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イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956(その8)

シューマンがショパンを評して、
「諸君、天才だ、脱帽したまえ。」
クラオタの毒舌な妹bot
「諸君、変態だ、通報したまえ。」




15回シリーズのつもりで始めたイーヴ・ナットのレポートですが、昨年10月に7回目で中断。ながらく放置してましたが再開します。昨年もそうでしたが、この季節になるとPTNAやアマコンに知人が出演したりするので、一気にピアノ熱が再発するのです。普段はピアノそのものをあまり聴かないし、単身赴任でクラヴィノーヴァさえない環境なんですが。
そんなことはともかく・・・。

  CD13
  シューマン
    蝶々Op.2 [1954.9.22録音]
    アラベスクOp.18 [1952年12月録音]
    子供の情景Op.15 [1952年12月録音]
    ウィーンの謝肉祭の道化Op.26 [1938.6.10.録音]
    「幻想小曲集」Op.12より 「夕べに」「飛翔」「なぜ」 [1937.3.12.録音]
    子供の情景Op.15 [1930.5.14.&10.17.録音]

シューマンについて何度も書いてきたことですが、形式に対する希求とその頸木を逃れようとするファンタジーとの相克というものを感じます。「蝶々」についても、全体が12の小曲に分かれているものの、一部分を取り出して演奏するのは全く意味をなさないという意味で、形式と内容との齟齬があります(同じ小曲集でも、例えばショパンの「前奏曲集」から任意の一曲を取り出して、あるいは数曲を選んで弾いても様になるのとは随分違う)。辛うじて第11曲のポロネーズがなんとか三部形式を保っているぐらいで、残りの大半は非常に断片的、三部形式(A-B-A)もしくはロンド(A-B-A-C-A)の体裁を取っているものもあるが、大半はA-B、あるいはA-B-Cという断片の継接ぎのようなもの。全体を通すと不思議な統一感があって、これをなんと評したものか。敢えて言うならバレエのディヴェルティスマンをピアノで聴いているみたいな感じもしますが、では1830年頃のバレエがどんなものだったかと言われるとなんとも言えません。同時代に同じような作品があったのかすら私は知りませんので、これがシューマンのオリジナルな形式、というより作品形態かどうかも判りません。なんとも謎に満ちた作品です。
それにしても、昔ケンプのレコードを聴いて「なんてつまらない曲」と思っていました。「謝肉祭」の為の習作、あるいは出来の悪いスケッチのようなものかも知れないなぁとも。しかしナットの演奏を聴いて、この考えは全面的に改めなければと思いました。本当に素晴らしい演奏ですが、、これは作品そのものが素晴らしいのか、演奏が素晴らしいのか、最早判然としないほど。いつもながらの骨の太い(過度に感傷的であったりデリケートすぎたりではない)演奏ですが、それでいて馥郁たる香りのする、いや、あまり印象批評みたいな書き方はしたくないが、古き良き時代のサロンで貴婦人達の笑いさざめく声を聞くような、そんな演奏。ここでのナットはテクニックもしっかりしているし、このシリーズの中では録音もなかなか良い(最後の属七の和音が一つずつ消えて行くところもきれいに聞こえる)。
同じような経験を実は「ダヴィッド同盟舞曲集」でもしたことがあって、最初に聴いたのが誰の演奏かも忘れましたが、つまらんとまでは思わずとも「なんと瑕の多い作品」と思っていた若き日の私の目を開いてくれたのはFMで聴いたポリーニの1984年の演奏でした。これは今手元にないので記憶が若干あやふやですが、HOSANNAというブートレグ・レーベルから出ていたCDと同一のものだと思います。これ聞いたらDGの正規盤があほらしくて聴けなくなるという恐ろしい代物。結局は、シューマンの真価と言うものは本当に優れた演奏によってしかもたらされない、という当たり前の結論になるのでしょう。ナットとポリーニを同列で論じるのもどうかと思うが、この「蝶々」は私にとっては作品の真価を知らしめた演奏ということになります。

「アラベスク」は小品ながら独立した作品番号が与えられています。技巧的には平易で長さも手頃、素人でも簡単に弾けてしまう分、プロの演奏でこれといったものも無ければ、リサイタルなんかで聴いてもたいていつまらない、といのは私の偏見だろうか。
ナットの演奏も特段どうこう言うほどではないが、主部のリタルダンドの表現にハッとするものがあります。こういうのをプロの仕事というのだろう。ただ、イ短調のMinoreⅡが速すぎて香りが飛んでしまっているように思われるのが惜しい。

「子供の情景」、シューマンの代表作のように言われていた時代もあるようだが、基本的にはアマチュアが自分で弾くための作品という気がします。逆にプロがリサイタルでこれを弾いて、聴衆を魅了することが出来れば、それは本当に凄いことだろうと思います。
ナットの1952年録音の演奏は悪くは無いですが、良くも悪くも常識的で、この作品のイメージを覆すことはありませんでした。なお、このCDには1930年録音の短縮版も入っています。こちらは繰り返しが殆ど無いもので、78回転のSPレコードしかない時代、片面に4分ほどしか入らず、しかも一枚が高価な時代にはそれなりに価値、というか需要があったのでしょうが、今となっては音楽に対してかなり乱暴なものに聞こえてしまいます。ただし若いナットの演奏はなかなかのもので、52年盤より優れています。スクラッチノイズの向うから切れ味のある知的な解釈を窺うことが出来ます。

「ウィーンの謝肉祭の道化」は本家「謝肉祭」ほど有名ではありませんが、その重要性という点では「謝肉祭」を上回るのではないか、と密かに思っています。シューマンの形式への希求が5楽章のソナタ風の器を得て、もっとも幸福な形で成就したように思われます。ある意味、3つあるピアノ・ソナタや3楽章の「幻想曲」Op.17よりもソナタらしく聞えるのが面白い。しかも本来ソナタ形式で書かれるべき第1楽章がロンドで書かれ、フィナーレが逆にロンドではなくてソナタ形式で書かれているのに、全体の中では収まるべきところに収まっていて、強固な形式感を感じさせるのも不思議といえば不思議。私にとっては「クライスレリアーナ」と「ダヴィット同盟舞曲集」に次いで大切な作品ということで、「フモレスケ」や「ノヴェレッテン」とならぶポジションを占めています。
この作品の録音では何と言ってもミケランジェリのDG盤が定番だと思いますが、このナットの演奏もとても優れています。「インテルメッツォ」の知と情のせめぎ合い、フィナーレ第2主題のやや遅めのテンポ設定と驚くべき沈潜ぶりが素晴らしい。

最後に、戦前の録音で「幻想小曲集」の最初の3曲が収められていますが、いかなる事情で録音が中断したのか判りません。聴いた印象としては昨年の8月にレポートを投稿した1955年録音のものとあまり変わりません。
これまでナットのシューマンのあれこれを聴いてきて、その出来の良し悪しにかなりムラのある印象を持ちます。いや、ベートーヴェンもそうなんだが、誰もが挙って弾く有名曲とそうでない曲とでは明らかに演奏の温度差がある感じがする(こういった印象論は、私自身の個々の作品への思いが反映されるので注意が必要なのは言うまでも無い)。ナットの人となりについては全く知識がないのですが、演奏を聴く限り相当気ままな感じがするのだが・・・。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2013-07-26 20:21 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)
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