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近藤譲ピアノ作品によるリサイタル The Shape Follows Its Shadow

ハロウィンもすっかり定着してきたみたいだし、いっそのこと「B層の日」とかなんとか祝日にしたらどうか?




カフェ・モンタージュで大井浩明の弾く近藤譲作品のリサイタルを聴きました。

 2014年11月3日@カフェ・モンタージュ

   クリック・クラック Click Crack (1973)
   視覚リズム法 Sight Rhythmics (1975)
   形は影にしたがう The shape follows its shadow (1975/2011)
   歩く Walk (1976)
   記憶術のタンゴ Tango Mnemonic (1984)

    (休憩)

   ピアノのための舞曲「ヨーロッパ人」 A Dance for Piano "Europeans" (1990)
   高窓 High window (1996)
   夏の小舞曲 Short Summer Dance (1998)
   リトルネッロ Ritornello (2005)
   長短賦 Trochaic Thought (2009)

近藤譲といえば、私が高校生の頃(70年代末~80年代前半)に友人から借りたLPで「ブルームフィールド氏の間化」など数曲を聴いたことがあり、興味を覚えたもののそれ以上深入りすることなく、その名前だけが記憶に残ったのでした。NHK-FMでたしか柴田南雄が司会をしていた番組で「風がでたとき」という作品を放送したのも、同じころだったと思います。これは耳に残るというか、ある種の懐かしさのようなものを感じさせる優れた作品だと思いましたが、もちろんその頃はまだ「海のモノとも山のモノとも」の時代で、その作品を体系的に聴くなど土台無理。それからウン十年、大阪のタワレコがまだアメ村の近くにあった頃、アヴァンギャルドからアンビエントまで、なかなかとんがったディスクばかり置いているコーナーがあって(現在の渋谷店を除くタワレコの情けない状況とは大違い)、そこであれこれ目についたものを買い込んだ中に「彼此(おちこち)」というアルバム(「風がでたとき」が収録されていた!)があり、けっこう夢中になって何度も聴いたのだが、結局その時も他の作品をあれこれ聴く機会を逸したまま(当時はこの世界ではそこそこメジャーになっておられた訳だが)、今日に至りました。
つい最近になって、その著書「線の音楽」の復刊に次いで、大井浩明が東京でピアノ作品全曲を弾くというとんでもないリサイタルをするなど、ごくごく狭いコミュニティの中の出来事ではあるが所謂プチブレイク状態になっているのは、私のような中途半端な中年世代には隔世の感があるのだが、それでも自分の若い頃の近藤譲体験を振り返ってみると、「ブルームフィールド氏・・・」の前衛の旗手としての顔と、「風がでたとき」の他に比べるもののない独特な世界の両方を期せずして聴いていたのは、今回のリサイタルまでの長い予習期間としては強ち無駄ではなかったのだと思いました。

個人的な思い出話はこれぐらいにしておきますが、今回のリサイタルで弾かれた10曲のうち、「彼此」系(勝手に名づけてますが・・・)は「歩く」のみ。滅法楽しく、聴くだけでなく弾いてみたいと思わせる作風ですが、この「面白うてやがてかなしき」独自の世界は決してソフトコアな現代音楽ではなく、その類例のなさと俗耳におもねらない妥協のなさは、ハードコアな現代音楽にひけを取らないものであると思います。その他はもっぱらアヴァンギャルドな系列の作品ですが、例えば「視覚リズム法」などはモノクロームなピアノではなく、元の室内楽版で聴けば、この二つの世界がより近く感じられるのではないかという予感がする。こういった作品は、私のばあい、何度も聴かないと腹に入らないので、今回のリサイタルをきっかけに、これから体系的に聴いてみようと思っているのだが、すくなくともこれまでぼんやりと認識してきた「彼此」系とアヴァンギャルド系の音楽というものが非常に隣接していて、極論すればどの作品も金太郎飴のような近藤譲的世界なのではないかという感想を得ました。さらに、後半で弾かれた「高窓」のゆっくりと鳴らされるきらめく不協和音、この美しさは今回新たに知ることになったこの作曲家の魅力であったと思います。ふとモートン・フェルドマンの作品を連想しましたが、もしかすると初期の「視覚リズム法」からして、そのリズムを何倍かに引き伸ばしたら、フェルドマンのたゆたうような、しかし実は極めて精緻にかかれたリズムに通じるのではないか、という気がしました。

前半と後半の演奏前に、近藤譲ご本人の短いトークがあって、大変興味深く、かつユーモラスなものでした。一晩寝たら大分忘れてしまいましたが(笑)、すこし備忘で書きとどめておきます。
・音楽とは心とか気持ちとか、なにかを表現するものだという人がいる。あるいは、音楽とは建築のような、音の構築物を示すものであるという人もいる。私(近藤)はそのどちらでもなくて、昔も今もずっと、ある独立した音の隣に別の音を置くと、もとの音の意味合いが変わる、それがおもしろくて作曲をやってきた。実はピアノ音楽というのは、一人の奏者がこうして置かれた音を一つながりに弾いてしまうので、どうして書いたらよいかよく分らなかった。私は作曲するときはピアノを用いているのだが、何人かのアンサンブルでやる曲をピアノでそのままやれば別の作品になると思うようになった。本来は数人で演奏する音楽を一人で弾くのだから当然難しい。
・リストやショパンの演奏はとても難しいといわれているが、あれはスケールでもアルペジオでも、身体の一連の動きの中に回収できるものである。しかし、私の音楽は一つの音の隣にある音は、もとの音とは独立したものであり、しかも私は一つの音を書くときはかならず「これはこの楽器の開放弦でこんなボウイングで」という具体的・身体的イメージを持っているから、それをピアノで弾くには単に音を鳴らすのではない、ピアニストの解釈、ある種の創作行為が伴う。ピアニストが楽譜の枠内に縛られていることと創作に加担すること、作曲者がいかようにも楽譜を書けるが演奏者の解釈を通さないと音楽として実現しないこと、この両者のアドバンテージとディスアドバンテージは裏腹の関係にある。
・東京で大井さんによる全ピアノ作品の演奏会を先日やったが、今回は時間の制約でこれだけの作品になった。先ほど高田さん(カフェの店主)から大井さんと私が相談して曲目を決めた、という話があったが、これはウソです(笑)。大井さんが「これでいきます」というから、もう仕方がない。しかしよく見ると、今日の選曲は比較的抒情的な作品というのはすべて省かれている。大井さんの資質にあった作品を選ばれている。

もうすこしあったような気もするが・・・。ご本人はいたって気さくなおじさん風。サラリーマンでいうなら、昔はやり手だったけれどいまはちょっと脂っ気が抜けて監査役しております、みたいな感じ。
大井浩明の演奏は、こういった演目だといつもながら上手いなぁと思います。ピアノのレゾナンスを完全な静寂に至るまで完全に聴くことを聴衆に強いる音楽ばかりですが、彼の情に流されない演奏の緊張感というのは大したものだと思いました。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2014-11-04 22:30 | 演奏会レビュー | Comments(0)
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