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ワーグナー 「ローエングリン」 ケンペ指揮ウィーン・フィル(その1)

寅年生まれなんである。でも、会議とかで本人的には甘咬みのつもりで喋ったことが、「吼えた」とか「咬みついた」とか言われるとちょっと心外。




例によって、近々新国立劇場で「ローエングリン」を観るのに先立って予習しておこうと思う。つい最近までこのオペラについて、第3幕への前奏曲や結婚行進曲といった有名ナンバー以外は殆ど知らなかったという事情については、以前「さまよえるオランダ人」について書いた際に述べた通りである。取り上げる音源は下記の通り。

  ローエングリン: ジェス・トーマス
  エルザ: エリーザベト・グリュンマー
  オルトルート: クリスタ・ルートヴィッヒ
  テルラムント伯フリードリッヒ: ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ
  ハインリッヒ王: ゴットロープ・フリック
  伝令: オットー・ヴィーナー
  ウィーン国立歌劇場合唱団
  ルドルフ・ケンぺ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
  1962.11.23-30、1962.12.1-5、1963.4.1-3録音
  CD:EMI CLASSICS 50999 4 56465 2 2

音楽としての素晴らしさについては後述するとして、一聴して思うのはその物語の不思議さ(不条理さ、と言っても良い)。このブログで何度か書いてきたと思うが、私はオペラなんだからお話なんてどうでもいい、という立場は取らない。どんなに荒唐無稽であったり御都合主義的であったりしても、どうしてそういった物語でなければならなかったのか、ということに思いを馳せざるを得ない。特にこの「ローエングリン」においては、物語全体が様々な位相でのシンボリズムに満ち満ちているために、その理解というか、解釈は容易ではない。どこがどう不条理なのか、その幾つかを列挙してみよう。
①まるで人々を不幸にするためにやってきたように見えるローエングリンとは何者なのか、一体なんのためにやってきたのか?
②ローエングリンの素性に対する問いの禁止、これが意味するものはなにか?
③エルザはなぜかくも愚かに描かれているのか?ローエングリンはなぜあたかも人の心を持たないように描かれているのか?
④ゴットフリートだけがこのオペラでは幸福を得たような描かれ方をしているが、彼はそもそもなぜ白鳥の姿に変えられていたのか?

以下の記述はこれらの問いに対する答えを述べようというのではない。せいぜい思考に補助線を引いてみようとする試みに過ぎない。

①ローエングリンは何者なのか、一体なんのためにやってきたのか?
ローエングリンはパルツィファルの息子にして聖杯の騎士であり、エルザを救うため、あるいはゴットフリートを救うためにやってきた、というのでは殆ど説明にもならない。このオペラに登場する人物のうち、一言も発しないゴットフリート以外のすべての人物が不幸になる。いったい彼はどういった存在なのか。この根源的な問いに対してふと思い出されたのは、ピエル・パオロ・パゾリーニが1968年に発表した映画「テオレマ」のこと。パゾリーニの代表作の一つであり、私らの年代の映画好きには大変有名な作品だが、若い世代の方がどの程度ご覧になっているのかは判りません。
まぁこんな映画です。
「工業都市に変貌しつつあるミラノ郊外の大邸宅。工場経営者の夫、その妻、息子と娘、そして家政婦が住んでいる。ある日、頭のおかしい郵便配達夫が「明日着く」とだけ記された電報を届ける。その翌日、一人の青年がやってきて、庭でくつろいでいる。家政婦は青年に、とりわけその股間の膨らみに目が釘付けになるが、台所に戻り発作的にガスホースを咥え自殺しようとする。飛び込んできた青年が彼女を助け、そのままセックスする。家族の誰一人として青年を知らないが、名を尋ねることもなく彼と食卓を囲む。その日以来青年は、息子、娘、妻、そして夫とも次々と性的な接触をもつ。しばらくして再び郵便配達夫が届けてきた電報を見て、青年は突然旅立つ。その後、家族と家政婦はそれぞれどうしようもない欠落感を抱えたまま少しずつ崩壊していく。まず娘の体が硬直してしまい、そのまま病院に送り込まれてしまう。息子は前衛美術にはまり込み、アトリエで青一色に塗られたカンバスに放尿する。妻は街にでて次々と男漁りを行なう。夫は突然工場を手放し、駅の雑踏のなかで衣服を脱いで全裸になる。家政婦は郊外の農家で奇蹟を起こした後、泉になるために土に埋められる。最後は禿山を裸でさまよう夫の叫びでFine。
テレンス・スタンプ演じるこの青年はいったい誰なのか?それは神である、という見解が一般的なようだ。しかし、誰一人幸福にしない神って一体なんなんだ、と思う。なんのために、といえばブルジョア社会を毀すため、という説もある。家政婦はブルジョア階級ではないから彼女だけが奇蹟を起こし、昇天するのだ、と。しかし彼女の流す涙が泉になり、埋められていく姿はどうも救済とは程遠い、と思う。1968年という年代からどうしても反ブルジョワ思想を読み取ろうとするのは無理も無いのだが、解釈としては少し苦しい。結局、青年がどこから何のためにやって来て、去っていったのか誰もわからないといったほうがよい。
静謐な映像だけれどパゾリーニの映画によくある特質であまり詩的な感じはしない。その点、たとえばフェリーニが映画のどの一部分をとっても一編の詩になってしまうのとは好対照。俗悪ぎりぎりの映像で聖性を語る不思議な語り口が、まあパゾリーニのパゾリーニたる所以か。
この「テオレマ」が「ローエングリン」の影響を受けているとする根拠はなにもない。しかし芸術は時として似たようなテーマを追うものである、という例証ではある。ローエングリンや、テオレマの青年が誰なのか、何のためにきたのか、それは誰にもわからない。確かなことはただひとつ。人は常に名も知らぬ超越的な存在を待ち受けているということ、そしてそれは過去も現在も芸術上の大きなテーマであるだけでなく、日常に常に潜む切実な欲望でもある、ということ。その超越的・超自然的な存在に対する問いは禁じられており、それを「神」と呼ぶのは時に浅はかであったり瀆神的な行為だとみなされること。

②ローエングリンの素性に対する問いはなぜ禁止されねばならないのか?
この禁問のテーマの考察に対する補助線として、バルトークのオペラ「青髭公の城」を引き合いにだしてみたい。バルトークのこのオペラにローエングリンの影響が見られる、ということではない。むしろ「青髭」に顕著なのはドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」の影響。青髭の冒頭のテーマはペレアスの冒頭を上下ひっくり返したもの、闇から始まり中ほどの真昼の場面を経てまた闇にいたる構成もペレアスに倣ったもの、オマージュと言ってもよい。しかし、物語としてはローエングリンの禁問と同様のテーマが見られる。すなわち、青髭の妻ユディットは、青髭が禁じたにも関わらず、城の7つの扉の向こうにあるものをつぎつぎと尋ね、暴いていき、そのあげくに彼女の前のおろかな妻たちの仲間入りをしていく、というもの。
ここにはある種の「男性原理対女性原理」の対立が現れていると思う。青髭は7つの扉の向こうに様々な秘密を隠し持っている。それは血のついた武具に象徴されるサディズムであったり、広大な領地の真昼の光景に象徴される全能感であったりする訳だが、最後の扉の向こうには青髭のかつての妻たちが、豪奢な衣装をまとったまま標本のように、何かのコレクションのように幽閉されている。男なら誰しも気付くとおり、ここには性的対象に対する態度というものが端的に表れており、記号化してディレクトリーごとに収集する青髭と、対象の記号化が出来ずに、相手(青髭)に対して彼の性的対象を自分の表象で上書きさせようとするユディットとの相克が見られる。この補助線がもたらすものは、禁問が何か性的なものにかかわるのではないかという仮説だが、ここでも問いに対する答えは宙づりにしておこう。

③エルザはなぜかくも愚かに描かれているのか?ローエングリンはなぜあたかも人の心を持たないように描かれているのか?
エルザにしてもオルトルートにしても、女性が救い難いほど愚かに描かれているのは、以前「オランダ人」を取り上げた際にも書いたとおり、ワーグナーの持つ強烈なミソジニーの所為だろう。このオペラでは男性の登場人物がすべて軍隊を率いる者であったり兵士であったり、とことさらホモソーシャルな世界を描いているためにミソジニーも強烈な表現になりがちなのだろう。一方でホモソーシャルを律する役割のホモフォ―ビアはどう描かれているかと言えば、聖杯の騎士が童貞でなければならぬというところに、セックスのにおいを拭おうとする無意識のメカニズムが働いていると言える。同じく聖杯の騎士であるパルツィファルに息子がいるというのも、お話としてはそもそも破綻しているのだが、それでも敢えて聖杯伝説を持ちださなければならないこと自体がホモフォ―ビアの機構によるものである。究極のホモソーシャル(聖杯の騎士)と究極のホモフォ―ビア(童貞集団)という取り合わせ。ローエングリンが、禁問の誓いを破ったエルザを群衆の面前で非難する箇所など、どうにもローエングリンに対する感情移入を阻害されてしまうのだが、この心理を平たく言うなら、「これだから童貞は困る」というもの。戯曲家としてのワーグナーの腕は確かなのだが、このローエングリンの造形はなんとものっぺりとしていて、人間的な魅力はむしろフリードリッヒの方に注ぎ込まれた形だ。
さて、エルザとオルトルートについてもう少し考察するなら、彼女たちから連想されるのは創世記のエヴァと蛇のお話。オルトルートにそそのかされて禁問を破るエルザは、蛇の誘惑によって知恵の実をたべたエヴァそっくり。アダムとエヴァは知恵の実をたべて羞恥心を知り、額に汗してパンを食べ、苦しんで子を産むようになった。知恵の実こそ性と生にかかわる快楽と苦痛の起源である。ならば、ローエングリンによって禁じられた問いの本質は、蛇が暴いた起源と同様のものではなかったか、という見方も出来そう。聖書のアダムの役割は、ローエングリンではなく、オルトルートの夫フリードリッヒに転換されているようだ。

④ゴットフリートだけがこのオペラでは幸福を得たような描かれ方をしているが、彼はそもそもなぜ白鳥の姿に変えられていたのか?
この問いに対する答えは、「これが貴種流離譚の定石だから」というものだろうか。ゴットフリートはローエングリンの台詞のなかでFührer(総統)と述べられていて、誰しもあのヒットラーを思い浮かべることだと思うが、いずれにしても彼こそこのオペラの中の最大の貴種であり、そもそもこのオペラというのは如何なる苦難を経てFührerがドイツを統一したか、という物語なのである。
実はこの問いを立ててから白鳥のことが気になって、上村くにこ著「白鳥のシンボリズム」(御茶の水書房)を読んでいるのだが、これが大変な名著である。ギリシャ時代から近代ヨーロッパに掛けての膨大な文献を縦横にあさり、その浩瀚さたるやミシェル・フーコーの著作を思わせるほど。また一編の伝承がつぎつぎとモディファイされ、主体と客体が、男性と女性が、能動と受動がときに反対方向に変換されながら新たな伝承をうむ軌跡を追うところ、ほとんどクロード・レヴィ=ストロースの「神話理論」を読むのにも似た興奮を惹き起す。これはもう最強の補助線というべきだが著者はここで「白鳥の騎士伝説」の5つのルーツを挙げている。すなわち、
1)白鳥=子どものモチーフ
2)金の鎖のモチーフ
3)白鳥の曳く舟のモチーフ
4)角笛のモチーフ
5)タブーのモチーフ
これらはローエングリンの物語にすべて備わっているわけだが、これを12世紀以降の様々な文献によって、白鳥の子供にまつわるケルト系やゲルマン系の伝承にキリスト教の要素が入り込み、やがて十字軍文学、その中でも特に聖杯伝説と合体していくようすがあざやかに記されている。これらをここで詳述するのは些か気が引けるが、最後のタブーのモチーフは、禁問のテーマとも密接に関わる重要なポイントなのですこし紹介したい。ここではケルト系のメリジェーヌの物語が取り上げられているが、土曜日だけ下半身が蛇に変身するという呪いを掛けられた妖精の娘メリジェーヌは、結婚相手の王レイモンドに蛇の姿を見られなければ幸福な生活が約束されていた。しかし、王は約束を破って妻の蛇の姿を覗いてしまい、彼女は羽根の生えた蛇となって去っていく、というもの。聖書と同じく、またしても蛇が出てくるのも印象的だが、「ルクトゥはこの伝説と従来の白鳥の騎士伝説が合体して、新しい白鳥の騎士伝説に生まれかわったという注目すべき推定を提示している、主人公の性が女性から男性へと性転換し、そして変身の動物が蛇から白鳥に変わると同時に、タブーのモチーフが白鳥の騎士伝説の方に移されたのではないだろうか(中略)その中で白鳥は元来のエロス的なものや猛々しい好戦性をふりおとして、天上界からの使いというキリスト教的メッセージを伝えるロマンチックな英雄に変身したのである。」(本書159~160頁)
最終章で、近現代の芸術に話がかわり、まさにワーグナーのリブレットそのものが素材として取り上げられ、エルザとオルトルートの分析「女性を無垢と邪悪の正反対の特質に分裂させるこの発想は、『白鳥の湖』ではもっと推し進められる」(本書310頁)でさっとあのバレエに話がうつるのも見事。そういえばそもそもあの白鳥の湖の有名な旋律は、ローエングリンの禁問のモチーフをほんの少し変形させたものであった。まったくこんな調子で次々と脱線しているときりが無いのである。

音楽のことがそっちのけになってしまいました。ケンペのCDについて考えたことは次回に。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-06-02 21:46 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)
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