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Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その4)

卵から孵化したと思ったらコラッタだったときの落胆たるや・・・




前回とりあげた「鳥のカタログ」に続く、黄金の60年代の作品を聴いていきます。

  CD23
  クロノクロミー(1959-1960)
  天より来たりし街(1987)
  我死者の復活を待ち望む(1964)
  ピエール・ブーレーズ指揮クリーヴランド管弦楽団
  1993年3月録音

「クロノクロミー」は1960年10月16日にドナウエッシンゲンでハンス・ロスバウトにより初演された大規模オーケストラの為の作品。
今年の初め、ブーレーズ死去に際して短い追悼記事を書いた際にも言及したことですが、1995年5月26日サントリーホールで聴いたブーレーズ指揮ロンドン交響楽団による「クロノクロミー」は本当に素晴らしいものでした。詳細は繰り返しませんが、当該記事で書かなかったことを少しだけ。
ブーレーズにとってメシアンはかつての恩師でもあり、当然その作品を得意としている、と思いがちなのですが、実は非常に限られた曲目しか取り上げていないように思います。例えば若き日のアンサンブル・ドメーヌ・ミュジカルを指揮ないし監修した10枚組CDの中で、メシアンはピアノソロを含めても「異国の鳥たち」「カンテヨージャーヤー」「七つの俳諧」のわずか3曲。そのいずれもがメシアンの作品のなかでも特に辛口で、甘さや官能性とは無縁の音楽だけを選んだ結果だと言えそうです。ブーレーズは「トゥーランガリラ」などは嫌っていて(ソースが不明なのだが)「売春宿の音楽」と評したという話を見聞きしたこともあります。ブーレーズのこのような非寛容ともいえる姿勢は、年齢とともに、また指揮者としての成功とともに和らいでいき、今回取り上げたCDの他、「ステンドグラスと鳥たち」「「天国の色彩」などを録音していますが、メシアンの多くの作品に現れる甘さ、官能性、あるいは若干の通俗性、といった要素は最後まで苦手であったように思います。
話を「クロノクロミー」に戻すと、この作品こそブーレーズの志向する甘くないメシアンの代表作にして最大の傑作という感じがします。これからメシアンのコンプリート盤を聴いていこうとする矢先にこんなことを書くのも気が引けるが、もしかするとこれはメシアンの膨大な作品のなかでも最も優れたものではないか、と思うのはブーレーズの影響を受け過ぎた結果なのかも知れません。あるいは私がカトリックの教義に疎いことの裏返しで、宗教的なテキストを持たないがゆえにアプローチしやすかったとも言えそう。それはともかく、極度に抽象的で、リズムと音色の多彩さだけで勝負したような(まさに時間χρόνοςと色彩χρώμα)音楽、鳥の歌さえここでは具象性を剥奪されています。しかし、終盤で18人のソリストが無秩序に鳥の歌を歌い始めると、そこには官能というのとは違うけれど法悦とか恩寵としか言いようのない不思議な感覚に満たされます。だが、日本語wikipediaにはこの作品が立項されていないということが、現在のこの作品に対する不当ともいえる人気の無さを物語っています。「トゥーランガリラ」の演奏会がごく日常的なイベントとして受容され、アマチュアのピアノ・コンペティションで「嬰児イエズス」を取り上げる猛者もいる昨今、あえて「クロノクロミー」のような作品に光を当てたいというのが今こうして私がブログで取り上げている理由です。

1987年に作曲された「天より来たりし都市」は、1992年に死去したメシアンのほぼ最後の大がかりな作品と言って良さそうです。初演は1989年11月17日ピエール・ブーレーズ指揮。
その創作の最初期から何度も何度も書いてきた宗教的法悦境というべき作風の、最後の開花といってよいのでしょう。メシアンなりに戦後の前衛音楽をあるいはリードし、あるいは少し距離を置きながら伴走してきた50年代・60年代を経て、再び40年代の、甘さと若干の通俗性を含む作風に回帰したようにも思えます。これを一種の退嬰と見ることもできそうですが、かのバッハがライプツィヒで書いた夥しいカンタータだって、どれをとってもバッハそのもの、ある意味進歩や進化といった概念を超越しているのと同じで、メシアンという人はことカトリシズムに関しては生涯を貫いて同じことを語り続けたと考えることもできそう。

「我死者の復活を待ち望む」は1963年に当時の文化相であったアンドレ・マルローより、先の世界大戦の犠牲者の追悼のために委嘱され、1965年5月7日セルジュ・ボドの指揮で初演されています。
メシアンのカトリシズムへの思いというのは、私のような宗教心の欠片もない人間には理解不能としか言いようがないのですが、それが全面的に表に現れたこのような作品を前にすると本当に途方にくれてしまいます。これまでメシアンをあれこれ聴いてきて、時に分かった風な小賢しい言説を垂れ流してきた私のような人間に対して、まさに鉄槌を下すような難解な音楽という気がします。拡大され曖昧だとはいえ調性感がない訳でもなく、第4楽章のようにガムラン音楽のあからさまな影響が聴かれたり、チューブラーベルやタムタムなど多彩な打楽器が使われていたり、メシアンとしては決して人を寄せ付けぬ音楽を書いたつもりはないのかも知れませんが、結果的には随分取っつきの悪い音楽になってしまったという印象。だが、これとほぼ同じ時期、1965年にストラヴィンスキーが書いた「イントロイトゥス」の、あのミザントロープを想起するほどの峻嶮な音楽と比べれば、何度も繰り返し聴くことで作品に近づくことは出来そうな気がする。

ブーレーズの演奏について一言。どの曲も、冒頭に記した私の記憶の中にある「クロノクロミー」の演奏と比べると、些か整理されすぎという感なきにしもあらず。しかしオーケストラから引き出す音の色彩感が尋常でない感じがします。本当に耳の良い指揮者であったと改めて感服しました。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2016-08-19 23:12 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)
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