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ストラヴィンスキー自作自演集WORKS OF STRAVINSKY (その21)

8月31日のサントリーホールにおけるクセナキス「オレステイア」公演、仕事で行けなかったのだが悔いが残る。様々なブログでの絶賛の嵐を見ると、なんとしてでも行くべきだった・・・



CD21枚目は”Sacred Works Vol.2”。

 ①カンティクム・サクルム-聖マルコをたたえて(1955/1956初演) [1957.6.19録音]
 ②イントロイトゥス(T.S.エリオット追悼)(1965/1965初演) [1966.2.9録音]
 ③説教、説話と祈り(1960~61/1962初演) [1962.4.29.録音]
 ④アンセム「鳩は空気を引き裂いて降りる」(1962/1962初演) [1962.4.29.録音]
 ⑤トレニ(預言者エレミアの哀歌)(1957~58/1958初演) [1959.1.5&6.録音]

 
 ①リチャード・ロビンソン(T)、ハワード・チジャン(Br)、ロサンゼルス祝祭合唱団・交響楽団
 ②グレッグ・スミス・シンガーズ、コロンビア室内Ens.
 ③シャーリー・ヴァーレット(Ms)、ローレン・ドリスコル(T)、ジョン・ホートン(語り)
  CBC交響楽団(合唱はクレジットがないが録音日より④と同じと思われる)
 ④トロント祝祭合唱団(合唱指揮:エルマー・アイスラー)
 ⑤ベサニー・ビアズレー(Sp)、ベアトリス・クレブス(A)、ウィリアム・ルイス(T)、ジェームス・ウェイナー(T)
  マック・モーガン(Br)、ロバート・オリヴァー(Bs)、ザ・スコラ・カントールム(合唱指揮:ヒュー・ロス)
  コロンビア交響楽団

ストラヴィンスキーの最晩年、十二音技法を取り入れてからは正に「傑作の森」と言ってよいと思いますが、正直なところごく一般的なリスナー(いわゆるクラシック音楽の愛好家)からすればこれほど敷居の高い作品群もないような気もします。このあたりになると日本語版のwikipediaには殆ど情報がないようですので、少しだけ作品の背景なども書いておきます。
ヴェネツィア現代音楽ビエンナーレの委嘱により1955年に書かれた「カンティクム・サクルム」は、サン・マルコ聖堂の5つのドームに倣ってdedicatioと名づけられたヴェネツィア讃歌に続く5つの楽章から成っています。テキストはウルガタ聖書によるラテン語。歌詞はマルコによる福音書、申命記、旧約雅歌、詩篇、ヨハネによる福音書の継ぎはぎですが、冒頭のDedicatioのみ出典が判りませんでした。
テノール、バリトン、混声合唱、オルガンを含むオーケストラ。オケはかなり大規模なものですが、弦はヴァイオリンとチェロが無く、コントラバスとヴィオラのみの編成。多彩な管楽器もクラリネットとホルンを欠いており、フルートは第2楽章のみ。詩篇交響曲も良く似た編成でしたが、官能的な音響というものを注意深く排除した結果でしょう。また、トゥッティは第1楽章と第5楽章のみで、その他はごく僅かの楽器による室内楽的な書法。
序章Dedicatio”Urbi Venetiae”「ヴェネツィアの街に向かいて、その守護者、使徒なる聖マルコを讃へよ」。テノールとバリトンのソロ、3本のトロンボーンによる短い序章。ここはへ長調とも教会旋法ともとれる部分ですが、終わりはGとDの完全5度で終止します。
第1楽章Euntes in mundum「全世界を巡りて凡ての造られしものに福音を宣傅(のべつた)へよ(マルコ16:15)」。十二音技法採用前のストラヴィンスキーの書法による壮麗な合唱。途中2度、オルガンによるリトルネロが挿入されます。
第2楽章Surge,aquilo「北風よ起れ 南風よ來れ 我園を吹てその香氣を揚(あげ)よ ねがはくはわが愛する者のおのが園にいりきたりてその佳き果を食(くら)はんことを(雅歌4:16)。わが妹わが花嫁よ 我はわが園に入り わが沒藥と薫物(かをりもの)とを採り わが蜜房と蜜とを食ひ わが酒とわが乳とを飮(のめ)り わが伴侶等(ともだち)よ 請ふ食へ わが愛する人々よ 請ふ飮あけよ(雅歌5:1)」。ここから完全に十二音技法によって書かれています。テノール・ソロとフルート、コールアングレ、ハープ、3台のコントラバス・ソロという室内楽の繊細な響きが実に美しい。
第3楽章Ad Tres Virtutes Hortationes「汝心を盡し精神を盡し力を盡して汝の神ヱホバを愛すべし(申命記6:5)。愛する者よ、われら互いに相愛すべし。愛は神より出づ、おほよそ愛ある者は、神より生れ神を知るなり(ヨハネの第一の書4:7)。ヱホバに依頼むものはシオンの山のうごかさるることなくして永遠(とこしへ)にあるがごとし(詩篇125:1)。我ヱホバを俟(まち)望む わが霊魂はまちのぞむ われはその聖言によりて望をいだく(詩篇130:5)。わがたましひは衛士があしたを待にまさり 誠にゑじが旦(あした)をまつにまさりて主をまてり(詩篇130:6)。われ大になやめりといひつつもなほ信じたり(詩篇116:10)」。テノールとバリトンのソロ、合唱。ここでもオーケストラの各楽器は一斉に鳴らされることはなく、極めて禁欲的な使われ方をしています。合唱の入りは精緻極まりないカノンで書かれており、ちょっとだけ簡略化した譜例を掲げておきますが、テノールが基本音列によってDiliges Dominum Deumと歌い出すと、トランペットが半音下で倍の音価でこれを追い掛け、次いでアルトが半音上の反行形、ソプラノが完全2度上の基本形でカノンを形成しているのがお判りだろうと思います。
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この精緻極まりないカノン、スコア分析の面白さもさることながら、耳で聴いても息を飲むような精妙な響き、美しい対位法の綾を感じることが出来ます。ここにはストラヴィンスキーのバッハ研究の最良の成果が表れていると思います。
第4楽章Brevis Motus Cantilenae「イエス言ひたまふ「為し得ばと言ふか、信ずる者には、凡ての事なし得らえるるなり」その子の父ただちに叫びて言ふ「われ信ず、信仰なき我を助け給へ」(マルコ9:23-24)。第2楽章と対をなすバリトンと合唱の室内楽。オーケストラはほぼフルで使われていますが、トゥッティはなく、ごく節約された書法。ここでも途中合唱によるフーガが出てきます。
第5楽章Illi autem profecti「弟子たり出でて、あまねく福音を宣傅へ、主も亦ともに働き、伴ふところの徴をもて、御言(みことば)を確(かた)うし給へり(マルコ16:20)」。第1楽章の再現で、この壮大な作品はシンメトリカルに終止します。
オーケストラ、合唱団とも音楽祭の為の寄せ集めだと思いますが素晴らしい演奏です。指揮も、このあたりになると付き人のロバート・クラフトの助けがあってのことだろうと思うけれど実に精緻。何度でも言う、ストラヴィンスキーの指揮を「ヘタウマ」なんぞという輩ども、でてきて頭を丸めなさい。
宗教曲、特にラテン語のそれの歌詞など気になさらない方も多いかと思いますが、私は音楽における言葉の重要性というものを堅く信じていますので、ついこんな作品でも何が歌われているのか知りたくなるのです。CDには対訳がついておらず、海外のサイトも調べましたが適当なものが見つかりません。結局自分で引用データから歌詞を再構成してみました。自分自身の備忘の為ということもあって随分長々と書いてしまいました。

T.S.エリオットの追悼に書かれた「イントロイトゥス」は、男声合唱と、ハープ、ピアノ、タムタム、ティンパニ、ヴィオラとコントラバスのソロの為に書かれています。歌詞はラテン語によるレクイエムの「入祭唱Introitus」ですので、これは解説する必要はないでしょう。ピアノとハープは幾つかの和音を鳴らすだけ。これまた禁欲的な、というよりこの上なく厳しい響きの作品。合唱はところどころソット・ヴォーチェのパルランドで囁くように歌う。エリオットへの個人的な追悼の想いがこのような作品を書かせたのでしょうが、ほとんど聴く者を拒絶するような峻嶮さには言葉もありません。ストラヴィンスキーのミザントロープここに極まれり、といったところ。

パウル・ザッヒャーの指揮、バーゼル室内管弦楽団によって1962年2月23日に初演された「説教、説話、祈り」については、数あるストラヴィンスキーの作品の中でも最も情報に乏しいものではないでしょうか。海外のものも含めて歌詞の出典の載っているサイトはほぼ皆無といった状況。全編十二音技法で、蚕が繭を作るように精緻に織りあげられた作品。アルトとテノール二人のソリストと語り手、合唱とオーケストラのために書かれていますが、オーケストラはほぼ2管編成で弦は8・7・6・5・4の5部。但し、トゥッティで奏される部分は殆どなく、全編ウェーベルン風の点描手法で書かれています。合唱は4部のそれぞれが所々ニ分されて複雑極まりない対位法をなし、その演奏は極度に困難なものと思われます。語り手は比較的自由に喋る部分と、シュプレッヒシュティンメでリズムを厳格に指定している部分の両方があり、語りから歌へと自在に繋がっていくように書かれています。この音楽の複雑さ、演奏の至難さというのはちょうどウェーベルンの作品10番台後半の室内楽附きの歌曲から作品20の弦楽三重奏曲に至る複雑さに近いものがあると思います。
第1楽章「説教」の歌詞は次の通り。
 We are saved by hope,
 But hope that is seen is not hope.
 For what a man sees why does he yet hope for?
 The substance of things hoped for is faith.
 The evidence of things not seen is faith.
 And our lord is a consuming fire.
 If we hope for what we see not,
 Then do we with patience wait for it.
いろいろ調べてようやく、これは「ローマ人への手紙」8:24-25、「ヘブライ人への手紙」11:1、12:29を継ぎ接ぎしたものということが判りました。
第2楽章「説話」、語り手と歌手に受け渡されながら語られる歌詞は「使徒行伝」の第6章から第7章、聖ステパノの殉教のくだりを自由に編集したものらしい。
第3楽章「祈り」は1960年に没したジェームス・マクレーン師(この人については情報が殆どありませんが、デンヴァーのThe Church of the Ascensionの司祭をしていた人物にその名がありました)に捧げられていますが、タムタムが鳴り渡る中のアレルヤの祈りは、死の気配に満ちているようにも思われます。容易なことでは近付きがたい、まことに狷介な音楽。聴くほどに魅力の増す音楽ではあるが、これは人気がないのも致し方ないという気がします。歌詞はトマス・デッカー(1570?-1632)の詩から採られているが、Project Gutenbergで検索しても原詩は見つかりませんでした。先程も書いた通り、この作品には極めて情報が乏しいのでこの第3楽章の歌詞も挙げておきたい。
 Oh my god, if it bee Thy Pleasure to cut me off before night.
 Yet make me, my Gratious Sheepherd, for one of Thy Lambs
 To whom Thou wilt say, "Come You Blessed"
 And cloth me in a white robe of righteousness
 that I may be one of those singers who shall cry to Thee Alleluia
演奏については何と言っても二人のソリストが素晴らしいと思う。オーケストラ、合唱ともその演奏の至難さを思えばよくぞここまで、というくらいの健闘。

無伴奏4部合唱の為の「アンセム」は、ケンブリッジ大学が1960年に「あたらしい英語の聖歌集」を作ろうと何人かの作曲家に委嘱したものの一つ。十二音技法による大変美しい作品で、その密やかなアカペラの響きは、当然のごとくウェーベルンの「軽やかな小舟にて逃れよ」Op.2を連想させます。音列に現われる短3度の音程を活かして、最後はあたかもヘ短調に終止するように聞こえるのも、ウェーベルンのOp.2がふわふわと無調の響きをさまよった末にト長調に終止するのと似ています。トロント祝祭合唱団は多分臨時編成の寄せ集めだとは思うが大変けっこうな演奏。こういった現代作品に関しては北欧を中心にもっと精緻な演奏を聴かせる合唱団もあるだろうが、私には十分に美しい演奏だと感じられました。T.S.エリオットのテキストは著作権の関係がどうなっているのかよく分からないので載せません。ただし、この「リトル・ギディング」の中の詩「鳩は空気を引き裂いて降りる」は、原詩・翻訳ともネットで容易に見つかると思います。

6人のソリストと合唱、オーケストラのための「トレニ」は「カンティクム・サクルム」同様ヴェネツィア現代音楽ビエンナーレの為に書かれ、1958年9月作曲者の指揮により初演されました。ちなみに数ヶ月後のパリ初演はピエール・ブーレーズが指揮をしたのですが、この時は適当な奏者が得られず途中で何度も止まるなど惨憺たる出来だったそうで、ストラヴィンスキーはずっと恨みに思っていたとのこと。
歌詞は冒頭の"Incipit lamentatio Jeremiae Prophetae" (ここに預言者エレミアの哀歌始まる)以外はすべて旧約聖書の「哀歌」から抜粋されていますので、大意はそちらをご覧いただきたいのですが、ストラヴィンスキーはこの「哀歌」から第1章、第3章、第5章の一部だけを取り出して曲を付けています。例えば第1曲では第1章第1節「ああ哀しいかな古昔(むかし)は人のみちみちたりし此都邑(みやこ) いまは凄(さび)しき樣にて坐し 寡婦(やもめ)のごとくになれり 嗟(ああ)もろもろの民の中にて大いなりし者 もろもろの州(くに)の中に女王たりし者 いまはかへつて貢をいるる者となりぬ」、第2節「彼よもすがら痛く泣きかなしみて涙面(かほ)にながる」、第5節「その仇(あだ)は首(かしら)となり その敵は享(さか)ゆ その愆(とが)の多きによりてヱホバこれをなやませたまへるなり」、第11節「ヱホバよ見そなはし我のいやしめらるるを顧りみたまへ」、第20節「ヱホバよかへりみたまへ 我はなやみてをり わが膓(はらわた)わきかへり わが心わが衷(うち)に顛倒す 我甚しく悖(もと)りたればなり 外には劍ありてわが子を殺し 内には死のごとき者あり」を繋げてテキストとしているといった具合。オーケストラはほぼ3管編成の大規模なもので、中にはサリュソフォーンやB管のフリューゲルホルンといった(吹奏楽ではともかく)クラシックでは珍しい楽器も含まれています。特に第1楽章でのテノールのソロとフリューゲルホルンとの掛け合いはとても美しく、この楽器特有の白痴美とでも言いたいような甘く滑らかな音色によって目が眩むような官能的な響きが聞かれ、テキストとのある種の衝突、異化効果をもたらしています。晩年の多くの作品同様、オーケストラは極めて禁欲的な使われ方をしていて、特に第2楽章の前半、テノールとバスのソロが歌う部分は、かなり長大であるにも関わらずオーケストラは殆ど沈黙しています。Andrew Kunsterの”Stravinsky's Topology”には「トレニ」の音列技法に関する浩瀚な分析が載っており、私も全て読んだわけではありませんがこれは1958年までの作曲者のメチエの集大成である、という感じがします。音列技法はともかく、ここに見られる多彩なポリフォニーの技法も詳細に分析すればさぞ面白いだろうと思いますが、特に第2楽章冒頭、テノール・ソロのモノディから始まって、バスとのカノン、次いでバスが一人増えて3声のカノン、4人のソリストによる二重カノン、と(カンティクム・サクルム同様)バッハの晩年の作品を思わせる複雑な書法が続く部分は素晴らしいと思います。いずれにせよこの長大な作品はちょっとやそっと聴いたぐらいでは「判った」という気にならないのですが、手元にクラヴィノーヴァさえない現状ではこれ以上の分析はちょっと困難。
演奏については、録音時の1959年当時としてはこれ以上のものを望むのは不可能だろう、というぐらいの出来栄え。ブーレーズがこの作品を(多分)録音していないのはパリ初演の時のトラウマだろうか?
by nekomatalistener | 2012-09-11 00:07 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)
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