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ライマン 「リア王」 二期会公演

ガングリオンって擬態語?(なんかぐりぐりしてるし)





アリベルト・ライマンの「リア王」、その舞台を観て圧倒的な感銘を受けました。昨年の同じくライマンの「メデア」公演について、「これから先、オペラを観てこれほどまでに感動することが幾度あろうか」と絶賛したのですが、今回の公演もその時に勝るとも劣らないものでした。

   2013年11月10日 日生劇場
    リア王: 小森輝彦
    ゴネリル: 小山由美
    リーガン: 腰越満美
    コーディリア: 臼木あい
    フランス王: 小田川哲也
    オールバニ公: 宮本益光
    コーンウォル公: 高橋淳
    ケント伯: 大間知 覚
    グロスター伯: 峰茂樹
    エドマンド: 小原啓楼
    エドガー: 藤木大地
    道化: 三枝宏次
    合唱: 二期会合唱団
    管弦楽: 読売日本交響楽団
    指揮: 下野竜也
    演出: 栗山民也

タイトルロールの小森輝彦が圧倒的。私は事前にフィッシャー=ディースカウを聴いたりしたせいもあって、その呪縛に捕らわれて楽しめないのでは、という心配があったのだが、結果は想像をはるかに超えるものでした。第1幕の嵐の場の、王としての矜持と威厳に満ちた歌唱もさることながら、第2幕の狂気の場、人間としての弱さ、情けなさが痛切な痛みを伴って歌われるのが圧巻。頭には王冠の代わりに野辺の草花を飾り、チックの発作で首を不自然に曲げて脈絡のないうわごとを歌う場面はちょっと怖いぐらいでした。コーディリアの遺体をひきずって歌う幕切れ、この芝居の最大の悲劇は、リアが最後の最後に正気に戻ってしまうことだと言うが、正にその悲劇を実感させる歌唱であり演技であったと思います。
エドマンドの小原啓楼は以前「沈黙」のロドリゴ役を聴いて感心した歌手だが、今回も渾身の力を込めた素晴らしい歌でした。オペラに限りませんが、悪役が輝いてこその舞台というものがあるものです。シェイクスピアでいえば、たとえばリチャード三世とか「オセロ」のイアーゴがそうだが、小原のエドマンドは正に舞台上で悪の喜びと不安に輝いていました。
エドガーを歌った藤木大地も素晴らしい。グロスターとの断崖の場は、オペラ全体の中でも特に優れたページだと思いますが、実際の舞台に接すると体が震えるほどの感動を覚えます。グロスター役の峰茂樹も優れています。ケント伯の大間知覚は、聴き手を熱くさせる歌唱。その他オールバニ公爵の宮本益光、コーンウォル公爵の高橋淳等、脇役に至るまで全く隙のない布陣。ほんの少ししか出てこない脇役だが、第1幕序盤のフランス王の小田川哲也を聴いただけで、もうこれは大変な舞台になるぞと思いました。
女声陣ではリーガン役の腰越満美が頭一つ抜けている感じがしましたが、ゴネリルの小山由美も大したものです。コーディリアの臼木あいもリリックな役柄に沿った過不足のない歌だとは思いますが、ないものねだりを承知で言うと、もっと上を狙えるような気がしました。ほんの少し、コロラトゥーラが空回りして歌と役柄との間に隙間があるように思われます。あと、忘れてならないのが語り役の道化。今回はダンサーの三枝宏次が好演していました。
下野竜也指揮の読売日本交響楽団についても文句のつけようがありません。舞台前に弦楽器と二台のハープ、舞台の両袖に膨大な管と打楽器。耳を聾せんばかりの咆哮から楽団員の息遣いがきこえそうな静寂まで、まったく息もつかせぬ名演ではなかったでしょうか。下野の指揮はいつもの通り、なにも変わったことはせず、小手先に走る要素は皆無だが、音楽が大きくうねって聴衆に襲い掛かり、また包み込む。前回の投稿で1978年録音のバイエルン盤と2008年フランクフルト盤のレポートを書いたが、どちらかといえばバイエルン盤のように前衛的なテクスチュアを強調しながらも、響きの美しさをないがしろにしない今回の演奏を聴いていると、時間の経過が音楽としての円熟をもたらしたかのように聞こえます。これも以前書いたことだが、松村禎三の「沈黙」において、初演まもなく録音された若杉弘指揮のCDに聴く昂揚感と、下野竜也が指揮した2012年新国立劇場公演の、いかにもエスタブリッシュメントといった感のある実演との差異と同様のものが感じられました。
栗山民也の演出は、オーケストラに半ば埋め尽くされた制約の多い舞台を逆手にとって、シンプルで力強く、観るものの想像力を激しく刺激するものでした。大道具といえば不安定に傾いだ角形の舞台と、天井から舞台に向かって鉛筆のように先端が突き刺さった細い柱のみ。登場人物は舞台の周囲から、あるいは時に後方の壁が開いたところから現れる。小道具の類も最小限に抑えられているが、 まったく不足感はありません。照明の効果も的確で、二つの場面が同時進行するところも判りやすく描かれています。
それにしてもこのような優れた舞台を観ると、現代音楽だから、という理由で食わず嫌いな人が数多くいるのだろうということがとても残念に思われます。このライマンという作曲家、人口に膾炙しているとはとてもじゃないが言えない。だが、昨年の「メデア」も含めて、本当に人間の声に対する全幅の信頼を感じさせる点、稀有な作曲家だと思います。

まだまだ書ききれません。以下は蛇足みたいなものだが・・・。
私がシェイクスピアの全戯曲37編を小田島雄志訳で読んだのは結婚前の20台後半のころでしたが、実はその時、「リア王」に関しては全くピンときませんでした。リア王にしてもグロスター伯にしても、なんと愚かな、と思っただけで、それ以上の感想はそのころには持ちえなかったのでした。今回の公演を機に久しぶりに「リア王」を読み返したのですが、その間に私も長いサラリーマン生活を送ってきて、面従腹背やら阿諛追従やらを目にし、ケント伯じゃないが上に直言したことが怒りを買ったり、僻み嫉みの類で身に覚えのない誹謗を受けたりしてきました。自分を正当化するつもりはありません。自分を曲げてまで人に阿るような芸当こそ不得手な人間ですが、自分自身気づかぬうちに、いや、それとなく気づいていながら人を貶め傷つけてきたことも多分山のようにあるはず。親子の問題だってそうだ。恥を晒すようだが、実母が若くで死んだ後、父との関係がぎくしゃくして、今では絶縁に近いまま今日に至ります。そうして馬齢を重ねて「リア王」を読むというのは実に辛い体験でした。幸い、未だ嵐の夜に寝床もなくさまようことはせずに暮らしてはいますが、リアとグロスターの悲劇というのは荒唐無稽なお話とか、愚かで特殊な人間のお話でもなんでもなく、実に身につまされるものであったのだと実感しています。そして原作のリアの台詞、

  人間、生まれてくるとき泣くのはな、この
  阿呆どもの舞台に引き出されたのが悲しいからだ。(小田島雄志訳)

この台詞がようやくこの年になって実感を伴うものになったのだと、少なからず驚きに似た感慨を持ちました。それにしても、シェイクスピアの原作は最後にエドガー、ケント伯とオールバニ公の短い対話が置かれていて、悲劇的結末の中にも一抹の希望が見えるのだが、オペラのほうはリアの嘆きのあと、弦のフラジョレットによる静かな後奏が続いて一かけらの救いもなく幕が降ります。この違いは非常に大きく、重苦しい塊を飲み込んだまま劇場を後にするはめになってしまいます。
ライマンのリア王が、一つの作品として非常に優れていると思うことの一つは、シェイクスピアの原作をオペラという制約ゆえに相当切り詰めてはいるけれども、この重層的なストーリーに基づくダイナミズムを些かも失うことなく見事に二時間半ほどにまとめあげた点だろうと思います。リブレットだけ読むと若干原作とくらべて舌足らずなところがないとは言えませんが、そういった箇所では音楽が雄弁にことばを補い、ことなる場面が舞台で同時進行したり、オペラならではの重唱という手段を取ったりしながら、芝居とはまた違った充実した時間を作り上げています。しかも単に限られた時間内で物語が効率的に進むというだけではなくて、エドマンドの独白や、エドガーとグロスターの断崖の場、リアとコーディリアの再会など、ここぞというところでオーケストラが濃密な書法はそのままに息を潜めるようにたっぷりと時間を取って演奏し、歌手たちが言葉は少なくてもじっくりと心の内を歌い上げる、そのオペラ作品としての完成度の高さが凄いのだと思います。ヴェルディに限らず、19世紀のオペラ作家達が「リア王」のオペラ化を断念してきたのは、プリマドンナが3人必要、という興行上の難点もさることながら、リアと娘たち、グロスターと息子たちという2つのドラマがねじれ、からみあいながら進むのを、オペラ向きに簡略化するのがいかにも困難であったというのが最大の理由であったと想像できますが、クラウス・ヘンネベルクのリブレットはその点を見事にクリアしていると思います。
またライマンの音楽的書法そのものだが、昨年の「メデア」でも感じたことだが、オペラにおけるリアリズムとはなにか、という問題意識が非常に明確であるように思います。たとえば憎しみとか悲しみを表現するのに、時として生々しい叫びや語りを使うことはあっても、基本はコロラトゥーラといっても良いような技巧的な歌唱を用いています。ヘンデルのバロックオペラやロッシーニの古典派セリアの全てとは言わないが、その極度に装飾的・技巧的なアリアが時として聴くものの肺腑をえぐるような瞬間がありますが、ライマンの狙っているものは(どんなにうわべが前衛的に見えても)それほど遠いものではないように思います。喩えが適切かどうか判りませんが、歌舞伎や人形浄瑠璃のような日本の古典芸能でも、およそリアリズムと対極的な様式的な表現でありながら、人間の真実としか言いようのない何ものかを現前させる瞬間がありますよね。ライマンのオペラというのは、そんな連想をとめどなく呼び寄せるような魅力があるのだと思います。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2013-11-14 00:13 | 演奏会レビュー | Comments(2)
Commented by Eno at 2013-11-16 11:38 x
引用されているリア王の台詞は、私も大好きな台詞です。時々その台詞を心の中で呟きたくなります(笑い)
Commented by nekomatalistener at 2013-11-17 01:50
その気持ち、よく判ります。若い頃は、人間歳をとるともう少し賢くなると思ってましたが、そうではないことがようやく判りました。若いうちはリア王の面白さはわからないと思いますね。
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