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新国立劇場公演 ヴェルディ 「オテロ」

千葉で単身赴任中だが、大阪では一家に一台たこ焼き器があると言うと未だに「ネタ」と思う人がたくさんいる。「またまた~(笑)」みたいな。





3月7日、新国立劇場に「オテロ」を観に行きました。

  オテロ: ヴァルテル・フラッカーロ
  デズデーモナ: マリア・ルイジア・ボルシ
  イアーゴ: ミカエル・ババジャニアン
  ロドヴィーコ: 松位 浩
  カッシオ: 小原 啓楼
  エミーリア: 清水 華澄 
  指揮: ジャン・レイサム=ケーニック
  演出: マリオ・マルトーネ
  合唱指揮: 三澤 洋史
  合唱: 新国立劇場合唱団
  管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

まだ私が高校生の頃、学校の図書館にあったクラシックの解説本(詳細は忘れてしまいましたが)のなかに、イタリア・オペラの金字塔はモンテヴェルディの「ポッペアーの戴冠」、ロッシーニの「セミラーミデ」、そしてヴェルディの「オテロ」の3作であると書いてあり、へぇそんなもんか、と思いました。その後30年以上が経過し、ようやく私もその意見に同意出来る程度には経験を積んできたと思います。それはそれとして、オテロを聞くたびに思うけれど、イタリアオペラ400年の歴史の中で、ヴェルディのオテロは悲劇の最高峰ではないか、と思う。ちなみに喜劇なら同じくヴェルディの「ファルスタッフ」。ヴェルディの28作のオペラの中でも双璧、おまけにどちらもシェイクスピアの翻案。その「オテロ」の舞台をこうして東京に居ながら舞台で観る喜び。

09年のプロダクションと同じ舞台ですが、久しぶりに観ると前回気がつかないところに気がついたり、前回と少し異なる演出があったり、で大変面白い。どうせなら新しい舞台を、と思いがちであるが、このオテロはこうして何度も舞台に掛けられ、そのたびに磨かれて良くなっていくのでしょうね。観客もプレミアと違ってレパートリー公演では自ずと目より耳のほうに重きを置いて観賞することになり、観方聴き方が変わってきます。裏を返せば、指揮者や歌手はもはや初めて観る舞台に眼を瞠っている観客を相手にするわけではないので、その分プレミアとは異質の緊張感があるはず。つまり「前回と比べられる」ことが不可避である、ということ。こうして演奏者も聴衆も共にレベルアップしていくというのが正しいレパートリー公演の在り方だろうと思う。このオテロは新国立劇場のレパートリー・オペラとなっていく資格が十分ある美しい舞台であると思います 。
今回改めて舞台を観て、そのディティールの素晴らしさに唸りました。とくに女声の合唱団員の一人一人の衣裳が微妙に違う色合い、どれもくすんだ中間色ながら皆が集まると本当にきれい。演出で前回と大きく違うのは第2幕のマンドリン・コーラスの辺り、確か前回は舞台に張った水が明るくきらきらと輝くなか、履を脱いだデズデモナが水に足を浸したりペチコートを太腿までたくしあげたり、といった演出があって、えらくお転婆なような気がしたり、そうかデズデモナはまだ少女と言っても良い歳だしなぁ、などと考えていました。今回はマンドリン・コーラスの辺りでは既に夕暮れの設定、デズデモナは終始貞淑な妻、といった落ち着いた所作。デズデモナの造形はどちらも在りだと思うが、この場面の明るさがあってこそ、この後の物語の闇の深さも引き立つのに、と少し物足りない思いもします。第3幕終結部は人によってはスタティックな人の動きが不満かもしれない。ここは因習的なコンチェルタート様式で音楽を書いたヴェルディが悪いのだが、もう少し動かし方はあるかも知れません。後は概ね言うことなし。安心のクオリティ。

歌手の中では何といってもデズデモナを歌ったマリア・ルイジア・ボルシが素晴らしい。昨年「コジ・ファン・トゥッテ」でフィオルディリージを歌ってた時とは別人と思ってしまうくらい大違い。強靭なのに柔らかい温もりの感じられる声質で、声量も十分あり、リリコよりは幾分ドラマティコに傾いた歌ですが悲しみが胸に迫るような歌い方。私は終幕の「柳の歌」からエミーリアへの別れ、「アヴェ・マリア」にかけての部分を聴きながら落涙を禁じ得ませんでした。ここはヴェルディの筆致自体も神がかっていて、柳の歌の後、嬰ヘ長調の和音が4回鳴らされて感極まったデズデモナが「ああ、エミーリア、エミーリア、さようなら」と歌う部分は胸を抉られそうになる。そのあとの「アヴェ・マリア」、これを聴いて心動かない人は一体音楽の何を聴いているのか、と思います。私はもうこのボルシの感動的なデズデモナを聞けただけで十分元を取った気分になりました。
脇役ですが侍女のエミーリア役の清水華澄が素晴らしかった。終幕でヤーゴの姦計を暴露し、オテロを非難する場面の凄まじさ、こういう歌手が一人いるだけで舞台の迫真性は飛躍的に伸びる気がします。カーテンコールの時も、脇役には珍しく彼女に対しては盛大な拍手が送られていました。
ヤーゴのミカエル・ババジャニアンは知的な歌い方で、ヤーゴの人物造型には瞠目すべきものがありました。狡猾なだけではなく第2幕のクレドなど人間的な底知れぬ魅力を感じてしまうほど。ですが残念なことにここぞという時の声量が今一つ。ゆえにその人間的魅力が輝かしい悪の魅力にまでは至らない。
カッシオの小原啓楼は前に「沈黙」のロドリゴを歌っていた人ですが、この役では可もなく不可もなく、というところ。もっともレパートリー公演で日本人が歌うレベルとしては十分すぎるほど。これで文句を言ってはバチがあたる。
タイトルロールのヴァルテル・フラッカーロは前半はまるで駄目。昨年のトロヴァトーレでマンリーコを歌った時は、音程がずるずると上がる癖があるが、明るくよく伸びる声でまずまず好意的な評を書いた。が、今回は第1幕登場のEsultate!でまずがっかりしてしまいました。まったく声が届かない。音程も甘い。ヴェルディの書いた音楽は歌手に対して苛酷過ぎるとは思うけれど、ここがまともに歌えないのならオテロやるのは百年早いわ、と思う。いや本来オテロってテナー・オブ・テナーズの歌う役どころでしょう?いくらレパートリー公演ったって、Esultate!で鳥肌立たない程度の歌だったら値打ち半減だと思う。その後のデズデモナとの二重唱も、第2幕ヤーゴとの二重唱もなんだかぱっとしない。休憩後の後半になってようやく声が出てきた感じで、そうなると今度はなかなか他に得難い良い歌手だという気になる。マンリーコでは明るく感じられた声質が、ここでは立派にオテロに相応しくロバストな太さを備えている。今や伝説と化したかつての名テノールが次々と第一線を去るなかで貴重な歌手には違いない。という訳で実に評価が難しいのだけれど、後半が良かったので総合点ではまあまあかな、と思います。
ジャン・レイサム=ケーニックの指揮はあまり手練手管を使わず、悲劇の終結に向けて一直線に進んでいく推進力のあるもの。本来そんなに短いオペラではないはずなのに心理的な時間はすごく短く感じます。今回のようなタイトルロールが非力な時はこれで良いのかも、と思います。そうでなければ第1幕の幕切れの二重唱など、もっと情緒纏綿とやってほしいと思うかもしれません。そこは計算なのか、この指揮者の資質なのか、一度聴いただけでは私はよく判らない。
私は09年にも観てるので今回は舞台が少々見えにくくてもいいや、と思い、安い4階席で聴きましたが、金管が鋭く耳を撃つのに対して弦と木管がやや弱く感じました。これは座席の問題なのかオケのバランスのせいなのかはよく判りませんでした。ですが全体としてはとても良くオーケストラが鳴っており、ブラスも臆せす豪快で、とてもいい演奏であったと思います。
by nekomatalistener | 2012-04-08 22:38 | 演奏会レビュー | Comments(0)
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