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京都観世会例会 「田村」 「百万」 「春日龍神」

【性格悪い】
札幌出身の人に敢えて西友偽装肉返金事件とかYOSAKOIソーラン祭りとかの話題を振る。





久々の観能。今回の三曲はいずれも春の季節のお話ということで、この時期の京都に実に似つかわしい。

 2016年3月27日@京都観世会館
 京都観世会三月例会

  田村
   シテ(童子/坂上田村麻呂) 松野浩行
   ワキ(旅僧) 小林努
   ワキツレ(従僧) 有松遼一・岡充
   間(所ノ者) 山本豪一

  狂言
  因幡堂
   シテ(夫) 小笠原匡
   アド(妻) 山本豪一

  百万 法楽之舞
   シテ(百万) 橋本雅夫
   子方 橋本充基
   ワキ(都ノ者) 有松遼一
   ワキツレ(伴ノ者) 小林努・岡充
   間(所ノ者) 小笠原匡

  仕舞
  嵐山 大江泰正
  網之段 浦田保親
  須磨源治 片山伸吾

  春日龍神 龍女之舞
   シテ(尉/龍神) 片山九郎右衛門
   ツレ(竜女) 味方團
   ツレ(男) 橋本忠樹
   ワキ(明恵上人) 殿田謙吉
   ワキツレ(従僧) 平木豊男・則久英志


最初は「田村」。
東国から都に出てきた僧が清水寺に参ると、箒を持って木陰を掃き清めている童子(坂上田村麻呂の化身)に出会う。童子は僧らの求めに応じて清水寺の縁起を語ると寺の田村堂に姿を消す。その夜僧が読経していると田村麻呂の霊が現れ、平城天皇の命によって鈴鹿の鬼神を平らげた様子を再現し、観音の力を讃えて消え去る。
二番目物(修羅物)に分類されますが、「田村」は「屋島」「箙」と並ぶ勝修羅物。私、不覚にも前半睡魔に襲われて大半寝てしまい、中入りからの感想しか書けませんが、絢爛たる若武者姿の田村麻呂が颯爽と、また激しく舞う姿は大層面白く、前段の名所語りを観損ねたのが残念です。ただ、これまで観てきた修羅物(朝長・頼政・通盛)の悲劇性と比べると、どうしても物足りなく思うのが正直なところ。勝修羅には勝修羅の味わいがあるはずなので、もう一度体調の良い時に観たいものです。

狂言は「因幡堂」。
大酒飲みの女房が実家に帰ったのを幸い、暇の状(離縁状)を出した男。さりとて独り身は不自由で、因幡堂に新しい女房を得たいと願を掛ける。怒り狂った女房は、男が因幡堂に籠っていると聞いて、神のお告げとばかりに「西門の階の女を娶れ」と囁く。男が西門に行くと果たして頭から衣を被いだ女がいる。その女を連れ帰り、祝言の酒を飲ませると飲むわ飲むわ・・・
これまで観てきた狂言の中では、「延命袋」と前段がほぼ同じ。落ちは酒乱の妻という設定の因幡堂の方がより哄笑を誘います。普通に考えれば修羅場となるはずだが、大笑いの内に終わるのがなんとも大らかで良い。

さて私にとって3回目となる「百万」。初回も二回目も、そして今回も感じたことだが、どうも私にはこの母子再会のお話に無理があるように思えて仕方がない。演者にとっても観客にとっても人気があるらしく、だからこそわずかな期間に三度も観たわけですが、私には皆さんが感じておられるであろう情趣とか母子の情愛とかいったものを感受する能力が欠けているのだろうか。もしかすると、母子再会とは口実で、その実次から次へと繰り広げられる狂女の舞を楽しむものという考え方もあるだろう。しかしそれなら尚更、見巧者ならぬ身にはハードルの高い話です。音楽でもなんでもそうですが、広く世に知られ親しまれているものには必ずそれなりの理由がある、しかし十回聴いて(観て)ピンとこなければもう自分とは縁がなかったとしか思いようがない。まぁ三回で見切りを附けるのも早すぎるでしょうから、次の機会があればまた観てみようと思います。
そうそう、今回初めて気づいたこと。百万は男から幼子を引き会わされると、それまで被っていた烏帽子を静かに脱いで畳む。百万は、物狂いとして群集の前で踊ることを何度か「恥」と呼んでおり、烏帽子を脱ぐ姿にはこの労苦から解き放たれるという万感の思いが籠っているように見えました。とても重要な所作だと思うのですが、いままで気づかなかったものか、それとも細かい所作は毎度異なっているものなのか。
それはそうと、この能で最も違和感があるのは一回目の感想で「名乗りの遅延」と書いたこと、すなわち「男」が子方から「これなる物狂いをよくよく見候へば。故郷の母にて御入り候。恐れながらよその様にて。問うて給はり候へ。」と言われた男が「これは思いひもよらぬ事を承り候ふものかな。やがて問うて参らせうずるにて候。」と答えながらも結局すぐには名乗らせないこと。なんとも情の無い話だが、そもそもこの男の素性は如何なるものなのか。流派によっては僧とするものもあるようだけれど、通常は「和州三芳野の者」としか分からない。これについて下記のような記載を見つけました(柴田稔氏のブログ)。

http://aobanokai.exblog.jp/17162465/

ここには私見と断りながらも、子方は稚児(=性的な慰み者としての)として僧に売られる為に西大寺で攫われたとし、「男」を人身売買で生計を立てるものと推論しています。これは卓見だと思いますが、この見方に立てば男がなかなか子方の名乗りを上げさせないのも理解しやすい。つまり稚児は男にとっては大切な商品だったのだから、出来ることなら母子がそれと知らず別れてほしい、しかし最後はつい情にほだされ・・・ということだろうと思います。そうなると、殊更に仏典用語が頻発する謡本文も幾分皮肉めいた感じがしなくもないが、これ以上のことは本文に即した分析が必要であり、私の手には余るので止めておきます。

仕舞は三番。三者三様それぞれの味わいがあるような気がします。「須磨源氏」は派手さは微塵もないがシテの台詞が多くて興味深い。源氏に因んだ能の中では比較的上演の機会が少ないようですが、全編を観てみたい。尚、「網之段」とは「桜川」の中のシテ(狂女)の舞であるとのこと。

最後は「春日龍神」。
高山寺の高僧明恵上人は仏道を極めるために入唐渡天の志を抱く。春日明神に暇乞いの挨拶にいくと、宮守(実は明神の使い)が、釈迦入滅の後は春日山こそ霊鷲山(りょうじゅせん)というべきであり、わざわざ天竺に渡るには及ばぬ。むしろ明恵と解脱上人(貞慶)を両の腕とも左右の目とも頼んでおられる神慮に背くことになろうと話す。上人が思いとどまると宮守は喜び、三笠の山に釈迦の誕生から入滅まで天竺の様子を映してみせようと言って姿を消す。やがて春日の野山が金色に染まると龍女、ついで龍神が百千眷属を引き連れて現れ、宮守の言葉通り辺りは天竺に変じて釈迦の生涯を写し、龍神は上人の翻意を確かめて去っていく。
素人と笑われようが、やはり龍神鬼神の類が出てくる能は理屈抜きに面白い。前段でいろいろお話のディティールがあるものの、全ては後段のスペクタクルな愉しみのためのものといった感じがします。三笠の山に釈迦の生涯を映すなど、まるで現代のプロジェクションマッピングそのものだし、八大龍神が百千眷属引き連れて現れるというのも実に壮大。龍女と龍神それぞれが舞うというのも、言葉の生み出すイメージに現実の舞台が負けないための工夫だろうと思います。最初(田村)少し寝てしまい、途中(百万)よく分からぬまま見ていたのだが終わり良ければすべて良し。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2016-03-28 23:00 | 観劇記録 | Comments(0)
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