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京都市交響楽団創立60周年記念特別演奏会 シュトックハウゼン 「グルッペン」

猫にいつものカリカリじゃなくて猫缶あげたら余程美味いのかフガフガいいながら食べてる。クリスマスだしいいよね。





関西でグルッペンを生で聴く機会があるとは思わなかった。しかもケージとの取り合わせ。

 2016年12月23日@京都市勧業館みやこめっせ(第3展示場)
 シュトックハウゼン 3つのオーケストラのための「グルッペン」(1955~57)
 (休憩)
 ジョン・ケージ 5つのオーケストラのための30の小品(1981)
 (休憩)
 グルッペン(2回目)

 指揮
 シュトックハウゼン1・ケージ5:広上淳一
 シュトックハウゼン2・ケージ1:高関健
 シュトックハウゼン3・ケージ4:下野竜也
 ケージ2:大谷真由美
 ケージ3:水戸博之
 京都市交響楽団


今回の演奏会は京響60周年記念演奏会ということなのだが、それにしてもなんという大胆なプログラム。しかも驚いたことに何百人、何千人いるのか分からないけれどぎっしりのお客さん。いわゆる現代音楽だけのプログラムでこの集客は驚異的、というより殆ど有り得ないことだと思う。グルッペンが世に出てほぼ60年で、日本で演奏されるのはこれが3回目だという。東京からもたくさんの音楽関係者や好事家が集結していたのは間違いないにしても、どうみてもオタク系でないごく普通のコンサート客が大半を占めている。これはひょっとして1曲目で半分くらい帰っちゃうんじゃないか、と危惧していたが、最後までそんなに減った印象はない。休憩時にごく普通の若夫婦やオバサマ達の会話を聞くともなく聞いていると、「なんか難しいけど面白いね」「下野さんカワイイ!(笑)」といった感想が聞こえてくる。演奏中もみんな身じろぎもせず聴いている感じ(ケージのときはさすがに爆睡客が多かったみたいだが・・)。聴衆のマナーも上々。京響おそるべし。京都という町の懐の深さはもっとおそるべし。本当にこのオーケストラは日本一、いやもしかすると世界一市民から愛されているのかも知れない。
会場のみやこめっせは普段は企業の展示会などに使われているようだが、そのだだっ広い展示場(4千平米!)の正面と四方の5ヶ所にオーケストラ席があり、それに取り囲まれたフロアに折畳み椅子が並べられている。一旦座ってしまうと身動きもできないほどの詰込ぶりに、おそらく主催者だってここまでの盛況は予想していなかったことが伺われる。演奏前にNHKの岩槻アナの司会でまずは指揮の広上氏登場。60周年の記念に常任指揮者3人で何かやろうということになり、最初はモーツァルト(たぶん4つのオーケストラのためのセレナード第8番と、3台のピアノの協奏曲)などが案として挙がっていたようだが、下野さんが「グルッペンやりたい」と言い出し、高関さんが「いいね」、広上さんは「・・・?」だったそうだ。
さて肝心のグルッペンだが、私は生でこの作品を体験できただけでもう感無量であった。しかも3人の指揮者の確信に満ちた指揮を見ていると、完全に作品が手の内に入っているという印象を受けた。3つのオケが合うべきところでびしっと合うのには一種の生理的快感を味わった。中ほどより少し後の、3つの金管群が同じコードを吹き交わすところは(録音で聴いて想像はしていたけれど)頭のまわりをぐるぐると音像が駆け巡る。この目眩にも似た身体的な快感は本当に素晴らしい効果で、セリエリズムがどうのこうの、といった議論を吹っ飛ばすだけの力がある。会場が会場だけに、弦の音が届きにくい(ただでさえデッドな音響なのにフラジョレットやピッチカートを多用したりするので余計に)憾みはあるけれど、管と打楽器はほぼ過不足なく聞こえた。いやむしろシュトックハウゼンが書いた精緻極まりないスコアを耳で聞いて体験するには、音が融け合わないこのデッドな空間は意外に悪くなかったとも思えた。

休憩を挟んで今度は岩槻アナと高関氏のトーク。ケージ作品は3つのオケが緊密にリンクするグルッペンと異なって、5つのオケの指揮者とメンバーは自分の属するオケのスコアしか見ることができず、各曲の時間の中で、他の4群の音を聞きながら「適当に入っていく」のだそうだ。拍手が静まると会場のどこからともなくラジオの音が流れてくる。この日23日の15時過ぎのNHK第一ラジオはニュース解説でヘイトスピーチがどうとかの後にシェイクスピアの「ヴェニスの商人」の放送劇をやっていたのだが、それが演奏中にずっと流れている(なんか出来過ぎのような気がしたが後で調べてみたらリアルタイムでやっていた)。5つのオケといっても基本は音がスカスカなところがケージらしい。何より面白いのはこの偶然性という基本原理と作品の構造的な緩さというものが耳で聞いて如実に実感できるということ。先にも書いたが、聴衆がついつい眠りに落ちてしまうのも、グルッペンの緊密な書法と正反対のケージの書法を正しく受け止めた結果だとすれば、爆睡するのもまったくOKということになるだろう。まったくグルッペンと並べてケージをやろうという発想には恐れ入る。私はグルッペンの一回目と同じ席、会場の真ん中よりすこし後方(グルッペンの3人の指揮者は一望できるがケージの第1・第4オケは見えない)で聴いたのだが、グルッペンより更にサラウンドな音響効果を期待したが後方の2つのオケは殆ど後方から響いているようには聞こえなかった。これは人間の耳の構造上やむを得ないことなのだろう。第4オケにはパーティーで使うクラッカーのようなものも置いてあったはずだがこれも聞こえなかった。こんなことも生で聴かない限り決して分からないことだろう。

ケージのあとの休憩で何と席替え。一旦荷物を持って外にだされた客が大槻アナの合図で一斉に前方の席取りに駆け出すのは壮観でもあり、ちょいと危険な感じもするが、京都のお客さんは(大阪と違って)筋が良いので事故もなく席替え完了。こんなこと書くと大阪人に怒られそうだが、京都の人は性格は悪いけど民度は高い(大阪はその逆)ので仕方がない。私は後半は下野さんの第3オケのすぐ近くの席を確保した。
最後は下野氏のトークで、あんまり覚えていないが(笑)人柄の良さだけはよく分かる。そして2回目のグルッペン。こういった作品で繰り返し聴けるのは本当にありがたい。聞こえ方の違いそのものも面白いが、舞台狭しと並べられたザイロリンバやタムタム、スネアドラムとアフリカンドラム、カウベルといった夥しい打楽器群と、気迫に満ちた奏者の動きという視覚的な要素も加わってより面白く、この作品を本当に堪能したといったところだ。演奏後のなかなか熱狂的な拍手に、これは現実の光景だろうかと訝しく思ったほど。ケージはともかく、グルッペンは完全に古典の領域に入ったと言えるかもしれない。それにしても昨年のサントリーホールのツィンマーマンの時も思ったが、前衛的な音楽は客が入らないと思い込んでいるプロモーターは少し考えを改めたほうが良いのではないか。この日の偉業はしばらく業界の語り草になるだろうが、是非とも他のオーケストラやオペラハウスのレパートリー拡大に繋がってほしいものだと思う。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2016-12-24 23:38 | 演奏会レビュー | Comments(0)
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