ルナール
 兄弟ベルナルド: トム・クラウゼ
 兄弟ジルヴェストロ: アコス・バンラキー
 兄弟ルフィーノ: ダーク・ダーズ
 アーノルド・シェーンベルク合唱団
 ケント・ナガノ指揮ハレ管弦楽団
 1998年8月ザルツブルク音楽祭のライヴ録音


私の手元に一冊の奇妙な書物がある。
ピエール・ジャネ著『症例マドレーヌ 苦悶から恍惚へ』(松本雅彦訳・みすず書房)。1926年の『苦悶から恍惚へ 信念と感情に関する覚書』という膨大浩瀚な著作の冒頭部分だけの訳出であり、これだけでフロイトとほぼ同時代の精神科医であったジャネの業績を云々することは不可能というしかない。
北フランスの裕福な工場主の家庭に生まれたマドレーヌは、10代の終わりに清貧の生活に憧れて家を出奔、24年の間行方不明となり、42歳の時にパリのサルペトリエール病院に入院し、入退院を繰り返しながら64歳に死ぬまで実に22年もの間ジャネの患者として膨大な私信を交わした。彼女の症例の代表的なものは、宗教妄想とそれに伴う苦悶発作や恍惚発作、つま先立ちの歩行(下肢の拘縮)、それと繰り返し手と足にあらわれるキリストの聖痕(スティグマ)である。後に出奔の理由に関して彼女はこう記している。「そのころ、この聖者(アッシジの聖フランチェスコ)の徳と聖からはほど遠いながらも、私は自分を聖フランチェスコのようだと思っていたし、子どものころから聖フランチェスコの情熱に強い影響を受けていました。」(22~23ページ)
しかしここで言及したいのは、フランチェスコのことではなくて、彼女の症例の一つとして記されている聖痕のことである。
「いま一つ興味ある身体症状が私の研究を刺激した。入院した病棟でマドレーヌに小さな傷跡が目撃されたことである。彼女は、この傷跡は右足の甲に自然にでき、ずーっと続いてきたようだ、と言っている。その小さな掠り傷はほとんど表皮にとどまる浅いもので、ちょうど足の甲の中央にあり、卵形をして、縦10ミリ幅7ミリほどのものであった。彼女は、幸福感に包まれた深い眠りに引きつづいて足に激しい痛みを覚え、その後足の甲に小さな水泡ができてきたこと、そしてその水泡が数時間後につぶれ小さな潰瘍のようなものになった、と言っている(中略)しかししばらくすると、この水泡はさまざまな影響下であちこちに再び現れ、しかも正確に足の甲、掌、左胸と以前と同じ場所に出現してくるのである。これら小さな傷の現れるのが足、掌、左胸であることを考えれば、またそれらの現れるのはマドレーヌが十字架の姿勢をとりながら恍惚の眠りにある宗教儀式のときであることを付け加えれば、躊躇なくこの皮膚の傷がキリストの五つの傷痕に関係があると思いいたるであろう。それは、恍惚状態にあって神秘的な考えを抱く人たちによく認められた聖痕(スティグマ)という現象を表している。」(44~45ページ)
「私はこの研究を注意深く進めることができた。というのも、マドレーヌのサルペトリエール滞在中に、聖痕は頻繁に出現したからである。1896年に二回、1897年に五回、1898年に五回、1899年には一〇回を数えている。このテーマの研究結果はあらためて述べるが、いずれ聖痕現象に類似したものを区別吟味してゆく難しさに気づくことになる。」(46ページ)
「月経に関して特筆すべき所見はほとんどない。おおむね順調で、ただ二十歳の遁走のとき二ヶ月から四ヶ月ほど中断している程度である。ただ、聖痕の出現と月経の出現とに関連があることはすでに指摘しておいた。聖痕はほとんど月経に先立つ数日前に現れている点である。」(269ページ)
残念ながらこの邦訳ではこれ以上の記述はなく、この「聖痕」がマドレーヌの自傷なのかどうかは分からない。未邦訳の部分に更なる分析があるようだが、それについて触れられた日本語の文献も見当たらない。一つだけ言えることは、日本語で聖痕について調べようとすると、ほとんどが宗教かオカルトか、というありさまであって、多少とも科学的な裏付けのある文献というのはほとんどないと思われること。上記の著作にしても、精神医学の黎明期に書かれたものであって、オカルトとどこが違うのか、という意見もあるだろう。だが、宗教にもオカルトにも逃げずに、ジャネ自身が見た事実を淡々と記述していく姿勢には何か好ましいものを感じたということだけは確かだ。

最初に長々と「聖痕」についてのジャネの引用をしたのは、カトリックの信仰を持たない私にとって、このオペラを理解しようとする上で最も障碍となるのが、第三幕第7景の、フランチェスコの聖痕拝受の場面であるから。
このほとんど舞台作品としてのスペクタクルな愉しみを欠くオペラの中で、それでも見せ場であると思われるのは、第3景のレプラ患者への接吻と治癒、第6景の小鳥への説教、そしてこの聖痕拝受の場面だろう(いずれも演出家泣かせだとは思うが)。だが、最初の二つが、フランチェスコの慈愛に満ちた精神によって無宗教者にもそれなりの納得が得られるのに対し、聖痕については理解の外にあるとしか言いようがない。私はこのブログでメシアンについて書きながら、何度もカトリックの教義を知らずしてメシアンの理解はあり得ないのではないか、と記してきた。この長大なオペラでも、やはりこの第7景の音楽は他の場面の音楽(それなりに美しく、繰り返し聴けば腹に入ってくるという感触が得られる)に比べて晦渋の度合いが高いように思う。それは敬虔なカトリック教徒であるとともにインテリでもあったであろうメシアンその人の、聖痕拝受を教義として受容するにあたっての苦悩の反映であるような気がする(それは単に私のメシアンへの無理解を証するだけのことかも知れないが)。

もう一つ、この第三幕第7景で理解の妨げとなるのが、次の箇所。聖フランチェスコが神に「この卑しむべき魂、このつまらぬ肉体をあなたに捧げてもよいのか」と問うたのに対して合唱(神)が応える場面。

Choeur
C’est Moi, c’est Moi, c’est Moi, je suis l’Alpha et l’Oméga.
Je suis cet après qui était avant. Je suis cet avant qui sera après.
Par Moi tout a été fait. C’est Moi, c’est Moi qui ai pensé le temps et l’espace.
C’est Moi,c’est Moi qui ai pensé toutes les étoiles.
C’est Moi qui ai pensé le visible et l’invisible, les anges et les hommes,
toutes les créatures vivantes. Je suis la Vérité d’où part tout ce qui est vrai,
la première Parole, le Verbe du Père,celui qui donne l’Esprit, est mort et
ressuscité, Grand-Prêtre éternellement:
l’Homme-Dieu! Qui vient de l’envers du temps, va du futur au passé, et
s’avance pour juger, juger le monde. . .

合唱
私、私こそ、この私こそが、アルファにしてオメガである。
私はかつては始めにいた者であるが、今ここに後から来た者としてある。
私はやがては後から来た者となるが、今ここに始めにいた者としてある。
この私によって全てのことは成された。
私、この私こそが、時空を構想した。
私、この私こそが、すべての星々を構想した。
この私こそが、目に見えるものと目に見えないもの、天使と人間、
あらゆる命ある被造物を構想した。
私は真理である、全ての真なるもの―
 最初のことば、
 父の「み言葉」[注:イエスのこと]、すなわち精霊を降らせ死後の復活を果たした者、
 永遠なる偉大な司祭であり、人の姿をとった神!
 時間の向こう側からやって来て、未来から過去に歩み、
 世界を裁く日のために、前に進む者...
それら全ての真なるものは真理である私がその源である。

(訳は本邦初訳の『インカ帝国の滅亡』(マルモンテル作、岩波文庫)の訳者である湟野ゆり子さんにお願いしました。この場をお借りして感謝申し上げます。)
「私はアルファでありオメガである」はヨハネの黙示録に何度か出てくるが、その後はメシアンのオリジナルの台詞のようだ。だがこれは、聖句によくあるレトリックではなくて、メシアンが生涯の終わりに辿り着いた神の定義のように私には思える。このオペラ全体の頂点は、終幕のフルオーケストラと合唱の数十秒も続く協和音の爆発もさることながら、この晦渋な第7景の合唱こそ真の頂点という感じを受ける。明晰であるのに何かしら理解を拒むようなこの重要な台詞をどう理解したらよいのか。大文字のMoi、父のみ言葉、真理・・・これはまるでラカンのセミネールを読んでいるみたいだと思いながら、案外と無宗教者がカトリックの教義に(帰依という正門から入るのではなく)近づくには、ラカンのシェーマの理解が不可欠ではないかと思った。それは今の私には手が届かないものであるが、音楽だけを聴いていたのでは、また歌詞の上辺だけを読んだだけではどこまでも浅はかな理解しか得られないのであるなら、いつかは手を出さないわけにはいかないだろうと思う。いや、メシアンの音楽を楽しむのに、そこまで思い詰める必要はないだろう、と言われるかも知れないが、それは違う。少なくともメシアンはこのオペラで聴いて楽しいだけの音楽を書こうとは一瞬たりとも思っていなかったはずだ。この神の言葉を単に詩的なレトリックとして捉えていたのでは決して辿り着けないものがあるように思う。

メシアンがこの大作で用いている音楽語法についてくどくど述べるつもりはないが、それに関連することとして、メシアンは第5景で、天使の奏でるヴィオールを聴いて失神したフランチェスコにこのような台詞を歌わせている。
Si l’Ange avait joué de la viole un peu plus longtemps,
par intolérable douceur mon âme aurait quitté mon corps. . .
(もう少し長く天使がヴィオールを奏でていたら、その耐え難い甘美さゆえに私の魂はこの肉体を離れていただろう)
メシアンが理想として思い描いていた音楽はこのような音楽ではなかったか。このブログで、私の仮説として、メシアンの絶頂期は50年代の終わりから60年代あたりであって、70年以降は随分と隙間の多い、手癖で書いているような音楽が多くなること、また40年代以前の作品によくある甘美な和声が70年代以降に再度現れ、ある種の退嬰を感じさせることを書いてきた。天使の音楽を書くには遅すぎた。メシアン老いたりと思わざるを得ないのだが、生の演奏でこの場面を聴けばどのように感じるだろうか。私は今秋の11月23日にびわ湖ホールでの公演を聴きに行く予定なのだが、ここしばらく(かれこれ30年近く前に小澤征爾の録音を聴いて以来だが)このオペラを聴きながら、ちょっと予習のつもりがあちこちに仕掛けれられた躓きの石に躓いて、少しも先に進めないのである。

演奏については何の不満もない。先に書いた小澤征爾の演奏のことは殆ど記憶になく、当時もよく分からないまま持て余してCDも手放してしまい、比較することは困難だが、レプラ患者が奇跡によって治癒する場面など実に美しく、終幕の壮麗さも見事。同時に、この上なく空虚さも感じ、以前に「クロノクロミー」について書いたときのような、興奮を抑えきれないほどの感動は感じることができない。これはもう演奏の所為ではなくメシアンの晩年の作品の限界といっていいのだろう。
(この項続く)

# by nekomatalistener | 2017-08-26 22:06 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

モーツァルト 「フィガロの結婚」 佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2017

私の身のまわりにはテレビ観ない人が多いんだけど、さすがに福くんのフルネームを福士蒼汰だと思ってた人には「ないわ~」と思いました。





久しぶりのモーツァルトのオペラ鑑賞。


 2017年7月17日@兵庫県立芸術文化センター
 モーツァルト「フィガロの結婚」
  アルマヴィーヴァ伯爵: 高田智宏
  アルマヴィーヴァ伯爵夫人: 並河寿美
  スザンナ: 中村恵理
  フィガロ: 町英和
  ケルビーノ: ベサニー・ヒックマン
  マルチェリーナ: 清水華澄
  バルトロ: 志村文彦
  バジリオ/ドン・クルツィオ: 渡辺大
  アントニオ: 晴雅彦
  バルバリーナ: 三宅理恵
  指揮: 佐渡裕
  管弦楽: 兵庫芸術文化センター管弦楽団
  合唱: ひょうごプロデュースオペラ合唱団
  演出: デヴィッド・ニース


「フィガロ」と言えば、私が高校三年生のとき初めて観たオペラがこれ。しかも自慢じゃないがカール・ベーム指揮ウィーン国立歌劇場の引越し公演で、グンドゥラ・ヤノヴィッツの伯爵夫人、ルチア・ポップのスザンナにアグネス・バルツァのケルビーノという豪華キャスト。最初にこんなもの観てしまったのは幸せなのか不幸なのか、いまだによく分からないのですが、第三幕の手紙の二重唱の、この世のものとも思われない美しさに陶然としたのは昨日のことのように鮮烈に覚えています。
こんなジジイの昔話みたいなことを最初に書いたのも、あれから三十数年経過して、日本の歌手もオケも本当に上手くなったなぁと感慨を覚えたから。今回の公演は外人勢によるものとほぼ日本人歌手によるものとのダブルキャストで、私は仕事の都合で日本人勢によるこの日の公演しか聴けなかったのだけれど、大変高いレベルの演奏であったと思います。佐渡裕の指揮は早めのテンポで颯爽としていて実に気持ちが良い。その表現は時に鋭角的で、典雅なウィーン風を良しとするオールドファンの受けは悪いかも知れない。また颯爽としているといっても、イタリア風の風通しのよい演奏というのとも全く違う(こちらの路線の最高峰はジュリーニがシュヴァルツコップやコッソットらを率いたディスクだろう)。要は数多ある名演の真似事でない独自の表現に達していた、ということでしょう。ただ、正直なところ、ちょっと疲れる演奏であったのも事実。それが、この演奏の欠点なのか、それとも単に私自身の加齢による受止め方の問題なのかは今のところ判然としません。エネルギーに溢れた佐渡の音楽を受け止めるには、聴き手にもそれなりの若さと体力がいるのかも知れません。

歌手はいずれも所を得たもので、これはちょっと・・・というのがない代わりに突出して優れた歌手もいない、という感じ。その中ではケルビーノを歌ったベサニー・ヒックマンがとても印象的。巧い下手ではなくて、文字通り少年みたいな声としなやかな肢体が役柄によく合っていると思いました。やはりケルビーノには、「ばらの騎士」のオクタヴィアンほどコケットやエロを感じさせないのが良いみたい。
伯爵夫人の並河寿美の柔らかく温かみのある声と、スザンナの中村恵理の、スーブレットとしてはややきつめの強靭な声、それぞれ聴いていて楽しいものでしたが、この二人による手紙の二重唱はとても美しく、あっという間に終わってしまうのが恨めしいほど。またこの二人とケルビーノの、第二幕の弾けるようなレチタティーヴォ・セッコもなかなかの聴きどころと感じました。
脇役のマルチェリーナに清水華澄というのも贅沢ですが、予想通りアクの強い歌でありながら、ブッファの枠にきっちり収まっているのがさすがです。この歌手の存在感というのはなかなか凄くて、バルトロとかバジリオがちょっと霞んでしまうのもやむを得ないと思います。
フィガロの町英和は声もテクニックもガタイもあって実に結構。欲をいえばキリがないが、悪目立ちするよりは良い。伯爵の高田智宏然り。ただ伯爵に関して言えば、第三幕のモノローグはもっと上の表現があるような気もします。チョイ役のアントニオもいいんだけど、常識的すぎる演出のせいで今一つはじけなかった感じも。
演出については、所作も衣装も道具もオーソドックスで何の不満もないのだけれど、アントニオみたいな曲者を活かすにはもう一捻り必要な気もします。音楽の邪魔をしないのはよいが、音楽との相乗効果をもたらすこともない、というのは辛口すぎるだろうか。衣装や道具のシックな色合いとか素晴らしいのですが。

佐渡の指揮についてもう少しだけ。私は以前にハイドンのオペラを取り上げた時、モーツァルトと比べて何の遜色もないが、フィガロの幕切れの許しの音楽とドン・ジョヴァンニの地獄落ちの音楽だけはハイドンには無いものだ、といったことを書いたように思います。フィガロの許しの場を聴きながら、改めてモーツァルトの天才を認識したところですが、今回の演奏ではそれが真の感動にまでは至らなかったという他ありません。別に涙腺が緩むような感動だけが音楽の全てではないし、さっきも書いたとおり佐渡の音楽のエネルギーを真正面から受け止めるには、聴き手の年齢や体調が問われるところもあって、許しの音楽が私に思ったほどの感動をもたらさなかったことを以て今回の演奏を貶めるつもりは全くありません。ただ、今回の演奏を聴きながら、なんとなく私は、昔聴いた演奏のノスタルジーだかなんだかで今目の前にある演奏を貶す年寄の気持ちが幾分分かったような気がしたことを告白しておきたい。この備忘だって、冒頭に挙げた若かりし頃に聴いたベームの演奏だの、ジュリーニ盤の素晴らしさをいちいち挙げて比較すればどんなに書き易かろうと思わないでもない。だがそれでは耳が、感性が劣化する一方だろうというのも分かっている。音楽と加齢というのはなかなか難しい問題だと身に染みたという蛇足でした(笑)。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2017-07-20 00:26 | 演奏会レビュー | Comments(0)

カフェ・モンタージュでウェーベルンを聴く

ジャコウソウモドキというピンクのかわいい花を咲かせる植物があるのだが、その英名をPink Turtleheadというんだって。ピンク色の亀の・・・いや、いいんですけどね別に。ちなみに花言葉は秘密の生活。





京都のカフェ・モンタージュで面白いリサイタルがありました。

 2017年6月24日@カフェ・モンタージュ
 ウェーベルン
  シュテファン・ゲオルゲの「第七の指輪」による5つの歌曲 Op.3(1908-9)
  シュテファン・ゲオルゲによる5つの歌曲 Op.4(1908-9)
  4つの歌曲 Op.12(1915-17)
  ヒルデガルト・ヨーネの”Viae inviae”による3つの歌曲 Op.23(1933-34)
  ヒルデガルト・ヨーネの詩による3つの歌曲 Op.25(1934)

 太田真紀(Sp)、塩見亮(Pf)

またまた企画の勝利というか、ウェーベルンのピアノ伴奏による歌曲だけ集めて一夜のリサイタルを組むなど、このカフェ以外にありえないプログラムという気がする。何せウェーベルンの作品はどれもこれも短いので、このプログラムだと正味35分といったところ。それを店主のトーク→Op.3&4→トーク→Op.12→トーク→Op.23&24でようやく1時間ほどのリサイタルとした訳だが、店主も仰っていた通り、通常の演奏会だと、ウェーベルンの作品というのは他の作品に呑み込まれてしまって印象に残りにくい。確かに、いろんな演奏会でウェーベルンを聴いてきたような気がするが、大方は前座もしくは刺身のツマ扱い、シェーンベルクやベルクの作品とセットにする場合が多いようだが、それでもウェーベルンが主役という演奏会はなかなか考えにくい。今回のリサイタルは、そういった意味でウェーベルンを聴くには理想的な一夜だったと思う。もちろんアンコールは無し。一切の夾雑物を排してウェーベルンだけを聴けたのだから、何の不満もない。

個人的な話になるけれど、私が初めてウェーベルンを聴いたのは、まだ高校生の頃だったと思うが柴田南雄氏が司会をしていたNHK-FM「現代の音楽」で、当時ようやく日本語解説のついたLPが発売されたブーレーズの旧全集(全集といってもLP4枚組)の紹介があり、たしか「弦楽合奏のための5つの小品(Op.5の弦楽合奏版編曲)」を放送していたときだったと思う(この番組のオープニングもウェーベルンの「6声のリチェルカーレ」の編曲だったが、それと知らずに聴いていた・・・いや、ポリーニの弾いた変奏曲Op.27は既に聴いていたと思うが、その時はまだウェーベルンの真価が分からなかった)。これは凄い!と思って早速LPを買い、それから40年弱、LP→CD→ブーレーズの新全集、と何度も何度も聴いてきて、やはり私にとってかけがえのない音楽だと思ってきた。それでも、ピアノ伴奏の歌曲については、管弦楽伴奏の歌曲やカンタータ、室内楽などに比べるとどうしても影が薄くて、スコアが頭に入るほど聴いてきたとは言えない。本当にこのリサイタルを聴いて、改めて「歌曲も凄い」と思った次第。
ウェーベルンという人は、Op.1の「パッサカリア」からOp.31「第二カンタータ」まで驚異的な完成度を貫いた人ゆえに、通常の意味での成長とか円熟というものがあまり感じられないのだが、歌曲だけをこうやって年代順に聴いていると、その様式の微妙な変化とともに、作品がどんどん純化されていくのが手に取るように分かる。演奏技巧の困難さとか複雑さはOp.20の弦楽三重奏で極限に達したのち、Op.21の交響曲以降は打って変わってシンプルで静謐な書法に転じ、まるで小さな鉱物の結晶のような音楽を書き出すのだが、そういった意味ではやはりOp.23と25のヨーネの詩による歌曲が圧巻だと思った。この歳になって改めてこれらの作品の真価を知ることになろうとは思ってもみなかったが、そんな機会を与えてくれたカフェ・モンタージュの店主には本当に心から感謝したい。ちなみに、店主のトークは、まぁそんなにびっくりするような情報はないのだが、それでもウェーベルン愛が溢れていて実に結構。「ヴェーベルン」と発音するのもこだわりが感じられて良い。私は「ヴァーグナー」を普段「ワーグナー」と書いたり話したりするので、このブログでは「ウェーベルン」と書いているが、友人と話すときは「ヴェーベルン」派かな。このあたりはあまりこだわりはないのだが・・・。

演奏も大変良かったと思う。太田真紀の声は声量や表現の幅が非常に広く、控えめなビブラートが作品にとてもよく合っている。ウェーベルンだからといって、あまりにも虚弱な演奏は好まないので、これは私にはとても好ましい。塩見亮のピアノも歌の邪魔をせずいい感じ。このカフェのアンティークなスタインウェイのアクションは、最近さすがにガタが来ているように思えるのだが、それも音色の暖かさと近しさをもたらしていると言えなくもない。ただ音の消え際に若干ビリつくのと高音域のムラはもうちょっと整備してほしいと思った。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2017-06-25 23:33 | 演奏会レビュー | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その13)

辛子明太子とプチトマトを一緒に食うと、口の中がめっちゃ生臭くなることを発見。最凶の食い合わせかも。一度お試しあれ。





前々回「異国の鳥たち」を取り上げたので、今回はそれより少し前の「クロウタドリ」を中心に聴いていきます。

 CD27
 ①美しき水の祭典(1937)
 ②ピアノとオンド・マルトノのための4つの未刊の小品(?)
 ③モーツァルトの様式による歌(1986)
 ④クロウタドリ(1951)
 ⑤5つのルシャン(1948)
 ⑥抑留者の歌(1945)

 ①ジャンヌ・ロリオ六重奏団
 ②イヴォンヌ・ロリオ(pf)、ジャンヌ・ロリオ(オンド・マルトノ)
 ③ギィ・ドゥプリュ(cl)・イヴォンヌ・ロリオ(pf)
 ④クリスチャン・ラルデ(fl)、イヴォンヌ・ロリオ(pf)
 ⑤ジャン=ポール・クルデール指揮ル・マドリガル・アンサンブル
 ⑥サー・アンドルー・デイヴィス指揮BBC交響楽団、BBC合唱団

 ①1980年②~④1999年1月3・4日⑤1966年⑥1995年3月22日録音


「クロウタドリ」(「クロツグミ」と表記する文献もある)は1952年、パリ・コンセルヴァトワールのフルートの試験のために書かれたとのこと。技巧的なフルートに比べて、ピアノパートが(メシアンの楽曲にしては)随分平易に書かれているのも納得がいきます。作品の素材の大半が鳥の歌から成る作品としては最初期のものと言えそうです。
全体は大まかに言って5つの部分から成り立っています。
①ピアノの短い序奏の後、フルートのソロによる鳥の歌
②音列技法風のピアノとフルートの応答
③ピアノのトリルに始まるフルートソロの鳥の歌の再現
④音列によるピアノとフルートのカノン
⑤Vifに転じてからの目くるめくような鳥の歌とコーダ
音列技法風と書きましたが、例えば②は、まずピアノのFis-des-c-g-as-des-h-e-b-g-fisの音列をフルートが模倣します。ピアノの左手の伴奏にd,es,aが現れるものの、fは出てきません。同様に次のフレーズはピアノのf-g-as-ges-des-h-f-c-g-fisをフルートが模倣、左手の和声でb.eは出てきますがd,es,aがありません。Fisは何度も出てくるので、微妙に調性感があるような無いような、宙吊りにされたような不安を感じます。要は、彼自身の「音価と強度のモード」がきっかけとなって同時代に猖獗を極めたトータルセリエリスムとは似て非なる音楽であるということ。短い曲でピアノパートもシンプル、スコアも容易に入手できるので、もっと詳細に分析すれば面白かろうと思いますが、ここでは、鳥の歌が単なる作品の彩りとかエピソードのレベルを超えて、作品の中心原理となったこと、戦後の前衛音楽の旗頭から一転して孤高の道を歩むことになるメシアンの、いわば中期の始まり、メルクマールとなる重要な作品であるということだけ押さえておきたいと思います。
ラルデとロリオの演奏はもっと精密な演奏もあり得るだろうと思いながらも、その雰囲気というか、まさにメシアンの音と思わせる独特な味わいがあって、規範とするに足る演奏だと思いました。

1948年の「5つのルシャン」は大変重要な作品だと思いますが、作品の詳細に触れた文献は(日本語であれ英語であれ)ネットではなかなか見つかりません。「ハラウィ」、「トゥーランガリラ」と並んで「トリスタン三部作」と言われていることはよく知られていますし、16世紀フランドル楽派のクロード・ル・ジュヌClaude Le Jeuneの音楽にインスパイアされたらしいことも今回初めて知りましたが、歌詞の難解さ(シュルレアリスム風の詩と奇妙なオノマトペや造語の混合)も相俟って、この音楽へのアプローチとしてはあまり役立つ情報とは言えません。12人の歌手のための無伴奏合唱というスタイルや、ハーモニーの美しさもさることながら、専らリズムと特異なオノマトペ(t-k-t-k-t-k・・・のような)の面白さが追求されていることなど、メシアンの作品の中でも異色ですが、ある種の愉悦感(歌詞に相応しい言葉かどうか別として)は、シュトックハウゼンが1965年に書いた「ミクロフォニーⅡ」(12人の合唱、ハモンドオルガン、4リング・モジュレーターのための)を想起させるものがありました。どちらも男女それぞれ6人ずつの合唱ということで、シュトックハウゼンはメシアンへのオマージュとしてこれを書いたのではないかと思った次第。
演奏については、録音年代がいくぶん古いせいもあって、透明感とか精密さとは若干違うところが寧ろ作品の求めるものに合致している感じです。Youtubeでいろんな演奏を聴くと、リズム感の希薄な緩い演奏も散見されますが、このCDの演奏は早めのテンポでリズムもエッジが効いている感じが良いと思います。地声もあらわに吼えたり唸ったり、夜中にヘッドフォンで聴いているとちょっとアレな感じが堪りません。

「抑留者たちの歌」は1944年8月のパリ解放を祝うため、翌45年ラジオ・フランスの音楽監督であったアンリ・バローの委嘱で書かれた大オーケストラと合唱のための作品。初演後スコアが紛失したと思われていたところ、1991年になって放送局のライブラリーから再発見されたらしい。こういった珍無類の作品が聴けるのもコンプリート盤ならでは、ですが、どことなくソヴィエトのプロパガンダ音楽のような様相ながらも、メシアン流の和声とグロッケンシュピールやチャイニーズシンバルのギラギラした音色、それと異様なほどの高揚感があって、落ち穂拾いのつもりが思わぬ収穫でした。演奏も文句なし。

「美しき水の祭典」は1937年パリ万博の、噴水と花火のエキジビションのために委嘱されたとのこと。だからという訳でもないのでしょうが、メシアンにしてはどこかポップな味わいもあって、6台のオンド・マルトノという特殊な編成、第4曲と第6曲が後の「世の終わりのための四重奏曲」に転用されていること共々、人目を惹きやすいのか、意外によく知られている部類なのかも知れません。個人的には、印象派として見てもアヴァンギャルドとして見ても中途半端でちょっと苦手です。第4曲と第6曲は確かに美しいのですが、オンド・マルトノの人工的な音色で聞くと、なんだか斎場のお通夜や告別式で、開式を待つ間に流れているBGMみたいな感じ。

オンド・マルトノとピアノのための「未刊のページ(4つの小品)」はメシアンの死後に出版された作品で作曲年は不明。ドビュッシー風の和声は初期作らしいものですが、鳥の歌が後の作品に比べると非常に素朴な書法ながらもピアノに現れることから、年代の特定はなかなか難しいのかも知れません。BGMとして聞くならともかく、何度も繰り返し聴こうとすると少しもて余してしまいました。

クラリネットとピアノのための「モーツァルトの様式による歌」は作曲者晩年の1986年に、パリ・コンセルヴァトワールの学生のコンペ用に書かれたそうだが、メシアンを思わせる要素は皆無、微妙な違和感はあるものの、ほぼモーツァルト様式に忠実な小品。私にはどうも、作品目録を埋めていく以上の面白さは感じられませんでした。
(この項続く)

# by nekomatalistener | 2017-06-24 00:41 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ワーグナー 「ワルキューレ」 愛知祝祭管弦楽団公演

ポケモンGOのイシツブテを見ると、なんかチキチキマシン猛レースのタメゴローとトンチキを思い出す。40代以下の人は誰も知らんと思うけど。





わざわざ名古屋までこの演奏会形式による「ニーベルングの指輪」シリーズを聴きに行こうと思ったのは、昨年の「ラインの黄金」の評判がまぁまぁ良かったのと、清水華澄がジークリンデを歌うと知ったから。で、その結果はというと、本当に行ってよかった。恥ずかしながらあちこちで大泣きしてしまいました(笑)。

 2017年6月11日@愛知県芸術劇場コンサートホール
 ワーグナー「ワルキューレ」全三幕
  ジークムント: 片寄純也
  ジークリンデ: 清水華澄
  フンディング: 長谷川顯
  ヴォータン: 青山貴
  ブリュンヒルデ: 基村昌代
  フリッカ: 相可佐代子
  ゲルヒルデ: 大須賀園枝
  ヘルムヴィーゲ: 西畑佳澄
  オルトリンデ: 上井雅子
  ヴァルトラウテ: 船越亜弥
  ジークルーネ: 森季子
  ロスヴァイセ: 山際きみ佳
  シュヴェルトライテ: 三輪陽子
  グリムゲルデ: 加藤愛
  三澤洋史指揮 愛知祝祭管弦楽団
  演出構成: 佐藤美晴

歌手達の中では清水華澄はもちろん良かったのですが、何より素晴らしかったのはブリュンヒルデを歌った基村昌代。第二幕で、ちょっとお転婆風の軽めの声で現れた時は正直「あちゃー」と思ったのですが、これはもちろん計算の内。ブリュンヒルデはジークムントに対して死の告知をするが、彼のジークリンデへの愛の深さを知っていきなり真実の愛に目覚める。それからの表現の激しさと深さはただならぬものがありました。ジークムントが死んで絶望するジークリンデに、お腹の中に子供が宿っていることを告げる場面や、終幕のヴォータンとの別れの場面、もう言葉が追いつかなくて素晴らしいとしか言いようがない。この二つの場面、私は涙なくして観られませんでした。
ジークリンデの清水華澄、この人の身上は何と言っても忘我といってもよいほど役柄に没入していく姿勢と、テンペラメントの激しさ。ジークリンデはうってつけの役だろうと思いきや、第一幕はちょっと手が届きそうで届かないもどかしさを感じる。この人にとって、ワーグナーはヴェルディのエボリ公女のようにはいかないのか、と少し物足りない。でも第二幕、ジークムントに不幸な半生を語って錯乱する場面からは俄然熱を帯びてきて、ブリュンヒルデに触発されたのかどうか、第三幕の対話はもう凄まじいまでの激しさ。やはり類まれな歌手だと思いました。
ジークムントの片寄純也は私はだいぶ前にパリアッチのカニオを聴いて以来かも知れません。偉丈夫で声量もあり、ジークムントのような直情的な役柄にはよく合っていると思います。ただ、声楽用語でなんと言ったらよいのか分からないのだが、ところどころ、舞台の俳優に例えるとセリフが棒読みみたいなこなれていない歌い回しが気になります。十分水準以上とは思いながらも、先の女声二人にはわずかに及ばず、といったところ。
ヴォータンの青山貴は、これまで聴いてきた中では一番良かったのではないでしょうか。第二幕で登場したときは、声がこちらに届く前に散ってしまう感じも受けましたが、すぐに持ち直して深々とした声を堪能させてくれました。ブリュンヒルデとの告別の場も文句なし。
フリッカの相可佐代子は役柄に即したヒステリックな表現はとても良いが、ちょっとオケに声が負けた感じ(オケはちょっと鳴らしすぎ、というより制御しきれていない所あり)。フンディングの長谷川顯もスイッチが入る前に出番が終わってしまう感じが少し気の毒。8人のワルキューレの乙女達も、思ったより声が届かない。このあたりはまぁこんなもんかな、といったところ。

愛知祝祭管弦楽団は、この4年がかりの「指輪」シリーズのための寄せ集めで、基本的にアマチュアの人たちとのこと。その気になればいくらでもケチをつけれそうではあるが、私はそういったことは書かないでおこうと思う。立派な演奏だったと思います。三澤洋史は新国立劇場の合唱団の指揮者としてしか知りませんでしたが、こういった楽団を相手に長大な音楽を破綻なくねじ伏せただけでも大変なことだろうと思います。ただ、指揮は拍子をきっちりと刻むことに最大のポイントを置いているように思われ、その分音楽のうねるような自発性が多少犠牲になっていたようにも思います。おそらくもっとプロフェッショナルなオーケストラ相手なら違うやり方があったのかも知れません。そこは目を瞑るしかないのだけれど、これが名古屋の一回きりの公演ではなくて、東京のように二度三度の公演ならもっと良い成果が出せたに違いありません。いずれにしろ、私は早くも来年の「ジークフリート」公演を楽しみにしています。

ワーグナーの音楽そのものについて少しだけ。
私は先にも触れたブリュンヒルデがジークリンデに懐妊を告げる場面と、罰を与えられたブリュンヒルデがヴォータンに自分をつまらぬ男から護ってほしいと懇願する場面が白眉だと思っています。そのどちらも、ジークフリートの動機が金管で高らかに現れますが、それは単に回想とかほのめかしといったレベルではなくて、どこか無意識のレベルに直接働きかけてくるような強烈な効果があることに気が付きました。それは、長大な作品を経済的・効率的に紡ぎだすためのメチエとか、聴衆が理解しやすいように、あるいは退屈しないようにするための方法といった、いわばレトリックとしてのレベルではなくて、ジークフリートの不在(語られないもの=欠如)を埋めるためにジークフリートの動機(象徴=ランガージュ)が生まれるといったレベルに達していると言えるかも知れません(ライトモチーフの全てがそうではないにせよ、このジークフリートの動機の出現で図らずもそのレベルに触れてしまった、というのが実際のところかも知れませんが)。だからこそ、ワーグナーの「ラインの黄金」から「パルジファル」に至る諸作が、あれほどまでに哲学や精神分析学をはじめ広く人文科学全般に影響を与え得たのではないかと思いました。演奏会の備忘のついでに書くには話が広がりすぎるし、もっと言葉を尽くそうにも印象批評みたいな書き方しかできないのだけれど、これだけは書かずにはいられませんでした。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2017-06-14 22:58 | 演奏会レビュー | Comments(4)