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ワーグナー 「さまよえるオランダ人」 ドホナーニ指揮ウィーン・フィル

大分にしては凶悪事件だ。

先日の未明、「大分市内のドラッグストアに何者かが侵入している」と大分南署に警備会社から110番通報があった。 当直の署員たちが現場に急行。警備会社の案内で真っ暗な店内に入った。警戒しながら慎重に調べていると、署員の一人が「痛っ!」。 侵入者から攻撃されたのかと身構えると、足元には大きな野良猫。
他に異常はなく“侵入者”はネコらしいことが分かった。右足首をネコに引っ掛かれた署員は「事件でなくて良かった」とほっとしながら、 「このネコを建造物侵入と公務執行妨害の現行犯で逮捕してやりたいよ」。
大分合同新聞[2012年03月08日 14:22]
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予習シリーズ、3月の新国立劇場の演目はワーグナーの「さまよえるオランダ人」。

  ワーグナー「さまよえるオランダ人」
    オランダ人: ロバート・ヘイル
    ゼンタ: ヒルデガルト・ベーレンス
    エリック: ヨーゼフ・プロチュカ
    ダーラント: クルト・リドル
    舵手: ウヴェ・ハイルマン
    マリー: イリス・ヴァーミリオン
    ウィーン国立歌劇場合唱団
    クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
    1991.3~11月録音
    DECCA00289 478 2503

こんな有名作なのに予習か、と言われそうですが、この歳になるまでまともに聴いたことがないのだから仕方ありません。ワーグナーに関しては、私が高2か高3の頃から大学に入って1年かそこらの間、時期にして2年足らずほどでしたが、まるでハシカに罹ったようにそれこそ浴びるように聴いていた時期がありました。一番最初にハマッたのは「トリスタンとイゾルデ」、きっかけはNHK-FMで抜粋を聴いたことだったと思います。それから「ニーベルングの指輪」、その中でも特に「ヴァルキューレ」、最後に「パルジファル」。大学の途中くらいから憑き物が落ちたみたいに聴かなくなってしまいました。舞台で観たのは4度、何時の公演かもはっきり憶えていませんが、若杉弘が振った「ヴァルキューレ」、2008年のパリ・オペラ座の来日公演での「トリスタンとイゾルデ」、新国立の「ジークフリート」(2010年)と「トリスタン」(2011年。こいつは凄かった)、それぐらいだと思います。つまり、かつてワーグナー好きであった一時期はあるにせよ、よく知っているのは僅かな作品であって、オランダ人、ローエングリン、タンホイザー、そしてマイスタージンガーについてはちょっと齧ったくらいしか聴いてなかったのです。

そんな程度のワーグナー理解ではあるが、その経験のなかでなんとなく感じてきたのが、ワーグナーのミソジニーの問題。例えば「トリスタンとイゾルデ」。何度聴いても異様に感じるのは、マルケ王やクルヴェナールがトリスタンに示す過度の愛情、それは臣下を慈しむとか、主君に忠義を捧げるといったレベルを超えて、本来ならばホモフォビアによって辛うじて維持されてきたはずのホモソーシャルな騎士の世界に危機をもたらすように思われます。事実、この世界にイゾルデという異分子が投じられることによって、この麗しきホモソーシャリティは壊滅します。「パルジファル」ではそれがもっと露骨に描かれ、「指輪」では神と人間の世界の分裂を絡めて、幾分晦渋の度合いを強めながらも通奏低音のようにホモソーシャルな男性社会を破壊する女性(ブリュンヒルデ)という描かれ方をしています。こういった記述は判りにくいでしょうか。私はこれらの分析のツールとして、上野千鶴子によって判りやすくまとめられたイヴ・セジウィックの理論を用いようとしていますが、それは「ホモソーシャリティはミソジニーによって成り立ち、ホモフォビアによって維持される」というものです(上野千鶴子『女ぎらい―ニッポンのミソジニー』紀伊國屋書店)。実際のワーグナーの猟色家としての姿も、彼が典型的なミソジニストであると考えれば辻褄があうというもの。もっともそういった見方をするならば中世の騎士物語など殆どこの構図になるのではないか、という疑いもあるでしょう。それはその通りであって、だからこそミソジニーはこれほどまでに世間に蔓延しているのだ、と言えるのですが、それにしてもワーグナーのミソジニーの度合いは群を抜いていると言ってよいでしょう。

さて、オランダ人について。世間では、この作品の主題は「女性の愛による救済」であるなどと言われていますが馬鹿も休み休み言えと言いたい。本当に皆さん、このオペラを観て、聴いて、「オランダ人はゼンタの愛によって救済されて良かったね」とか、「やっぱり最後に勝つのは愛だよね」などと本気で思うのだろうか。もしそうなら本当に自分の頭の中が湧いてないか心配したほうが良いと思う。有名なハリー・クプファーの演出はこのお話全体がゼンタの神経症的妄想であるとしたようですが、それもまたおかしな話。そりゃ主人公は、というより、ワーグナーが自己を投影していたのは明らかにゼンタではなくてオランダ人だろう、って話です。この悪魔に取り憑かれたオランダ人、彼こそワーグナーが自己を投影するどころか、無意識のレベルでは同一化を図ろうとしていた存在であることは間違いありません。ではオランダ人の苦悩とは何だったのか?ここでニーチェの思想を持ち出しても良いのだが、この時期ワーグナーが深く影響されていたのはニーチェではなくてショーペンハウエルだろう、といった反論に対抗できるほどには私自身よく判ってませんので、ここでは仮にそれを創造のデーモンとしておきましょう。このデーモン故に、ワーグナーは極端な自己愛を持つと同時に、自己を呪わずにはおられなかったはずです。しかし、だからといって強烈なミソジニストであるワーグナーは、たとえ最後の審判の日まで冥い海を彷徨うことになろうとも女性の愛によって救済されたいとは思わなかったに違いありません。実際、ワーグナーはこのデーモンと共に人生を歩み、巨大な楽劇を創造し、バイロイトという理想の劇場まで作ったのですが、よくぞ途中でつまらぬゼンタに引っかからずに海に逃げ出せたものです(何の気なしにこう書いて、普段はあまり意識しない己のミソジニーの強さに驚いています)。この辺りの議論、精神分析の技法も知らぬ素人ですので上手く説明できずにもどかしい思いをするのですが、間違ってはならないのはこれはすべてワーグナーの無意識のレベルで起こっていることであり、台本にこう書いてある、といった反証は無意味であること、しかも厄介なことに、これを立証するには象徴界の産物としての台本を読む以外には手立てがないということです。しかしそこは素人の気安さで、厳密な議論は省いて論を進めていきます。

先程、半ば冗談めいてオランダ人が危うくゼンタの罠を逃れて海に逃げたかのように書きましたが、テキストのメタレベルで起こっていることはまさしくそういうことだったのではないか。第1幕、主体たるオランダ人が客体たるダーラントを説得して娘ゼンタを得るように描かれているが、主体と客体を逆転すれば、誇り高いオランダ人は俗物たるダーラントの姦計によってゼンタの罠に搦め取られようとしている、とはいえないか。オランダ人にとっての(ゼンタとの)陸の生活とは、創造のデーモンとは無縁の小市民的幸福の追求そのもの、その一方で第1幕の影の主役とも言うべき男声合唱は、軍隊と並んで典型的なホモソーシャルである船乗り達の世界の素晴らしさを謳歌しますが、これこそ栄光に満ちた創造のデーモンの世界です。第2幕のゼンタ、これは今の若い人の言葉で言えば「イタい女」ということでしょうが、実際にある種の精神病理学的な異常さを帯びています。「ゼンタ症候群」なんて病名が在ってもちっとも不思議ではない(実際にあったりして)。表向きの話は、自己犠牲を夢見るゼンタをなんとか現実の恋愛に引き戻そうとマリーやエリックが努力するが、彼女は言うことを聴かず、実際にオランダ人と対面すると直ちに我を忘れるほどの恋に落ちて救済の欲望に取り憑かれてしまう。メタレベルではオランダ人はゼンタに対して身の危険を感じ、彼女から逃げようと思っているはずだが、それはこの第2幕後半、オランダ人とゼンタの妙に噛み合わない二重唱に現れています。それまで二人の目には父ダーラントの姿はろくに入っていなかったというのに、オランダ人はゼンタに向かって、お前の父の選択に対して怒ってはいないのかと問い、ゼンタは父の命令に従うと答えます。ゼンタという人物がいかに分裂した存在であるかは、第2幕前半であれほど俗物(マリー・エリック・娘たち)を軽蔑していながら、後半では俗物中の俗物というべき父ダーラントの言いなりに(結果的に)なってしまうということ。そして、ゼンタは典型的な「父の娘」、すなわちエレクトラ・コンプレックスの持ち主であり、彼女の同一化の欲望はあくまでもダーラントに向かっている。ラカン風に言えば、彼女の欲望とは同一化の対象であるダーラントの欲望なのだから、そもそもオランダ人に対する救済者としての適格性自体に疑問符がつくのです。但し、ここで見落としてはならないと思うことは、ダーラントは確かに俗物ではあるが、彼の富に対する執着はおそらくワーグナー自身の姿が幾分投影されていること、音楽的にも決して(ミーメのような)コミカルな歌はあてがわれていないということです。そういった意味でダーラントの役割も分裂しているが、そこにアンビヴァレンツがあるとしてそれはより愛に近いほうに傾いていると言えるでしょう。そして第3幕。表向きの話は、エリックとゼンタという若くて将来のある2人を見てオランダ人は自らの救済を断念し、海に乗り出すが、ゼンタは海に身を投げ、救済が成就されるというもの(されないという版もある)。これも象徴界における隠喩や倒置といった手法で読み解けば、ゼンタの魔手を辛くも逃れたオランダ人は、友たる船乗りたちとともに冥い海原、すなわち前人未到の創造の旅に出て行くというわけだ。このテキストのメタレベルにおけるハッピーエンド、カタルシスに人は無意識に酔い痴れているとはいえないでしょうか。
ワグナーの楽劇については、ネットというメディアではなく同人誌のような媒体には恐らく多くの考察があると思いますので、以上述べたようなことはもしかしたら語りつくされているのかも知れませんが、ネット上の薄っぺらい紹介サイトやブログの類で胸焼けするほど「愛による救済」というマントラを読まされたので、敢えて以上のようなことを書かずにはいられませんでした。このブログで何度か(しかし控えめに)世評とかいったものに対する私の本能的といってもよいくらいの嫌悪感について言及してきましたが、「救済」云々の言説も同じです。もう気持ち悪くなる。

取り上げたCDは、単に予習のために音源を探していて、一番安かったからという理由で選びました(2枚組で1,775円)。これはセカンドチョイスというか、もしかしたらサードチョイスくらいにしときなはれ、という代物かも知れませんが、オーケストラと合唱は兎に角凄いの一言。ウィーン・フィルの何がどう凄いのか、これ聴けば如実に判ります。他と何が違うって音圧が違う。物理的に音が大きいとかじゃなくて、腹に響く感じ。なんだろうね、これは。オケと合唱だけなら数多の名盤の中でも一押しだと思う。最も問題なのは、ベーレンスのゼンタ。花の命は短いのがソプラノの宿命とはいえ、ベーレンスの花は本当に短かったと云わざるを得ない。録音が遅すぎたのか、もう声が揺れるわ、かすれるわ。ベーレンスの熱狂的なファンはどう受け止めるのか判らないけれど、私は聴いていて痛ましくて仕方が無かった。これはデッカのキャスティングのミスなのか、それともゼンタという役柄を深く考察した結果、こんな「イタい声」を採用したのか(まさかね)。オランダ人のロバート・ヘイルと、ダーラントのクルト・リドルは素晴らしい歌唱です。もう数年録音が早ければ凄い名盤になったろうに、と思いました。
最後にワーグナーの音楽そのもの。ハシカが治ってから30年が経ち、今更この歳になってどこまでシンパシーを感じることができるかな、などと甘いことを考えていたら、その音楽の魔力にあやうく搦めとられそうになりました。あやうく、というのはこのブログの為にストラヴィンスキーなんかも並行して聴いているので、それだけ毒の効き目が弱かった、ということ(笑)。しかしそれにしても恐るべき強靭な音楽です。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2012-03-09 00:41 | CD・DVD試聴記 | Comments(9)
Commented by schumania at 2012-03-09 21:42 x
いつも大変に興味深く拝読しています。今回も猫又節が絶好調ですね。
因みに、トリスタンにおける最後のイゾルデの救済、トリスタン和音の解決は、ねこまたさん的にはどのような解釈になるのでしょうか?
Commented by nekomatalistener at 2012-03-10 02:03
トリスタンのテクストほど精神分析的な解釈の誘惑に駆られるものはありません。いずれ採り上げてみたいと思いますが、その切り口は「モロルトへの服喪と性的放縦」「従者の無償の愛と高貴なる者の強いられた愛」「メロートの嫉妬のヤン・コット流分析」ってなところでしょうか。私自身はテクストの表層にある救済などというタームは信じませんが、音楽自体の力が強靭なので、あたかも救済のようなカタルシスが得られるのだと思います。ただ、トリスタンの音楽は第2幕第2場の二重唱が余りにも凄過ぎて最後の「愛の死」はついにそれを乗り越えることが出来なかったのでは、と考えています。
Commented by schumania at 2012-04-06 00:00 x
今晩は。出張で東京に来ており、本日は、東京・春・音楽祭-東京のオペラの森2012- のタンホイザーに行ってまいりました。タンホイザーの話は好きじゃないけれども、演奏は大変に良かったです。演奏会形式ではありますが、普通の演奏会形式とは少し異なりオペラの公演にかなり近い配置と形式をとっていました。ステージ上に広く展開されたオケ、指揮者との位置関係はオペラと同じながらオペラ上演よりは歌いやすいであろう歌手、サウンド的にはオペラ公演よりも格段に良いと感じました。東京オペラシンガーズも素晴らしく、第2幕は鳥肌立ちっぱなしでした。意外というか、もったいないのは空席が目立ったこと。日曜日の公演も当日券で行けるんじゃないかと思います。
Commented by nekomatalistener at 2012-04-06 21:06
東京にいらしてたんですね。タンホイザーはちょっと心動きましたが用事があったりで行けませんでした。来シーズンの新国立のプログラムに入ってます。6月にはローエングリンもあるし、今年はワーグナーの当たり年です。
Commented by schumania at 2012-04-06 22:38 x
明日はオテロです。
Commented by nekomatalistener at 2012-04-06 23:29
!!私も明日行きます(笑)。
Commented by schumania at 2012-04-07 00:25 x
それでは会場で。私は今回は天井桟敷です。
Commented at 2013-06-29 16:43 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2013-06-29 16:44 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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