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ハイドンのオペラを聴く(その4)~「真の貞節」

正月休みに映画「ゴーン・ガール」を観る。ベン・アフレックが体育会系脳筋男を演じているのが巧くて、つい「もっと痛い目に遭えばいいのに」と思ってしまう。とびっきりの後味の悪さは性格の悪い人には蜜の味。




シリーズ4回目は「真の貞節」という喜劇。

 真の貞節La Vera Costanza ~3幕のドラマ・ジョコーゾ
  ロジーナ: ジェシー・ノーマン(Sp)
  リゼッタ: ヘレン・ドーナト(Sp)
  伯爵エッリコー: クラエス=アーカン・アーンシェ(T)
  ヴィルロット・ヴィルラーノ: ウラディミーロ・ガンツァロッリ(Bs)
  マジーノ: ドメニコ・トリマルキ(Br)
  男爵夫人イレーネ: カーリー・ロヴァース(Sp)
  侯爵エルネスト: アンソニー・ロルフ・ジョンソン(T)
  アンタル・ドラティ指揮ローザンヌ室内管弦楽団
  1976年5月録音
  CD:DECCA 478 1776


この作品も英語版のwikipediaに立項されています(それにつけても日本語の資料の少なさよ!)。それによると、1779年4月25日にエステルハーザ宮殿で初演された後、どうも楽譜の大半が紛失したらしく、1785年4月の再演に際し、ハイドンは記憶を基に再度書き起こしたのだという。台本は1776年にアンフォッシによって書かれた同名オペラの、フランチェスコ・プッティーニによるリブレットの短縮版とのこと。タイトルや役名などの改定後、1786年から1792年に掛けてブラティスラヴァ、ブダペスト、ウィーン、ブルノ、パリでも演奏されたとのこと。

http://en.wikipedia.org/wiki/La_vera_costanza

このオペラを聴いていると、この後に書かれた「騎士オルランド」などが音楽的にも大きく進歩しているのが如実に感じられます。だからといってこの作品が殊更劣っているという訳ではないのだが、どうしても後の作品と聴き比べるとひとまわり小振りなものに聞こえます。これは1785年の記憶による書き起こしが意外にも1779年の作品を正確にトレースしているのだと考えるべきなのでしょう。あるいは題材をパクっただけでなく台本を短縮してしまったが故に音楽的にも中途半端になったのかも知れません。いずれにしても、毎回同じことを書いているがハイドンの回りにダ・ポンテのような優れた台本作家がいなかったことがとても残念に思われます。

物語の詳細はwikipediaを見ていただくとして、いつものように全曲の構成と主な登場人物の音楽的な特徴をみていくと幾つか興味深いことが判ってきます。

 シンフォニア 
 第1幕
  No.1 イントロドゥツィオーネ(ロジーナ・マジーノ・男爵夫人・エルネスト・リゼッタ・ヴィルロット)
   レチタチーヴォ・セッコ(R.S.)
  No.2 アリア(男爵夫人)
   R.S.
  No.3 アリア(マジーノ)
   R.S.
  No.4 アリア(ヴィルロット)
   R.S.
  No.5 アリア(リゼッタ)
   R.S.
  No.6 レチタティーヴォとアリア(伯爵)
   R.S.
  No.7 アリア(ロジーナ)
   R.S.
  No.8 フィナーレ(アンサンブル)

 第2幕
  No.9 二重唱(マジーノ・ヴィルロット)
   R.S.
  No.10 アリア(エルネスト)
   R.S.
  No.11 五重唱(男爵夫人・ロジーナ・伯爵・リゼッタ・ヴィルロット)
   R.S.
  No.12 レチタティーヴォとアリア(ロジーナ)
   R.S.
  No.13 アリア(ヴィルロット)
   R.S.
  No.14 レチタティーヴォとアリア(伯爵)
   R.S.
  No.16 フィナーレ(アンサンブル))。

 第3幕
   R.S.
  No.17 二重唱(伯爵・ロジーナ)
   R.S.
  No.18 合唱(全員)

オペラの大枠としては例のゴルドーニ風の三幕仕立て。シンフォニアはイタリア風の3楽章からなり、交響曲の原型を見るようですが、この第3楽章の途中から導入の六重唱が始まるのが面白い。第3幕は極端に短く、レチタティーヴォを入れても10分に満たないのは短縮版だからでしょうか。
一般論として、当時のカストラートが技巧の限りを尽くして歌ったであろうブラヴーラ・アリアは専らセリアに特徴的なものであって、ブッファのアリアはさほど高度なコロラトゥーラの技巧を要しないという感じがするが(私の乏しい知識で決めつけてはいけないが・・・)、このオペラでは男爵夫人(第2曲)と伯爵(第14曲)のアリアでかなり技巧的なブラヴーラが出てくる。一方、一番の主人公であるロジーナは劇中で最多の3つのアリアの他、第1幕と第2幕それぞれの長大なフィナーレの中で伯爵との長い二重唱を歌うが、技巧的な見せ場はほとんど無い。このことは、初演時に想定していた歌手の技量のほどを反映しているとも考えられるが、それよりも華麗なコロラトゥーラやフィオリトゥーラというのは古代や中世の英雄譚の人物か、現代劇なら爵位のある人物にこそ相応しいもので、たとえ実質的な主役であっても漁師の娘という役どころには相応しくないとされたのかも知れません。エルネストも侯爵であるが彼はシャーベット・アリアを一曲うたうだけの脇役、したがってそのアリアも平易なものになっています。男爵夫人の小間使いであるリゼッタは非常に重要な狂言回しとしての役割のようだがアリアは一つしか与えられていません(第5曲)。同じ小間使いでもモーツァルトの「フィガロ」のスザンナなどと比べると、初演の年は7年ほどしか違わないのに音楽上の扱いの軽重の差は歴然としています。このことはハイドンとモーツァルトの違いというよりは、旧態依然としたリブレットの使い回しに終始した台本作家と、フランス革命前夜の世相を敏感に反映したダ・ポンテの力量の差だという気がします。それともちろん、ハンガリーの片田舎で領主一家の為に書いていた音楽家と、ウィーンで生活していたフリーの音楽家の差というのもあったでしょう。本当にハイドンのオペラの音楽的な素晴らしさを思うにつけ残念なことではありますが、影があってこその日なたと同じで、ハイドンを知ることでモーツァルトの「フィガロ」や「コジ」の素晴らしさというものもより良く判るというもの。

ついでにもう少し物語について書いておくと、伯爵がロジーナの貞節を試すために偽りのジェスチャーをしたことから事が紛糾していく訳だが、この無茶苦茶さ、出鱈目さというのは「コジ・ファン・トゥッテ」のドタバタとはやはり根本的なところでレベルが違うという気がします。対訳すら読んでいない中であまり断言めいたことは言えませんが、それは以前このブログで「コジ」を取り上げた際に触れた通り、片や後期バロックから初期古典派のクリシェとしての恋愛劇と、サド侯爵の同時代ならではの性愛のゲーム化との違いほども違うものであって、後者(コジ)を荒唐無稽なロココ風のおあそびと捉えるのはとても皮相的に思われるのだが、前者(ハイドンのリブレット)には残念ながらそのような意味での近代性は感じられそうにありません。そのことも、ハイドンのオペラが歴史に埋もれてしまった理由のひとつだとは思うけれど、だからといってくだらないリブレットが無価値であるとも思いません。クリシェにはクリシェとしてのただしい接し方というものがあるはずであり、その面白さを享受するにはことばと音楽の様式の正しい把握が(おそらくモーツァルトのブッファよりもはるかに)必要とされるような気がします。ハイドンのオペラが長らく埋もれていた最大にして真の理由というのも正にそこにあるのだろう。この1779年(真の貞節)から1790年(コジ)にかけてのわずか10年ほどの間に、オペラの享楽の本質的な部分が断層のように大きく変化した(切断された)ようにも見えるのですが、その時代というのはミシェル・フーコーが同じレベルの変化(切断)を経済学(リカード)や生物学(キュヴィエ)、文学(サド)に同時多発的に見出した時代ともほぼ一致しているのが面白いと思います(前にも同様のことを書いたが、フーコーをトンデモ本だと思う読者はこの件はスルーしてください)。

もう少し各ナンバーの聴きどころなどを挙げておこう。アリアの大半はABA’の三部形式、もしくはABA'B'またはAA'BB'の二部形式あるいはその拡大形で書かれていますが、伯爵の二つのアリアはどちらもABCDとでもいった緩い形式で書かれています。第6曲はアコンパニャートに続いて、Aria di guerra(戦いのアリア)らしくティンパニとトランペットが鳴る勇壮な調子で始まり、緩やかな部分と最初のテンポの再現、さらにテンポをあげて短調に終わります。第14曲はまるでベルカント・オペラのような美しいアコンパニャートに始まり、緩急緩急の4つの部分が続きます。エステルハージ家の人々はハイドンのもたらすイタリアの響きにさぞ夢中になったに違いありません。どちらも明確な形式は持たないにも関わらず、緊密な統一性が感じられる素晴らしいアリアです。
ロジーナのアリアでは第12曲がシュトルム・ウント・ドランク風の激しさで注目されます。また第15曲は荘重なアリアを取り囲むようにアコンパニャートが前後に置かれています。
他には第9曲がめずらしい低音男声の二重唱。第11曲は五重唱とあるが、男爵夫人・伯爵・リゼッタ・ヴィルロットが一声ずつロジーナのレチタティーヴォと歌い交すというこれも珍しい楽曲。ハイドンという人は交響曲でも室内楽でもそうだけれど、本当に機智と発明に溢れた音楽を書くのが得意なようです。

歌手の素晴らしさはこれまで取り上げた諸作と同様。ロジーナ役のジェシー・ノーマンは「アルミーダ」のタイトルロール同様素晴らしいものですが、まるで王妃のように構えの大きな歌唱はさすがに漁師の娘という役柄には若干の違和感を感じざるを得ません。もちろんこの録音の貴重さを何ら傷つけるものではないので、無い物ねだりだと思っていただけたらと思います。リゼッタを歌うヘレン・ドーナトといえば「マイスタージンガー」のエーファや、コリン・デイヴィスが指揮したモーツァルトの大ミサ曲K.427の名唱がすぐにも浮かぶけれど、スーブレットの本質を押さえたこのディスクの歌唱も素晴らしい。ソロが少ないのが本当に残念ですが、この二人のソプラノの真の聴きどころは第6曲の後のロジーナとリゼッタの長いレチタティーヴォ・セッコかも知れません。長いセッコは時間の無い時など私もつい飛ばしてしまうことがあるけれど、この真情に溢れた対話はぜひ飛ばさず聴いてほしいと思います。
伯爵のアーンシェ、マジーノのトリマルキは安心のクォリティ。ガンツァロッリは初期ヴェルディやフィガロのディスクが出ているようですが、あまり録音に恵まれない人みたいなので貴重。他の歌手も不満はありません。
ドラティの演奏も颯爽としているが、なんとなく聴き終わって物足りない思いがするのは、より円熟した作品を先に聴いてしまったが故に味わう贅沢な不満というべきでしょう。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2015-01-12 20:56 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)
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