アレクセイ・ゲルマンの映画「神々のたそがれ」をヒエロニムス・ボスやブリューゲルの絵画に喩えた人がいたが、確かにあれを観た後でブリューゲルの有名な「農民の婚宴」を見ると、風呂に入ったことのない人々や家の中を歩き回る犬や鶏や家畜の臭気が臭ってくるような気がする。
シリーズ6回目は「「報われぬ不実」。 報われぬ不実L'Infedeltà delusa ~2幕からなるブルレッタ・ペル・ムジカ ヴェスピーナ: エディット・マティス(Sp) サンドリーナ: バーバラ・ヘンドリックス(Sp) ネンチョ: クラエス=アーカン・アーンシェ(T) フィリッポ: アルド・ボールディン(T) ナンニ: マイケル・デヴリン(Bs) アンタル・ドラティ指揮ローザンヌ室内管弦楽団 1980年6月録音 CD:DECCA 478 1776 例によってこの作品も英語版Wikipediaに立項されていますのでご参考まで。 http://en.wikipedia.org/wiki/L'infedeltà_delusa それによると、このオペラは1773年7月26日、Dowager Princess Estaházy の聖名祝日のために初演され、また1773年9月1日のマリア・テレジア訪問を記念して演奏されたとあります。お話は例によって他愛もないものですが、登場人物がいずれも農民であるというのが面白い。その点で主人公が漁師の娘という設定の「真の貞節」とよく似ています。「真の貞節」では主役のアリアにほとんどコロラトゥーラのような技巧的な見せ場がなく、こういった技巧的なアリアというのは神話や英雄譚の登場人物、あるいは爵位のある人物に限ってあてがわれたのではないか、という仮説を以前たてたけれども、「報われぬ不実」でも主人公のヴェスピーナにはほとんど技巧的なフレーズは見られません。同じく農民の娘である脇役のサンドリーナには美しいフィオリトゥーラ(第14曲)があらわれるので、厳格な縛りというほどではないようだが、それでも他のオペラに比べれば幾分控えめな表現に留まっています。また、ヴェスピーナはアリアの数は一番多いが芝居の中ではどちらかといえば狂言回し的な役柄であり、老婆や侯爵や公証人に扮して声色を用いたアリアを歌うなど、後のモーツァルトのブッファであればスーブレット役に相当する役柄。この時代のハイドンのオペラでは、スーブレットという存在が未だ未分化だったのだろうと思います。 全曲の構成は次の通り。 序曲 第1幕 No.1 イントロドゥツィオーネ レチタティーヴォ・セッコ(R.S.) No.2 アリア(フィリッポ) R.S No.3 アリア(サンドリーナ) R.S No.4 アリア(ナンニ) No.5 アリア(ヴェスピーナ) R.S No.6 デュエット(ナンニ・ヴェスピーナ) No.7 アリア(ネンチョ) R.S No.8 フィナーレ(全員) 第2幕 R.S.~No.9a レチタティーヴォ・アコンパニャート(ヴェスピーナ) No.9b アリア(ヴェスピーナ) R.S. No.10 アリア(フィリッポ) R.S No.11 アリア(ヴェスピーナ) R.S. No.12 アリア(ネンチョ) R.S. No.13 アリア(ヴェスピーナ) R.S. No.14 アリア(サンドリーナ) R.S. No.15 フィナーレ(全員) 比較的短い2つの幕から成り立っており、ゴルドーニ・スタイルの3幕仕立てが多いハイドンとしてはやや異例。ジャンルとしてもドラマ・ジョコーゾではなくてブルレッタ・ペル・ムジカと記されているようです。 序曲はソナタ形式による軽快な第1楽章に緩徐楽章が続き、短調のブリッジを経てアタッカでイントロドゥツィオーネに続いていきます。 テンポや曲調の異なるいくつかの部分が連なったイントロドゥツィオーネや各幕のフィナーレを除くと、大半のアリアがソナタ形式もしくはロンドソナタ形式で書かれており、わずかに第11曲のヴェスピーナの短いカンツォネッタ風のアリアのみ三部形式をとっています。このことは前回取り上げた1775年の「突然の出会い」でも顕著でしたが、この報われぬ不実」ではより徹底的にソナタ形式の原理をオペラに応用しようとする姿勢が見て取れます。このことには、エステルハーザ宮の為に書かれた最初のオペラである本作において、当時すでに自家薬籠中のものになっていたソナタ形式というものを徹底的にオペラに用いてみようとするハイドンの気負いといったものを感じます。以前にも書いたとおり、後々ハイドンはオペラのアリアにおいて、よりシンプルな三部形式や、歌手の叙情的な側面と華やかなアジリタの両方を生かした大アリア形式に次第に作品原理をシフトさせ、モーツァルトがその流れを踏襲するかのように「後宮からの逃走」以降のオペラを書きだすと彼に席を譲るようにオペラから手を引いていったようにも見えます。 上記は形式という側面から見たこのオペラの特色ですが、音楽的にはどのアリアも実に屈託のない、端正な姿をした楽曲であるとおもいます。しかし、先にも少しふれた通り、全体にフィオリトゥーラが少なく、ひたすらアリアが続くという体裁のオペラでは少し物足りない思いがするのも事実。その点、第14曲のサンドリーナのアリアは提示部第二主題の後半、展開部の後半、再現部第二主題後半がそれぞれ華麗なフィオリトゥーラになっていて、文句なしに素晴らしい。その他の聴き所としては例えば第4曲ナンニのアリアが、ヘンデル風の擬バロック的な開始、管弦楽のクロマティックな書法など変化に富んでとても面白い(ちなみに形式としては第一主題の再現を欠く変則的なソナタ形式にコーダがついたもの)。また第7曲ネンチョのアリアは終始シチリアーノ風のリズムが支配する美しいセレナード。だが全体としてみると、後の作品にくらべてどうしても少し地味な感じがします。 歌手ではサンドリーナを歌うバーバラ・ヘンドリックスがアジリタのテクニックに優れていてとても良いと思いました。ビブラートに若干癖のある人だけれどこのディスクの歌唱はそれがまったく気にならない。ヴェスピーナのエディット・マティスもモーツァルトのオペラでお馴染みの人らしく安心のクオリティ。老婆や公証人のふりをして歌うところはモーツァルトのスーブレットほど弾けないところがちょっともどかしいが、これはハイドンその人のせいとしか言いようがあるまい。いずれにせよ、この二人の取り合わせは、しっかり者のヴェスピーナとちょっとおバカなサンドリーナにぴったりという気がします。アーンシェはいつもながらの安定感。その他脇役も不足なし。ドラティの指揮は文句なしだが、エステルハーザ宮のために書いた8作のうち、最初に書かれたということがなんとなく納得できるというところが、良くも悪くも作品の本質に応じた演奏であるという証左なのだろう。 (この項終り)
by nekomatalistener
| 2015-04-17 23:32
| CD・DVD試聴記
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