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Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その3)

「朝の声掛け運動」なるものに駆り出されて「おはようございます」の連呼。でも50回目くらいになると「おはいおごじまー」とか「おあごやー」とか、もはや原型を留めていない。





今回は大作「鳥のカタログ」。

  CD5~7
  鳥のカタログ
    第1巻
      1.キバシガラス※
      2.ニシコウライウグイス※
      3.イソヒヨドリ
    第2巻
      4.カオグロサバクヒタキ※
    第3巻
      5.モリフクロウ
      6.モリヒバリ
    第4巻
      7.ヨーロッパヨシキリ
    第5巻
      8.ヒメコウテンシ
      9.ヨーロッパウグイス
    第6巻
      10.コシジロイソヒヨドリ
    第7巻
      11.ノスリ※
      12.クロサバクヒタキ
      13.ダイシャクシギ

  Pf:ロジェ・ムラロ
  1999.2ライブ録音

※タイトルの鳥の種名について。
第1曲「ベニアシガラス(ベニハシガラスの誤記?)」と書いてある文献もあったが、Chocard des Alpesに対応する英語名Alpine Choughの和名はキバシガラスが妥当。ただしキバシガラスの学名は楽譜の扉に記載されているラテン名Corasia graculusではなくてPyrrhocorax graculusが正しいようだ。
第2曲「キガシラコウライウグイス」「コウライウグイス」と書いてあるものもあるが、Loriot(仏)Oriolus oriolus(羅)Golden Oriole(英)の和名はニシコウライウグイスが妥当。
第4曲「カオグロヒタキ」と書いてあるものがあるがTraquet Stapazin(仏)Oenanthe hispanica(羅)Black-eared Wheatear(英)の和名はカオグロサバクヒタキが妥当。
(以上3件は偶々手元に楽譜があったので確認できたけれど、wikipediaもピティナ・ピアノ曲事典もナクソス・ミュージック・ライブラリーも、殆どの無責任な個人ブログ同様間違いだらけということがよく判る事例)
第11曲「ノスリ」Buse variable(仏)Buteo buteo(羅)Buzzard(英)は正確には日本のノスリButeo japonicusとは別種のヨーロッパノスリだがごく最近まで同種とされていたので単にノスリとしておく。


今年の東京のラ・フォル・ジュルネでピエール=ローラン・エマールが「鳥のカタログ」を取り上げたり、最近では児玉桃・大井浩明・中川賢一といった人達が全曲演奏会をするなど、ここ数年の日本における「鳥のカタログ」の受容には目を見張るものがあると思います。メシアンのピアノ作品としては「嬰児イエズスに注ぐ二十の眼差し」が突出して人気があるのに対して、この「鳥のカタログ」はメシアンの中でもかなり辛口の音楽であって、これが一定の広がりをもつ聴衆から認知される事態というのは一昔前には想像もつかなかったことでした。
戦後の「音価と強度のモード」で一躍前衛音楽の最前線に躍り出たものの、やがてその流れとは一線を画することとなったメシアン。この時期、伝統と前衛のどちらにも与せず孤高の道を歩んでいたメシアンにとって、「鳥の歌」は音楽語法の最大の武器であり、1956年から58年に書かれた「鳥のカタログ」はその語法のネタ帳でもあり、試作の場でもあり、同時に完成品に磨き上げられた作品でもある、といったところでしょうか。
そこには通常の意味でのエンターテイメント性や音楽の愉しみといったものは皆無とはいわないがとても少ない。その点で「嬰児イエズスに注ぐ二十の眼差し」のような、今やPTNAのアマチュアコンクールでも時々弾く人がいるといった事態は少し考え難いかも知れません。また同時代あるいは後世への影響という点では「音価と強度のモード」のような革新的なイディオムは実はあまりなくて、「カンテヨージャーヤー」なんかのほうがよほど重要に思われるほど。いずれにしても、10年後20年後に、この作品がさらに広い聴衆を獲得するに至るのかどうか、非常に関心のあるところではあります。

この作品に接する時いつも思うことですが、作曲者はこれを耳で聴くだけでなく楽譜を見ながら聴くことを期待していたのではないかと思われてなりません。楽譜のほとんどどのページにも、今鳴いている鳥の名前、鳥以外の様々な事物(蛙や蝉や植物、海や池や氷河など)、夜明けであるとか日没であるとかの背景が書き込まれていて、良くも悪くも紙芝居めいたところもあり、こういったテキストを知らずにタイトルのイメージ、あるいはそれすらなく抽象的な音の運動としてこれらの作品を聴くということは如何にも片手落ちという感じがします。もちろん、この作品は抽象的な音の運動として聴いても十分面白く、退屈することもないのだが、歌詞の内容を知らずにオペラや歌曲を聴くことと同じく、それだけでは正しく作品を受容したとは言えない気がする。もし楽譜が入手できるなら是非ご覧になることをお勧めします。
例えば演奏に30分を要する大曲「ヨーロッパヨシキリ」には20種類近い鳥たちの歌の他に、蛙の合唱や、あやめ、睡蓮、ジギタリスなどの植物があらわれ、楽譜のあちこちに夜明けから日没までの具体的な時間(たとえば午前10時など)の書き込みがある。また全曲のなかでももっとも急進的な「コシジロイソヒヨドリ」には鳥だけでなく、ステゴザウルスやディプロドクスの化石なんてものが現れる(もしかしたらサン=サーンスの「動物の謝肉祭」からの連想?)。耳だけで聴くとほとんどセリエリスムの音楽と見紛うばかりだが、書き込みを見ていると映画「ナイトミュージアム」ばりのファンタジーに溢れた音楽にも聞こえる。たとえば小学生くらいの子供に、楽譜の書き込みを読みながら聴かせたなら、とても面白がってくれるんじゃないかな。
こんなことをつらつら書いていると、はからずも音楽の二つのありかた、いわゆる絶対音楽と標題音楽との対立とか止揚といったものをメシアンが念頭に置いていたように思われてきます。高度に抽象的な現代音楽としての顔と、ほとんどリヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」並みに具体的・描写的な音の絵巻物(そこには良い意味での通俗性もたっぷりと含まれている)としての顔、その両方を作曲者は聴く者に感受してもらいたかったのでは、と思います。
だがネットで検索するとけっこう「鳥のカタログ」について書かれた記事は沢山見つかるのだが、この夥しい楽譜への書き込み(特に鳥以外の要素)を丹念に追ったものは残念ながらほとんど見当たらない。いずれもう一度この作品に立ち戻って自分で書こうか、と思った次第。


ムラロの演奏はそのややモノクロームな響きのせいか、具象的な題材を用いながらも高度に抽象的に響くこの作品の性格にそれなりに合致していると思われます。コントラストのきつい(だがめっぽう面白い)ウゴルスキー盤と好対照だが、ムラロの路線をもっと徹底しているのはピーター・ヒルかも知れません。夥しい種類の鳥の鳴き声の中でも、めくるめくようなテンポで気が遠くなるほど長く鳴きつづける鳥たち(例えば2曲目に登場するニワムシクイとか7曲目のヨーロッパヨシキリ、12曲目のミナミノドジロムシクイなど)の声は、ムラロは猛烈によく回る指で一気呵成に弾いたという感じだが、ウゴルスキーはスピードよりも打鍵の深さを求めているのか、一見ダサく、もっさりして聞こえる。またスタジオ録音のウゴルスキーに対して、ムラロはライブ録音(途中2回の聴衆の拍手も入っている)で、もちろん多少の修正はあるのでしょうが実演でこれだけ弾ければ大したものであるし、「一気呵成」に聞こえるのもライブならではのことなのだろう。だが聴いていて息が詰まるような、一種恐怖にも似た感銘を受けたのはウゴルスキーのほうでした。まぁこの辺りは優劣というより個人の好き嫌いの問題だろうと思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2016-06-05 02:07 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)
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