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コルンゴルト 「死の都」 ヴァイグレ指揮フランクフルト歌劇場o.(その1)

ゆとり世代
ジョン・ケージ作曲 「だいたい4分半」





来月に迫ったコルンゴルトのオペラ「死の都」公演に向けて予習中。まずは例によって音源の紹介から。

   コルンゴルト作曲 「死の都」
   パウル: クラウス・フロリアン・フォークト
   マリエッタ&マリーの亡霊: タチアナ・パヴロフスカヤ
   フランク: ミヒャエル・ナジ
   ブリギッタ: ヘドヴィク・ファスベンダー
   ユリエッテ: アンナ・ライベルク
   リュシエンヌ: ジェニー・カールステット
   ガストン: アラン・バーンズ
   ヴィクトリン: ジュリアン・プレガルディアン
   フリッツ: ミヒャエル・ナジ
   アルベール伯爵: ハンス=ユルゲン・ラザール
   セバスティアン・ヴァイグレ指揮フランクフルト歌劇場管弦楽団
   フランクフルト歌劇場合唱団(マティアス・ケーラー指揮)
   フランクフルト歌劇場少年合唱団(マイケル・クラーク指揮)
   2009年11月18,19,22日録音
   CD:OEHMS CLASSICS OC948


今年は「死の都」の当たり年で、新国立劇場とびわ湖ホールの公演が競合しています。特に新国立劇場の意気込みはものすごく、昨年の9月から10回に亘って中村伸子氏のコルンゴルトに関するエッセイをHPに連載しています。まったくこんなことされるとネタが無くなってしまって困ったもんです(笑)。

この前、BSをぼんやり観ていたら、ある紀行番組でベルギーの古都ブルージュを取り上げていました。内容としては田中美里という女優さんが屋台やレストランでワッフルやらムール貝のワイン蒸やら牛肉のビール煮込みやら鰻の香草煮を食って食って食いまくる(笑)というもので、それはそれで面白かったのですが、その分、中世の面影を色濃く残す街並みや、街中に張り巡らされた運河といった風景の紹介はちょっと食い足りない思いをしました(地上波の騒々しい旅番組よりは余程マシですが)。それにしても意外だったのは、青空の下の通りの賑わいや、船に乗って運河クルーズに嬌声をあげる観光客の映像が、G.ローデンバックの小説「死都ブリュージュ」(窪田般彌訳・岩波文庫)から受けるイメージとは程遠いものであることでした。
私はブルージュは行ったことがありませんが、かれこれ17年ほど前の寒い時期に仕事で行ったブリュッセルは、雲が低く垂れこめた季節のせいか、街中がうらぶれた感じで、どの建物も車の排気ガスで煤けたような色をしていました。小説「死都ブリュージュ」の真の主役は街そのものという感じがしますが、陰鬱でいかにも世紀末的なこの小説に出てくる街の描写は、BSで観たブルージュではなく私の記憶にあるブリュッセルの街並みこそが相応しく思われます。
それにしても、小説「死都ブリュージュ」と私の個人的なブリュッセルの記憶が照応するように、BSで観た明るく絵葉書みたいなブルージュの街並みとコルンゴルトのオペラの、マニエリスティックでどこか劇伴めいた音楽が不思議な照応を示すのが面白いと思いました。あるいはこうも言えます。小説「死都ブリュージュ」とオペラ「死の都」の指し示す世界は似て非なるものである、と。

最近随分人気の出てきたコルンゴルトですが、私はあまり今まで真面目に聞いたことがなくて、今回の予習で初めてじっくり聴き込みました。この二十歳そこそこの若書きのオペラでコルンゴルトという人を評価するのもなんですが、代表作と見做されているようなので敢えて大雑把な感想を述べると、大変な秀才だとは思うがR.シュトラウスと比べて、あるいはツェムリンスキーと比べてさえ、より精巧なんだが小ぶりな、まるでジオラマを見ているみたいな感じがつきまといます。少し言い過ぎかもしれませんが、一種の二流感は如何ともし難いと思います。こういった言い方はコルンゴルトが大好きという好事家諸氏の反感を買うだろうと思いますが、あまりにも露骨すぎるR.シュトラウスの影響(特に「影のない女」)とか、びっしりと書き込まれたスコアと、きらきらしたオーケストレーションのもたらすプチ・ゴージャス感あるいは箱庭的聴覚像については冷静に評価すべきだと思います。もっとも私の言う二流感というのは必ずしも作品の価値を否定する言葉ではなくて、しばしば一流に成り切れないものに対する私の已みがたい偏愛を含めた言葉だと理解していただければ有難いと思います。あるいは一流二流という見方でなく本流と支流という見方をするなら、1920年前後の独墺圏にあってR.シュトラウスやシェーンベルクといった(今現在から過去を振り返ってみて)間違いなく本流の人たちに対して、レハールやカールマン、あるいは映画の伴奏からキャバレーソングまで膨大な支流の存在があり、個々の作品はその全体の中に位置付けて把握し、理解すべきものだと思います。その中では、中間的存在であるツェムリンスキーがどちらかといえば本流に近く、コルンゴルトが支流に近いと評したとしても、私としては全くネガティブな評価という気はしません。

・・・とひとまず言い訳した上で、どうしてもその音楽から感じ取れる自己愛の強さみたいなものについて触れざるを得ません。うまく言語化しきれないのですが、自己愛を持たない作曲家などいない、ということではなくて、垂れ流される強烈な自己愛が論理に昇華していかないきらいがあると思われること。例えば私はメトネルを聴くといつもそういう思いをするのですが、このコルンゴルトの音楽にも似たにおいを感じます。それが私にとってアンビヴァレンツの源泉になっていると同時に、ある種の同じく自己愛の強い人達をファナティックな愛好家にさせる原動力(あるいは毒)となっていると思われます。じっさい、コルンゴルトに関するネット上の言説を漁っていて最も気になるというか、気色が悪いのはそのファナティックな人たちの存在。コルンゴルトその人には何の関係もないけれども、近年の目覚ましいリバイバルは彼ら抜きにはあり得ない。そのことが私を警戒させます。
コルンゴルトその人には何の関係もない話はやめておきましょう。ここで私が用いた「自己愛」という言葉を定義するのはとても難しいし、具体的に音楽のどこがどう自己愛の垂れ流しなのかを特定することも不可能です。そういうにおいがする、としか言えません。多少手掛かりになることと言えば、原作からオペラへの物語の改変の内容だろうか。原作からの改変の結果については、それが偽名による台本作家にしてコルンゴルトの実父の作であるということ、また原作とオペラはあくまでも別物ということをさておいても、マリエッタに対してパウルが都合のよい理屈を振り回したあげくに彼女を絞殺し、しかも目覚めたら夢でしたというのは、あまりにも酷いという気がします。いや、私はオペラの物語がどんなに不道徳でも構わないけれど、その音楽に感じられる自己愛とこの退行的(若い方ならさしずめ厨ニ病をこじらせた、とでも言うのだろう)な改変がリンクしているように思われてなりません。驚異的なソルフェージュ能力を持つ作曲家がR.シュトラウスをなぞりながらオペラを書くことはそれほど困難なことではなかったのかも知れませんが、幼くして神童としてデビューし、社会的ディシプリンを経ていない作曲者にとって、原作の持つ世紀末的憂鬱や男女の物狂おしさを描くことは意外に難しかったのかも知れません。そういったものを描くのに、社会化されない自己愛の他によりどころにするものがなかったからこそ、全編をR.シュトラウス風の音楽でべったりと塗りつぶしてしまったのではないか。音楽はとても美しいけれど、そこに必要不可欠なエロティシズムの力がどうしても不足しているように思えます(若書きだから、という訳ではないだろう)。
蛇足ながら、作曲者に原作へのシンパシーがまったく無かったとは言えないと思いますが、まるで「影のない女」みたいな音楽を書きたいから亡霊の場をむりやり挿入し、「ナクソスのアリアドネ」のコンメディア・デラルテ風の音楽を書きたいからバレエの一座とパトロンの伯爵の乱痴気騒ぎの場をでっちあげた(台本作家兼ステージパパである父との共犯によって)ように思えてきます。
こんなことを書くと、それこそお前は音楽ではなくて背後にある物語を聴いているのか、と非難されるかも知れません。ならば「その通り」と開き直るしかありません。現実にはすべての物語を排除して音楽の本質だけを聴くというのは不可能、乙武氏の表現を借りれば人はコンテクスト抜きでコンテンツを聴くことはできないのかも知れません。
少し先を急ぎすぎたようです。この自己愛というテーマは私の中で未だ言語化できていませんね。それでも片言でもいいからそのことに触れなければ、このマイナーブログで取り上げる意味がない。ひとまず稿を改めて、もう少し音楽そのものに沿って感じたこと、それとこのCDの演奏そのものについて次回書いてみたいと思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2014-02-22 20:00 | CD・DVD試聴記 | Comments(2)
Commented by schumania at 2014-02-24 22:23 x
はよ、続き書いてんか。。
でも、その前にドンカルロかな?
Commented by nekomatalistener at 2014-02-25 12:04
いきあたりばったりで書いてるので続きはしばしお待ちを。Schumaniaさんの気がかりはパウル役のフォークト評でしょうか。それでしたら少しだけ書いておきますが、イマイチでした(笑)。詳細は別途。
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