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ヤナーチェク 「草かげの小径にて」他 アンドレア・ペスタロッツァ

部屋の照明の電球が切れて半日がかりで取り換え(電球を買いに行ったり付け換えたり以外に、やる気になるまで布団の中で気合いを入れる、とか雑誌読みながらやる気が起こるのをじっくり待つ時間を含む)。





まずは音源の紹介から。

  ヤナーチェク
    草かげの小径にて
    霧の中で
    ピアノ・ソナタ「1905年10月1日街頭にて」

    アンドレア・ペスタロッツァ(Pf)
    1990.5.録音
    CD:DYNAMIC DM8010

以前このブログで「利口な女狐の物語」を取り上げたヤナーチェク。不明にして彼のピアノ曲は初めて聞きました。もうかれこれ10回も通して聴いたはずだが、ものすごく面白くて何か言葉にして書きたくてたまらない気持ちと、どうにも咀嚼しきれず澱のように心に沈んでいくもやもやした気持ちの両方があって、後者についてはなんとか言語化してみようとしましたが結局今の時点で無理に言葉にするのは諦めました。もう少し私自身が若い頃には恐らくこの非ピアニスティックな、洗練とは程遠い音楽は受け付けなかったと思います。だがその不器用な(ダサい、といったほうが適切かも)楽譜面から溢れてくる音楽には、濃密な死の気配のようなものがあって、時としてとてつもなく悲劇的なものとなります。実に不思議な魅力が確かにあり、この歳(今年50になりましたw)になってようやくこれらの作品と向かい合うのも何かのめぐり合わせ、決して遅すぎる出会いではなかったろう、と思います。ちなみに1854生れのヤナーチェクのオペラ「イェヌーファ」が初演されたのは1904年、彼の代表作とされる作品の殆どがそれ以降、つまり50歳以降に作曲されており、典型的な晩成型の作曲家と言えるでしょう。

「草かげの小径にて」は1901年から1911年に掛けて断続的に作曲された、全部で15の小曲からなる作品。その第8曲から第10曲は21歳で夭折した娘オルガへの哀悼の音楽と言われています。そこにあるのは不規則な拍節の構造(例えば第1曲の5拍+6拍からなる旋律はムソルグスキーの「展覧会の絵」のプロムナードと同様の構造だ)、ヤナーチェクのトレードマークのような「8分の1拍子」や「4分の1拍子」といった不思議な拍子の頻出(第6・10・11曲)、調性が曖昧になりだした頃のスクリャービンを野暮ったくしたような書法(第8曲)、まるでシューマンのようにロマンティックな曲想が出てくると思えば(第13曲目)、およそピアノ音楽に似つかわしくない身振りのおおきな旋律と洗練さの欠片もないトレモロ(第15曲、本CDでは第14曲と曲順を入れ替えて演奏している)等々、本質的にオペラ作曲家であったムソルグスキーの「展覧会の絵」がまるでオーケストラのスケッチのように思えるのとよく似て、ピアノ曲としての評価にとても困るところがある。一曲一曲の面白さについて語りだせばきりがない一方で、何を語っても音楽の本質とは無関係な言説を弄ぶだけに終りそうな気もする。ヤナーチェクの音楽とディレッタンティズムほど相容れないものはないとでも言おうか。だが、第7曲目「おやすみ」の、聴くたびに孤独のなかで神の恩寵の光をあびるような気がすることだけはどうしても書いておきたい。楽曲を分析しようにも、ピアノ弾きなら間違いなく初見で弾ける様な単純な、しかし音楽的に弾くにはこれ以上難しいものもあるまい、と思わせるような書法(譜例)。あえて近いものといえば、ドビュッシーの「雪の上の足跡」くらいなものだと思うが、ここから立ち上る感動は一体何なのか。こういう作品を聴くと、音楽の分析とか言語化の努力といったものの無力さを思わざるを得ない。この曲集全体について、どうしても好きと言い切れない「判らなさ」が伴うのだが、この「おやすみ」だけは別格でした。
ヤナーチェク 「草かげの小径にて」他 アンドレア・ペスタロッツァ_a0240098_3401355.png

「霧」も「1.X.1905」も、技巧的には容易くは無いがおよそピアニスティックな書法とは隔絶している。いや、指回りのレベルのメカニックという点でロマン派のそれと程遠いというのは確かだが、エクリチュールとしては結構面白い点もあって、例えば「霧」の出だしは調性が曖昧ながらもフラット5つ(変二長調)の記譜で実質は変二短調で書かれていたりする(普通なら嬰ハ短調で書くところ)。アカデミズムの欠片も感じさせない一方で、単に稚拙と言いきれない不思議な記譜法。それはともかく、「霧」も「1.X.1905」も、どちらもヤナーチェクのピアノ曲の代表作と云えるのだろうが、この悲劇的な、あるいは演劇的といってもよい音楽を心から楽しみ、その面白さを言語化してここに書き連ねようという気分にはどうしてもなれない。気になって仕方がないがその狷介な性格ゆえになかなか友達になれない人を見ているような気分だ。それと、正直なところ、オペラでなら許せるがピアノでやられると辟易するような泥臭さに身を委ねきれない、という気持ちも僅かながらある。まぁいい。このままCDを仕舞い込んで、また何年かして気が向いたら取り出して聴くことにしよう。

ピアノを弾いているアンドレア・ペスタロッツァについては何の予備知識もなく聴きましたが、その深い打鍵から生み出される美しい音色は、若き日のアシュケナージが弾いたスクリャービンの初期ソナタ(第4番以前の)を思わせる秀逸な演奏(ついでながらアシュケナージは出来不出来の激しい人だがこれだけは文句なしに優れている)。特にリズムの処理が巧く、「草かげの小径」の単純な楽譜からよくもこれほどの深い音楽を引き出してくるものだと感心します。しかもそれはノーテーションに対して決して恣意的という訳ではない。録音も瑞々しく濡れたような音がしていて大変魅力的でした。ただ、「小径」と「1.X.1905」の演奏は、IMSLPからダウンロードした出版譜を見ながら聴いていると細かい異同がたくさんあります。版の問題については全く情報がありませんでしたのでこれ以上のことは書けませんが・・・。
by nekomatalistener | 2012-12-09 12:40 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)
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