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シェーンベルク 歌劇「今日から明日へ」 ストローブ=ユイレ

テレビは土建屋よしゆきさん死去のニュースのあと、「不適切な発言」をお詫びしなくていいのだろうか。





このブログでDVDを紹介するのは初めて。今回はシェーンベルクのめったに上演されないオペラを、ストローブ=ユイレが映像化したもの。
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  シェーンベルク 「今日から明日へ」 Von heute auf morgen

    夫: リチャード・ソルター
    妻: クリスティーン・ウィトルジー
    子供: アナベル・ハーン
    女友達: クラウディア・バラインスキー
    歌手: リシャード・カルチコフスキ

    監督: ダニエル・ユイレ&ジャン=マリー・ストローブ
    指揮: ミヒャエル・ギーレン
    演奏: フランクフルト放送交響楽団
    ドイツ=フランス/1996年

  (併録)
  アーノルト・シェーンベルクの《映画の一場面のための伴奏音楽》入門
    監督・出演: ジャン=マリー・ストローブ
    出演: ギュンター・ペーター・シュトラシェク
       ダニエル・ユイレ
       ペーター・ネストラー
    指揮: エルネスト・ブール
    演奏: バーデン・バーデン南西ドイツ放送交響楽団
    ドイツ/1972年
    DVD: 紀伊國屋書店KKDS-227

ストローブ=ユイレ(ジャン=マリー・ストローブJean-Marie Straubとダニエル・ユイレDanièle Huilletの合作)による映像作品を初めて観ました。孤高の映像作家という評価、コアなファンの存在(叱られるかも知れないが「カルト」という言葉を思い起こさせる)、ゴダールやブレッソンとの対比、前衛的あるいは難解という世評、どれをとっても素人があれこれ論評めいた言説を述べるのを躊躇わせるには十分すぎるほどでしょう。だがこの「映画」と呼べるかどうかも微妙な、しかし映像における「作家」の存在を強烈に照射する二つの作品に触れて、何かを書かずにはいられない。たとえそれが幼稚な感想文レベルのものであっても。

このDVDを購入したきっかけは、amazonを散策していて珍しいオペラを見つけた、という理由以上のものはありません。どちらかと言えば私は初めて聴くオペラ、たとえばオペラの公演の予習をするといった場合、DVDではなくCDで聴きたいと思うタイプであって、実際の舞台に接する前に映像での刷り込みを避けたい、音楽だけを無心に聴きたいと思ってきました。にもかかわらずこのDVDを購入したのは単にCDがほとんど見当たらないからやむを得ず、といったところでした。実際、オペラのDVDといえば、単に舞台公演を録画したものか、あるいは例えばゼッフィレッリによる「オテロ」や「椿姫」のようなオペラを題材にした「映画」のいずれかということになるのでしょう。前者であれば、あくまでも主役は歌手であり、指揮者であって、クレジットロールに記された監督名やテクニカルスタッフの名前など大半の人は気にもしないでしょうし、後者の場合であればゼッフィレッリという監督名が前面に出てくることから判る通り、映画としての(あるいは映画的な意味での)「リアリティ」の追及が何より重視されていて、歌手はいわゆる口パク、極端な場合吹き替え(実際の歌手より美男美女が起用される等)も辞せず、ということになる。いずれにしても音楽を聴く、という立場からすればあまり食指が動かない、というのが正直なところです。
だが、この「今日から明日へ」では、カメラは人払いした放送局のスタジオでオーケストラがチューニングをしている光景から始まり、舞台の上の室内のセットを映し出す。オペラが始まると実際の歌手が歌いだし、計算され尽くしたアングルでカメラが彼らの表情を克明に追う。リアルというのでもない、演劇的というのとも違う、もちろんテレビや通常の映画とは全く異なる特異な演出。それに、冒頭の一編の詩のような映像、美しいモノクロの画面。先に挙げた二つのタイプの「オペラDVD」とは全く異なる種類の映像がそこにはありました。「映画」とは何か、という根源的な問いを投げかける、ストローブ=ユイレという映像作家の存在感の巨大さに圧倒される思いですが、私はこの特異としか言いようのない映像美に完全に魅せられたのでした。シェーンベルクの音楽も異形といえば異形ですが、ここでは音楽が主張するよりは映像にひれ伏しているようにも感じられます。ストローブ=ユイレは他にもシェーンベルクの「モーゼとアロン」を映像化しているそうだが、彼らの映像の強靭な美しさに堪えうる音楽が偶々シェーンベルクだったということだろうか。

私はさきほど「魅せられた」と書きましたが、どこにどう魅せられたかを言葉にするのは非常に難しく感じます。その困難さが、世評に聞くストローブ=ユイレの難解さに通じるのだろうか。映画に限らず、ある作品が難解と感じられるのは、そのテーマが形而上学的であるか、もしくは過度に詩的であるかのいずれかに思いますが、前者については他の作品を観ていないので何とも言いようがない。「映画とはなにか」という問題意識の峻烈さはありありと感じ取れるが、この映画に何らかの答えを見出すだけの理解力は私にはない。そもそも芸術における形而上学的主題を理解し、咀嚼する能力がどうも私には備わっていないようです。一方、詩的という側面についていえば、この映画の冒頭、「お前たちの微笑みはどこに葬られたのか?」という言葉とダビデの星のマークが落書きされた戸外の漆喰を塗った壁を延々と2分間もただひたすら見せるところがある。あかるい日差し、風にそよぐ樹々の葉、遠くに聞こえる街の物音。これはなんだろうか。メッセージなのか詩なのか。もしかしたら1968年の革命の季節から現代のパレスチナ問題にまで広がるコノテーションを読み取るべきなのかも知れませんが、私はただひたすら思考停止して画面を観ている。だがこの2分という時間の長さが大切なのだということだけは痛切さを伴って判るような気がする。

「特異な演出」と書いたけれども、もう少し具体的に記しておきましょう。まず登場人物の視線。基本的に子役を入れて5人の登場人物は視線を交わさない。いくら夫婦喧嘩のお話だといっても、客席のほうに向かって夫と妻が完全に横並びで対話するという不自然さ。この、オペラではしばしば見かけるスタイルが改めて不自然と感じられる事自体、凡百のオペラ映像とは次元を異にしている。たまに夫婦の視線が絡み合うこともあるが、粘りつく視線を剥がすようにまた離れてしまいます。オペラの終盤、女友達と歌手の男が登場してからはさらにこの不自然さが強調され、4人ともまったく視線を交わさない。しかも同じ室内での出来事なのに、夫婦と友人二人は決して同じ画面に登場しない。更には、妻が歌っているときに黙っている夫だけを写し、夫が歌うときには妻だけが写っている、あるいは二人が歌っているのに画面にはブラインドの掛かった窓と椅子だけが延々と写っている等々。そのくせ、夫婦の表情は、怒り、憎しみ、失望、懐疑、満足、放心、実にうるさいぐらい変化し、それをカメラがアップで克明に追うのも異常さを感じさせます。その一方で居間の調度品や衣装など、ごくありきたりの20世紀前半の中産階級の設えであって、何ら常軌を逸したものはない。本物の歌手がぶっつけ本番で録画と録音を同時にやっているので当然というか、ちょっと書くのを憚られるが誰一人美男美女がいない。よくて十人並み。映像自体はとんでもなく美しいにも関わらず、どう贔屓目に見ても、この特異なオペラを広く世の中に紹介したいといった善意を感じることが出来ない。繰り返すが、これはなんだろうか。さしあたってのありきたりな結論は、もっとストローブ=ユイレの映像作品を観てみたい、ということ。

シェーンベルクのオペラ自体は難解でもなんでもなくて、物語はむしろコメディと言ってもよいくらいの夫婦喧嘩と仲直りのお話(ちなみに台本はシェーンベルクの奥さんのゲルトルートが1929年にマックス・ブロンダというペンネームで書いたもの)。いや、もしかしたらもう少し含むところがあるのかも知れませんが今は深入りしません。またシェーンベルクの音楽そのものも、十二音技法云々に怖気づく人もいるかもしれませんが、その根底にムジツィーレンとしての愉楽が横たわっていることは以前このブログでOp.29の組曲を紹介した際にも書いた通りであると思います。特に終盤の見事な四重唱、歌手と女友達のパートはカノンで書かれていて、対位法の大家たるシェーンベルクの面目躍如といったところ。ですが、この映像を最初観て感じる「突き放されたような」「取りつく島の無い」感じにも関わることだが、シェーンベルクが「十二音技法でもコメディが書ける」と本当に思っていたのなら、すくなくともこの作品に限っては目論見は失敗していると言わざるを得ません。十二音技法が悪い訳では多分ないでしょう。あまりユーモアとかコメディと結び付けられることはないかも知れませんが、「ルル」の中で学生やロドリーゴの乱痴気騒ぎを書いたベルクなら、もっとそれらしい音楽を書いたに違いありません。だがここにはそのかわりに、シェーンベルクが想定していたかどうかは別として、本来共存することがありえない二つのもの(十二音技法とコメディ)を無理やり結びつけたことによる異化効果、それによってもたらされる聴き手の不安感や落ち着かなさが感じられて、おそらくシェーンベルクは難解であるという世評の原因にもなっているのだと思います。また、この時期のシェーンベルクの音楽には、知的かつフィジカルなムジツィーレンの面白さはあってもエロスに通ずる要素は乏しいような気がします。これが人によっては無味乾燥といった印象に繋がるのかも知れません。
演奏そのものについては大変レベルが高いもので、4人の歌手、ミヒャエル・ギーレンの指揮ともども完全に手の内に入った演奏を聞かせてくれます。精緻かつ自在。純粋に音楽を聴くという意味でも価値のあるものだと思います。

併録のショートフィルム「アーノルト・シェーンベルクの《映画の一場面のための伴奏音楽》入門」についてはもう少しストローブ=ユイレ体験を積むまで詳細なコメントは差し控えたいと思います。ほとんど動きの無い画面は「反・映画」と呼びたくなるほど。終盤、パリ・コミューンの犠牲者の遺体映像を見せられても正直なんのことやら途方に暮れてしまいます。シェーンベルクが架空の映画のために書いたこの音楽については、学生の頃にブーレーズのLPで聴いて以来で大変懐かしい思いをしましたが、この映画においてはあくまで映像が主であって、音楽を聴くという目的にはそぐわないと言わざるを得ません。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-08-07 00:24 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)
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