前回クンタ・キンテのことを書いて、ふと(関係ないけど)ハクナマタタってどういう意味?と思って調べたらスワヒリ語で「くよくよするな、なんとかなるさ」だって。へ~。
新国立劇場で「ローエングリン」を観てきました。 2012年6月13日 ハインリッヒ国王: ギュンター・グロイスベック(Bs) ローエングリン: クラウス・フロリアン・フォークト(T) エルザ: リカルダ・メルベート(Sp) テルラムント伯フリードリッヒ: ゲルト・グロホフスキー(Br) オルトルート: スサネ・レースマーク(Ms) 伝令: 萩原潤(Br) 指揮: ペーター・シュナイダー 演出: マティアス・フォン・シュテークマン 美術・光メディア彫塑・衣裳: ロザリエ 合唱指揮: 三澤洋史 合唱: 新国立劇場合唱団 管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団 今シーズンの掉尾を飾る本公演、尋常じゃないクォリティながら私にはどうにも燃えない(萌えない)舞台でした。 今回の公演で恐らく最も世評の高いのはローエングリンを演じたフォークトであろうと思います。まず驚くのはその超が附くほど合理的な発声法。些かも力まずに声が客席までびんびん届く。ソットヴォーチェで歌っていても同様。その声の届き具合というのは他の出演者とはもう段違いなのである。第3幕のグラール語りの部分など、ビロードの手触りみたいな、息を呑むようなピアニッシモが出てくる。見事である。この一年程の間に、新国立劇場でまさに旬の歌手を聴いてきた。例えば昨年6月の「蝶々夫人」におけるオルガ・グリャコヴァ、今年4月の「ドン・ジョヴァンニ」におけるマリウシュ・クヴィエチェン。フォークトも多分今が旬の真っ最中、この時期に彼のローエングリンを聴けたというのは大変な幸運であろうと思う。 しかし・・・しかし、なのである。 私は彼の声質がどうしても好きになれない。この声がヘルデン・テノール?ちょっと待てよ、と言いたくなる。フォークトの声というのはちょっと特殊というか、カウンターテナーの逆みたいに女性が男声を歌うような感じの声。これはメゾソプラノ歌手がケルビーノやオクタヴィアンみたいなズボン役を歌うというのとは全く違って、女性が特殊な発声でテノールを歌っているみたいに聞こえるということ。ユニセックスな声というのか、アンドロジナスな声というのか、妖しいというのとも違う。もちろん少年みたいというのとも少し違う。なんだかそもそも性というものが存在しないような声。こういった声を愛して已まない人達が大勢いるのは判るのだが、私は(喩えは悪いが)美青年なのに脱いだら体毛が全く生えていなくて気持ち悪い、みたいな感じを受ける。ある意味、童貞の騎士ローエングリンにはうってつけなのかも知れない。パルジファルなんかも向いているのだろうと思う。でも私は嫌いだな。これはもう趣味の問題だから仕方が無いが、少なくともこの声でトリスタンやジークフリートは勘弁してほしい、と思う。美青年でも別によろしいかとは思いますが、脱いだらがっつり胸毛生えてるのが本来のヘルデン・テノールだと思うので・・・(笑)。古くて恐縮だが、往年のヴィントガッセンみたいな感じ。いやいや、好き嫌いを別にすれば凄い歌手だとは思う。カーテンコールの熱狂的な拍手も当然だと思う。昨日新国立にいた人の大多数はフォークトの声に興奮していたはずだ。ああ、でも。こんな時に自分のマイノリティぶりを痛感させられずともよいのに、と少し恨みがましい気分になりました。 今回舞台で観て、改めてこのオペラ、登場人物でまともな論理的思考が出来てるのはフリードリッヒだけだと思いました。だってそれ以外は訳判らん童貞騎士と、それに付和雷同する王と兵士、そして言いつけを守れないバカ女と、こちらも我慢しきれず呪いの満願成就を逃した間抜けな魔女だけですもんね。そのフリードリッヒを歌うグロホフスキー、第1幕では声量が足りずに小役人が王に讒言しているみたいに聞こえるが、第2幕のオルトルートとの対話、婚礼の行進を遮っての王への訴えの場面、エルザにローエングリンの体の一部を切り取るよう頼む場面(ここはワーグナーの音楽による心理表現もつくづく素晴らしいと思うが、それを音として表現するグロホフスキーの力量もなかなかのもの)と、ぐんぐん良くなっていきました。オルトルート役のレースマークは高音があまり伸びず、少ししんどそうと思いましたが、それでも第2幕は聞き応えのある歌唱。国王のグロイスベックも特に不満はなし。伝令の萩原潤は、今年1月の「ボエーム」のショナールは少し不満が残ったが、今回は声がよく届いてよかったと思います。 エルザ役のメルベートは、特に第1幕、ビブラートが大きすぎてあまり好きになれない声だと思いましたが、第2幕第3幕は(こちらの耳が慣れたせいもあるかと思うが)なかなか良い歌手だと思うようになりました。 三澤洋史率いる合唱団の素晴らしさはいつもどおりだが、「オランダ人」の時とくらべると場面によって若干出来不出来のむらがあったように思う。男声8部とかパートが細分化されるとすこし輝きが褪せる感じ。 フォン・シュテークマンの演出、というよりロザリエの美術といったほうが良いのかも知れませんが、前回のオランダ人の時よりさらに抽象化が進んだ感じ。背景のスクリーンの他には殆ど大道具がなくて、第1幕は1.5m角くらいのポリスチレンの板みたいなやつ(納豆パックのフタみたいな形ww)を積み重ねた上に王が乗って歌う。これが見た目がなんとも不安定(笑点のざぶとんみたく)なんだがそれも狙いの内だろう。またローエングリンとフリードリッヒの決闘もこの板の上で行なわれる。白鳥の場面は天井から羽に包まれたローエングリンが降りてくる仕掛け。失笑とまではいかないにしろ、正直なところ、第1幕だけ観るとげんなりしていたのだが、第2幕、殆ど何もない舞台にあかるく側面が光る足場板がすっと横に伸びてエルザがその上で歌う。この抽象化されたバルコニーの美しいこと。また、第2幕後半、婚礼の行進の場の美しさは特筆もの。最後、真っ赤なバージンロードを、婚礼衣装(これも高度に抽象化されたデザインで素晴らしい)を着けて歩みかけたエルザが気を失って倒れるのが何とも痛々しい。第3幕前半、舞台には初夜を表すかのように真っ白な巨大な花に、血のような花弁状(もしくはレバ刺し状)のものが一枚張り付いていてどきっとする。後半はこれまた何もない舞台に兵士たちが下からせりあがってくる。ローエングリンを迎えにくるはずの白鳥は現れず、少年ゴットフリートはセリに乗って舞台に現れる。最後なんともやりきれないというか、ちょっと理解に苦しむのは、一同の喜びの内に現れるはずのゴットフリートをエルザが邪険に突き放し、王を始め群集も誰も少年に見向きもせずに舞台から去ってしまう結末。哀れなゴットフリート少年は一人舞台で三角座りして幕。あまりにも救いがない結末で暗澹たる気分になってしまう。 主役たちや兵士たちの動きはどちらかといえば様式化されたもので、これはこれで納得のいくものでした。全体にシュテークマンの演出は何もしなさ過ぎという評価があるようだが、演出家が過剰にメッセージを発するよりは観客に謎を与えて考えてもらうといったやり方は私は悪くないと思う。だいたいワーグナーの長大なオペラで歌手の一挙手一投足まで過剰な演出を求めるのは歌手に酷なだけでなく、己(観客)の精神的怠惰以外の何物でもないと思う。でも、なんでも絵解きしてくれないと不満な人達は多いみたいですね。困った人達。 ペーター・シュナイダーの指揮はやや重たいリズムで、それが狙いだとは分かっていてもテンポの速いところは聴いていて心弾まないこと甚だしい。もともとゆっくりとしたところ、例えば第2幕の聖堂に向かうエルザの行進などは合唱の素晴らしさもあって感動的だったが、お目当ての第3幕前奏曲や、私の大好きな第3幕第3場の導入のファンファーレには不完全燃焼のもどかしさを憶えた。オケはこれだけの長丁場、大健闘といってよいのだと思う。 音楽とはまったく関係ない次元の話だが、最近の年寄りの、演奏中に飴やらガムやらの包装をカシャカシャ音立てて剥く風習はなんとかならんのか。それも、よりによって音楽が静かになるとおもむろにバッグをごそごそ、飴の包装をカサコソさせるのはどうして?大体60代から70代、婆さんが多いが昨日はジジイもいた。フォークトのすばらしいソットヴォーチェの最中のそれには殺意すら感じた。彼らは耳が遠いから聞こえないと思っているのかもしれないが、あれは離れていても50以下の人間の耳には聞こえるのである。こちらは2階B席とはいえ14,700円も払って、何が悲しくて年寄りの皮剥き音を聞かなくてはならないのか。劇場入り口で配っている大量のチラシの束を床に落とすバカ(何人か絶対にいる)への対策ともども、劇場側の善処を求めたいところだ。
by nekomatalistener
| 2012-06-14 23:34
| 演奏会レビュー
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Comments(3)
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schumania
at 2012-06-15 02:00
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さてさて、ひたすら情緒的なコメントをお許し下さい(他のことでは理屈っぽくて煙たがられる事が多いものの、音楽には過去も現在も情緒的・直感的に対峙しております)。昨夜は、興奮覚めやらずに寝付けませんでしたが、一昼夜を過ぎた今、学会を終え、ピアノスタジオでの練習と夕食を終え、独りでホテルへ帰ってくると、昨日のローエングリンの音楽が蘇ってきて寝付けません。
昨夜の、まさかこの自分に降ってきた現実とは信じがたい奇跡(他者の経験の共有ではなくて、自分の直接的かつ偶発的経験としてはということです)のような美しく圧倒的なクラウス・F・フォークトの歌唱を聴いて、これは何年に~十年に一度の素晴らしい経験だと思ったのですが、それは間違いであったと言う気になっています。
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schumania
at 2012-06-15 02:02
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(字数が多すぎとシステムに叱られました。続きです) 特にワグネリアンでもなくコアなオペラファンと言うわけでもないごくごく一般的なオペラファンである私にとっては、昨夜のローエングリンは一生に何度あるかというセンセーショナルな体験であったということが公演後一日をおいて身にしみてきました。
どうでもいいことですが、クラウス・F・フォークトは伝統的なヘルデンテナーとは違うのはその通りでしょう。しかし、そんな事は本当にどうでもいいのです。彼が新しいスタンダードを創り、新しいヘルデンテナーのあり方を示してくれることを期待したいと思います。
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nekomatalistener at 2012-06-15 23:28
今フォークトを聴く機会を得たことは本当に幸せなことだと(好き嫌いを超えて)思います。誤解のないように申し上げますが、ヘルデンテナーかくあるべし、と自縄自縛に陥っているつもりはありません。従来のイメージを覆し、仰る通り新しいスタンダードをもたらすだけの力が彼にはあると思います。ただ、残念ながら私の好き嫌いのレベルで感心はしても感動につながらなかった、ということです。他のブログをみると、圧倒的にマイノリティの意見のようで少し寂しいですが仕方ありません。
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