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京都市交響楽団第607回定期演奏会 メシアン「トゥーランガリラ交響曲」

ユーキャンの流行語大賞って年々酷くなっとる。なんかぱよちん系のジジイがはしゃいでるみたいで痛々しいというか。で、それをまたよりによって鳥頭ちゅん太郎が擁護するってもう地獄絵図。あ、でも三省堂の「今年の新語」はわりとマトモですよ。





10月から職場が変わり、猛烈に忙しい日々を過ごしておりまして、なかなか音楽を聴く時間がとれません。そんな中でも、「トゥーランガリラ」を生で聴く機会となれば聞き逃す訳にはいきません。積もり積もった疲労と寝不足で80分の長丁場は少々心配でしたが、目の覚めるような演奏にあっという間に時間が過ぎ去った感じがしました。

 2016年11月26日@京都コンサートホール
 メシアン トゥーランガリラ交響曲

 京都市交響楽団
 指揮:高関健
 ピアノ:児玉桃
 オンド・マルトノ:原田節

メシアンが好きな人もそうでない人も、彼の代表作が「トゥーランガリラ交響曲」であることに異論を唱える人は少なかろうと思います。私はどこかで書いたとおり、60年代の「クロノクロミー」「七つの俳諧」「天国の色彩」あたりが本当の傑作群だと思っているのですが、それでも「トゥーランガリラ」を実際の演奏で聴くと、その途轍もないエネルギーに圧倒される思いでした。音楽そのものについて書きたいことはたくさんあるのですが、それはメシアンのコンプリートアルバムの試聴記に譲ることにして、演奏の備忘のみ簡単に記しておきます。
演奏の始まる前に、指揮者の高関健氏によるプレトークがあり、まずは舞台前方に並べられた独奏楽器群(ピアノ、オンド・マルトノ、チェレスタ、ジュ・ドゥ・タンブル、ビブラフォン)の説明(オンド・マルトノ以外を「ガムラン隊」というのだそうだ)。それから「移調の限られた旋法」「不可逆リズム」といった音楽原理の説明がありました。後者は素人にも分かるように、というのはなかなか難しくて、若干舌足らずな感じもしましたが、高関氏自身が若いころはメシアンをあまり好きではなかったのに、近年になって楽譜をアナリーゼするとすべての音がこういった原理に基づいて書かれていることに驚き、それ以来メシアンが大好きになったと仰ったのは印象的でした。
そんな高関氏のプレトークを聴いたから、というのではなくて本当に精緻である意味醒めた演奏でした。「トゥーランガリラ」と聞いてまず思い浮かべるカオティックな猥雑さとかエロティシズムといった要素は希薄で、あまり好きな言葉ではないが「分析的」というか、音楽の構造が透けて見えるような不思議な演奏でした。ブーレーズは「トゥーランガリラ」を嫌っていたと聞いたことがありますが、こういう演奏なら御大も喜んで聴いたのでは、と想像します。これまであまり強い印象を持たなかった指揮者ですが、本当に面白い演奏をする人だと思いました。それでもあちこちに出てくる三和音による強烈な終始の臆面の無さはどうしようもなく、盛り上がることは確かだが少々げんなりするのも事実。まぁ大戦後すぐに現れた異形の音楽であることは確かでしょう。
児玉桃のピアノは大熱演。80分ほとんど出ずっぱりで弾くのはピアニストにとってこの上なく過酷だろうと思いますが、「嬰児イエズスの20のまなざし」を全曲通して弾くことに比べれば、彼女くらいのプロのピアニストにとってはまだしも楽なのかもしれません。彼女の強靭な打鍵を以てしてもオーケストラのトゥッティが被るとほとんどピアノが聞こえなくなりますが、これは偏にメシアンの書き方が悪いのであってピアニストのせいではないと思います。
オンド・マルトノを生で聴くのも初体験でしたが、実際に聴くと思いのほかあちこちで音が鳴っているという印象(録音で聴いても全部は聞き取れない)。緩徐楽章でクラリネットと被せて鳴らすところの精妙な音色など、こればかりは実際の演奏を聴かないと絶対にわからないと痛感しました。
京響も熱演だったと思います。指揮者の目指す音楽をとにもかくにもリアライズして長時間弾き切ったというだけでも大変なことだと思います。ですが、終演後に指揮者がオーケストラのセクションごとに立たせてねぎらいの拍手を送っている時、パーカッションのセクションになった途端にしつこくブーイングしている人が一人いてちょっと興ざめしました。これほどの難曲、大曲でパーカッションの大小の事故というのは避けられません。少なくとも私にはまったく気になるほどではなかったのですが、あまりに執拗なブーイングを聞くと、この人どれだけ分かってんのかね、と嫌みのひとつも言いたくなるというもの。私だって準備不足の、あるいは技術の追いつかないプロの演奏には激しく拒否反応を起こしたりすることはあるけれど、それとこれとは違う。ちょっと余談になるけれど、私は以前友人と2台ピアノのための「アーメンの幻影」の終曲「成就のアーメン」のプリモをあるアマチュアの演奏団体のセミクローズドな演奏会で弾いたことがあるのですが、その時最も困難を極めたのはデュラン社のスコアで最初の7ページほどのリズムカノンの箇所でした。プリモの右手、左手、セコンドの旋律がずれにずれていく複雑なリズムカノンは、youtubeでプロの演奏を観ても無事故で弾いているものは皆無といってよいほど。大切なのは小さい事故があってもすぐに合わせるべきところで合わせて復帰することだと思いました。そういった意味でこの日の京響のパーカッションはまさにプロの演奏だと思ったのですが、何がそれほど気に食わなかったのか、この手のブーイングの主は、逆に自分の知識をひけらかすだけの御仁に思えてしまうのがつらいところ。ブーイングを否定するつもりはありませんが、周りに「よくぞやってくれた」と思わせるのは至難の業なのでしょう。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2016-12-07 01:03 | 演奏会レビュー | Comments(0)
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