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西村朗ピアノ作品によるリサイタル

代替食品ソイレントが出荷開始ってニュース、40年ほど前の映画「ソイレント・グリーン」を知ってる世代にはガセネタとしか思えないんだが・・・





京都のカフェ・モンタージュで西村朗作品によるリサイタル。この40人ほどでいっぱいになってしまう小さなカフェがコンテンポラリー音楽の聖地になる日は近い?

                                            
 2015年2月8日@カフェ・モンタージュ
 西村朗作品集
  《炎の書》(2010)
   (トーク)
  《神秘の鐘》(2006)
  《薔薇の変容》(2005) 
  《カラヴィンカ》(2006)
   (トーク)
  《オパール光のソナタ》(1998)
  《タンゴ》(1998)
  《アリラン幻想曲》(2002)
  《三つの幻影》(1994)
   (アンコール)
  田中吉史《松平頼暁のための傘》(2010/11)
   〔松平頼暁・西村朗両氏の対談の音声素材に基づく〕(委嘱作品)
  ジョン・レノン(西村朗編曲)《ビコーズ》(1969/91)
  武満徹(西村朗編曲)《さようなら》(1953/2001)

  ピアノ:大井浩明、トーク:西村朗


大井浩明が東京でPOC(Portraits of Composers)と銘打ち、毎回一人のコンテンポラリー音楽の作曲家を取り上げて、そのピアノ曲を可能な限り網羅的に演奏するという意欲的なリサイタルのシリーズを続けているのは周知のことだろうと思います。今回のはいわばそのPOCの番外編といったもので、ピアノ曲のみとはいえ、西村朗の音楽がこれほど集中的に取り上げられるということも珍しいだろうと思います。
私は不勉強ながら彼の音楽をほとんど知りません。数年前のN響アワーで「蘇莫者」という舞楽の舞を伴うオーケストラ曲の抜粋を聴いて、かなり好意的な感触を得たけれども、その後あれこれ音源を取り寄せるところまではいかず今日に至りました。そんなわけで良くも悪くも殆ど何の先入観も持たないまま聴いた次第でしたが、ある意味非常に判りやすい音楽という感じがしました。そしてその判りやすさが、音楽としての面白さの根幹をなしているという風にも思えます。
これらの作品について、西村氏自身が大井浩明のブログに自作解題を寄せておられますので、詳細はそれを読んでいただくとして、

http://ooipiano.exblog.jp/23409101/

まず目に付くのは、「水」や「炎」、「光の乱反射」や「鳥の声」といった視覚的、聴覚的なモチーフによる標題楽が多いということ。その当然の帰結として、これらのキーワードを目にしたときに誰もが思い浮かべるであろうピアノ曲の大家、ドビュッシー、スクリャービン、メシアンらの響きの、遠い木霊が聞き取れます。
その視覚的、聴覚的イメージというのは、当日のトークで上掲の解題よりも更に具体的に語られました。例えば、冒頭の《炎の書》は中目黒不動尊で目にした護摩の炎とそのゆらめく火影であること、次の《神秘の鐘》は嵐山の化野を訪れた際にインスピレーションを得たこと、第2曲の子守歌は水子を弔うものであり、両端楽章は渡月橋を渡ってあの世とこの世を往来するイメージであること、最後の《三つの幻影》の第2曲で、内部奏法(低い音の弦を指でミュートしながら鍵を強打する)の音はバラナシ(ベナレス)の河岸の火葬を見た時の、骨が割れる音であること、また第1曲はガンジス河そのもの、第3曲は火葬で唱えられるマントラの音による描写であること云々。
これらの身もふたもない直截な元ネタを、いくら作曲者自身の言葉だからと言って額面通り受け取ってよいのか、それともこれは一種のリスナーに対するサービスなのか、よく分りませんが、少なくとも抽象的な音の運動と響きのみを追求すると思われがちな現代の作曲家の中にあって、視覚的聴覚的かつ具象的なイメージから音楽を作る(今となってはもしかすると珍しいタイプの)作曲家であるということが判りました。そしてその語られたイメージと相俟って、耳で聴いた際にとても判りやすく感じられるということ。その音楽は、セリエリスムとは無縁ながらも新調性主義とも袂を分かっており、しかもところどころ調性的なフレーズが忍び入ることを拒んでもいない、といったスタイルだと思います。決して聴き手の耳に媚びるタイプではないが、ドビュッシーやメシアンを聞き慣れた耳であればそこそこ長時間でも聴きとおせるような判りやすさと言ってよいと思います。
更に、トークでご自身の作品を評して「よく言えばギャラント、悪く言えば饒舌」と仰った通り、一言で言えばものすごく音が多い。その点においても、さきほどから何度も名前を挙げたドビュッシー、スクリャービン、メシアンらと極めて近いところにある音楽という感じがします。これだけ多くの作品を立て続けに聴くと、やや食傷気味になるところ無きにしも非ずではあるが、少なくともリサイタルで一曲ないし二曲取り上げる分には、聴き手にも面白く、弾き手にもカタルシスをもたらすこと必至であると思います。

大井浩明の演奏はいつもながらの明晰なもので、硬質でブリリアントな音質が作品によく合っていたと思います。それと同時に、昨年のドビュッシーのリサイタルでも感じたことだが、以前よりも荒削りなところが目立ってきた感じもします。スコアを見た訳ではないので何とも言えないところもあるが、華麗なアルペジオなどでもっと一音一音の粒立ちが欲しいと思ったことが何度もありました。もしかすると、初見である程度弾けてしまうために、却って細部の磨き上げが上手くいかないタイプなのかも知れません。

アンコールが三曲。
田中吉史の作品はタイトルにもあるように、NHK「現代の音楽」で松平頼暁と西村朗が対談した時の音声をピアノに移したもの。こういうと、聞いたことがない人にとってはちんぷんかんぷんだと思うので、近い例として次のyoutubeを挙げておこう。伊賀拓郎という作曲家が作曲(?)した、元西宮市議の野々村某という43歳児の号泣会見を忠実にピアノに移したもの。これは抱腹絶倒、はっきり言って元ネタよりよほど面白いぐらい。およそ人類の役には立ちそうにないが、凄い才能です。

https://www.youtube.com/watch?v=CbrNtKd2nxQ

さて本家(田中作品)のほうだが、大井氏が曲目紹介を兼ねて語ったところによると、西村氏が放射線遺伝学とかなんとかの学者でもある松平氏にその方面の話題を振ったところ、松平氏が滔々と話し出したので西村氏が「はぁ・・」と気のない返事をする様子などが克明に描かれている(笑)。西村氏の声が素材となっているからこれをアンコールに取り上げたと大井氏が語っておられましたが、私の中では「人の声」を素材とする技法が「鳥の声」を素材としたメシアンを想起させ、技法と響きの両面でメシアンとの近親関係を示唆する西村作品に向けて大きなアーチを掛けてリサイタルを締めくくったといった感じがしました。いっそのこと、この作曲者にはメシアンばりに「人のカタログ」を作曲してもらったらどうだろうか。ジャパネットたかたの高田社長などは素材として極めて面白そうだ。
・・・と、ここまで書いて、ネットで調べてみると、この田中吉史という方、既にルチアーノ・ベリオやブルーノ・マデルナの声、あるいはもっとアノニマスなテレビの気象情報の音声や、専門的すぎて殆どの人にとってはわけのわからない音の連なりでしかない学術発表などを素材に作品を書いているようです。これは面白そうです。
アンコール、あとの2曲はまぁ他愛ないアンコールピースの類か。

それにしても今月のカフェ・モンタージュは20世紀以降の音楽ばかりでなかなかの壮観。私は都合で行けませんが、ジョン・ケージのフリーマン・エチュード演奏会(最初の二巻)とか、ブーレーズのピアノ曲全曲とか、びっくりするようなリサイタルがあるので興味のある方は是非。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-02-10 00:51 | 演奏会レビュー | Comments(0)
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