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B.A.ツィンマーマン 「ある若き詩人のためのレクイエム」を聴く

目の具合が悪くて病院にいったら、病名とかの説明のあとに「原因は加齢です」と言われるとけっこうへこむ。いっそのこと「原因は不品行」とか言われた方が話の盛り様もあるのに。





昨年シュトックハウゼンの「歴年」の、雅楽版とオーケストラ版の両方を舞台形式でやるという画期的な公演をおこなったサントリー・サマーフェスティバル、今年はシュトックハウゼンの「シュティムンク」とベルント・アロイス・ツィンマーマン(BAZ)の「ある若き詩人のためのレクイエム」の日本初演というこれまた企画力の勝利というべきプログラム。まずは予習ということで音源を聴いてみたいと思います。


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 ベルント・アロイス・ツィンマーマン
 ある若き詩人のためのレクイエム
 (多様な詩人、報道や著作からのテキストに基く、語り手、ソプラノとバリトン・ソロ、三組の合唱、
 エレクトロニクス、オーケストラ、ジャズ・バンドとオルガンのための言語作品)(1967-1969)

  ヴラトカ・オルザニック(Sp)
  ジェームズ・ジョンソン(Br)
  ミヒャエル・ロートショップフ(語り手1)
  ベルンハルト・シーア(語り手2)
  クリストフ・グルント(Org)
  アレグザンダー・フォン・シュリッペンバッハ(ジャズ・バンド)
  アンドレアス・ブライトシャイト(サウンド・ディレクター)
  オズヴァルト・サラベルガー(ミュージカル・アシスタント)
  合唱Ⅰ:ケルン放送合唱団(合唱指揮:ゴットフリート・リッター)
       シュトゥットガルト南ドイツ放送合唱団(合唱指揮:ルーパート・フーバー)
  合唱Ⅱ:エディンバラ祝祭合唱団(合唱指揮:デイヴィッド・ジョーンズ)
  合唱Ⅲ:ブラティスラヴァ・スロヴァキア合唱団(合唱指揮:ヤン・ロゼフナル)
       ブラティスラヴァ市立合唱団(合唱指揮:ラディスラフ・ホラーセク)
  ミヒャエル・ギーレン指揮バーデン・バーデン南西ドイツ放送交響楽団
  1995年3月12日録音
  CD:SONY Classical SK61995


BAZについては、その代表作である「兵士たち」がかなり以前に新国立劇場で取り上げられたり、この数年メッツマッハーや大野和士といった人気のある指揮者が取り上げたりで、よく知られていると思います。しかしこのレクイエムの日本初演がまだというと、本当にこの人の音楽が広く理解されるにはまだまだ道のりが遠いと思わざるを得ません。
私自身、本作についてはいつか聴きたいと思いながらも未聴、youtubeでもあがっているけれど、こればかりは身銭を切って音源を買ってからじっくりと聴きたいという思いがありました。
実際に聞いてみて、その比べるもののない音楽の広大な広がりと精緻な音響にちょっと打ちのめされた気分。すごいな・・・という幼稚な感想しか出てこないのがもどかしいのだけれど、たとえばコラージュ技法が使われているという意味で、以前BAZの「ユビュ王の晩餐のための音楽」を評した際に引用したべリオの「シンフォニア」であるとか、あるいはデモ隊やアジ演説を素材にしているということで、湯浅譲二の「ヴォイセス・カミング」の第3部などと比べても全く異なる音楽であると思います。どちらが上とか下とかの問題でないことは誤解のないようにお願いしたいのですが、BAZの深刻さとくらべるとべリオはディベルティメントのように聞こえるし、湯浅の群集の騒音は非常に感覚的なレベルでの音響素材のように思える(異論は承知の上)。それらと比べるとBAZの音楽にはその強固な論理性への執着のようなものが感じられます。そもそも、一時間を超える大曲で、しかもオーケストラのトゥッティはほとんどなく、さまざまなテキストの朗読や演説の録音テープ、ベートーヴェンからビートルズまで古今のさまざまな音楽の断片が現れては消えていくこのような造りの音楽にあって、いっときも集中力が途切れることなく、作品世界にがんじがらめにされて金縛りにあったかのように聴きとおしてしまうというのは稀有のことだろうと思います。それほどこの作品が精緻に構成されているということであり、作曲者にとってこういった手法でこのような作品を創作することが本当にのっぴきならないことであった証左だと思えてなりません。あまり断定的にいうことではないけれど、20世紀に書かれたレクイエムとしては、リゲティと並んで双璧ではないかと思いました。

このような膨大なテキストを持つ音楽でいつも問題になることですが、聴き手はどの程度テキストを理解して聴くべきかというのは実に頭の痛い問題だと思います。実は本作のテキストについて、カーネギーホールでの本作の演奏会に際してその英訳版を時間軸にそってまとめたものがネットに挙がっており、その気になりさえすれば意味だけはなんとか辿れます。
http://audiolabo.free.fr/revue1999/content/libretto.pdf
しかし、現実問題として、難解をもってなるヴィトゲンシュタインの長々しい引用を耳で聞いて理解できる聴衆がどれだけいるのか、ドイツ語の分かる人を念頭において書かれたのは確かだとしても、頻出するハンガリー語やチェコ語、古典ギリシャ語やロシア語をすべて理解できる聴衆は果たしているのか、英語が分かるからといって、ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」の狂気の産物のようなテキストがわかる人間はおそらくほとんどいないだろうが、そんな中での「テキストの理解」とは何を指すのか。これらテキストは単なる音響素材であるという立場と、テキストはすべて理解されるべきであるという立場を両極として、その間のどのあたりにBAZの考えが立脚しているのか、悩ましくも興味深いことではあります。先にとりあげた湯浅譲二のヴォイセス・カミングでは、電話交換手の音声(もしもし・・・)、フィラー言語(あのー・・・そのー・・・、いわゆるその・・・)と並置する形でキング牧師や浅沼稲次郎の演説が取り上げられていて、それはそれで作曲家の問題提起は明らかかつ痛切なものがあろうかと思いますが、BAZの選択したテキストが我々に突きつけるものとは少し違う感じ(さっきもちらっと書いたように湯浅のようがより感覚的でBAZはより論理的といったところ)。べリオがシンフォニアで用いたレヴィ=ストロースのテキスト(「生のものと火にかけたもの」)も相当難解なテキストだが、こちらはレヴィ=ストロースの打ち立てた変換式と音楽的な形式がどこかでリンクしている(多分にインテリの考えそうなお遊びレベルだとしても)というのはよく知られた話、だがもちろんBAZとはそもそもの姿勢が異なる(繰り返すがどちらが上か下かという話ではない)。
結論を急ぐつもりはないけれど、これらのテキストの集合体を眺めていてつくづく思うのは、やはりBAZはこれらテキストの内容を我々に伝えたいに違いないということ。我々ごく一般的なリスナーがヴィトゲンシュタインやフィネガンズ・ウェイクのテキストを理解しうるものかどうかはさておき、この真摯極まりない音楽を聴いていると、BAZはやはり真剣に聴衆に対してテキストをわかってほしいと思っていたに違いないという気がする。たとえ時間がかかっても一つ一つこれらのテキストを読み込んでいく努力は多分必要なのだろう。それは、音楽はシニフィアンの連鎖であって一切の意味作用を剥奪されている云々ということとは全く次元の違う話であって、BAZの理想の聴き手というのはテキストをすべて理解して、なおかつ音楽を一切の意味作用とは切り離して受容するものだという気がします。
すこし長くなりそうなので、実際にどのようなテキストが用いられているのか、先ほどのPDFファイルと、CDに添付されていたリーフレットをもとに、自分の勉強のためもあって次回にその概要を示してみたいと思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2015-05-08 00:16 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)
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